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Monday, October 31, 2011

安斎育郎: 原発事故をどう受けとめるか?―次世代への謝罪と期待をこめて―

311以降このサイトにもたくさんの文を提供してくれた安斎育郎さんが、生涯をかけた核問題との戦いを自伝的に綴った文章を紹介します。


『あきた青年広論』特別寄稿

原発事故をどう受けとめるか?
─次世代への謝罪と期待をこめて─

安斎育郎
(プロフィール)1940年、東京で9人兄弟の末子として生まれる。東大工学部原子力工学科卒、工学博士。1969年に東大医学部助手、1986年、立命館大学経済学部教授、88年、国際関係学部教授。1995年より、国際平和ミュージアム館長。現在、名誉館長。2011年4月、安斎科学・平和事務所を開設。

平和のための博物館国際ネットワーク・諮問委員。南京国際平和研究所・名誉所長。ベトナム政府より、文化情報事業功労者記章受章。第22回久保医療文化賞受賞。「国境なき手品師団」名誉会員。

著書に、『人はなぜ騙されるのか』(朝日新聞社)、『ビジュアルブック語り伝えるヒロシマ・ナガサキ』全5巻(新日本出版社、第7回学校図書館出版賞)、『ビジュアルブック語り伝える沖縄』全5巻(同、第9回学校図書館出版賞)、『ビジュアルブック語り伝える空襲』全5巻(同、第11回学校図書館出版賞)、『だます心 だまされる心』(岩波書店)、『放射線と放射能』(ナツメ社)、『だまし世を生きる知恵』(新日本出版社)、『食卓の放射能汚染』(同時代社)、『福島原発事故─どうする日本の原発政策』(かもがわ出版)、『これでわかる からだのなかの放射能』(合同出版)など多数。NHK人間講座「だます心 だまされる心」(全8回)、「あさイチ」、日本テレビの「世界一受けたい授業」などにも登場。

◆はじめに
2011年3月11日の東日本大震災を機に発生した福島第一原子力発電所の事故は、大量の放射性物質を環境中に放出し、生産の場である土地や海を汚染し、子どもたちを含む多くの人々を放射線被曝の危険にさらしてきた。私は、放射線防護学の専門家として、また、東京大学工学部原子力工学科の第1期生としてこの国の原子力開発の黎明の頃から関わってきた者として、この事故の重大さに心痛め、重大な責任を感じてきた。私自身は、後述するように、40年以上も前から原発政策批判の側に身を置き、福島原発にも地元の人々とともに反対運動を続けてきた立場にあるが、結局はこのような破局的な事故を防げなかったことに内心忸怩たる思いを抱き、もっとやり方があったのではないかと悔い、申し訳なさを払拭できずにいる。事故後、4月、5月、8月と福島を訪れ、人々の深い失意に接するにつけ、自らの生き様の問題として、拭いがたい痛みを感じている。

