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Tuesday, July 26, 2011

藤岡惇「米国はなぜ2発の原爆を投下したのか」 Atsushi Fujioka: Why the US Dropped Two Abomic Bombs

これは昨年11月18日投稿でも紹介した、藤岡惇さん(立命館大学経済学部教授)の論文の改訂版です。『立命館経済学』2011年3月号に掲載されました。藤岡さんと、アメリカン大学のカズニックさんが共同で学生を引率する広島・長崎の旅は今年で17年目を迎えます。今年は、カズニックさんと鹿児島大学の木村朗さんの共著本の出版を記念し、8月8日長崎で公開セミナーも開催します。よく原爆は戦争を終結するために必要だったとか、アメリカでは、原爆によって人命を救ったかのような屈折した論法が使われていますが、歴史資料をひも解くと、終結を早めるどころか、アメリカは実は原爆を投下するために戦争終結を遅らせたことが分かってきています。藤岡さんの論考は、複雑な原爆投下の背景について理解を深めることができるものと思います。
(PPC 乗松聡子)


米国はなぜ2発の原爆を投下したのか

―――ヒロシマ・ナガサキの悲劇の教訓



「日本が下劣な野心を貫こうとして行った犯罪を私が弁護しようとしている、と早合点しないでください。違いは程度の差にあったのです。日本の強欲のほうがいっそう下劣であったとしましょう。しかし日本が、どんなに下劣であったとしても、日本の特定地域の男、女、子供たちを、情け容赦もなく殺してしまうという下劣なことをやってよい権利はだれにも与えられていなかったのです。
(M.K.ガンジー、「原子爆弾 アメリカと日本」『ハリジャン』1946年7月7日)

はじめにーー20世紀の最重要事件としての原爆投下

Atsushi Fujioka
 広島・長崎への原爆投下から65年の歳月がたちました。広島・長崎への原爆投下が、世界史的にいかに強烈なインパクトを与えてきたのかを感じとっていただくために、二〇世紀の最後の年(1999年)に行なわれた2つのアンケート調査の結果を紹介しましょう。
第一の調査は、メディア各界の設立した博物館として有名なワシントンの「ニュージアム」の企画したものです。二〇世紀の事件のなかでもっとも重要だった出来事を67人のベテラン・ジャーナリストにランキングしてもらい、上から百位を発表する趣向でした。彼らが第1位にノミネートしたのは何か。それは広島・長崎への原爆投下という事件だったのです。
もう一つの調査は、ニューヨーク大学ジャーナリスト学部のおこなったものです。米国の報道作品のなかで、過去百年の中でもっとも優秀な作品とは何かを36人の専門家(うち19人はジャーナリスト学部の教授陣、他の17人は報道関係者)に問うたものです。ランキングのトップに立ったのは、ジョン・ハーシーのルポルタージュ『ヒロシマ』でした。1946年に文芸雑誌に掲載されたこの作品は、アインシュタインやパール・バックに激賞され、ベストセラーとなって一世を風靡しました。8人の被爆者の肉声によりそう形で原爆投下後の真実を生き生きと再現したがゆえに、ジョン・ハーシーの本は、今なお米国人の良心につきささる鋭いとげとなっているのです。1)

16回目を迎えた「平和巡礼の旅」

1995年以来毎年8月になると、私は、アメリカン大学のピーター・カズニック教授(以下ピーターと略)と組んで、日米カナダの学生たち30-50名とともに、京都・広島・長崎を巡る「原爆学習の旅」をおこなってきました。1996年以降は、被爆者でアメリカン大学の卒業生でもある近藤紘子さんが、2006年以降になるとカナダから乗松聡子さん(ピースフィロソフィー・センター代表)が講師陣に加わっています。近藤紘子さんは、25名の「原爆乙女」渡米治療運動リーダー(谷本清牧師)の長女であり、先に紹介したジョン・ハーシーの『ヒロシマ』に登場する最年少の被爆者です。
第16回目となった2010年度も、8月1日から10日の旅程で、総勢48名(米国の学生17名、カナダの学生2名、イタリアの学生1名、中国の学生3名、日本の学生16名、先輩の学生リーダー4名、教職員5名)の参加で、成功させることができました。過去に参加した先輩学生や卒業生たちも集まってきますので、ことしも参加者総数は60名を越えました。2)
「原爆学習の旅」とは、被爆した死者を慰霊し、自らの生き方を問う旅でもありますから、「平和巡礼」の旅だと言うこともできます。「学びと巡礼の旅」のなかで、議論し、解明してほしいと願うのは、端的に言えば、つぎの3つの問題です。広島の平和公園には、「安らかに眠って下さい、過ちは繰り返しませぬから」という碑文がありますが、①「過ち」とは何ですか。②「繰り返しませぬから」という文章の主語は誰ですか。③「繰り返しませぬ」という誓いは、どうしたら実現できるのでしょうか、という3つの問題なのです。

