2023年9月30日那覇市で開催された「朝鮮戦争から考える沖縄と東アジアの平和 休戦協定から平和協定へ」シンポジウムでの発表原稿を加筆修正したものを共有します。この少し短いバージョンが、東アジア共同体琉球沖縄研究会の次号の紀要に掲載される予定です。参考資料やソースはハイパーリンクで示しています。この投稿は許可なしに転載はしないでください。(リンクの拡散は歓迎です!)
朝鮮と沖縄―脱植民地化の地平
「鮮やかな朝の国」(2019年8月17日 平壌・大同江のほとりで 撮影:乗松聡子) |
2019年8 月、在日朝鮮人の友人二人と沖縄の友人と、4 人のグループで朝鮮を一緒に訪問しました。朝鮮に行ってガイドさんからまず教えてもらったことは、朝鮮とは「鮮やかな朝の国」ということでした。そしてそれは6日間の訪問後出発する朝に立ち寄った大同江のほとりで再確認することができました。(上写真)
まずおことわりですが、私は朝鮮半島に現在二つある政府とその市民をリスペクトしています。朝鮮民主主義人民共和国は「朝鮮」、大韓民国は「韓国」と短縮します。「朝鮮」の呼び方は彼の国が求めている短縮の仕方であり、日本のメディアや多くの人たちが使う「北朝鮮」という呼び方は、朝鮮を国として認めず差別的な扱いをしている呼称であり朝鮮自身、また当事者の多くが抗議・拒絶しています。だから私は使いません。また当然ながら、分断前の出来事について語るとき、「朝鮮」は全体を指します。
9月こそ大事
きょうは9月30日です。よく「8月ジャーナリズム」と言われますが、日本の人たちは、戦争記憶において、8月6,9日の原爆投下の日、15日の、天皇ヒロヒトがラジオで降伏を通知した日を中心にさまざまな企画があり、その日が過ぎると忘れてしまう年中行事になっています。これは、日本で起こった戦争被害だけを記憶し、大日本帝国の70年の植民地主義と帝国主義が、沖縄、朝鮮、中国をはじめアジア太平洋全域で2千万人かそれ以上という人の命を奪ったという事実に向き合わない仕組みと思います。また、植民地支配ゆえに日本には朝鮮の人たちが240万人ほどいて、東京大空襲や広島・長崎の原爆でもおよそ1割の被害者は朝鮮人だったのですが、この方たちに思いを馳せる声は限定的です。大日本帝国はその1942年のピーク時には現在の日本の20倍以上の面積と当時の全世界人口の2割にもまたがる大帝国でした。戦争を日本国内だけで振り返るということがいかに自己中心的で無責任なことかということがここからもわかるかと思います。
私は9月にこそ戦争を批判的に振り返る貴重な記念日が詰まっていると思います。今年の9月1日は関東大震災100周年でした。震災後、政府や警察や軍隊が、「朝鮮人が暴動や放火を起こしている」といったデマを流し、戦争でも内乱でもなかったのに戒厳令が敷かれ、新聞もデマに乗り、関東各地で軍隊、警察、民間人で作った自警団などにより約6700人かそれ以上といわれる朝鮮人、800人にも及ぶといわれる中国人、日本人の社会主義者などが虐殺されました。「検見川事件」では沖縄の人も殺されました。
9月2日は東京湾で、戦艦ミズーリ艦上で日本が連合国相手に降伏文書に調印した敗戦の日です。日本の天皇と政府の代理として重光葵外相が、日本軍大本営代表として梅津美治郎参謀総長が署名しました。連合国側は米国のマッカーサー元帥をはじめ、中華民国、英国、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド代表が署名しました。日本人は今も降伏の対象は米国だけと思い、中国に負けたとは思っていない人が多いようですが、この場面を見れば目が覚めるのではないでしょうか。
日本の植民地にされていた朝鮮はここには登場しませんが実は別の形で存在していました。重光外相が杖をつきながら甲板を歩く姿が印象的ですが、彼は1932年上海で、朝鮮の独立運動家尹奉吉が実行犯であった「上海天長節爆弾事件」で襲撃された日本の要人の一人です。伊藤博文を暗殺した安重根と同様、尹奉吉は朝鮮独立運動の英雄です。重光はこの事件で右足を失い、ミズーリ号上では義足での歩行でした。この様子が、大日本帝国崩壊の場において、残酷な植民地支配に抵抗し続けた朝鮮人の役割を象徴していたように見えます。
