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Wednesday, November 11, 2020

FREE PRESS = FREE ASSANGE: An International Webinar with Daniel Ellsberg, Marjorie Cohn, and Joe Lauria (20:00 EST, Sat November 21) 報道の自由を守るためにジュリアン・アサンジ解放を!ウェビナー開催

November 25: It was a successful event, with over 100 turnout, and the speakers were all brilliant and inspiring! Please have a look at the recording. 

All are invited! This is an international webinar with distinguished guest speakers Daniel Ellsberg, Marjorie Cohn, and Joe Lauria. We will discuss the UK extradition trial of Julian Assange, the 18 criminal offenses conjured by the U.S., and how the case impacts the 99%. Organized by the Covid-19 Global Solidarity Coalition. Co-sponsors: ConsortiumNews, Roots Action, World Beyond War, CovertAction, Project Censored, Media Freedom Foundation, National Lawyers Guild, theAnalysis.news, Co-op Anti-War Cafe Berlin. 

REGISTER HERE. 

Here is the Facebook Event Page. 

Time and Date: 

New York, Toronto:  20:00 PM, Saturday November 21

Los Angeles: 17:00 PM, Saturday November 21 

London (UK) : 1:00 AM, Sunday November 22 

Moscow: 4:00 AM, Sunday November 22 

Hong Kong, Shanghai, Singapore: 9:00 AM, Sunday November 22 

Seoul, Tokyo, Naha: 10:00 AM, Sunday November 22

Melbourne (AU): 12:00 PM, Sunday November 22 


SEE THE POSTER BELOW (all links are clickable) 

Tuesday, October 20, 2020

長崎原爆の日 朝鮮人被爆者を追悼する早朝集会で読み上げられた、朝鮮原爆被害者協会のメッセージ A Message from the Association of Atomic Bomb Victims in DPRK for the 75th Anniversary of the Nagasaki Atomic Bombing (Japanese and Korean)

日本による植民地支配下、「強制連行および徴用で重労働に従事中被爆死亡した朝鮮人とその家族のために」、長崎市民が1979年に建てた「長崎原爆朝鮮人犠牲者」追悼碑の前では毎年、原爆投下を記憶する8月9日に早朝集会が開かれます。例年は数百人の参加がありますが、今年はコロナのせいで参加者は減ったものの、それでも50人ぐらいは集まったとのことです。私は、日米広島長崎の旅でこの日は毎年長崎にいてこの集会には必ず出席しますが、今年は旅自体がコロナでキャンセルになったので行けませんでした。後日、長崎で日本の加害を伝える「岡まさはる記念長崎平和資料館」の新海智弘副理事長から、今年の集会では初めて朝鮮民主主義人民共和国の「朝鮮原爆被害者協会」からメッセージが寄せられたということを聞きました。朝鮮総連の長崎県本部委員長の金鐘大さんによって代読されたメッセージは、植民地支配ゆえに被爆させられた朝鮮人被爆者の人権を軽視し、援助するどころか、敵視政策と歴史否定で二次加害を犯し続けている日本政府、日本社会の構成員に一人でも多く届けたい内容です。許可を得てここに転載します(日本語、朝鮮語)。

金鐘大さん


長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会にお集まりの皆様

 日本帝国主義が起こした侵略戦争の業火の中で、米国の原子爆弾投下に依り多くの朝鮮人が無惨に犠牲になったその日から、75年を迎えた今日この日、朝鮮人原爆犠牲者に対する深い哀悼の心を持ち追慕します。

 広島、長崎で原爆の犠牲になった朝鮮人は、生きる場所だけでなく人としての尊厳と権利まで奪われ、故郷を離れた異国の地日本に強制連行された、日本帝国主義植民地統治時代の受難者達であります。

 親兄弟が待ちわびる、愛する故郷に帰るその日を思い、過酷な労働の苦しみに、歯を食いしばり耐えた、数多くの朝鮮人達が祖国解放を目前にした、8月 9日原爆により残酷にも犠牲になったことに、私達は憤りを抑える事ができません。

 原爆による被害はこれで、終わることではありませんでした。

 奇跡的に生き延びた原爆被害者の朝鮮人は、日本の原爆被害者と同様に重度の被爆後遺症にさいなまれ、苦しみました。

 しかしながら、日本政府は日本の原爆被害者とは違い、朝鮮人原爆被害者には何の保護、補償も無視されたまま今日に至ってます。これは全く民族的差別によるものです。

 これは人道的に絶対許すことの出来ない事であります。

 実に、日本帝国主義が朝鮮人民にかした不幸は、我が朝鮮人民の心の中に積み重ねられた悲しみと怨みはどんなにしても、ときはなされる事はありません。

いわんやお金で解決される物ではありません。

 それにも関わらず、日本政府は敗戦後75年の歳月を迎えた今日まで、朝鮮民主主義人民共和国に対する敵視政策をよりー層強化しながら、我が国の原爆被害者問題を無視しています。

 日本政府は、《被爆者援護法》を制定し日本国内と米国、韓国、台湾、オランダ等の在外原爆被害者に対しては、各種名目の支援金を支払いながら、唯一我が国朝鮮民主主義人民共和国の原爆被害者に対しては、補償どころか人道的医療支援措置すら、実施していない実情です。

 これは、日本帝国主義に依るアジア侵略戦争の結果、投下された原爆として、その被害の後遺症で苦しみ、一生精神的肉体的苦痛の中で生きてきた、原爆被害者に対する許す事の出来ない冒とくであり、2重、3重の人権蹂躙犯罪になります。

 皆様もご存知の様にわが国の原爆被害者問題は、本質においては日本帝国主義の朝鮮侵略と強占、軍事的支配が生み出した産物であり、日本の過去清算、歴史清算と直結している問題です。

 それゆえ、日本政府はこの問題を法律的見地から見ても、道徳的見地から見ても必ず解決しなければいけない、焦眉の問題として受け止めなければなりません。

 日本政府は罪行を心から反省したうえで、私達の全ての原爆被害者と、犠牲者達、その遺族たちに真摯に謝罪して賠償しなければいけません。

 朝鮮人原爆被害者に関連した資料を全面的に調査公開し、過去の侵略戦争と、人道に反する犯罪に対して歪曲や捏造行為を取りやめなければならない。

 原爆被害者2世、3世を含め全ての原爆被害者達の治療に必要な、医療設備を至急に提供しなければいけません。

 私達はこれからも、正義と平和、人権を大事にする進歩的な人達との連帯と協力を強化し、朝鮮民主主義人民共和国の原爆被害者問題の早期解決をめざし、全ての力を注ぐ覚悟です。

 最後に、長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会に参加された皆様方が、苦しかった過去の歴史を思い返して、この私達の切実で正当な要求が、一日も早く実現できる様にご支援下さい。 

 又、私達は共に正義と連帯の声を高めましょう。 

 皆様方のこれからの活動も、大きな成果が有ることを心から望みます。

朝鮮原爆被害者協会 チュチェ 109(2020)年 8月 9日







Monday, October 12, 2020

韓国人にとって光復はどういう意味なのか:柳智仁さんのストーリー What does the 8.15 "National Liberation Day for Korea" mean for Koreans? --- Yoo Jiin's Story

「 カナダ9条の会」は、カナダ西海岸のビクトリアから、東部のモントリオールまで、また、元カナダに住んでいたけれどいまは米国や日本に住んでいる人たちなども含めた、80名ほどの市民グループです。バンクーバー、トロント、モントリオールにあるそれぞれの地域の「9条の会」は地域の活動を続けながらも、メールを通じて、もっと地域的に幅広く交流しようということで、「カナダ9条の会」のメーリングリストを通じて情報や意見を交換してきました。今年の夏は、「戦後」75周年ということで、「私にとっての”あの戦争”と9条」というテーマシェアリングの会を8月に1回、9月に1回持ちました。主に日本語を使うグループとはいえ、多彩なバックグラウンドを持つ人たちが集まっています。世代的には80代から10代まで、また、日本人、日系人だけでなく、在日朝鮮人、沖縄、カナダ、韓国、中国などのバックグラウンドを持つ多彩なメンバーに話してもらいました。その中で、在UBC(ブリティッシュコロンビア大学)大学院で学ぶ韓国出身の柳智仁さんのトークを、このブログで紹介します。一人の韓国人にとっての、あの日ーー韓国では「光復の日」と言われる、日本の植民地支配から解放された日がどのような意味を持つのかというお話を、このように日本語で聞ける機会は特に日本人にとっては大変貴重であると感じ、ブログ読者の皆さんとも共有したく思いました。読んでください。「1945年8月15日」とその後が全く違って見えてくるのではないかと思います。そして柳さんのいう「本当の意味の光復」を導くためには、日本人が歴史を否定せずに真っ直ぐに向き合うことこそが大事と考えます。(前文 乗松聡子)


