注: 2段目末尾「他の3人と漂流した」⇒正しくは「他の2人と漂流した」です。
(以下、10月26日追記)
ちなみにこの記事に「また、原作の中で日本軍の人肉食に触れている箇所が過度に注目されている。実際日本軍の人肉食は米軍や豪軍などが作成した大量の報告書に詳細に記載されおり、数々の証言も残っている」と書いたのは、この問題に詳しい歴史学者・田中利幸氏の助言を受けてのことでした。田中氏は自身のブログ「吹禅」にこの9月にこのような投稿をしています。
アンジェリーナ・ジョリー監督製作映画と人肉食問題: 戦争の「狂気」と民主主義を考える
週刊金曜日の記事にも書いた通り、この映画『アンブロークン』と日本軍の人肉食は全く関係なく、人肉食の問題にあまり焦点を置くとこの映画の中心テーマである、日本軍による連合軍捕虜の虐待という歴史から目をそらすことにもなりかねないと思います。しかしこの際、人肉食についてもより知識を深めておく機会にもなると思うので、上記の田中氏のブログもぜひ併せて読んでもらいたいと思います。@PeacePhilosophy
ReplyDelete乗松さま みなさま 突然失礼させて頂きました。
映画、なんとか今週中にみたいと考えております。ちょっとした参照を添えさせてください。
太平洋全域で(俘虜協定に違反する「みせもの」にするため白人俘虜を方々から集め、内地はもちろん朝鮮や台湾へ送り植民地人へ皇国の威を披露するため「動物園」さながらにみせものにされました)日本軍による俘虜虐待とロームシャ(哀れにも、英蘭の圧政から同胞のアジア人が解放してくれたと最も歓喜し温かい笑顔で迎えたビルマとインドネシア人がほとんどでした)たちを強制連行し、酷使して大量の犠牲者を出しました。
さらなる悲劇はどの日本軍兵士よりも下級の、植民地人朝鮮・台湾人兵士そして軍属にもたらされました。俘虜たちの管理も含め、直接労働を指導していたのはほとんどこうした植民地からの募集に応じてきた青年たちでした。暴力をふるったものもむろんいましたが、彼らは一様に「自分は戦勝国人だ」とまさか「戦犯」になる運命なぞ予想だに出来なかったことに悲壮な要素をみるといえましょう。しかし連合軍は「俘虜を虐待したものは厳罰に処す」方針を度々日本側に伝えており、「戦犯に関する限り日本人とみなす」とされてしまい日本人の罪を被せられる不幸がまっていました。死刑924名、無期1、058名、有期2、154名が有罪となり、この世の地獄としか思えなかったのではないでしょうか。
日本政府はもちろん何もしませんでした。ただ罪をなすりつけるのに懸命になった程度で、この破廉恥な傍若無人ぶり、許しがたいです。これらは全て別個に責任を追及すべき戦争犯罪です。
さてここで日本軍がなぜ俘虜を残酷に扱うのかをつきとめた元英軍俘虜のことを紹介させてください。
泰緬の奴隷たち
・・・アーネスト・ゴードンは、現在、アメリカで牧師をしている元英軍俘虜である。彼の著書「死の谷をすぎて-クワイ河収容所」のなかには、随所に監視兵の姿が登場する。この監視兵は、ある時は鉄道隊の兵隊であり、収容所の日本人下士官であり、朝鮮人軍属であったりする。A・ゴードンにとっては、その違いは意味のないことだったのだろう。自分たちを管理、殴打する者の総称が、’監視兵’として記録されている。
「翌年一九四三(昭和一八)年の春が近づくころになると、日本兵の焦燥感は眼に見えて増大してきた。本部の命令通りに鉄道が完成しそうもないと予感し彼らは神経質になっていった・・・(中略)監視兵がどこかで英語の「スピード」という言葉を憶えてきて、たえず「スピード!スピード!」と叫びながら、あのいまわしい竹の を手に私たちを頭の上から監視した。」・・・(中略)シャベルが一本足りないと宣言した・・・(中略)俘虜たちが卑劣で愚かであること、さらに最も許しがたいことには天皇に対する忘恩の不敬を犯していること、それらをなじった」。
・・・(中略)結局、一人の兵が銃尻で殴り殺された。
こうした、体験を積み重ねたA・ゴードンは、ある日、ビルマから移送中の日本人負傷兵の姿を目撃し、俘虜への残酷な扱いの理由をはっきり理解したのである。負傷兵の状態は見るに堪えかねるものだった。戦闘服には、泥、血、大便などが固まってこびりつき、傷口は化膿し、全体が膿で覆われたなかから無数のうじがはい出ていた。A・ゴードンは「それまで、いやいまもって、あれほど汚い人間の姿を見たことがない」という。