翌日の9月3日は、中国では「抗日戦争勝利記念日」として、ロシアでは、「軍国主義日本への勝利と第二次対戦終結の日」として記念します。このような催しを日本では報道しても、どれだけ「反日」的かという視点しかないのです。米国でも対日戦勝を「VJデイ(ビクトリー・オーバー・ジャパンデイ)」として祝いますが、日本メディアはそれを「反日」とは呼ぶことは決してないことからも、日本の戦争記憶は「良い戦勝国」と「悪い戦勝国」に分けるような冷戦的構造を持つことがわかります。日本は原爆投下により降伏したという歴史観が日米に広がっていますが、実はソ連侵攻により日本の共産化を恐れたヒロヒトが米国に対してあわてて降参したのです。
9月7日は、沖縄戦の降伏調印式があった日です。沖縄では6月23日が「慰霊の日」となっていますが、その日は日本軍の司令官が自殺し指揮系統が消滅した、言い換えれば責任を放り投げた日であり、その後も久米島虐殺事件のような皇軍敗残兵による住民への加害がありました。
さる8月20日、元社大党県議の瑞慶覧長方さんが亡くなりました。瑞慶覧さんは沖縄戦を語るとき、琉球人はもともと日本の天皇とは関係なかったのに「天皇の子孫としてでっちあげた」のが皇民化教育だったと強調していました。この「でっちあげた」という言葉は、植民者である日本人の私に突きつけられた言葉と感じました。同じ皇民化教育でも植民地支配された地域でのそれは強制同化であり、日本人にとってのそれとは次元が違います。朝鮮についてももちろん同様です。
9月18日は日本人が決して忘れてはならない、アジア太平洋戦争の発端となった1931年の満州侵攻の日です。中国では「9.18」といって知らぬ人はいない日ですが、日本ではこの日に立ち止まり頭を垂れる人はどれぐらいいるでしょうか。
このように、9月にこそ帝国の加害を振り返る重要な記念日が散りばめられています。私は9月全体を、日本人が「もう二度と植民地支配も侵略戦争もしません」と誓う、非戦月間にするべきと思っています。それは同時に、沖縄、朝鮮、中国など日本が侵略し支配した国や民族に対する謝罪の思いを新たにすべきときでもあります。このような戦争の記憶をすれば、再び軍備増強して戦争しようなどとは思わないでしょう。歴史否定と戦争準備・遂行は同じコインの裏表です。
帝国:虐殺の連鎖
「誰に責任があるのか。」日本の戦争記憶ではしばしそれを忘れさせようという力がはたらきます。先に言った関東大震災時の大虐殺も、「集団心理」といったキーワードで語られることがありますが、これは政府、軍、警察が主導して流したデマに、もともと差別意識があった民衆が乗っかりエスカレートした官民一体の「ジェノサイド」でした(前田朗東京造形大学名誉教授の研究参照)。これは歴史の中で例外的な出来事ではなく、日本による朝鮮侵略・植民地支配の歴史の中で朝鮮の民衆を弾圧・虐殺する事件がたくさん起こった中で起こったのです(故・姜徳相元一橋大学教授、慎蒼宇法政大学教授の研究を参照)。
たとえば日清戦争は帝国日本初の本格的侵略戦争でしたが、その中で侵略勢力に対して立ち上がった東学農民の蜂起に対し、日本軍は圧倒的な力の差で弾圧し、3万から5万の民衆が殺されました。この戦争では旅順大虐殺という、後の南京大虐殺のやり方とよく似ている残虐な方法で2万にも及ぶ中国人が殺されています。英米の支援を受けた日露戦争では日本が勝ち、1905年には日本は朝鮮の外交権を奪い保護国化しますが、それに抵抗する抗日義兵の闘いでは、1万8千人ほどが殺されたと言われています。関東大震災のわずか4年前の1919年には「3.1独立運動」が朝鮮全土に広がり200万人が参加、朝鮮総督府による武力鎮圧で7500人もの民衆が殺されました。1920
年には間島虐殺といって、国境を超えて満州まで広がっていた朝鮮独立運動の激しい弾圧で何千人もの民衆が殺されました。
