6月に、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会 関西支部 第九次訪中団(撫順・瀋陽・北票・阜新・旅順・大連 )」の旅に参加した感想文を、ここに転載します(私はスケジュールの都合で旅順・大連には行きませんでした)。感想文は8月中旬に書いたものです。この旅を企画してくれた野津加代子さんや、一緒に参加した皆さんに読んでもらうようなトーンで書いておりますので少し「うちわ」っぽい雰囲気があることをお許しください。また、一般の読者のためにいくつか注をつけています。ハイパーリンクはネット転載のために独自につけたものです。この旅の募集要項、日程などはこちらをご覧ください。きたる11月にも、「撫順の受け継ぐ会 関西支部 第10次訪中団 ~ 成都・重慶・廠窖・常徳 ~」が計画されています。関心のある人はこちらを見てください。@PeacePhilosophy (文章と写真の無断転載・転用はしないでください)
撫順、北票、阜新、瀋陽―侵略の爪痕が残る遼寧省の旅
「撫順の奇蹟を受け継ぐ会 関西支部 第九次訪中団」に参加して
乗松聡子
『新中国の戦犯裁判と帰国後の平和実践』
1950年、新中国は、中国侵略戦争で残虐の限りを尽くした日本戦犯969人をソ連から引き渡され、遼寧省の撫順戦犯管理所に収容しました。また、敗戦後山西省などに残留して国共内戦に参戦した日本兵ら140名は、山西省の太原戦犯管理所に収容しました。1956年にそれぞれ瀋陽と太原で、「最高人民法院特別軍事法廷」で戦犯裁判を行いました。6年の収容中に死亡した人を除く1062人が戦犯裁判の対象になりました。そのうち有罪になったのはたったの45人で、量刑でも最高で懲役20年という、「寛大な」判決でした。
残りの1017人は起訴免除とされました。1964年までには全員釈放され帰国し、元戦犯たちは「中国帰還者連絡会」(中帰連)を結成し、戦後、加害証言を中心とした平和活動に従事しました。この戦犯裁判と戦後の元戦犯たちの歩みについては石田隆至・張宏波共著『新中国の戦犯裁判と帰国後の平和実践』(社会評論社、2022年)に大変詳しいです。「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」の旅の体験と合わせて読み、学びを深めました。
私がこの歴史に初めて触れたのは太平洋を超えた、私の住む地、カナダのバンクーバーと言われる、先住民族のスクオミッシュ族、マスキウム族、ツレイル・ワウトゥース族の土地においてでした。2006年、この地で「世界平和フォーラム」が開催されたときに、地元の歴史家・人権活動家の鹿毛達雄さん(2022年死去)らが「Miracle of Fushun」という分科会を持ったときでした。残酷な戦争犯罪を犯した元日本兵らが、撫順の収容所で手厚い処遇を受け、新中国の指導のもと、学習や文化活動も自由に行う中で自分たちの罪を自覚していったという歴史は私にとって衝撃的で感動的であり、一度撫順の地を訪ねてみたいと思っていました。
それから約20年が経ち、チャンスが訪れました。昨年、カナダ9条の会として青木茂さんを講師に迎え「万人坑」のオンライン講座を開催しました。「万人坑」に一度行きたいと言っていた私に、青木さんが「こういう旅があるよ」と教えてくれました。この機を逃したくないと思い、飛びつきました。野津加代子さんをはじめ、加害の歴史に向き合う貴重な仲間たちと出会うことができたことはこの旅からもらった何よりものギフトでした。向抗日殉難烈士謝罪碑
(中帰連により、1988年建立)
旅の醍醐味は、自分が予想していなかったビックリに出会うことです。今回も各地のビックリや衝撃から、いくつか紹介したいと思います。
撫順
撫順でのビックリは、戦犯管理所の資料館(撫順戦犯管理所旧跡陳列館)で、やはり偽満洲国の戦犯として収容されていた愛新覚羅溥儀についての大きな特設コーナーがあったことでした。清朝の最後の皇帝から偽満洲国の傀儡皇帝となり、日本の敗戦とともにソ連の捕虜となり、日本戦犯と同様に新中国に引き渡され「改造」されました。何もできなかった溥儀が、靴紐を結ぶ、靴下を繕う、洗濯をするといった、基本的なことまでここで学んだと聞きクスっとしました。
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戦犯・溥儀が裁縫を学ぶ姿の再現 |
日本語で戦犯管理所の説明をしてくれた徐銘さん、横断幕とフルーツ、中国警察のテディベア(非売品!)までお土産で用意してくださった趙虎所長に感謝します。露天掘りや、「青草溝万人坑」があったという場所を案内してくださった、傳波教授と、若い歴史研究家の李想さんに出会うことができたのも光栄でした。
北票
