ドイツ、スイスに続き、ヨーロッパからまた「脱原発」の姿勢を明らかにした国が現れました。イタリアでは6月12日と13日に原子力発電再開についての国民投票が行われ、過半数を上回る57%の投票率で、原発反対票は94%を超えました。福島第一原発事故以降、原発の是非を問う国民投票が行われたのはイタリアが初めてということで、政府が脱原発を表明したドイツやスイスよりさらに意義深いものです。しかしイタリアは1986年のチェルノブイリ事故以後、1987年に国民投票によって当時4基稼働していた原発を90年までに停止したのです。チェルノブイリの悲惨な経験が「喉元を過ぎた」ような感覚でベルルスコーニ首相が原発再開を推進し、市民も福島第一の事故が起こるまではそれを容認していたとなると、一体世界全体の目が覚めるまでにいくつの悲惨な原発事故が必要なのだろうか、と疑問を抱きます。だからこそ、「フクシマ」の教訓は絶対に忘れず生かしていかなければいけません。
Yuki Tanaka |
今日は、広島平和研究所教授・田中利幸さん書き下ろしの記事を紹介します。1945年7月16日、日本への原爆投下を念頭においた世界初の核実験「トリニティテスト」から、広島長崎での実戦使用を経て、第二次大戦後、主に米ソ冷戦下において行われた、世界中の2千回を超える核実験は、非支配者、少数民族、弱者をはじめとして世界中に無数のヒバクシャを生んできました。それと同時に、アイゼンハワーによる「平和のための原子力」の名目の下に、米国は原子力発電を西側諸国における覇権拡大の道具として用い、日本もその流れに取りこまれました。スリーマイル島事故、チェルノブイリ事故を経ても世界の目が覚めなかった背景には、安全神話に包みこまれ、事故は全て「想定外」とされ、被害はもみ消されるという構造があり、「そのような無責任体制である核体制は、どのような形態のものであれ、存在させてはならないのである」、と田中さんは断言します。また66年間に渡る、核兵器と核エネルギーによる地球的被曝の連鎖を断ち切るために、今こそ世界中の核被害者が連帯し、原爆70周年の2015年に「核被害者世界大会」を広島で開催することを提唱しています。「唯一の被爆国」と自称してきた日本は、皮肉にもこの原発事故により、自国のみならず世界中に、前代未聞の規模の放射性物質をばらまく結果となりました。その日本が世界に対して果たせる役割が何か、この記事は多くを示唆していると思います。(PPC)
究極的に核関連事故では誰も責任をとらないのであるということを我々は肝に銘じておく必要がある。したがって、そのような無責任体制である核体制は、どのような形態のものであれ、存在させてはならない。
田中利幸(広島平和研究所 教授)
「我は死なり」科学者の叫び
原爆開発計画「マンハッタン・プロジェクト」を主導した物理学者、ジュリアス・オッペンハイマーは、晩年、無差別大量殺戮兵器である核兵器の開発に手を汚したことを悔いて、古代インドの聖典からの一節を引き、「我は死なり、世界の破壊者なり」と語った。このときオッペンハイマーの頭をよぎったのは、明らかに、1945年7月16日にニューメキシコ州のアラマゴードで行われた史上初の原爆実験「トリニティ」の、あの巨大な火の玉と地獄からわき上がるような地響きの記憶であったことは間違いない。悲壮な念いに打ち拉がれたこの老科学者には、おそらく、「世界の破壊」が単に核兵器の爆破によってだけではなく、核兵器製造の過程や、いわゆる「原子力平和利用」によってももたらされる恐れがあるなどとは夢想もしなかったであろう。原爆を生んだ原子物理科学技術が、冷戦時代に突入するや、主として政治的理由から商業用「核燃料サイクル」へと急速に応用され、核実験・核兵器製造と並んで環境汚染と人間破壊を地球的規模で押し進める二大要因になろうなどとは、1967年2月に他界したオッペンハイマーは考えなかったのではなかろうか。原爆開発以来この67年間、放射能の拡散に伴い、「我は死なり」というこの言葉もまた、不幸なことに、世界各地の無数の放射能の犠牲者へと拡散してきた。
核実験の被害者