原爆投下はなぜ必要だったのかーー米国支配層のあげる6つの論拠

なぜ米国は2発の原爆を広島・長崎にたてつづけに(なか2日をはさむだけで)、投下したのでしょうか。終戦を早めるためのやむをえない措置(必要悪)として是認すべきなのか、それとも悪質な戦争犯罪として断罪すべきものなのかという論点が、毎年、ホットな討論テーマとなります。かりに原爆投下を戦争犯罪とみなしたばあい、トルーマンたちの責任は、どの程度のものなのか。1千万人以上のユダヤ人や共産主義者のホロコースト(絶滅的殺害)をおこなったヒットラーの責任とトルーマンの責任とはどちらが重いのかといった論点にもつながっていきます。
広島に原爆を投下したB29爆撃機は、エノラ・ゲイという名称がつけられていましたが、随伴した91号機には「エッセンシャル・イーブル」(必要悪)という名称がつけられていました。この名称が示すように、2発の原爆投下は終戦を早めるためのやむをえない「必要悪」にほかならず、「より大きな善」を実現するための「小さな悪」として是認されるべきだというのが、過去65年間の米国政府の一貫した姿勢です。
彼らの主張を支えているのは、つぎの6つの論拠というか、国定の「神話」です。
第1の神話は次のようなものです。もし本土上陸作戦を連合軍が敢行したばあい、50万人から百万人の米軍兵士が死亡したことだろう(当初の国防省の見積もりは4・6万人だったのですが、論争のなかで増えつづけ、1947年のスティムソンの投下正当化論文ではついに百万人となったのですが)。3) 日本の降伏を早め、百万人の米軍兵士の命を救うために、米軍はやむなく原爆を投下せざるをえなかったというものです。そのおかげで結果的には、それ以上の数の日本人やアジア人の命も救われたのであり、2発の原爆で30万人が死亡したとしても、見返りに日米あわせると200万人以上の人命が救われたことになる。したがって原爆投下は、「より小さな悪」として是認されるべきだという主張になります。
2つめは、矢つぎばやに投下された2発の原爆は日本政府を降伏させるうえで効果的な役割りを果たしたという神話です。原爆投下は日本の降伏を促進した。もし原爆なかりせば、日本軍は長期間抵抗したし、本土決戦は不可避となっただろうというわけです。
第3に、もし原爆投下をしなければ、8月9日に対日参戦を開始したソ連軍によって、日本帝国は蹂躙され、日本本土の一部もソ連によって占領される事態となっただろう。原爆投下によって、日本の分割占領という「悪夢」が避けられたわけだから、是認されてしかるべきだという神話です。
第4に、連合国は7月26日にポツダム宣言を発して、日本に降伏を勧告しましたが、日本の鈴木貫太郎内閣は、ポツダム宣言を「黙殺」すると称して、事実上の「拒否」回答をおこなった。この理不尽な日本政府の回答にたいする「報復」として、原爆を投下したわけだから、是認できるという神話です。
第5に、軍事都市として有名な広島と長崎の軍事施設を主要なターゲットにして、米軍は原爆を投下したのであるから、日本の継戦能力を破壊するための措置として、是認されてしかるべきだという神話です。
最後に6番目の神話となりますが、日本帝国は1931年以来、中国や東南アジアの領土を侵略し、米国の真珠湾を奇襲攻撃するなどの侵略行為を繰り返してきた。この長年の罪業にたいする報復として、原爆が投下されたのだ。したがってこれは、自らが招いた災難であり、自業自得というべきだ。この点の自省を欠いた原爆投下責任の追及は片手落ちと言うべきだ。原爆投下は、日本帝国の魔手から抑圧されてきた諸国・諸民族を解放する戦いの一環であったという意味で是認されるべきだというものです。
これらの6つの論拠(神話)が正しいものかどうかを、以下、吟味・検証していきたいと思います。
 

6つの神話にたいする疑問

16年間「原爆学習の旅」を続けてきましたが、最初の頃は日本の権力者が侵略戦争を始めた責任や、敗戦受け入れをためらったために原爆投下を招いてしまったという日本側の「招爆責任」を明確にすることが先決だという意見が、日本の参加者の間では強かったように思います。まずこちら側の身を清めておかないと、相手(米国やアジア諸国)側の心を開いてもらえないのではないか、という善意に発する自省の気持ちがあったことは事実です。ただし米国支配層のなかの独自の思惑なり戦略なりの分析が、この意見には欠けていたという弱点があったように思います。「原爆投下を命令したトルーマンに代表される米国支配層の戦略にたいして、日本の学生は、なぜこれほど無知でナイーブなのか」とピーターが憤っていたことを思い出します。
たしかに岩松繁俊さんなどが強調されてきた日本支配層の「招爆責任」の追及は必要ですが、4)この「過ち」につけこむかたちで、米国の支配層の行った原爆投下という「蛮行」も、不必要で許しがたい「戦争犯罪」というべきであるとか、トルーマンたちの犯した犯罪行為も不問に付さず、米国側の謝罪と補償を求めるべきだといった意見を述べる参加者が、最近は増えています。
なぜこのような傾向が生れてきたのか。戦争を早く終わらせるために、米国は原爆を投下したのではない、むしろ逆に2つのタイプの原爆を投下するまでは日本に降伏を許さなかったというのがコトの真相ではないか、という点を解明する研究書が最近数多く出版されてきたからです。5)ソ連への威嚇と新型戦争の効果の「人体実験」をするために、むしろ米国は戦争の終結を故意に引き延ばしたのではないか、という主張をなす参加者が増えてきたわけです。 
広島市立大学の田中利幸さんたちが中心となって、2006-2007年にかけて「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島」(レノックス・ハインズ裁判長)が開かれました。この民衆法廷は、トルーマン大統領はじめ、米国政府要人、開発した科学者、投下を実行した軍人など15人を有罪とする判決を下して閉廷したことも、波紋を呼びおこしました。
これまでも私たち「原爆学習の旅」が主催するかたちで、市民公開のシンポジウムを開いてきた歴史があります。たとえば第5回目の1999年度の旅では、8月7日の午後に広島市内で、ピーターとマリリア・ケリーさん(サンフランシスコ東郊のリバモア核兵器研究所を監視する市民団体リーダー)を招いて、「原爆投下は日本への犯罪か、人類への犯罪か」というテーマで、公開講座を開いたこともありました。しかし何といっても、2009年の8月8日に長崎市で開いた「なぜ二発の原爆を米国は投下したのか」というテーマのシンポジウムは、大変実り多いイベントとなりました。この市民公開のシンポジウムには、鹿児島大学の木村 朗教授をお招きし、ピーターとともに熱弁をふるっていただきました。そしてその成果をまとめるかたちで、木村 朗/ピーター・カズニック『広島・長崎への原爆投下再考――日米の視点』2010年、法律文化社という本が、2010年秋に出版されたからです。
この本の到達点や最近の研究動向を紹介するかたちで、米国のリーダーたちはなにゆえ原爆を投下したのかという問いにたいする私の見解を述べてみたいと思います。

