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Friday, July 08, 2011

核廃棄物大国となった「非核国家」日本 - ガバン・マコーマック 2007論文 『プルトニウム超大国 日本』和訳 Gavan McCormack "Japan as a Plutonium Superpower"

Here is a Japanese translation (by Izumi Tanaka) of Gavan McCormack's 2007 article "Japan as a Plutonium Superpower."
In sum, nuclear power is: too expensive. Even the multi trillions for Rokkasho do not include many costs not yet factored in. Yet an equivalent investment in, for example, wind is reckoned to yield 5 times more jobs and 2.3 times more electricity (almost immediately).[68] And, apart from the costs already mentioned, Kashiwazaki shows that that the 6.5 magnitude protection standard for the nation’s reactors is inadequate. It is clear that reinforcing to 6.8, or 7.0 will require prodigious outlays also so far not factored in. On top of this, if the potential costs of a disaster were also factored in, by way of insurance for example, the industry would be unsustainable. A major quake at Hamaoka would create a disaster potentially dwarfing Chernobyl. 30 million people would have to be evacuated and it might be impossible ever to live in the area thereafter.
We are facing right now a situation that McCormack warned four years ago - only that it happened in Fukushima; not Hamaoka.

...Read the full article HERE.

ガバン・マコーマック氏の2007年12月の論文『Japan as a Plutonium Superpower』を、田中泉さんの翻訳で紹介します。マコーマック氏が本文最終章で警告していること(以下抜粋)はまさしく今私たちが直面していることと言えます。場所が浜岡ではなく福島であるという違いを除いては。

...つまるところ、核(原子力)は高くつきすぎるのだ。六ヶ所村につぎ込まれる数兆円という金額にさえ、まだ含まれていないコストが多くある。だが、同額が例えば風力発電に投資されれば、5倍の雇用を創出し、2.3倍の電力(ほぼ即時に)を生み出すといわれるのだ。そして既に述べたコストに加え、日本の原子炉が持つマグニチュード6.5という耐震基準は不十分であることを、柏崎[刈羽原発]が示している。マグニチュード6.8、もしくはマグニチュード7へと強度を上げるには、やはりまだ考慮されていない桁外れの経費を必要とする。とどめを差すのは、例えば保険など、大惨事発生時のコストだ。これを考慮の対象に入れると、核(原子力)産業自体は存続不可能である。浜岡で大地震が起きれば、チェルノブイリをしのぐ大惨事になるだろう。3000万人が避難対象となり、同地域に住むことは金輪際不可能となる。 
原爆の標的となり、第五福竜丸被曝の経験から国際的反核運動の原点となり、「非核三原則」を曲りなりにも訴えてきた日本が選択した戦後の核政策の果ては、皮肉なことに、プルトニウムをはじめとする、とても処理しきれない核廃棄物列島になったことだ。そして今、東電の原発事故から発する放射能にまみれた被曝列島となり、隣国を指して言っていた「東アジアの最大の核の脅威」に自らがなってしまった。


プルトニウム超大国 日本     

ガバン・マコーマック

イントロダクション
過去60年間、世界は核兵器を上回る脅威に直面してはいない。世界が解決策を探るにあたって、被曝国であり、「非核三原則」(製造しない、保持しない、日本へ核兵器を持ち込ませない)および「平和憲法」を持つ日本ほど、積極的な役割を果たすのにふさわしい国はなかった。しかしこれまでの日本は、核(原子力)に対してつねに肯定的な立場を貫いてきた。核(原子力)エネルギー、核燃料サイクル、そして核兵器を肯定してきたのである。

この論文では、核(原子力)の国になりたいという日本の願望について考察する。そして、日本の過去、および現在の核計画の中心に位置している六ヶ所村、敦賀、浜岡に対しても、日本がかつて核の恐怖を味わった広島・長崎に劣らぬ関心が向けられるべきであると述べたい。

日本の核の問題については、日本が自国で核兵器を製造する道を選ぶ日は来るのかという、狭い意味での理解が一般的だ。岸総理は1957年に核兵器[保有]に賛成したことが知られている。1961年には、池田首相が米国のディーン・ラスク国務長官に対して、核兵器[保有]に賛成する者たちが内閣府内にいることを伝えていた。その後継者である佐藤栄作は、1964年12月(中国による初の核実験の2ヵ月後)、「他国が核兵器を保有するのなら、当然、我々もそうすべきである」とライシャワー大使に述べている。米国は不安感を抱き、それが翌年のある合意の締結へと結びついた。日本を米国の「傘」の下に組み入れるという合意である。続いて1979年に大平首相、1984年には中曽根首相が、攻撃用ではなく防衛用である限り、核兵器の入手は日本の平和憲法で禁じられてはいないと述べた。

1990年代後半、野呂田芳成防衛省長官は、日本が特定の状況においては「先制攻撃」の権利を有すると宣言した。明らかに北朝鮮を念頭においていたとみられる。これは、言い換えれば、もし政府がそれを望むのであれば北朝鮮のミサイルや核の施設、およびそれらの関連施設に対する先制攻撃を行うために「防衛」の原理に訴えることもできるということだった。当時、防衛庁(現・防衛省)の防衛事務次官を務めていた西村眞悟は、さらに一歩進んで日本の核武装論を唱えた。
日本独自の核兵器開発については、肝試しのような言動が小出しに続いている。安倍晋三は、官房長官時代の2002年5月、日本の核兵器製造は小さいものであれば憲法違反でないと述べた。北朝鮮が2005年に自ら核保有を宣言し、2006年には日本海に向けてミサイルを発射するとこれらの声はいっそう強まった。北朝鮮の危機が外交的解決に至らず、同国が核兵器保有国であることが確認されようものなら、このような圧力はほぼ避けがたいものとなるだろう。この危機は現在、どんどん解決に向かっているようには見えるが、たとえ解決したとしても核兵器が強大なパワーの象徴として日本の政治家たちを魅了しているというのは不吉である。

