"From Nanjing to Okinawa – Two Massacres, Two Commanders."
昨年12月に参加した中国への旅の報告記事を紹介します。 「南京と沖縄」のつながりに注目した記事は12月4日、31日の『琉球新報』に掲載され、英語版が『アジア太平洋ジャーナル』(『グローバルリサーチ』に転載)に出ました。1月19日号の『週刊金曜日』には「旅順大虐殺と南京大虐殺の現場を訪ねて―明治期に遡る大日本帝国の暴虐の系譜」という題で記事を出しています。この長いバージョンは「東アジア共同体研究所・琉球沖縄センター」の次号の紀要に掲載されます。
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館 2017年12月13日 夕暮れ時 |
乗松聡子
2017年12月。
1937年同月、日本軍の南京攻略戦において捕虜、投降兵、敗残兵の大量虐殺、南京城内外と近郊農村において一般市民の虐殺・強姦、放火や略奪が大規模に繰り広げられた「南京大虐殺」から80周年を迎えた。この事件は37年12月初頭から約6週間にわたる期間に集中したが、傀儡の中華民国維新政府が成立する38年3月末頃まで起こった。だから「80周年」の追悼は、2018年の新年を迎えた今も、続いているのだ。
私はこの80周年の節目に南京にいたいと思い、昨年12月12日から19日、南京大虐殺研究者の松岡環氏が主宰する「第33次銘心会南京友好訪中団」にカナダから参加した。松岡氏は1980年代以来、30年余にわたり南京大虐殺をはじめ、中国全土での日本の侵略戦争の調査を行い、南京攻略戦に参加した元日本兵250名、南京大虐殺の被害者300名余から聴き取りを行った。その成果を国内外で出版、映画制作、講演活動等で発表してきている。
33回目となる今回の訪中団には松岡氏のほか14名、それに加え長崎の「岡まさはる記念長崎平和資料館」から「第15回日中友好・希望の翼」として3名が合流し計18名が参加した。その内訳は大学生4名を含む、元教員、市民活動家、会社員など20代から80代までの多彩な背景を持つ人々であった。松岡氏によると、冬の訪中団は南京大虐殺の追悼日である12月13日を基軸に日程が組まれており、毎回南京に加え他の場所も訪れることによって日本の中国侵略戦争の歴史を幅広く学ぶねらいがある。今年は、上海半日、南京3日、大連1日、旅順2日の組み合わせであった。
上海 -「南京」前に虐殺は始まっていた
上海淞滬抗戦紀念公園 |
上海淞滬抗戦記念碑に 献花する参加者 |
日本軍の残虐行為の展示コーナーでは、8月23日、宝山区羅涇鎮で無抵抗の2千人以上の市民が焼き尽くし殺し尽くされたという「羅涇大焼殺」があり、その被害者の名前が壁一面に記されていた。案内人を務めた紀念館の宣伝展示部主任である徐泌さんからろうそくの形をしているシールを一人一人渡され、それぞれが選んだ名前の下にシールを貼り、追悼の時間を持った。
羅涇大焼殺の被害者の名前(一部) |
南京-80周年の「国家公祭日」
12月12日夜、時速350キロの高速鉄道で1時間、上海から南京に移動した。明けて13日は南京大虐殺被害者を追悼する日だ。江蘇省および南京市の主催で1994年以来追悼式典を行っていたこの日は2014年に「国家公祭日」と指定された。早朝、追悼式典が開かれる侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館に向かうバスの中、団長の松岡氏はこの日の意義を語った。
松岡環氏 |
この日は全国で南京大虐殺の犠牲者を追悼する日だ。それぞれの地では、その地で起こった“惨案”のことも想起されるであろう。南京では、午前10時ちょうどに街中の車がクラクションを鳴らし、揚子江に浮かぶ船は汽笛を鳴らし、10時1分に1分間の黙とうをする。松岡氏の話を聞きながら私は、中国が全国的に追悼に包まれるこの日、南京大虐殺を否定あるいは過小評価する風潮がまかり通る当の加害国の日本でこの日の意味をわかっている者がどれだけいるのかと思い、暗澹とした気持ちにならざるを得なかった。
