「 カナダ9条の会」は、カナダ西海岸のビクトリアから、東部のモントリオールまで、また、元カナダに住んでいたけれどいまは米国や日本に住んでいる人たちなども含めた、80名ほどの市民グループです。バンクーバー、トロント、モントリオールにあるそれぞれの地域の「9条の会」は地域の活動を続けながらも、メールを通じて、もっと地域的に幅広く交流しようということで、「カナダ9条の会」のメーリングリストを通じて情報や意見を交換してきました。今年の夏は、「戦後」75周年ということで、「私にとっての”あの戦争”と9条」というテーマシェアリングの会を8月に1回、9月に1回持ちました。主に日本語を使うグループとはいえ、多彩なバックグラウンドを持つ人たちが集まっています。世代的には80代から10代まで、また、日本人、日系人だけでなく、在日朝鮮人、沖縄、カナダ、韓国、中国などのバックグラウンドを持つ多彩なメンバーに話してもらいました。その中で、在UBC(ブリティッシュコロンビア大学)大学院で学ぶ韓国出身の柳智仁さんのトークを、このブログで紹介します。一人の韓国人にとっての、あの日ーー韓国では「光復の日」と言われる、日本の植民地支配から解放された日がどのような意味を持つのかというお話を、このように日本語で聞ける機会は特に日本人にとっては大変貴重であると感じ、ブログ読者の皆さんとも共有したく思いました。読んでください。「1945年8月15日」とその後が全く違って見えてくるのではないかと思います。そして柳さんのいう「本当の意味の光復」を導くためには、日本人が歴史を否定せずに真っ直ぐに向き合うことこそが大事と考えます。(前文 乗松聡子)
韓国人にとって光復はどういう意味なのか
柳智仁 (Jiin Yoo)
まず、韓国のメディアを確認してみました。 2015年光復70周年を記念に行ったKBS調査によると、韓国の国民を喜ばせた歴史的な出来事の1位が日本からの解放、2位は2002年ワールドカップ4強、3位は1988年ソウルオリンピックとなっていました。 2020年の調査によると、韓国青少年の65.7%が光復節の日付を正確に知っている[1]、また、2019年の調査によると、77%が光復節に太極旗を掲揚する[2]と述べましたが、これは前年度に比べて7%上昇した数値で、これは「徴用工判決」に対する日本政府の経済的報復行為が引き起こした韓国内の反日感情の影響とも考えられます。韓国国民が光復節に最も思い出す独立運動家としては、1位は柳寛順、2位は金九、3位は安重根、そして4位は尹奉吉となっていました[3]。
<左から1位柳寛順、2位金九、3位安重根、4位尹奉吉:写真出処https://ko.wikipedia.org/> |
要するに、光復節は韓国人にはとても大事な記念日であり、多くの人が太極旗を掲揚することによってその日を記念します。記憶の仕方として一番多いのは多分犠牲になった独立運動家を思い出すことかなと思います。メディアなどでも独立運動や運動家に関連するコンテンツが多く登場しますし、それに関する映画やドラマも毎年のように登場します。我が家の子供たちの通っているバンクーバー近郊のSurrey韓国語学校のSummer Campの今年のテーマも「七人の独立運動家」で、うちの子供は、金九(Kim Gu)、柳寬順(Ryu Gwansun)、安重根(An Jung-geun)、金マリア、安昌浩(Ahn Chang-ho)、李會榮(Lee Hoe-yeong)、そしてFrank Schofield(カナダ出身)の七名の独立運動家の活動について毎日習いました。
個人にとって植民地時代と光復とはどういう意味だったのか。
それでは植民地時代、そして光復というのは韓国人たちにどのような意味を持っていたのかについて私の知っていることを中心に少しお話ししたいと思います。植民地時代と光復に対する認識は個人や家族のそれぞれの経験と背景によって異なると思います。中には歴史的、社会的な変化に仕方なく順応して生きていた多くの人々がいるでしょうが、順応せず、独立運動に直接、間接に関与していた韓国人たちもいました。これらの人たちには間違いなく光復は待ちに待った嬉しいことだったと思います。一方、日本帝国に協力したり、同じ民族を弾圧したりした親日勢力も数多くいましたが、光復はそういう親日勢力にはきっと恐ろしいこと、ありがたくないことで、その後の処罰をきっと怖がっていたと思います。結論から言うと、その親日勢力の多くの人々(韓国では「親日派」と言うんですが)はあまり処罰されず、光復後すぐ大韓民国の主流勢力になり、今までも政治、社会、文化、教育の各分野で膨大な影響力を及ぼしています。その一方、多くの独立運動家たちとその家族は逆に親日派によって弾圧され、様々な貢献と犠牲はまともに評価されなかったのが事実です。これら親日派の流れをくむ独裁政権の長い歴史のためです。多くの民衆の犠牲で政治と社会の民主化が行われた1990年代に入ってからやっと、多くの独立運動家たちは烈士、愛国志士などの名前で国家から認められることになりました。韓国では独立運動をした家は三代に渡って貧しくなる一方、親日派だった家は三代まで豊かになるという話まであります。