韓国人にとって光復はどういう意味なのか

柳智仁 Jiin Yoo

        韓国の人たちにとって8月15日光復節はどういう意味なのか、韓国ではどのような記憶の仕方をするのか、などについて少しお話しさせていただきたいと思います。

       まず、韓国のメディアを確認してみました。 2015年光復70周年を記念に行ったKBS調査によると、韓国の国民を喜ばせた歴史的な出来事の1位が日本からの解放、2位は2002年ワールドカップ4強、3位は1988年ソウルオリンピックとなっていました。 2020年の調査によると、韓国青少年の65.7%が光復節の日付を正確に知っている[1]、また、2019年の調査によると、77%が光復節に太極旗を掲揚する[2]と述べましたが、これは前年度に比べて7%上昇した数値で、これは「徴用工判決」に対する日本政府の経済的報復行為が引き起こした韓国内の反日感情の影響とも考えられます。韓国国民が光復節に最も思い出す独立運動家としては、1位は柳寛順、2位は金九、3位は安重根、そして4位は尹奉吉となっていました[3]

<左から1位柳寛順、2位金九、3位安重根、4位尹奉吉:写真出処https://ko.wikipedia.org/

       要するに、光復節は韓国人にはとても大事な記念日であり、多くの人が太極旗を掲揚することによってその日を記念します。記憶の仕方として一番多いのは多分犠牲になった独立運動家を思い出すことかなと思います。メディアなどでも独立運動や運動家に関連するコンテンツが多く登場しますし、それに関する映画やドラマも毎年のように登場します。我が家の子供たちの通っているバンクーバー近郊のSurrey韓国語学校のSummer Campの今年のテーマも「七人の独立運動家」で、うちの子供は、金九(Kim Gu)、柳寬順(Ryu Gwansun)、安重根(An Jung-geun)、金マリア、安昌浩(Ahn Chang-ho)、李會榮(Lee Hoe-yeong)、そしてFrank Schofield(カナダ出身)の七名の独立運動家の活動について毎日習いました。

 

個人にとって植民地時代と光復とはどういう意味だったのか。

       それでは植民地時代、そして光復というのは韓国人たちにどのような意味を持っていたのかについて私の知っていることを中心に少しお話ししたいと思います。植民地時代と光復に対する認識は個人や家族のそれぞれの経験と背景によって異なると思います。中には歴史的、社会的な変化に仕方なく順応して生きていた多くの人々がいるでしょうが、順応せず、独立運動に直接、間接に関与していた韓国人たちもいました。これらの人たちには間違いなく光復は待ちに待った嬉しいことだったと思います。一方、日本帝国に協力したり、同じ民族を弾圧したりした親日勢力も数多くいましたが、光復はそういう親日勢力にはきっと恐ろしいこと、ありがたくないことで、その後の処罰をきっと怖がっていたと思います。結論から言うと、その親日勢力の多くの人々(韓国では「親日派」と言うんですが)はあまり処罰されず、光復後すぐ大韓民国の主流勢力になり、今までも政治、社会、文化、教育の各分野で膨大な影響力を及ぼしています。その一方、多くの独立運動家たちとその家族は逆に親日派によって弾圧され、様々な貢献と犠牲はまともに評価されなかったのが事実です。これら親日派の流れをくむ独裁政権の長い歴史のためです。多くの民衆の犠牲で政治と社会の民主化が行われた1990年代に入ってからやっと、多くの独立運動家たちは烈士、愛国志士などの名前で国家から認められることになりました。韓国では独立運動をした家は三代に渡って貧しくなる一方、親日派だった家は三代まで豊かになるという話まであります。 

       若干話を変えて、我が家の先祖の経験も皆さんと共有したいと思います。夫の祖父は植民時代が始まった時、済州島の公務員でしたが、日本の苛政に対する反感から仕事をやめたそうです。それから日本の東京帝国大学に留学し、帰国してから韓国の教育界で活動し、光復後は教育界を率いる指導者となったと聞いております。それから1950年韓国戦争の時、3,000人の愛国志士たちと一緒に北韓(朝鮮民主主義人民共和国)に拉致され、その後70年の間、どうなっているのか全然分からないままです。一方、私の家系には朝鮮王朝時代から日本の侵略戦争に抵抗した先祖が多いと聞いております。豊臣秀吉が率いる壬辰倭乱の時、李舜臣(イスンシン)を抜擢し、また戦争中の朝鮮の政局を導いた柳成龍(リュウソンヨン)がその代表的な人物であります。

<柳成龍(リュウソンヨン)標準影幀: 国立現代美術館>

  他に当時の二回の侵略に対抗して義兵を率いた祖先などの歴史も伝え聞いています。 植民地時代には、1910年の日韓併合(韓国では「 庚戌恥」と呼ぶ)のことを聞いて、17日間の断食後、忠節の詩を残して自決した柳道發(リュウドバル)と、1919年、高宗皇帝の死に激怒して父の柳道發に倣って自決した柳臣榮(リュウシンヨン)の話はよく知られています[4]。もともと私の家系は、伝統的な儒教家として朝鮮時代から学者が多かったですが、植民地時代になってから学問をやめ、武装闘争の道を選んだ先祖も多数いると聞いています。何人かは故郷である慶北道の安東を出て、朝鮮各地、上海、北京などで義兵活動をしている間、日本警察に殺されたとか、あるいは独立運動の軍資金を与えたり、直接義烈団に参加するなどの独立活動をして射殺されたり、逮捕されて刑務所で亡くなった方の名前も残っています。幸いなことに私の家系の独立運動家たちのほとんどは、かつての功労を認められましたが、これはおそらく私の家系が当時も名家として社会的な地位を持っていたからだと思います。独立運動に関わっていた多くの人々は名前も残せず亡くなったり、光復後にも適切に評価されず苦しい生活を送ったりしたと聞いています。2018年のある国家機関の調査によると、功労を認められた独立有功者の場合にも、経済的困難と闘病などで厳しい人生を送った人々が多いようです[5] 

       去年カナダに移住した後、45人の韓国人と交流をするようになって、今回このテーマについてその人たちの意見を尋ねてみました。 全羅道出身のある人の祖父は小さな町で農業をしていましたが、地域の立運動家たちを支援したという理由で、時町に住んでいた男性全体の半分以上である25名と一に日本警察に逮捕されたそうです。指先に釘を刺されるなどのひどい拷問を受けてからやっと釈放されましたが、そのほとんどの男性たちは拷問後遺症で年以に亡くなったそうです。その釘付けの手の写真が残っていますが、その写真が祖父ということが立証できず、なんの補償ももらえなかったそうです。当時、光州など全羅道地域は、独立運動がどこよりも活発に行われましたが、逮捕されたり、亡くなった方々が結局その犠牲を評価されなかったことが非常に多かったと聞きました。また、もう一人の方の祖父と祖母は、日帝の収奪と生活の困窮のため、家族を連れて全羅道の木浦から満州まで長い旅をし、黒龍江あたりに移住したそうです。様々な苦難 のあげく、光復と6.25韓国戦争の歴史の流れの中、家族の一部は朝鮮族としてそこに残り中国国籍になり、一部はその後北韓(朝鮮民主主義人民共和国)に、また彼の父を含めた一部は韓国の釜山にそれぞれ別れたそうです。植民地時代にはいろいろな事情で朝鮮から満州に移住した人が多いですが、生活のために行った彼の家族のような人もいれば独立運動のために行った人々も多いです。間島という地域にはこうして作られた朝鮮人の村がいくつかあり、農業などをしながら資金を集めて「大韓民国臨時政府」[6]の独立運動を支援したそうです。