1時間ほどの式典は、約1万人の参列者が見守る中、おごそかに行われた。献花、そして荘厳かつ感情に訴えかける音楽若者の参加、放鳩、平和の鐘など、10年間広島・長崎の学習旅行にかかわってきた自分には、原爆の追悼式典と重なる部分が多かった。平和への願いを象徴するシンボルである紫金草は、広島の折り鶴を思い出した。南京の式典での放鳩はいつ終わるのかと思うほど多くが放たれたが、後から聞いたら犠牲者の数約30万を象徴した3千羽だったという。1羽に100人分の命がこめられていたと知り言葉を失う。
式典はカメラも電話も持ち込み禁止だったので写真は撮れなかった。午後に会場に戻ったときの片付けの最中の写真。 |
13日午後は、魚営雷や中山埠頭など、揚子江沿岸の虐殺現場を訪ねた。この日は紀念館の主会場だけではなく市内17か所の虐殺現場で同時に追悼式典が開催される。
揚子江沿い、幕府山近くの魚営雷の追悼碑
(1937年12月15日夜、日本軍は捕まえた兵員、武装解除された兵・官9千人余りをここで機関銃で集団射殺。同月、魚営雷・宝塔橋一帯で3万人あまりを再び殺害-碑文より抜粋)
挹江門にはその先の揚子江を渡って逃げようとした国民党兵士や市民が殺到した。行く手を塞がれ多数が虐殺された。南京崇善堂、紅卍字会などが1937年12月より1938年5月まで6回にわたって約5100体の遺体を埋葬した。 |
1万人以上が虐殺された中山埠頭の追悼碑で |
同様に通りがかりで話しかけてきた大学生の胡陽志さん(同済大学浙江学院電気工学専攻2年生)は、後日くれたメールで「南京の門はあなたたちのために永久に開かれています」と書いてくれた。胡さんは、叔母の祖父が南京大虐殺の被害に遭っている。南京の人々は普段多くを語らないが、頭の片隅にいつもその辛い記憶が残っていると、22歳の胡さんは教えてくれた。
リニューアルされた紀念館の追悼スペース |
13日の午後は、長年紀念館と交流してきた銘心会南京と日中労働者交流協会の訪中団に対し、リニューアルされた紀念館の展示を一般公開にさきがけて見学させてもらった。有り難いことである。紀念館に入ってすぐのところには現存する幸存者の写真パネルが並ぶ。紀念館に登録している幸存者でご存命なのが、17年9月末現在で98名ということだ。
キャンドル追悼集会 |
式典後、会場で中国中央電視台の英語放送局CGTNから取材を受け、「日本人としてこの歴史への責任を感じる。歴史の否定が日本で蔓延しているからこそ、私たちのような日本人グループの参加に意義があると思う」と語った部分がその晩に放映され、ネットにもアップされている。当日はホテルのTVでどこのチャネルに行っても国家公祭日の各地での追悼式典の報道や特別番組をやっているという印象であった。広島で8月6日にTVをつけるときをまた連想する。
幸存者訪問
南京滞在中、幸存者お二人のお宅を訪問した。
劉民生さん |
松岡氏が「心のケア」と呼ぶこの訪問活動は、幸存者を日本に招聘してもそれっきりにはせず、辛い体験を話してくれた人に対してその後毎年必ず訪問を繰り返し、ケアするという姿勢で2001年から約50人に対して行ってきた。
王津さん |
南京から大連に向かう飛行機の中で、参加者の一人である大学生の島尾さんと話をした。大学では英語と中国語を学ぶ島尾さんは、日本で南京大虐殺を否定する傾向について、「もし自分の家族が被害を受けていたらどう感じるのか、考えないのだろうか」と、想像力の欠如を指摘した。南京訪問は初めてで、日本人が行くことで批判を受けるかと思ったが地元の人は心が広く、日中友好を求めていることがわかると語った。良識を持った日本の若い世代に希望を感じる。
大連―植民地支配下、略奪と搾取の玄関港
大連現代博物館 |
大連は満州の玄関港として繁栄するが、その陰には中国人の奴隷的労役があった。博物館には重い荷役に苦しむ労働者たちの彫刻が展示され、「労働者の血の涙-日本人は埠頭で仕事をする人を“苦力”と呼んだ。その“苦力”には労働保護策はなく、毎日12時間働かされた。住まいの条件も悪く、毎日死傷者が出た。満鉄の統計によると、大連埠頭での荷下ろし作業で死傷人数は1911年には1469人、1921年には6435人、1925年から1930年に至る5年間には毎年3000-5000人の死傷者が出た。1929年には5385人死傷者があった。中国“苦力”は血と汗と命をもって大連港の繁栄を作った」とある。