関東大震災虐殺時に使われた「不逞鮮人」という言葉は、こういった独立運動弾圧の中ですでに使われていたのです。慎蒼宇教授の研究によると、これらの虐殺と関東大震災虐殺を指導した人間たちは見事に重なっています。たとえば大震災時の内務大臣として戒厳令を敷いた水野錬太郎は3.1独立運動の1919年時は朝鮮総督府政務総監でした。震災時災害救援よりも暴動鎮圧を優先し「戒厳令施行」を強く主張した警視総監の赤池濃は朝鮮総督府警務総監でした。虐殺を実行した自警団の中には大陸での朝鮮人弾圧に加わった者たちもいたのです。
慎蒼宇教授は、これら朝鮮での日本軍の軍事行動と朝鮮人の抵抗を「植民地戦争」と捉えています。このような圧倒的な力の差の中での闘いを、いくらたくさんの血が流れても「戦争」と捉えず、「平時」における「反乱鎮圧」という理解になってしまう。それは侵略者の見方であって、抵抗する方は、国を差し出したつもりもなく、朝鮮併合はそもそも違法であったという主張があります。近年の「徴用工」問題の韓国の大法院の判決は「不法な植民地支配」を明確に掲げていました。だからそれを絶対に認めたくない安倍晋三政権は、三権分立をかなぐり捨てて政治介入したのです。この「植民地戦争」という概念を学んだとき、自分は植民地支配を批判しながらも、どこかでそれを既成事実として認めてしまい、支配者側の見方になっていたのではないかと気づきました。沖縄についても同様の思いを持っています。
植民地暴力の可視化
もちろん「戦争」はいかなるときも避けるべきであることは当然です。しかしこの「植民地戦争」の概念は、植民地という、国家主義の中で隠されがちな暴力とそれへの抵抗を世界に可視化する力を持っています。沖縄で起こった皇太子訪問時の火炎瓶事件、コザ蜂起、大集会や座り込みなどの数々の抵抗運動も、国内ではなく国際的な意義を帯びてきます。パレスチナの権利侵害に長年取り組んでいる国際法学者のリチャード・フォーク氏は2016年8月22日に琉球新報に寄稿した記事でこう述べています。
沖縄の人々の窮状は、その小ささのために、また日本という主権国家に埋もれているために、さらにその地政学的位置づけのために、20世紀後半に成功が続いた世界中の脱植民地化の流れに含まれなかった(中略)この痛ましい運命は、ポストコロニアル時代下の「コロニー」であることに起因している。約140万人という人口の少なさが、日本主権国家の中に閉じ込められていることと米国のアジアでの利益追求と日本との共同運営において担う役割と相まって、沖縄は軍事化された世界秩序の人質とされている。その世界秩序は、両国際人権規約の共通第一条に規定される、“すべての人民が有する不可分の自決権”を拒絶する。(中略)・・行動するということは、沖縄のように、死をともなう虐待事件が起こったとき以外は世界が目に見えないものとして扱うような不正義の数々に注目していくことなのである。
パレスチナと重ねているのでしょう。フォーク氏は、国家主義と地政学の「二重のじゅうたんの下に隠されてしまっている」「コロニー」を見えるようにしていくことこそ「植民地主義的統治の被害者たちの解放」、つまり脱植民地化の道であると説いています。私は朝鮮に対するのと同様に、日本人として、日本と米国による沖縄に対する植民地支配と侵略を既成事実として受け入れない意識的な言語構築が必要と思いました。
私の住むカナダでも同様に、先住民族を植民地支配した歴史を根本的に振り返り、先住民族の土地を「無主の地」として侵略を許した15世紀のローマ教皇の「発見のドクトリン」をカトリック教会自身に否定させるところまで議論が進んでいます。「カナダ」という国の成り立ち自体を揺るがす議論ですが、それなくしてはカナダの脱植民地化の地平を切り開くことはできないでしょう。米国も同様です。
500年の植民地主義
このように西洋の植民地主義は500年遡るものです。2007年、当時の朝鮮の金正日国防委員長と韓国の盧武鉉大統領が南北首脳会談を行い、「南北は現在の停戦体制を終息させ、恒久的な平和体制構築に向かっていくべき」と言いました。これをうけて、言語学者のノーム・チョムスキー氏は「朝鮮半島の状況進展は、世界全般に対する500年にわたる西洋帝国主義支配から植民地被支配国家がいよいよ真の意味での統合と独立の一歩を踏み出している、という地球史的意義を有する」と評価しました。
