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Friday, October 30, 2015

教員として、歴史家として、人間の生き方として―高嶋伸欣バンクーバー講演報告

10月17日バンクーバーで行われた高嶋伸欣氏(琉球大学名誉教授)の講演に出て、高嶋氏にインタビューもしてまとめたレポート、地元のライター原京子さんによるものです。


和解に向けて(Towards Reconciliation
~アジア太平洋戦争終結70周年~


原 京子

1017日(土)に、バンク―バー・ユニタリアン教会に於いて、日本より来加した高嶋伸欣氏を招いての講演会「和解に向けて(Towards Reconciliation)~アジア太平洋戦争終結70周年~」が開催された。
講演より。高嶋伸欣氏と、通訳の乗松聡子
(写真提供 BC ALPHA)

琉球大学名誉教授である高嶋氏は、元高校社会科教員としての経験を生かし、教科書執筆や教員養成に取り組むと共に、40年以上もの間、戦争の傷痕に学ぶマレーシア/シンガポールの旅を主催、日本軍占領時代の歴史や戦争の記憶の調査研究や出版にも関わってきた方である。

講演会では、40年に渡り東南アジアを訪れる中で、高嶋氏が人々と分かち合ってきた経験を伝えていただいた。会場には、中国各地、韓国、シンガポール、マレーシア、フィリピン、先住民、日系人、そしてヨーロッパ系カナダ人ら100人余が参加し、それぞれの立場から今後の自分自身の歩み方について、前向きに考える貴重な時となった
講演会の報告とともに、高嶋伸欣さんがこれまで歩んでこられた人生について、レポートさせていただこうと思う。そこには、教員として、歴史家として、そして人間の生き方として、私たちの学ぶべきものが多くあるからである。

Ⅰ 社会科教員としての歩み
1910年 高嶋氏の父、高島信太郎と妻ハナ
(パスポート写真)
19424月、太平洋戦争が始まって数か月の時に東京・杉並に生まれた。幼かった高嶋氏自身には、辛い戦争の記憶はあまりない。父親はバンクーバー郊外のリッチモンド市ステイーブストンの日本語学校の初代校長として文部省から派遣され、191012月から10年間をカナダで過ごしている。バンクーバーは、高嶋氏にとって特別な思いのある場所だったそうである。(今回の来加時に、高嶋ご夫妻は現在も存続しているステイーブストン日本語学校を訪問された。)

大学時代、地理学を専攻していた高嶋氏は日本全国を旅して回った。九州から北海道まで、各地を見聞した。農村の人々と話す機会もあり、戦後に海外の植民地から引きあげてきて農業を営んでいる人たちに出会った。この人たちは、急斜面や泥炭地など普通は農地にしないような場所で農業をしていかなければならない状況にあった。「日本の社会にこんな苦しんでいる人がいるのだということを、社会の授業では聞いたことがなかった。そういう勉強ができる場を作りたいと思いました」。こうして高嶋氏は、社会科の教員への道を歩み出すことになる。

大学院在学中から、正しいと信じたことはとことん主張した。相手がたとえ教授であっても妥協せず、納得のいくまで議論を重ねて真実を追及した。そんな高嶋氏の気骨ある精神が評価され、東京教育大学(現・筑波大学)付属高等学校の社会科教員に採用される。
主体性を持ってユニークな教育を行っていた社会科教員のグループの中に入り、“教科書通りの授業をしない”という方針のもと、充実した授業作りに専念した。

教科書を使わず独自のプリントを使う授業をする中で、生徒の中から“自分の都合のいいところだけを取り出して教えているのじゃないか?抜き出している部分の前後を見せてほしい”という厳しい要望が出たことがあった。納得してもらうためには、さらに勉強し生徒を納得させる“証拠”を示していかなければならない。すべての授業が真剣勝負である。「権威ある学者が言っているから、とか、教科書に載っているからではだめなのです。自分の頭で考えて納得してもらえる授業作りをしなければなりません」。30年もの社会科教師としての経験は、高嶋氏を知る上では切り離せないものである。「歴史というのは、年号を覚えるだけじゃない。そこにどんな人がいたか、どうしてそうなったか、それがどんな意味もつのか、それを考えることで歴史が立体的に見えてくるのです」。そして、そこからまた現在の私たちの進むべき道も見えてくるのである。