2011年4月16日(71歳の誕生日)、原発被災地で土を採取する筆者


私は日本青年団協議会の助言者を20年余り務め、原水爆禁止運動などを通じて青年団の関係者とはそれなりに浅からぬ交友関係を培ってきた。私が青年団と公式に交わるようになったのは1977年の被爆問題国際シンポジウムと、それに続く原水爆禁止世界大会からだったが、この国の原水爆禁止運動の中には歴史的事情もあって、とかく違和感情が強く残っていた頃だった。私は科学者として可能な限り「全方位的交流」を心がけたが、相応の苦労もあった。2+3はどのような信条の持ち主がやっても5に相違なく、その意味において科学的な真理は価値観や党派性に関係ないはずなのだが、運動の内部に対立感情が渦巻いている時には、人は科学の普遍性などはそっちのけで、いずれの陣営に与するのかと人定めに汲々としがちである。日本の原子爆禁止運動の内部対立の一つの問題が「原発問題」だった。一方には、核兵器と原発の密接な関係をふまえて、「核絶対否定」をこそ運動の基底にすえるべきだという主張があり、他方には、原発に対する態度を原水爆禁止運動の「踏み絵」にすべきではないという主張があった。後述するように、原発と核軍備競争とは密接な関係性をもった歴史的事情をふまえれば前者の主張にも理があり、多くの人々が政府や電力資本による「原子力安全神話」に翻弄されている中では、「平和利用の可能性は否定すべきでない」と考えている多くの人々が現実にいたから、原発に対する賛否の態度を原水爆禁止運動への参加資格とするようなことはすべきでないという後者の言い分にも理があった。前者は実体論的で、後者は運動論的な面を持つ主張だ。福島原発事故を経験した現在、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)も含めて、前者の議論はあまり違和感なく受け入れられつつあるように見える。日本被団協の組織原則は「被爆者であること」であって、原発に対する賛否の態度は参加要件ではない。それは、日本の青年団運動にとっても同じに相違ない。青年団に参加できるかどうかは「青年である」ということであって、あれこれの政治的・経済的・社会的問題に対する態度によって参加の可否が影響されることはないはずだが、問題が現在及び未来の青年のあり方に深く関係するような場合には、異なる意見をもつ自由は認めつつも、したがって、最終的に賛否の態度を決めることは個々人に委ねつつも、組織として問題の本質を深く認識し、意見交換を活発化させ、団員の判断の材料を豊かに提供することは意味のあることであり、組織としての社会的な責務でもあろう。

本稿は、福島原発事故に関する技術上の問題などに深入りすることはしない。なぜこのような深刻な原発事故が発生したのかについて世界史的なレベルで把握し、過ちを繰り返さないために私たちがどうすべきかについて考えようとするものである。

◆広島・長崎原爆投下の経過
戦後日本のエネルギー政策を論じようとすると、第2次世界大戦の終盤の局面から検討する必要があるように思う。簡単に第2次世界大戦の終わり方をまとめてみる。
1939年にドイツのポーランド侵攻で始まった第2次世界大戦は、枢軸国(ドイツ・イタリア・日本など)と連合国(アメリカ・イギリス・ソ連など)の間の世界規模の戦争に発展し、次第に攻勢を強めた連合軍は、すでに、1943年のカイロ宣言で「日本の無条件降伏」などを含む対日基本方針を決めていた。日本は長期化する戦争に疲弊し、44年には本土の戦場化が進み、45年に入ると大規模な空襲にさらされるようになった。

1945年2月、アメリカ・イギリス・ソ連の首脳が「第2次世界大戦後の処理」に関するヤルタ会談を開いた時、アメリカはソ連と「極東密約」を結び、「ドイツ降伏後3ヶ月以内にソ連が対日参戦すること」を要請した。5月8日にドイツが無条件降伏するに及んで、第2次大戦の主敵は日本となった。

7月16日、アメリカはニューメキシコ州アラモゴードで、人類史上初の原爆実験を成功させ、翌17日からベルリン郊外ポツダムでの会談に臨んだ。ソ連のスターリンはアメリカのトルーマンに、「ソ連が8月中旬までに対日参戦すること」を告げ、翌18日には、「日本がソ連を通じて終戦を模索していること」を示す天皇からの極秘親書の内容を伝えた。アメリカのイニシャチブで対日戦争を勝利に導きたいトルーマンは、日本に対する原爆投下の目標地選びを急ぎ、当初「京都・広島・小倉・新潟」を候補地としたが、最終的には8月2日のセンターボード作戦で、「広島・小倉・長崎」と決定した。8月6日、テニアン環礁を飛び立ったB29エノラ・ゲイが広島にウラン爆弾を投下し、核地獄を出現させた。焦ったスターリンは、当初8月15日としていた対日参戦を前倒しし、8月8日23時日本に宣戦布告し、8月9日午前0時を期して満州地方から対日戦の戦端を開いた。奇しくも、ヤルタでの極東密約が定めた「ドイツ降伏から3ヶ月目」にほぼ符合するタイミングだった。アメリカは、自らの手によって日本に止めを刺すため、その3時間後にはテニアン環礁からプルトニウム原爆を搭載したB29ボックス・カーを離陸させ、第2目標の小倉に向かわせた。進入経路の取り方に失敗したのに加え、八幡爆撃による火災の煙が小倉の町を覆っていたため目標が目視できず、結果として原爆は第3目標だった長崎に投下されたが、広島・長崎に投下された2つの古典的原爆は今日までにおよそ35万人を死地に追い遣った。

