To view articles in English only, click HERE. 日本語投稿のみを表示するにはここをクリック。点击此处观看中文稿件한국어 투고 Follow Twitter ツイッターは@PeacePhilosophy and Facebook ★投稿内に断り書きがない限り、当サイトの記事の転載は許可が必要です。info@peacephilosophy.com までご連絡ください。

Thursday, May 19, 2011

原発導入の背景に「広島長崎の意図的な忘却と米国の核軍拡」:ピーター・カズニック Peter Kuznick: "Japan's Nuclear History in Perspective: Eisenhower and Atoms for War and Peace" (Japanese Translation)

日本の原発導入の歴史を考察したものとして、このサイトでは田中利幸ロバート・リフトン大江健三郎各氏の英語論説の和訳、NHKドキュメンタリー『現代史スクープドキュメント 原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~』を紹介してきました。今回は、核による人類滅亡までの時間を象徴的に表す「終末時計」 Doomsday Clock で知られるアメリカの 『ブレティン・オブ・ズィ・アトミック・サイエンティスツ』Bulletin of the Atomic Scientists誌 (1947年創刊)に4月13日に掲載された、アメリカン大学歴史学部准教授のピーター・カズニック氏の論文を紹介します。(カズニック氏は1995年以来、アメリカン大学と立命館大学の共同プログラムで、毎年アメリカ人学生を引率して広島と長崎を訪れています。ピース・フィロソフィー・センターは2006年以来この研修旅行に協力しており、2008年以降はカナダの学生も参加しています。)

Bulletin of the Atomic Scientists に掲載された原文はここです。Japan's nuclear history in perspective: Eisenhower and atoms for war and peace また、この論文は田中利幸氏の紹介文付きで The Asia-Pacific Journal: Japan Focus にも掲載されています。Yuki Tanaka and Peter Kuznick, Japan, the Atomic Bomb, and the “Peaceful Uses of Nuclear Power”


日本の核の歴史を振り返るーアイゼンハワーと、「戦争」そして「平和」のための原子力利用

ピーター・カズニック 

翻訳 松下ノア 乗松聡子

2011年4月13日

平和憲法を携え、非核三原則を持ち、核軍縮に取り組み、最も強く反核を唱える国、日本。その日本が今、過去25年間で最も危険で長期化しており、25年前のチェルノブイリ事故を更に上回る被害を生むかもしれない核の危機に瀕しているのは悲劇としか言いようがない。しかし日本の反核主義は常にファウスト的契約(訳者注:悪魔との契約。この場合の「悪魔」とは米国を指す)に基づいたものであった。過去66年に渡り恥ずかしげもなく地球で一番の核支持国であり続けた米国への依存があったのである。この二つの同胞国の奇妙な関係にこそ、今回の福島の危機の根源と意義が存在するのである。

ドワイト・アイゼンハワーが大統領の時に、日本は原子力発電計画を開始した。アイゼンハワーは核のエネルギー利用を強く推進していたが、皮肉なことに彼自身は、軍産複合体制に警鐘をならしていたことで一番よく知られている。アイゼンハワーは広島と長崎の原爆投下を非難した唯一の米国大統領でもある。また、戦後のロシアとの友好関係が原爆で破壊されることを危惧し、一時は原子力が国際的に管理されること、そして米国が保有する核兵器を廃棄してもらうため国連に引き渡すことを主張した大統領でもある。

しかし、アイゼンハワーが1953年に大統領に就任する頃には、彼の核兵器に対する意見も変わっていた。米国が「巨額の軍事費のために絞め殺される」のを見るのを望まない上に、ソビエト連邦との戦争はすべて核戦争になるであろうと考えたアイゼンハワーは、費用のかかる従来型の軍事力から戦略空軍による大々的な核報復へと、政策の力点を移した。ハリー・トルーマン大統領が核兵器は最後の手段として使われる兵器と考えていたのに対し、アイゼンハワーは核兵器を米国の防衛戦力の基本としたのだ。

銃弾のように?
アイゼンハワーはしばしば、核兵器を使うことが大したことでもないかのような発言をしている。1955年に、彼は記者に対してこう述べた。「もちろん核兵器は使われるだろう。核兵器が厳密に軍事目標に対して軍事目的の為だけに使われるのなら、銃弾を撃ったり、武器を使ったりするのと同じように核を使用してはいけないという理由が見当たらない。」アイゼンハワーがウィンストン・チャーチルの個人秘書であるジョック・コルビルに「『通常兵器』と核兵器の間に違いはない。すべての兵器は時がたてば通常兵器になるのだ」と言った時のことをコルビルは恐怖をもって振り返った。「私は自分の耳を疑った」と。