若干話を変えて、我が家の先祖の経験も皆さんと共有したいと思います。夫の祖父は植民時代が始まった時、済州島の公務員でしたが、日本の苛政に対する反感から仕事をやめたそうです。それから日本の東京帝国大学に留学し、帰国してから韓国の教育界で活動し、光復後は教育界を率いる指導者となったと聞いております。それから1950年韓国戦争の時、3,000人の愛国志士たちと一緒に北韓(朝鮮民主主義人民共和国)に拉致され、その後70年の間、どうなっているのか全然分からないままです。一方、私の家系には朝鮮王朝時代から日本の侵略戦争に抵抗した先祖が多いと聞いております。豊臣秀吉が率いる壬辰倭乱の時、李舜臣(イスンシン)を抜擢し、また戦争中の朝鮮の政局を導いた柳成龍(リュウソンヨン)がその代表的な人物であります。
<柳成龍(リュウソンヨン)標準影幀: 国立現代美術館> |
他に当時の二回の侵略に対抗して義兵を率いた祖先などの歴史も伝え聞いています。 植民地時代には、1910年の日韓併合(韓国では「 庚戌国恥」と呼ぶ)のことを聞いて、17日間の断食後、忠節の詩を残して自決した柳道發(リュウドバル)と、1919年、高宗皇帝の死に激怒して父の柳道發に倣って自決した柳臣榮(リュウシンヨン)の話はよく知られています[4]。もともと私の家系は、伝統的な儒教家として朝鮮時代から学者が多かったですが、植民地時代になってから学問をやめ、武装闘争の道を選んだ先祖も多数いると聞いています。何人かは故郷である慶尙北道の安東を出て、朝鮮各地、上海、北京などで義兵活動をしている間、日本警察に殺されたとか、あるいは独立運動の軍資金を与えたり、直接義烈団に参加するなどの独立活動をして射殺されたり、逮捕されて刑務所で亡くなった方の名前も残っています。幸いなことに私の家系の独立運動家たちのほとんどは、かつての功労を認められましたが、これはおそらく私の家系が当時も名家として社会的な地位を持っていたからだと思います。独立運動に関わっていた多くの人々は名前も残せず亡くなったり、光復後にも適切に評価されず苦しい生活を送ったりしたと聞いています。2018年のある国家機関の調査によると、功労を認められた独立有功者の場合にも、経済的困難と闘病などで厳しい人生を送った人々が多いようです[5]。
去年カナダに移住した後、4〜5人の韓国人と交流をするようになって、今回このテーマについてその人たちの意見を尋ねてみました。 全羅道出身のある人の祖父は小さな町で農業をしていましたが、地域の独立運動家たちを支援したという理由で、当時町に住んでいた男性全体の半分以上である25名と一緒に日本警察に逮捕されたそうです。指先に釘を刺されるなどのひどい拷問を受けてからやっと釈放されましたが、そのほとんどの男性たちは拷問後遺症で数年以内に亡くなったそうです。その釘付けの手の写真が残っていますが、その写真が祖父ということが立証できず、なんの補償ももらえなかったそうです。当時、光州など全羅道地域は、独立運動がどこよりも活発に行われましたが、逮捕されたり、亡くなった方々が結局その犠牲を評価されなかったことが非常に多かったと聞きました。また、もう一人の方の祖父と祖母は、日帝の収奪と生活の困窮のため、家族を連れて全羅道の木浦から満州まで長い旅をし、黒龍江あたりに移住したそうです。様々な苦難
のあげく、光復と6.25韓国戦争の歴史の流れの中、家族の一部は朝鮮族としてそこに残り中国国籍になり、一部はその後北韓(朝鮮民主主義人民共和国)に、また彼の父を含めた一部は韓国の釜山にそれぞれ別れたそうです。植民地時代にはいろいろな事情で朝鮮から満州に移住した人が多いですが、生活のために行った彼の家族のような人もいれば独立運動のために行った人々も多いです。間島という地域にはこうして作られた朝鮮人の村がいくつかあり、農業などをしながら資金を集めて「大韓民国臨時政府」[6]の独立運動を支援したそうです。
<大韓民国臨時政府 国務院成立記念 (1919. 10. 11)> |
<1907年義兵:写真出処McKenzie, The tragedy of Korea, page 206 > |
バンクーバーに来て、家族が独立運動に関わったり、または植民地時代の直接な影響を受けたりして苦しみを経験した人々のお話を聴けるとは思わなかったです。彼らにとって植民地時代はいまだに辛い記憶であり、光復後も歴史の歪曲や記録の喪失により、先祖の犠牲や苦しみは正しく認められていない、という悔しい思いを抱えていることが感じられました。また先祖たちと家族の被害に対して日本政府がまだ十分謝罪していない、またその加害の歴史を否定していることが彼らには大きな傷として残っているようです。