Ⅱ 東南アジアとの関わり
東南アジアのイメージがどんなものか、生徒からアンケートをとったことがある。経済的に貧しい、犯罪が多い、不衛生、文化水準が低いなど、大人のアジア観がそのまま映し出されていた。”能力的にも日本は優秀だ“という間違った思い上がりをなんとかしなくてはならないと思ったが、いきなりそのことを言っても答案やレポートで要領よく答えるだけで、解決にはならない。どうしたらわかってもらえるだろうかと考えていた。

1975年、東南アジア訪問の機会がやってきた。兄がバンコク(タイ)の大使館に赴任し、そこを夏休みに訪ねた。バンコクから国際列車でマレーシアに行き、授業の教材とするスズ鉱山やゴム園などの写真を撮るのが目的だった。

食堂に入り食事を頼んでいると、ひとりの人が近づいてきて「日本人か?」と尋ねる。そうだと答えると、「このあたりで、日本人が住民を殺したのを知っているか?」と言う。そういうことはありうるだろうと思いながらも、「知りません」と言うと、その人が街中の追悼碑に連れて行ってくれた。文字の拾い読みだったが、確かに日本兵が虐殺を行ったいきさつの記されている追悼碑であった。

日本に帰国して調べてみたが、資料がまったくない。当時、東南アジアの日本軍の戦跡を扱っていた研究者や記者は、ほとんどいない状態だった。「これは、自分で調べるしかないと思いました」。この時から、高嶋氏の毎夏の東南アジアの訪問がはじまった。

2014年8月15日、クアラルンプール市内の追悼式で

初期の頃は、レンタカーを借りてひとつひとつ墓地を訪ね、虐殺のあった現場にも一人で行くことが多かった。「なぜ日本人がここに来たのか?」と責められ、石を投げられたこともある。しかし、「日本人の中にもこういう人がいるのだから」と守ってくれる現地の人もいた。訪問を続けていく中で、「学校教師として、日本の侵略の事実を日本の生徒たちに正しく伝えたい」ということが少しずつ理解してもらえるようになり、情報集めに協力してくれる人が現れてきた。現地の若い新聞記者たちの中にも、「日本人がやっているのだから、地元の我々自身が調べていくべきだ」という動きが出てきて調査が進むようになり、現在ではマレー半島、シンガポール、東マレーシア(ボルネオ島)の各地で、日本軍による住民虐殺の追悼碑・墓地が70か所以上も確認されている。

日本人の教員仲間からも、一緒にやろうという人が出てきた。1982年には、教科書検定で日本軍の“侵略”を”進出“に書きかえさせたという出来事があり、中国や韓国からの抗議が強く起こっていた。「このことに関しては、我々ひとりひとりにも責任がある。間違った教育はしないで、教科書に書いてある無しに関わらず、真実を伝えていこう」という教員仲間らが集まり、1983年から“東南アジアに戦争の傷跡を訪ねる旅”を始めることになった。第1回目には、30名以上の参加者があった。このツアーは、今年の夏で41回目を迎えた。 

Ⅲ 講演会「和解に向けて」より
1017日の講演会では、高嶋伸欣氏のこれまでの調査結果や経験が紹介された。語りつくせない中からのほんの一部であるに違いないが、たいへん印象深いものであった。

*歴史修正主義に対抗していくには
戦後の日本は、憲法により二度と戦争はしない国になったと説明をしているが、近隣諸国では、“日本には軍国主義が残っている”という警戒心を持ち続けていることを、東南アジアに行くと痛感する。日の丸、軍旗、靖国神社などは、辛い戦争の記憶を思い起こさせるものであることに、日本人自身は気づいていない。

シンガポールのリー・クワンユー首相は、1990年の講演の中で「日本の社会の指導者たちが戦争を知らない世代にすっかり入れ替わった時には、再び軍事力を強化する国になるだろう」と予測して、世界中に注意を呼びかけた。
シンガポールの新聞『聯合早報』に載った
リー・クワンユー首相の言葉


現在、その予測通りのことが起きているが、日本国内ではそのように世界から見られていることに、ほとんど気づいていない。

日本軍が戦争中にどのような加害行為をしたか、マスコミや歴史教育で伝えてこなかったことがひとつの原因。また、歴史的な事実を歪めたり隠したりする「歴史修正主義」が、一部の政治家やマスコミによって力を持ってしまっていることも大きい。1983年からは教員や関心のある一般の人・高校生から参加者を募って、“東南アジアに戦争の傷跡を訪ねる旅”を始めることになった。こうした歴史的事実の歪曲や隠蔽に対しては、ひとつひとつ調査を重ねていき証拠を挙げていくことが必要なのである。