アイゼンハワーは米国が保有する核兵器の管理を原子力委員会(AEC)から軍に移し始めた。アイゼンハワーは過去に朝鮮半島、スエズ運河、そして台湾海峡の金門・馬祖島に対しては二度にもわたって核兵器を使用すると脅したことがあり、ヨーロッパ諸国はこの変化を見て、米国は核戦争を始めるのではないかと恐怖を覚えた。ヨーロッパの同朋国はアイゼンハワーに対して自制するように懇願した。

このような核戦争を普通とする考え方への世間の強い嫌悪感はアイゼンハワー政権の計画を脅かすこととなった。1953年3月の国家安全保障会議(NSC)の議事録にはこうある。「大統領と国務長官ジョン・フォスター・ダレスは、いずれ核兵器を使用することに対してのタブーを壊さなければならないという意見で一致している。ダレス長官は国際世論の現状を考えると原爆は使うことはできないとしながらも、この世論を消し去るのに出来る限りの努力をするべきだとしている。」

放射能灰に埋まる「アトムズ・フォー・ピース」
アイゼンハワーはこのタブーを壊すには核のエネルギー使用を軍事的なものより、社会的に利益のあるものへと活用させることに焦点を移すことが最善だと確信した。心理戦略委員会の国防総省のコンサルタント、ステファン・ポッソーニは述べた、「原子力が建設的な目的に使われていれば原子爆弾ももっと容易に人々から認められるであろう」(p.156)1953年の12月8日、アイゼンハワーは国連で“原子力平和利用(アトムズ・フォー・ピース)”スピーチを行った。彼は米国が「この人類の奇跡的な発明が死をもたらすためではなく、人類に恩恵を与えるものとなることに」力をつくすことを約束した。彼は原子力平和利用の恩恵を国内にも、海外にも広めると誓った。

しかし、後の1954年3月のビキニ環礁で行われた水爆実験(キャッスル作戦・ブラボー (BRAVO))はアイゼンハワーの計画を狂わしかけた。米国の水爆実験による放射性降下物は236ものマーシャル諸島を汚染し、爆発地点から85マイル離れ、米国の定めた危険水域の外で操業していた日本の第五福竜丸の船員23名全員が被爆した。また放射能を浴びたマグロが市場に出回り、大勢の人がそれを食べたことから後にパニックを引き起こした。

国際社会はこの水爆実験にがくぜんとした。ベルギーの外交官、ポール=アンリ・スパアクは警告した。「アイゼンハワー大統領が演説で述べた、米国は原子力を平和のために利用するという考えを取り戻すための対策が打たれなければ、アメリカはヨーロッパにおいて、野蛮で恐ろしいものの代名詞と認識されるであろう。」インドの首相ジャワハルラール・ネルーは、アメリカの指導者たちは「危険で自己中心的な狂人」で「自分たちの政策の邪魔になるものは人であれ、国であれ爆破するであろう。」と断言した。

アイゼンハワーは1954年5月の国家安全保障会議(NSC)で、「皆、我々を嫌なやつで、武力を振りかざす主戦論者と思っているようだ。」と述べた。ダレス長官は「我々とヒットラーの軍事機構との比較がなされている。」と不満を漏らした。

一方日本では水爆実験への非難の嵐が吹き荒れた。東京杉並区では、主婦が水爆禁止のための署名運動を始めた。この運動は全国に広がり、次の年には人口の三分の一にあたる3200万人もの驚異的な数の署名が集まった。

1945年の原爆投下に対する怒りは、米占領軍が原爆について語ることを禁止していたため長期にわたって抑えられていたが、それがついに爆発した。国家安全保障会議(NSC)のオペレーション調整委員会は事態を改善するため、原子力の非戦闘利用を推し進め、日本に試験的な原子炉の建設をすることまでも提案した。原子力委員会のトーマス・マーレイはその提案を支持した。彼は述べた。「依然、広島と長崎の記憶が鮮明な中、日本に原子力発電所を作ることは劇的でキリスト教的(訳注:人道的という意味で使われている)な行為であり、こうすることで我々は広島、長崎の惨劇の記憶を乗り越えることが出来るであろう。」

日本に「平和な原子」を売る
ワシントンポスト紙はマーレイの意見を 「軍拡競争への執着から人々の気持ちをそらせるもの」として賞賛した。そしてこう続けた。 「今では多くのアメリカ人が日本への原爆投下は必要ではなかったと気付いている….日本に対して原子力平和利用の手段を提供することは日本との関係を修復するのに最良の方法である。その上、アジア諸国に対して、米国は東洋人を単なる原爆の威力を試すための道具として見ているという印象を払拭するにも最善の策である。」