「日本軍は自軍の兵士に対してもこのように残酷なのである0。まったく一片の思い遣りすら持たない軍隊なのである。それならば、どうして私たち俘虜への配慮など持ち得ようか。」
俘虜やロームシャに対して残酷な軍隊が、自軍の兵士に対しても残酷なことを、A・ゴードンは、一瞬にして見てとったのである。日本の軍隊における抑圧はより下の者、弱者へと次々に転嫁されていく。朝鮮人軍属は、その抑圧機構最末端にいた。そして、その下に、「皇軍が命をかけて捕獲した俘虜」がいたのである(泰緬の奴隷たち、「朝鮮人BC級戦犯の記録」、1993年、勁草書房、pp22-23)。
最後に巣鴨プリズンで戦犯たちが綴った「短編」を
「すがも新聞」には検閲がある。全文を英語に翻訳し、巣鴨プリズン管理者に届ける。その許可を得て初めて発行されることになっている。そのため、占領軍批判や戦犯裁判についての報道はタブーであり、死刑囚についての記述もない。ストレートに真情を吐露することもむずかしい。
七夕の笹につるした短冊は、巣鴨にいる人間のこうした気持ちをたたきつけていて、興味深い。五二(昭二七)年アメリカから日本へ管理が移行した年の七夕の短冊をいくつか拾ってみよう。
天皇も慰問に来いよ終身刑
星見ればシャクにさわるぞアメ公
再軍備論者 コイツ以上の兇悪犯があろうか
穀つぶし予備隊 刑務官もそうだぞ
植民地軍を何に使うか
吉田首相を流せ天の川
ヒロヒトを逆さまにしたい
大権を天皇に返せ
再軍備と引きかえの釈放はいやだ
学生よ 流す血を惜しむな 戦犯を逃れる途はそれだけだ
ヒロヒト奴 今頃星を見てるだろう
売国奴 吉田のツラの憎さかな
再軍備反対 平和だ 平和だ
裕仁がにくい
再軍備賛成、条件がある、吉田二等兵、芦田一等兵、荒木上等兵、重光衛生兵、俺は大将
強盗に縛られながら泥棒の入るのを心配している吉田さん
日本人には愛想がつきた 食うや食わずで再軍備とは
学生の頭を割る警官 ひろひとはまた神に 末世だ
(「壁あつき部屋」、「朝鮮人BC級戦犯の記録」・内海愛子、1993年、勁草書房、pp222-223)
とにかく、「アンブロークン」、たくさんの日本人が観てくれることを祈っています。決してマスコミやネット右翼が煽る「反日」の先入観に操られず、何が語られているか、内容に注目して楽しんでくれればいいなあ~と思ってます(^_^
PS乗松さま 「ブログ」ボチボチ開始してますが、まずオンボロPCなので新規購入からはじめないといけないようです。ご提案、感謝しております。 山田修 トロント
ちょっと訂正もかねて、再びお邪魔させていただきました。よろしくお願いします。連続コメント、問題がないのを祈りつつ。まず前回の訂正から:うっかり、日本軍全体の戦犯数を出してしまっていました。事実は死刑:朝鮮人・23名台湾人21名。無期:朝鮮人16名(台湾人なし)有期:朝鮮人107名、台湾人147名でした。忠実な皇軍の一員たろうとした純粋な若者たちを、宗主国の威を振りかざした欺瞞と蔑視で見下しその上、裏切ったわけです。日本軍は天皇の名目的統帥による「無責任体系」(丸山真男)であり、その悪辣勝手な本質が、顕著にあらわれている最適例ではないでしょうか。上はおかみから、下は主権者である人民まで誰も責任をとらないまた、追求もしない。
Delete今もってして、保障はおろか謝罪すらしていないので、日本人の一人として戦後世代だ無関係なぞのたもうていられません。
天皇を頂点としたタテ割り社会構造では、ビンボーくじは前回触れたよう下へ、より弱い方へ転嫁される。その末端兵士たちがシンガポールのチャンギ刑務所内で死刑執行前日の送別会において日朝台、みんなで歌えるのは皮肉にも「君が代」と「海行かば」だけであったという。「天皇ヘイカ万歳」「大韓独立万歳」と叫んで刑場に消えていった軍属たちは、日本人のために戦い日本人のために殺されたのである(「朝鮮人BC級戦犯、p174-175)ついでに前回略述した意外にそれほど知られていない「白人俘虜」の各地移送について付け加えさせてください。
「恥ヲ知ル者ハ強シ。常二郷党家門ノ面目ヲ思イ、イヨイヨ奮励シテソノ期待ニ答ウベシ、生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ、死シテ罪禍ノ汚名ヲ残スコトナカレ」他ならぬ東条英機が発案した「戦陣訓」です。