アメリカは原爆投下の翌年6月、核兵器実験場を、連合軍占領下にあった日本の委任統治領であるマーシャル諸島ビキニ環礁へと移した。マーシャル諸島はその後間もなくアメリカ領となるが、ビキニ環礁のみならずエニウェトク環礁も実験場とされ、両方で1958年8月まで、6回の水爆実験を含む合計67回の核実験を行った。周知のように、1954年3月1日のビキニ環礁での水爆「ブラボー」(広島投下原爆の1千倍の威力)の実験では、大量の珊瑚礁が蒸発し核分裂生成物と混じり合って「死の灰」となり、それが想定外の方向に風に流され、周辺の環礁に広範囲に降下した。240キロメートルも離れたロンゲラップやアイリングナエ環礁にまで死の灰が降り、その結果、多くの島民たちが被爆した。激しい放射能汚染のため、まもなく島民女性の間に、流産、死産、異常妊娠、奇形児出産が相次ぎ、この実験の10年後からは甲状腺障害が続発した。第5福竜丸をはじめ、数百から数千隻といわれる数の日本の漁船が死の灰で被曝したのも、このときであった。さらに、高濃度の残留放射能のために、ロンゲリックに強制移住させられたビキニの島民たちは、今も故郷の島に戻れない状況にある。
1950年、中国が朝鮮戦争に参戦するや、第3次世界大戦勃発を米国は懸念。そのため、遠く離れた太平洋ではなく、実験準備のための物資輸送に要する時間や費用が少なくてすみ、比較的容易に実験のできるアメリカ本土での実験場が必要とされた。その結果、核兵器の研究・設計・製造を行っているロスアラモス研究所にも近い、ネバダ砂漠が選ばれた。米国はこのネバダ実験場で、1951年1月から実験を開始。その後、ここで9百回以上の実験が行われたのである。これらの実験でも放射能降下物が、風下となったネバダ州南部はもちろん、ユタ州南部、アリゾナ州北部に拡散し、多くの住民たちが被曝した。結果は、子供の白血病死亡率の急激な高まりと成人の間での癌発病率の高まりであった。
ネバダ実験ではまた、核爆発直後に爆心地近くに向けて多数の兵士を送り込むという演習を繰り返し行った。1951年11月の最初の演習「デザート・ロックI」では、5千2百人以上の兵士が爆心地から11キロメートル離れた地点で核爆発を観察。爆発後、そのうちの8百人ほどの戦闘部隊を爆心地からわずか450メートルしか離れていない地点まで前進させた。この種の演習が1970年代末まで繰り返し行われ、ネバダ実験場で行われた最大規模の大気圏内核爆発である、1977年2月の「スモーキー実験」では、第82空挺師団のヘリコプターによる移動演習で、兵士たちが500ミリレントゲン/時という放射能レベルの地点まで前進している。こうした演習に参加させられた、いわゆる「アトミック・ソルジャー」たちの間での白血病や癌による死亡率も極端に高い。
アメリカに対抗して、ソ連は、1949年8月29日、カザフスタンの北東に位置する都市セミパラチンスクから西へ100キロメートル離れた広大な土地で、最初の原爆実験を行った。このセミパラチンスク実験場はソ連最大の核実験場となり、その後の40年間で470回の実験がここで行われている。ソ連は複数の核実験場を西カザフ、ウラル、シベリア、ノバヤゼムリャなどに設置し、合計720回近くの実験を行ったので、セミパラチンスクにおける実験の数は、ソ連における総実験回数の65パーセントに当たる。セミパラチンスク実験では、1949年8月の第1回目の実験のときから、すでに住民に被曝被害が出ている。爆心地から50キロメートルの位置にある風下の人口1千5百人のドロン村に局地的に放射性降下物が落ち、空間線量率210レントゲン/時という驚くべき高放射能レベルに達したのにもかかわらず、住民に対しては避難措置をとるどころか、原爆実験が行われたことすら知らせなかったのである。
1953年8月に、ソ連は、セミパラチンスクで最初の水爆実験を行ったが、実験直前になって、風向きが想定外に急変して住民が避難している方向に風が吹き始めた。にもかかわらず、実験は中止されることなく予定通り行われ、その結果、1万2千人の住民が被曝した。これらの被害者を含め、470回行われたセミパラチンスクの核実験で、50万人以上の周辺住民が被曝したと言われている。さらには、ソ連もまたアメリカ同様に、「トーツク演習」に代表されるような大規模な核戦争軍事演習を行い、数多くの兵士たちを被曝させている。