「5世紀にわたる帝国主義」には日本も加わりました。琉球/沖縄と朝鮮は双方日本の帝国主義の被害に遭ってきました。古くは、16世紀末、豊臣秀吉の朝鮮・大陸侵略のために琉球から軍役や物資の供給を強要し、明朝との冊封・進貢関係にあった琉球は容易には従わず、それが薩摩による侵攻につながりました。日本による朝鮮と琉球の侵略は同時期にこのように関連する形で起きました。そして3世紀後、近代化した日本は再び琉球、そして朝鮮と大陸に牙を向けます。明治日本の初の海外武力行使は、宮古島漁船遭難事件(1871)がきっかけになった台湾出兵(1874)でした。朝鮮への武力侵略が始まったのは翌年の江華島事件(1875)でした。日本は琉球にも朝鮮にも段階を踏んだ植民地化を進め、琉球は1879年、朝鮮は1910年に強制併合してしまいました。欧米列強が世界中で行ったことを見倣うかのように日本もその国を奪い、同化教育を行い、言葉を奪い、名前を奪い、資源や文化財を略奪し、強制動員を行いました。
沖縄戦は、島ぐるみの動員で搾取するだけして最後は「捨て石」とする、植民地主義の権化のような闘いでした。住民の3人か4人に一人が亡くなり、現在生きる沖縄人も、家族や先祖を戦争で殺されたり傷つけられたりしていない人はまずいないでしょう。朝鮮半島では、日本軍「慰安婦」を含めると800万人以上が強制動員されました。日本に動員された朝鮮人は100万人とも言われていますが、忘れてはいけないのは朝鮮内の動員や、中国、樺太、東南アジアなど広範囲にわたっての動員です。私は釜山の国立強制動員歴史館に行ったときに痛感しました。とくに動員されたがゆえにシベリア抑留されたり、BC級戦犯とされたり、広島・長崎の原爆に遭うという二重の被害にさらされた人たちの存在には言葉を失いました。沖縄と同様、現在生きる朝鮮人も韓国人も、在日朝鮮・韓国人も、家族や祖先に、植民地支配の中で動員されたり殺されたりの被害に遭った人がいないという人はいないでしょう。
朝鮮戦争:虐殺は終わらなかった
朝鮮における植民地主義的な「虐殺」は、1945年の「解放」によって終わることはありませんでした。
日本敗戦時、沖縄は米軍に占領され、サンフランシスコ条約においても日本から切り離され1972年まで米国の支配が続き、その後は「返還」されてもその基地は残り日米安保体制に組み込まれたことは周知の通りです。朝鮮については、『朝鮮戦争の起源』という大著を書いたシカゴ大学のブルース・カミングス教授は2017年「ロンドン・レビュー・オブ・ブックス」に寄稿した記事で「米国の朝鮮半島への関与は第二次世界大戦の終盤に始まった」と綴っています。このとき米国が恐れていたのは、「朝鮮半島北部に進入しつつあったソビエト兵が、中国東北部で日本と戦っていた3万人に上る朝鮮人抗日パルチザンを連れてくること」でした。朝鮮半島に強い影響力を確保したかった米国は、「長崎が完全に破壊された翌日」つまり8月10日に、米国陸軍省のジョン・J・マクロイと国務省のディーン・ラスクらが、38度線での分割を決め、「3週間後には2万5千人のアメリカ戦闘部隊が朝鮮半島南部に入り」軍政を敷いたと。カミングス教授は、朝鮮戦争が「1950年6月25日に始まった」という枠組み自体が間違っていると言います。実際は1945年だったと。
米国は3年の占領の間に朴正熙、金載圭など多くの親日派を雇い入れました。1948年に大韓民国、そして朝鮮民主主義人民共和国が別々に成立します。カミングス教授は、「韓国の度重なる朝鮮への侵入の後、1950年6月25日に全面的な内戦が勃発したのも驚くには当たらなかった」と言っています。日本や米国では、戦争はソ連や中国の承認を受けた朝鮮による6月25日の急襲によって始まったということですが、それまでに何が起こっていたかを完全に無視した理解です。1949年5月から50年の1月まで38度線付近で起こった戦闘のほとんどは南側が始めたものでした。済州島「4.3事件」に象徴されるように、すでに南側では、左翼や共産主義と疑われた人たちが何十万も拘束されたり殺されたりしていました。
