長崎人権平和資料館の会報『西坂だより』2025年4月1日号(第114号)に掲載された、新海智広さんによる、「第2回・中国人強制連行犠牲者追悼集会」の報告を許可を得て転載します。長崎原爆の爆心地より北に100m、最長350mの地点にあった長崎浦上刑務支所では刑務所内にいた職員19名、官舎居住者35名、受刑者及び刑事被告人81名(そのうち中国人32名、朝鮮人13名)計135名全員が即死したといいます。現在の長崎平和公園にはその刑務所の遺構が残っています。8月9日の記念日あたりに行くと式典のセットアップや人混みでしっかり見学ができないので、できれば他の時期に行くほうがいいと思います。中国人原爆犠牲者追悼碑や長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑と合わせ、長崎の平和公園・爆心地公園における必見の地であると思います。「80周年」にあたり、日本の植民地支配や戦争のために長崎に連行され、強制労働させられた挙げ句、被爆死させられ、生き残った者も原爆症と貧困と差別の中で生きた、この歴史を日本人は学び心に刻むべきだと思います。そして新海さんの文にもあるように「和解」の当事者である加害企業であるにもかかわらず追悼集会に来ず、メッセージも寄せず、企業名に触れるなという、三菱マテリアルの人道にもとる姿勢には心からの怒りを感じます。だから名前に触れるなという三菱マテリアルの名を敢えて大きく叫ぼうと思います。後から踏みにじるような「和解」では「和解」とは言えません。また、いまだに謝罪もしないどころか、強制連行の史実さえ否定している日本政府への責任追及が必要です。中国の遺族の方々のメッセージは写真にあるように「歴史の正義を求め、人間の尊厳を守るために、日本政府は誠実に謝罪しなければならない」です。長崎に行ったら「二十六聖人殉教地」のすぐちかくにある長崎人権平和資料館をぜひ訪ねてください。朝鮮人・中国人被爆と、強制連行についてより深く学ぶことができます。@PeacePhilosophy
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2025年4月5日、中国人強制連行犠牲者追悼集会より。長崎市蚊焼町の日中友好平和不戦の碑の前で。横断幕のメッセージは「歴史の正義を求め、人間の尊厳を守るために、日本政府は誠実に謝罪しなければならない」 |
第2回・中国人強制連行犠牲者追悼集会
新海智広
2025年4月5日、中国人強制連行被害者追悼集会が、日中友好平和不戦の碑・維持管理委員会(以下、維持管理委員会)の主催により、中国から42名の遺家族を迎え、長崎市蚊焼町の日中友好平和不戦の碑の前で開催された。以下はその集会を含む当日の報告、和解事業の問題点に関する私見である。
中国人強制連行と三菱和解
日本は不足する労働力を補うため、1943年から45年にかけ、国策として3万8935人の中国人を日本へ拉致し、強制労働に就かさせた。その約1割を占める3765人は三菱関連の事業場へ連行され、実に722人が死亡(死亡率19.2%)している。連行後1年ほどで日本は敗戦を迎え、実労働期間は1年数ヶ月であったことを思うと恐るべき死亡率の高さである。ちなみに強制連行された中国人全体での死亡者数は6830人(注1)、死亡率は17.5%であり、三菱関係の中国人労働者の死亡率はそれを上回っていることになる。
2016年6月1日、三菱マテリアルと強制連行された中国人及びその遺族との和解(以下、三菱和解)が成立した。和解の文章の中で、三菱マテリアルがどのように述べているかは後述するが、中国人強制連行犠牲者への謝罪及び和解金の支払い条項と共に、追悼事業への協力が約されていることをここでは確認しておきたい。今回第2回目となる「中国人強制連行犠牲者追悼集会」も、この三菱和解・追悼事業の一環として執り行われたものである。
旧浦上刑務支所跡地にて
当初、4月5日は午後15時15分からの追悼集会のみを予定していたが、中国側の希望により、午前中平和公園内の旧浦上刑務支所跡地および中国人原爆犠牲者追悼碑の見学が日程に組み込まれ、維持管理委員会のメンバーとして私はその説明にあたることになった。これは今回来崎された中国の方々の中に、崎戸炭鉱へ連行された後、浦上刑務支所へ移送され原爆死した韓文会さんのご遺族が含まれており、その強い希望によるものと推察できる(注2)。