「“工業日本”と“原料満州”との侵略政策による日本帝国主義は大連港を東北の資源を略奪する工具とした。1907年から1931年の間、大連港から石炭265.6万トン、円盤状に固めた豆かす1901.4万トン、大豆1495.7万トン、生鉄717.1万トン大豆油227.2万トンを輸出した。」あらためて、植民地支配というのはその地の資源も、人も、根こそぎ奪いつくすものなのだと思い知らされた。大連・旅順は日本の敗戦時ロシアの支配下に再び置かれ、1955年にようやく中国の主権下に戻ることになる。
見る者の心に重くのしかかる「労工血泪」展示 |
旅順-「南京」から43年遡る虐殺の系譜
この地に来た主要目的は「旅順大虐殺」の歴史を学ぶためだ。南京のことは知っていても1894年の日清戦争中の旅順大虐殺のことはどれぐらいの日本人が知っているだろうか。松岡氏は「日本人は100人いたら100人知らないと言えるほど知らない。聞いたことはあっても遠い昔に悲惨なことがあったな、程度」と断言する。恥ずかしながら私もその程度の認識であった。
井上晴樹『旅順虐殺事件』 (筑摩書房 1995年) |
12月16日、大連市内で、私たち訪中団のホスト役を務めてくれた大連中日文化交流協会、「日本語角」の人たちと一緒に松岡氏の「南京大虐殺」「旅順大虐殺」についての講演を聴いた。松岡氏は、以前この地で南京大虐殺の講演をしたとき、地元の参加者から「旅順のことも調べてくださいね」と言われたことがきっかけで旅順大虐殺の調査を始めたという。これら地元の中日交流市民グループには日本人メンバーも当然いるのであるがこの日の講演会には誰も来ていなかった。
松岡氏は講演で、次々と具体的な資料を示しながら話した。「旅順大虐殺」は、同行していた「伯爵写真家」亀井茲明が多くの証拠写真を残している(訪中団が訪問した大連現代博物館、旅順萬忠墓紀念館、旅順口風雲展覧館ではいずれも亀井の写真が展示されていた)。亀井は「日本兵は、兵農を問わず容赦せず殺した…流れる血、血なまぐさい匂いが満ち満ちて、のちに遺体は原野に埋葬した」という内容の記録も残している。山地元治第二軍第一師団長は「土民といえども我軍に妨害する者は残らず殺すべし」との命令を下している。
1894.12.20 クリールマンの記事。 (大連現代博物館の展示) |
新聞記者のジェイムズ・クリールマンが『ニューヨーク・ワールド』という新聞に報道している。12月20日付の長い記事では、日本兵が「少なくとも2千人の無力な人々を虐殺」、「市街端から端まで掠奪」、「街路は切り刻まれた男、女、子どもの死体で埋め尽くさる。その一方で兵士ら、笑う」といった内容が書かれている。また、参戦していた日本軍夫の日記にも、子どもが裸で死んでいる有り様を見て目に涙をためたり、若い娘が露わな姿で死んでいるといった記述が残されている。この事件については、井上晴樹著『旅順虐殺事件』(筑摩書房、1995年)が詳しい。
123年前の出来事でもう幸存者はいないが、松岡氏は幸存者金純泰さんの娘、金道静さんから、父親からきいた話を聴き取っている。「寒風の中で虐殺がはじまった。11月21日日本軍が旅順に攻めてきた。幼い姉二人は泣くとまずいので家族によって井戸に投げ込まれ、男の血筋を守るためお祖母さんと母は2か月の父を抱いて逃げた。その後落ち着いてから帰ったら、近所に殺された人々の死体が山となって血が川のように流れていた」と金純泰さんは繰り返し道静さんに語ったという。
虐殺の記憶の地を歩く
旅順では、地元の地理や歴史を知り尽くしている地域史研究家の姜広祥さんの案内で虐殺や埋葬の記憶の場を訪ねた。
姜さんの案内で フィールドワーク |