マーレイと下院議員のシドニー・イェイツ(民主党・イリノイ)は初の原子力発電所を広島に作ることを提案した。1955年初めイェイツは、6万キロワットの電力を供給する発電所を広島に建設する法案を提出し、そうすることで 「原子力がキリング(殺人)よりもキロワット(電気)を作り出すのための手段となる」と述べた。 6月までには、米国と日本は、原子力の研究と開発のために協力するという合意書に署名した。

しかし、この考えを日本国民に売り込むのはそう容易ではないと考えられた。アメリカ大使館、国務省情報局(USIS)、中央情報局(CIA)が原子力利用を日本で普及させるために大掛かりなキャンペーンを開始した時、正力松太郎に助力を求めた。正力松太郎は、日本のプロ野球の父で、読売新聞の経営者でもあり、日本テレビの社長も勤めた。正力はA級戦犯として2年間の獄中生活の後、不起訴となり出獄した。彼の反共産主義の姿勢はアメリカにとって都合がよく、彼の免罪に役だった。(参照:有馬哲夫「正力の原子力導入推進キャンペーンとCIAの心理戦」、2006年11月25日、東京経済大学で発表された未発行論文)正力は日本に原子力を迎え入れることで大きな話題になった米国による博覧会を読売新聞が協賛することに同意した。1955年11月1日、原子力平和利用博覧会の初日は東京で神道の清めの儀式が行われた。米国大使はアイゼンハワーの声明を読み上げた。アイゼンハワーは声明文の中でこの博覧会が「原子力の偉大な力がこれからは平和利用のために使われるべき、という我々共通の決意の象徴である」と宣言した。

展示は東京で6週間続いた後、広島に移り、その後も他6都市で行われた。展示は原子力の平和利用を強調したもので、発電、癌治療、食品保存、害虫防除や科学研究の促進などの展示があった。原子力の軍事用途についての展示は一切行われなかった。展示を見ていると、核の未来は安全で豊か、エキサイティングで、平和にも見えた。来場者は期待を上回るものであった。国務省情報局(USIS)によると、京都では雪や雨にもかかわらず、15万5000人の人が訪れた。(p.176)

原子力平和利用の可能性についての映画や講義、論文などが大量に次々と世に出回ったが、それは米当局者が思っていた以上の結果を生み出した。米当局者は報告した。「1954年から1955年にかけての原子力に対する世論の変化は目を見張るものであった….原子力の脅威に対するヒステリー的恐怖はほぼ消え去られ、1956年初めまでには、日本では原子力平和利用が一般的に支持されるようになった。(p.179).

しかし、米当局が喜ぶのは時期尚早であった。左派の政党や労働組合による反核運動は人々の共感を呼んでいた。1956年4月に国務省情報局(USIS)が行った調査では実に60パーセントの日本人が、核のエネルギーは 「人類に恩恵をもたらすというよりは災いをもたらす」ことになると信じていた。米国が核軍縮実現に向けて「真摯な努力をしている」と答えたのは25%だけだった。毎日新聞は「最初に放射能雨の洗礼を浴びせ、次は『原子力平和利用’』を装った外国の営利主義からの抜け目ない攻勢である」と米国の原子力平和利用を推進するキャンペーンを激しく非難した。毎日新聞は日本人に、「『白人の手』によってなされている、日本での原子力平和利用のキャンペーンの本当の目的は何かということを冷静に考える」ように呼びかけた。 

しかし、国務省情報局(USIS)のますます激化する数年にわたる活動が実を結び始める。米国の宣伝攻勢に関する機密報告書によると、1956年には70パーセントの日本人が 「原子力」を「有害なもの」と同一視していたが、1958年までには30パーセントにまで下がった。自国が近代的な科学技術・工業大国になることを望んだ日本人は、自国のエネルギー資源不足を知っていたので、原子力が安全で環境に優しいものである、と納得することにしてしまった。国民は広島と長崎の教訓を忘れてしまったのである。

1954年、日本政府は核研究計画に資金を提供始めた。1955年の12月には原子力基本法が制定され、日本原子力委員会(JAEC)が設立された。正力は初代原子力委員会委員長に就任し、科学技術庁長官も勤めた。日本は初めての商業用原子炉をイギリスから購入したが、すぐに米国の軽水炉に切り換えた。1957年半ばまでに、政府はさらに20基もの原子炉を購入することを契約した。

米国内では原子力委員会(AEC)が、原子力は乗り物を動かし、空腹を満たし、街に明かりを灯し、病を治し、資源の発掘まで可能にする魔法の万能薬として強気に売り込んでいた。続いて、アイゼンハワーは原子力商船や原子力飛行機の計画を公表した。1955年7月、米国は初の商業用原子力発電所を起動した。1956年10月、アイゼンハワーは、米国が37カ国と原子炉を建設することで合意し、さらに14カ国と交渉を進めていることを国際連合に報告した。

