広島長崎と第五福竜丸を経た反核日本に原子力発電が導入された背景には、アメリカの反共戦略と日本のメディア王、正力松太郎の野望の組み合わせがありました。その歴史をひも解いた1994年3月16日放映NHK番組『現代史スクープドキュメント 原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~』の書き起こしを掲載します(原京子さんとご家族に感謝)。半世紀前の支配者たちの利権と策略の産物である原発への高すぎる代償を支払っているのは、今福島で被曝しながら必死に働く現場の作業員、被曝している市民たち、子どもたち、汚された土地と空、海と生き物たちだと思うと悔しさで一杯になります。現在進行中の事故や被曝のリスクの情報を追うことで精一杯になりがちですが、過ちを繰り返さないためにも、当時市民たちがどうやって核のエネルギー利用を導入するためのプロパガンダに洗脳されていったかを知る必要があります。このサイトでは田中利幸氏の論文を既に紹介しておりますが、近日中に、米国の専門家による、アイゼンハワーの戦略を中心とした論文の和訳も発表する予定です。また、今回の番組で扱っているトピックについてもっと知りたい人は、有馬哲夫の『原発・正力・CIA-機密文書で読む昭和裏面史』(新潮新書、2008)を読むことを勧めます。
概要(NHKアーカイブサイトより。)
「1953年、米ソで水爆開発が進む中、アイゼンハワー政権は、原子力平和利用を促進することで軍縮が実現できるとして、同盟諸国に原子力情報の公開と濃縮ウランの供給を提案した。その裏には、ソ連に対抗して西側の結束を図ろうとする意図があった。番組では、日米原子力協定の締結に至る過程に焦点をあて、原子力導入の舞台裏における米ソの主導権争いと、民間から進められた原子力受け入れの世論作りの全ぼうを明らかにする。 」
現代史 スクープドキュメント
原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~
(書き起こし)
去年12月、アメリカ政府は、核開発に関わる隠された事実を明らかにした。冷戦が本格化した1940年代後半から50年代、放射能の影響を調べる人体実験 が行なわれていたというのである。(キャプション:「プルトニウムの人体への注射」)(キャプション:「ベータ線に対する皮膚の反応」)
こうした中、アメリカは、もうひとつの巨大な実験を準備していた。(水爆ブラボー(1954年3月1日):水爆実験の映像)1954年3月1日、アメリカは南太平洋ビキニ環礁で、水爆ブラボーの爆発実験を行なった。
(第五福竜丸:船の映像)
この実験で放出された死の灰が、近くで操業中のマグロの延縄漁船・第五福竜丸に降り注ぎ、乗組員23人が被爆した。わゆる、第五福竜丸事件である。ヒロシマ、ナガサキに次ぐ3回目の被爆事件として、日本では激しい反米世論と放射能パニックが沸き起こった。
この頃、ひとりのアメリカ人が銀座で日本人と密談を交わしていた。二人は、日米関係に亀裂が入ることを恐れ、ある計画を具体化すべく協力を約束した。それが、日本に原子力を導入する重要なステップとなっていく。日本人の名は、柴田秀利。当時日本テレビの重役であった。
柴田は、日本の初期の原子力開発に関わる膨大な書類を残している。政財界の要人の連絡先を記した手帳、アメリカとの頻繁な書簡の往復、そして政府側の内部文書など、その数は200点を越える。そこからは、日米が手を組み、反核感情が高まる日本に原子力発電を導入するまでのシナリオが鮮明に浮かび上がってくる。(映像:“毒は毒を持って制する”)
(タイトル 原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~)