さて、本題は万人坑です。撫順から4時間かかるバスの中で青木さんにみっちり講義を受けた上で北票に入りました(注:「万人坑」について詳しくはこちらを参照)。北票鉱工記念館に向かう参加者たち
現地で歓迎してくれた、北票鉱工記念館の劉鵬遠前館長と、パートナーの方(微信を交換しましたが、本名はわかりません)の笑顔が忘れられません。新築中の「台吉万人坑遺址」では、当初、中の写真は一切禁止ということで、私はそこにあった説明パネルを手書きで写そうと思いましたが、途中で突然撮影OKとなり、写真に収めることができました。グーグル画像翻訳によると、内容は:
人間の地下室型納骨堂
この納骨堂は実は肉塚墓で、全国の集団墓地でも前例のないものです。この納骨堂は1943年に建てられ、60平方メートルにも満たないこの土地に、亡くなった鉱夫たちの遺体240体以上が埋葬されました。日本帝国主義統治後期、中国侵略戦争の撤退とともに、日本帝国主義の本性はより露呈し、鉱夫たちはより非人道的に政治的迫害と経済的搾取を受けました。苦しむ鉱夫たちは囚人のようにあらゆる政治的権利を剥奪され、不満があれば政治犯、思想犯、容疑者などさまざまな罪に問われ、拷問を受けました。極度の生活苦のため、坑内では大事故が続発し、ますます多くの鉱夫が拷問を受けて死亡しました。歴史の記録によると、山東省武定県から捕らえられた500人の労働者のうち、1年足らずで生き残ったのはわずか12人でした。遺体の切断率は97%にも達しました。拷問の末に殺害された人々は、証拠隠滅のためこの谷で焼却されました。3つの大きな穴が掘られており、この穴もそのうちの一つです。骨の形態から判断すると、4人から6人が木製の檻に入れられていたようです。穴の深さは1メートルで、2層から5層に重なっていました。さらに腹立たしいのは、炭鉱で負傷したり病気になったりして、もはや石炭を掘ることができなくなった鉱夫たちも埋葬されていたことです。
あまりの残酷さに言葉も出ません。80年以上経った今、日本から私たちが来て、被害者の方々とガラスごしの対面をしているのです。何と声をかけたらいいのかもわかりませんでした。ただ、この人たちには親や子や姉妹兄弟や、愛する人がいたはずだ・・・その人たちがこの遺骨と対面したらどうでしょう。私の息子が強制動員され、知らないうちに故郷から遠く離れたこの地で虫けらのように使われ、使い物にならなくなってこんな風に捨てられていたとしたら・・・息子の顔が重なりました。これが自分の家族だったら、誰もが、土だらけの骨に頬ずりしながら泣き崩れるでしょう。しかし見渡すと、一人一人の人生に思いを馳せる気持ちの余裕もなくなってしまうほどの膨大の骨の量でした。この人たちはみな、青木さんが言う「侵略の本質」としての「資本家・企業家の金儲け」のために殺された人たちなのです。
阜新
阜新では、国家AAAA級の観光地と定められている万人坑の記憶施設の立派な施設「遺址陳列館」「抗暴青工遺骨館」「死難労工遺骨館」に目を見張りました。
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阜新万人坑死難鉱工紀念碑 |
歴史を忘れず、未来に立ちむかうことは、常に世界の人々の共通の願いであり、平和的発展は今の時代のテーマとなっている。中国人民は世界各国の人民とともに、中国人民の抗日戦争と世界反ファシズム戦争の勝利の成果を、最大の決意と努力をもって断固として守り、この屈辱の歴史を二度と繰り返さないように努力する。
今年、抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利80周年の年に、ファシズム側だった国の一員として、この言葉を深く胸に刻みます。
瀋陽
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瀋陽二戦盟軍戦俘営旧址陳列館 |
私はスケジュールの都合があって大連と旅順は行かず、瀋陽で離脱しました。瀋陽では万人坑の専門家、李ビン剛教授との交流の機会に感謝しています。青木さん、野津さんが長年中国に通い、築いた人脈と信頼の上に成り立っている旅に参加させていただいたことに心から感謝し、学んだことを書き語ることによって自分の役割を果たしたいと思います。
(転載以上)
ここには書ききれていないたくさんの経験についてはまた別の機会に記します。
撫順の奇蹟を受け継ぐ会 関西支部についてはこちらをご覧ください。
今回、旅程にあった大連と旅順には行けませんでしたが、2017年、南京大虐殺80年の訪中のときにこれらの場所を訪れています。以下の報告をよかったらご覧ください。
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