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Thursday, September 16, 2010

Hwang Kay's Speech on Korea and Japan History and Relationship 黄圭さんのスピーチ 「日本と朝鮮の歴史と関係について」

Speech by Hwang Kay, one of the guest speakers at the event on September 11, marking the 100th year of Japan's annexation of Korea. 

9月11日のVSA9のイベントでスピーカーの一人として発言いただいた黄圭(Hwang Kay)さんのスピーチ原稿を投稿します。

黄圭さん
 今から115年ほど前に、日本は清国中国と戦争しました。そしてそれから7年ほどして今度はロシアと戦争になりました。このどの戦争も朝鮮の利権をめぐての戦争でした。こうして日本は、朝鮮半島との関わりの中で歴史の道を大きく誤り、自国や周辺の国ぐにの運命をも変えていく不幸な時代へと入っていったのです。

19世紀中ごろまでに、帝国主義列強による植民地分割の時代はとうに過ぎていたのですが、遅くデヴューを果たした日本帝国は、無理やりLateComerとして侵略性をあらわにして行きました。

韓国併合から少し後の第一次大戦後には、パリ講和会議の席上、米大統領ウイルソンによって民族自決が提唱されるほどに、世界の政治情勢は成熟してきていました。

日清戦争の原因ですが、韓国南部の全羅道という所で、「東学農民戦争」といわれる封建支配体制に反対する農民蜂起があり、これを鎮圧しきれなくなった李朝政府は、清国中国に援軍を求めました。日本軍は在留自国民保護を名目に軍隊を出してきました。朝鮮政府は日本側に、農民軍との和解が成立したので撤退を求めたのですが、日本軍はそのまま居座っていました。

そこで日清両軍の衝突となったわけです。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」では、日清戦争は牙山沖で東郷平八郎率いる日本艦隊が清国兵を満載した英国船を撃沈たことから勃発したとされていますが、実はその前に日本軍は朝鮮王宮に夜襲をかけて近衛兵30数名を殺害し、国王を虜にして口実をつくったというのが実相でした。

日本は、日清戦争で得た賠償金で義務教育の学校と、全国の鉄道網を整備しました。その後も、義和団の乱(北清事変ともいいますが。)に乗じて清国の国家予算を上回る巨額の賠償金をとって軍事費を補填したので、日本の軍備は益々増強されていきました。

こうした近代における日本の戦争の歴史と直接関連した産業発展史という側面から、日本が朝鮮半島や中国とどう関わってきたのか、僅かな時間ですが、たぶん皆さんがあまりご存知ないようなことを用意しましたので、お話ししたいと思います。 これまで当たり前だと思っていたことが、よく勉強して考えてみると違うと言うことがあります。

政治と経済、戦争と経済はそのまま直結している、ということは云うまでもありません。

「東アジア共同体構想」は東アジアの平和と繁栄を志向していく上で素晴らしいアイデアだと思います。しかし、私は日本が現状のままでは、この構想は到底実現不可能なことだと考えております。その「現状」とはどういうことなのか、それをお話したいと思います。

東アジアには異質な国があって、それはどこの国かと言いますと中国や北朝鮮ではなく、日本だと言えば、皆さん驚かれるのではないかと思います。

「日本が異質だ」と云うのは一体どういうことなのか、と言いますと、日本人独特の歴史観、アジア観がそこに厳然としてあるという事実を指摘しておきたいと思います。それはあらゆる世代に共通していると言えるのですが、いったいなぜそうなってきたのでしょうか?