原爆でアメリカに遅れをとったソビエトは、1950年代、水爆の開発に躍起になっていた。そして1953年8月12日、ソビエトはアメリカに先んじて実用的な水爆の開発に成功した。(第1回水爆実験(1953年8月12日):水爆実験の映像)核開発競争で、初めてソビエトが優位に立ったのである。4ヵ月後、アメリカのアイゼンハワー大統領は、国連総会で世界に向けて演説を行なった。それは、原子力の情報をすべて機密扱いとしてきた従来の政策を大きく変換するものであった。(1953年12月8日 国連)
(アイゼンハワー大統領の演説)
「私は、提案したい。原子力技術を持つ各国政府は、蓄えている天然ウラン、濃縮ウランなどの核物質を国際原子力機関(IAEA)をつくり、そこにあずけよう。そしてこの機関は、核物質を平和目的のために各国共同で使う方法を考えてゆくことにする。」
アトムズ・フォー・ピース。原子力の平和利用を呼びかけたこの提案は、画期的な核軍縮提案とみられた。
ウラン鉱石の中に含まれる核分裂性物質、ウラン235。その濃度を上げたいわゆる濃縮ウランが核兵器に使われる。アメリカの提案は、核兵器用に生産した濃縮ウランを、原発など民間に転用することにより軍縮をすすめようというものであった。しかし、この提案の裏には、アメリカの核戦略におけるもうひとつの大転換があった。演説の五日前に開かれたアメリカ国家安全保障会議の文書には、こう書かれている。
“アメリカは、同盟国に対して核兵器の効果や使用法、ソビエトの核戦力などについて情報を公表していくべきである。”(Weapons Effects, Use of Atomic Weapons, Soviet Atomic Capabilities)
それは、NATOなど、同盟諸国にアメリカの核兵器を配備しようとする計画であった。平和利用を呼びかける一方で、西側諸国の核武装をすすめていたのである。ソビエトは、アメリカの二枚舌を非難して、原水爆の無条件禁止を世界に訴えた。(映像:フルシチョフ書記長)そして、米ソは互いに、核の脅威を煽り立てる宣伝合戦を繰り広げていく。
(映像:ソ連の国内向け宣伝映画)
“これが原爆です。巨大な爆発力をもつ原爆は、アメリカによって第二次大戦ではじめて使用されました。いかにしてアメリカはソビエトとの戦争に勝利するか、そんな内容の雑誌が、アメリカでは発行されています。すでに1945年以来ずっと、ワシントンでは、ソビエトとの核戦争に備える動きがあったのです。
(映像:アメリカの国内向け宣伝映画)
“原爆だ!頭を下げて隠れろ!”(歌)
(映像:東京)
アメリカは、海外での広報宣伝活動を強化するため、海外各地に広報文化交流局、いわゆるUSISを置いた。東京には、当時、虎ノ門のアメリカ大使館別館にUSISが設置されていた。USISは、新聞や放送、映画などのメデイアを通じて、アメリカの原子力平和利用計画の宣伝をすすめていた。
(元USIS局:次長 ルイス・シュミット)
「我々、USISは、日本での原子力平和利用の宣伝活動に、特に力を入れました。日本は、原爆が投下された唯一の国であり、いかなる形の原子力計画に対しても、反発していたからです。」
(映像:ビキニ環礁(1954年3月))
アメリカは、原子力平和利用計画を宣伝する一方で、ソビエトをしのぐ水爆の開発に全力を挙げていた。アイゼンハワーの演説からわずか3ヶ月ごの1954年3月、ビキニ環礁で秘密裏に水爆実験・キャッスル作戦が実行された。
(映像:水爆ブラボー 1954年3月1日)
秘密だったはずの実験は、第五福竜丸の被爆事件によって世界中に知れ渡った。やがて、ビキニ近海で獲れたマグロから、放射能が検出されはじめた。食料品の汚染は、国民の不安を掻きたて、アメリカの核実験に対する反発が強まった。さらに、雨からも微量の放射能が検出され、野菜や牛乳などにも汚染の疑いが起こり、放射能パニックが広がっていった。
(映像:広島市1954年8月6日)
原爆の日を迎えた広島でも、アメリカに対する非難の声が相次いだ。「アメリカ人道主義とか言っとるけれども、何が人道主義が唱えられるんだ。原爆というのはもう、この世のものからないようにしちまったらいい」(無くしてしまったらよい?)