だが、核の脅威についてはもっと広い視野に立って考えるべきだと思われる。日本は核の被害を受けた唯一の国であると同時に、世界でもっとも核に力を入れている、いや核に執着しているに近い国でもあるのだ。米国の腕に抱かれて保護され、特権を享受してきた日本は、核(燃料)サイクルを持つプルトニウム超大国へと進化をとげた。

プルトニウムは、日本の経済の未来をかけて選定された物質だ。この物質はその破壊力だけのために作られたものであり、それが人類にとってどの程度危険かといえば、茶さじ一杯ほどの大きさの塊があれば1000万人を充分殺してしまえるほどなのである。こんにちの日本は、落ち着き払って、それで山がいくつもできるほどの量のプルトニウムを将来に向けて蓄えようとしている。

一般的に日本に対する批判は、過去に犯した罪および過去の歴史についての現在の隠蔽行為に集中しがちである。しかし、日本をプルトニウムに依存する超大国へと転換させようとする、官僚たちの手によるこの計画は確実に[東アジア]地域、そして全世界に関わる問題である。なにより日本がたどるのと同じ道を、アジアと世界もたどるのが常なのだ。

兵器
防衛政策に関して、日本の立場は明白だ。政策の要は核兵器である。念のためいっておくが、その兵器は日本製ではなく米国製である。しかし、兵器の製造国はその機能、つまり日本の防衛とは無関係なものだ。防衛政策が核に基盤をおくものであることは、1976年の「防衛計画大綱」から、1997年の「日米防衛協力のための指針」、そして2005-6年の「日米同盟:未来のための変革と再編」に至るまで、多くの政府文書にはっきりと述べられている。

日本は米国の核軍事主義をたいそう熱心に支持してきたあまり、1969年には米国との合意に秘密条項を設けるに至った。そして、核兵器を搭載した米国の船舶が日本に停泊、または日本を通過しても、「原理原則」は無視できるものとし、日本が見て見ぬふりをすることを可能にした。この取り決めは1992年まで続いた。

それ以降も、核兵器は日本側の異議申し立てを受けることもなく、米国の安全保障政策の核であり続けた。が、もはやこれらを日本や韓国に貯蔵しておく必要はなくなった。それは、例えば北朝鮮など、どんな標的に対しても潜水艦、長距離爆撃機、ミサイルなどからの発射が可能になったからだ。

2002年、米国は「コンプラン8022」の中で先制核攻撃の教義を明確に示した。2003年に完成した「コンプラン8022-02」は、イランと北朝鮮という特定の対象に向けた先制攻撃について詳述するものだった。日本は米国との「同盟」を信奉しているので、おなじく核兵器と核先制攻撃を信奉していることになる。

「防衛用」で高潔な「自分たちの」、すなわち米国の核兵器と、「脅威」であり根絶させられるべき北朝鮮の核兵器とのあいだに区別を設け、拠り所とする。これが、北朝鮮の核(開発)計画を非難する日本の立場である。しかし論理的には、もし日本の安全が-すなわち核を保有する国々自身の安全が-核兵器によってしか保障されえないのであれば、同様のことが北朝鮮にも当てはまる。核による抑止が必要であるとの主張も、けっきょく日本よりも筋が通った話に違いない。IAEAのムハンマド ・エルバラダイ事務総長が「機能し得ない」と批判しているのはまさに、安全保障を核兵器に依存する「倫理的に許容できる」ケース(米国と日本がそれに当てはまる)と、そのような兵器の開発を企だてる他の国々の「倫理的に非難に値する」ケース(イランや北朝鮮)とを切り離そうとするこのような試みのことである。

冷戦時代の日本の核政策は、一方で米国の「傘」に依存しておきながら、他方では核不拡散条約にもとづく核不拡散と核軍縮を支持することに倫理的、政治的な一貫性をみいだしていた。しかし米国と他の核保有”クラブ”の国々(英国、ロシア、フランス、中国)が、核不拡散条約の第6条に書かれた義務を踏みにじる決意をあからさまに見せる中、この政策は確実に空洞化していった。核不拡散条約は、1970年に締結され、「核兵器廃絶」のための「明白な決意」として2000年に 再確認されている。西側の大国らは、NPT加盟を拒否するお気に入りの国(イスラエル)が秘密裏に巨大な核兵器をたくさん製造していても見て見ぬふりをしているし、日本のことも特例扱いする傾向にある。日本にも再処理という核の特権を与えているのは、核犠牲国ゆえの信任があるせいでもあるし、日本が米国政府のひいき息子であることをよく承知しているからでもある。あとは、ひょっとすると、日本の平和主義の憲法のせいもあるのかもしれない。

一度核兵器の魅力にとりつかれた日本は、他の核保有国と同じく、時と共にますますそれを手放す気を失くしていった。北朝鮮に対する核による脅しのちらつかせに協力した日本は、核拡散に一役買ったほか、自身でも核兵器を所有する決意を抱く一歩手前まで来た。そのような決定を下すとなれば、日本にはすでに大陸間弾道ミサイルの試作品がある。H2A型ロケットだ。5トン分のペイロード(荷重)を宇宙に向けて発射する能力を持っている。プルトニウムの貯蔵も大量にあるし、核に関する高レベルの科学的・技術的専門知識も持っている。日本ほど核兵器保有”クラブ”のメンバーとなるにふさわしい国は、他に存在しないのだ。