*誤った歴史の認識
太平洋戦争は、真珠湾で始まったと一般に認識されているが、実はマレー半島から始まっている。

日本軍の真の目的は、石油・鉄鉱石などの資源をもつ東南アジアを手に入れること。そのための侵略戦争であった。真珠湾奇襲の前に、マレー半島のコタバルで開戦していたことは、歴史家の間では認められている事実である。東南アジア占領を邪魔するアメリカ海軍の根拠地である真珠湾を奇襲したにすぎないが、そこから開戦したように言われているために、太平洋戦争の目的が本当は東南アジアの侵略であったという事実を、見落としてしまいやすくなっている。

現在の日本の歴史教科書には、マレー半島から侵略を開始した日本軍による加害の事実が具体的に記述され、住民虐殺の追悼碑の写真も掲載されるようになった。真珠湾攻撃よりもマレー半島での戦闘開始が早かったことも、大半の教科書に記載されている。少しずつ歴史の事実が伝えられてきているが、高嶋氏らがこれらの事実を指摘し始めてから正確な記述がなされるまでに、30年以上の時間を要した。(高嶋氏は、政治力に左右される教科書検定制度に違法性があるとして、1993年に文部大臣を被告とする教科書裁判もおこしている。)

*日本軍の行った虐殺の証拠
日本軍は“敵性華僑狩り”(Hunting of Enemy Chinese)という軍事作戦をシンガポール・マレー半島で行っていた。「人目につきにくい場所にいるすべての中国系住民を(女性・子供・老人も含めて)その場で殺害せよ」というものである。明らかに国際法(ハーグ陸戦条約・1907年)違反である。
広島の陸軍歩兵第5師団第一大隊第7中隊の公式記録
『陣中日誌』

高嶋氏らは、これらの虐殺が軍の公式命令によるものであった証拠を1987年に日本で発見した。広島の陸軍歩兵第5師団第一大隊第7中隊の公式記録『陣中日誌』である。この中に、日本軍が毎日行っていた虐殺の様子が、具体的かつ明確に記述されていた。
現在では、東南アジアでの日本軍による住民虐殺を、歴史修正主義者でも否定することはできなくなっている。

*和解に向けて
長年に及ぶ高嶋伸欣氏らの地道な働きにより、埋もれていた歴史が堀り起こされ、また加害者として認識されていた日本人と現地の人々との間に信頼関係が築き上げられてきたことは特筆に値する。

・スンガイルイ(Sungai Lui)集団墓
19428月、マレーシア・ネグリセビラン州の田舎町スンガイルイに突然日本兵が現れ、村人を集め、中国系住民だけを並ばせて機関銃で撃ち殺すという事件があった。その後長く密林化していた犠牲者368人の墓が、1984年に見つかった。

戦時下の日本軍は、中国系、マレー系、インド系の住民を互いに反目させる民族分断策をとっていたため、そのしこりがマレーシアには今でも残っているという。スンガイルイ墓地を訪れる中国系の人々を、現地のマレー系農民が嫌い、一時は警察が常駐するほどの険悪な事態にまで及んだ。しかし、マレー系の村長・ムヒデイン氏が「民族や宗教は違っても死者を葬る墓の尊厳に変わりはない」と住民を説得し、墓のある土地を墓地公園用地として譲ってあげようということになった。ムヒデイン氏は、16歳の時に、駅前広場で中国系住民が虐殺されるのを目撃しており、高嶋氏らにその体験を涙を流しながら語ってくれた人だという。

墓地の整備にあたり、日本国内にも「加害者側の日本人として償いたい」と呼びかけたところ、個人や団体から寄付が寄せられた。事件の加害者であった日本側からの寄付の申し出は、断られることも予想されたが、中国系の村長・林氏は「喜んで受ける」と言ってくれて、和解と協力のもと、現在スンガルイ集団墓はきれいに整備され守られている。
橋本和正さん家族と、スンガイ・ルイの林村長(右)
2015年8月(写真提供:鈴木晶)

・橋本和正(はしもと かずまさ)さんのマレーシア訪問
スンガイルイ虐殺の日本軍指揮官で、戦後に戦犯として処刑された橋本忠少尉の甥・橋本和正さんが、20128月第38回目のマレーシア・ツアーに広島から参加した。甥として戦争責任を忘れられないと追悼行事に参加したが、どんな仕打ちを受けるかと心配もしていた。ところが、「辛い立場であるのに、よく来てくれた」と歓迎され、「この事実をきちんと語り継いでいって欲しい」という林金發村長と固い握手を交わした。3年後の今年に、橋本さんはご家族と共に再びツアーに参加しスンガイルイを訪問している。