ポツダム会議開会の前日に最初の原爆実験

当時「スーパー」と呼ばれていた原子爆弾の設計・製造にあたっては、核分裂材料としてウラニウム235を使う方法とプルトニウム239を使う方法があり、爆発させる方法としても、砲身型と爆縮型の2つがありました。手探り状態というか、「走りながら考える」というスタイルで開発が行なわれたため、様々な方式にもとづく開発が同時並行的に進められたわけです。
極秘の突貫工事のなかで開発・製造されてきた原爆が爆発するかどうかを見届けた後に、トルーマン政権は、日本の降伏条件を協議する連合国側の会談(ポツダム会談)を開きたかったわけです。そのためポツダム会談開催日は、当初予定の1945年7月1日から7月17日に延期させられました。6)トルーマンの思惑通りにポツダム会談開催予定日前日の7月16日に、米軍はニュー・メキシコ州アラモ・ゴードの地で最初の原爆実験を成功させます。プルトニウム239を用い、砲身型よりも複雑な装置を必要とする爆縮型の原爆を核爆発させたわけです。ポツダム会談(7月17日―8月2日)に参加するためポツダムに到着していたトルーマン大統領は、爆縮型「スーパー」兵器の実験成功の報に接して、安堵の笑みを浮かべたといわれています。「原爆を有効に使うと、ソ連参戦の前に日本を降伏させられるかもしれない。いずれにせよソ連を威圧できる武器が手に入った」と考えたのでしょう。7)


ポツダム宣言原案の12条末尾の一節がなぜ削除されたのか

大日本帝国に降伏を勧告したポツダム宣言の原案第12条には、「連合国の占領軍は、我々の諸目的が達成され、平和的傾向を持ち、日本国民を代表する性格が備えた責任ある政府が、疑問の余地なく確立され次第、日本から撤収されることになろう」という文章の後に、「そうした政府が、二度と侵略を企図することがないと世界が完全に納得するならば、これには現在の皇統のもとでの立憲君主制も含むものとする」という一文が入っていました。日本の降伏を早めようと、知日派総帥のジョセフ・グルーの助言のもと8)、H.スティムソン国防長官らが書き加えた苦心の1節だったのですが、会議直前になって、ジェームズ・バーンズ国務長官らの強引な介入をうけて、この一文が削除されます。9)スティムソンはポツダムにまで赴いて、トルーマンに会い、天皇制の存続を保証する一文を復活させるように必死の説得を試みますが、トルーマンは頑として応じず、年老いた国防長官にたいして「気に入らないなら荷物をまとめて帰ったらいい」とまで言い放ったそうです。10)
それはなぜか。「天皇制の存続保証」を示唆する一文が残っていると、日本政府はポツダム宣言を受諾する「恐れ」があると心配されたためです。当時の価格で20数億ドルもの巨費を投じて秘密に開発してきた「スーパー」兵器が使われずに、戦争が終わってしまうとどうなるか。議会筋や納税者から「無駄遣いだ」という猛烈な反発が出てくるだろうし、原子兵器を軸にした「新型戦争」システムを開発しようと構想していた幼年期の「軍産複合体」にとっても、大打撃となります。「軍産複合体」を米国の地に根付かせていくためには、「スーパー」を投下し、驚異的な威力をソ連だけでなく、米国の納税者にも示威することが必要でした。原爆投下前に、日本の降伏を許容するという選択肢は、はじめからなかったと言っても過言ではないのです。
この論点は、1990年代からガー・アルペロヴィッツさんが明確に提起してきたものです。11) 天皇制の存続を保証するなんらかの言質を与える方向での降伏条件の変更とソ連の参戦の組合せがあれば、原爆投下はなくても戦争は終わっていたし、そのことをトルーマンと側近たちは知っていたと、ガーは主張したわけです。このガーの影響をうけるかたちで、鳥居 民さんは『原爆を投下するまで日本を降伏させるなーートルーマンとバーンズの陰謀』(2005年、草思社)という本を書かれましたが、事態は、まさにこの本のタイトルどおりに進みました。

ポツダム会議がどうなろうと原爆投下は決まっていた

ポツダム会談開会の3日前の7月14日の時点で、すでに「・・・米軍首脳が原爆投下の命令書を担当責任者に手渡して」いました。「この命令書には、日本政府が今後ポツダム宣言を受諾した場合、原爆投下を取りやめるといった“条件付き”の指示が、一切書き込まれていなかった」ことも明らかになっています。12)
ポツダム会議に集まった米・英・ソ連・中国の4首脳のうち、ソ連を除いた3カ国は、7月26日に日本に降伏をせまる「ポツダム宣言」を発表しますが、その一日前の7月25日の段階で、すでにトルーマンは、ポツダムの地から「2発の原爆投下を裁可する最終命令」を発していました。ポツダム宣言の文面がどうなろうとも、あるいは日本政府がどのような態度をとろうとも、日本の2つの都市に異なるタイプの原爆を一個ずつ投下するという方針を、相当に早い段階から決めていたわけです。
とはいえ日本政府を「ポツダム宣言を黙殺(拒否)する」状態に追い込んだ方が「原爆投下もやむなし」という世論を強め、投下を正当化することができます。そのためソ連をポツダム宣言の署名国からはずし、日本のエリートのなかにあった「ソ連は公正な仲裁者として、天皇制日本を助けてくれるのではないか」という、奇怪な「ソ連幻想」を煽りたてた。「ソ連の和平仲介の可能性という『子守唄を聞かせながら[日本を]眠らせつづける』」ためにです。13)また回答期限を付さないなど、ポツダム宣言が降伏を迫る「最後通牒」であるという印象を慎重に消し去そうと努めたわけです。14)
こうして7月28日には、日本政府をして「ポツダム宣言を黙殺する」という談話を出さざるをえない状況に追い込みます。連合国側の通信社は、「黙殺する」という日本語を「拒否する」というニュアンスをもつ“REJECT”という英文に置き換えて配信し、『ニューヨーク・タイムズ』は、7月28日付けで日本はポツダム宣言を“REJECT”したと報じました。このような舞台装置を作ったうえで、米国の支配層は、「ポツダム宣言を『拒否』した頑迷な日本にたいして懲罰を加える」と称して、ウラニウムを用いた砲身型原爆を8月6日に広島の庶民住区の上空で、プルトニウムを用いた爆縮型原爆を9日に長崎(浦上)の庶民住区の上空で、立て続けに爆発させたわけです。