 

<大韓民国臨時政府 国務院成立記念 (1919. 10. 11)>


1907年義兵:写真出処McKenzie, The tragedy of Korea, page 206 >

  バンクーバーに来て、家族が独立運動に関わったり、または植民地時代の直接な影響を受けたりして苦しみを経験した人々のお話を聴けるとは思わなかったです。彼らにとって植民地時代はいまだに辛い記憶であり、光復後も歴史の歪曲や記録の喪失により、先祖の犠牲や苦しみは正しく認められていない、という悔しい思いを抱えていることが感じられました。また先祖たちと家族の被害に対して日本政府がまだ十分謝罪していない、またその加害の歴史を否定していることが彼らには大きな傷として残っているようです。

 

光復と韓国社会

       最後に、私の考える、植民地時代と光復が韓国社会に及ぼした影響についてお話ししたいと思います。光復節は国民には歴史的に最も嬉しい日、光を見つけた日として認識されているのは間違いありません。しかし、その光は、不完全な光だったのではないかと私は思います。解放後広がる南北分断の状況と独裁政権の長い執権と暴政により、その光はたちまち消えてしまったからです。日本からの解放という歴史的な出来事が、後の大韓民国の建国の過程に、具体的にどのような影響を及ぼしていたのかについての真実は十分に知られていなかったです。建国の中心になり、その後長い間韓国社会を支配してきた勢力が親日派にそのルーツを持つ独裁政権であり、隠したい事実と歴史が多かったからだと思います。8月15日に日本という国からは解放されたのですが、日本が朝鮮に35年間かけて作った植民のシステム、そして日本に協力した親日勢力からの解放までは行かなかったと思います。独立はしたものの、アメリカとソ連による軍政の支配下に南北は分裂され、米軍によって選ばれた李承晩は、自分の政治的地位を固め、政治的な宿敵をとりのぞくために親日派を全面的に活用した訳です。光復後すぐ、日本に協力した親日派を処罰するために法律が定めた反民族特別委員会が本格的に設立され、韓国臨時政府の独立運動家出身の政治家たちが活動したのですが、李承晩と親日派によって密かに弾圧され、結局強制的に解散されることになりました。金九先生もこれらの親日派の陰謀によって暗殺されたのが今の有力な定説です。親日派勢力は以後、李承晩に反対した独立運動家出身の政治家たちに共産主義者の疑いをかけ、結局その罪名で処罰された人々は全国55万人に至ります[7]。その反面、日本に協力した親日派の中で実際に処罰を受けた人はただ数人にすぎません。李承晩に続き、18年に渡って独裁を続けた朴正煕も満州国の日本軍将校出身です。親日派は、これらの独裁政権の庇護の下、その勢力を維持、拡大しました。1960年に行った4.19革命[8]などの様々な民主化運動と、金大中など進歩政治家を弾圧したり、自分の過去を隠すために独立運動家出身を抑圧したりした勢力は結局親日派にそのルーツを持っています。長年与党であり、現在は第1野党である「国民の力」の母体も、まさにこの親日派であることに間違いありません。多くの国財閥、そして朝鮮日報、東亞日報、中央日報などの大手新聞社も親日派にそのルツを持っています。つまり、親日派は韓国社会の政治、経済、文化、教育などあらゆる範囲で影響力を持ち、社会を支配する多くのエリートグループと指導勢力に直接つながっています。これら親日勢力が自分たちの過去を隠すために解放前後の歴史、特に独立運動と新日の歴史を歪曲したのは明らかです。1990年代民主政権になってから歴史を立て直そう、間違った歴史を清算しようという動きが活発になり、新日と独立運動に関する歴史的な事実を改めて研究し直す作業も幅広く行っていますが、それに反発する動きはまだまだ強いです。 

       したがって光復については、日本という国からの独立は達成したものの、日本植民時代の歴史はまだ清算されてない、もしくはその時代の抑圧の仕組みとレガシーはいまだに韓国社会に幅広く存在していると私は思います。つまり光は完全に戻っていません。私は個人的には、その歴史を清算することが、本当の意味の光復であるのではないかと思います。その意味で私にとって光復は、現在進行中であります。 

柳智仁(リュウ・ジイン)
韓国ソウル出身。ソウル大学教育学、同大学国際大学院日本学修士。2010年から9年間、東京、神戸、北海道で暮らす。2019年からUBCの教育学大学院(カナダ・バンクーバー)で韓国と日本出身の若者のアイデンティティーについて研究中。


[1]韓国、洪川郡青少年修練館青少年運営委員会調査(202085日〜13日、294名対象)

[2]韓国、Incruit調査(201988日〜13日、1041対象)

[3]韓国、アルバ天国調査(201981日〜10日、5446名対象)

[4] 韓国学中央研究院のデジタル資料

[5] 韓国國家報勳處調査 2018

[6] 191931日京城(現在のソウル)で宣言された31立宣言に基づき、日本帝の大韓帝侵奪と植民地統治を否定し、朝鮮半島外の抗日立運動を主導することを目的として設立された大韓民の臨時政府。1919411日、中上海で設立され、同年911日には京城(ソウル)とロシア沿海州など各地の臨時政府を統合して上海で一の政府を樹立、1945年の光復まで様々な独立運動の拠点となった。(韓国民族文化大百科事典)

[7] 20158月6日、韓国ニュースタパー 「解放70周年特別企画‘新日と忘却’」

[8] 4.19革命とは、19603月に行われた第4代大統領選における、李承晩の自由党政が犯した大規模な不正選に反し、全国的な規模で行った生や市民による民衆デモのことで、大韓民1共和を終えた民主主義市民革命である。

Tuesday, October 06, 2020

10月5日 NHK広島放送局に読み上げ、手渡した補足抗議文 October 4 Symposium "NHK 'Hiroshima Timeline' and Today's Racial Discrimination in Hiroshima," and our renewed protest against NHK Hiroshima's hate tweets

10月4日広島の留学生会館で開催されたシンポジウム「NHKひろしまタイムラインと広島の民族差別の現在」の翌日、5日の朝、NHK広島放送局を訪ね、すでに公表している、306人(10月5日時点)の連名・署名をもらった抗議文と、連名者名簿、コメント集を手渡しました。そのときに読み上げた、最新の状況を踏まえた補足の抗議文をここに掲載します。シンポジウムと、NHKでの行動は、共同通信、共同配信記事を取り上げた全国の地方紙、朝日新聞、中国新聞、ハンギョレ新聞中央日報毎日新聞英語版などに取り上げられメディアにも大変注目されたと感じています。


10月4日シンポジウム「NHKひろしまタイムラインと広島の民族差別の現在」
(於 広島留学生会館)

10月5日 NHK広島放送局前で
シンポジウム実行委員会のメンバー、シンポジウム参加者と


(補足抗議文はここから。文中のハイパーリンクはブログ読者の利便のために運営者がつけたものです。)