言うまでもないが、米国の(核の)傘という「シェルター」に国家政策の基盤をおくことを選んだ日本などの国々は、その傘の持つ脅威、および防衛の機能にみずからのアイデンティティを同化させている。このシステムについては、公の議論がほとんどされていないにもかかわらず、日本はその中にしっかり取り込まれている。日本の指導者たちは、これといった疑念も抱かず、核に関する言いなりの立場にどっぷりと浸かっているようだ。

日本が、その覆いとなっている「傘」の実態に安心しきる様子の一方、米国は核の先制使用権を手放さない決意を隠し立てもしていない。2003年の機密大統領令に呼応して国防総省がまとめた「グローバル・ストライク構想」は、核兵器を「通常の」戦力に合体させ、ただし書きで先制攻撃の権利を明記した。それが朝鮮半島/韓国(と[東アジア]地域)にとってどんな意味を持ってくるのか、想像にあまりある。2005年に韓国政府が行った研究によれば、米国の核兵器が北朝鮮の核施設に対する「精度の高い」攻撃に使用されれば、最悪のシナリオとしては、朝鮮半島全体が10年間は人の住めない場所になるという。それより多少ましな結果になったとしても、最初の2ヶ月で半径10-15km圏内の住民の8割が死亡するほか、ソウルを含む1400kmも先まで放射性物質がばらまかれるそうである。

2003年3月、米国は日本の後押しを得ながら、核兵器製造に携わっているという根拠に欠ける疑惑に基づき、イラクへの猛烈な戦争を開始した。その米国は核弾頭およそ7500分もの核兵器を自国に保持している。ほとんどは「戦略」的なタイプで、広島と長崎を破壊した兵器より強力だ。
現在米国は、毎年250発の新品の「信頼性ある代替弾頭」を製造するという代替計画を進めている。「精強核地下貫通弾」または「バンカーバスター弾」として知られる、新型の「低威力」小型核弾頭の開発に多大な力を注いでいるのだが、これはイランや北朝鮮の地下施設を攻撃するための特別仕様になっている。搭載される砲弾の先端についている劣化ウランは、殺人的な放射能汚染を撒き散らし、おそらく数世紀のあいだ残存させるであろう。米国は弾道弾迎撃ミサイル制限条約(ABM)から脱退し、包括的核実験禁止条約(CTBT)を批准する気はない旨を宣言した。また、地球から宇宙まで核の覇権を広げることを確約している。

米国の[核の]システムを過去に動かしていたロバート・マクナマラは、2005年3月、それは「違法で非倫理的」なシステムだと述べている。非加盟国(とくに核兵器保有国)とのあいだの民間の核(原子力)エネルギー協力は、NPT条約の根本的な考えの対極にあるにもかかわらず、2005年、米国はインドを「高度な核技術を持つ責任ある国家」と評し、同国に対する民間の核(原子力)技術売却について、30年越しの禁止措置を解除した。その一方で米国は、NPT条約第4条でかれらに保障されている権利を主張したということだけで、イランと北朝鮮を手厳しく非難している。
米国と同様、日本の核不拡散の政策は矛盾している。イスラエルやインドなど、米国がひいきにしている国々が規則を無視したり、違反したりしても見てみないふりをするのだが、その一方で米国にひいきにされていないイランや北朝鮮などの国々に対しては厳しい姿勢を取るのである。また日本は軍縮に関して受身でもある。いいかえると、米国など超大国に課せられている義務を軽視している。そして日本自身の防衛政策が核兵器に依存しているので、北東アジア非核地帯の構想についてはたいして関心を示していない。

この10年間、日本を極東の英国にしようという構想が、太平洋を挟んだ両側で熱心に売り込まれてきた。この構想が核の問題について持っている意味についてはあまり触れられることがない。が、英国は長年、その権力と威信にとって核兵器は不可欠な存在とみてきた。英国政府は2006年、トライデント潜水艦の更新の意向を表明した。つまり、この先の未来に向けても核兵器による防衛に頼り続けるということである。日本の小泉・安倍政権もまた、超大国の装備について非常に重きを置いているので、このことについても、また英国モデルの他の要素についても、検討対象にしているであろうことは間違いない。

エネルギー
兵器のことはよくわかったが、エネルギーとしてはどうなのか?「非核原則」を持つ日本はまた、核の超大国になろうとする過程にある。濃縮と再処理の両方の施設を持ち、高速増殖炉を開発することに力を注ぐ唯一の「非核」国家だ。日本の原子力委員会は、1956年という早い時期に初期計画をまとめていた。そして、核燃料サイクルと高速増殖炉の計画は1967年の長期原子力計画のなかにすでに盛り込まれていた。

エネルギー自給の夢が、歴代の政権や世代を超えた国家官僚たちの想像をかきたてた。何兆もの金が、核(原子力)研究・開発プログラムにつぎ込まれた。エネルギーに関する研究・開発における国のシェア(64%)は、定期的に原子力セクターに回っているし、それに加えてすでに2兆円を超える多額の金額が、六ヶ所村の核複合施設のような主要なセンターの建設と運営に割り当てられている。

現在、核(原子力)が世界のエネルギー需要に寄与する割合は控えめなものだし、減少してもいる。1993年には17%だったが、2003年には16%に落ちた。現存する世界の核(原子力)生成能力を維持するだけでも、次の10年間で約80基(6週間に1基)、それに続く10年間ではさらに200基の原子炉の新規建設を発注する必要が出てくる。世界のエネルギー需要に対する核(原子力)の寄与分を倍増させ、全体の3分の1とするためには、現在から2075年まで、毎週新しい原子炉を1基ずつ建設していかなければならない。