このように見てみると、原爆投下の背景には、戦時下の国際政治の中での、世界支配をめぐる国家と国家のかけひきがあったことを見て取れよう。

◆戦後の核軍備競争へ
広島・長崎の原爆投下の生き地獄の惨状が世界にリアルに伝えられれば、いくら戦時とはいえ、核兵器のような非人道的兵器は禁止されるべきだという世論が起こったかもしれないが、敗戦国日本を占領した連合軍の中核にあったアメリカは「プレス・コード」(報道管制)を敷き、原爆報道を厳しく禁止した。世界は核兵器使用の非人道的特性を理解せぬままに戦後を迎え、アメリカは翌1946年7月1日、ビキニ環礁での戦後初の原爆実験を皮切りに、再び核兵器開発に乗り出していった。

ところが、僅か3年後の1949年8月29日、ソ連が原爆事件を成功させた。そのほぼ1ヵ月後の10月1日、中国共産党に率いられる中華人民共和国が成立し、翌1950年6月25日には朝鮮戦争が勃発する中で、アメリカは原爆の1000倍も強力なスーパー爆弾としての水爆開発と、日本の再軍備へと向かった。程なく米ソ両国が揃って水爆の原理的実験に成功し、アメリカは、1954年、ビキニ環礁で一連の水爆実験(キャッスル作戦)に突き進み、その一環として、日本で「ビキニ水爆被災事件」あるいは「第五福竜丸事件」として今に記憶される3月1日のブラボー爆発が実施され、世界中に放射能雨を降らせ、海産生物の大規模な放射能汚染をもたらした。ブラボー爆発の水爆の威力は15メガトンだったが、これは第2次世界大戦で使用されたあらゆる砲爆弾威力合計(広島・長崎原爆を含む)の5倍に達するものだった。それは「力による世界支配」の政治思想がもたらした「暴力を極大化」だったが、それでさえ、6年後の1961年10月30日にソ連がノヴァヤゼムリャで行なった50メガトンの水爆実験の露払いに過ぎなかった。不幸なことに、「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」としての原発開発は、この米ソ両国による核軍備競争の展開過程と重なり、密接な関わりをもった。原発の黎明期、米ソ両国は「資本主義陣営」と「共産主義陣営」の雄として、何かにつけて互いに世界を視野に置いた対決姿勢をあらわにしていた。

◆原発開発のルーツ
 1954年にソ連がモスクワ郊外のオブニンスクで5000kWの実用規模の原子力発電を成功させたことは、世界の原発開発競争が本格化する契機となった。この頃、アメリカの原子力方は、、民間企業の原子力分野への参入を認めていなかったし、アメリカの産業界は、国家による戦略的事業である核兵器生産に参入することによって巨億の利益を手にしており、まだ海のものとも山のものとも見定めのつかない原子力発電には、あまり熱意をもっていなかった。アルゴンヌ国立研究所は重水減速炉の開発に取り組んでいたが、原発の実用化には距離があった。

ソ連による実用規模の原発開発によってアメリカは原発開発を急ぐ世界戦略上の必要性に迫られることになった。イギリスも2年後の1956年、黒鉛減速炭酸ガス冷却炉(コールダーホール型炉)による6万kの原発の運転に漕ぎ着けた。アメリカは、ウェスティングハウス社が原子力潜水艦の動力として開発した加圧水型軽水炉(PWR)を急遽陸揚げし、1958年にシッピングポート原発(10万kW)として運転を開始した。同じアメリカのGE社は、ウェスティングハウス社に対抗して沸騰水型軽水炉(BWR)を開発し、遅れて1960年にドレスデン原発(18万kW)として運転を始めた。アメリカの原発は、安全性を一歩一歩確かめながら技術の発展段階を着実に踏まえて十分な時間をかけて開発されるという経過をたどったものではなく、核による世界支配をめぐる米ソのせめぎ合いの中で慌しく「実用化」されたものだった。