NHK広島放送局 御中

昨日(10月4日)留学生会館において、シンポジウム「NHKひろしまタイムラインと広島の民族差別の現在」を行いました。朝鮮人を乱暴で怖い存在として表現する「ひろしまタイムライン」の8月20日、6月16日の「シュン」ツイートの内容について、来場70名、オンライン50名の参加者の前で、在日朝鮮人の3人のゲストスピーカーが発言しました。権鉉基さんは、「在日朝鮮人がますます語りにくくなり、無色透明化される今の日本」を指摘、これらのツイート内容が何を意味するかについて、李周鎬さんは「日本人に対して在日朝鮮人への偏見を助長し、在日朝鮮人に対しては“同化”を更に強いることになる」、尹李英愛さんは「旧植民地宗主国の国営放送が、旧植民地出身者及びその子孫にヘイトスピーチを行う」ことであると指摘しました。法学者の前田朗さんは、問題のツイートの内容は「2016年に成立、施行された“ヘイトスピーチ解消法”の定義・解説」から、これらのツイート内容は「ヘイトスピーチに当たる」と発言しました。私、乗松聡子は、「ピース・フィロソフィー・センター」のブログで8月23日に発表した、貴局に当該ツイートを削除するよう求めた抗議文に連名をもとめ、現時点で306人の賛同が集まっています。すでに貴局にはお伝えしていますが、その中には「ノーベル賞」受賞スピーチを行ったカナダ在住の被爆者サーロー節子さん、日本被団協事務局次長の和田征子さん他、三宅信雄さん、ランメル幸さん、豊永恵三郎さん、花垣るみさんら広島と長崎の被爆者や被爆二世、元広島市長の平岡敬さん、前広島市長の秋葉忠利さん、25年前から学生を広島と長崎に日米平和学習の旅に連れていっているアメリカン大学のピーター・カズニックさん、元広島平和文化財団理事長のスティーブ・リーパーさん、また、お名前から朝鮮半島にゆかりのあると思われる方が30人かそれ以上いらっしゃいます。

10月2日、貴局は『プロジェクト開始から半年、過去のツイートをまとめて読みやすくするため』と称し、これらのツイート内容を10月2日ホームページに「移設」しました。問題の「シュン」8月20日、6月16日ツイート内容については注釈をつけましたが、これらの注釈は、朝鮮人が広島に多く存在した、原爆被害に遭ったと言っているだけで、これらのツイート内容がもたらす「朝鮮人が乱暴だ」という印象、民団が人権救済申し立てで述べた「朝鮮⼈の不当性を際⽴たせる叙述」には何ら変わりはありません。また、これらのツイート内容の背景にある、植民地支配の時代から今に続く、日本人による在日朝鮮人・韓国人に対する差別意識について触れてさえいません。注釈では、「併合」「統治」という言葉を使い、敢えて「植民地支配」という厳然たる歴史的事実に言及することを回避し、強制「動員」だけでなく、土地調査など植民地政策で土地や生活の糧を失った多くの朝鮮人が日本に職を求めざるを得なくなったこと、朝鮮人原爆被害者も植民地支配の故に、被爆させられたのだという、日本による加害であったという本質を覆い隠した表現になっています。貴局は、「再発防止」をすると言いながら、この「移設」により自らが「再発」をさせたのではないでしょうか。これは、無知や歴史認識欠如が一因だったと思われる最初の問題ツイートのアップのときと全く意味合いが異なります。今回、これだけ当事者、市民、識者、メディアに批判を受けた上で、確信犯的に差別ツイートを新たに掲載したのです。これらの差別ツイート内容を「削除しない」「放置している」状態から「積極的に発信した」状態に踏み込んだと言えると思います。そして貴局は、今回の措置は一連の批判を受けたからではなく、「最初から決まっていた」と主張しています。これだけたくさん来た批判に全く耳を傾ける気はないという表明に聞こえました。

あらためて、差別助長ツイート内容を、ツイッターであろうがホームページであろうがいかなる公共媒体からも削除するよう貴局に求めたいと思います。8月23日付の抗議文と、連名者の名簿、およびコメント集を貴局に届けに参りました。受け取ってくださるようお願いいたします。

2020年10月5日 

ピース・フィロソフィー・センター代表 乗松聡子

(ここまで)

このシンポジウム、対NHK行動についての報道など

共同通信: 「差別扇動」NHK広島に抗議文 ツイッター投稿削除求め市民団体

朝日新聞:「レッテル貼り、変わらず」ひろしまタイムラインを議論

中国新聞:「民族差別考える場を」 NHK投稿問題受け広島でシンポ

ハンギョレ新聞:日本で市民団体が抗議「NHKは朝鮮人差別助長するツイッター内容を完全に削除せよ」

中央日報:日本の市民団体「NHKの韓国人差別助長ツイート削除」を要求

Mainichi Shimbun: Group protests NHK over tweets considered prejudiced against Koreans

ブログ「アリの一言」:「NHK広島」シンポが問いかけた2つの問題


Friday, October 02, 2020

NHK広島放送局は、差別ツイートを「読みやすく」するためにわざわざHPに再掲載した。これだけ批判を浴びながら、「再発防止」どころか自らが「再発」を起こし、差別ツイートの内容を積極的に発信した。

 

10月2日に「『シュン』これまでのツイート」として再掲載された

9月28日、NHK広島放送局はツイッターで

プロジェクト開始から半年、過去のツイートをまとめて読みやすくしてほしいとの要望に応え、9/18「やすこ」の日記終了を機に、「一郎」「シュン」も含めた3アカウントの 1か月以上経過したツイートを10月から番組HPに移設します。今週末10/2予定です

と発信し、10月2日「移設」を行った。問題になった8月20日と6月16日のツイート群のうち、8月20日の分の「移設」先はここである。

https://www.nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/tsubuyaki/8/436451.html 

このように注釈が新たに書き加えられている。

※注 当時の混乱した社会状況を伝え、戦争の時代についてリアリティーをもって考えていただくために、資料に基づきNHK広島放送局の責任で作成しました。

当時の日本には、多くの朝鮮半島出身者が暮らしていました。1910年の韓国併合によって日本による統治が始まった後、働き口を求めて日本本土に移住する人々やその家族などが増えました。日中戦争が長引いて労働力不足が深刻化した際に、軍需工場や炭鉱などに動員された人々もいました。

6月16日のツイートの「移設」先はここである。

https://www.nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/tsubuyaki/6/436446.html 

ここにもこのような注釈がついている。 

※注 当時の混乱した社会状況を伝え、戦争の時代についてリアリティーをもって考えていただくために、資料に基づきNHK広島放送局の責任で作成しました。

当時の日本には、多くの朝鮮半島出身者が暮らしていました。1910年の韓国併合によって日本による統治が始まった後、働き口を求めて日本本土に移住する人々やその家族などが増えました。日中戦争が長引いて労働力不足が深刻化した際に、軍需工場や炭鉱などに動員された人々もいました。広島にも多くの朝鮮半島出身者が暮らし、原爆の犠牲になりました。その数は定かではありませんが、広島市の平和公園にある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」には「2万余名」の命が奪われたと記されています。

これらの注釈は当時朝鮮人が広島に多く存在した、原爆被害に遭ったということを言っているだけで、これらのツイート内容がもたらす「朝鮮人が乱暴だ」という印象、民団が人権救済申し立てで述べた「朝鮮⼈の不当性を際⽴たせる叙述」には何ら変わりはない。植民地支配の時期から今に続く、日本人による在日朝鮮人・韓国人に対する差別意識について触れてさえいない。また、敢えて「植民地支配」ではなく、「統治」という言葉を使うことによって植民地支配という厳然たる歴史的事実を否定しているかのようにも聞こえる。

NHK広島放送局は「再発防止」をすると言っておきながら自らが再発を行った。これは、無知や歴史認識欠如が一因だったと思われる最初の「シュン」ツイートのアップのときと全く意味合いが異なる。今回、これだけ当事者、市民、識者、メディアに批判を受けた上で確信犯的に差別ツイートを再掲載したのである。これらの差別ツイート内容を「削除しない」「放置している」状態から「積極的に発信した」状態に踏み込んだのである。差別ツイートをわざわざ「読みやすく」して再アップということである。そしてNHK広島放送局は、今回の措置は一連の批判を受けたからではなく「最初から決まっていた」と主張している。批判に全く耳を貸す気はないという意固地な表明でもある。

★★★

10月4日(日)、この問題について広島でシンポジウムを行います。オンラインでの参加も日本全国、世界中から可能です。ここをクリックして申し込んでください。どうかふるってご参加ください。


この問題についてのいままでの投稿リストは、この投稿の直前の投稿にありますので見てください。



Thursday, September 24, 2020

これだけ「差別助長」と批判され、自らが「配慮不十分」と認め、NHK会長から「あってはならない」と言われ、当事者も法務局に人権侵害を訴えた。それでもNHK広島放送局は差別ツイートを放置している。