歴史というのは私たちの記憶であり、昔あったことと現代とは無関係ではなく、ちゃんと密接緊密に繋がっているという事をいつも確認しておくべきではないかと思います。

日清戦争以来、日本人の意識に深く刷り込まれて来た心理的深層を考えるとき、吉田松陰・福沢諭吉に行き着きますし、薩摩長州の明治政権にいきつくのです。私はこれを<虚構の歴史観>と呼んでいます。

19世紀半ばの黒舟来航以来、尊皇攘夷、討幕運動が起きる中、(NHKの大河ドラマでいま「竜馬伝」というのをやっていますが、面白いですがドラマなので、あまり本気で見ない方が良いと思います)いわゆる国学や、陽明学、水戸学派の中から独特の国粋主義が生み出され、明治以来天皇制国家主義が国家イデオロギーとして形成されてきました。

それまで天皇は武士階級にとっては、権威だったかもしれませんが、それ以外の日本人にとっては、無関係な存在でした。 鎌倉時代以来、国の統治者は武家の頭領だったからです。

明治になって、どういうことが起きたかといいいますと。

日清の対外戦争を煽る意図で「神国日本Story」のフィクションの色づけがますます激しくなっていきました。この大元は天皇制の専制国家をつくりあげた薩長(土肥)政権にこそあったのです。とりわけ長州でした。

「古事記」「日本書紀」「続日本紀」のことを「記紀」と云うのですが、これらは歴史書ではありません。先ずは倭王の権威と正当性を国内に示しておくために書かれました。記紀はすべて漢文で書かれており、中国の人も朝鮮の人もそのまま読めますから、未来の何時の日にか大和王権の存在を、内外に宣伝する目的でつくられたフィクションのようなものだったのです。

中国の「三国志」の中に「魏志倭人伝」という箇所があって、ここに「邪馬台国」や「卑弥呼」という女王の存在が記されているのですが、これと符合させるために、日本書紀は「神功皇后」という女王を出現させ「三韓征伐」というフィクションを作りました。

明治以来これを「国史」として学校で教えて来ました。

朝鮮はかって大和王権が征服した国だから、下に見る、という考え方はここに依拠しているのです。

むろん現代では教科書にはこういうことは書かれていません。書かれてはいませんが、大勢の人びとが集まる有名な神宮神社などには今でも堂々と書かれていて、仮に団体で旅行などに行くと、ガイドさんがそういう話をします。人びとの見方というか、考え方としてはちゃんと今に受け継がれて来ていると云えます。(古代史の話しは時間の都合上、とてもこれ以上ここでは出来ませんが・・・。)

今でも多くの日本人は、「仏教や文字は中国から伝えられた」と思っているようです。それならいっそ「仏教はインドから来た」といえばいいのだと思います。

明治以降、日本という国家がなぜあのような猛々しい帝国になっていったのか? 戦争における数々の残虐行為、その深層について考えてみるときに、一人ひとりの日本人をみれば 繊細で親切なとても良い人たちなのに、なぜそうなってしまったのだろうか?と思うわけです。

そこには眼に見えない、大きな根っ子があったのです。日本史で偉人とされる吉田松陰・福沢諭吉そう人たちの教えを、そのまま実行していったのが日本帝国そのものの姿ではなかったのだろうかと、私は考えています。

朝鮮、中国の他、インドシナ半島やフィリピン、ボルネオなどは日本帝国の侵略を受けて多くの被害を受けたのですが、こうしたアジア蔑視、歪んだ世界観による戦争政策が「大東亜共栄圏」という欺瞞の元で推し進められてきたのです。

いわゆる「皇国史観の教育」では、ヤマト民族は「アマテラスの子孫」で優れていて「一等国民」なのだから軍隊で他国の領土を侵してもよいのだ、という一種「狂気の論理」が、そのまま国家による国民への刷り込みとして国家権力総動員のもと、一環した教育政策として遂行されてきました。

歴史書には出て来ない実史があります。 日清戦争の講和のため下関を訪れた李鴻章を嘲る歌がつくられ、明治人ですら聞くに堪えないような民族蔑視観を広げる流行り歌として、巷で公然と歌われました。またある時代「鰯がサカナか朝鮮人が人間か」という歌もありました。

権力は、国民に対して「日本は必ず世界に冠する帝国になるのだから、今は我慢しろ」と言わんばかりの、フラストレーション懐柔策として、官主導で流行らせたようなふしが見受けられます。