開戦後、アメリカからジュネーブ条約に基づく俘虜の取り扱いについて適用を希望する要請があり、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドがこれに続いた。しかし日本政府は批准はしないが「準用」すると言及した。日本は1929年「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」に署名した。しかし捕虜になるなら自決せよと自軍の兵士に強制し、国際協定の存在を兵はおろか将校たちにも教えていない日本軍部は、むろん守る気など毛頭なかったことはすぐ明らかになる。
その条約は97カ条から成っていて「博愛の心をもって取り扱うべし」「かつ暴行、侮辱および公衆の好奇心に対して特に保護させられるべし、俘虜に対する報復手段は禁止す」「人格および名誉を尊重せらるべき権利を有す」。まさに人命軽視の日本軍とは雲泥の差であった。日本軍はこれをことごとく黙殺し、まさにこの禁止事項を悪辣な形で実行したのだ。1942年(昭和一七)年2月28日の決定から
「半島人の英米崇敬観念を一掃して必勝の信念を確立せしむる為、すこぶる有効にして総督府および軍共に熱望しあるにつき、英米俘虜各1000名を朝鮮に収容せられたく、特に配慮こう(中略)・・・建物は京城府(ソウル)の神学校二校、平壌府外人学校及び神学校各一を充当し得べし・・・」(「速記録145号」)
「目的 米英人俘虜を鮮内に収容し朝鮮人に対し、帝国の実力を現実に認識せしむると共に、依然朝鮮人大部の内心抱懐せる欧米崇拝観念を払 する為の思想宣伝工作の資に供せんとするに在り」・・・「白人俘虜ハ之ヲ我生産拡充並ニ軍事上ノ労務二利用スル如ク逐次朝鮮、台湾、満州、支那二収容シ・・・」 これも軍事施設や飛行場の建設、作戦準備など直接戦争に関わらせてはならない、の条項反古でした。台湾でも農業生産に俘虜を投入するため7000人の移送を要請し、併行して「欧米崇拝の観念を除去し、植民地下の人々の皇国臣民化に一層役立てよう」という意図は朝鮮や他の地と同じでした。軍上層部と日本政府は、膨大な俘虜に奴隷労働とさまざまな虐待を行い、横死させるという取り返しのつかない蛮行を繰り広げてしまいました。日本軍における人命軽視と個人の尊重、人権感覚の浅薄さが煽りたてられた醜悪な対敵意識と結びついた狂行だといえるでしょう。そしてその根底にある本質的問題は日本社会に生き続けていると私は主張します。
我々の世代の多くは、戦後生まれをまるで普遍的なアリバイのように掲げ、「だから関係ない」「個人の自由」「興味、関心がない」といっている方々は多いですが、私はそうは思いません。日本人が問われているのは、70年以上前に終わったことではなく、戦後から今「現在」行われていることについてであると断言します。戦後、全く新しい別の国に生まれたわけではないのはいうまでもありません。
戦中と戦後は連動しており(アメリカと天皇制の共謀で温存)、だからこそ南京と中国各地で残虐に殺された人々にたいする侮蔑と卑劣な嘘が横行し、甘言をろうして巧みに拉致し、性奴隷にして連れまわした挙句、かなりの数を南方や中国、満州、サハリンだと置いてきぼりにした日本国家と人民の無責任と、不誠実さを問われているのであります。どこかで「条件つき」(慰安婦像撤去・以降話を持ち出さない)の謝罪に何の意味があるのか、と語っている婦人の談話を思い出しました。文句いわなきゃ「カネ」(しかも基金)を払ってやる、生意気いうならビタ一文払わんし謝りもしない、そんな恫喝めいた態度で脅してする「謝罪」なら当の被害者も望むはずがありません(米大統領に「免責」されても、被害者たちには何の関係もありません)。まさに戦中の指導者顔負けの時代錯誤ぶり、そんな時代がまた戻ってこないためにも、
もっと歴史事実を知りましょう。興味を持ちましょう。
韓中との関係も二言目には65年の「日韓条約で全て解決済み」として(この場合も独裁者朴正 と馴れ合い「賠償」ではなく「経済援助」として若干渡しただけ、今回の「基金」となんら変わるところはありません。そんな調子で周囲の諸国に「粘り強く訴え理解してもら」える可能性はまずないでしょう。「慰安婦」は売春婦だ、「南京大虐殺」はでっちあげだ、と派手にやってますからどうしても二の次にされてしまっている「強制連行」についても以下、痛々しい例を参照します。責任は何一つとられていません。
