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Tuesday, August 26, 2014

8月13日名護シンポ 「沖縄が世界に求めることは何か」-「世界の沖縄声明」のメンバーを迎えて What Okinawa Expects From the World - A Symposium with Members of the International Okinawa Statement

8月13日名護で開催したシンポの報告です。「世界の識者・文化人の沖縄声明」は1月7日に29人1月28日に103人の世界の賛同人リストと声明を発表しましたが、沖縄の市民団体からの「声明行動のメンバーに沖縄に来てもらいたい」との呼びかけに応じ、8月13日に名護でシンポ「『沖縄が世界に求めることは何か』-『世界の沖縄声明』のメンバーを迎えて』が実現しました(チラシと案内はこちらをクリック)。実行委員会「世界の識者・文化人と連携する市民の会」は「ヘリ基地反対協議会」、「New Wave to Hope」、「沖縄平和市民連絡会」などさまざまな市民団体のメンバーで構成されました。パネリスト(敬称略)は、ピーター・カズニック(アメリカン大学教授)、ジョセフ・ガーソン(アメリカンフレンズ奉仕委員会)、大田昌秀(元沖縄県知事)、糸数慶子(参議院議員)、乗松聡子(アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス・エディター、通訳兼)、吉川秀樹(沖縄生物多様性市民ネットワーク、司会兼)でした。
 
8月14日の報道 
「基地への抵抗続けて」 名護でシンポジウム
 
名護シンポジウムで発表した声明を下方、写真の下に英語版、日本語版全文掲載します。
 
★名護シンポジウムの記録は後日発表する予定です。
 
★また今回の来沖ではガーソン、カズニック、乗松の3人は12日午前マグルビー米国沖縄総領事を訪問、1万5千筆を超える、辺野古基地中止と普天間基地返還を求める国際署名を提出。同日午後、沖国大でのイベント「Just Peace(ジャストピース)~いちまでぃん戦さ世?~」(主催・同大平和ゼミなど)が開かれ、たくさんの学生が来てくれました。
 
平和な空を島を ヘリ墜落10年で学生ら討議
向き合う基地問題 沖国大ヘリ墜落10年
 
★ちなみにこのイベントで、総領事館訪問時のマグルビー氏の発言に言及したことが大きく沖縄の新聞で扱われました。
 
米総領事「対話できぬ」 県、名護に国防協力要求
「沖縄は国に従え」 米総領事、他にも強弁
米総領事「沖縄と対話できぬ」名護に協力求める
 
私(乗松)はマグルビー氏との会談中、氏が「(沖縄の基地反対の人たちとは)意味のある対話ができない」と言うので、どうしたら意味のある対話ができますか、と聞きましたが、話が別の方向に行ってしまい、答えを得ることができませんでした。沖国大イベントで報告したときは、「意味のある対話をできる場を作ってマグルビーさんに来てもらいましょうよ」と皆さんに呼びかけるつもりで言ったのですが、それがマグルビー氏の「問題発言」として報道されたのです。私としては、引き続き「意味のある対話」をする機会を設け、マグルビー氏に来てもらうことを提案したいです。
 
8月13日名護シンポの写真(New Wave to Hope による写真)
 
 

 


 
今回のシンポで宣言した声明を英語と日本語で紹介します。


Nago Symposium Statement 


August 13, 2014

In January 2014, over the names of 103 signatories, we published a Statement calling for cancelation of the plan to construct a new base at Henoko and for the immediate return of Futenma. Among the signatories were film directors Oliver Stone and Michael Moore, Nobel Peace Prize winner Mairead Maguire, linguist Noam Chomsky, journalist Naomi Klein, peace studies scholar Johan Galtung, novelist Joy Kogawa, historian John Dower, literary scholar Norma Field, biologist David Suzuki and former U.S. Army Colonel Ann Wright.

This action attracted considerable attention in the Japanese and global media. From Okinawa especially, we received many messages of thanks, saying, “We are not alone” and “he world’s conscience is on our side.” We were humbled that our outrage and small act of solidarity served to reinforce the Okinawan struggle for justice and real security, at a time when many were despondent over the Governor’s approval of the Henoko reclamation in disregard of the Okinawan people’s demand that the Futenma base be transferred outside Okinawa, never within it.