核実験は、もちろん米露以外に、イギリス(クリスマス島、オーストラリア内陸部)、フランス(アルジェリア、仏領ポリネシア)、中国(ロプノール)、インド、パキスタンなどが行っており、地球上で行われた核実験の総数は2千回を超えている。これらの実験で拡散した放射能の地域と量を考慮するならば、地球全体が被曝しているのであり、したがって全人類が被害者であるとも言える。ただし、これら核保有国の実験に多かれ少なかれ共通して見られる性質が幾つかある。それは、多くの核実験場が、本国から遠く離れた植民地あるいは旧植民地におかれるか、国内の場合は主要都市から遠く離れた遠隔の未開発地域におかれるということである。したがって、実験によって発生する放射性降下物の被害者の多くが、そうした(旧)植民地の少数民族であり、国内の場合にも一国内における少数民族/部族、すなわち政治社会的「弱者」であるという事実である。ほとんどの核保有国が、核実験時に、多くの兵員を動員して実験に参加させたり、核戦争を想定した演習に参加させて被曝させているが、こうした兵員たちもまた、多くが低所得階層出身の最下級兵員、すなわち社会的「弱者」である。
ちなみに、核兵器製造に必要不可欠なウラン鉱山もまた、アメリカでは先住民ナバホ族やホピ族が居住するアメリカ南西部フォーコーナーズと呼ばれる地域、オーストラリアではアボリジニが居住する南オーストラリアや北部特別地域に代表されるように、少数民族の居住地や聖地が多い。そのため、鉱山採掘が始まると、彼らは、自分たちの土地を奪われて追い出され、アメリカの場合のように、安い労働力として劣悪な労働環境のなかで働かされて、結局は被曝者となるケースが多いのである。ウラン採掘においてもまた、核の被害者は社会的「弱者」なのである。
核兵器関連施設による放射能汚染の被害者
マンハッタン・プロジェクトのために設置された核兵器施設は、ワシントン州のハンフォード施設である。この施設は、老朽化したため1990年3月までに全ての設備が停止しているが、9基の核兵器用プルトニウム生産炉と5つの再処理工場で構成されていた。再処理工場が運転を開始したのは1944年であるが、すでにこのときから放射能汚染問題を起こしている。1944年にはヨウ素131が1,700キュリー環境放出され、原爆製造のために再処理が急ピッチで行われていた45年にはその量が34万キュリーにまで増加。その結果、周辺住民27万人のうち1万3千5百人が甲状腺被曝を受けたと言われている。さらに、1950年代までは、放射性廃棄物が地面に捨てられたり、地下貯蔵タンクに入れられていた高レベル廃液が漏れだして地下水を汚染するという問題が起きている。また、1960年代までは、施設内を流れているコロンビア川の水で生産炉を冷却し、汚染された水をそのまま川に排水するというずさんなことが平気で行われ、下流に住む住民7万人の多くに健康上の被害を与えている。
朝鮮戦争勃発の翌年の1951年3月、コロラド州の牧草地帯ロッキーフラッツに核兵器工場の建設が始まった。この核兵器開発工場は、当初は従業員1千名で稼働を開始したが、その数は60年代半ばには3千人にまで増え、最盛期には6千人が働き、最終的に5千発の核弾頭をここで生産したと言われている。ロッキーフラッツの運営もまたずさんで、当初、従業員は放射能に対する知識もほとんどなく、例えば、プルトニウム加工管理施設内のグローブボックスには被曝防止のための鉛が使われていなかった。そのため、グローブを通じて濃い灰色のプルトニウムの熱が伝わってくるという作業環境であった。その結果、多くの作業員が被曝し、脳腫瘍、白血病、大腸癌、乳癌などで亡くなっていった。放射能漏れは日常茶飯事で、重大な事故もたびたび起こしている。1969年5月には、グローブボックス内のプルトニウムが自然発火し、火災が発生。高レベルの放射能汚染のために、この事故処理には2年もかかっている。1994年5月には、解体工事が70億ドルかけて始められた。当初は、跡地は野生保護区となる予定であったが、放射能汚染の広がりが予想以上にひどい状態であることが判明。とりわけ、配管を通して排出された放射性廃棄物が土壌や水脈を汚染しており、結局、解体工事は実質的には「壊して埋めただけ」という形になり、そのためロッキーフラッツ跡地は現在も立ち入り禁止区域になっている。また、この核兵器工場では、プルトニウムが1トン以上も紛失したという放射性物質管理上の問題も指摘されている。