2発の原爆――なぜトルーマンは庶民密集地を標的としたのか

広島では、日本軍の中枢――西部方面軍司令部のあった広島城内ではなく、1キロ余り南西の住宅密集地区の相生橋を標的としていました。通勤時間帯の8時15分に、しかも空襲警報が解除され、市民が日常生活をはじめた時に、原爆がさく裂しました(実際には、すこしばかり目標をそれ、相生橋の南東300メートルの島外科病院の上空600メートルで原爆がさく裂したのですが)。
従来の兵器とは異なる原爆のような兵器を初めて使用するばあい、使用後は、威力や破壊力のデータを集め、投下方法や爆撃機の脱出策も含めて、作戦全体の再検討を行い、その教訓をふまえたうえで、第2発目以降の投下のありかたを決めるのが普通です。しかし原爆投下のばあい、そのような手続きがとられず、広島に投下して3日後の9日には、別タイプの原爆第2号が長崎に投下されるのです。ソ連の対日開戦予定日を目前にひかえ、2発の原爆投下をやり終えようとして、米国の支配層がいかにあせっていたのかが、よく分かる事実です。15)
長崎のばあいも、投下目標は三菱兵器工場などの軍事拠点ではなく、軍事的目標のない商業地区の常盤橋が目標地に選ばれていました。ただし厚い雲にさえぎられて目標地点を視認できなかったので、じっさいには3キロ北の浦上地区に投下されたわけです。被爆当時10歳であった歌手の美輪明宏さんはこう述べています。「11時少し過ぎでした。私は夏休みの絵の宿題を描いていました。描き上げて、机に立てかけ、出来映えを見ようと椅子から降りて、立ったとたんにピカッ!。空は真っ青だったので、『え? こんなにいい天気に雷?』と。そう思うか思わないかくらいで、次はどかーん! と地震みたいな衝撃が来た。目の前のガラスが一瞬で『ぴっ!』と飛んだんです。何が起きたかのかわからない。で、その後に、ものすごい爆音が聞こえたんです。B29が逃げていく音。敵もさるものでね。不意打ちするためにエンジン止めて来てたんですよ。だから原爆の前には警戒警報も空襲警報も鳴らなかったんです。」16)
なぜ軍事拠点を標的にせず、庶民居住地区を標的にして、無警告で、しかも防空壕に退避させないようにしたうえで、原爆を投下したのか。答えは明らかです。こんごの原子戦争に備えて、原子戦争の威力と効果についての情報を集めておくことが不可欠であったからです。とりわけ性質の異なる2発の原爆――砲身型と爆縮型、あるいはウラニウム型とプルトニウム型の破壊力や軍事的有用性の違いを知る必要があった。そのため年齢・性別の点で多彩・多様な実験材料をできるだけ多数、投下地点周辺に集めておくことが必要だったからだと思われます。

空襲警報が解除されていたのはなぜか

空襲警戒警報が解除され、住民が日常生活に戻ろうとして防空壕から出てきた直後に、原爆が投下され、被害者を増やしたという点で、広島・長崎は共通しています。どうしてこのような結果となったのでしょうか。
 長崎の場合、不意打ちするためにエンジンを止めて原爆投下機が飛来し、投下した後に爆風を避けるためにエンジンを全開して飛び去ったという感想を、被爆者の美輪明宏さんは語っています。最初に飛来した偵察機が飛び去ったので、空襲警報を解除したが、その後に、本命の原爆搭載機が忍び寄ってきていたのでしょう。
 広島のばあい、つぎのような証言があります。「広島に原爆を投下したエノラ・ゲイは・・・
瀬戸内海に出て、広島上空に達した後いったん広島を通過、しばらくして反転して、原爆を投下した、というのだ。広島上空に接近した際にいったん空襲警報が発せられ、みんな防空壕に入ったのだが、何も投下せずに通過したので空襲警報が解除され、みんな外に出て来た。ところがエノラ・ゲイは旋回して舞い戻り、ピカドンと原爆を落としたというのだ。…エノラ・ゲイの航路については、なお諸説がある。だが被爆の瞬間には多数の人が外に出ていて、ごくわずかの人たちが防空壕に隠れていたというのは動かし難い事実のようだ。」17) 最初に偵察機が広島上空に飛来したが、飛び去ったために空襲警報を解除したところ、その後にエノラ・ゲイ機がやってきたというのが通説ですが、真偽のほどを究明してほしいものです。