1958年までに、米国は原子力委員会(AEC)のもとで計画されたプラウシェア計画による、地形を変えるような大規模掘削の可能性に舞い上がっていた。この計画は核爆発を平和利用して、港を作り、油脈へのアクセスを可能にし、巨大な地下貯水池やより広大で改善されたパナマ運河を作ることであった。なかには天候を変えるためにハリケーンの中心に20メガトンの爆弾を爆発させることを提案したものもいた。ある気象局の科学者は北極の大氷塊の融解を進めるために10メガトンの爆弾を爆発させる計画を提案した。アイゼンハワーがソビエト提案による核実験モラトリアムを一方的に放棄することに難色を示したため、これらのばかばかしい計画は中止となった。

それでもプラウシェア計画は当初予定していた目標を達成することに成功した。原子力委員会(AEC)委員長のルイス・ストラウスはプラウシェア計画には「核爆発の平和利用を強調することによって、核兵器の開発と核実験に対する国際世論をより好意的なものにしようという」ねらいがあったことを認めている。

原子力平和利用によって隠された核軍拡の事実
原子力平和利用の陰で、アイゼンハワーは歴史上で最も急速で見境ない核軍拡を進めた。米国の核兵器保有量は彼が就任したとき、1000発あまりだったのが、彼の任期が終了する頃には2万2000発になっていた。しかしその数でさえ額面通り受け取ってはいけない。それはアイゼンハワーが許可した核の製造が1960年まで続き、ケネディ政権の間に核保有量が3万発を越えたのに加担しているからである。1961年には核兵器のメガトン数の観点だけからいえば、広島に投下された爆弾136万発分の蓄えが米国にはあった。

アイゼンハワーが核攻撃を行う権限を委任したことはあまり知られていない。アイゼンハワーは、戦域司令官や他の特定司令官に、大統領と連絡がとれなかったり、大統領に決断する能力が失われている時に攻撃が必要な状況だと彼らが判断した時は、核攻撃を行える権限を委任していた。また大統領の承認を得て、司令官の中には同様にその権限をより下の司令官に与えていたものもいた。(私はダニエル・エルズバーグにこの情報を提供してもらい感謝しています)そして、当時核兵器にはロックがなかったことから、彼ら以外の者、例えば空軍の少佐や基地の司令官、空母の司令官など多数が核攻撃を実行しようと思えば可能な状態だった。

1960年に、アイゼンハワーは初の総合戦略計画を承認した。それは戦争開始後24時間以内に、中国―ソ連圏に対して、米国が戦略的核兵器による同時攻撃を遂行することを定めたものであった。米国統合参謀本部はそのような核兵器による攻撃が起きた際の死亡者数を推定するように求められた。それは驚くべき数字であった。中国とソ連では3億2500万人が死亡し、さらに東ヨーロッパでは1億人が、西ヨーロッパでは放射線降下物により1億人が、そしてソ連国境付近の国では1億人に上る死者が予想され、全部で6億人の死者が出ると推定された。

否認の代償
アメリカが人類滅亡につながる核戦争を計画している一方で、日本は日本なりの否認の中で生きていた。1950年代の出だしは手こずったが、日本の原子力産業は1960年代、1970年代に発展を遂げ、その後も成長し続けている。先月起きた、津波による福島原子力発電所事故前は、日本には54基もの稼動している原子炉があって、実に総電力の30パーセントが作られていた。原子力発電が総電力の50パーセントを占める時代が来るのも遠いことではないと予測する者もいた。しかし、この福島で起きた核の大惨事によって、日本は核の時代の悪夢的側面に三度目の対応を余儀なくされている。そして、日本の原子力発電はクリーンで安全という幻想の下に生まれただけでなく、背景には広島、長崎の意図的な忘却と米国の核軍拡もあったという事実に直面せざるを得なくなっている。

いま、このような日本の核の歴史を清算する時が来ている。日本がこの悲劇から立ち直り、自然エネルギーへの道を切り開くと同時に、米国の核の傘の下での抑止という構造を断絶する新しい道を目指すことを願っている。第二次世界大戦の惨禍を乗り越え、平和憲法や反核主義をもって世界で先駆的役割を果たしたように。


ピーター・カズニック
アメリカン大学歴史学准教授・核問題研究所所長。全米核の歴史と政策討議委員会創立者。核教育プロジェクト共同創立者。著書に『研究所を超えて 1930年代米国で政治活動家として活躍した科学者たち』、共著に『冷戦文化の再考』。木村朗鹿児島大学教授との共著『広島・長崎への原爆投下再考―日米の視点』は、2010年に日本語で出版(法律文化社)。オリバー・ストーン監督が手掛け、2011年11月テレビ「ショウタイム」で公開予定の12部からなるドキュメンタリーフィルム「アメリカの忘れられた歴史」の台本を執筆中。同名の本についてもオリバー・ストーン監督と共同で執筆している。