(元USIS局次長 ルイス・シュミット)
「私たちが、せっかく積み重ねてきた努力が水の泡にになってしまいそうでした。まったく、最悪の事態だったと言ってもいいでしょう。第五福竜丸事件のあと、日本人は、アメリカの原子力平和利用計画に、さらに疑いを強めるようになってしまったのです。」
柴田秀利は、反米に傾いた世論の動向を危惧していた。柴田は、このビキニ事件が起こした大きな波紋を、次のように記している。
(柴田秀利の手記より)
“日本は唯一の被爆国であり、こと原子力と言うと、たちまち人々の神経は苛立ち、怒髪天を突く。原爆アレルギーの最たる国である。日本人全体の恨みと怒りは、それこそキノコ雲のように膨れ上がり、爆発した。その動きを見逃す手はない。たちまち共産党の巧みな心理戦争の餌食にされ、一大政治運動と化した。”
柴田は、吉田総理大臣をはじめとする、政財界の上層部に通じていた。また、国内のみならず、アメリカにも多くの人脈を持っていた。
戦後最大の労働争議のひとつと言われた、読売争議。柴田は、その中で頭角を現した。GHQの担当記者だった柴田は、GHQ幹部を動かして組合側の要求を抑え、経営側を勝利に導いた。柴田は、社主・正力松太郎の“懐刀”として、次第に重用されるようになり、そして、日本テレビの創設に深く関わり、GHQの人脈をもとに、アメリカとの交渉に辣腕を振るったのである。手記によれば、柴田は第五福竜丸事件のあと、銀座のすし屋で一人のアメリカ人と接触を重ねていた。
(柴田秀利の手記より)
“このまま放っておいたら、せっかく営々として築き上げてきたアメリカとの友好関係に決定的な破局を招く。日米双方とも、対応に苦慮する日々が続いた。この時、アメリカを代表して出てきたのがD.S.ワトソンという私と同年輩の肩書きを明かさない男だった。私は告げた。日本には、“毒を持って毒を制する”ということわざがある。原子力は、諸刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に歌い上げ、希望を与える他はない。“
柴田の書簡にも名前の登場するダニエル・S・ワトソン。ワトソンとは、いったい何者だろうか。アメリカ・コネチカット州に、かつてワトソンの同僚だった人物がいた。彼は、匿名を条件に、電話インタビューに応じた。
(インタビュー)
なぜワトソンを知っているのですか?
---同じ時期に東京に駐在し、政府のために働いていたからだ。
ワトソンは、心理戦略などに関与していましたか?
---そのとおりだ。
情報は、国家安全保障会議などに届けられていたのですか?
---そのとおりだ。当時は、アイゼンハワー政権の時代で、大統領は、原子力平和利用計画には特別熱心だったからね。
すると、原子力平和利用計画についての情報は。。。
----情報は、かなり高いレベルのところに届けられていたよ。
ワトソンは、メキシコに住居を移していた。メキシコ南部にある、クエルナバーカ。メキシコ屈指の高級保養地・クエルナバーカに、ワトソンは今も健在である。ワトソンは、日本での活動を終えたあと、パキスタン、香港、ベトナムなどで、アメリカ政府のために働いたという。しかし、彼は、所属機関や日本での仕事の目的については、決して明かそうとはしなかった。
(ワトソンのインタビュー)
「私が政府のどの組織に属して、どこに報告していたのかは、当時柴田にも伝えませんでした。日本に来ている公式の目的についても同じです。柴田も、私に対して同様の態度をとっていました。私が言えるのは、それだけです。柴田は、明らかに首相官邸と連絡を取り合っていました。私は、日本の首相から出された様々な提案を、柴田を通じて受け取っていました。私は、非常に驚きました。それは、テレビ局の重役がするような提案ではなかったからです。まったくレベルの違うものでした。」
対日政策の進行状況を記した、当時の国務省の報告書。第五福竜丸事件後の対日政策について、次のように記されている。“核兵器に対する日本人の過剰な反応ぶりは、日米関係にとって好ましくない。核実験の続行は困難になり、原子力平和利用計画にも支障をきたす可能性がある。そのために、日本に対する心理戦略計画を、もう一度見直す必要がある。”
ワトソン自身の説明によると、彼は1953年の6月に来日した。やがて、当時のイギリスのサンデータイムスの東京特派員を通じて、柴田秀利と知り合った。目的は、読売新聞社主・正力松太郎に近づくことであった。
(ダニエル・ワトソンのインタビュー)