原爆の威力――被爆者は6回も殺された

原爆の威力は、広島のばあいは1万5千トン、長崎のばあいは2万2千トンのダイナマイトを一挙に爆発させたのと同等のものでした。原爆のさく裂の際に放出された大量のガンマ線と中性子線などの初期放射線によって爆心地に近い住民の身体の分子構造に深刻な異変が生じました。自ら被爆者である物理学者の沢田昭二さんは、こう書いています。「ガンマ線の大部分は爆弾周辺の大気によって吸収され、超高温・超高圧の火球をつくった。・・・爆発の100分の1秒後には、・・・高圧の大気が火球から離れて衝撃波=空振として、(毎秒340メートルの音速で、ドンという猛烈な音をもたらしながら)広がっていった。火球の表面温度が太陽の表面温度と同程度の数千度になると、可視光線と熱線を放出し始め、地上の人々を焼き殺し、火傷を負わせ、建物に火をつけ火災を引き起こした。・・・衝撃波は、大気との圧力差で爆風を発生させ、(秒速250メートル以上に達した)爆風が人びとを吹き飛ばし、殺傷し、建造物を破壊した。・・・衝撃波によって分解された建造物は爆風で倒壊して人びとを閉じ込め、閉じ込められた人々は火災によって焼け殺された」と(括弧内は、沢田昭二さんの教示により補足した)。それだけではありません。放射性降下物や誘導放射化物質の残留放射線による外部被曝にさらされただけでなく、これらの放射性物質を呼吸と飲食を通じて体内摂取することにより、被爆者(その後の入市被曝者も含む)の身体は、長期にわたり内部被曝にさらされることになりました。18) 被爆地の民は、初期放射線の照射・熱線・衝撃波(空振)・爆風・火災・残留放射線による被曝と、つごう6回も殺されたわけです。なんという残虐な殺され方だったのでしょうか。
生者のほうも、「幸運」ではありませんでした。「原爆で殺された者をさえ、うらやまざるをえない」ような状態で放置され、希望を奪われた被爆者の間では自殺者が続出します。19)
このような惨禍をもたらした原爆投下の目的とは何だったのか。①ソ連を威圧することで戦後の世界秩序づくりを米国の有利な形で進めること、②ウラニウム型かプルトニウム型か、あるいは砲身型か爆縮型か、いずれが軍事的に有用であるかを知るためには、年齢・性別などの点で多様性に富む住民を対象とした人体実験が不可欠であったことーーこの二つが重要だったといわれます。20)
占領後に米軍は、「原爆被害者調査委員会」(ABCC)を設立し、原爆の軍事的有用性について徹底的な調査を行います。ABCC(現在は放射線影響研究所)は被爆者の健康調査をするだけで、治療をしない機関として悪評にさらされますが、機関の使命からしてそれは当然のことでした。原爆使用直後に敵の戦闘能力がどれほど破壊されるかが、軍事的有用性を評価するポイントとなるからです。放射線の影響にかんしていえば、初期放射線による外部被曝の破壊力に関心が集中し、残留放射線被曝による身体への長期的影響などは関心の外だったわけです。21)
それはともかく、広島型原爆と長崎型原爆の有用性と製造容易性を調査した結果、長崎に投下されたタイプ(プルトニウムを材料とした爆縮型原爆)のほうが優れていることが判明します。戦後冷戦期に製造される核兵器(原爆)のほとんどは、プルトニウムを材料とした爆縮型となりますが、2発の原爆投下は、そのきっかけを作ったといえるでしょう。

原爆投下後に、なぜ米国は天皇制温存の約束を発したのか

2種類の原爆を爆発させ、多種多彩な庶民を対象とした人体実験22)をなし終えた直後に、日本の降伏を「遅らせる」から「早める」方向へと、米国の対日戦略が劇的に転換します。「天皇制の維持」保証をアメとして、ソ連参戦=「日本赤化」の恐怖をムチとして使い、日本を降伏に追い込んでいく「アメとムチの組み合わせ」作戦が浮上するわけです。
米国による原爆投下の動きを察知していたソ連は、ポツダム会談時に約束していた対日開戦予定日(8月15日)をさらに6日繰り上げ、8月9日午前0時(日本時間)を期して日本にたいして宣戦布告を行い、中国東北部への侵攻を開始しました。長崎への原爆投下の11時間前のことでした。
原爆の人体実験をなし終え、その威力をソ連支配層に誇示した後の米国の支配層にとってみると、ソ連軍が中国東北部から朝鮮半島を占領する前に、日本を降伏させることが緊急課題となりました。放置しておいては、日本を降伏に追い込んだ最大の功労者はソ連であるという評価をうみだし、戦後の東アジアの統治にあたって、ソ連の発言力を高めることになります。そのため「天皇制の存続保証」というアメのカードを切ったわけです。
日本の天皇制政府にしてみても、原爆による攻撃をうけた衝撃よりも、ソ連侵攻の衝撃のほうが、はるかに強烈であったようです。ソ連軍に本土を占領される事態となれば、天皇制は打倒され、日本は「赤化」してしまうという恐怖感が身を貫いたのだろうと思います。降伏が避けられないとなったばあい、ソ連軍ではなく、米国軍に降伏する方がましだというのが天皇制政府の考え方でした。23)
ソ連参戦という事態をうけて、日本政府は8月10日、「天皇の国家統治の大権を変更するとの要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言を受諾するという方針を通告します。それにたいして米国政府は、ジェームズ・バーンズ国務長官の指示のもと「日本国政府の最終的形態は、『ポツダム宣言』に従い、日本国民の自由に表明された意志によって決定される」という回答を8月11日付けで送ります。24)この回答は、ポツダム宣言の条文解説という形をとりながら、「もし日本国民の多数が望むならば、連合国は天皇制の存続を容認する」と「深読み」できるように巧妙につくられていました。

バーンズ回答の限界を補う裏ルート

ただしポツダム宣言の文言に拘束されていますから、バーンズ国務長官の回答には、「天皇制の存続を確実に保障する言質までは与えられない」という限界がありました。この限界を乗り越えるためにバーンズらが編み出したのは、「本音」をマスコミにリークし、報道させるという便法だったようです。2発の原爆を投下した直後の8月11日付けの『ニューヨーク・タイムズ』は、一面トップに「日本が降伏を申し出た。米国は天皇を存続させるだろう」と報じ、翌8月12日付けの同紙は、もっと確定的に「連合国は占領軍司令長官の意向によって、ヒロヒトを存続させる」ことを決定したと報道しました。12日付けの段階では、事実上ポツダム宣言12項末尾のスティムソン原案の線に立ち戻り、「天皇制は確実に残すから、安心して降伏せよ」と呼びかけるに至ったわけです。小田 実さんは、こう述べています。「翌12日付けの『ニューヨーク・タイムズ』には、もっと驚くべきことに、前日のmay(であろう)がなくなって、ヒロヒトを残すことを決めたと書いてある。・・・これは(中立国の)スイスを通じて、天皇の耳、日本政府の耳に入っていたはずです」と。25)
対日プロパガンダ放送を担当した海軍情報局のエリス・ザカリアスや、中立国スイスの日本大使館にたいする情報工作を担当したアレン・ダレスもまた、独自のルートを使って「天皇制の存続」を保障する秘密メッセージを日本の支配層に送っていました。26) 8月14日午前に畑 俊六ら3人の元帥を引見した際、「皇室の安泰は敵側からの確約があり、それについては心配ない」と昭和天皇が述べたとされていますが、その背景には上のような事実があったのです。27)
このような「高等戦術」を編み出した中心人物は、人種差別主義の牙城たる米国南部サウスカロライナ州を地盤とするジェームズ・F・バーンズ国務長官でした。28)なおバーンズは、戦後は郷里に戻り、サウスカロライナ州知事に再選され、モルガン系のデュポン社と組んで、水爆燃料を製造する巨大なサバンナリバー・プラントを同州に誘致するうえで大きな役割を担うのですが、それは後の話となります。29)
いずれにせよ、日本を降伏させ、大量殺戮を早期に終わらせるうえで原爆投下は重要な役割りを果たさなかったのです。これまで原爆投下を正当化してきた論拠は薄弱だというほかありません。
付け加えますと、日本を降伏に追い込んだ残る2つの要因――ソ連の参戦と米国による天皇制の維持保証のうち、どちらの要因のほうが重要な役割を果たしたのかという「功名争い」をする向きがありますが、このような問題のたて方自体が間違っていると考えます。ソ連による軍事的攻撃の「ムチ」の恐怖が強ければ強いほどに、米国の提供する「アメ」の魅力が増してくるわけです。米国の権力者の視点からすると両者は「アメとムチ」の関係として一体であり、競争関係ではなく相互補完の関係にあったと考えるべきでしょう。