(Translated by Noa Matsushita and Satoko Norimatsu)

Bulletin of the Atomic Scientists

Japan's nuclear history in perspective: Eisenhower and atoms for war and peace

By Peter Kuznick | 13 April 2011

It is tragic that Japan, the most fiercely antinuclear country on the planet, with its Peace Constitution, three non-nuclear principles, and commitment to nuclear disarmament, is being hit with the most dangerous and prolonged nuclear crisis in the past quarter-century -- one whose damage might still exceed that of Chernobyl 25 years ago. But Japan's antinuclearism has always rested upon a Faustian bargain, marked by dependence on the United States, which has been the most unabashedly pro-nuclear country on the planet for the past 66 years. It is in the strange relationship between these two oddly matched allies that the roots and meaning of the Fukushima crisis lay buried.

Japan embarked on its nuclear energy program during the presidency of Dwight Eisenhower, a man now best remembered, ironically, for warning about the rise of the very military-industrial complex he did so much to create. Eisenhower is also the only US president to have criticized the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki. Fearing the bombings would destroy the prospects for friendly post-war relations with Russia, at one point he advocated international control of atomic energy and turning the existing US stockpile over to the United Nations for destruction.

Yet by the time he took office in 1953, Eisenhower's views on nuclear weapons had changed. Not wanting to see the United States "choke itself to death piling up military expenditures" and assuming that any war with the Soviet Union would quickly turn nuclear, he shifted emphasis from costly conventional military capabilities to massive nuclear retaliation by a fortified Strategic Air Command. Whereas President Harry Truman had considered nuclear arms to be weapons of last resort, Eisenhower's "New Look" made them the foundation of US defense strategy.

Just like a bullet? On occasion, Eisenhower spoke almost cavalierly about using nuclear weapons. In 1955, he told a reporter: "Yes of course they would be used. In any combat where these things can be used on strictly military targets and for strictly military purposes, I see no reason why they shouldn't be used just exactly as you would use a bullet or anything else." When Eisenhower suggested to Winston Churchill's emissary Jock Colville that "there was no distinction between 'conventional' weapons and atomic weapons: all weapons in due course become conventional," Colville recalled, horrified, "I could hardly believe my ears."

Eisenhower began transferring control of the atomic stockpile from the Atomic Energy Commission (AEC) to the military. Europeans were terrified that the United States would start a nuclear war, which Eisenhower threatened to do over Korea, over the Suez Canal, and twice over the Taiwan Strait islands of Quemoy and Matsu. European allies begged Eisenhower to show restraint.

Public revulsion at the normalization of nuclear war threatened to derail the Eisenhower administration's plans. The minutes of a March 1953 meeting of the National Security Council (NSC) stated: "the President and Secretary [John Foster] Dulles were in complete agreement that somehow or other the tabu [sic] which surrounds the use of atomic weapons would have to be destroyed. While Secretary Dulles admitted that in the present state of world opinion we could not use an A-bomb, we should make every effort now to dissipate this feeling."

Atoms for Peace buried in radioactive ash. Eisenhower decided that the best way to destroy that taboo was to shift the focus from military uses of nuclear energy to socially beneficial applications. Stefan Possony, Defense Department consultant to the Psychological Strategy Board, had argued: "the atomic bomb will be accepted far more readily if at the same time atomic energy is being used for constructive ends" (p. 156). On December 8, 1953, Eisenhower delivered his "Atoms for Peace" speech at the United Nations. He promised that the United States would devote "its entire heart and mind to find the way by which the miraculous inventiveness of man shall not be dedicated to his death, but consecrated to his life." He pledged to spread the benefits of peaceful atomic power at home and abroad.

But the subsequent March 1954 Bravo test almost derailed those plans. Fallout from the US hydrogen-bomb test contaminated 236 Marshall Islanders and 23 Japanese fisherman aboard the Daigo Fukuryu Maru ("Lucky Dragon no. 5"), which was 85 miles away from the detonation and outside the designated danger zone. A panic ensued when irradiated tuna was sold in Japanese cities and eaten by scores of people.
The international community was appalled by the bomb test. Belgian diplomat Paul-Henri Spaak warned, "If something is not done to revive the idea of the President's speech -- the idea that America wants to use atomic energy for peaceful purposes -- America is going to be synonymous in Europe with barbarism and horror." Indian Prime Minister Jawaharlal Nehru declared that US leaders were "dangerous self-centered lunatics" who would "blow up any people or country who came in the way of their policy."

Eisenhower told the NSC in May 1954, "Everybody seems to think that we are skunks, saber-rattlers, and warmongers." Dulles complained, "Comparisons are now being made between ours and Hitler's military machine."