「日本では、新聞を押さえることが必要だと、はっきりわかっていました。それも、大きな新聞を、です。日本の社会は、新聞に大きく影響を受けます。日本人は一日に最低三紙に目を通し、それから自分の意見を組み立てるのです。その新聞は、当時ひとりの男によって経営されていました。その下には、決してミスをしない、優秀で従順な部下が揃っていました。ですから、この仕事で成果をあげるには、誰よりも先に正力さんに会って話をした方が良いと思いました。」
当時の読売新聞社主・正力松太郎。内務省の警察官僚だった正力は、大正13年、官職を退いて、読売新聞の経営に乗り出した。正力が買収した時、発行部数わずか5万部余だった読売新聞は、正力の斬新な企画力と紙面改革によって、急速に部数を拡大した。昭和28年、正力は新たな事業拡大に乗り出した。日本初の民間テレビ局、日本テレビ放送網を創設したのである。街頭テレビのプロレス中継は、爆発的なブームを呼んだ。読売新聞の発行部数は、このとき300万部に迫ろうとしていた。正力は、新聞とテレビの2大メデイアを手中に収めていたのである。ワトソンは、柴田の仲介で、正力松太郎と会談する機会を持った。ワトソンによれば、会談は、第五福竜丸事件の起きる前からすでに行なわれていたという。
(ダニエル・ワトソンのインタビュー)
「正力は、実に鋭い男で、的確な質問をしてきました。私はすぐに本題に入り、原子力の平和利用について話をしました。日本は、原子力の平和利用にうってつけの国である、なぜなら、国内にエネルギー源がほとんどない。それが、私の話のポイントでした。すると、それを聞いていた正力は、目を輝かせたのです。」
なぜ、この時正力は、原子力にそれほどの興味を示したのだろうか。
(通産省工業技術院初代原子力課長:堀 純郎さん の インタビュー)
「日本が非常に、貧乏をしていると。貧困の結果、共産化するかもしれないと。特に、エネルギーが不足している。そのために、貧乏して共産化する恐れがあると。これを、なんとかして防がなくてはならないと。それには、将来、原子力というものがエネルギー源として非常に有用だと聞いていると。だから、これを開発してエネルギーを豊富にして、貧乏を救済し、ひいては共産化を防ぎたいと。」
アメリカの水爆実験から半年後、第五福竜丸の船長だった久保山愛吉さんが死亡。死因は、“放射能症”とされた。アメリカを非難する世論は、さらに高まった。水爆実験に対する日本人の強い反発にどう対処すべきか、アメリカの方針が列記されたホワイトハウスの文書には、次のような一節がある。“漁民の病気の原因は、放射能ではなく、飛び散った珊瑚礁の化学作用によるものであるとせよ。”
水爆実験の責任を取ろうとしないアメリカに対し、抗議運動が広がっていった。社会党や共産党など左翼勢力は、アメリカを戦争勢力と位置づけ、アメリカと結びついた保守政権に対する攻撃を強めていった。アメリカは、日本の政治情勢に神経を尖らせていた。極東での、反共の砦となるべき日本の政治基盤が安定しないことを懸念していたのである。
(元・国務省日本課 リチャード・フィンのインタビュー)
「アメリカに対して友好的だった吉田政権は、弱体化する一方でした。これに対し、左翼は、アメリカの核実験を非難することによって勢力を増し、日本を乗っ取る危険性さえ生まれていました。」
ソビエトもまた、こうした日本の情勢に注目していた。日ソの国交回復を果たし、日本をアメリカから引き離す好機と捉えていたのである。当時のフルシチョフ書記長は、ソビエトの対日政策について、次のような証言を残している。(フルシチョフ書記長の声)「日本には、アメリカに対する大きな不満があった。広島と長崎に原爆を落としたのは、ほかならぬアメリカだ。被爆者やその家族、政治家は強い不満を持っていたのだ。もし、わがソビエトの大使館が東京にできれば、日本の政治に不満を持つこれらの人々が、我々の大使館に接触してくるようになるだろう。」
内外の政治情勢が緊迫する中、柴田はワトソンと銀座で会い、ひとつの計画を持ちかけた。それは、民間使節の形をとった原子力平和使節団をアメリカから招き、原子力の平和利用を広く一般国民にPRしようというものであった。
(キャプション:“原子力平和利用使節団”Atoms-for-Peace” Mission)
(ワトソンのインタビュー)