日本の原子力開発も、この世界の動きと連動して足取りを刻んだ。1954年3月16日、日本国民は、アメリカのビキニ水爆でマグロ延縄漁船・第五福竜丸の乗組員23人が被災した事件を知ったが、実はその2週間前の3月3日、中曽根康弘改進党代議士のイニシャチブで2億3500万円の原子炉築造予算が政府予算案の修正の形で唐突に国会を通過した。2億3500万円は「ウラン235」からとられたものであり、その性格が知れようというものだが、中曽根氏は。その前年、キッシンジャー大統領補佐官が取り仕切るハーバード大学での「夏季国際問題セミナー」に参加し、アメリカの国際原子力戦略への理解を深め、原子力研究に慎重な日本の学界を政治の力で変えて日本への原発導入を進めることを決意していた。

産業界では、正力松太郎読売新聞社主がアメリカ国務省と連携し、1955年11月には東京・日比谷で「原子力平和利用博覧会」を開催して35万人を動員、翌年にはこれを全国展開、ビキニ水爆被災事件を契機に反核世論が燃え盛る中で、原子力平和利用キャンペーンを繰り広げた。当時、人形峠(岡山と鳥取の県境)でウラン鉱床が発見されたことも、原子力推進派の後押しをした。

アメリカで最初の商業用原子力発電所シッピングポート原発が運転を開始する前年の1957年3月、「大型原子力発電所の大事故の理論的可能性と影響」と題する報告書(WASH740)が出され、最悪の原発事故の場合、3400人の死者が出る恐れがあり、放射能による土地の汚染の損害は最大70億ドルに達する可能性がることを示唆した。70億ドルは当時の換算レートで約2兆5000億円にあたり、日本の国家予算の約2倍に相当した。このままでは到底電力企業の参入が不可能だと考えたアメリカ政府は、同年9月、「プライス・アンダーソン法」を制定し、原発事故に伴う電力会社の損害賠償負担を軽減する法的措置をとった。この法律によれば、電力会社の賠償責任の上限は102億ドルで、それを超えた場合には大統領が議会に提出する補償計画に基づいて、必要な措置をとることとした。4年後の1961年、日本の原子力損害賠償補償法がつくられ、同じ道筋を歩んでいくことになる。

常磐線の浪江の駅前の広告塔が空疎だ(2011年4月16日)

◆アメリカの対日エネルギー支配
ところで、戦後の対日占領政策の中で、アメリカは「一国を支配するには食糧とエネルギーを支配すればいい」という基本戦略に基づいて政策を着々と進めた。第2次大戦直後、日本の発電・送電・配電は日本発送電株式会社(日発)と9つの配電会社(北海道・東北・関東・中部・北陸・近畿・中国・四国・九州)によって担われていた。紆余曲折を経て、日発と9配電会社は1951年5月1日に9地域の民有民営電力会社(北海道電力・東北電力・東京電力・中部電力・北陸電力・関西電力・中国電力・四国電力・九州電力)に分割されたが、この属地主義的再編成にはGHQの意向が強く反映していた。日本の電力生産の大半は水力発電で賄われていたが、地域分割されれば、戦後復興期に急増する電力需要に各電力管内の水力発電だけで対応することは到底不可能であり、電力多消費地に隣接して火力発電所を建設せざるを得なくなる。戦後復興期の火力発電所はほとんど石炭を使用し、世界銀行の招聘で来日したフランスのソフレミン調査団は日本の炭鉱を診断して年産7000万トンの可能性を勧告した時期もあったが、やがて発電用燃料は石炭から石油への転換が進められ、日本の電力生産はアメリカの国際石油資本への依存体質を強め、原子力発電の導入もその延長線上にあった。今日、日本の原子力発電はアメリカで開発された軽水炉をベースとしており、GE(BWR、沸騰水型軽水炉)とウェスティングハウス(PWR、加圧水型軽水炉)が市場を二分割している。