・被爆者沼田鈴子さんのマレーシア訪問
広島在住の沼田鈴子さんは、1989年のツアーに参加した。ご自身が被爆者であり、建物の下敷きとなって片足を失っている。「原爆投下の3年前に、地元広島の部隊が行ったマレーシアでの行為を知り、被爆者としてでなく、加害者として謝りたかった」という沼田さんの現地でのスピーチに、そこに集まっていた参加者全員が総立ちになり駆け寄って歓迎するという、感動の場面に高嶋氏は立ち会った。(沼田さんのマレーシア訪問についての詳細はこちらへ
沼田鈴子さん

Ⅳ 高嶋伸欣先生から学んだこと
今回、高嶋伸欣氏のお話しをうかがい、改めて痛感させられたのは、“正しい歴史を学ぶことの大切さ”である。

私自身、自分の受けた教育の中では日本の戦争責任について学んだ記憶がない。私事であるが、私の夫は在日朝鮮人であり、結婚するにあたり夫の家族から「日本人だから」という理由で猛反対を受けた。はじめは、なぜ日本人だという理由で反対されるのかと憤りを感じたりもしたが、そこで初めて自分で歴史を勉強してみて愕然とした。日本軍の犯した過ちにより、どれほどの痛み苦しみが現在にまで残されているのかを知り、日本人として打ちのめされる思いだった。ショックではあったが、そのことを踏まえて、時間をかけて少しずつお互いの人間関係を作り上げていくことにより、今は亡き義父・義母と、とても良い関係を作り上げることができたと思っている。まず、事実を知り、受け止めることが第一歩なのだと思わされる。

日本の中にいると、他国の歴史に気を遣わずに済まされてしまうことが多い。今回講演会の行われたバンクーバーは、多民族が共存する多文化都市であり、講演会会場にも様々なバックグラウンドの参加者がいた。被害者である中国系の参加者、加害者である日系の参加者が、隣同士に座っているということが起こる。それが、当たり前の光景なのである。
一歩日本という国の外に出れば、私たちは嫌でも“日本人”としての看板を下げなければならない。日本人としての歴史について、「知りませんでした」では済まされない場面に出会うことも多い。公園のベンチに座っていて、たまたま隣に腰かけていた中国系のご婦人に、「あなた、昔、中国で日本人が何をしたか知っている?」と問われる、ということが実際に起こる。こんな時に、歴史を知っていて対応できるか否かで、本当に大きな違いがある。

国際化が叫ばれる現在、日本人として自国の歴史に無頓着ではいられない。“知らない”ということは、時に人を傷つけ、亀裂を深めることになる。”知らない“ということは、大変無責任で恥ずべきことだと思う。

帰国時バンクーバー空港で
高嶋伸欣・道夫妻
また、今回高嶋氏から教えていただいたのは、「和解はできる!」という希望のメッセージだった。長年に及ぶ地道な働きの中で、高嶋氏が積み上げてきた地元の方々との信頼関係は、胸に迫るものがあった。気の遠くなるような、丹念な誠実な作業の積み重ねであったに違いない。高嶋伸欣氏らの誠意と努力がしっかりと受け止められているということは、私たちにとって大きな希望である。信念をもって歩まれている高嶋氏の人生から、多くを学ばせていただいた。

「反日」なる言葉が氾濫している昨今である。日本に都合の悪いことを指摘する人を、すべて「反日」とする傾向である。過去の過ちに蓋をして、日本があたかも非の打ちどころのない国とすることが果たして「愛国」なのだろうか?

ネット上で高嶋氏を「反日」と呼ぶ投稿を見る。日本軍の傷痕を、真実を掘り起こすことによって、このようにして、現地の人々との信頼関係を築きあげ、“日本”というかつて加害者であった国への恨みを和らげ、日本人の悪いイメージを改善させてきた高嶋氏を「反日」と呼ぶのは大きな間違いである。

真の「愛国者」であるのなら、正しい歴史を受け止め、その上で日本という国の価値を高める努力をするべきではないか。間違った愛国、間違った歴史認識は、ますます日本の評価をおとしめることになる。高嶋氏たちのような誠実な働きの積み重ねこそが、「日本」という国を草の根から再認識・再評価されるように動かす力なのだと感じる。

現在の歴史修正主義の横行、日本政府の方針は、「日本人としての責任問題である」と、高嶋氏は指摘する。私たちひとりひとりが日本人としての自覚を持ち、自分たちの歴史に責任を持たなければならないことを痛感させられた。そして、各自が新たなる一歩を踏み出さなければならない。

