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Monday, May 14, 2018

被爆者の言葉を胸に 乗松聡子 Translating for A-bomb Survivors - Reflecting my 10-year participation with the U.S.-Japan Hiroshima/Nagasaki Study Tour

左からアメリカン大学のピーター・カズニックさん、被爆者
の近藤紘子さん、藤岡惇さん、乗松聡子
(2009年ぐらいの写真かなーーーみんな若いし今でも若い!)
立命館大学名誉教授の藤岡惇(ふじおか・あつし)さんと出会ったのは2006年、バンクーバーの「世界平和フォーラム」でのこと。

藤岡さんとの出会いのおかげで、米日学生の広島・長崎の旅にかかわるようになって、2016年までの10年間、毎年夏は、涼しく快適なバンクーバーを後にして、酷暑の日本で京都ー広島ー長崎ー東京と、米国、日本、中国、韓国、ベトナムなどの学生とともに歴史を学び、考える旅をしてきました。この、立命館大学とアメリカン大学共催の平和学習の旅は昨年(2017年)が最後となり、藤岡さんから、文集への寄稿を頼まれました。

先日届いたこの文集は、藤岡さんらしい、『向日葵とアンパンマン―日米を結ぶ「原爆」探求の旅・23年目のゴールイン』というかわいらしいタイトルになっていました(写真)。

いつも傘にスヌーピーのタオルをつけて汗をかきながら旅の引率をしてくださった藤岡先生。この旗が2014年に紛失してしまい、ピンチヒッターになったのが「アンパンマン」の旗だったのです。「アンパンマン」の背景には、作者やなせたかし(故人)が中国に出征したときの飢えの体験があるようですが、この旗には、何千万もの人を殺し、飢えさせた大日本帝国の戦争への反省にもとづく旅という意味もこめられていたのではないかと、私は思います。

以下、この冊子に寄稿した私の文を転載します。(53-54ページ)

藤岡先生情報追記:冊子はこのリンクで全部見られます


被爆者の言葉を胸に、大日本帝国の侵略の歴史に向き合う

乗松聡子

 私は2006年当時、カナダ・バンクーバーで子育てをしながら地元の大学で異文化間コミュニケーションを教える仕事をしていたが、その年の夏開催された「世界平和フォーラム」で日本から参加していた藤岡惇先生と知り合い、その夏広島を訪ねたときに立命館とAUの平和の旅の助っ人通訳を頼まれた。これがこの旅との出会いであった。

 証言に立ったのは「原爆乙女」の一人でもあった山岡ミチコさん。15歳のときに被爆し火傷で顔にケロイドを負い、「お化け」と言われたときの気持ちを訳したときの胸の痛みを覚えている。時は、原爆投下記念日の前々日の8月4日の夕刻。国際会議場の一室での被爆証言は、今にして思えば、録音か録画しておけばよかったと悔やまれる。その晩、山岡さんを囲んで、楽しく食事会をし、山岡さんは機嫌よく帰宅なさったのであるが、2日後の8月6日の原爆祈念式典の直後に脳梗塞に見舞われてしまったからだ(山岡さんは2013年死去)。

 2007年から2016年までの10回はおもに通訳として全期間参加したが、自分にとってやはり一番心に残ったのは被爆者の方々の通訳であった。焼け跡で黒焦げの母を見つけて、「おかあちゃん」と手を差しのべたらぼろぼろに崩れてしまったと語った下平作江さん。背中全面を焼かれ、うつぶせの状態で2年近く寝たきりであった谷口すみてるさん。医療関係者がきょう死ぬか、明日死ぬかとささやきあっていたのを聞きながらも生き延びた(谷口さんは2017年に死去)。倒壊した家の下敷きになって動けなくなった母親をどうすることもできず、迫りくる火の手の中に母を置いて逃げなければならなかった沢田昭二さん。母のためにもと勉学に励み、物理学者になって、今も核産業や政府が隠蔽し続ける原爆や原発の被曝問題を追及し続ける人だ。

 これらの被爆証言の通訳は、感情がこみ上げ、通訳を続けるのがときには難しくなるが、一度完全に抑制できなくなったのが2011年、『はだしのゲン』の中沢啓治さんのときだった。『ゲン』に描かれているのと同様、家の下敷きになった父、姉、弟が火に焼かれる中、身重の母と中沢さんはちぎれる思いで逃げた。母は、弟が「お母ちゃん、熱いよ!熱いよ!」と叫ぶ声を聞きながら逃げなければならず、生涯その叫びは耳の奥に残っていた。この証言の通訳で号泣してしまった私は、福島から参加した大学生からハンカチを借りて乗り切ったことを覚えている。中沢さんは翌年2012年の年末に亡くなった。

 通訳とは、話者の物語が知的次元だけではなく体全体に入ってくるような体験であると思う。だからこそ、これらの被爆者の体験は私の体の一部になっているし、被爆者の亡き後も体験を継承する責任を私は負っていると思う。

 被爆者から受け取った体験はもちろん被爆体験だけではなかった。特に中沢さんの話からは、戦時中から反戦を貫き投獄、拷問された父親の影響を強く感じた。自らの被爆体験だけではなく朝鮮人の隣人が被った差別、天皇の戦争責任、皇軍が朝鮮人や中国人に行った蛮行の数々に真正面から向き合う人であった。この中沢さんの視点こそが、私が10年余の広島と長崎とのかかわりを通じて育むことのできた、原爆にいきつくまでの大日本帝国の侵略と植民地支配の歴史を直視する姿勢であった。

 日本の「平和教育」は原爆投下から始まるといっても過言ではないぐらい、まだまだ被害者史観中心のものである。私たちの旅は長崎の朝鮮人原爆犠牲者追悼集会や、「岡まさはる資料館」に行くことで日本人中心史観から脱する試みをしてきている。立命とAUの旅は一端終止符を打ったが、今後このような旅を再び行うとしたら、いま以上に、侵略の主体であった広島の第五師団や軍需産業のメッカである長崎の歴史と現状も併せて学ぶのがよいのではないかと思う。戦後「日米安保」の大規模軍事拠点であり続けている広島・長崎両都市とその周辺の現実も共に学びたい。

 慰霊碑の真横には巨大な日の丸の旗が立っている。この旗も、かつて別々の機会に韓国人と中国人の仲間から、「国際平和を誓う場所にはそぐわないのではないか」と言われたものだ。毎年8月6日慰霊碑前で開催される平和式典で朝鮮人被爆者のことが語られることはほとんどない。広島の慰霊碑は日の丸とセットで「ここは日本人の聖地なのだ!」と言っているような気がする。「唯一の被爆国」と言うのが好きな日本人の「被爆ナショナリズム」を象徴している。

 被爆者の言葉を心と体に刻みながら、今後はこのような問題意識をもっと深めながら広島と長崎に向き合っていきたいと思う。たくさんの学びと気づきを与えてくれた立命・AUの旅に心から感謝の意を表したい。

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