先に述べた通り、1961年、日本も原子力損害賠償補償制度をつくり、原発事故によって50億円以上の損害が出た場合には国が援助する体制をつくった。限度額は2009年に改定され、1200億円に引き上げられたが、「異常に巨大な天災地変」による事故の場合には電力会社は免責される。今次福島原発事故の損害も何十兆円かに及ぶに相違なく、原子力発電は事故時の損害賠償や高レベル放射性廃棄物の10万年にも及び得る保管廃棄費用などを考慮すれば、とても一企業の手に負えるものではない。電力企業にとっては国家の庇護の下ではじめて事業として成り立ち得るものであり、原発はもともと国家と電力企業の共同を前提とせざるを得ない。しかし、やがて、それが電源3法(電源開発促進税法、特別会計に関する法律〈旧・電源開発促進対策特別会計法〉、発電用施設周辺地域整備法)による特別交付金制度によって地方自治体を原発誘致に駆り立て、地域住民を原発推進のために組織することによって「原発促進翼賛体制」が築かれていくに及び、この国の原発開発は、極めて頑迷固陋で不寛容な「原子力ムラ」を築いていったように思う。以下、筆者の体験を綴る。

◆「原子力ムラ」に入村して
筆者は、戦争直後の1947年、疎開先である福島県二本松の小学校に入学し、やがて東京都江東区深川の小学校に転じた。小学校教育を通じて、広島・長崎の原爆被害について学んだ記憶もなく、戦争から死なずに帰った4人の兄たちや父母も含めて、原爆について語ったことを聞いた記憶もない。中学校時代の1954年にはビキニ被災事件の時期を生きたはずだが、「放射能雨」についての断片的記憶はあっても、放射能の恐怖などについてとくに濃密に学んだという記憶もない。筆者が1962年に東京大学工学部原子力工学科第1期生となることを選んだ背景には、1959年5月、東京・晴海で開催された「第3回国際見本市」で展示されたアメリカの原子炉を見た機会があったことが影響している。だから、中曽根─正力ラインがもくろんだ原子力平和利用の世論づくりに絡め取られた一人といえなくもない。展示された原子炉は出力0.1Wながら実物であり、昭和天皇も参観して炉心を覗き込んだことが話題になった。筆者は「平和のための原子力」に新時代の先端科学の一面を感じ、放射能によるトレーサー実験などに知的興味をそそられたように思う。1960年に東京大学教養学部理科Ⅰ類に入学し、2年後の62年に進学先を選ぶ段になって、応用物理工学科なども考えたが、結局、2年前の開設後初の学生募集をかけた原子力工学科に進学し、その第1期生となった。日本の「原子力ムラ」に入村したといえなくもない。筆者は、原子力がモノになるかどうかは、結局のところ、人間が放射線や放射能を管理できるかどうかにかかっていると感じ、専門を放射線防護学分野に選び、卒業研究では原子力施設の災害防止の問題を取り上げた。当時、原子力関連施設が集中立地されていた茨城県東海村初代村長の川崎義彦村長や、日本原子力発電株式会社の板倉哲郎安全技術室長(後の最高顧問)などにもインタビューした。論文は後に『日本公衆衛生学雑誌』に2回に分けて掲載されたが、筆者はひきつづき修士課程に進学し、医学部放射線健康管理学教室を拠点に「尿中ウランの分析法の研究」に取り組んだ。

60年代は日米安保をめぐる国民的闘争で始まり、高度経済成長政策の下で公害・環境問題や労働災害や薬害問題などが噴出し、労働運動・市民運動・科学者運動等が活性化した時代だった。日本にある米軍基地が発進基地として用立てられたベトナム戦争では、ゲリラ戦対策の枯葉剤使用による大規模な森林破壊の実態も明らかにされ、科学者の社会的責任についての議論も盛んに行なわれた時代だった。筆者は、修士課程2年生だった1965年に設立された日本科学者会議(科学の自主的・民主的・総合的発展をめざす学際的な組織)に加わり、政府に対する原子力分野での公開質問状の取り組みや、原発立地予定地域での住民との共同活動などに参画するようになり、徐々に、単なる原子力工学や放射線防護学の専門領域をこえた社会的視野を培っていった。とりわけ、地域住民との共同の過程では、原子力発電所の地域社会への導入に伴う多種多様な問題を容赦なく問いかけられ、それに答えるためには、政治・経済・社会・文化・科学技術のあらゆる面にわたる学習が不可欠で、筆者はいやおうなく、放射線防護学をベースキャンプとする「スペシャリスト」から、原子力一般に視野をもつ「ジェネラリスト」へと鍛えられつつあったといえる。