最後に、遠く日本からバンクーバーまで足を運び、私たちに力強いメッセージを届けてくださった高嶋伸欣先生、志をもった教員の方々が作り上げられた素晴らしい教科書・『ともに学ぶ人間の歴史』(学び舎発行)をご紹介くださったおつれあいの高嶋道先生、今回の企画を主催してくださったアジア太平洋戦争終結70周年バンク―バー実行委員会の皆様とピース・フィロソフィー・センターの乗松聡子さんに、心から感謝いたします。


はら・きょうこ
フリーランス・ライター。神奈川県出身。1990年、在日コリアンの夫と結婚。1994年、渡加。現在は、バンクーバー郊外に在住。異文化の中での5人の子供の子育ての経験を通して、主婦として母としての視点から、情報を発信。バンクーバー九条の会・会員。平和を考える会「White Rock の会」・共同主催

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Sunday, October 25, 2015

Significance of the 70th year of the End of the Asia-Pacific War - Towards Reconciliation and Peace in East Asia (May 30, San Diego)

Satoko Oka Norimatsu, Director of Peace Philosophy Centre and owner of this blog spoke at the 13th Annual Meeting of APHAFIC, Association for Preserving Historical Accuracy of Foreign Invasion of China, on May 30, 2015, in San Diego, CA. Here is the speech text. APHAFIC also reports the event here. San Diego Chinese Press reports here


With members of APHAFIC, after the talk 


The significance of the 70th year of the end of the Asia-Pacific War - Towards Reconciliation and Peace in East Asia


Thank you APHAFIC, the Association for Preserving Historical Accuracy of Foreign Invasions in China, for having me at this13th annual meeting and dinner. It is a great honour and privilege to be here.

I would like to start by reading you a poem by Joy Kogawa, a Japanese Canadian author and poet known for her novel “Obasan.” This poem was recited by another Japanese Canadian writer at the solidarity rally in Ottawa in December 2011 to mark the 1000th “Wednesday Demonstration” held in front of the Japanese Embassy in Seoul to call for justice for the victims of wartime Japanese military sexual slavery.

The whole world knows about the Holocaust in Europe.

The whole world will soon know about a holocaust in Asia.

In Germany it is a crime to deny the Holocaust.

In the Land of the Rising Shame, such light does not yet shine.

My background
I am a resident of Vancouver, British Columbia, Canada, but as my name may suggest, I am originally from Japan. I was born in Tokyo in July 1965, twenty years after the end of WWII, and I grew up there as a child of a mechanical engineer father and a full-time mother.

In 1982, When I was 17, I got a scholarship to attend Lester B. Pearson College of the Pacific, in Victoria, BC. It was an international high school, part of the United World College network, which aims to deliver education to promote international understanding. I spent the last two years of high school there, Grade 11 and 12.

There I lived and studied with two hundred students from over 70 countries from all around the world. I had roommates from different parts of Canada including a native Canadian, as well as people from Swaziland, Northern Ireland, Singapore, and Wales.

The biggest lesson that I learned at that college was that I knew almost nothing about history, especially when it came to Imperial Japan’s war-time atrocities committed against fellow Asian nations and their people. I learned about this ignorance from my friends who had come from those victimized nations.

A good friend from Indonesia told me about romusha. I wondered why she would know a word that was not commonly used even in Japan. Romusha means “labourers” and refers to the millions of Indonesian men and women whom the Japanese Army mobilized for forced labour during its occupation of what was then the Dutch East Indies. Many of them died from the severe working and living conditions.

My roommate and best friend for life from Singapore told me about how cruelly the Japanese Army treated Chinese residents in Malaya, including incidents in which a Japanese soldier would throw a baby in the air to then impale it on his bayonet.

I was shocked, almost to the point of disbelief, to learn about this history from my friends and by the fact that I had never been taught or heard about this in Japan. What I had learned about wartime history in Japan were things such as the bombing by the United States of Japanese cities, including the atomic-bombing of Hiroshima and Nagasaki. I also learned about the wartime and post-war poverty in Japan, and the “sacrifices” of Japanese soldiers overseas. It was only later that I came to know that Japanese schools and public media were emphasizing what Japan suffered during the war, not what Japan did to other countries.

In hindsight, this high school experience set the foundation for what I do and who I am now – writing, speaking, and educating for peace and justice, and trying to encourage myself and others to transcend national bias in learning and teaching history.