日本軍が虐殺の犠牲者の遺体を焼却処理した場所のうちの一つ、白玉山の北東の麓に「萬忠墓」がある。最初は1896年、清朝の役人が墓碑を建て、地域で死者を追悼する場となった。その後も何度かの修築を経て、1994年、旅順大虐殺100周年のときに「旅順萬忠墓紀念館」が建立された。この施設を訪れる者はまず眼前に立ちはだかるように「1894.11.21-24」と大きく刻まれた石壁と対峙する。虐殺が集中した4日間だ。大連や旅順の人々は決して忘れない日付だ。
旅順萬忠墓紀念館 |
旅順で訪ねたもう一つの侵略戦争時代の遺産ともいえる場所が、「旅順日俄監獄旧址陳列館」である。
旅順日俄監獄旧址陳列館 |
安重根が拘禁された監房 |
この旅順の監獄には、中国人だけではなく朝鮮人や日本人も投獄された。1909年10月26日伊藤博文をハルビン駅で暗殺した安重根も、逮捕後すぐにこの監獄に収容されており、5か月後の1910年3月26日に死刑執行されている。外国人来訪客では韓国人が一番多いという。見学後、暖かい休憩所を提供してくれた周愛民副館長に「日本人も来ますか」ときいたら、「日本人は日露戦争の戦跡を見に旅順に来る人は多いが、ここにはあまり来ません」との答えだった。恥ずかしいことである。
副館長の周愛民さん(左から2人目)は日曜で休日なのに出てきてくれて、寒さがこたえる見学のあと、暖かい会議場を休憩場として提供してくれた。周さん以外は、私たちの旅順見学のガイドを務めた地域史研究家の方々。訪中団と意見交換をした。 |
旅順虐殺は「明治」賛美を打ち砕く
2018年は「明治維新150年」として、日本では数々の記念イベント、TV番組、出版などが目白押しの様相である。安倍政権はそれらを「明仁退位・徳仁即位」と組み合わせ、天皇中心の軍事帝国時代を賛美するような全国キャンペーンを展開し、自らのたくらむ明文改憲を後押ししようとしているように見える。
日本人の多くは、「大国米国に戦争をしかけた1941年12月の失策のせいで敗戦を招いた」という歴史認識を持っている。日本の加害を意識した人でも、1931年の満州侵攻以降の「15年戦争」という枠組みで考えている人が多い。しかしこの旅での学びが明らかにしたものは、南京大虐殺を生み出した皇軍の野蛮な性質と、アジアの隣人を人間として扱わない醜い差別感情は、決して「15年戦争」と言われる枠組みに収まるものではなく、それは旅順大虐殺に象徴されるように、明治期から脈脈と引き継がれた大日本帝国とその軍隊の本質だということだ。
大日本帝国は1874年の台湾出兵、75年の江華島事件をはじめ初期段階から国外武力行使を行っており、日清戦争は帝国初の本格的侵略戦争であった。日清、日露での勝利が日本の朝鮮や満州の植民地支配につながったのであるから、侵略戦争と植民地支配は明治初期から1945年の帝国破綻まで70年以上、切れ目なく続いていたのである。
広く読まれている司馬遼太郎の『坂の上の雲』に色付けされた日清、日露戦争を美化する歴史観がこの帝国の本質を見えなくしている。実際は、「旅順大虐殺」の史実だけを取っても「明治は古きよき時代」という神話は、いとも簡単に崩れ去るはずだ。
敗戦後の日本社会も70年余に及ぶ侵略戦争と植民地支配の歴史を総括せず、戦後世代に学ばせないことで偏見に無知が加わり、現在社会にはびこる「嫌中・嫌韓・嫌朝鮮感情」やヘイトスピーチといった現象につながっている。さらに「南京大虐殺はなかった」「“慰安婦”に強制はなかった」といった、歴史を積極的に否定することによってアジア隣人の心の傷に塩を塗り続けているのだ。このような社会の傾向に抗い、日本近現代史の事実から目を背けず真摯に学ぶことこそが、再び侵略国家になる道を阻止し、アジアの中で信頼され、平和構築に貢献することができる日本をつくるための基礎となると信じる。
旅順港の日没 |
(終)
★この学びの機会を提供してくださった松岡環さんと銘心会南京、旅を通じてガイド・通訳をしてくださった盛卯弟さん、大連中日交流協会と日本語角のみなさん、他、中国各地でお世話になった地元の方々、訪中団参加者の皆さまに心から感謝いたします。
★写真は、全て筆者撮影。
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