いわき市での講演会。被災地の人々は真剣だ(2011年4月16日)
1972年、筆者は、日本の科学者の公的代表機関である日本学術会議の第1回原発問題シンポジウムで「6項目の点検基準」を提起し、原発政策を総合的に批判した。弱冠32歳だった。「6項目の点検基準」とは、①自主的なエネルギー開発であるか、②経済優先の開発か、安全確保優先の開発か、③自主的・民主的な地域開発計画と抵触しないか、④軍事的利用への歯止めが保障されているか、⑤原発労働者と地域住民の生活と生命の安全を保障し、環境を保全するに十分な歯止めが実証性をもって裏づけられているか、⑥民主的な行政が実態として保障されているか、である。
翌1973年には衆議院の科学技術振興対策特別委員会に専門家10人の一人として出席し、ここでも日本の原発政策に批判を加えた。筆者は当時東京大学医学部文部教官助手だったが、国家が国策として原発開発を推進しようとしている時に、国権の最高機関である国会で、国家公務員が国策批判を展開した結果、「反国家的なイデオローグ」と見なされることになった。

同じ1973年の9月18・19日、東京電力福島第二原発1号炉の設置許可処分に関わる日本初の住民参加型公聴会が開催され、筆者も地元住民の推薦枠で意見陳述の機会を与えられた。それは「史上初の住民参加型公聴会」という触れ込みだったが、中身は「茶番劇」以外の何物でもなかった。意見陳述人も傍聴人も事前申込制だったが、推進者たちは活版印刷された大量の申込書を提出し、圧倒的多数の推進派陳述人が、圧倒的多数の推進派傍聴人の前で「原発安全・地域貢献コール」を繰り広げる場となった。

最も驚いたことは、一人の婦人代表が、「放射能恐れずに足らず」という認識を主張するために、その年の高校野球で広島商業が優勝したことを引き合いに出したことだった。原爆が投下された広島の高校球児が、福島代表の双葉高校を1回戦12対0で破った上、その後も勝ち進んで全国制覇を遂げたのだから、「原爆放射能恐れるに足らず」という訳だ。「国防婦人会」の再来かと思わせたこの演説を、筆者は、「このような非科学的な主張で原発の安全性が演出されていくのか」と、「悲憤」を覚えたことを記憶している。今回事故が発生した福島第1原発がある福島県双葉郡には、「明日の双葉地方をひらく会」が組織され、「われわれの“力”で原発建設を促進し、豊かな双葉地方を開いてゆこう」「原子力開発に協力し、エネルギー危機を乗切ろう」などというポスターを掲げた。科学技術庁が「原子力の日」(10月26日)向けに掲げた女性のセミヌード写真を用いたポスターには「エネルギー・アレルギー」とあり、「原子力はすでに身近で使われています。エネルギー不足が予想されるいま、正しい知識が必要です」と書かれていた。原子力を恐れるものは過敏なアレルギー症だと主張するこのポスターのメッセージは、1973年の第2次田中角栄内閣で科学技術庁長官を務めた森山欣司氏が、原子力船「むつ」問題に関連して、「原子力を恐れるものは火を恐れる野獣と同じ」と断じた姿勢に通じていた。

〈写真右〉「明日の双葉地方をひらく会」のポスター。住民も原発誘致に動員された。
(写真左)科学技術庁が原子力の日(10月26日)向けに作ったポスター。原発を怖がるのは「エネルギー・アレルギー症」だという。
筆者は、やがて、福島第二原発1号炉の設置許可処分をめぐる行政訴訟に協力し、準備書面の作成や、放射線の影響に関する国側証人(東北大学医学部教授・粟冠正利氏)の論文を批判する証言活動などに取り組んだ。