近代以前の歴史の話しを少ししますと、 江戸時代の260余年間、日本と朝鮮国とはとても良い関係にありました。江戸の将軍が代わるたびに、朝鮮から一級の知識人で構成された通信使(数百人)が派遣され、対馬藩の案内で関門海峡を通って鞆の浦(広島・福山)で潮をまち「対潮楼」という迎賓館で数日休息しました。その間、知識を得ようと日本全国から僧侶や学者などが大勢つめかけて、夜遅くまで筆談が交わされたという記録がたくさん残っています。

大阪から江戸に至る道中、幕府から沿道の各藩には礼儀を失することなく、また汚い家はとり壊すなどの達しが出され、中仙道の宿場町の道は掃き清められ整備されたといいます。

高麗・朝鮮は、14世紀ごろからづっと倭寇の侵入に悩まされていて、また秀吉の「慶長文禄の役」で被害が甚大だったので、様子見の目的で、武力よりは外交による防衛政策をとってきました。そうして、徳川時代の朱子学は、李退渓という大儒学者の弟子が日本に伝えたとされまています。

18世紀中ごろになると、朝鮮には米やフランスの艦隊がそれぞれやって来て開港を求めましたが、朝鮮政府はこれを拒み「攘夷」を実行して撃退しました。(仏はインドシナを巡って清国と争いアメリカは南北戦争などがあったので、彼らにとって朝鮮は国力を傾けてまで開港を迫る必要性はなかったのでしょう)最後に日本によって門をこじ開けられたのは、同じ儒教の言葉をもつ間柄だったからでしょう。
さて、「間違った教育や戦争政策は昔のことではないか?}と思う人が多いと思います。

明治政権がつくり上げ積極的に「刷り込み」を続けてきた思想は、今も現代日本人の意識の中で連綿と受け継がれて来ている、ということを私は指摘しておきたいと思います。

1951年、日本は「あの戦争はまちがいだった」とサンフランシスコ平和条約で誓って独立を認められたのに、日本社会には「誤った道を歩んできた」という認識の共有性がありません。
「世界ではあの時代、日本はファッシズムだった」と学校で教えているのに、日本ではそうは教えていません。

日本を代表するような70万部も売っている複数の雑誌が、堂々と「あの戦争は自存自衛の正義の、戦争だった」という。そう書けば雑誌が売れる、という社会の合意のようなものがあるのです。国会議員にもそういうことを言う人がいます。

東京のああいう極右の都知事さんが、350万票もとって再選される、これは言論の自由とかいう問題とは本質的に異なります。
歴史的な出来事というのは見方によって様々だと云う事が言われます。それは私もそう思います。しかし、それは現代の価値基準に立脚したうえで客観的な歴史的事実をちゃんと踏まえるという前提で云えることです。

ある意図や予め決めておいた方向性で物事を見てしまうと、不都合なことは頭の中で無意識に消してしまうのです。サイコロジーでいう「バイアス」です。
近代、日本と朝鮮とのかかわり 1910年の強制併合は国権の強奪であり、その頃「何が起きたのか」を知ろうとすらしないのは、想像力を持って歴史を見る姿勢とはほど遠いと思います。 

ひるがえって、簡単に35年の植民地統治といいますが、その中身は 言葉や文化、風俗というより、個人の尊厳、拠り所、もてる人間のすべてを、銃剣で奪い統治したと言う事でした。
素晴らしい伝統や美意識をもつ日本人の国が、なぜそういう他人の弱みに付け込むような侵略性をもつ国になっていったのか?

繊細で親切な日本人の国家が、なぜ猛々しい帝国に変貌していったのか、という疑問を私はづっともって来ました?

昨今は「歴女ブーム」という言葉があって、ドラマや小説を通して 戦国時代や幕末にはやたらと詳しいのですが、アジア太平洋戦争は知らない ひどい場合は中国への侵略や朝鮮の植民地支配すらよく知らない、という人が多いのはなぜなのでしょうか?