Criticism was fiercest in Japan. In Tokyo's Suginami ward, housewives began circulating petitions to ban hydrogen bombs. The movement caught on across the country. By the next year, an astounding 32 million people, or one-third of Japan's population, had signed petitions against hydrogen bombs.

Long-suppressed rage over the 1945 atomic bombings, squelched by US occupation authorities' total ban on discussion of the bombings, had finally erupted. The Operations Coordinating Board of the NSC recommended that the United States contain the damage by waging a "vigorous offensive on the non-war uses of atomic energy" and even offer to build Japan an experimental nuclear reactor. AEC Commissioner Thomas Murray concurred, proclaiming, "Now, while the memory of Hiroshima and Nagasaki remain so vivid, construction of such a power plant in a country like Japan would be a dramatic and Christian gesture which could lift all of us far above the recollection of the carnage of those cities."

Selling the peaceful atom in Japan. The Washington Post applauded Murray's idea as a way to "divert the mind of man from his present obsession with the armaments race." "Many Americans are now aware … that the dropping of the atomic bombs on Japan was not necessary. … How better to make a contribution to amends than by offering Japan the means for the peaceful utilization of atomic energy. How better, indeed, to dispel the impression in Asia that the United States regards Orientals merely as nuclear cannon fodder!"

Murray and Rep. Sidney Yates (Democrat of Illinois) suggested locating the first electricity-producing nuclear power plant in Hiroshima. In early 1955, Yates introduced legislation to build a 60,000-kilowatt generating plant there that would "make the atom an instrument for kilowatts rather than killing." By June, the United States and Japan had signed an agreement to work together on research and development of atomic energy.

But selling this idea to the Japanese people would not be so easy. When the US Embassy, US Information Service (USIS), and CIA launched their vigorous campaign to promote nuclear energy in Japan, they turned to Matsutaro Shoriki, the father of Japanese baseball, who ran the Yomiuri Shimbun newspaper and the Nippon Television Network. After two years' imprisonment as a Class-A war criminal, Shoriki had been released without trial; his virulent anti-communism helped redeem him in American eyes (see Tetsuo Arima, "Shoriki's Campaign to Promote Nuclear Power in Japan and CIA Psychological Warfare," unpublished paper presented at Tokyo University of Economics, November 25, 2006). Shoriki's newspaper agreed to co-sponsor the much-hyped US exhibit welcoming the atom back to Japan on November 1, 1955 with a Shinto purification ceremony in Tokyo. The US ambassador read a message from Eisenhower declaring the exhibit "a symbol of our countries' mutual determination that the great power of the atom shall henceforward be dedicated to the arts of peace."

After six weeks in Tokyo, the exhibit traveled to Hiroshima and six other cities. It highlighted the peaceful applications of nuclear energy for generating electricity, treating cancer, preserving food, controlling insects, and advancing scientific research. Military applications were scrupulously avoided. The nuclear future looked safe, abundant, exciting, and peaceful. The turnout exceeded expectations. In Kyoto, the USIS reported, 155,000 people braved snow and rain to attend (p. 176).

The steady spate of films, lectures, and articles proved enormously successful. Officials reported, "The change in opinion on atomic energy from 1954 to 1955 was spectacular … atom hysteria was almost eliminated and by the beginning of 1956, Japanese opinion was brought to popular acceptance of the peaceful uses of atomic energy" (p. 179).

Such exultation proved premature. Antinuclear organizing by left-wing political parties and trade unions resonated with the public. An April 1956 USIS survey found that 60 percent of Japanese believed nuclear energy would prove "more of a curse than a boon to mankind" and only 25 percent thought the United States was "making sincere efforts" at nuclear disarmament. The Mainichi newspaper blasted the campaign: "First, baptism with radioactive rain, then a surge of shrewd commercialism in the guise of 'atoms for peace' from abroad." The newspaper called on the Japanese people to "calmly scrutinize what is behind the atomic energy race now being staged by the 'white hands' in Japan."

But intensified USIS activities over the coming years began to bear fruit. A classified report on the US propaganda campaign showed that in 1956, 70 percent of Japanese equated "atom" with "harmful," but by 1958, the number had dropped to 30 percent. Wanting their country to be a modern scientific-industrial power and knowing Japan lacked energy resources, the public allowed itself to be convinced that nuclear power was safe and clean. It had forgotten the lessons of Hiroshima and Nagasaki.

In 1954, the Japanese government began funding a nuclear research program. In December 1955, it passed the Atomic Energy Basic Law, establishing the Japan Atomic Energy Commission (JAEC). Shoriki became minister of state for atomic energy and first chair of the JAEC. Japan purchased its first commercial reactor from Britain but quickly switched to US-designed light water reactors. By mid-1957, the government had contracted to buy 20 additional reactors.

