This is Yumiko Kikuno's report of December 3 luncheon with Ms. Liu Main Huan, a former victim of the Japanese military sex slavery, held in Vancouver Chinatown.
大きな拍手に包まれて、小さな体のおばあさんがステージに上がった。彼女は従軍慰安婦被害者の一人、80歳のLiu Main Huan (劉面換) さんである。12月3日、バンクーバーのチャイナタウンのレストランで、彼女を囲んだランチイベントがBC ALPHA(カナダBC州を拠点とし、人権運動、歴史教育などに取り組んでいる団体)の主催で開かれた。Liuさんは、他3人の被害者女性と共にカナダ議会を訪問するためにオタワに入り、中国へ帰国する途中、バンクーバーへ立ち寄ったのだ。
このイベントの数日前、11月28日にカナダの下院議会において、カナダ議会が日本へ従軍慰安婦被害者に公式に謝罪するよう求める決議が採択された。それを受けて、BC ALPHAの代表者の一人であるテクラ・リットさんから各団体、個人の協力に対する感謝の気持ちが述べられ、その会場に参加していた日系カナダ人と日本人に対しても大きな拍手が送られた。そして、第二次世界大戦中の事実を多くの人々に認識してもらうため、これからもBCALPHA主催の様々なイベント、スタディー・ツアーなどを計画中であることが伝えられた。
その後、ドキュメンタリーフィルム「Breaking the History of Silence」のダイジェスト版が会場で放映された。これは、2000年12月に東京で行われた日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷の模様である。8カ国から64名の被害者女性が集まり、数名の女性から旧日本軍兵士による性暴力の耐え難い経験が語られた。そしてその法廷は昭和天皇に有罪判決を下すという決議で幕を下す。
そして、まだビデオの余韻が残る中、Liuさんがご自身のつらい過去の記憶をしぼりとるように、ゆっくりと参加者に語り始めた。
「そのとき私は15歳だった。ある朝、私が住んでいた山西省Jingui村を日本軍兵士が襲った。家に入ってきた日本人兵士が、「表へ出ろ」と言ったが、拒否した。そうすると怒鳴られ、顔をなぐられた。外に出ると、日本軍駐留所に行くよう言われた。いやだと言うと、たたかれ、蹴られた。それでも拒否し続けていると、ロープで縛り上げられた。さらに抵抗していたら、その日本兵は持っていた拳銃で私の肩をなぐった。そうして、日本軍駐留所へ連れて行かれた。その時、もう二度と家族に会えなくなるなるのではないかと思うと怖くてたまらなくなった。窓のない部屋に閉じ込められ、6人の日本兵が入ってきた。「下着を脱げ」と言われたが、「いやだ」というと、下着を剥ぎ取られた。「助けて!」と叫ぶとタオルで口をふさがれた。その後、さらに5人の日本兵が部屋に入ってきた。この1日で11人の兵士にレイプされた。その同じ日の夜、日本軍に仕えている中国人が、私を隊長のところへ連れて行った。その隊長に服を脱げと言われたが、拒否すると押し倒され、恐ろしい長い時間が過ぎた。そして、さっきの中国人が私を監禁されていた部屋へ帰す途中、彼も私をレイプした。それから、昼は兵士達、夜は隊長の性の奴隷にされ、食事も粗末なものしか与えられない日々が続いた。そのうち私は歩けなくなり、人間性も失う寸前だった。ある日、父が私の居所を着きとめて、私を引き取りに日本軍駐留所に訪ねてきたが、お金を一銭も持たなかったために、日本兵に断られた。薄暗い部屋の中で、父と私は抱き合って泣いた。それから父は至る所から借金をしてお金を作り、再び日本軍駐留所を訪ねてきた。それでも日本兵は私を解放することを拒否した。そうすると父は、「娘はだいぶ弱っている。しかも人間性まで失いかけている。だから治療が必要だ」と言った。そうしてやっと私は父の元へ引き渡された。その後、日本兵が私を探しに父のところへやって来る度に、私は地下に隠され、「娘はまだ良くなっていない。」と言い続け、ある日、私と父はロバに乗って逃げ出した。その逃げた先で母と再会し、3人で抱き合って泣いた。その頃、私はトイレに行くたびに下半身に激痛が走っていた。母が看病してくれて、少し良くなるのに半年かかった。今ではトイレには行けるようになったが、左腕には障害が残り、今でもフライパンやご飯が入った茶碗を左手で持つことはできないのです。」Liuさんは涙でこれ以上話せなくなった。
それから、弁護士のKang Jian (康健) さんから日本での従軍慰安婦訴訟の現状の説明があった。1995年から日本政府に対して訴訟を試みており、Liuさんの事例を含めて4件が告訴申請された。しかし日本政府側は、責任の所在は日本政府にないという立場を押し通すだけであった。その理由は二つある。一つは、1972年の日中共同声明において、中国側の戦後補償の放棄を理由にした補償義務の免責と、二つめは時効である。また、原告に対する対応のひどさも伝えられた。例えばLiuさんの場合、多くの日本人弁護士や歴史家の協力を得て、2004年10月に彼女の告訴を最高裁判所に申請するに至った。しかし、2007年4月に最高裁判所からLiuさんの告訴は却下されたと突然の電話で告げられた。この約2年間、一度も裁判所で意見聴取や審問などが行われることなしに、一方的に退けられたのだ。いつも原告側が敗訴するのは、資料や事実に問題があるとされるのではなく、免責と時効を理由にされている。そして、どんなに何人かの政治家が「謝罪」を述べようとも、それは外交事例的な言葉に過ぎず、あくまでも日本政府の立場は、責任を認めず、謝罪を拒否するのが真の見解であることが、不合理な訴訟結果から分かる、とKangさんは主張した。そして、国際的な世論の高まりが日本政府を動かすために必須であるので、今回のカナダ政府の決断に感謝しています、と述べた。
その後意見交換が行われ、日本人参加者の一人であり、日本の中学校で社会科を35年教えてきた岩下美佐子さんが、「日本の裁判は真実であっても世論が盛り上がらないと負けてしまうケースが多々ある。しかし世論を見方につければ、勝ってきた裁判もある。今は退職しているが、歴史教師の一人として、日本人にLiuさんの真実を伝えていきたいと思います。」と話した。また、イベント終了後、日系カナディアンと日本人参加者から花束や、贈り物がLiuさんに手渡された。その後、Women's International League for Peace and Freedomのカナダ代表のEllen Woodsworthさんにこのイベントの感想を聞いてみた。「今回のBCALHPAの活動は非常に意味の大きいものです、なぜなら、戦争や歴史的な出来事に苦しんでいる人々や遺族に話しかけ、耳を傾け、そしてその事実を知って、初めて「歴史」として残るのですから。日本政府はこの悲劇を認識し、謝罪せねばなりません。今回のカナダ政府の決議は、多くの人々が、戦時中の自由や尊厳に対する不当性を正すために活動している時に、人権とはいかなるものかということを指し示す力強いサポートとなるでしょう。女性が戦争に利用されてはなりません。」と話した。
メディアのインタビューや、参加者との記念撮影などで多くの人に取り囲まれている少しの隙をついて、私はLiuさんの手を取り、目を合わせて、お辞儀をしながら「Liuさんバンクーバーに来てくれてありがとう。そしてほんとうにごめんなさい。」と言った。もちろん言葉は通じないのだが、伝わってくれていると願いたい。そして、Liuおばあさんの手のぬくもりは、私の祖母を思い出させた。彼女の体や心の傷が少しでも早く癒えますように・・・。
Peace Journalist
菊野由美子
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