有色人種への偏見があったのか

 1944年9月18日、ロンドンに立ち寄った米国のロースベルト大統領は、英国のチャーチル首相と会談し、開発中の原爆の投下先について協議し、次のような合意(ハイドパーク合意)に達していました。「爆弾が最終的に使用可能となった際には、慎重な考慮のうえで、日本人にたいしておそらく使用されるであろう。降伏するまで何回も投下を繰り返すから覚悟せよと日本人には警告しておくべきだ」と。
 ヒットラーの率いるドイツが降伏するのは1945年5月8日ですから、1944年9月といえば、ドイツ軍も日本軍も米国にたいして抗戦中の時期です。なぜこの段階でドイツ人への原爆使用をいち早く断念し、原爆の投下先を日本人に絞ったのでしょうか。すでにドイツ軍の敗色が濃厚であり、原爆完成時にはドイツは降伏している可能性が高いと判断されたからだというのが通説的見解ですが、この見解は正しいのでしょうか。大戦中に米国政府はドイツ系移民には何の隔離措置もとらなかったのですが、日系人にだけは、人里はなれた収容所に強制移動させられ、隔離収容された事実があります。このことが示すように、有色人種である日系移民は、「イエロー・モンキー」(黄色猿)と見なされ、「野獣に対処するには、相手を野獣として扱うほかない」(トルーマン)30)という措置がとられたのではないか、このような有色人差別の考えが横たわっていたのではないかという疑問が出てきます。31)
「当初から原爆投下の対象は日本であった」と原爆製造計画の責任者のグローブズ将軍が述べているなど、ハイドパーク協定以前に日本への原爆投下は事実上確定していた可能性があると木村さんは主張されていますが、32)確かな結論を出すにはなお証拠不足です。日本への原爆の無警告投下を推進したジェームズ・バーンズが、黒人差別制度の牙城であった深南部のサウスカロライナ州政界の大立者であっただけに、この行動には人種差別的な志向性が働いていた可能性がありますが、これらの解明は、今後の課題としたいと思います。

ローズベルトが生きていたら悲劇は避けられたか

ご承知のとおり、ローズベルト大統領は1945年4月12日に突然死亡し、副大統領であったハリー・トルーマンが大統領職を襲います。北東部出身のインテリでリベラルなローズベルトにたいして、トルーマンは辺境南部のミズーリ州の田舎町の出身で、教養レベルが低い「小物」であり、保守的で人種主義的な傾向の強い人物でした。もしローズベルトが生き続けていたならば、広島・長崎のあのような悲劇は避けられたのでしょうか。この問いに自信をもって答えるのは、誰にとっても難しいのですが、ピーターはこのように答えています。リベラルなローズベルトにしても、おそらく原爆の使用を阻止することは難しかっただろうが、原爆使用のありかたが変わった可能性はある。なぜなら「ローズベルトはまず警告、そして威嚇使用をしたうえでの原爆投下を考えていて、その場合も厳密に軍事施設を対象とするつもりであり、民間人に対して落とすことについては反対」したであろうと。33)ローズベルトが職に留まっていたら、原爆使用の人体実験的性格は薄まった可能性があると私も考えますが、最終的評価はこんごの研究課題としたいと思います。