「柴田に、金はあるのかと尋ねると、十分にあると答えました。では、プロデユースをこちらでやろうかと言うと、それも自分たちでやると言うのです。私もそれに賛成でした。そこで、私はジェネラル・ダイナミック社と連絡を取り始めたのです。」
その年1月、アメリカは世界に先駆けて、原子力潜水艦・ノーチラスを完成させた。
(映像:ノーチラス進水式 1954年1月21日)
ジェネラル・ダイナミック社は、その開発メーカーであった。ジェネラル・ダイナミック社の社長、ジョン・ホプキンスは、原子力平和利用計画に熱心で、海外での市場改革を、財界で提唱している人物であった。柴田は、アメリカのテレビ関係者などを通じて、ホプキンスと連絡を取り、平和使節として来日するよう、正力の意向を伝えた。
(映像:書簡)
“原子力平和利用の先覚者たる貴下の訪日こそは、この際、期せずしてアメリカ側からする最も効果的な反撃となることは、小生の深く確信するところであります。”
明けて1955年、読売新聞は元日の朝刊に、アメリカ原子力平和使節団の招聘を告げる社告を掲載した。これ以後5ヶ月に渡り、原子力平和利用のキャンペーン記事が、たびたび読売新聞紙上に登場することになった。
(柴田の手記より)
“読売も日本テレビも、共に原子力特別調査班を作り、両者をあげて、使節団を受け入れる世論作りに邁進した。私は、新聞とテレビの両メデイアを相呼応させて活用する本格的な大キャンペーン開始の時が来たことを痛感し、精魂傾けていった。”
(映像:オプニンスク原発 ソビエト)
この頃、ソビエトは、世界初の商業用原子力発電所の可動に成功し、アメリカを驚かせた。そして、諸外国に対し、原子力平和利用の技術援助を行なう用意があることを明らかにした。アメリカでは、まだ最初の商業用原発の建設が始まったばかりだった。アメリカは、大きな政策転換を図った。アイゼンハワーは、原子力の国際管理案を一旦棚上げする。そして、西側友好国に対し、アメリカが個別に二国間で協定を結ぶという方針を打ち出したのである。
アメリカは、協定締結国に対し、濃縮ウランや原子力の技術情報を供与することになった。アメリカは、濃縮ウランを外交カードとして、各国をアメリカの勢力下に置こうとしたのである。アメリカ原子力委員会は、日本政府とも原子力協定を結ぼうと、ワシントンで日本側に対する打診を行なっていた。当時の原子力委員会国際部長、ジョン・ホールは、日本政府と公式な交渉を始める時期を模索していた。
(ジョン・ホールのインタビュー)
「第五福竜丸事件のせいで、日本人が神経過敏になっていることはよく分かっていました。第五福竜丸事件の決着と、原子力協定の公式交渉の時期が重なるのは避けるべきだと思いました。そこで、交渉の時期を遅らせて、春にすべきだと、私は提案しました。春ならば、交渉妥結後、すぐに議会の承認を得ることもできるからです。」
昭和29年、日本政府は2億3500万円の原子力研究予算を成立させていた。しかし、学会には原子力に対する反発が根強く、ウラン入手のルート(?)すら立たない状態が続いていた。アメリカからの提案は、こうした状況に突破口を開くものだった。1月4日、第五福竜丸事件は、アメリカ政府が保証金2百万ドルを日本政府に支払うことで決着した。アメリカの法的責任は一切問わないことを条件とする、政治決着であった。
その一週間後の11日、日本政府に宛てて、アメリカから濃縮ウラン受け入れを打診する書類が届けられた。しかし、外務省は、このことを外部に対して一切秘密にした。
(元外務省国際協力局第三課長 松井佐七郎さん インタビュー)
「みんな、反対したんだよ。平和利用という名のもとに、軍事利用に走られたらかなわんという一部の人があったから、非常に、火をつけるような議論で、。。。。。火を点けると両側にぱっと燃え広がる背景があったから、やはり相当慎重に足元を見て、ひとつひとつ辺りを見回して行かざるを得なかったんですよ。」
その3日後の1月14日、ソビエトは中国・東欧5カ国に対して、原子力技術や濃縮ウランの援助を行なうと発表した。(キャプション:ソ連の原子力援助対象国 中国、ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ルーマニア)ソビエトも、独自に2国間協定を結び、核のブロックを作ろうとしたのである。
一方、外務省がひた隠しにしていた、アメリカからの濃縮ウラン提供の申し入れは、3ヵ月後、朝日新聞のスクープによって明るみに出た。以降、日本国内の世論は、受け入れの是非をめぐって二つに割れていく。一週間後に開かれた日本学術会議の総会でも、この問題をめぐって議論が沸騰した。受け入れに反対する科学者たちは、原子力を通じて日本がアメリカの軍事ブロックに組み込まれる可能性を指摘し、あくまで自主開発をすべきであると主張した。