ソ連は核兵器製造・開発のための秘密閉鎖都市を10市建設したといわれている。核兵器の製造には大量の水が必要なことから、どの秘密都市建設地も、大きな河川に沿った、しかも輸送に便利な鉄道・道路と大都市に近い場所が選ばれている。これらの秘密都市は、ソ連最大の核実験場に隣接したセミパラチンスク21だけを除いて、あとは全てロシア国内に建設された。しかもその半分の5都市がウラル南東部に集中している。その中で最も需要な都市がチェリャビンスク65であり、ここには「マヤーク」呼ばれるプルトニウム生産のための工業コンビナートがある。1949年から52年の間に、このマヤーク工業コンビナートでは、使用済燃料を再処理したあとに残る300万キュリーという超高レベル廃液を、テチャ川に垂れ流しにしていた。その結果、テチャ川ならびにその下流のイセチ川流域の住民12万4千人あまりが被曝した。現在もこのテチャ川両岸は放射能のため立ち入り禁止になっている。
1957年9月29日、このマヤーク工業コンビナートの高レベル廃液の地上貯蔵用コンクリート・タンクの冷却システムの一つが故障し、タンクが爆発した。その結果、合計2千万キュリーの放射性物質が環境に放出され、そのうちの1千8百万キュリーは周辺に落下、残りの2百万キュリーが風に流され、なんと1千キロメートルも離れたところまで飛んでいったのである。結局、1万5千平方キロメートルという広い地域が封鎖され、1万人以上が1年半にわたって強制移住させられたが、この地域内の松や杉の木はほぼすべてが枯れてしまった。その上、約30万人が高レベルの被曝をしたと言われている。これが、「ウラルの核惨事」と呼ばれる事故の概要である。
1993年1月にロシア政府が、ようやくマヤーク工業コンビナートがもたらした放射能汚染の実態を公表した。それによると、コンビナート周辺に堆積している放射性廃棄物の総放射能量は、なんと10億キュリー以上、周辺住民45万人が被曝し、そのうち高レベル被曝者が5万人という驚愕すべき数字となっている。ちなみに、ソ連は大量の放射性廃棄物の海洋投棄を、日本海、オホーツク海、太平洋カムチャツカ半島東海岸、バレンツ海で行っていたが、ソ連崩壊後もロシア政府はこれを続行していたことが、1993年4月2日の朝日新聞で報じられた。
1957年10月10日早朝、イギリス北西部、ウィンズスケール(現在の地名は「セラフィールド」)のイギリス原子力公社の核兵器用プルトニウム生産を目的とする軍用炉の核燃料が損傷。翌朝、炉心に大量の水を注入する非常手段で、なんとか事故の拡大を食い止めた。しかし、排気筒のガラスフィルターを通して、損傷した核燃料から大量の放射性希ガスが放出されてしまった。この事故で、イギリス南部からヨーロッパ大陸北部までの広範囲にわたる地域が、放出されたヨウ素131によって汚染された。総面積518平方キロメートルという広大な牧草地が汚染地域に含まれていたため、牛乳の出荷が1ヶ月以上禁止された。住民の対外被曝線量は、地表面の放射濃度が一番大きかった地域で300〜500マイクロシーベルトであったと推定されている。
以上、アメリカ、旧ソ連、英国の核兵器関連施設による放射能汚染の例は、数多くのケースのほんの数例にしか過ぎない。最近は、その上に、劣化ウラン兵器製造関連施設からの放射能拡散の問題が多く報告されている。したがって、核兵器関連施設から放出された放射能で被曝した市民の絶対数は、核実験の被害者数を超えるくらい膨大な数にのぼっているし、環境破壊も通常考えられているよりはるかに深刻な状況である。これらのケースに共通に見られる問題の一つは、あまりにも「ずさんな放射能管理」という実態である。放射能は目に見えず匂いもしないという性質のため、その取り扱いによほど注意しないと危険であることは明らかであるが、そうした性質のゆえにこそ、放射性物質を毎日取り扱っていることからくる「慣れ」ゆえに、どうしてもずさんになりがちなのかもしれない。