光復と韓国社会
最後に、私の考える、植民地時代と光復が韓国社会に及ぼした影響についてお話ししたいと思います。光復節は国民には歴史的に最も嬉しい日、光を見つけた日として認識されているのは間違いありません。しかし、その光は、不完全な光だったのではないかと私は思います。解放後広がる南北分断の状況と独裁政権の長い執権と暴政により、その光はたちまち消えてしまったからです。日本からの解放という歴史的な出来事が、後の大韓民国の建国の過程に、具体的にどのような影響を及ぼしていたのかについての真実は十分に知られていなかったです。建国の中心になり、その後長い間韓国社会を支配してきた勢力が親日派にそのルーツを持つ独裁政権であり、隠したい事実と歴史が多かったからだと思います。8月15日に日本という国からは解放されたのですが、日本が朝鮮に35年間かけて作った植民のシステム、そして日本に協力した親日勢力からの解放までは行かなかったと思います。独立はしたものの、アメリカとソ連による軍政の支配下に南北は分裂され、米軍によって選ばれた李承晩は、自分の政治的地位を固め、政治的な宿敵をとりのぞくために親日派を全面的に活用した訳です。光復後すぐ、日本に協力した親日派を処罰するために法律が定めた反民族特別委員会が本格的に設立され、韓国臨時政府の独立運動家出身の政治家たちが活動したのですが、李承晩と親日派によって密かに弾圧され、結局強制的に解散されることになりました。金九先生もこれらの親日派の陰謀によって暗殺されたのが今の有力な定説です。親日派勢力は以後、李承晩に反対した独立運動家出身の政治家たちに共産主義者の疑いをかけ、結局その罪名で処罰された人々は全国55万人に至ります[7]。その反面、日本に協力した親日派の中で実際に処罰を受けた人はただ数人にすぎません。李承晩に続き、18年に渡って独裁を続けた朴正煕も満州国の日本軍将校出身です。親日派は、これらの独裁政権の庇護の下、その勢力を維持、拡大しました。1960年に行った4.19革命[8]などの様々な民主化運動と、金大中など進歩政治家を弾圧したり、自分の過去を隠すために独立運動家出身を抑圧したりした勢力は結局親日派にそのルーツを持っています。長年与党であり、現在は第1野党である「国民の力」の母体も、まさにこの親日派であることに間違いありません。多くの韓国財閥、そして朝鮮日報、東亞日報、中央日報などの大手新聞社も親日派にそのルーツを持っています。つまり、親日派は韓国社会の政治、経済、文化、教育などあらゆる範囲で影響力を持ち、社会を支配する多くのエリートグループと指導勢力に直接つながっています。これら親日勢力が自分たちの過去を隠すために解放前後の歴史、特に独立運動と新日の歴史を歪曲したのは明らかです。1990年代民主政権になってから歴史を立て直そう、間違った歴史を清算しようという動きが活発になり、新日と独立運動に関する歴史的な事実を改めて研究し直す作業も幅広く行っていますが、それに反発する動きはまだまだ強いです。
したがって光復については、日本という国からの独立は達成したものの、日本植民時代の歴史はまだ清算されてない、もしくはその時代の抑圧の仕組みとレガシーはいまだに韓国社会に幅広く存在していると私は思います。つまり光は完全に戻っていません。私は個人的には、その歴史を清算することが、本当の意味の光復であるのではないかと思います。その意味で私にとって光復は、現在進行中であります。
終
[1]韓国、洪川郡青少年修練館青少年運営委員会調査(2020年8月5日〜13日、294名対象)
[2]韓国、Incruit調査(2019年8月8日〜13日、1041名対象)
[3]韓国、アルバ天国調査(2019年8月1日〜10日、5446名対象)
[4] 韓国学中央研究院のデジタル資料
[5] 韓国國家報勳處調査 2018年
[6] 1919年3月1日京城(現在のソウル)で宣言された3・1独立宣言に基づき、日本帝国の大韓帝国侵奪と植民地統治を否定し、朝鮮半島内外の抗日独立運動を主導することを目的として設立された大韓民国の臨時政府。1919年4月11日、中国上海で設立され、同年9月11日には京城(ソウル)とロシア沿海州など各地の臨時政府を統合して上海で単一の政府を樹立、1945年の光復まで様々な独立運動の拠点となった。(韓国民族文化大百科事典)
[7] 2015年8月6日、韓国ニュースタパー 「解放70周年特別企画‘新日と忘却’」
[8] 4.19革命とは、1960年3月に行われた第4代大統領選挙における、李承晩の自由党政権が犯した大規模な不正選挙に反発し、全国的な規模で行った学生や市民による民衆デモのことで、大韓民国第1共和国を終えた民主主義市民革命である。
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