ガンジーの慧眼、マッカーサーの複雑さ

1946年7月7日付の『ハリジャン』紙に、M・K・ガンジーは「原子爆弾 アメリカと日本」という論説を寄せました。そこで彼はこう書いています。「日本が下劣な野心を貫こうとして行った犯罪を私が弁護しようとしていると早合点しないでください。違いは程度の差にすぎません。日本の強欲のほうがいっそう下劣であったとしましょう。しかし日本が、どんなに下劣であったとしても、日本の特定地域の男、女、子供たちを、情け容赦もなく殺してしまうという下劣なことをやってよい権利はだれにも与えられていません。・・・原子爆弾は、連合国の武器に空虚な勝利をもたらしたにすぎません。ここしばらく、日本の魂は破壊されてしまっているでしょう。爆弾の投ぜられた国の魂にどのようなことが起こるか、本当にわかるには時間が短すぎます」と。
最大にして無限の暴力といってよい原爆(そして今福島で体験している原発)の出現にたいして、脱出路をどこに求めたらよいのでしょうか。同じ論説のなかで、ガンジーは、こう語っています。「・・・原爆という最高の悲劇から正しく引き出される教訓は、暴力がこれにたいする暴力によって絶滅できないのと全く同じで、原爆は、逆の原爆によっては絶滅されないということである。人類は、只一つ、非暴力を通じてのみ、暴力から出てゆかなければならない。憎しみの克服は愛を通じて実現される。憎しみに対して、憎しみでむくいるならば、憎しみの深さを強めるだけだ。」(天野恵一「ガンディーの非暴力=反核の思想」『ピープルズプラン』54号、2011年6月、150ページ)。
「闇と光」という論説のなかでも、いっそう明確に彼は、こう書いています。「暴力の究極の弱点は、破壊しようとする当のものを生み出してしまう悪循環でしかないことだ。暴力によってウソつきを殺すことはできてもウソを殺すことはできないし、真実を確立することもできない。暴力によって憎しみを抱えたものを殺すことはできても、憎しみを殺すことはできない。反対に、暴力は憎しみを増大させるだけだ。そして、その連鎖に終わりはない。・・・暴力を暴力で返すことは、暴力を増殖し星のない夜の闇をさらに深めてしまう。闇に闇を追い払うことはできない。それができるのは光のみ。憎しみに憎しみを消し去ることはできない。それができるのは愛のみだ」と。
ガンジーの論説が出て1年余り後、「爆弾の投ぜられた国の魂」は憲法9条を生み落としました。産婆役になったのは、若き日に外交官として1928年のパリ不戦条約交渉に参加した経験をもつ日本の幣原喜重郎首相であり、幣原のリーダーシップに支持を与えた占領軍最高司令官のダグラス・マッカーサー将軍でした。
マッカーサー将軍は、朝鮮戦争で原爆使用を主張し、トルーマンに解任されることになりますが、水爆出現以降の原子戦争では、これまでのような勝者と敗者の区別が消え去ること、人類全体の共滅を招きかねないことに気づき、衝撃をうけるようになっていました。じっさい、1951年5月5日の上院の公聴会でマッカーサーは、マクマホン上院議員との間で、次のような質疑応答を行っています。「マクマホン上院議員:さて元帥、問題全体を解決する方策を見つける上で、何かわれわれに希望を与えるお考えをお持ちですか?
マッカーサー元帥:それは・・・戦争の廃止です。もちろんそれが達成されるまでは何十年もかかるでしょうが、スタートしなければなりません。中途半端ではダメなのです。皆さんは核戦争の専門家としてそれを知るべきです。・・・日本(の憲法9条)にその偉大な例証があるのですから。」34)
1955年の米国退役軍人協会総会の記念講演でも、彼は次のように説いています。「皆さんは直ちに反問されるかもしれません。『戦争の廃絶は幾世紀もの間、人類の夢であったことは確かだが、この理想の実践は、不可能であり、空想的だとして、ことごとく放棄されてきたのではないか』と。・・・しかし核兵器をはじめ兵器が驚くべき進化をとげた結果、戦争の廃絶が、宗教的・道徳的な問題ではなく、科学的リアリズムの問題として再び浮上してきたのです。・・・・私たちは新しい時代に生きています。古い方法や解決策は、もはや役立ちません。私たちには新しい思想、新しいアイデンティティ、新しい発想が必要なのです」と。35)
インドを独立に導いたガンジー・ジーの慧眼に驚くとともに、「核の時代」を生きたマッカーサーという軍人の複雑さにも注目したいと思います。

残された3つの課題

本稿では、何らかの程度で天皇制存続の保証をあたえておけば、原爆を投下せずとも、日本の支配層は敗北を受け入れたであろうという側面を強調してきました。これにたいして、日本の軍国主義者や天皇主義者を冷戦体制に取り込もうとしたジョセフ・グルーなどの反共保守主義者の役割を評価しすぎているのではないかという意見が出されるかもしれません。この保守的路線が戦後の対日政策の中軸に座ったために、むしろ侵略戦争に無反省の旧体制派が日本社会に根強く生き残る結果となり、アジアとの民衆レベルでの和解が不十分となったのではないか、という反論もありうるでしょう。
いま一つは、トルーマンやバーンズら米国支配層の原爆投下責任の重さをどう測ったらよいかという問題です。侵略戦争を開始し、1千万人に達するユダヤ人や共産主義者を殺害したアドルフ・ヒットラーのホロコースト責任とハリー・トルーマンの原爆投下責任の重さとは同等のものでしょうか。侵略戦争を遂行するなかで犯された蛮行と、侵略された国を解放する戦争のなかで犯された蛮行とでは位置づけや意味は、どの程度異なってくるものなのでしょうか。
第3に、トルーマンやバーンズの犯した原爆投下を「戦争犯罪」としたばあい、彼ら(あるいはその後継者)には、どのような罰を与えるべきかという問題です。「かりに日本軍が原爆開発に成功していたとしたら、人道的観点から日本側は原爆投下を踏みとどまっただろうか」と授業の中で質問すると、「日本軍だって、起死回生の手段として原爆を使っただろう」と、ほとんどの学生が予測します。時代の文脈から切り離し、個人だけを罰して、こと足れりとするわけにいかないのです。
長崎県原爆被災者協議会の事務局長の山田拓民さんは、「原爆学習の旅」に参加した世界の学生にたいして、毎年こう説かれます。「米国政府には、原爆投下という蛮行をおかしたことを謝罪してほしい。ただし私は、米国に補償金を請求しようとまでは思わない。そうではなく核兵器廃絶の先頭にたつことを要求したい」と。みなさんは、どのようにお考えですか。