2006年4月に横浜で行われた日本原子力産業協会の年次大会に出席したフランス政府の原子力開発局長は、世界の核(原子力)依存度を21世紀半ばまでに現在の6%から20%まで(これは控えめな増加である)高めるためには、世界中で1,500~2,000基の新規原子炉の建設が必要になるだろうと述べた。今ある核(原子力)の能力を3倍にするというそのような巨大事業であっても、世界のエネルギー問題の解決に対しては控えめな貢献にしかならないだろう。



2006年現在の日本の核(原子力)発電所

その種のコミットメントに関して、現在はまったく何の兆候もみられない。核(原子力)推進で筆頭をいく国々として、たとえば英国は40基以上の原子炉を持っていたが、2020年代半ばまでに1基まで削減する計画になっている。また米国も100基保有していたものの、2020年代にはその多くを解体する見込みである。ブッシュ政権はこの潮流を逆転させようと、断固たる押しの手を入れつづけた。

現在、世界で操業している原子炉は440基あり、建設中のものは28基である。また、中国で2030年までにさらに30基が建設される予定だ。米国には103基、フランスには59基、日本には55基(電力の29%)ある。日本国内で深刻な事故がずっと続いているのは言うに及ばず、スリーマイル島(1979年)やチェルノブイリ(1986年)ですんでの大惨事が起きたにもかかわらず、日本だけが着々と核(原子力)への傾倒を強めてきた。1987年には32基だった原子炉は現在55基、そしてさらに10基の建設が予定されている。

日本はそれだけでなく、史上空前のレベルで核(原子力)に傾倒するパイオニアとして、先導的役割を果たす意図をもっている。日本の核(原子力)の未来というヴィジョンの中心にあるのが、青森県の六ヶ所村だ。20世紀の日本は農業と漁業の伝統を捨て、突出した規模の国営事業をトラウマを払拭するがごとく爆発的に開始し、核(原子力)国家となることを完全に受容した。この変容を端的に表している場所は、おそらく六ヶ所村より他にない。

もともと人里離れた田園地帯だった六ヶ所村では、1971年、まだ比較的産業化されていなかった5000ヘクタール以上もの広大な土地が、新全国総合開発計画(新全総)の11の巨大開発区域の1つ、石油化学、石油精製、発電、非鉄金属精錬のための用地として収容された。これはそれまでの日本にあった一切のものを超える壮大な規模だった。

やがてオイル・ショックとそれに続く産業構造の再編成によって産業複合施設構想という夢は消えていった。その代わり、敷地には1979年以降、巨大石油備蓄基地が作られた。1985年からは「六ヶ所」核(原子力)濃縮・再処理・廃棄物処理施設が建設され、これらが当初の用地の約3分の1を占めた。地元自治体の役人たちは、核(原子力)路線に対する熱狂などまったく持ち合わせていなかったのだが、金銭的依存の深みにはまればはまるほど、政府が立てた計画に反対するのは困難になっていった。2400億円の負債は、2000年に税金を投入して帳消しとされた。2005年までは、国際熱核融合実験炉の建設に大きな期待が寄せられていたが、フランスでのプロジェクト実施が決まってその希望も崩れ去った。21世紀の始まりにあたっての見通しは、世界の核(原子力)産業の中心になるという、1971年時点では村の誰一人として夢にも見なかったことだった。

日本政府は世紀の変わり目に民営化と規制緩和を呪文のように唱え続けていた。にもかかわらず、核(原子力)のプロジェクトには巨額の金が投じられた。市場の力では絶対に開始などできていなかっただろうし、継続も困難だったはずだ。2005年、一般大衆と政治家の関心が郵政民営化に集中していたあいだに、官僚たちは一般の監視の目や、説明・議論の場を遠く離れた場所から日本の未来を大きく変える決定を行っていた。核(原子力)産業に便宜をとりはからい、数兆円を与えたのである。

日本の再生可能エネルギーセクター(太陽光、風力、波力、バイオマス、地熱。大規模水力は除く )は、エネルギー生成において0.3%という惨めな割合を占めているにすぎない。来たる10年間で1.35%まで増加させる計画になってはいるが、その後2030年までにやや減少する見込みだ。それに対して、中国ですら2010年までに自然エネルギーの出力数を倍増させ、10%にしようと計画しているし、EUは2020年までに20%を目標としているのだ。

簡潔にいうなら、日本は国際社会の潮流からは激しく外れた道を進んでいる国として際立っているのである。その原動力となっているのは、市場の力よりも官僚の指示である。民主的な総意などどこ吹く風だ。

核(原子力)国家-廃棄物、高速増殖、そして魔法のサイクル
2006年までに経済産業省(METI)が「新・国家エネルギー政策 」において定めた目標は、日本を「核(原子力)国家」に転換するというものだった(原子力立国)。核(原子力)によって生成される電気の割合を2030年までに「30-40%」にまで着実に上昇させていくというのである(2006年現在、世界第1位の核(原子力)大国フランスの割合は80%)。2050年までに60%という目標の存在を示唆する報告もある。2006年8月、経済産業省の総合資源エネルギー調査会は、「原子力政策報告書:原子力立国計画」草案を作成した。一度は核の被害に遭った国である日本が、核(原子力)超大国を目指して出帆するにあたって、「広島症候群」は脇へと追いやられ、安全性、放射能、廃棄物処理、コストに関する制限はゴミのように捨てられた。