「知らなくても何も恥ずかしくない」 というある種の「異常性」がそこにあるように思いました。

「学校で習わなかった」「自分には関係ない」と言う論理がもし成り立つのであれば、日本人である事をやめ、パスポートを破り捨て、無国籍者か難民にでもなる方法があるのではないかと思います。

自分の国の近い過去を知らない、という事は、自分はどこで生まれて、どこで学校に通い、どこで仕事をし、という人生の経歴を忘れたのと同じです。

最近わたしは日本から、瀋陽、大連ツアー旅行というパッケージツアーに参加して行ったことがあります。瀋陽はむかし「奉天」といって、そこの郊外にあるミュージアム(戦争記念館)はあの満州事変が起きた柳条湖にあるのですが、日本関東軍が様々な不法行為をやったことが写真などの説明に(英語と中国語で)記されていました。ところが日本人旅行者は誰ひとりとして、そういうことを知らないのです。「なぜ日本のことをそんなに悪く言うのだ」とさえ云います。

大連では、旅順の203高地で乃木稀助将軍がどうしたこうしたという武勇伝にばかり関心があって、呆れてしまいました。

サンフランシスコ平和条約の意味についてですが、国際社会にへつらったのは「戦争に負けて仕方がなかったから」と云わんばかりの論調は、社会的に批判されなけばなりません。歴代の政府も国民も過去を批判的に受け入れられない これこそが現代日本の最大の歪みであり、大きな問題ではないかと思います。「靖国 」の意味もそうです。

平和教育運動をやっているという元教師の人と話しをした事がありますが、ただ「命が無残に失われる悲惨さから戦争を考える」のみ、という印象を受けました。「戦争はむごい、すべて戦争が悪い」とオウム返しで言うだけですから、子供たちも同じ事しか云えません。

原爆とか戦争の悲惨さのみを教え加害者としての過去を教えない また、戦争の本質的なところには関心がないように私にはみえました。失われた命は、日本人の戦没者310万、アジア太平洋地域で1900万人です。

縄文時代も大切なのでしょうが、学校では近現代史をちゃんと教えるべきです。
「東アジア共同体構想」を念頭に、日本の近代史を産業発展史という側面からみますと、明治維新の頃、(これはカナダの歴史にも関係して来るのですが) 欧州では英・仏の争いあいがあり、東アジアでロシアを牽制したかった英国は、日本を使ってそれをやろうとし、1902年日英同盟を結びました。日本の戦争債(債権・国債)を引き受け、大々的な武器供与をし日露戦争に肩入れしました。一方フランスは、ロシアに大きな借款を供与し投資もしていたので、ロシアをバックアップしました。そういうことから日露戦争は英仏の代理戦争だったと云えます。

先ごろ破綻した米のリーマンブラザーズ(それにゴールドマン・サックスも)は、既にその時代からあって、米政府の勧めで日本の外債を大量に引き受けていたので、セオドア・ルーズベルト大統領はポーツマスで講和の仲介に積極的に乗り出しました。ロシアはまんまと米の思うつぼに嵌って情報戦に負けたと言えるでしょう。

そういう事から、西欧の産業や軍事技術は1922年の日英同盟の破棄に至るまではイギリスから、次にドイツからもたらされました。

日本は、最先端の軍事教育機関に人材を送り、総国力をあげた技術移転が英についで独から行われたのです。造船、機械、航空機、電子、化学、光学の技術は独由来でした。

中国など東アジアの綿工業製品市場では、日本と米英との間で奪い合いが起き、関係は悪くなりました。 三菱商事、三井物産などが国家権力と癒着して戦争政策に加担していきました。
戦後に軍民の兵器廠からあふれ出た膨大な数の技術者たちが、町工場に集まり物づくりを始めました。ソニー ホンダ キャノン  日本光学=ニコン・・・などです。

トヨタや日産は1930年ごろにデトロイトのGMが使っていた廃棄設備を、技術者ともども買い取り、国の戦争政策に沿った産業として、育成されました。トヨタは戦後に破綻の危機にありましたが、朝鮮戦争で米軍から70台のトラックの発注を受け復活発展して来ました。

コスト計算のない戦争政策が 皮肉にも後世に産業の技術的基盤を残したのです。こうして日本はドイツ由来の生産技術を積みあげ、朝鮮戦争特需が追い風となってわずか20年で経済大国になって行きました。

1945年敗戦 日本はGHQの統治となり、52年サンフランシスコ平和条約が発効して、日本は独立を認められるのですが、その後の社会や産業はどのようにして発展を遂げてきたのでしょうか?