Asia-Pacific War 70th – Significance
This year marks the 70th anniversary of the end of the Asia-Pacific War, or, I should say, the defeat and collapse of Imperial Japan. It was not just the end of 15-years of aggressive war and invasion of China or 3 years and 8 months of war against the United States, Great Britain, Netherlands, and others; it was the end of the Empire of Japan, which had been continually expanding since the end of the 19th century, shortly after the country opened itself to the rest of the world and followed in the footsteps of Western colonial powers. The empire lasted over 70 years, just as long as the time that has passed since the end of the war. So when we look back at those years, we should look back at those 70 plus years of Japanese expansionist policy in Asia as a whole including Japan’s colonial rule of Taiwan from 1895, and Korea from 1910.

However, much of war memory in Japan seems to be confined with their war against the US. Many in Japan think that they only lost the war against the US, without ever thinking about having been defeated by China and its people’s resistance. I find this similar to how many in the US do not believe that they lost the Vietnam War.

The US dominance of the Japanese war memory was convenient for the US, which likes to think that it was the primary victor in both the Pacific and European theatres of World War II. This made it easier for the US to control Japanese minds during the post-war occupation within the Cold War framework. This notion also contributed to the Japanese post-war thinking that they are safe and secure as long as they obey the United States, even if they don’t regain the trust and friendship of the countries that they victimized, such as China and Korea. As a result, and with the intensification of such thinking by the current LDP government, Japan finds itself isolated in East Asia.

In Japan, or maybe even in the United States, it is commonly believed that Japan’s war with the Allied Nations started at Pearl Harbor, when the Japanese Navy launched a surprise aerial attack on the US Naval base in Hawaii early in the morning of December 7. Everybody knows of Pearl Harbor, but it is only one side of the story. Not many people in Japan know that the war started in Southeast Asia at the same time, actually about an hour earlier, with the Japanese Army’s surprise attack on British forces at Kota Bahru in Malaysia. This may seem like a minor difference, but paying attention only to the war against the US misses the essence of what this war was really about.

The true purpose of Japan’s war from December 1941 was not to take on the United States but to get access to resources in Southeast Asian countries and continue its military expansion into China and other regions. Japan launched these attacks on the pretext of the war being to liberate the Asian people from the Western colonial powers, but the reality was that Japan replaced those Western powers as an even harsher colonial ruler.

This must be all well-known to you, but that is not the case in Japan. And on this 70th anniversary, I feel more than ever that it is critical for Japan and its people to fill the gap in historical knowledge and consciousness, in order to get on the same page with its Asian neighbours, or to become true friends with them. But of course, I myself am still learning, still trying to pursue the truth.

A-bomb survivor’s apology in Malaysia
I came to a full realization of the true nature of Japan’s war against the Allied nations when I travelled to Malaysia and Singapore last summer with Nobuyoshi Takashima, a professor from Japan who has been going to the region for the past 4 decades to research and document Japanese atrocities in the area, particularly the killing of tens or hundreds of thousands of Chinese people there.

On this trip, there was another realization. I sensed that there was widespread sentiment throughout Asia that the U.S. atomic-bombing of Hiroshima and Nagasaki saved and liberated the people of Asia from Imperial Japan. It was perceived as a gift from Heaven. I went to several war memory sites and interviewed some of the Chinese people in the region who experienced Japanese occupation, and understood that they had this perception.

One elderly Chinese community leader in Malaysia said that Japan surrendered because they feared that “the next target of US atomic bombing might be in Tokyo.” A medical doctor in Singapore who had been in Malaysia as a child said that the atomic-bombing “ended the war early.” On the war victims monument at a Chinese school in Penang in Malaysia it states that with the atomic-bombing of Japan, “the nation’s shame and the family’s vengeance were washed away”, (国の恥と家の仇は川の流れとともに東へ流れ去った).”  Both the National Museum of Singapore and the Old Ford Factory Museum, which remembers the surrender of Percival’s British forces to Yamashita’s Japanese army on February 15, 1942, use the image of the atomic-bombing and the huge mushroom cloud as a symbol of liberation from Japanese oppression.

Such views were sobering to me, and should also be to most Japanese. Perhaps they are difficult to accept for atomic-bomb victims. But then I learned from Professor Takashima that there was once a Japanese atomic-bomb victim from Hiroshima who came on one of his education tours to Malaysia.

She was the late Suzuko Numata, who passed away in 2011, at the age 87. She was 22 years old when she was exposed to the atomic-bombing and she had to have her left leg amputated. Despite much hardship, not just physical, but also society’s discrimination and prejudice against her, she became a teacher and from the 1980s she was an active international storyteller for peace and anti-war.