日本の核(原子力)へのコミットメントは、現在その規模においてとりわけ抜きん出ているわけではない。しかし、使用済核燃料の再処理後にプルトニウムを燃料として使用するという、完全な核のサイクルを前に進めているのは核兵器を保有しない国々の中では日本だけである。このようにプルトニウム超大国の地位を手に入れようとしている点が、日本の際立った特徴なのだ。これまでに蓄えたプルトニウムは45トン以上にもなる。これは、全世界における民生用プルトニウムの貯蔵量230トンの5分の1近くの量で、長崎型原爆5000個分に相当する。日本は「兵器への搭載が可能なプルトニウムを世界一多く保有する国」になったのだ。しかも貯蔵量は着実に増えている。

バーナビー博士とバーニー博士は2005年、このままでゆけば2020年には日本の貯蔵量は145トンに達すると推測をしている。これは米国の核兵器に使われているプルトニウムの量を上回る。そこで日本は、すべての濃縮と再処理作業について5年間の凍結を呼びかけた2005年2月の国際原子力機関(IAEA)事務局長の勧告を無視した。そのような一時停止措置は「新規」プロジェクトにしか適用され得ない、日本のように何十年も続けているプロジェクトには当てはまらないという主張だった。

現在(2007)、日本は六ヶ所村で完全な商業用再処理を始めている。国際的監視の下に厳しく制限されるべき極めて危険な行為であると、エルバラダイ氏がみなしていることを、日本は国際社会に逆らって、でも米国の熱い祝福を受けながら、お咎めもなしに進めているのである。イランや北朝鮮のような国々は、それと同じ行為を絶対にするなと言われている(しかも日本と同じ濃縮と再処理の道を歩むことは、韓国のような国々も止められている)。もしイランと北朝鮮が世界の核不拡散への脅威であるなら、日本も同じだ。日本が保有する核分裂性物質プルトニウムの量は45トンだが、これを1994年の危機の際、北朝鮮が隠れて転用していると非難された10-15kgと比較してみるがよい(2007年に北朝鮮は最大で約60kg保有しているとされているから、それでもよい)。

六ヶ所村の施設の操業コストについて、電気事業連合会は40年間で19兆円という数字を出している。となれば、世界一ではなくとも、日本一もっとも金がかかる施設であることは確実だ。廃棄物は再処理せず埋めてしまった方がはるかにコストがかからないし(どこかに埋める場所があればの話だが)、実際のコストは公に出ている試算額の数倍に上る可能性がある、と専門家は指摘している。

六ヶ所村の再処理設備には、年間800トンの使用済燃料を再処理する能力があり、兵器に使用できる純粋なプルトニウムを毎年8トン(核弾頭1000個分)生産できることになっている。そんな工場はアジア唯一のものとなるだろう。だがこれでも、日本がこれまでに集積し、また集積しつつある廃棄物の量に比べたらほんの針の穴程度に過ぎない。アジア全域でこれまでに集められた毒性の使用済核燃料は40,000トンだが、2006年時点で日本の廃棄物はおよそ12,600トンあるとされる。稼動すれば、六ヶ所村からは(原子力)発電所1300基分に匹敵する核廃棄物が放出されることになる。トリチウムの放出量は、英国北部のセラフィールド(再処理施設)の7.2倍になるだろう。この施設は最近、英国政府によって閉鎖されている。セラフィールドの工場が操業し、そこから深海の流れの中へ廃棄物が放出され、分散されたこと(になっている)によって、数十年間に渡りアイリッシュ海の広い範囲で魚が取れなくなった。また、ウェールズのカナーヴォンほど離れた場所でも、子どもの白血病発症率が全国平均の42倍まで増加した。

六ヶ所村では、工場の経営側は通常の原子炉で許容されているレベルの2800倍のトリチウムの放出の認可とりつけに成功した。工場の経済的実行可能性の観点から、なくてはならないことだったのだ。廃棄物は深海の水の流れの中で分散させることになっているが、ある反対派の団体が六ヶ所村の沿岸にたくさんのハガキを流してみたところ、それらは岩手、宮城、福島、茨城、千葉の各県の海岸に見事にあがってきたのだった。

それでは日本はそのプルトニウムの山でいったい何をするつもりなのだろうか?プルトニウムは人類が知るなかでもっとも危険な物質であるという一般の見方に対処するため、日本(政府)は1990年代に2つの手を打った。

まず、大量に貯めこんだり、商業用に必要な量以上に保有したりしないという保証を行った。この公約はのっけから空虚なものだった。プルトニウムの貯蔵量は確実に増えていった。計画に遅延に次ぐ遅延が生じたからだ。その主な原因は、多くの事故が続いたことや(致命的な事故も含む)、隠蔽が行われたこと、また巨額の国家予算を食い物にしたので、予定されていた計画に対し一般大衆の抗議の声に火がついたことにあった。

仮に六ヶ所村の施設が遅延や技術的な問題の発生なしに40年間稼動でき、毎年800トンの使用済燃料が処理されたとしても、使用済燃料の量は増加の一途をたどるであろう。日本の原子炉は現在、900トンの廃棄物を毎年排出している。これは、 六ヶ所の再処理工場がフル稼働した場合に再処理できる量を100トン上回っている。その数字は2015年までに1200-1400トンにも達すると見られる。さらなる原子炉の発注が見込まれているからである。つまり、再処理可能な量を400-600トン超える量が貯まっていくのである。その大部分は原子炉の敷地内か、地域的な暫定貯蔵施設に貯蔵されたままになるだろう。それが、世界に今ある分離されたプルトニウム(およそ250トン)の貯蔵量に加わるのだし、もっとたくさんの原子炉が建設されれば(されるにつれ)、数字のギャップは広がるのだ。


核廃棄物は六ヶ所村に30-50年間貯蔵されることに

日本政府は2番目に、プルトニウムについて心配の必要はまったくないと大衆を説得するキャンペーンを立ち上げた。日本原燃と原子燃料公社はプルト君というキャラクターが登場する教育ビデオを作り、「プルトニウムは飲んでも安全」「爆弾に使われる危険は低い」と宣伝した。米国のエネルギー長官その他多くの人々が、そのビデオの数々の誤りに対して抗議を行ったところ削除されたが、宣伝キャンペーンは続いた。