最後に劉連仁という人を覚えている方はそれほど多くないと思います。劉さんは山西省の農民で、44年ある日の朝、畑に向かう途中で「兎狩り」と称される日本軍の労働者拉致・誘拐の網に引っかかってしまい、北海道の炭鉱に強制連行された。
タコ部屋の奴隷労働で疲弊し、敗戦一ヵ月後に脱走し以来、13年後に発見されるまで厳しい気候の中、凍傷と栄養失調による不完全飢餓の半死半生状態で生きていました。横井さんや小野田さんやが発見された、グアムやフィリピンと違い北国で一人隠れて生きることの大変さは、想像すらできないでしょう。
日本の国家元首は当時、皮肉にも1942年11月27日、東条内閣が閣議決定した「華人労務者内地移入ニ関スル件」に署名した閣僚の一人安部氏が尊敬する祖父岸信介(A級戦犯容疑)だった。劉さんの強制連行を行った責任者の一人であるのは断るまでもない(東条内閣商工大臣(現通産大臣)。岸は劉さん救助の報を受けるや「・・・閣議決定があったではないかというご指摘でございます。これは私正確な記憶ではございませんが・・・(中略)華人労務者を連れてくる。しかしこれはすべて契約によって当の本人が受託してくる。任意の者を連れてくる建前であったと・・・劉君が果たして・・・不当に逮捕され、もしくは強制連行来られたのか、私事実としてはっきりいたさないのでありますが・・・」
良心や誠意のかけらすら感じられない支離滅裂の妄言である。そればかりか日本政府は「不法残留」容疑で劉さんに出頭を命じたのだ。被害者に対するこれほどの侮辱はないであろう。劉さんはもう10年以上前に亡くなられましたが帰国前の、1958年4月10日に残した声明書で「日本当局は私を不法に拉致し、虐待した。厳然たる事実を認めようとしておりませんが、これは旧い国際的犯罪をかくそうとして、新しい国際的犯罪をおかしているものであります。私はここに重ねて岸内閣負うべき責任を負わない態度を強く非難するものです」(中国人強制連行の軌跡・「聖戦の墓標」・上羽修、1991、青木書店、p220-221)
その後、孫の代まで受け継がれた日本政府を相手取った訴訟は、門前払いに近い形で終わってしまいました。まだまだ道は険しい被害国の方々との関係、一人一人が自ら考え、己だけの意見を持ってほしいと切望しております。ばらつい内容恐縮ながら、お付き合いありがとうございました。 山田修 トロント
みなさま、お疲れさまです。ようやくめぐり会った貴重な言論の場、舞いあがっていたようで、ドカドカ非常識に長文を送りつけて失礼いたしました。
Delete「アンブロークン」、とうとう見ました。すばらしい名作です。もっともっと多くの日本人が是非みて欲しい気持ちでいっぱいです。やはり一番胸を打たれたのは日本軍による虐待でした。かつて英豪など、被害者のお孫さんたちから聞いた話をダブらせながら観賞しました。人間の個も尊厳も踏みにじられたあの状況下で、生きていくことは、想像を絶しています。日本人はもっともっと歴史事実を知って、自覚して欲しい。あの元隊長も、なぜ自ら虐待した元俘虜が長野のときお願いした面会に応じなかったのか・・・おそらく過去の負の遺産に正面から向きあい反芻することができなかった戦後日本を現す象徴なのでは。他者の痛みを分かち合う、殴られるのがどれほど痛くて悔しいか、仮に自分がそうされたら果たして?というところまで思考の余裕すらない、多忙で常に疲労困憊の社会と民衆。安部たちのように上の方でふんぞり返ってるのが模範とする「愛国者」とは、旦那を常にヨショする、従順な「物言わぬ働き蜂」なんだろう。俘虜虐待や生きて虜囚の云々、に代表される人権侵害そして、上層部は戦中同様国民の命なぞ虫けらほどにも考えてない。実例はサービス残業や過労死、自殺、高齢者「役立たずはさっさとくたばれ」「人間の代わりなんかいくらでもいる」といった人命軽視ぶりも戦中の亡霊そのものです。こんなやつらに再び鉄砲担がせて野放しにしてはいけない。被害を受けた人々(存命者はどんどん減っているが)のお孫さんたちと一緒に問題を議論し、手を握り痛みを分かち合えてこそ本当の「国際関係」だと信じています。安部サンたちとは何の関係もありません。若者、日本人がんばれ!!