In the United States, the AEC aggressively marketed nuclear power as a magic elixir that would power vehicles, feed the hungry, light the cities, heal the sick, and excavate the planet. Eisenhower unveiled plans for an atomic-powered merchant ship and an atomic airplane. In July 1955, the United States generated its first commercial nuclear power. In October 1956, Eisenhower informed the United Nations that the United States had agreements with 37 nations to build atomic reactors and was negotiating with 14 more.

By 1958, the United States was becoming almost giddy with the prospect of planetary excavation under the AEC's Project Plowshare, which proposed to use peaceful nuclear blasts to build harbors, free inaccessible oil deposits, create huge underground reservoirs, and construct a bigger and better Panama Canal. Some wanted to alter weather patterns by exploding a 20-megaton bomb alongside the eye of a hurricane. One Weather Bureau scientist proposed a plan to accelerate melting of the polar icecaps by detonating 10-megaton bombs. Only Eisenhower's reluctance to unilaterally break a Soviet-initiated nuclear test moratorium halted this sheer folly.

Still, Project Plowshare achieved its goals. Lewis Strauss, chairman of the AEC, admitted that Plowshare was intended to "highlight the peaceful applications of nuclear explosive devices and thereby create a climate of world opinion that is more favorable to weapons development and tests."

Atoms for Peace masks nuclear weapons buildup. Under the cover of the peaceful atom, Eisenhower pursued the most rapid and reckless nuclear escalation in history. The US arsenal went from a little more than 1,000 nuclear weapons when he took office to approximately 22,000 when he left. But even that figure is misleading. Procurements authorized by Eisenhower continued into the 1960s, making him responsible for the levels reached during the Kennedy administration -- more than 30,000 nuclear weapons. In terms of pure megatonnage, the United States amassed the equivalent of 1,360,000 Hiroshima bombs in 1961.

Few know that Eisenhower had delegated to theater commanders and other specified commanders the authority to launch a nuclear attack if they believed it mandated by circumstances and were out of communication with the president or if the president had been incapacitated. With Eisenhower's approval, some of these theater commanders had in turn delegated similar authority to lower commanders (I am grateful to Dan Ellsberg for this information). And given the fact that there were then no locks on nuclear weapons, many more people had the actual power, if not the authority, to launch a nuclear attack, including pilots, squadron leaders, base commanders, and carrier commanders.

In 1960, Eisenhower approved the first Single Integrated Operational Plan, which stipulated deploying US strategic nuclear forces in a simultaneous strike against the Sino-Soviet bloc within the first 24 hours of a war. The Joint Chiefs were subsequently asked to estimate the death toll from such an attack. The numbers were shocking: 325 million dead in the Soviet Union and China, another 100 million in Eastern Europe, 100 million from fallout in Western Europe, and up to another 100 million from fallout in countries bordering the Soviet Union -- more than 600 million in total.

The price of denial. While Americans were preparing for nuclear annihilation, the Japanese were living in their own form of denial. From its shaky beginnings in the 1950s, the Japanese nuclear power industry flourished in the 1960s and 1970s and continued to grow thereafter. Prior to the tsunami-precipitated Fukushima accident last month, Japan had 54 functioning nuclear power reactors that generated 30 percent of its electricity; some projected it would not be long before Japan reached 50 percent. But the terrible nuclear catastrophe in Fukushima has forced the Japanese to deal for a third time with the nightmarish side of the nuclear age and the fact that their nuclear program was born not only in the fantasy of clean, safe power, but also in the willful forgetting of Hiroshima and Nagasaki and the buildup of the US nuclear arsenal.

A reckoning with Japan's nuclear legacy is now taking place. Hopefully, the Japanese will move forward from this tragedy to set a path toward both green energy and repudiation of deterrence under the US nuclear umbrella, much as they blazed a path with their Peace Constitution and antinuclearism following the horrors of World War II.


Peter Kuznick
Kuznick is associate professor of history at American University and director of the Nuclear Studies Institute. Kuznick founded the Committee for a National Discussion of Nuclear History and Current Policy and co-founded the Nuclear Education Project. He is the author of Beyond the Laboratory: Scientists as Political Activists in 1930s America, co-editor of Rethinking Cold War Culture, and co-author of Rethinking the Atomic Bombings of Hiroshima and Nagasaki: Japanese and American Perspectives (in Japanese, 2010). Currently, he is co-authoring a 12-part documentary film series and book with Oliver Stone titled The Forgotten History of the United States, which is scheduled to air on Showtime in November.

1 comment:

Peace Philosopher said...