1995年までの計画では、純粋な「特級」プルトニウムを「増殖する」(当初よりも大量に製造する)高速増殖炉がいくつも稼動されようとしていた。そのようなプログラムの経済性はとても低い。なぜなら、高速増殖炉は従来の(原子力)発電所に比べて4-5倍もコストがかさむからだ。米国と英国など、世界中の国々では、安全性やコストを理由に大部分のプロジェクトが中止に追い込まれている。日本の原子力情報資料室は、高速増殖炉は「核不拡散と完全に相反するものだ」との審判を下している。

1995年12月に高速増殖炉の試作品もんじゅ(福井県敦賀市)がナトリウムの漏洩と火災を起こして閉鎖され、さらに(組織的)怠慢と隠蔽の証拠が見つかってプロジェクトが10年以上停止されると、日本の計画は頓挫した。プロジェクトの反対派は長年の抗議の末、原子炉の設計に問題があったとするかれらの主張を認める司法判決を勝ち取った。だが2005年5月、最高裁判所はその判決を覆し、プロジェクトを推進させる政府の判断を支持した。それまでの30年間ですでに6000億円がかかっていたが、そのおかげで明かりが灯った電球など、一つもなかった。

現在の日本政府の計画の下では、高速増殖炉は2050年までに商業化されることになっている。初っ端の計画からすると驚愕の70年遅れである。日本原子力研究開発機構(JAEA)はそれでもひるまず、敦賀に「アクアトム」という名で、科学博物館、テーマパーク、コミュニティセンターからなるものを作った。危機と紙一重という印象を払拭し、これこそ未来そのものと人々を説得するためである。

訪問する人々に、陳列パネルがこう説明する。世界にはあと40年分の石油しかない。65年分の天然ガス、155年分の石炭、そして従来型の原発用のウランはあとわずか85年分しか残っていない。「日本は天然資源に乏しい国です・・・だから、プルトニウムを燃焼させる原子炉もんじゅが必要なのです。なぜかというと、プルトニウムは何千年ものあいだ使うことができるからです」。福祉や観光プロモーションなど、敦賀のお膝元のプロジェクトには金が流れ続ける。プルト君の精神は、アクアトムで元気に生きているのである。もんじゅ自体の蘇生だけではない。2030年ごろ入れ替えをするために、「約1兆円」というコストで第二の炉も建設されなければならないことになっている。21世紀のエネルギー安全保障という官僚的な夢は、経済学よりも高尚な論理に立ってうごいているのである。

この高速増殖炉プロジェクトの結果はさておき、日本政府は再生されたプルトニウムをプルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料として従来型の軽水炉で燃焼させる計画も承認した。このプロセスには低濃縮ウラン燃料の数倍の費用がかかるし、リスクも格段に高い。1990年代の、プルトニウムMOX燃料の使用を開始するための初期の試みは失敗に終わった。現在の計画では、日本の施設がプルトニウム燃料の装填を始めるのは2007-08年ごろとみられるが、過去の記録を見るともっとずれ込む可能性もある。プルトニウムの製造(欧州に貯蓄されている日本の所有分と、六ヶ所から出る分の両方)と、それを原子炉に搭載する能力とのあいだの溝は、深まるだろう。とにかく、廃棄物は集積され続けるのである。

低レベル放射性廃棄物-基本的には、汚染された衣服、器具、フィルターなどから成る-が、200リットル入りのドラム缶100万本に入って、全国の原子炉の敷地と六ヶ所村の処分施設に保管されている。六ヶ所村の貯蔵能力の限界はドラム缶300万本分だという。建設が予定されている40の巨大な処分施設は、それぞれが高さ6m、幅24m、奥行き24mである。格納されるドラム缶1万個は、最終的には土に覆われることになっている。1つの山のような物体を作って、上からかぶせるのである。その後は最低でも300年間厳重に管理されなければならない。巨大な毒キノコか、昔の日本の豪族の古墳のようなものが、六ヶ所村の敷地中にじわじわと拡大していく。いっぽう、低レベルの放射能を含んだ液体は数キロ先までパイプで運ばれ、太平洋へと放出される。日本国内の原発における[汚染水の]放出管理基準は、定期的な放出ができるようにするために大幅に引き上げられた(つまり緩められた)。

高レベルの毒性廃棄物(使用済燃料)は、1992年以来、英国北部セラフィールドと、フランスノルマンディー地方のラ・ハーグの再処理工場まで、定期的に長距離を海上輸送されてきた。輸送経路の国々からの抗議や、海賊行為、ハイジャックのリスクがあるにもかかわらず、各積荷には原子爆弾17個分にあたるプルトニウムが載せられてきた。処理されたのち、液体状の高レベル廃棄物はガラス化され、1.3m×0.43mの大きさのキャニスターに入れられる。そして六ヶ所村の施設に返却される。そこでまず、30-50年間貯蔵され、表面の温度は約500℃から200℃にゆっくりと下がっていく。その時点で地下300メートルの空間に埋められることになっているが、そこでさらに100万年をかけて放射能が消散されていく。最初の巨大貯蓄庫を半分以上占める量のキャニスターが、もうすでに存在している。