As for the figure of 103 signatories, an Okinawan constitutional scholar has pointed out that, even if coincidentally, it is the same number as the clauses in the constitution of Japan. When Okinawa “reverted” to Japan in 1972, the Okinawan people believed that they would at last be able to enjoy rights guaranteed by the constitution of Japan. But instead U.S. military privilege remained virtually absolute and to this day, people of Okinawa bear a burden of U.S. bases that is almost 500 times greater than mainland Japan. Prime Minister Shinzo Abe’s flagrant moves to subvert Japan’s peace constitution trample on the basic human rights and democratic prerogatives of the Okinawan people.
We thank you, the people of Okinawa, and are honored that we members of the International Statement group are invited here today and can conduct this symposium. At the same time, right before our eyes at this conference venue, the governments of Japan and the United States, after bringing in materials by stealth at dead of night, have begun reclamation works at Henoko and have been constructing new military facilities at Takae. You, the people of this island, have maintained your vision of a peaceful and just future, keeping up your actions to prevent the base construction, through day and night, rain and shine, illness and death. We share your sense of crisis under these desperate circumstances. Hopefully, together, we can discuss and identify measures that will propel your struggle forward and strengthen links to your allies around the globe.
 “What does Okinawa ask for from the world” is the theme of this Conference. But most of us, the 103 signatories, are citizens of the United States or countries allied to it. Naturally, what a victim asks for from an assailant is to stop the assault. What we must do now is mobilize the media and global opinion to change our governments’ policies. We promise you, Okinawan friends, that we will continue our activities in solidarity, steadfast in the conviction that the construction of a new base in Okinawa absolutely must not be allowed.
Joseph Gerson (U.S.A.)
Peter Kuznick (U.S.A.)
Gavan McCormack (Australia)
Satoko Norimatsu (Canada)
 
Organizers, Statement of International Scholars, Peace Activists, and Artists Condemning the Agreement to Build a New U.S. Marine Base in Okinawa, January 7, 2014.”



名護シンポジウム声明 

2014年8月13日

私たちは、今年1月、辺野古新基地建設の撤回と普天間基地の即時返還を求める声明を合計103人の名前で発表しました。その中には映画監督オリバー・ストーンとマイケル・ムーア、ノーベル平和賞受賞者のマイレード・マグワイヤ、言語学者のノーム・チョムスキー、ジャーナリストのナオミ・クライン、平和学者のヨハン・ガルトゥング、作家のジョイ・コガワ、歴史学者のジョン・ダワー、文学者のノーマ・フィールド、生物学者のデイビッド・スズキ、元陸軍大佐のアン・ライトなどがいます

この行動は日本や世界のメディアでも取り上げられ大きな反響を呼びましたが、特に沖縄からは「我々は孤立していない」、「世界の良識が味方をしてくれた」、との感謝の声がたくさん寄せられました。普天間基地の県外移設、県内移設反対という沖縄の総意をよそに知事が辺野古の埋め立てを承認したことについて沖縄の人々が意気消沈している中、私たちの怒りの表明とささやかな連帯行動が、沖縄の正義と真の安全のための闘いを力づけることができたことを謙虚に受け止めています。

この103人という数について、沖縄のある憲法学者から、これは偶然にも日本国憲法の条数と同じであるという指摘を受けました。1972年、沖縄が日本に「返還」されたとき、沖縄の人々は、日本国憲法が保証する権利をやっと享受できると信じていました。しかしその代わりに米国の軍事的特権は今日まで事実上絶対的な状態が続き、沖縄の人々は面積あたり日本本土の500倍近い米軍基地を背負わされたままです。安倍晋三首相による甚だしい日本国平和憲法破壊の動きは沖縄の人々の基本的人権と民主的権利を踏みにじるものです。

今回、沖縄のみなさんにこの世界声明グループのメンバーを呼んでいただき、シンポジウムを開けることを光栄に思います。と同時に、このシンポ会場の目と鼻の先では、日米政府がコソ泥のように資材を搬入し、辺野古では埋め立てのための作業が着手され、高江では新たな軍事施設が作られてしまっています。この島の皆さんは平和的で公正な未来への展望を維持し、昼夜を問わず、炎天下でも基地建設を阻止する行動を続けています。そういった中、体調を壊す方、亡くなる方もいましたこの切迫した状況の中、私たちはみなさんと危機感を共有したいと思います。そして願わくば、皆さんの闘いを前進させ、世界中の仲間たちとのつながりを強める方法を話し合いたいと思っています。