原発事故が引き起こす被曝問題
「原子力平和利用」の発端は、周知のように、1953年末に米国大統領アイゼンハワーが国連演説で表明した“Atoms for Peace”である。しかし、この政策で米国政府が真に目指したものは、同年8月に水爆実験に成功したソ連を牽制すると同時に、西側同盟諸国に核燃料と核エネルギー技術を提供することで各国を米国政府と資本の支配下に深く取込むことにあった。アメリカのこの政策のターゲットの一つにされた日本も、1960年代以降、とりわけ70年代に入ってから猛烈に原発推進政策を加速させ、現在に至っている。ソ連もまた、アメリカに対抗するため、自国内での原発建設を推進するだけではなく、東欧諸国における原発設置に積極的に取り組んだ。
原発の炉心溶解(メルトダウン)による大事故が起きる危険性は、早い時期から懸念されていた。それが実際に商業用発電炉で、世界で初めて起きたのが、1979年3月28日にアメリカのペンシルバニア州スリーマイル島の原子力発電所2号炉で起きた大事故である。
この2号炉は、事故が起きる3ヶ月前に運転を開始したばかりの、当時としては最新鋭の加圧水型軽水減速冷却炉(PWR)であった。事故の原因は、給水ポンプや圧力逃し弁の故障と技術者による誤操作が次々と重なり、連鎖的・複合的に事故を拡大してしまい、結局は炉心溶解を引き起こしてしまったのである。最終的に判明したことは、炉心の45パーセント、62トンが溶解し、そのうちの約20トンが炉心周辺の内槽を溶解・貫通して底部にたまり、これが1千2百度以上の高温で底部を加熱したということである。幸運にも原子炉内に冷却水が残っていたので、原子炉容器の貫通は免れた。この事故が起きる前には、「原発では事故発生や拡大を防ぐ安全装置が何重にも取り付けられているので安全である」というのが電力会社側の説明であった。しかしながら、実際には、そうした安全装置が機能しなかったのである。このスリーマイル島での大事故にもかかわらず、日本の電力産業界は「原発安全神話」の宣伝をさらに強化・拡大していき、様々な事故を隠蔽し続けて、今回の福島第1原発での大事故を引き起こしてしまった。
事故当時の周辺地域の人口は、半径8キロメートル以内に2万6千人、16キロメートル以内に14万人。避難勧告は30日なってようやく、半径8キロメートル以内の妊婦と幼児を対象に出された。結局この事故で大気中に放出された放射性物質は、放射性希ガスが大半で250万キュリー、ヨウ素131が17キュリー、住民の体外被曝線量は、1ミリシーベルトと報告されている。幸いにして格納容器が破壊されなかったため、環境に放出された放射性物質は比較的少なかった。したがって、人体への影響は極めて少ないと言われているが、地元の住民の中には、その後数年にわたって草花などに起きた異常現象や子供の白血病のケースの増加が起きたことを訴える人たちがいる。
このスリーマイル島での大事故から7年後の1986年4月26日、当時ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で、炉心溶解が起きて格納容器が破壊され、原子炉上部の構造物や原子炉建屋も爆発によって大きく破壊されるという大規模事故が起きた。もともとチェルノブイリの原子炉には、炉心特性の面や制御棒に欠陥があった。その上に、安全性が確認されていない危険な実験が、実験炉ではなく、いきなり実用機で計画され実行されるという無謀な行為、すなわち運転管理上の不備のために事故がおきた。ソ連政府が後に出した『事故報告書』によると、1986年5月6日の段階で、放射性希ガスとその他の放射性物質がそれぞれ5千万キュリー、合計で1億キュリーという評価になっている。事故から10日以上もたった5月6日では、短半減期の放射性物質は実際に放出された量よりもかなり少なくなる。したがって、これはソ連政府が事故をできるだけ小さく見せるために、意図的に事故当日ではなく5月6日を評定日に選んだものと推測されるのである。多くの専門家の意見によれば、実際に放出された放射能は合計で3億キュリーほどであったと考えられる。