In late 1987, she was shocked to learn that an army unit from Hiroshima, the 11th Infantry Regiment of the 5th Division, committed massacres against Chinese residents in Negri Sembilan, Malaysia, as early as March 1942, shortly after Japanese occupation started. In the following year, 1988, a Japanese civic group arranged for six survivors of the massacre of Chinese in Malaysia to come and visit Hiroshima and meet atomic-bomb survivors including Suzuko.

A newspaper then reported that when they dedicated flowers together at the Atomic Bomb memorial monument, one of the atomic-bomb survivors condemned the United States for dropping the bomb, and that was challenged by one of the six survivors from Malaysia. He said, “If Japan had not started the war of aggression, the United States would not have dropped the bomb.” This experience led to Suzuko’s decision to visit Malaysia in the following year.

In March 1989, Suzuko joined Professor Takashima’s annual tour with other participants from Japan. One day during the tour, they were at a gathering with about 100 local Chinese residents at a town called Titi in Negri Sembilan, close to where it is said that 1,474 residents were massacred and the whole village burned down on March 18, 1942. The local host invited speakers from both sides, and Suzuko immediately volunteered. What she said took Takashima and others by surprise.

Suzuko said:
“I am from Hiroshima, the past headquarters of the Japanese Army, which killed innocent people, your family members, one after another, as though they were insects. I did not know the army unit from Hiroshima committed atrocities in Malaysia. When I learned about it last year, I thought I had to come to here. I wanted to personally apologize to you. Everyone, I am very sorry. I ask for your forgiveness.”

Professor Takashima was at the back of the room and did not see that coming. When Suzuko gave her apology, everybody in the meeting room stood up and ran up to her. Takashima did not know what was going on. But a little later, the person interpreting for Suzuko went over to Professor Takashima and told him that what the local residents were saying to her,

“How courageous of you to come all the way from Japan when you only had one leg because of the atomic-bombing!”

“I have long wanted to hear such words from Japanese people,”

“You are a victim yourself. But I am touched to hear your words.”

After that, Suzuko went back to Hiroshima and convinced fellow atomic-bomb survivors that it would be impossible to build any level of solidarity with Asian friends if they only talked about what they suffered. Since then, she would always include perspectives from the victimized Asian nations’ whenever she gave talks about her atomic bomb experience to young people.

Suzuko’s story of transformation offers us much to think about. I thought, among all Japanese, atomic-bomb survivors would be the last group of people to expect such apology to come from. But Suzuko apologized. She probably knew she did not have to. But she knew more than many people what it was like to be a victim of a war atrocity. And she took the responsibility of the army unit from her home town on her shoulders. She chose to do that.

Maybe at some stage in the past, she had heard an apology for the atomic-bombing from an American citizen who did not drop the bomb and knew what a healing effect it had on her. Now that she is gone, it is impossible to know, but her story makes me think. What is an apology? What is reconciliation? How does each of us take responsibility for the deeds of an individual or group, a region or a nation that we are associated with? It is another key question to be asked in the 70th anniversary, at a stage when few people who directly experienced the war still survive, and we must inherit the memory and the lesson of the war without depending on the survivors.

Japan’s current denial of history and its remilitarization
In Professor Takashima’s article about Suzuko, he wrote:

A quarter of a century after Suzuko’s visit to Malaysia, we can hardly say that the change that she wanted to bring to Japan has penetrated widely into society as a whole. We must continue our efforts patiently and steadily.       

Today, as Takashima says, much of Japan is oblivious to what an aggressive, imperial, and colonial power Japan was throughout the seven decades leading up to 1945, and the uncountable crimes and human rights violations it committed during that time against people in its colonies and occupied territories, including war atrocities like the Nanjing Massacre, Unit 731, military sexual slavery, forced labour, and abuse of POWs.

And that ignorance is being reinforced and history is further being distorted in Japan under the government of Shinzo Abe, with his first term from September 2006 to September 2007, and the second term from December 2012 to the present.

Abe is by far the worst Prime Minister Japan has had where the denial of history is concerned. He is known for his slogan “Departure from the Post-War Regime.” In this, he rejects the equations that shaped the post-war Japan, such as the July 1945 Potsdam Declaration, and the new Constitution of Japan of November 1946 that demilitarized and democratized Japan, and the 1946 – 48 International Military Tribunal for the Far East that held Japan’s military and political leaders accountable for war crimes, except Emperor Hirohito.