「沖縄が世界に求めることは何か」。これが今回のシンポジウムのテーマですが、私たち賛同者103人の大半は米国人か米国の同盟国の市民です。私たちは沖縄を迫害している当事国側の人間たちです。被害側が加害側に求めることは、当然、加害をやめることでしょう。今こそ私たちは、どうメディアと世界的世論を動かして自分たちの政府の政策を変えていくかが問われています。私たちは、沖縄の仲間たちと連携し、沖縄における新基地建設は絶対に許されないとの信念の下に行動を続けていきます。

「世界の識者・文化人・平和運動家による、沖縄の海兵隊基地建設にむけての合意への非難声明」201417日)幹事

ジョセフ・ガーソン(米国) ピーター・カズニック(米国) ガバン・マコーマック(オーストラリア) 乗松聡子(カナダ)

A New Poll in Okinawa: 80% Want Henoko Base Construction Work to be Cancelled

According to the phone survey of Okinawa residents by Ryukyu Shimpo and Okinawa TV on August 23 and 24,
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-230631-storytopic-53.html

80.2% responded the work for Henoko base construction should be cancelled while 19.8% responded the work should proceed as it is.

81.5% do not support the policy of the Abe administration for starting the boring survey of the sea floor of Henoko, while 18.6% support it.

74.0% responded that Governor Nakaima should not cooperate with the base construction work and should at least demand its stop.

53.8% responded that Governor Nakaima should cancel the reclamation approval and stop the construction plan itself.

79.7% do not want Futenma base to be relocated within Okinawa Prefecture, while 10.0% support the Henoko relocation and 4.6% support relocation to another place within Okinawa.




Sunday, August 24, 2014

浦島悦子「大浦湾が泣いている 」Oura Bay Is Crying: Etsuko URASHIMA

Photo: Yoshio SHIMOJI



大浦湾が泣いている
 
            浦島悦子



大浦湾が泣いている
悠久の時に育まれた
数えきれない命を抱いて
大浦湾が涙を流している

大浦湾が泣いている
満月の夜に生まれた
サンゴの卵たちは
行きつく先を見つけられず
大浦湾は涙を流している

「海を守れ!」
抗議する人々の声を
掻き消す巨大なエンジン音
殺し屋たちの怒号が
波間を飛び交う

大浦湾が泣いている
海底に広がる山や谷を
優しい手で撫でながら
大浦湾が涙を流している

大浦湾が泣いている
この海に生きるジュゴンは
命を繋ぐ餌場を追い出され
大浦湾は涙を流している

大浦湾が泣いている
サンゴの森に穴を開け
群れ遊ぶ魚たちを押し潰す
重機の音に身震いしながら
大浦湾が涙を流している

殺し屋たちは海を囲い込み
抗議する人々を追い払い
土砂と殺意を
流し込もうとする

風よ 吹け
波よ 逆巻け

天地の神々の怒りと
島じゅうの人々の思いが
一つになって
邪悪なものを吹き飛ばし
洗い流せ

大浦湾の流した涙が
やがて 青く青く透き通り
華やぐ命たちの上に
慈雨となって注ぐように

Saturday, August 23, 2014

来年米国で出版予定:二人の熱帯病専門家による『モクター事件:1942-45 日本占領下インドネシアにおける医療殺人』The Mochtar Affair: Murder by Medicine in Japanese Occupied Indonesia 1942 – 1945

8月15日、田中利幸・広島市立大平和研究所教授による被爆者・沼田鈴子さん(故人)についての講演ノートを投稿しましたが、引き続き、田中氏がメーリングリストで日本の「8月ジャーナリズム」における「自分たちの被害にだけ焦点を当て」る傾向を批判した一文を掲載します。そこには、戦時日本軍がインドネシアで強制労働させた「ロームシャ」に対して行った破傷風ワクチン人体実験と、日本軍がその罪を現地の専門家になすりつけた「モクター事件」について二人の熱帯病専門家による本が出版される予定で、田中氏が出版前にその推薦文を依頼されたという重要な記述がありました。ブログ運営者はちょうど数日前シンガポール国立博物館にて、インドネシアの「ロームシャ」がマレイ半島など他の日本占領地域にも大量に動員され多数が死んだという記述を見てショックを受けていたということもあり、田中氏のメールを見てぜひ掲載したいと思い、許可を得ました。@PeacePhilosophy

