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深圳の悲劇を中国敵視の道具にするな
~友好こそが、被害者への追悼になる~
ピース・フィロソフィー・センター代表 乗松聡子
火がついた嫌中
中国・深圳市で9月18日、日本人学校の男子児童が殺害された事件について、日本のメディアは連日大きく取り扱い、日中間の外交問題として政治化した。
この日は1931年、関東軍が南満州鉄道を爆破した「柳条湖事件」の日で、その後15年間にわたる満州植民地支配と中国全土に対する侵略戦争を記憶する「9・18」の日であった。そのことから日本では、中国の「反日教育」が招いた結果であると語られ、中国に対する嫌悪が主要メディアでもネットでもエスカレートした。この3カ月前の6月24日、蘇州の日本人学校のスクールバスが刃物を持った男に襲撃され、親子が怪我をした事件もあった。
しかし、日本の嫌中傾向はこれらの最近の事件がきっかけになったわけではない。20世紀後半に経済大国化した日本はいまや衰退傾向で、近年、目覚ましい発展を遂げた中国を苦々しく思う心情がある。その上、米国はオバマ政権下で始まった、中国の台頭を阻止し一極支配の維持を狙うべく「アジアピボット(軸足移動)」(2011年)を進めている。対米従属の日本は12年に「尖閣諸島国有化」で、中国の国民感情を逆撫でした。
西側メディアはことさら中国について否定的な報道ばかりするようになる。世論調査でも、日本では中国に対し否定的な感情を持つ人が10年代以降は常に8割を超えるようになり、9割を超えることも少なくなくなった。
歴史記憶を「反日」と責める加害国・日本
「反日教育」と言うが、中国や韓国や東南アジア諸国など大日本帝国の植民地支配や侵略戦争の被害を受けてきた国々がその歴史を伝えることは当たり前である。
「反日」と言う人ほど、日本が中国に何をしたのかを知らないし知ろうとしない。大日本帝国の中国に対する残虐行為で代表的なものは南京大虐殺(1937―38) であるが、それさえ日本では政治家が率先して否定している。日清戦争時の旅順大虐殺 (1894年)、満州侵攻後の平頂山虐殺(1932年)、民間人を「殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽くす」作戦を行い、重慶などの都市の無差別爆撃し、毒ガスや細菌兵器を使った。約4万人が日本に強制連行され約7千人が亡くなった。満州をはじめ中国全土でも、日本企業が経営する炭鉱や鉱山などで膨大な数の中国人が強制労働させられて亡くなった。その「人捨て場」であった「万人坑」が今も中国各地に存在する。
もしこのような被害を日本が受けていたら、ましてやこれらの歴史を後世に教えることを加害国から批判されたらどう思うのか。広島・長崎の原爆被害を語り伝えることは「反米教育」なのか。日本がやられたことについては「継承」の大切さを語り、自分たちがやったことを語られると「反日」と騒ぐことこそダブルスタンダードだ。
深圳事件の「父親の手紙」
深圳の事件は10歳の子が母親の眼前で襲撃され、その後治療の甲斐なく亡くなるという残酷な犯罪だった。日中両国の市民にできることといえばその地の法律で公正に裁かれることを願いながら、共に追悼し、遺族に寄り添うことではないだろうか。事件後、現場を訪れ献花し手を合わせる人が絶えないことは広く報道されている。
9月20日、殺された男児の父親によるという手紙が、香港のフェニックス・ニュースや「星島網」など各社が報道しSNSでも広く拡散された。日本のSNSでは「偽物だ」といった否定も見られたが、台湾の報道等で父親の会社や名前も確認されており、真正なものに見える。
内容には、日本領事館や会社から発言を止められているようなことを匂わせる表現があり、それでも伝えたいという父親の思いが伝わってくる。
この手紙は、男児が日本人の父親と中国人の母親の間に生まれた「日本人でもあり中国人でもある」と明記され、「何が報道されようと、彼が日本人と中国人の両方のルーツを持つという事実は変わらない」とある。「日本人が殺された!」と大騒ぎしているメディアに対して抗議しているようにも読める。
「私たちは中国を恨まない、同じく日本も恨まない。国籍に関係なく、私たちはどちらの国も自分たちの国だと思っている」とあり、「歪んだ考えを持つ一握りの卑劣な人間の犯罪によって、両国の関係が損なわれることを私は望まない」としている。
この事件を中国敵視の材料に使いたい日本の一部政治勢力にとってはさぞ都合の悪い手紙であったろう。
「暴支膺懲」の勢いの日本政府
石破茂氏は自民党総裁に選出された直後に、フジテレビの「The Prime」に出演した。司会者は、中国の「領空侵犯」「空母”遼寧”による接続水域航行」、自衛隊護衛艦「さざなみ」の台湾海峡初通過など日中の軍事的対立に注目させた上で深圳の事件を出して、「強い対抗措置」や「大使召還」といった言葉で敵意を煽った。
石破氏も怒りを露わにし「9・18」の日を「反日的」報道や情報が多く出る日と言っていた。自民党では比較的戦争責任を理解していると言われている石破氏でさえ「反日」という言葉を使う。その後石破氏は10月4日の所信表明演説で、中国の「東シナ海や南シナ海における力による一方的現状変更の強化」とセットでこの事件を持ち出し、「断じて看過しがたい」と言った。
戦時の「暴支膺懲」という言葉を思い出す。この事件が戦争準備に使われているのだ。
殺人は当然どこの国でも許されないことだが、100%防ぐことなどできない。日本でも中国人が殺傷される事件が起きている。昨年11月、千葉県松戸市で中国人女性が日本人男性2人に殴打されて死亡した。今年7月には、大阪で中国人観光客が日本人男性に刺された。これらの事件が外交問題に発展したという話は聞いていない。
9月23日、ニューヨークで行った会談にて上川陽子外相は中国の王毅外相に対し、「根拠のない悪質で反日的なSNS投稿等は、子どもたちの安全に直結し絶対に容認できない」として、「早急な取り締まりの徹底を強く求め」た。
SNSでの極端な発言はどちらの国にもある。中国政府は悪質なサイトや投稿は削除する対策は取っている。だが、ふだんは中国の情報統制を批判している日本が、こういうときだけ「もっと統制しろ」と中国に指図しながら、自分たちは何もしていない。
「日本人でも中国人でもある」
殺された子は、「日本人でも中国人でもある」子である。国籍が日本だからといってその子が日本人で、それ以外ではないということではない。この子の中国人アイデンティティを無視して「日本人が殺された!」とだけ言うのは、「中国人なら殺されても無視していい」と言っていることと一緒である。
また、もしこの子の父親が中国人で母親が日本人であったとしたら、日本の政府やメディアはここまでこの子を「日本人」として見たであろうか。「子どもは父親の家の子」という家父長制的考えがあったのではないか。事件への反応はジェンダー問題もはらむと思う。
日本政府とメディアは、被害児童の中国人アイデンティティを引き剥がし、日本の中国敵視の道具に使ったことを反省してほしい。
今こそ日中の市民が交流と友好を深め、ネット上に流れる憎悪的な言論にも共に立ち向かえるような信頼関係を築くことが大事ではないか。それが被害者への一番の追悼になるのではないかと、私は思う。
(転載以上)