「植民地戦争」の概念と通じますが、「朝鮮戦争」に直結したこれらの殺戮は「戦争」ではないのでしょうか。カミングス教授は、「大虐殺の加害者の多くは、かつて日本のために手を汚し、その後アメリカによって復権した人々だった」と言いました。植民地時代に日本に協力した朝鮮人、つまり親日派が米国に利用され弾圧・虐殺を担ったという意味です。ここに、朝鮮半島の分断と朝鮮戦争に対する日本の歴史的責任が凝縮されていると思います。朝鮮戦争前夜、南側で統一と独立を求めていた人たちはこれら韓国の親日派と米国に殺され続けていたのです。『朝鮮戦争全史』を著した和田春樹東大名誉教授が言うには、朝鮮戦争は、朝鮮に中国が加勢した中朝連合軍と、米国が率いる、韓国軍を組み込んだ「国連軍」が戦う、「最終的には米中戦争」となった形で停戦を迎えました。南北とも統一の試みは果たせませんでした。
日本の参戦と責任
朝鮮戦争で、米軍が率いる国連軍は朝鮮に対し徹底的な絨毯爆撃を行いました。大都市だけではなく町や村までも、もう爆撃する標的がなくなるまでやりました。その出撃基地は嘉手納基地と横田基地でした。朝鮮戦争で日本の再軍備が進み、米国も軍事需要が飛躍的に伸びました。ジャーナリストの五味洋治氏は、朝鮮戦争で自衛隊の前進の発足、米軍基地の強化、米国の戦争への協力体制など、その後の「日本のあり方が決まった」と言っています(7月23日新時代ピースアカデミー講座)。米軍基地問題と朝鮮戦争は切っても切り離せない関係です。
今年6月出た本『朝鮮戦争 無差別爆撃の出撃基地・日本』で歴史学者の林博史氏は、日本の朝鮮戦争での役割について、
軍需物資の生産供給、輸送、修理などの提供、日本での軍病院の設置と看護婦の徴用、朝鮮半島沖合における海上保安庁による機雷掃海作業、軍需物資の日本―朝鮮間の海上輸送、船員・港湾荷役者の派遣、日本での韓国軍兵士の訓練など政府・自治体の組織的関わりから、日本人の戦闘参加、在日朝鮮人の義勇兵としての参加
などがあったと述べています。機雷除去作業の中では元山沖合で掃海艇が機雷に接触して沈没、一人が死亡、18人が負傷しています。
いっぽう日本経済にとっては、兵器弾薬その他軍需物資の生産、修理など朝鮮特需によって戦後経済復興につながりました。トヨタ自動車の社史HPには「トヨタ自工は、ドッジ・ラインの影響で深刻な経営危機に陥り、人員整理にまで手をつけなければならなかったが、朝鮮特需を契機に業績は好転し、新たな一歩を踏み出すことができたのである」とあります。当時の日銀総裁は「わが財界は救われたのである。朝鮮動乱は日本経済にとってはまったくの神風であった」と言い、当時の吉田茂首相も「天佑神助だ」と膝を叩いたといいます(斎藤貴男『戦争経済大国』)。
沖縄は日本が植民地化した結果として沖縄戦で焦土と化してしまいました。その沖縄が米軍に占領され、そこから日本の植民地だった朝鮮への爆撃がされて朝鮮が焦土と化しました。沖縄と同様、朝鮮の人たちはもう爆撃する対象がないほど爆撃され、破壊され、地下壕で暮らし、学ぶしかなかったのです。多くの日本人はそれをただ「特需」と呼んで何の罪悪感もないところがあまりにも罪ではないかと思います。
元米兵で、米国ではじめて「憲法9条の会」を作ったチャック・オバビーさんという人がいましたが、彼は朝鮮戦争でB29のパイロットとして嘉手納に配属されていました。生前彼とは交流がありましたが、彼は朝鮮戦争で空爆に参加したことをいつも悔やんでいました。ダムや水力発電所まで爆撃した「ジェノサイド」だったと言っていました。なんと、休戦協定を結んだ1953年7月27日も出撃命令が出ていたが、休戦を取り決めた時間までに38度線を通過するには間に合わないから急遽中止になったと。この戦争がどこまで「殺す」ことだけが目的になってしまったのかを象徴する出来事だと思いました。
朝鮮戦争で米軍が率いる「国連軍」は、日本に落とした4倍もの爆弾を朝鮮に落とし、朝鮮主要都市22のうち18都市を50から100%破壊しました。平壌は1951年末までに全市8万戸のうち6万4千戸が破壊され、51年だけで死者約5千名、重症者約2500名が出ました。戦争全体での死者は、韓国は軍民あわせ約133万人、朝鮮は2百数十万人、朝鮮半島あわせて約400万人の死者というとてつもない数でした(林『無差別』)。当時の朝鮮半島の人口が約2400万人だったので6人に1人が命を奪われたことになります。それも同じ民族同士が南北に分かれて殺し合い、1千万の離散家族を出しました。