In recent years, Abe has been particularly known around the world for his denial of the use of force in the mobilization of women into the military sexual slavery, and the very notion of sexual slavery itself.

70 years after Japan accepted the Potsdam Declaration and surrendered, Abe still seems to be resisting it. In a recent debate with Japan Communist Party’s leader Kazuo Shii, Abe shocked the country by saying that he had not read the Potsdam Declaration thoroughly and refused to answer when Shii asked him whether he thinks Japan’s war was wrong or not. It was significant that Abe’s wife Akie visited the Yasukuni Shrine around the same time.

Abe and his LDP/Komeito government is now trying to pass legislation that will destroy the very heart of Article 9 of the Constitution, the clause that stipulates the renunciation of war and war potential, by expanding the capabilities of the the Self Defense Forces outside of Japan under the name of the “exercise of the right to collective self-defense” with its ally the United States.

This summer, Abe is planning to issue a special statement to mark the 70th anniversary of the ending of the war, but this debate with Shii gives us a good preview of what the statement is going to be. He wants to downplay the remorse over Japan’s aggressive war and his apology for it, if there is going to be one at all. He wants to stress “future orientation,” by which he means Japan’s readiness to be a more active military presence in the world as an US ally, under his slogan “proactive pacifism,” using the supposed threat of China as a pretext for military expansion.

Abe wanted to revise the Kono Statement of 1993 and the Murayama Statement of 1995, but with pressure from the US, China, and Korea not to do so, he says he adheres to the statements of apology by past prime ministers, but we all know that he does not sincerely think this way.

Abe is also a destroyer of the education formulated in post-war Japan. He revised the Fundamental Law of Education in 2006 to promote patriotism and to dilute the law’s core anti-war principles, which were based on a critical reflection of Japan’s war of aggression. He strengthens government influence on children’s textbooks so that Japan-centred and pro-government views are emphasized and description of the history of Japan’s aggression against fellow Asian nations is downplayed.

Japan’s renewed war crime
The late Shuichi Kato, who was a prominent anti-war public intellectual, once said the following to young people in Japan:

The young are not responsible for the past wrongdoing of their country, but this does not mean that they do not need to be engaged. The young need to be engaged with history. The purpose of studying history lies in, for example, an active effort to examine whether the kind of discrimination and prejudice, which caused the Nanjing Massacre in the old days, still exists today. The postwar generation is responsible for learning from history and making sure never to wage war again. It is responsible for the present and the future.

But what Abe and his colleagues are doing is the exactly opposite. He is denying or downplaying history, hurting the surviving aging victims of military sexual slavery and other war crimes, and their descendants.

What Abe, his right-wing supporters, media and many in Japan have been doing, such as denial of coercion in the military sexual slavery, are, to me, a renewed round of war crimes, committed every day, today --- the crime of denial of war-related atrocities.

This is not about the past. This is the present. And I think we, Japanese nationals who allow such history deniers to dominate and represent the country should be held responsible. I realize that many in this room are Chinese American people whose lives or whose family or relatives’ lives have been affected by the deeds of Imperial Japan.

For this round of secondary war crimes that Abe and other history deniers in Japan are committing, I apologise. I am just a regular citizen and in no position to represent the country, but as a Japanese national, and a voter, I am deeply ashamed and feel personally responsible. I am very sorry.

And I know that saying sorry isn’t enough. As a writer, speaker, and educator I want to continue to work with like-minded people and groups in North America, Japan and beyond, who are committed to preserving the accuracy of history like you are, so that historical truth and justice prevail, and trust and reconciliation can be nurtured among us, between the people of Japan, and the people of fellow Asian nations, the United States, and beyond.

Thank you and I would now love to take any questions and comments that you may have.


Satoko Oka Norimatsu
Satoko Oka NORIMATSU is Director of Peace Philosophy Centre, a peace-education organization in Vancouver, Canada. She is also an editor of Asia-Pacific Journal: Japan Focus (japanfocus.org) and Director of Vancouver Save Article 9. She writes and speaks on topics such as peace and justice, war memory and education in East Asia, the peace constitution of Japan, Japan's war responsibilities, US-Japan relations, US military bases in Okinawa, and nuclear issues. She is co-author with Gavan McCormack of Resistant Islands: Okinawa Confronts Japan and the United States (Rowman & Littlefield, 2012). This book has been translated into Japanese, Korean, and Chinese. She is also a co-author with filmmaker Oliver Stone and historian Peter Kuznick of Let's Talk About War - Let's Talk About What War Really Is (Kinyobi, 2014).