「賞味期限」に達した日本の原子炉は運転を終了させて解体を行い、敷地を清掃しなければならない。そのコストがどれほどになるのか、正確には誰にも分からない。しかし2006年初頭の英国当局の計算では、民生用核(原子力)施設20箇所の処分費は700億ポンド(1700億ドル)だという。政府がどんな一時的な金銭の見返りを提示してこようと、地域自治体はつねにそのような施設の受け入れに反対してきた。文字通り100万年の間、自分たちの県が核(原子力)のゴミ捨て場にされるという発想に、県知事らは激しく反発している。

しかし核(原子力)の開発については、できるものは全て何が何でも実行するという、国と核(原子力)産業の決意があった。そして、そのプルトニウムの山で何かを行わなければならないという必要性が存在していた。それらは、とても力強い、ひょっとすると抵抗不可能なまでの力となった。
核(原子力)の国際基準は不十分である。そのため、再処理に伴う核拡散の危険というのは大多数の人が思っているよりも大きい。このような広大なウランとプルトニウムの処理・輸送システムにおいては、1%の核分裂性物質-ひと月あれば原子力爆弾が1個作れる量-が行方不明になったぐらいでは検出できないだろう。これは日本の近隣諸国、特に韓国と中国に更なる不信感を与えている。

核(原子力)のパートナーシップ
日本は国連において、「新アジェンダ連合」(NAC)との関係を持つことを拒否している。NACは 1998年のインドおよびパキスタンによる核実験ののちに作られ、核軍縮と核不拡散について強い圧力をかけようとしている。だが日本はこれを「対立を招く」要素が強すぎるものと見ている。いいかえれば、米国やその他の核の特権を持つ大国に対してあからさまに挑みすぎだということだ。米国の意志に反して日本がNACに加盟すれば、米国の提供する「傘」の力を弱めることになるかもしれないのだ。

日本の政府と官僚が、核(原子力)超大国への道を脇目も振らずひた走るあいだ、米国との抱擁はますます熱気を帯び、他方アジアとの距離は広がっている。2006年2月、米国政府は日本を国際原子力パートナーシップ (GNEP)のメンバー候補国に入れた。GNEPは、米国、英国、フランス、ロシア、中国、および日本を含む、いわば核(原子力)エネルギー「多国籍軍」である(つまり、すでに核(原子力)クラブメンバーであり、核兵器を保有する国々に、日本が加えられている)。世界は、核兵器を保有していても信用できる「我々の味方の」国々(パキスタン、インド、イスラエル)と、再処理技術を持つ国々(日本、あとはもしハワード首相が上手くやればオーストラリア)とに分断されることとなる。

これは1970年締結の核不拡散条約という、現存する国連を中心にした国際的な枠組みの外に飛び出し、ウランの製造、処理、貯蓄、販売、そして廃棄をコントロールする新たなカルテルの設立を意図したシステムである。名目上、このプロジェクトは地球温暖化とエネルギー需要を扱うことになっている。だが実際は、いまだに未解決のまま世界中に数百トン集積しつつある核廃棄物の問題、特にプルト君のことを扱うのである。[ネバダ州]ヤッカマウンテンの下に埋めるのはあまりに難しいのだから、使おうじゃないかというわけだ。

このプロジェクトを採用した米国は、核不拡散とコスト上の懸念から再処理を禁止していた30年来の政策を逆転させたのだった。こんどは原子炉の新設や、使用済燃料の再処理(米国の親しい同盟国が行う場合はOKとなる事柄)に資金協力を行い、ゼネラル・エレクトリック社のような企業には(そして当然、日立などの日本企業にも)、数千億ドル規模の建築契約という形で、無用の仕事をたっぷりとこしらえてやるのだ。

このプロジェクトはいわゆる核拡散耐性型再処理・原子炉技術というものを開発してその独占的なコントロールを維持し、世界の他の国々にレンタルで設備を提供することになる。北東アジア非核地帯を設立しようとする地域的な試みに対して長いあいだ否定的な姿勢を取ってきた日本政府は、世界の核大国クラブへどうぞというこの米国からの招待に飛びついた。当初は提案に気づいていなかったオーストラリアも、やがてすぐ食らいついてきた。ハワード首相は3ヶ月後にワシントンを訪問すると、熱心に米国の助言を求めた。そしてその願い叶って祝福を受けると、核(原子力)エネルギーに関する全国的な議論の開始を呼びかけた。オーストラリアはそのようなプロジェクトにおいて、採掘から製造、販売、監視のサイクルの始めから終わりまで、中心的な役割を果たすことが期待されている。なぜならオーストラリアは世界的なウランの「サウジアラビア」であるからだ(世界全体のウラン埋蔵量の24%を持つ同国は、ウラン世界一である。ただこれまではウランの処理は自国で行わず、採掘のみを続けることを選択してきた)。首相、そして防衛、産業、環境各大臣たちは皆、オーストラリアが核(原子力)産業をもつという選択肢を「検討」すべきであると述べている。

英国、オーストラリア、日本と特別な関係、つまり世界的な枢軸を構築した米国の力は明らかである。今度はそれが、核(原子力)の方向へと向かっていく。米国が力説している主な技術(先進燃焼炉)は、理論的な定理のなかでしか存在していない。高速中性子増殖炉とその原則は同じだが(途方もない値段の、過去最大の失敗事例)、最上級のプルトニウムが製造される場所である増殖ブランケット[ウラン238を主成分とする燃料集合体 ]は使用しない。だが、高速炉が信頼できるレベルで稼動するよう設計する際の技術的な挑戦に比べれば、ブランケットという機能は単純なものだ。
この米国の提案による新型技術を商業的な規模でデモンストレーションできる日が来るのは、まだ20-25年先のことだろう。これには莫大な費用が見込まれる。米国のエネルギー庁長官は、200-400億ドルの資金が必要であると指摘している。そして、日本が主要な貢献を行うことが期待されていると示唆している。やがて本当にそうなれば、押収される金額は、日本政府が湾岸戦争とイラク戦争の戦費として徴収された額や、国際金融市場でドルの力を持続させるための拠出金、ミサイル防衛産業への支払金額すら小さく見せるものとなるかもしれない。廃棄物はそれでも集積し続ける。