朝鮮に行ったときのガイドさんの言葉を思い出します。「世界でも同じ民族が分断されているという国は朝鮮だけでしょう」と。彼はこうも言っていました。「日本の降伏がもうひと月遅ければ、朝鮮の分断はなかったでしょう」と。もしそうであればソ連が朝鮮半島を占領し、米国に分断を許していなかっただろうという意味と解しました。日本が分断されていた可能性もあります。分断と戦争による破壊に値することをしたのは日本と朝鮮とどちらかと問われれば、朝鮮でなかったことだけは確かです。
終戦の必要性
私たちはこの戦争を終わらせなければいけません。この戦争を終わらせれば、朝鮮国連軍や国連地位協定も存在意義がなくなり、嘉手納、普天間、ホワイトビーチ等の基地における、国連の名をかたったオーストラリア、カナダ、フランス、英国等による日本周辺での軍事行動も根拠を失うのではないでしょうか。誤解されやすい大事な点を確認しますが、 United Nations Command と称する「国連軍」とは、朝鮮戦争勃発時の国連決議にもとづいて作られた米国主導の多国籍軍なのであり、「国連憲章第7章が本来予定した国連軍とは異質のもの」でした(2004年外構防衛調査室報告書)。安保理決議S/RES/84 (1950.7.7)でも加盟国に対しその国の軍隊を「合衆国の下にある統一司令部に提供することを勧告a unified command under the United States of America」とあり、ここでも unified command とあり、United Nations Command ではありません。
国際的な弁護士のグループ、「国際民主法律家協会」(IADL)や「アジア太平洋法律家会議」COLAPや韓米日などの世界の市民社会は、2020年の国際連合旗使用規約の改正をうけ、22年初頭、韓国と日本にある朝鮮国連軍や国連後方司令部による国際連合旗使用規約の違反を国連に対して訴えています。
5年前、板門店での南北首脳会談、シンガポールでの米朝首脳会談があったときは終戦に一歩近づきました。トランプ大統領は当時、いい意味でイノセントな目で朝鮮半島情勢を見て、この戦争がまだ終わっていないのは異常であると考えました。朝鮮をリスペクトする姿勢を示したことや、米韓の軍事演習を「挑発的」と言ったことも米国大統領として画期的でした。トランプ氏は在外米軍基地にも疑問を提示しました。その和平への動きをぶち壊したのはジョン・ボルトン当時国家安全保障担当大統領補佐官ら大統領のネオコンの側近と、安倍晋三首相率いる日本でした。韓国は米軍に戦時の軍の指揮権も握られており、日本と同様、主権が侵害されている国ですが、その制約の中でも文在寅大統領は朝鮮半島和平を促進しようと努力しました。日本の主要メディアはそのとき何と言ったでしょうか。「危険な賭け」「北朝鮮の非核化が先」「在韓米軍の撤退につながる」「レガシー狙い」など、さんざんな言い方でした。
そして今韓国は朝鮮に敵対的で親米、親日の尹錫悦政権に変わり、8月のキャンプデービッド会談で、中国と朝鮮敵視にもとづく三国同盟が確固たるものになってしまいました。これは、NATOの東アジア版の完結、事実上の朝鮮と中国に対する宣戦布告に見えます。岸田政権は今年、広島で開催するG7への招待をちらつかせて、尹錫悦政権に「徴用工問題」解決を迫りました。大法院の判決に従って強制動員を行った日本企業が責任を取るのではなく、なんと韓国企業が肩代わりするという、あり得ない「解決策」を出させました。もちろん背後には、日韓間の歴史問題を三国軍事同盟の障害と考える米国の重圧がありました。2015年末、日本軍「慰安婦」問題についてこれも被害者を置き去りにした「合意」を、当時の安倍政権と朴槿恵政権が、オバマ大統領の祝福とともに発表したのと同じ構造です。どちらも、戦争準備のための歴史否定であり、被害者の切り捨てでした。