◆「アカハラ」体験にみる日本の原子力開発の危うさ
この頃、私は、1974年1月に暴露された「財団法人・日本分析化学研究所」による米原潜寄港に関する海水や海底土の放射能汚染データ捏造事件や、同年9月の原子力船「むつ」洋上試験航海放射線もれ事件についても批判的な活動に取り組み、国会に何度か参考人として呼ばれていた。原子力や放射能分野での国政がらみの問題に活発に関わっていたから、かなりの「厄介者」だったのだろう。1973年から1979年3月28日のスリーマイル原発事故の時期にかけて、ネグレクト・差別・監視・恫喝・嫌がらせ・懐柔などさまざまなハラスメントを体験した。

東大医学部の研究室では「安斎を干す」という教授方針が教室員に示されたことが人づてに聞こえてきた。教育業務から外され、研究発表は教授の許可制を申し渡された(研究成果の発表は固有の権利だから、これは無視した)。大学院生が筆者の研究上の示唆を求めたい場合は、勤務が果てた後、大学周辺の旅館や飲食店で行なった。放射線事故などについて筆者の見解が週刊誌などに掲載されると、文献抄読会の席で罵倒された。講演に行けば電力会社の「安斎番」が尾行し、講演内容を録音して報告する体制ができていたし、研究室の隣席には、筆者の言動に関する諜報活動を行なうために電力会社から研修生が派遣されていた。筆者の共同研究者が研究室を訪れると、露骨な嫌がらせを言われて早々に追い出されたりした。筆者は放射線防護の専門学会では若手研究者の支持を得て理事に選ばれ、70年代半ばには「庶務理事兼事務局長」も務めた。当時の学会会長は黒川良康・動力炉核燃料開発事業団安全管理室長だったが、『原子力工業』誌には、「会長が推進派で、庶務理事が反対派で大丈夫か」といった編集後記が書かれた。理事会の帰り東京電力所属の理事に飲食店に誘われ、「費用は全部保証するから3年ばかりアメリカに留学してくれないか」という懐柔策を提起されたこともあった。

私はどの程度に敵対視されていたのか。

その頃、川崎敬三氏が司会をするテレビ朝日のアフタヌーンショーがあったが、ある時、地域社会を原発誘致に誘う上で決定的な役割を果たした「電源3法」生みの親・田中角栄首相の出身地である新潟県柏崎・刈羽原発の地域住民と、森山欣司・科学技術庁長官が対話する企画があり、筆者にも出演依頼があった。しかし、本番前日、「相手が安斎なら私は出演しない」と森山氏が言っているという理由で出演辞退を懇請された。筆者は科学技術庁長官に嫌悪される存在だった。
1975年に開かれた東大工学部原子力工学科の創設15周年のパーティには出席する立場になかったが、後日主任教授から聞かされたところでは、科学技術庁筋の来賓から、「原子力工学科は多くの有為の人材を送り出してきた点で高く評価されるが、安斎を生み出した点では功罪半ばだ」という趣旨の挨拶があったという。「君は国からその程度に敵視されていることを自覚して振舞え」という警告だったのだろうが、もしもこの話が本当なら、筆者はその程度に「高く」評価されていたということになる。

批判者を垣根の向こうに追いやって、自由にものを言わせないばかりか、日常的に不快な思いを体験させ、「改心」や「屈服」を迫る。こうした反人権的な構造的・文化的暴力は、自由な批判精神の発露の上に行きつ戻りつしながら安全性を一歩一歩培っていく技術開発思想とは対極のものだろう。「自由にものを言わせないこの国の原発開発が安全である筈がない」ことを、筆者は肌で感じていた。

◆おわりに
アメリカの対日戦略の延長線上で国家が電力資本と結合して「原子力ムラ」の骨格が形成され、実証性を欠いた原子力技術の「安全性」を権威づけるために「原発推進姿勢の専門家」や「異を唱えない専門家」が役割を果たし、電源開発促進税法によって電力消費者から徴収した財源による特別交付金をエサに地方自治体が誘致に駆り立てられ、マスコミが批判機能を十分果たせずに「安全で安価で地球に優しい原発」を演出する役割を担って「安全・安価神話」を作り出し、「豊かな地域づくり」を表看板に住民たちまで推進派として組織されてきた。それによって「原発推進総動員・翼賛体制」とでも呼ぶべき巨大な「原子力ムラ」が築かれた一方、批判者は抑圧して「ムラ」から放逐し、その言い分を一顧だにしない─これが、この国の原発政策を「緊張感を欠いた独善的慢心」に陥れ、破局に向かって走らせた背景にあったと感じている。