『事故報告書』によると、半径30キロメートル以内に居住する全住民13万5千人が強制移転させられたが、これらの人たちの1人当たりの平均体外被曝線量は120ミリシーベルトとなっている。原発から北東へ向かって約350キロメートルの範囲内にはホットスポットと呼ばれる局地的な高濃度汚染地域が約100カ所にわたって点在するが、これらの地域では、農業の無期限停止措置および住民の移転を推進する措置が取られ、その結果としてさらに数十万人がホットスポットの外へ移転した。現在も、ホットスポット内においては農業や畜産業が全面的に禁止されている。また、事故処理に従事した者は軍人を中心に86万人にいたが、5万5千人がこれまでに死亡した。ウクライナ国内(人口約5千万人)の国内被曝者総数は343万人と言われており、周辺住民の幼児・小児などの甲状腺癌の発生も異常に高い。放出された放射性物質はベロルシア共和国、ウクライナ共和国、ロシア連邦共和国ブリャンスク州に降下し、土地を汚染。しかし現在も、数百万人の人々がこうした汚染区域に住み続けているのである。
今年3月11日、マグニチュード9という巨大地震が東日本全域を襲い、地震に引き続いて大規模な津波がおしよせ、風光明媚な東北地方の海岸を完全に破壊した。さらに、この地震と津波で福島第1原発が大きく破損し、その結果、6つある原子炉のうち1、2、3、号炉の核燃料が溶解を起こし、圧力容器の底に穴があき、原子炉格納容器も破損したものと考えられる。さらに、1、3、4号機の建屋は水素爆発を起こして大破した。ベント、水素爆発、圧力抑制プールの爆発、冷却水漏れなどにより、高い放射能レベルの放射性物質が放出し、現在もこの原発から出る大量の放射能が、周辺の空気、土地、海を汚染し続けている。日が経つごとに、かつてなかった規模と性格の原発事故災害の厳しい現実はますます深刻化しており、これにより、放射能に関連した様々な問題が浮き彫りになってきている。事故に対する自分たちの責任逃れを行うために、東京電力や原子力安全委員会のスタッフは、地震と津波による原発事故は「想定外」だったと繰り返し述べた。収束までにはまだまだ時間がかかるため、最終的にどれほどの量の放射能が放出し、どのような深刻な人体への影響と環境破壊をもたらすのかは、現在のところ未知数としか言いようがない。
核兵器と原発にノーを!
こうして核実験、核兵器関連施設での事故、原発事故の実相を概観してみると、次のような共通点が浮かび上がってくる。
第一に、これら核関連の事故が、しばしば「想定外の事態」によって引き起こされているということである。なぜ核関連事故では「想定外」という言葉がこれほどしばしば使われるのであろうか。それは、様々な客観的条件をよく考えてみれば、実際には十分起こりうる事態であるにもかかわらず、現在の当事者にとって極めて「都合の悪い想定事態」であるがために、「起こりえない」という「想定」にしてしまうことに原因があるからである。したがって、「都合の悪い想定事態」が実際に起きたときには、「想定外であった」と責任逃れをするのである。いったん核事故が起きれば、その結果はあまりにも重大であるが、重大であるからこそ「責任逃れ」の道を前もって準備しておきたいという心理的作用が、無意識のうちに働いているのかもしれない。すなわち、ここでは「想定外」とは「無責任」を意味しており、究極的に核関連事故では誰も責任をとらないのであるということを我々は肝に銘じておく必要がある。したがって、そのような無責任体制である核体制は、どのような形態のものであれ、存在させてはならないのである。
それでは、なぜ核を取り扱う当事者たちが「無責任」にならざるをえないのか。その大きな理由の一つは、いったん事故が起きたならば、被害者の数が極端に多く、数万あるいは数十万、数百万単位という数字の一般市民が、長期にわたって被曝するという状況を作り出すため、どのような個人あるいは組織、国家にとってさえも、その責任があまりにも過大であるために他ならない。
かつて、プリモ・レーヴィがドイツの格言を引いて、「その存在が道徳的に不可能であるように思われる物事は、存在することができない」と述べたように、核加害の当事者にとって、数十万、数百万という数の人間を殺傷するような「道徳的に不可能な」行為は、「存在することができない」ので、そのようなことが「存在する」可能性は「想定外」にしてしまい、責任回避を前もってしておいてしまうのである。