この三国同盟により、文在寅政権で韓米連合軍司令部副司令官だった金炳周・共に民主党議員は、「朝鮮半島有事の際、日本が介入することは最も憂慮しなければならないこと」と言っています。朝鮮半島の人たちにとっては、南北、左右の関係なく、日本軍が再び朝鮮の土を踏む可能性以上の悪夢はないでしょう。それなのに日本国内から三国同盟に対する反対の声はあまり聞こえてきません。これも日本人の歴史的責任感の欠如であると思います。
脱植民地化への道:一極支配からの脱却
朝鮮大学校の李柄輝教授は朝鮮新報停戦協定70年においてこのように述べています。
朝鮮戦争以後、60年代のベトナム戦争、70年代の米国の対中敵視政策の破綻がもたらした米中和解を経て、80年代以降にソ連崩壊により米国一極支配体制が続いたが、今やBRICSやグローバルサウスの台頭、多極秩序への移行に伴い、米国の覇権が衰退している。新冷戦戦略は米国の焦りの表れだ。朝鮮戦争を50年代の「点」ではなく「線」で捉え、歴史の文脈で見れば、それは米帝国主義時代の終焉の起点であったといえる。(『朝鮮新報』23年7月29日)
米国の一極支配がもたらした世界の弊害からいま世界の国々が協力して脱却する必要があります。制裁を批判する団体「サンクションズ・キル」によると、米国は40ヶ国以上の国、人口でいうと世界の3分の1以上に対し9千以上の国際法違反の制裁を発動しており、今世紀になってから10倍になっています。米国の武力介入については米国議会調査局の調査によると、1798年から2022年までに世界中で469件もの外国武力介入を行っており、91年の冷戦終結までが218件だったのに比べ、冷戦以降の30年でその前の200年間よりも多い251件の武力介入を行っています。
制裁にしても武力行使にしても攻撃対象にされているのはグローバルサウス諸国、つまり何世紀にもわたって欧米の植民地主義の餌食になってきた国々なのです。そして「基地帝国」といわれるように、米国は、800かそれ以上あるといわれる在外軍事施設で世界を支配しています。米国、西側諸国による植民地主義は今もなくなっておらず、李柄輝教授が言うようにその覇権が衰退しつつある今、一極支配を死守しようとする米国は軍事介入と経済制裁をエスカレートさせています。
朝鮮と沖縄は別々の形にとはいえ、日本近代化以降の150年、あるいは豊臣秀吉以降の500年の植民地支配との闘いの歴史を経て、脱植民地化の道を歩んでいる途上にあると思います。それは今、長年の欧米の植民地主義に苦しめられてきた中南米、アジア、アフリカ諸国がもう米国の一極支配も西側の新植民地主義も許さないという大きな世界の脱植民地化の流れの中で捉えられる動きと思います。
日本ができることというのは、そのような多極化の動きに、敵対的ではなく協力的に関与すること、米国と対等な関係を築き直すこと、朝鮮・韓国や沖縄の脱植民地化への動きを邪魔しないこと、親日勢力を利用しないことです(注:親日勢力とは、被支配側で、日本の植民地主義に協力する勢力のことです)。そして朝鮮学校差別を含む在日朝鮮人韓国人差別、沖縄差別をやめ、傷つけた国々と民族の自己決定権を尊重するということです。それは辺野古の基地の断念を意味するし、琉球列島の軍事化を止めるということですし、朝鮮や中国など、米国が敵視している国々に対する盲目的な敵視をやめるということです。それは一般市民にとっては氾濫している政府とメディアの、これらの国々に対する敵対的な報道や嘘の言説を批判的に見るということだと思います。
日本が、責任感をもって加害の歴史に向き合い、アジアの一員として周辺国と友好を築き、米国の呪縛から自らを解放し、戦争準備をやめることがアジアの平和をつくる不可欠な要素であると思います。まずは、朝鮮戦争を終わらせましょう。
(2023年9月30日那覇市で開催された「朝鮮戦争から考える沖縄と東アジアの平和 休戦協定から平和協定へ」シンポジウム発表原稿に加筆修正しました。)
乗松聡子のプロフィール・本はこちらを。
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