9月27日追記。このシンポがオンラインでも参加できることになりました。こちらのリンクから申し込んでください


10月4日に、この問題についてのシンポジウムを広島で行います。事前申込制です。詳しくはこのチラシをご覧ください。


NHK広島放送局が「ひろしまタイムライン」という企画で、1945年当時実在していた人がツイッターを使っていたらどうだろうかというような設定で発信された、実在する被爆者の方をモデルとした「シュン」アカウントで、在日朝鮮・韓国人の方々への差別や偏見を助長するようなツイートが発信されてそのままになっています。

その後たくさんの批判にもかかわらず、また、NHK広島局自らが「配慮が不十分であった」と認めたにもかかわらず、モデルとなっている新井俊一郎氏さえも朝日新聞の取材に応えNHK広島局の責任を問うているにもかかわらず、NHK会長さえもが「あってはならない」と批判しているにもかかわらず、ハフポスト共同通信東京毎日朝日各紙などが批判的な報道を展開し続ける中、NHK広島局はいまだ差別的ツイートを削除しておりません。9月23日の共同通信毎日新聞の報道によると、同日、在日本大韓民国民団(民団)は広島法務局に「投稿は民族差別を扇動する」として人権救済を申し立てました。これはNHKローカル放送(つまり、広島)で23日午後5時のニュースで報道されたと聞いております。NHK広島局自身がとうとうこの問題を無視し続けることができなくなったということです。しかし差別される当事者からこのような法的行動があった後も、きょう(24日)の時点でこれらの差別助長ツイートはまだそのままになっています。「戦後」75年、日本の植民地支配の中で行われた強制動員、日本軍「慰安婦」等、法と人道にもとる制度に日本政府、メディア、社会全体が十分に向き合うこともなく迎えてしまった節目の年、公共放送が積極的に差別発信を放置しているという事態の重大さはいくら強調しても強調し過ぎることはないと思います。

この問題が生じた直後、私は本サイト Peace Philosophy Centre で抗議文を出しました。長く「ヒロシマ」の発信、とくに被爆者の通訳・翻訳に携わった立場から、また、カナダに住むマイノリティの一人である立場から、日本でいまだに在日朝鮮・韓国人が差別され続けていることに怒りを抱く立場から、「ヒロシマ」発のヘイトは許せないという思いがあります。NHK広島局にも直接働きかけ、9月24日現在、180人以上の方々からの賛同をもらっています。その中には、カナダ在住の被爆者サーロー節子氏、日本被団協事務局次長の和田征子氏、他、長年証言活動や平和活動に従事してこられた三宅信雄氏、花垣るみ氏、ランメル幸氏、豊永恵三郎氏など被爆者や二世の方々もいらっしゃり、平岡敬元広島市長、秋葉忠利前広島市長、元広島平和文化財団理事長のスティーブ・リーパー氏、アメリカン大学教授のピーター・カズニック氏など、「被爆地広島」の反核と平和の訴えを発信する重要な役割を担ってきた方々がたくさんいらっしゃいます。もちろん当事者である在日朝鮮・韓国人の方々の賛同も多くいただいています。

いまいちど、連名していただける方を広く募りたいと思います。抗議文と賛同者全員の名簿のあるリンクをここに記します。

賛同していただける方は、ここに連名している人々の例にならって、1)お名前 2)ご職業やご所属 3)所在地(○○県など)(2と3はどちらかだけでも構いません)の情報を、peacephilosophycentre@gmail.com までお願いします。公開可能なコメントも歓迎します。コメントをいただけた場合、サイトのコメント欄に転載します。

★ぜひ同時に、NHK広島放送局にも直接メールや電話をして抗議してください。

連絡先はここにあります。https://www.nhk.or.jp/hiroshima/contact/

(「NHK広島放送局へのご意見・お問い合わせ」というコーナーがあります。メールフォームはここ https://cgi2.nhk.or.jp/css/mailform/mail_form.cgi?area_cd=hiroshima


この問題についてのこれまでの投稿

8月23日

NHK広島放送局は「ひろしまタイムライン」の、「シュン」による一連のヘイトツイートを削除してください。(連名、コメントはここに集約しています)

8月26日

NHK 広島放送局に電話し、広島の平和・反核の訴えを担ってきたこれだけの人たちが差別ツイート削除を求めていると伝えました。

8月30日

「シュン」ツイートの差別性を認めながらも削除に反対する人へ

9月7日

NHK広島放送局「ひろしまタイムライン」の「シュン」ツイッターが参考にしたと思われる新井俊一郎氏の手記

Wednesday, September 23, 2020

We Need an Alternative Peace Museum in Hiroshima -- Questioning the Hiroshima-centred War Memory in Japan (10th INMP Conference Presentation) 第10回世界平和博物館会議発表「広島にはもう一つのミュージアムが必要」

Here is my presentation for the 10th International Network of Museums for Peace, successfully held from September 16 to 20, 2020. 第10回世界平和博物館会議(2020年9月16-20日)の発表動画です。


We Need an Alternative Peace Museum in Hiroshima -- Questioning the Hiroshima-centred War Memory in Japan 

Satoko Oka Norimatsu 



Abstract:

Marking the 75th anniversary of the end of WWII this year, the author problematizes the general lack of recognition in the Japanese war memory for the history of the Empire of Japan’s seven decades of colonial rule and aggressive wars. This tendency is prevalent even in the “peace,” “anti-war,” and “anti-nuclear” communities, accentuated by what the author calls the “Hiroshima Historical View,” which centres itself around the Japanese suffering in the atomic-bombing of Hiroshima and Nagasaki. This view of history omits what led up to the atomic bombing and depicts the event as a sudden tragedy that befell the otherwise “peaceful” lives of Japan's innocent people. The newly renovated Hiroshima Peace Museum is no exception. It neither touches upon Japan’s invasions of neighbouring countries and Hiroshima's role in them, nor does it point to the United States’ responsibility for the evil that it committed. The author will discuss how such sanitization of historical responsibilities contributes to today’s acceptance of the U.S.-Japan military alliance that enables further buildup in the region, including Iwakuni and Kure, constituting a permanent “war capital” identity of Hiroshima. The author will conclude by presenting a vision for an alternative museum in Hiroshima.

概要

タイトル: 日本人の「ヒロシマ史観」を問う―オルタナティブミュージアムの提案

第二次世界大戦終結75周年を迎えるにあたり、日本の戦争記憶は概して、大日本帝国の70年余にわたる植民地支配と侵略戦争についての認識が欠如している。この傾向は「平和」、「反戦」、「反核」の世界においても蔓延しており、広島と長崎の原爆における日本人の被害を中心とした「ヒロシマ史観」とも呼べる歴史観がさらに増強している。この歴史観は、原爆に至る歴史を切り捨て、原爆投下を、「 “平和な”生活を送っていた日本の罪なき人々の上に突然降りかかった悲劇」として描写する。今回リニューアルした広島平和記念資料館も例外ではない。日本の侵略戦争について触れておらず、広島がその中で果たした役割も語っていない。米国の原爆投下という戦争犯罪の責任を追及することもしていない。このような歴史的責任の浄化行為は現在の日米安保体制・日米軍事同盟の容認につながっており、周辺の岩国や呉とも合わせ地域の軍拡は進む一方だ。結果として、「ヒロシマ」は「軍都=戦争の都」としての性格を恒久化させている(これは長崎も同様)。今こそ、「ヒロシマ」が切り捨ててきた歴史を拾い上げる、もう一つのミュージアムが必要だと思う。


On September 20, 2020, I organized a member-hosted special event with my colleagues Yuki Tanaka, a historian based in Melbourne, Australia and Akari Kojima and Yoshiki Kanai, members of a new social action group RADICAL BANANA. 