いつものように仲間に送っているアップデートをここに置きます。

★お知らせ。

Bulletin of the Atomic Scientists 掲載ピーター・カズニック論文和訳『日本
の核の歴史を振り返るーアイゼンハワーと、「戦争」そして「平和」のための原
子力利用』過去17年アメリカ学生を広島長崎に連れて行っている核の歴史専門家
による考察。http://p.tl/52Da 松下ノア訳。田中利幸解説付英語版は http://p.tl/SNwS


(私のツイート)


朝起きて一日を小出裕章「非公式まとめサイト」でスタートするという人が私の
周りに結構いる。私も一日に一度は必ず行くようにしている。アクセス数もすご
いようだ。希望を見る。http://p.tl/NO87

20mSV問題を海外に発信したい人へ。The Asia-Pacific Journal:Japan Focus よ
り、小佐古辞任文全英訳付記事 http://p.tl/zrqX 高まる海外の批判、国内の
運動をレポートした記事 http://p.tl/6K0T あります。

続・20mSV問題を海外に発信したい人へ。ドイツ語ではDer Spiegel
http://p.tl/VC_1 英語では The Guardian紙 http://p.tl/0sS4 反核医師団体
 http://p.tl/YV_y http://p.tl/nfnu

続々20mSV問題を海外に発信したい人へ。ティルマン・ラフはhttp://p.tl/J1lB
日本発英語サイトは MSCR http://www.mscr.jp/ グリーンアクション
http://p.tl/vNMu 署名も。

福島第1原発:「20ミリシーベルトの誤解生んだ」安全委 - 毎日jp(毎日新
聞) http://t.co/lO0y5m4 撤回の準備段階にあるという意味だと希望的解釈をし
ている。

5月2日の参院会館での20ミリ交渉のとき、8年間で50ミリSV代の被ばく
で白血病で亡くなり労災認定を受けた母親が経験を訴えた。「原発等被曝労災一
覧」。40,50mSVといった線量でも白血病死で労災認定されている。子ど
もは大人の10分の1という目安がICRPでも勧告。大人が20mSVの場合
子どもは2mSV。やはり子ども20mSVは論外。被ばく「許容」でなく「強
要」である。http://p.tl/cfUk

3月15日のとてつもない放射線の高さは「高崎に設置されたCTBT放射性核
種探知観測所における放射性核種探知状況」http://p.tl/YEIX の計測値を見て
も明らかです。これは全世界の核実験を監視するために世界中に張り巡らされた
高機能観測機で、日本では高崎。知らない人も多い。

私が知る限り東京しか報道しなかったこの4月8日の報道「海へ放水 米、3日
前に内諾」http://p.tl/HAhE いずれにせよ多くの対策を米の助言に頼っている
・従っているのであり、原発処理でも対米従属です。

毎日:「米要請で汚染水」平田参与が発言撤回 http://p.tl/AAuW 米の関与は東
京の報道から伺える。平田氏は撤回させられたのだ。発言で問題なのは米関与で
はなく「流された水は非常に低濃度で、量も少ない。」法定濃度100倍、1万
1500トンもの水を。こちらを撤回すべき。

またこの毎日の報道に異議。http://p.tl/AAuW 「相次ぐ参与・顧問の問題発言」
平田も小佐古も内部告発者である。問題なのは告発している対象にあるのであっ
て発言した人ではない。ウィキリークスでジュリアンアサンジやブラッドリーマ
ニングを叩く権力にメディアは加担するな。

(ここからは他の人たち)

(basilsauce)
東京の農作物からも放射能出ています。ドイツ放射線防護協会の日本における放
射線リスク最小化のための提言?http://bit.ly/ivZpol に照らすと、摂取に適さ
ない数値のオンパレード。都内産農林水産物の放射性物質検査結果について
http://bit.ly/mCbn5n

(佐藤潤一)
国際環境団体グリーンピースは、原発の南30~70キロの海域の海藻類から極
めて高い数値が検出されたと速報で発表。例えば昆布から1万9千ベクレル/キ
ログラム。これは政府発表の数値とはかけはなれた高い数値。しかし、日本政府
は海洋調査を頑なに拒否している。

(そらまめ)
異常だ!!国の基準値(500ベクレル)を超えたため市との協定に基づき
測定結果は公表できません・・・て?!→東京都小金井市の野菜から放射性セシ
ウムhttp://bit.ly/ilBgsZ

(47ニュース)
静岡で生茶葉から放射性セシウム 伊豆市 - 47NEWS(よんななニュース)
http://t.co/TvKsI3S

(basilsauce)
えー、今年くらいはやめておけばいいのに。海外で売れなくなるだろうな。緑茶
入り商品も。日本からお土産持って行っても手を付けてもらえず悲しい思いをす
る旅行者も出そうだな。国際的には汚染レベルとされる茶葉の流通を認める
http://bit.ly/jcbkZC

(metakit)
原子力緊急事態宣言: 米国が東北新幹線の被ばく量や健康基準を超過した駅名を公表
http://phnetwork.blogspot.com/2011/05/blog-post_18.html?spref=tw