平和公園で待機していると、10時40分頃、中国の遺家族の方々がやって来られた。原爆死した韓文会さんの姪・甥にあたる繆力さん、呼中陶さんが、旧浦上刑務支所跡地に花束を捧げた後、かなり長い時間経ったままその場に佇んでいた。繆力さんは込み上げてくるものがあるのか、小刻みに身体を震わせ、涙ぐんでいた。2004年に初来日し、同じ場所で、原爆死した父・喬書春さんを思い号泣した喬愛民さんの姿を私は思わずにはいられなかった。
中国人原爆犠牲者追悼碑前で
平和の泉の横にある浦上刑務支所・中国人原爆犠牲者追悼碑に移動すると、すぐに繆力さん・呼中陶さんのお二人は碑の裏側に回り、おじである韓文会さんの名を探した。涙を浮かべながら、親族の名を愛おしく切なく指で何度もなぞる姿は、刻まれた文字から亡き人の痕跡をたどっているようで、痛々しく、哀切としか言いようのない光景であった。
今回の来崎に先だって、繆力さんからは原爆犠牲者遺家族としての挨拶文が送られてきていた。結局この挨拶文は集会において読み上げられることはなかったが、全文を紹介しておきたい。以下、中国語の翻訳は、昨年に続いて通訳をお願いした大瀧和代さんによる(中国総領事挨拶のみ周峰領事アタッシュによる訳)。
「尊敬する皆様こんにちは。
私は北京から参りました。私の母方の叔父韓文会は、強制労働者として日本の長崎県三菱鉱業所崎戸炭鉱に連行され、日も差さない坑道で石炭採掘の重労働をさせられました。企業側の搾取と食物の供給の少なさに耐えかね、多くの同僚が食料の要求をしましたが、企業側がこれを拒み、日本の警察は、治安維持法に違反するとして1944年12月同僚とともに逮捕されました。1945年3月31日、20人余りの同僚と一緒に長崎県浦上刑務支所に収監され、1945年8月9日原爆の犠牲となりました。異国で亡くなってから80年が過ぎ、遺骨は依然、天津の在日殉難烈士記念館に置かれたままで埋葬もできずにおります。日本侵略戦争で強制労働者として連行された人々は皆若く働き盛りで、家庭では年老いた両親と子供がおり、大黒柱を失った無数の家庭は、一家離散の憂き目に遭い言葉では言い表せない災難に見舞われました。80年の時が過ぎ、加害者企業はすでに謝罪をしました。しかし日本政府は国際的に中国人の強制労働の事実を認めてはいません。当時の中国人強制労働事業は日本政府と企業の共同の犯罪だと考えています。この度の訪日で私は多くの三菱被害者の家族から、日本政府が3766人の三菱被害者の家族に対して、また4万人の中国人強制労働者の家族に対して公の謝罪をするように、という強い要求を託されて参りました。ここに日本政府の謝罪を要求するものであります。
三菱原爆遺家族 繆力」
日中友好平和不戦の碑の前で
昼食をはさみ、14時半前後から中国の遺家族の方々が追悼集会会場へやって来られた。集会開始前に、遺家族の方々は平和不戦の碑の横の刻銘碑(長崎へ強制連行された845人のうち氏名不明の2名を除く843人の名前が刻まれた石碑)へ赴き、強制連行犠牲者である自分の親族の名を確認していた。やはりここでも刻まれた名を撮影し、指でさすりながら涙ぐむ姿が見られた。
15時15分から、維持管理委員会共同代表の崎山昇さんの司会により、「第2回・中国人強制連行犠牲者追悼集会」が開催された。はじめに同共同代表の平野伸人さんが「1992年に平和公園の被爆遺構が見つかり、原爆死した中国人の遺族探しが始まった。その後中国へ渡り生存者・遺族と交流し、さらに2003年以降は裁判闘争にも取り組んだ。粘り強く交渉を重ね2016年に三菱との和解が成立した。今日は戦争や原爆の歴史を、中国をはじめとするアジアの人々の視点から直視し、その被害に寄り添う1日にしたい」と主催者挨拶を述べた。
続いて維持管理委員会共同代表の竹下芙美さんが平和不戦の碑に献花したあと、参加者全員で献花を行った。その後強制連行・強制労働の中国人犠牲者の苦難を偲びつつ、沈黙のうちに追悼の時を持った。
次に陳泳中国駐長崎総領事が来賓挨拶を次のように述べた。
「本日、中国の清明節にあたり、我々は長崎の日中友好平和不戦の碑の前に集まり、共に、亡くなった中国人労働者を追悼し、中日の恒久平和を祈念します。日本軍国主義が引き起こした侵略戦争は、中国の人々に甚大な被害をもたらしました。亡くなった中国人労働者の悲惨な経験は、まさにその時代の縮図の一つでした。
『前事を忘れざるは後事の師なり』我々がこの集会に参加するのは、恨みを抱え続けるためではなく、歴史を直視し、教訓を学び、苦労して勝ち取った大切な平和を守るためです」