物理学者の武谷三男さん。武谷さんも、当時、濃縮ウラン受け入れに反対した一人である。
(武谷三男さん インタビュー)
「それはもちろん、アメリカでもいろいろなやっていることを見ていて、あらゆることで”やばい“と。それは、軍事との区別がないわけですよ、アメリカでは。英国でもそうですけれどね。軍事のおこぼれが、平和利用という格好になって。そういう出発ですからね。」
柴田の資料に、学術会議の主要メンバーの思想傾向を調べた書類が残っていた。警察庁と公安調査庁調べと記され、1955年当時のものと推定される資料である。当時、“共産党寄り”とみなされた学者には、赤丸が記されている。
2月、正力松太郎は、突如、富山2区から衆議院選に立候補することを表明した。正力は、“保守合同による政局の安定”と“原子力平和利用の推進”を2大公約に掲げた。この選挙で正力は初当選し、原子力導入に向けた大きな足がかりを得たのである。
正力は、早速財界に働きかけて、原子力平和利用懇談会(キャプション:1955年4月28日発足)を発足させ、自ら代表世話人に就任した。経団連の石川一郎会長を筆頭に、重工業、電力業界をはじめ、財界の主要メンバーが集まった。学会からも、原子力の導入に積極的な科学者が集められ、平和使節団受け入れの準備が整えられていった。
(ダニエル・ワトソンのインタビュー)
「正力の存在がなければ、これだけの人は集まらなかったでしょう。特に科学者たちは、地位を失うことを恐れて、断れなかったように見えました。」
当時、日本では慢性的な電力不足の解決のために、大型ダムが次々に造られていた。しかし、建設費が次第に高騰し、水力発電の発電量は限界に近づいていた。火力発電所も、まだコストが高く、将来の石炭不足も予想されていた。産業界は、新たなエネルギー源を模索していたのである。
正力は、アメリカから提供されたデータを使って、水力や火力より原子力発電の方が経済的であると、財界を説得した。正力は、原子力発電の安全性についても説明した。財界誌に掲載された正力の文章には、原子炉から出る“死の灰”も、食物の殺菌や動力機関の燃料に活用できる、と書かれている。
一方、アメリカ国家安全保障会議は、海外との原子力協力について、次のような方針を採用していた。“向こう十年間に、経済的に競争力のある原子力発電をすることは期待できない。しかし、ソビエトは原子力開発を急ピッチで進めており、アメリカが冷戦においてリーダーシップを奪われる可能性がある。”
電力コストの高い日本は、最も有力なターゲットとしてここに挙げられている。
(映像:読売映画社 ニュース 女性アナウンサーの声)
“アメリカから、読売新聞社が招いた原子力平和利用の民間使節、ホプキンス、ローレンス、ハウスタットの三氏が、5月9日来日。読売新聞社主・正力松太郎氏らと、固い握手を交わし、花束を受けました。”
使節団には、ノーベル賞を受賞した物理学者・ローレンスら、著名な科学者が随行し、話題を集めた。一行は、鳩山総理大臣他、政財界の主要人物と精力的に会談を重ね、濃縮ウラン提供の前提となる日米原子局協定の早期締結を促した。一方、国民へのPR のために、原子力平和利用大講演会(キャプション:5月13日 日比谷公会堂)が企画された。講演会は人気を集め、会場となった日比谷公会堂の周りには、長蛇の列ができた。会場に入りきれない人のためには、街頭テレビが設置され、講演の様子や広報映画が映し出された。
(映像:アメリカの宣伝映画)
“核分裂によって発生した熱が、発電に使われます。アメリカでは、大型の原発を建設中で、完成すればすぐにすべての都市に電力を供給できるようになるでしょう。船や飛行機い原子力を使えば、輸送革命が起きるでしょう。原子力に対して、知性に基づく確固たる態度で臨むことは、原子力時代における子どもたちの未来に関わる問題なのです。”
(柴田秀利の手記より)
“読売は、2ページを割いて、この講演内容の全貌を掲載したし、テレビは娯楽番組をはずしてその全容を生中継し、国民大衆の啓蒙することができた。こうして、原爆に脅え、憎み、反対ののろしばかりを上げ続けてきた日本に、はじめて“毒は毒をもって制する”、平和利用への目を開かせるかけ声が、全国にこだましたのだった。舞台裏に身を潜めながら、私は喜びと感動に打ち震えていた。“