 2014823日発信メール 

広島は豪雨のため大変な惨事にみまわれていますが、みなさんご無事でおられることを遠くメルボルンから祈っております。市民が生死をさまよう苦闘を強いられているときゴルフ三昧をしている首相、こんな低劣な人間を首相にしている国の市民は実に不幸です。自然災害の被害者にすら配慮しない人間です。戦争に若者を駆り出し、人を殺させ、自分たちも殺される状況に追いやることに、ほとんど心の痛みを彼は感じないのも当然でしょう。一日も早く安部政権を倒さなくては、文字通り私たちは彼に殺されてしまいます。 

「戦争被害者」といえば、例年通り今年もまた7月中旬あたりから815日にかけては、新聞もテレビも数多くの関連記事・番組を市民に提供しました。ジャーナリストの間ではこの現象を「8月ジャーナリズム」とか呼んでいるそうですが。実は、正直なところ、私は毎年この時期にもっともフラストレーションがたまります。その理由は、流される情報が、ほとんど「自分たちの戦争犠牲」だけに焦点を合わせており、私たちの両親や祖父母の世代がアジアの多くの市民に対して犯した様々な残虐行為、他民族支配抑圧行為に関する記事や番組がほとんどないからです。しかもこの傾向は年を経るごとに悪化しています。例えばNHKですが、日本軍性奴隷問題(最近、私はなるべく「慰安婦」という用語を使わないようにしています)を取り扱った2001年の「女性国際民衆法廷」番組が安倍の政治圧力で改変されて以来、日本軍性奴隷問題に関する番組はほとんど放送していません。同時に、南京虐殺やその他様々な日本軍の残虐行為、天皇戦争責任に触れるような番組もまた、ほとんど放送しなくなりました。オリバー・ストーン制作の原爆殺戮批判を含むアメリカ批判のドキュメンタリー番組は喜んで放送するNHKですが、日本の戦争責任については今やほとんど触れようとしないのが現状です。民法でも同じような傾向です。新聞社も同様です。原爆・空襲被災、戦場に送られた兵士たちの餓死、特攻で死を強制された若者などなど、もっぱら自分たちの被害にだけ焦点を当てた記事ばかりの毎日でした。なぜこうも、私たちの加害行為で被害者になった多くのアジアの人たちへの想いが私たちの頭に浮かばないのか、私には本当に不思議に思えてしかたがないのです。 

加害と被害の両面に常に想いを馳せた希有な被爆者・沼田鈴子さんのような人がなぜもっと数多く日本では出現しないのか、私には不思議でしょうがありません。ちなみに、故・沼田鈴子さんの思想と活動に関しては、私はすでに2012122日に行われた追悼集会で、「沼田さんの優しさと強さを受け継いで」と題して講演しました。今年87日にYWCA「ひろしまを考える旅2014」のために講演を依頼されたので、再び沼田さんの生涯について私見を述べておきました。(講演ノートはPeace Philosophy Centreのブログに載っていますので、ご笑覧いただければ光栄です

なお、講演後の補論として、「被爆体験の継承」と最近上映された映画「アオギリにたくして」の私見も加筆しておきました。 

日本軍が犯した様々な残虐行為については、すでに私はいろいろなところで発表していますので、ここでは繰返しません。しかし、7月上旬に突然インドネシアから送られてきた興味深い関連メールについて紹介させていただきます。 