続いて慰霊追悼委員会を代表し、孫靖弁護士が次のように挨拶を述べた。
「私は北京から来ました弁護士の孫靖と申します。今回の2度目の長崎訪問にあたり、長崎で亡くなった強制労働者の娘、張桂英さんを思い出しました。彼女の父親の名前は張培林と言い、抗日運動に参加したために日本軍に連れ去られました。その後、父親は行方がわからなくなりました。母は夫を、祖父母は一人息子を、一家は大黒柱を失いました。間もなく母親は倒れてしまい、祖父もまた倒れて一年余りで、母親と祖父は相次いで亡くなってしまいました。
これは、日本の侵略戦争が多くの中国人にもたらした悲劇のほんの一つに過ぎません。
私たちは互いに手を取り合って歴史を刻み、絶対に2度と悲劇を繰り返さないよう行動を以て、中日両国人民の友好を推し進めていこうではありませんか。」
締め括りとして、遺族を代表し靳恩恵さん(代読:息子の靳常青さん)が挨拶を述べた。全文を紹介する。
「悲惨な運命と苦痛の回想
私は靳恩恵と申します。中国河北省衡水市饒陽県西里満村に住んでいます。今年で84歳になりますが、不幸なことに80年間父親に会ったことがありません。今回の追悼会には高齢のため参加しませんが、私の気持ちを息子に託したいと思います。
日本の侵略戦争期間中の1944年の夏に、私の父靳青岩は連れ去られ、ここから我が家の悲惨な生活が始まりました。当時ただでさえ食うや食わずの生活でしたが、更にひどい生活に追い込まれました。1945年日本投降後、父の労働仲間だった何琛さんと劉振国さんが父の遺骨を家まで届けてくれました。家中の悲しみは形容しがたいものでした。老いた父は息子を嘆く、妻は夫を嘆く、子供は父を嘆く。天に呼べども地に叫べどもその悲しみを受け入れてくれる所はありませんでした。2人の友人の話に依ると、父は日本の炭鉱で働かされ、そこで亡くなったということでした。
50年も経ってから、日本の友人から調査票の手紙を受け取り、父の亡くなった経緯がやっと分かりました。長崎から来た日本の友人が、中国の被害者に対して長年奔走してくださり、遅まきながら80年後に加害企業の謝罪を得ることができた、この正義の行いに対して、私はとても感謝しております。日本政府と加害者企業は共同の犯罪者です。企業はすでに謝罪を表明しております。しかし主犯である日本政府はまだ歴史の責任を負っていません。日本政府に対しては、強く中国被害者に対する謝罪を要求するものであります。
人は世界の主人であり仁、善、礼、義の心は中国人も日本人も同じように持っています。今立場を入れ替えて考えたら、どのようにして被害者の家族に現実を受け止めてもらうことができるでしょうか?私の生きている間に日本政府の謝罪を見届け、このことを後の代まで、歴史の教訓として伝えていって欲しいと願います。
青春の碧血を日本に洒ぎ
赤誠丹心は冤魂と化す
厳詞義正の児孫在れば
公道の償還は乾坤を扭る
在日殉難遺児 靳恩恵
2025年4月5日」
この後、維持管理委員会・事務局長として新海が経過報告を述べ、最後に維持管理委員会・共同代表の内田雅敏さんが閉会挨拶を述べて集会は終了した。
強制連行問題と日本政府の責任
昨年の追悼集会でも感じたことであるが、日本の敗戦から80年になろうとする今日に至っても、中国人強制連行犠牲者及び遺家族の痛みと苦難は未だ癒されていない。特に正式な謝罪も賠償も一切行っていない日本政府に対する不満と憤りは強く、それは今回来崎した遺家族の方々が追悼集会の場で広げた横断幕の言葉「討還歴史公道、維護人類尊厳、日本政府必須給予遅到真誠的謝罪」(歴史の正義を求め、人間の尊厳を守るために、日本政府は誠実に謝罪しなければならない・冒頭の写真参照)によく示されていると思う。
日本政府は、朝鮮人の場合とは異なり、中国人強制連行についてはその事実を認めている。政府や企業が作成した認めざるを得ない文書等が存在しているからでもあるが、例えば2001年11月7日の第153回国会・衆議院外務委員会において、田中真紀子外務大臣(当時)は「中国人の強制連行問題に関して、(中略)確かに、こういう歴史的な事実について私どもは直視をするということをきっちりしていかなければいけない。過去のことについてきちっと一つ一つ、嫌なことでも確認をしていくということをする義務があると思います。強制労働という形で来日して、厳しい労務につきまして、そして、その多くの方が苦難の中で一生を終えられたりした(中略)政府といたしましても、何とかできることについては、個々の状況も踏まえつつさせていただきたい。」と、述べているのである。外務大臣自らが「強制連行問題」「強制労働という形で来日」という言葉を用い、過去の嫌なことでも確認する義務がある、と言明しているのだが、結局その後この問題に関して日本政府は何一つ「義務」を果たしてはいない。