政府側の動きも、活発化していた。濃縮ウラン受け入れ問題を検討してきた原子力利用準備調査会は、5月19日、会合を開き、受け入れを決議したのである。民間使節の動きと、政府側の動きが、ここに一致した。
政府の原子力利用準備調査会の初代事務局長となった、島村武久さん。(キャプション:経済企画庁初代原子力室長 島村武久さん)
(島村さん インタビュー)
「民間の使節なんだけれども、政府が大いに応援したわけで、それは、日本に大いに原子力をやらせようというよりは、むしろ、そういう政治情勢を見て、日本が変なことにならないようにという、アメリカの考えもあったと思いますね。」
6月21日、日米原子力協定がワシントンで仮調印された。第五福竜丸事件から、1年3ヵ月後のことであった。この条約により、日本に濃縮ウランがはじめて供給されることになった。半年後、正力松太郎は原子力担当大臣として、第三次鳩山内閣に入閣した。その時、正力は、アイゼンハワー大統領に向けて、一通の手紙をしたためている。
“原子力平和利用使節団の来日が、日本での原子力に対する世論を変えるターニングポイントになり、政府をも動かす結果になりました。この事業こそは、現在の冷戦のおける我々の崇高な使命であると信じます。正力松太郎。”
(映像:茨城県東海村 男性アナウンサーの声)
“原子炉完成式の日を迎えて、500人が参列して、原子力センターの出発を祝います。正力国務大臣が歴史的なスイッチを入れます。”(キャプション:初代原子力委員長 正力松太郎)
昭和32年8月20日、アメリカから輸入された東海村の原子炉が臨界に達した。日本の原子力開発がスタートした瞬間であった。しかし、日本で原子力による電力の供給がはじまるのは、アメリカの予想した通り、ほぼ十年後の昭和41年のことであった。
(ダニエル・ワトソンのインタビュー)
「日本は、原子力を持たなければならなかったのです。原子力を理解し、最大限に利用する必要があったのです。プルトニウムのハクゴウ?さえしなければ。それは、我々が最初から望んだことでした。何の悔いもありません。」
アメリカは、1958年までに39カ国と原子力協定を結び、ソビエトに対抗していった。協定により、核物質の軍事転用は禁止された。それは、各国が米ソの核兵器ブロックの中に組み込まれていくことを意味していた。
1957年、アメリカ国家安全保障会議に提出された報告書は、原子力平和利用計画を次のように評価している。“過去3年、核実験に反対する激しいプロパガンダが行なわれたが、アメリカの立場は自由主義諸国の支持を得ることができた。原子力平和利用計画が果たした役割は、計り知れないものがある。”
アトムズ・フォー・ピース。
アイゼンハワーは、核物質の国際管理と民間転用を訴えた。その4年後、国際原子力機関・IAEAが発足。しかし、IAEAが直面したのは、むしろ平和利用を装った核兵器開発の疑惑であった。IAEAは、大国の核保有を認めたまま、核査察でも課題を抱え続けている。
第五福竜丸事件から40年、原発は、今、日本の電力の3割を賄っている。日本は、更に今年、プルトニウムを利用する高速増殖炉の実験に乗り出そうとしている。一方、アメリカでは、1979年のスリーマイル原発事故以来、新たな原発の発注は、今も途絶えたままである。
(以上)
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原発の背後に原爆(核兵器)があり、その背後にはアメリカの一部勢力による核攻撃願望がありました。アメリカの公文書にも出てくる話です。そうした流れの中、原発は導入され、「核密約」も結ばれました。
ReplyDelete1950年代から60年代の前半、輸送手段(爆撃機やミサイル)でソ連を圧倒していたアメリカは核攻撃しても圧勝できると踏んでいたようですが、アメリカの近くに中距離ミサイルを配備されると困ります。
つまり、キューバに社会主義政権が存在することは許せない。逆に、ソ連はアメリカに対抗するため、キューバにミサイルを持ち込もうとする。そのミサイル危機を解決し、好戦派をCIAや統合参謀本部から追放し、ソ連との平和共存を宣言したJFKは暗殺されました。
暗殺のソ連黒幕説をリンドン・ジョンソン大統領が信じれば、好戦派の思惑通りになったかもしれないと思っています。そのなれば、日本は核戦争の最前線、ということになったはずです。