See their presentations at this link: 

Friday, September 11, 2020

福山市の医療機関でYさんが受けた差別に対する医師の再謝罪文は「差別」を完全にスルーした

福山市HPの「人権」ページ。(9月12日にアクセス)

この投稿は、以下の投稿の続報です。まだの人は以下を読んでください。

7月29日 福山市が市民に提供する無料風疹抗体検査を受けた福山市民のYさんが担当医師から受けた差別

8月6日 福山市の無料風疹抗体検査で医師から差別を受けたYさんからの経過報告

8月25日 福山市の医療機関で差別を受けたYさんに対する医師の「謝罪」と市の対応についてYさんからの報告

上の8月25日の投稿と、7人の人たちのコメントを読めば、最初の医師からのYさんへの謝罪文と、それに対する市役所の「人権」担当者の対応は、二次加害に等しいことは明白であろう。それを受けた医師は、さらなる謝罪文を、今度は封書で市に託してきた。Yさんが市から受け取ったのは9月5日である。Yさんは医師が今度こそ率直に差別したことを認め、誠実に謝罪するのかと思ったら、期待は裏切られた。プライバシーを確保した上でその二度目の「謝罪文」をここに紹介する。


(名前)様へ

 9月2日に福山市職員の方がおいでになり、8月19日にYさんにお渡しした手紙に対するYさんのお気持ちを詳しく伺いました。それを聞いて、私の手紙は対応の説明に終始しており、Yさんのお気持ちに沿っていなかったことに気づき、深く反省している次第です。誠に申し訳ありませんでした。

 改めて、自らの言動を振り返ってみて、私の認識の甘さ、発言の重大さを理解し、自責の念に駆られております。さらに、そのことがYさんの心を傷つけ、Yさんを苦しめてしまったことを心より申し訳なく思っております。

 今後は同じ過ちを二度と起こすことのないように、正しい認識を持って、より一層、患者さんの気持ちに寄り添った診療を行ってゆきますので、どうぞご容赦下さいますようお願い申し上げます。

2020年9月2日

(医療機関名と医師の署名)

以下がこの手紙に対するYさんの所感である。

 前回のメールを受けた後、市職員には、医師には以下のように伝えて欲しいと言った。「謝罪は受け入れられない。謝罪の気持ちの大きさは問題ではない。受け入れられなかった理由を知りたければブログを見てほしい。その上で、過ちに気づいたら、謝罪を受け入れる用意がある」と。

 その後もらった今回の手紙には、「対応の説明に終始」していること、私を傷つけてしまったことへの謝罪が記されている。頑として差別をしたことを認めないのに、あくまで傷つけたことへの謝罪を繰り返したり、「ご容赦ください」と言うのは、私を責めているようにさえ感じる。率直に言うと、加害者の被害者化ではないか。

Yさんの「頑として差別をしたことを認めない」という言葉に、この医師の再謝罪文の問題の根本がある。

私も、この手紙を見せてもらっての最初の感想は、「差別を完全にスルーしている」ということだ。自分の対応が「Yさんの気持ちに沿っていなかった」、「Yさんの心を傷つけた」、「Yさんを苦しめてしまった」と、個人間の感情に問題を還元し、これが客観的な差別であったということを否定しているのである。これは、差別だけでなく、セクハラ、パワハラ、DVの加害者が取る常とう手段でもある。ハラスメントや暴力を振るったということに目をつぶり、「自分があなたを傷つけてしまったのでそのことに謝る」と言うことでハラスメントや暴力を結果的に否定するのである。一見、平謝りに謝っているように見えるから周囲にも「この人はこんなに謝っているんだから」という印象を与えてしまうかもしれない。そうなると「こんなに謝っているのに許してくれない」と、被害者に矛先が向いてしまいかねない。実際この医師自身がそのように思っている可能性がある。Yさんが上で「加害者の被害者化」と言っているのはこの点だ。どんなに謝ったって、自分が犯した過ちが何なのかを言うことができず、それを言わないことによって否定しているのではその謝罪に何の意味もない。

私がこの医師に聞くとしたら、今後は起こさないとしている「同じ過ち」とは何なのか、「正しい認識」とは何を指すのかを聞きたい。もし差別を認めているのなら、「同じ過ち」というのは差別のことである。「正しい認識」というのは「差別をしない」認識のことである。しかしこの医師の文面からは、「同じ過ちをしない」とは患者の「心」に「沿わ」ず、「傷つけ」、「苦しめて」しまわないことであり、「正しい認識」とは、「患者の気持ちに寄り添った診療」ということなのだろう。この医師はすでに自分が普段から患者に「寄り添って」いるという自負があるから、「より一層」という但し書きまでつけている。「こんなに寄り添おうとしている自分が、それでも気持ちに沿いきれずに傷つけてしまったので、より一層患者の気持ちに寄り添う」と言っているのである。はっきり言って、キモイ。「心」とか「気持ち」の次元に踏み込むことによってこの医師はYさんの内面に不必要に入り込んでいるとも思う。だからキモイのだ。

この医師さんに言いたいが、差別をしたことを認めさえすれば、謝罪は一回でいいし、「気持ち」とか「心」とか、「苦しめてしまった」とか、キモイことを言う必要はないのである。「心」とか「気持ち」とか、そういう次元ではなく、ただ普通に、フェアに、差別せずに、他の人と同じように扱えばいいだけの話なのである。

差別したことを認めてください。そうでなければあなたはまた差別をやります。差別を否定すること自体が差別なのです。それでは再発防止にはなりません。今後、あなたの医療機関にも、他の医療機関にも、福山市に対しても、ひいては日本社会全体に対しても、これがいい教訓になるように、差別したことを認めて、この問題に一つの区切りをつけてください。

乗松聡子(@PeacePhilosophy) 

Tuesday, September 08, 2020

「自分のところにも母親があんな風に出てきてくれるといいんだけれどね」- 被爆者 岩佐幹三さんを偲ぶ Remembering IWASA Mikiso, a Hiroshima Hibakusha (1929-2020)

 2006年バンクーバーで開催された「世界平和フォーラム」に日本被団協の派遣団で来ていた被爆者のおひとり、岩佐幹三さんが亡くなったとの報せを聞いて大変ショックな気持ちでいる。

私は地元の「バンクーバー9条の会」の一員として、このとき、もう一人の被爆者の三宅信雄さんの証言の通訳と、井上ひさしの劇『父と暮せば』の朗読上演を行った。

そのとき、岩佐さんは他の被爆者のみなさんと一緒に客席で観ていてくれていた。私は、この劇で描かれている被爆者と、岩佐さんが、似た体験をしていることを知っていたため大変緊張したことを覚えている。

2011年に私が翻訳で参加した本、木村朗、ピーター・カズニック著『広島・長崎への原爆投下再考 日米の視点』(法律文化社)に寄せたコラムでこのときのことを書いた。

2006年にバンクーバーで世界平和フォーラムが開催されたとき、私はバンクーバー九条の会の一員として、故・井上ひさしの原爆劇『父と暮せば』英語版の朗読上演をした。爆風で倒壊した家の下敷きになった父親を助けることができずに、猛火が迫る中父親を置いて逃げるしかなかった若い女性の元に、死んだ父親が現れて、娘を励ますという設定の劇である。「あんときおまいは泣き泣きこようにいうとったではなーか。『むごいのう、ひどいのう、なひてこがあして別れなきゃいけんのかいのう』…。」少年だった岩佐さんも、同じようにお母さんを置いて逃げなければいけなかった。そんな岩佐さんをこの劇の客席に迎えたということは忘れられない体験となった。その後岩佐さんは、「自分のところにも母親があんな風に出てきてくれるといいんだけれどね」と微笑みながら語ってくれた。「こよな別れが末代まで二度とあっちゃいけん…あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされとるんじゃ。」この劇の父の言葉のような思いで、岩佐さんをはじめ被爆者たちは生きてきたのだろう。

2010年5月の核不拡散条約再検討会議のときも、岩佐さんは被団協の派遣団の一人として、炎天下の中で行進を行っていた。ニューヨークの同時多発テロ事件(911)の被害者家族とともに開催した証言会でも岩佐さんはご登壇、私は通訳を務めた。

2006年の平和フォーラムのときの派遣団のうち、岩佐幹三さん、三宅信雄さん、大野禮子さん、寺沢茂さんとは、夏の広島・長崎の日米学生の旅が終わった後には毎年のように、被団協の事務局の欠塚さんの手配で、集まって食事を共にした。