何よりこのパートナーシップは、核(原子力)を未来の世界のエネルギーの中心的な資源として肯定的にプロモートしていくことに根ざしている。その中心的な国々は、真の再生可能エネルギーに対してではなく、この最も高価で危険な選択肢に対して、公共投資を行うことを求められるのだ。これは世界のエネルギー市場のトレンドに反するものである。

1994-2003年の電力供給量の増加
風力30%
太陽光20%
ガス2%
石炭1%
核(原子力)0.6%

安全性その他に問題がないとしても、けっきょく核(原子力)の道をたどるために充分な量のウランはあるのかどうか、深刻な疑念も出ている。ジョン・バズビー氏は、「2020年以降、予想される世界のエネルギー需要を核(原子力)だけで満たすには、一次段階の製造量を167倍、増加させなければならない」との試算を出している。仮に核(原子力)による発電量が2倍になったとしても-ありえない条件だが-世界のエネルギー消費量のわずか5%に見合うだけなのだ。

高速増殖炉の推進者たちが、過去数十年の失敗はそっちのけで新型の高速増殖炉の開発を正当化する際に、このウランの不足のことが持ち出されている。これから開発されることになっている「パートナーシップ」の技術であろうと、既存の軽水炉であろうと、莫大な[核(原子力)]拡大の要綱というのはただただ素晴らしいのである。

300年前の日本は、大枠において持続可能で、CO2排出量ゼロ、廃棄物ゼロの社会だった。現在の日本政府の計画の下では、今から300年後には(そして1万年後の未来も)すべて順調に行ったとしても、日本の北部と東部の地域は広大な毒性のコンビナートと化すだろう。何世代にも渡って、事実上永遠に、武装した警備員が常に配備されなければならなくなる。

六ヶ所村が21世紀文明の代表モデルとなり、その遺産が今後数百万年先の未来にまで残るのかどうか、その答えを決めるであろう闘いが続いている。その片側にいるのは、無制限のクリーンなエネルギーや世界的なリーダーシップ、地球温暖化の解決策、核兵器(米国製あるいは日本製)による防衛の維持などの幻想を追求し続ける、日本の核(原子力)官僚たちだ。もう一方の側にいるのは、社会・環境・経済の持続可能性、民主的な意思決定、核兵器の廃絶、核(原子力)プロジェクトの段階的廃止、それに再生可能エネルギー・排出量ゼロ・物品のリサイクル・非核テクノロジーなどへの依存というアジェンダを追い求める市民社会である。この闘いの結果に多くのことが左右される。

つまるところ、核(原子力)は高くつきすぎるのだ。六ヶ所村につぎ込まれる数兆円という金額にさえ、まだ含まれていないコストが多くある。だが、同額が例えば風力発電に投資されれば、5倍の雇用を創出し、2.3倍の電力(ほぼ即時に)を生み出すといわれるのだ。そして既に述べたコストに加え、日本の原子炉が持つマグニチュード6.5という耐震基準は不十分であることを、柏崎[刈羽原発]が示している。マグニチュード6.8、もしくはマグニチュード7へと強度を上げるには、やはりまだ考慮されていない桁外れの経費を必要とする。とどめを差すのは、例えば保険など、大惨事発生時のコストだ。これを考慮の対象に入れると、核(原子力)産業自体は存続不可能である。浜岡で大地震が起きれば、チェルノブイリをしのぐ大惨事になるだろう。3000万人が避難対象となり、同地域に住むことは金輪際不可能となる。

最後の疑問はこれだ。核(原子力)の超大国になろうという日本の熱意は、その「クライアント国家」としての役割に沿うものなのか?米国は常に、日本が核兵器保有国になるべきではないと主張してきた。だがしかし、GNEP内で特権ある地位を与えられる見込みの日本は、いずれにせよ事実上の核(原子力)超大国になることになる。ブッシュ政権は日本について、予見できる未来の日までクライアント国家として従属状態に閉じ込めてある、という自負を持っているかもしれない。だが、そこにはかなりの不確実性が見え隠れする。GNEPでは、より信用が必要となってくる。そして、共通のアイデンティティと役割が続いていくことが、多くを左右する。だが、日本を半永久的に抱き締めて、依存した状態にとどめておく米国の能力については、確実性が低くなってはいないだろうか。このブッシュ政権の特定の政策は、取り込みと従属を目的とした他の政策の力を弱めるだろう。それが長期的な展望だといえる。


ガバン・マコーマック 
オーストラリア国立大学名誉教授、The Asia-Pacific Journal: Japan Focus 誌コーディネーター。
著書にClient State: Japan in the American Embrace(邦題『属国――米国の抱擁とアジアでの孤立』 新田準訳 、凱風社、 2008年) など。この記事は2007年12月9日、Japan Focusに掲載されたものである。

翻訳:田中泉
(脚注部分は省略)

原文: Japan as a Plutonium Superpower
http://www.japanfocus.org/-Gavan-McCormack/2602

2 comments:

  1. Anonymous9:03 pm

    訳者よりお詫びと訂正:
    「原子力情報資料室」は「原子力資料情報室」の誤りでした。申し訳ございません。

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  2. マコーマックさんの書かれている通りだと思います。それでも日本の「エリート」が原発に執着するのは、核武装したいという欲望なんでしょうね、多分。原子力を手放したら核武装に必要な技術を失ってしまう・・・そんなところではないでしょうか。

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