私たち現世代は、原発政策批判の側に身を置いてきた私自身を含めて、福島原発事故のような破局的な事故を防ぎ切れず、子や孫や次世代以降の人々に巨大な「負の遺産」を残してしまった共同責任を負っている。まことに申し訳ないことだと思う。謝罪する以外にない。青年たちの多くは、国家・電力資本・専門家・自治体・マスコミ・推進住民組織という「原発推進ヘキサゴン(六角形)」に翻弄され、あるいは深い関心を培う機会もないままに、今次原発災害を目の当たりにしたのであろう、しかし、国任せ、企業任せ、専門家任せの姿勢の危うさを、私たちは福島原発事故を通じてよくよく学ぶ必要がある。青年の多くは今次事故の原因に直接的な責任を負う立場にはないが、これから子や孫や次世代以降の人々に憂いを残さないためには、私のような古稀老人にできることには限度があり、「現代」と「未来」を繋ぐ世代としての青年たちにしっかりした見識をもち、より安全な国づくりに自ら積極的に関わる主体性を育み、旺盛な実践のエネルギーを発揮してもらう必要がある。

私たちは原発の恩恵に浴し、電力の約3分の1を原子力発電に依存してきた。その結果、今後数万年に渡って管理していかなければならない、しかも何の価値も生み出さない膨大な高レベル放射性廃棄物を蓄積し、続く何十・何百世代に同意もなく委ねるという「愚」を犯してしまった。私は事故以来、マスコミ対応、講演活動、執筆活動に息も詰まる毎日だが、事の本質を青年たちに伝えるとともに、原発からばらまかれた放射性物質(それは一種の「癌当たりくじ」だが)を出来る限り除去して安全な生存環境をつくるための知識と方法を広めることが、放射線防護学者としての私の責務であると感じている。私のもう一つの専門である「平和学」の分野では、平和教育の目的は、世の中に平和でない状況があることを「知る」だけのことではなく、どうすればより平和な状況を切り拓くことができるか、「自分に何ができるか」と考える主体性を育み、それを実践するための知識や方法(ピース・リテラシー)を身につける支援をすることであると心得ている。目の前の原発事故の実態に目を向けるだけでなく、これからの平和で安全な社会建設のために、青年たちには"Think Globally, Act Locally"(地球的規模で考え、地域から行動する)姿勢を忘れずに、問題を等身大に引きつけて、出来ることは何でも実践して欲しいと念じている。

福島市の保育園で汚染した表層土を削る筆者(2011年5月8日)

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福島原発事故についての緊急建言

1 comment:

落合栄一郎 said...

安斉氏の自叙伝的な論考を興味深く読みました。私
が学部を出た(1959)後で、安斉氏が入学したようで
すが、あの当時の雰囲気は感じられます。原子力とい
うか放射線などについては、ちょっと接触があったよ
うに記憶していますが、深い関係はありません。たし
か、私の属していた学科の教師の一人が、原子力工学
に関係していたと思います。それだけです。私は、大
学院を終了して、助手になったが、それをやめて、ア
メリカ・カナダに出てしまいました。大学院時代に環
境問題が持ち上がり、先輩の宇井純氏とか、その後環
境問題の重要な人物になった中西準子氏などとも親し
くしていましたが、その後は離れて関係は希薄になり
ました。宇井純氏とはしかし、その後も連絡があり、
バンクーバーで1976年に国連のハビタット会議に呼応
して、世界中のNGOが様様な催しをした際には彼と一緒
に、「カナダの水銀汚染問題」のブースを出しまし
た。宇井純氏も、安斉氏と同様に、体制に反抗したた
めに、東大ではいたたまれず、沖縄でその後の生涯を
終えました。まったく、アカデミック分野(特に東
大)も、権力依存で、現在でも、体制に不利な研究に
は研究費が出ないということもあります。
 失礼、変なことを長々と書いてしまいました。安斉
氏の回想、有益でした。ありがとう。