写真は、2011年の8月11日に集まったときのもの。場所は覚えていないが、被団協の事務局のある大門の近くだったと思う。

左から、大野さん、私、寺沢さん、岩佐さん、三宅さん

(寺沢さんとお会いしたのはこの時が最後となってしまった。この一年後、2012年8月31日に85歳で亡くなられた。)


ちょっとお酒が回ってきて話も弾む。

帰り途、お互いによりかかるようないい気持ちで駅に向かう。
左から、三宅さん、岩佐さん、寺沢さん。

地下鉄のホームで、岩佐さんと、三宅さん

私の知る岩佐さんは、いつもにこにこされている温厚な方であったが、核兵器廃絶には非常に厳しい姿勢で取り組んでおられた。2016年5月にオバマ大統領が広島に来たときは日本被団協代表委員の一人として列席した一人であった(オバマ大統領との直接の交流は許されなかった)。ここ数年は体が弱られて、お電話で話すことしかできなかった。


岩佐さん、やっとお母様に、会えましたね、きっと。どうか安らかにお眠りください。


★ ★ ★

2010年、ニューヨークにおける核不拡散条約再検討会議のときの岩佐さんの証言を、ここに紹介します。


核兵器も戦争もない平和な未来を

-日本の原爆被爆者を代表して-

                                                 岩佐幹三

千葉県船橋市 

  2010NPT再検討会議の成功をめざして参集された皆さん、また、核兵器、核戦争の脅威から解き放たれることを心から願っている皆さん、核兵器の一日も早い廃絶のために力をあわせましょう。そのために日本から被爆者を代表して参加した一員として、私の被爆体験と願いを訴えます。

  1945年8月6日と9日に広島と長崎に投下された原子爆弾は、爆風、熱線、放射線を総合した巨大な破壊的エネルギ-によって、一瞬のうちに両市を瓦礫の街に変え、市民たちを地獄の劫火と放射能の渦巻く汚染荒野の中に投げ込みました。

  その日16歳の中学生だった私は、動員中の軍需工場が電休日だったので、広島の爆心から近距離1.2kmの自宅の庭にいました。飛行機の爆音が聞こえて間もなく、激しい爆風の衝撃をうけて、地面にたたきつけられました。やわらかい畑地だったので大した傷は負いませんでした。50cm右にいたら庭石にたたきつけられて即死だったでしょう。家の前のバス通りをはさんだ向かいの家の屋根の陰になって、奇跡的にやけども負いませんでした。

  母が倒壊した家の下にいます。あたりの静寂をやぶって「お母さん」と叫びました。すると屋根の下から「ここよ」という声が聞こえてきました。「ああよかった。生きていてくれたんだ」とその瞬間は安堵しました。しかしその喜びも束の間でした。屋根板をはがして逆立ちをするよう顔を突っ込んだ目の前には、家のコンクリ-トの土台の上に大きな柱が重なって、行く手をはばんでいました。わずかな隙間から1mほど先に仰向けに倒れた母の姿が見えました。つむった目のあたりから血が流れていました。「こっちからはもう入れんから、そっちで動けないか」と聞くと、「左の肩の上を押さえている物をどけてくれんと動けんよ」という答えが返ってきました。また別の方から掘り始めましたが、仲々進みません。そのうちに爆風の吹き返しの火事嵐が物凄い勢いでで迫ってきました。火の粉がふりかかってきます。誰も助けてくれる人はなく、少年一人の力ではどうしたらよいかわかりません。気も動転してきました。とうとう「母さん。駄目だよ。火事の火が燃えついてきているよ。何とか動けんのか」と悲鳴をあげました。外にいる私だって何が起こったのかわからないのです。まして家の下敷きになって周りが見えない母は、不安というよりも恐怖心で一杯だったと思います。でも母は、死を覚悟したのか、「そんなら早よう逃げんさい」と言って、自分は「般若心経」(仏教)のお祈りを唱え始めました。私は、その声を聞きながら、生きたまま焼け死ぬ母を見殺しにして逃げたのです。

  その時周りは、すでに火の海でした。私は、家の裏手にあった中学校の校庭のプ-ルにやっと辿りついて飛び込み、何とか助かることができました。少し遅れて逃げてきた人が、校庭の端まで到達しながら火ダルマになって焼け死ぬ姿を見ました。この人のように多くの被爆者が、倒れた家の中からやっとのことで這い出すことはできたものの、周りの猛火に逃げ場をうしなって、家の側に備えつけられていた小さな防火水槽で、寄り添って焼け死んでいったのです。広島と長崎のいたるところで、そのような惨状が繰り広げられました。この世の地獄としか言えない残虐なありさまでした。

  数日後、私は、家の焼け跡から母の遺体らしいものを掘り出しました。それは、マネキン人形にコールタールを塗って焼いたような、油でヌルヌルする物体でした。とても母の死体とは思えませんでした。母は、人間としてではなく、モノとして殺されたのです。広島と長崎での被爆者たちの死は、「人間の死」といえるものではありませんでした。

  女学校1年生(12歳)の妹は、軍の命令で爆心地近くに動員されて作業中に被爆しましたが、どこで死んだのか未だに行方不明です。その年の5月父を病気で失っていた私は、その日から原爆孤児になりました。その妹を探して広島市内を歩き回った私は、1カ月後に急性症状にかかって倒れました。身体中に赤紅色の斑点が生じ、喉の痛みでろくにものも飲み込めず、鼻や歯茎からは出血しました。髪の毛も抜けました。夫を原爆で失った叔母の必死の看病で奇跡的に死線を脱しましたが、その後もいろいろな疾病と健康障害を引き起こしました。原爆は、さらに牙をむいて襲いかかってきました。近年は晩発性放射能障害によるガンを発症して、闘病生活を続けながら、被爆者運動に参加しています。

  私の被爆体験は、何十万人も被爆した中のほんの一例にしか過ぎません。私のように原爆のキノコ雲の下で直接被爆した者ばかりではありません。被爆した家族を探したり、救援のために入市したりした人々も、残留放射能にさらされ、放射能を帯びた塵やほこりを吸い込んだり、汚染された食べ物や水を摂取して、身体の外からだけでなく、身体の内部でも放射能による被曝をしたのです。被爆後65年経った今もなお多くの被爆者が、私以上にもっともっとひどい被害をうけて苦しみとたたかいながら、「ふたたび自分たちのような被害を繰り返させてはならない」と訴えて頑張って生きています。

  原爆=核兵器被害は、このように被爆者の「いのち(からだ)」に対する被害だけではありません。「くらし」「こころ」についても被爆者は、苦悩に充ちた人生を一生背負い続けているのです。健康障害をかかえた上に家族を失い、家庭が崩壊したためにその後の人生の立て直しを全く狂わされた人、さまざまな社会的差別に苦しみ続けてきた人、被爆したために「結婚」や「出産」を諦めた人は少なくありません。また母親の胎内で被爆したために小頭症の状態で誕生した子供の場合は、親は自分だけでなく、その子の生涯についても想像を絶する負担と苦悩を背負い続けています。被爆2世の白血病や癌による死亡についての情報も多く寄せられていますが、遺伝的影響については未解明のままに残されています。

   原爆は、このように被爆者に「人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許さぬ」被害を与え続けています。私たち被爆者は、この人類史上最大の人災の生き証人です。

  しかし私たちは、「報復」を主張したことはありません。報復を考えるには、その被害があまりにも甚大で破滅的だったからです。私たちは、報復ではなくて、「自分たちのような体験はもうたくさんだ」、「この苦しみを人類の上に二度と繰り返させぬ」ために「核戦争するな、核兵器なくせ」と核兵器の廃絶を訴え、原爆被害に対する国家補償の実現を求めて運動を進めてきました。私たちの国の内外にわたって、被爆体験を語り、核兵器廃絶を訴える運動の輪を大きく広げてきました。そして今日まで幾度か直面した核戦争の危機を防ぐことに貢献してきたと確信しています。