1)木村 朗/ピーター・カズニック『広島・長崎への原爆投下再考――日米の視点』2010年、法律文化社、102ページ。
2) ユニークな「原爆学習の旅」発足の経緯を説明しておく。1994年8月23日の昼下がり、
 直野章子(現在は九州大学准教授)という学生が私を訪ねてきた。被爆2世であること、アメリカン大学(AU)を2か月前に卒業したが、原爆投下をめぐる米国人の意識水準の低さにショックをうけてきたと直野さんは語った。戦後50周年にあたる1995年度のAUの夏セッション科目として、原爆投下を学ぶ新科目の開設を求める請願運動を始めたい。ついては請願の賛同者になるとともに、新科目が設置された暁には、日本での研修プログラムの実施に協力してほしいと要請された。彼女の熱意に心を打たれ、可能な支援を約束した。
数ヵ月後、請願運動が功を奏して、95年度のAUの夏セッション科目に「核の歴史――ヒロシマ・ナガサキを超えて」が特設されることになり、ピーター・カズニック教授が担当教員、直野さんが企画担当職員となったという吉報が届いた。同じ頃、スミソニアン航空宇宙博物館が企画していた原爆展が、米国各界の反発をよびおこし、中止されるという事件がおこった。出品を予定して米国に渡っていた被爆資料が宙に浮いた。そこで直野さんが中心となって、AUで被爆資料の展示を引き受けることになった。「もう一つの原爆展」は1995年の6月に開かれ、広島市長はじめ、多数の被爆者がAUを訪れる機会となった。
95年8月初めに、ピーターと直野さんに引率されて、AUの学生8名が、立命館大学の国際平和ミュージアムにやってきた。私は、平和学の受講学生から10名のボランティアを募り、京都・広島をめぐる1週間の旅を共同実施した。96年以降もひきつづき、AUはこの科目を開設し、ピーターは、毎夏10名から15名の学生を引率して、京都・広島・長崎の地を訪れるようになった。対応して立命館側も97年度以降は、このプログラムを国際平和交流セミナー科目(2単位)として公認し、私が引率教員となった。両大学共同企画の「原爆学習の旅」は、こうして始まり、2010年で16回目を迎えたわけである。
3)木村 朗/ピーター・カズニック『広島・長崎への原爆投下再考――日米の視点』2010年、85ページ。
4)岩松繁俊『戦争責任と核廃絶』1998年、三一書房。
5) 進藤栄一『戦後の原像――ヒロシマからオキナワへ』1999年、岩波書店、232頁。仲 晃、『黙殺――ポツダム宣言の真実と日本の運命(上)』2001年、288頁。長谷川 毅『暗闘――スターリン、トルーマンと日本降伏』2006、中央公論新社、第3・4章、とくに197・247頁。ジム・B・スミスほか『ラスト・ミッションーー日米決戦終結のシナリオ』2005年、麗澤大学出版会、195-197頁。
6) 木村 朗/ピーター・カズニック、前掲書、2010年、19ページ。
7)進藤栄一『戦後の原像ーーヒロシマからオキナワへ』1999年、岩波書店、232頁。
8)杉原誠四郎『日米開戦とポツダム宣言の真実』1995年、亜紀書房、12-31頁。
9)進藤栄一『戦後の原像ーーヒロシマからオキナワへ』1999年、岩波書店、202頁。仲 晃
『黙殺(上)』2000年、288頁。長谷川 毅『暗闘――スターリン、トルーマンと日本降伏』
2006年、中央公論新社、3・4章、とくに197・247頁。ジム・B・スミスほか『ラスト・ミ
ッション――日米決戦終結のシナリオ』2005年、麗澤大学出版会、195-197頁。
10)木村 朗/ピーター・カズニック、2010年、96ページ。
11) ガー・アルペロビッツ『原爆――投下決断の内幕 上・下』1995年、ほるぷ出版、なお
1996年の夏、ガー・アルペロヴィツさんが、AUの「核の歴史」講座の客員教員となり、原爆投下をめぐる自説を講義してくれた。当時AUに留学していた私は、進藤栄一さん(当時筑波大学)を誘って、ガーの授業に参加し、そのクリアな主張に感銘をうけたことがある。直野さんがAUの学生時代、ガーの助手を務めておられたことも思い出す。
12)仲 晃『黙殺(上)』2000年、60頁。
13) 進藤栄一『戦後の原像』、238頁。
14)木村 朗/ピーター・カズニック、2010年、19ページ。
15)仲 晃『黙殺(上)』2001年。
16) 美輪明宏「表現者が向き合う原爆」『週刊金曜日』810号、2010年8月6日号、17頁。
17)春名幹男「核密約」『世界』2010年5月号、185頁。
18)沢田昭二「被爆実態に基づく広島・長崎原爆被害の実相」『季論 二一』2010年夏号、55頁。
19)石田 忠「原爆死をどう考えるか」『科学と思想』86号、1992年10月。
20)木村 朗/ピーター・カズニック、2010年、25―28ページ。木村 朗「ヒロシマ・ナガサキーー今こそ『原爆神話』の解体を」『週刊金曜日』07年8月10日号。
21)矢ケ崎克馬『隠された被曝』2010年、新日本出版社、肥田舜太郎・鎌仲ひとみ『内部被曝の脅威――原爆から劣化ウラン弾まで』2005年、ちくま新書。また笹本征男『米軍占領下の原爆調査』1995年、新幹社も参照。
22)原爆投下の人体実験としての特質を喝破した開拓者的な業績は、芝田進午「被爆50年 これからの課題――人体実験としての原爆」『平和文化研究』19・20合併号、長崎総合大学、1997年。
23)長谷川 毅『暗闘――スターリン、トルーマンと日本降伏』2006年、中央公論新社、西嶋有厚『なぜ原爆は投下されたか』1968年、青木書店。
24)ガー・アルペロビッツ『原爆投下決断の内幕 上』1995年、ほるぷ出版、23章・606頁。
25)小田実・上田耕一郎「戦争と戦後60年」『経済』05年10月号、87頁。
26)有馬哲夫『アレン・ダレスーー原爆・天皇制・終戦をめぐる暗闘』2009年、講談社。
27)有馬哲夫『昭和史を動かしたアメリカ情報機関』2009、平凡社新書、149頁。
28)ロナルド・タカギ『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したか』1995年、草思社、56頁。
29)藤岡 惇『サンベルト米国南部』1993年、青木書店。やや正確さに難があるが、鬼塚英昭『原爆の秘密(国外篇』)2008年、成甲書房も参照。
30)バートン・バーンスタイン「検証・原爆投下決定までの三百日」『中央公論』1995年2月号 
31)岡井 敏『原爆は日本人には使っていいな』2010年、早稲田出版、4-10ページ  
32)木村 朗/ピーター・カズニック、2010年、18ページ。
33)木村 朗/ピーター・カズニック、2010年、196ページ。
34)伊藤成彦「憲法9条はどこから来たか」『軍縮問題資料』1997年5月号、30頁。
35)『非核・非暴力・いのち・平和』10号、2010年2月、岡本非暴力平和研究所。

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