和解事業と三菱マテリアル
こうした無責任な日本政府と対置する形で、中国人強制連行犠牲者遺家族からは、和解に応じた三菱マテリアルを評価する声が聞こえてくる。今回の遺族代表の挨拶の中でも「加害企業の謝罪を得ることができた、この正義の行いに対して、私はとても感謝しております」という一節がある。確かに今回の追悼集会も、三菱和解の追悼事業の一環として行われ、遺家族の方々の旅費等は三菱マテリアルから拠出されている。しかし、私はあえて言いたい。三菱マテリアルは、本当に過去に真摯に向き合っているのか。日本政府と共同で中国人を強制連行し、苛酷な労働を強い、多数の死傷者を出した過去を、本当に反省していると言えるのか。
日中友好平和不戦の碑の前での集会は、これまで4回行われている。2021年11月14日の除幕式、2023年6月1日の中国から基金管理委員を招いての追悼集会、2024年7月7日の第1回中国人強制連行犠牲者追悼集会、そして今回である。この4回の集会への、三菱マテリアルの関わり方を見てみよう。2021年の除幕式の時は、九州支店長のS氏が出席し、挨拶を述べている。2023年の追悼集会の時も、三菱マテリアル社員のH氏が出席しやはり挨拶を述べている。ところが2023年の追悼集会の時は、同社よりの出席はあったが、こちらが要請した「挨拶」は断られ、さらに三菱マテリアルの社名を文書等に出さない、社員の会場での紹介もしないことを要求された。そして今回は「不参加」である。
2016年6月1日に成立した三菱和解には、
「第二次世界大戦中、日本国政府の閣議決定「華人労務者内地移入に関する件」に基づき、約39,000人の中国人労働者が日本に強制連行された。弊社の前身である三菱鉱業株式会社及びその下請け会社(三菱鉱業株式会社子会社の下請け会社を含む)は、その一部である3,765名の中国人労働者をその事業所に受け入れ、劣悪な条件下で労働を強いた。」
との文言がある。更に三菱マテリアルは同じ和解文章の中で、「前事不忘、后事之師」(過去を忘れず、将来の戒めとする)という言葉を引用し、過去の歴史的事実・歴史的責任を認め、和解金の支払と共に追悼碑建立に協力し、この事実を次世代へ伝えていくことを約束している。
そもそも今回の追悼事業は、三菱和解の一環として執り行われたものであり、中国人強制連行犠牲者およびその遺家族が一方の主役であるとすれば、三菱マテリアルはもう片方の主役なのである。その三菱マテリアルが、追悼事業に「不参加」とは、いったいどういうことか。
「和解は和解の成立によって終わるのではない、その後の和解事業の遂行によって内容が深まる」とは内田雅敏弁護士の言葉である。真に意味のある和解とするためには和解事業を時間をかけて積み重ねる必要がある。2016年の三菱和解の成立の時点で、強制連行・強制労働の時点から70年以上が経過していた。この間に積もりに積もった企業(および日本政府)への怒りや憤り、不信を解くためには、和解事業を誠実に遂行することにより、企業側が過去を再認識し、二度と過ちを繰り返さないという姿勢を被害者側に示すことが何より重要だと思う。残念ながらこの間の三菱マテリアルの対応を見ていると、和解金や和解事業関連の費用を出したのだからもう自分たちには関係がない、とでも言うような冷淡さが感じられてならない。
政府も、三菱という企業体も、それを構成するのは個人であり私たち市民である。過去の歴史と向き合い、過ちを率直にみとめ、真の友好親善を求める気運を市民社会の中で少しでも広げていくこと、どんなに迂遠にみえても、それが政府や企業を変える基盤となると信じたい。
(新海智広)
注1:この死亡者数は日本側から見たものであり、中国側からすればこれを上回る(連行者数も同じ)ことは以前述べた。詳しくは西坂だより112号の拙稿『中国人強制連行犠牲者遺族を迎えて』参照。
注2:三菱和解事業では強制連行犠牲者1名につき、その遺家族1名を追悼事業に招くことになっているが、この韓文会さんのご遺族は自費参加1名を加え、2名が来崎されている。この点からも思いの強さが伺える。