  今人類は、非常に重要な状況に直面しています。

 昨年45日、オバマ大統領は、チェコのプラハでの演説で、核兵器を使用したアメリカの大統領として初めて、その道義的責任を認めて、「核兵器のない世界」に向けた力強い決意を表明しました。私たち被爆者は、心から敬意を表します。オバマ大統領の決意が、このたびのNPT再検討会議で活かされて、核兵器廃絶に向けた国際的な協議の場の設定と実現のための具体的な道筋の討議が直ちに開始されることを期待します。同時に私たちに課せられた任務の重大さも自覚しています。私たちは、今、国連本部のメインギャラリーで、原爆展「ヒロシマ・ナガサキから世界へのメッセージ」の展示と代表団による被爆体験の証言活動を行なっています。一日も早く核兵器の廃絶が実現できることを切望し、ともに頑張りたいと思います。


For a Peaceful Future without Nuclear Weapons and Wars

-- On behalf of the A-Bomb Survivors in Japan -- 


Mikiso Iwasa 

Funabashi City, Chiba Prefecture

 

May 2010

    


Dear friends,

I feel honored and pleased to be together with you, who have come to New York to achieve a successful outcome of the 2010 NPT Review Conference, and who are earnestly hoping and working for a world set free of the threat of nuclear weapons and nuclear war. Let us work together to abolish nuclear weapons without any further delay. Representing the Hibakusha, atomic bomb survivors of Japan, I have come here today to work for our common goal. Allow me to share with you my A-bomb experience and my appeal as a Hibakusha.   

The atomic bombs dropped on Hiroshima and Nagasaki on August 6, 1945 and on August 9, 1945 respectively turned the two cities into rubble in instants through the enormous, combined destructive power of blast waves, heat rays, and radiation. The citizens there were thrown into infernos of fire and devastation contaminated with radioactivity. 

At that time, I was a sixteen-year-old middle school student. As the factory at which I was mobilized to work was closed on that day due to a power shortage, I did not go to work. I was in the yard of my house, which was located 1.2 kilometers from what would be ground zero. Soon after I heard the roar of planes flying over, I felt the impact of a strong blast, and my body was smashed to the ground. I was not particularly injured, as the ground was soft soil. If I had stood about half a meter to the right, I might have been killed instantly, smashed on a garden rock. Miraculously, I suffered no burns, as I was in the shade of a neighbor’s house standing opposite mine across the street. 

In the ominous silence, it suddenly dawned on me that my mother was under the collapsed house. I cried out, “Mom!” And I heard her reply, “I’m here,” from under the fallen roof. I was relieved to know that she was alive, but my joy was short-lived. When I managed to lift the roof sheet and to thrust my head under, I saw the fragments of the collapsed support pillars scattered over the foundation of the house. Through narrow slits between them, I saw my mother lying on her back about a meter away. She was bleeding from her closed eyes. “I cannot get in from here. Can you move out from there?” I asked. She said, “I cannot move unless you remove the beam lying on my left shoulder.” I tried to remove the debris, attacking it from another side, but I could not make my way any closer to her. After some time, a fierce firestorm approached, and I worked desperately in a shower of falling sparks. There was no one to help me. Feeling powerless, I became nearly frantic and cried, “Mom, there’s no way I can move it. The fire is coming. Can’t you make it through somehow?” I had no idea what was happening in Hiroshima beyond the confines of my collapsed house. My mother must have been full of fear, not able to see anything around her, trapped under the fallen house. But she seemed to have accepted death and said to me, “Then you must escape quickly!” And she began to recite a Buddhist prayer. Hearing her prayer, I ran away. I left my mother to be burnt alive in raging flames. 

At that time, all around me was a sea of fire. I struggled through and managed to reach the swimming pool of a junior high school located behind our house. I jumped into the water and eventually escaped from the fire. But I saw a man, who was also trying to flee from the fire, reach the edge of the schoolyard a little later. He was enveloped in flames and burnt to death. Like him, many people were burnt to death after narrowly escaping their fallen houses. Losing their way in firestorms, they swarmed to a small water tank and died altogether. Similar dreadful scenes were seen everywhere in Hiroshima and Nagasaki right after the atomic bombings. It was literally a hell on earth. 

A couple of days later, I dug out what looked like my mother’s body from the ruins of our house. It was a greasy and slimy object, like a mannequin painted with coal tar and burned. I could not believe that it was my mother’s body. She was killed mercilessly, not as a human being but as an object. The deaths of A-bomb victims in Hiroshima and Nagasaki could not possibly be described as human deaths. 

My younger sister, then aged 12 and a first grader in a girls’ middle school, had been mobilized by the military and was working near ground zero when the bomb was dropped. To this day, she is still unaccounted for. We do not know where or how she died. As my father had died from an illness in May that year, I became an A-bomb orphan. Looking for my sister around the city center, I fell ill, suffering the acute symptoms of radiation poisoning. Scarlet spots developed all over my body. I could not swallow due to a sore throat. I bled from my nose and from my gums. I lost my hair. Thanks to the devoted care of my aunt, who lost her husband to the A-bomb, I survived. But since then, I have suffered many different illnesses and health conditions related to radiation poisoning. Recently, I developed cancer caused by the delayed effects of A-bomb radiation. I continue my Hibakusha activities while battling my cancer.

Please remember that my experience is only one of the several hundred thousand victims who went through the A-bombings. Not all of the Hibakusha were under the mushroom cloud. Many more people who later came into the city looking for their families or engaging in rescue work were also exposed to residual radiation, inhaling radioactive dust and air and drinking or eating contaminated water and food, irradiated not only externally but also internally. Even after sixty-five years, many Hibakusha still suffer from the dreadful consequences of the A-bombs, many worse off than I, but they still struggle to survive. We want to make sure that we stop repeating such atrocities. No one should have to experience such atrocities. 

The harmful effects of nuclear weapons are not limited to the damage done to the bodies of their victims. Survivors continue to suffer in their everyday lives and from psychological wounds that will never heal as long as they live. Many of the Hibakusha have had chronic health problems, have lost family members, have experienced family break-ups, and have not been able to rebuild their lives, facing various kinds of social discrimination, giving up thoughts of marriage and children. In the cases of those who were exposed to the A-bombs in utero and were born with microcephaly, their parents continue to bear unimaginable burden and suffering, not only as Hibakusha themselves, but as parents of Hibakusha. While we know of many cases of second-generation A-bomb victims who have died from leukemia or cancers, the mechanism of the genetic effects of the A-bombs remains unstudied. 

Thus, the A-bombs continue to inflict serious damage on the survivors to the extent that they are not allowed to die as human beings nor live as human beings. We, the Hibakusha, are living witnesses of one of the worst human disasters in history. 

But we have never called for retaliation. The A-bomb damage was too grave and too destructive to consider retaliation. Instead, we have promoted our movement to ensure that such tragedies should not be repeated. We have worked to prevent nuclear war and to abolish nuclear weapons. We have also worked to achieve state compensation for the A-bomb damage. We speak about our A-bomb experiences both in Japan and internationally. We are confident that our activities have contributed to preventing the outbreak of nuclear war in a number of crises. 

Now, we are at a very important juncture in our history. 

On April 5, 2009, U.S. President Obama in his speech in Prague, Czech Republic, expressed his strong determination to achieve a “world without nuclear weapons”, acknowledging for the first time the moral responsibility of the country that has used nuclear weapons to act for that goal. We the Hibakusha pay tribute to him for his statement. We sincerely hope that during this NPT Review Conference his determination will be translated into real action. Discussions should start immediately to set out a concrete path for international negotiations for and realization of the abolition of nuclear weapons. 

At the same time, we are aware of the significance of our own task. Currently, in the Main Gallery of the Visitors Lobby of the U.N. building, we are holding an A-bomb exhibition entitled “A Message to the World from Hiroshima and Nagasaki.” There, our delegation members are also giving witness to their atomic bomb experiences. Please come and visit our exhibition. We earnestly hope to achieve our goal of the elimination of nuclear weapons, and for this, we continue to work together with you. Thank you.