1951年 国連からの復興調査チームは、道路事情の悪さに驚き、世界銀行融資を勧告して、名神高速や黒部ダム、東海道新幹線などが整備されました。
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日韓の関係を振り返りますと、65年アメリカの後押しによって、日韓基本条約が結ばれ、国交が開かれました。北朝鮮とは今も国交がないままです。

互いの国と国とが、ウィンウィンの関係になるには、Marketがアンフェアーであってはいけません。日本ブランドをアジアで作った物は売れるのでしょうが、アジアブランドの商品は日本では売れません。中国製の扇風機や電気ヒーターのような付加価値性の低いものは売れるのでしょうが、中国製エアーコンや冷蔵庫は今や、世界市場で日本メーカーを寄せつけないほどのシェアーを持っているのに、日本の消費者は誰として買いません。

こんにち中国はGDP世界第2位になり世界経済を牽引しています。日本にとって最大の貿易相手国となりました。

世界の新興市場が注目されている現在グローバルマーケットの中、東アジアの求められる「信頼できるパートナー」像として日本をみるとき、アジアの工業製品を日本の消費者は誰も買わない、このような日本のままではいけないのです。商品を買う買わないは無論消費者の自由なのですが、先ほど来わたしが述べた「特異の歴史観、アジア観」によって近隣の国に対するリスペクトが成立しませんから、人びとの消費行動には大きな限界と影響とが存在するのです。

その例ですが、薄型TV LCD市場では既にサムソンやLGが世界マーケットを席巻しているのに、日本市場では日本の消費者は誰も買いません。欧米市場で高い評価を受けているにもかかわらず、日本では全く売れないのです。日本の家電量販店でこれらの商品は見ることすら出来ません。

このような状況下では日韓のFTA自由貿易協定の締結は無理でしょう。EPA経済連携協定の話しも出てきていますが、これは関税の撤廃の他、資金や技術を互いに自由に融通しあおうという協定です。本当は、こういうことを推進しなければなりません。(韓国はFTAでEUとも米国などとも進んでいますが日本とはうまく進まないでいます。)

世界の半導体市場では10年以上も前から韓国企業がトップシェアーを占めており、今後注目を集めている二次電池(りちゅうむいおん電池)分野でも今後50%になる勢いとなっています。

空港からダウンタウンまでのカナダラインは現代ローテム社製の電車と交通システムで動いています。フレーザー河にかかるスカイ・トレインの橋など韓国企業が国際入札で落札していますし、ブラジルではこれまで地下鉄の訳70%近くが韓国企業によって作られ運行されています。そういうニュースは日本語メディアは余り報道したがりません。これでは鎖国です。

これからの東アジアは、互いに自由貿易なくして生きられないのですから、グロバルマーけっとの中で良きパートナーとして生きていく道を探るべきでしょう。

ルックダウン 嫉妬 否定の論理を排除し、互いがリスペクトする対等の関係となれば、人の交流も更に増え、未来はより明るいものになるでしょう。

日本が、東アジアの信頼されるパートナーとして、生きていくためには 過去、現代からよりよき未来へと繋げられるよう皆で努力すべきなのです。これからは欧米の顔色ばかり見ているような時代ではありません。

日本が、歩んで来た近代という時代の中で、近隣の国ぐにとどのように関わってきたのか?そういうことを知り理解する事こそが、これからの良い時代を築いていくための土台となるのです。

そうすれば、私は、アジアの未来は必ず明るいものになると信じています。

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