「原発安全神話」は、したがって、まさに、このような無責任体制の上に打立てられた幻想にしかすぎない。同様に「核抑止力」も、「核兵器を保有することで敵の攻撃を抑止する」という保証の全くない仮定に依存する思考であり、「攻撃がありうる」ことを「想定外」にしているにしか過ぎない「神話」なのである。
1945年8月6日の朝、広島に原爆が投下され、たちまちにして7万人から8万人の市民が無差別に大量虐殺され、その年末までに14万人が主として放射能の影響で亡くなったことは周知のことである。長崎では、原爆投下で7万人が殺害された。それ以降も、多くの人々が、生涯にわたって爆風、火傷、放射能による様々な病気に苦しみ、亡くなっていった。しかも今なお苦しんでいる被爆者、いつ癌やその他の致命的な病に冒されるか分からないという恐怖に怯えて生活している被爆者たちがいる。しかし、原爆投下を行った米国政府は、今もその責任を認めようとはしない。
原爆が無数の市民を無差別に殺戮したのと同じように、核実験ならびに核兵器関連施設や原発での事故も、放射能汚染の結果、予想もつかないほどの多くの人たちをして、無差別に病気を誘発させ死亡させることになる恐れがあることは、すでに論じた通りである。しかも、放射能の危険に最もさらされるのは、乳幼児、子供と妊婦という市民社会における弱者である。しかし、これまでの様々な核被害のケースを調べてみれば分かるように、ほとんどの被害者たちが、国家や企業の責任を追求できないまま、泣き寝入りの状況におかれている。
核兵器使用は明らかに「人道に対する罪」である。「人道に対する罪」とは、「一般住民に対しておこなわれる殺人、殲滅、奴隷化、強制移送、拷問、強姦、政治的・宗教的理由による迫害」などの行為をさすものであり、核攻撃は、そのうちの「一般住民に対しておこなわれる殺人、殲滅」に当たる。核実験ならびに核兵器関連施設や原発での事故は、核兵器攻撃と同じく、放射能による「無差別大量殺傷行為」となりうるものであり、したがって「非意図的に犯された人道に対する罪」と称すべき性質のものである。「人道に対する罪」が、戦争や武力紛争の際にのみ行われる犯罪行為であるという既存の認識は、ウラルの核惨事、チェルノブイリや福島での原発事故が人間を含むあらゆる生物と自然環境に及ぼす破滅的影響を考えるなら、徹底的に改められなければならない。
残念ながら、これまで日本の、とりわけ広島の反核運動は、ほとんど反核兵器運動にのみ焦点が当てられ、「ノーモア・ヒバクシャ」というスローガンにもかかわらず、原爆と一部の核実験の被害者を除き、無数のヒバクシャに対してはほとんど無関心の状態であった。我々は、このような反核運動の弱点を徹底的、批判的に検討する必要がある。そのような真摯な反省の上に立って、今後、反核兵器運動と反核エネルギー運動の統合・強化をいかに推進し、人間相互の関係ならびに人間と自然との関係が平和的で調和的な社会をいかに構築すべきかについて、広く議論をすすめていくことが今こそ求められている。
反核兵器運動と反核エネルギー運動の統合・強化のための一つの有効な手段として、私は、原爆投下70周年にあたる2015年に、「核被害者世界大会」を広島で開催することを提唱したい。そのような大会は、全ての核被害に注目し、原爆被害者とその他の核被害者との連帯を作り出し、あらゆる形態の核兵器ならびに核エネルギーを廃絶する運動を世界的規模で引き起こすための、絶好の機会となるはずである。
− 完 —
このサイトの過去の田中利幸さんによる記事は、こちらのリンクをご覧ください。
本当に「一体世界全体の目が覚めるまでにいくつもの悲惨な原発事故が必要なのだろうか」と言いたくなります。でも、考えてみると、何度悲惨な事故を経験しても「こりない」人たちがいるんでしょうね。ミヒャエル・エンデが書いた『ハーメルンの死の舞踏』を思い出します。
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