メールは、ジャカルタにある熱帯病研究所「エイクマン研究所」の一研究員からでした。送信人は、この研究所と共同研究を行っているオックスフォード大学の研究プロジェクトに携わっているアメリカ人ケビン・ベアードという人で、マラリア病専門研究家です。彼と「エイクマン研究所」所長のサコット・マズキ(インドネシア人でオーストラリアのモナシュ大学医学部教授を兼任)という2人の熱帯病専門家が、太平洋戦争時代にインドネシアで日本軍が犯したある重大な人体実験=戦争犯罪行為について共著の本の原稿執筆を終えたところだという知らせでした。来年アメリカで出版される予定になっており、ついては私に原稿を読んで推薦文を書いて欲しいとの要請でした*。8月中旬までは忙しくて原稿を読んでいる時間がないが、その後でもよいならと引き受け、全原稿と数多くの関連写真をメール添付で送ってもらいました。(*J. Kevin Baird and Sangkot Marzuki, The Mochtar Affair: Murder by Medicine in Japanese Occupied Indonesia 1942 – 1945.  2015年出版予定とのことですが、出版社名は知らされていません。)   

340ページほどある大著で、しかも医学的解説を多く含んでいるので、熱帯病予防ワクチンについて全く知識のない私には決して読みやすいとはいえない難解な著作ですが、今日なんとか全部読み終えました。その内容をごく簡潔にまとめて紹介すると次のようになります。 

「エイクマン研究所」は、オランダ人医師クリスチャン・エイクマンが1888年にバタビア(現在のジャカルタ)に設置した熱帯病研究ラボが基盤となり、1938年に「エイクマン研究所」と改名され拡大発展しています。エイクマンは当時オランダ植民地であったインドネシア(当時は「オランダ領東インド」)に滞在中に脚気の原因を発見し、1929年にはノーベル生理医学賞を授与されている傑出した医学者で、インドネシア医学校設置にも尽力した人物です。このインドネシア医学校からは優秀なインドネシア人医師が生まれ、その中にはアムステル大学にまで留学して医学者になった者も少なくありません。植民地支配下でこのように現地住民が医学者となって育っていたことを、恥ずかしながらこの原稿を読むまで私は全く知りませんでした。オランダ植民地下のインドネシアでは、「エイクマン研究所」の他に、「パスツール研究所」もオランダ政府の資金で設置され、熱帯病予防研究と熱帯病予防ワクチン生産が行われていました。 

19421月から2月にかけて日本軍がオランダ領東インドに侵攻し、3月初めにはバタビアを攻略して、インドネシア全土が日本軍支配下に入りました。インドネシア医学校、隣接するエイクマン研究所からもオランダ人医師や医学者は排除され、彼らは収容所に送られました。医学校と研究所は日本軍支配下に入り、インドネシア人スタッフだけが引き続き仕事に従事することを許されました。医学校の事実上の校長とエイクマン研究所・所長の両ポストに任命されたのは、当時、黄熱病研究などで世界的な功績をあげていたアクマド・モクターというインドネシア人医学者でした。パスツール研究所も日本軍に接収され、「防疫研究所」と改名されました。ここでは、当初はオランダ人研究者も研究を続けることを許されましたが、間もなく彼らも収容所に送られ、「防疫研究所」は完全に日本陸軍によって運営されるようになりました。パスツール研究所では、戦争が開始される前には、「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンを大量生産しており、日本陸軍がこれを引きついでいます。同時にパスツール研究所は破傷風予防のための新ワクチンを開発中でしたが、日本軍が侵攻してきたため、この研究は中断されています。当時は、破傷風は負傷した多くの兵がかかる致命的な病気で、そのため兵力維持のためにはこのワクチン開発が極めて重要な課題でした。

一方、日本軍は数多くのインドネシアの若者や農民(1540歳ぐらいまで)を強制労働に駆り出し、ジャワ島のみならず、マレー半島やビルマなどにまで連行して建設工事や道路工事などの重労働に従事させました。連合軍捕虜を酷使した悪名高い泰緬鉄道建設にも、多くのインドネシア人たちが使われました。彼らは「労務者」と呼ばれましたが、「ロームシャ」はインドネシア語にもなり、英語圏でも日本軍のインドネシア人酷使を表現する用語として知られるようになりました。正確な人数は分かりませんが、400万人以上いたと推定されています。その内、28万人あまりがタイ・ビルマ(その多くが泰緬鉄道建設工事のため)に送り込まれましたが、戦後、インドネシアに帰国したのはわずか52千人ほどだったと言われています。連合軍捕虜同様、彼らロームシャも、わずかな食糧と乏しい医薬品のもとで重労働を強制され、次々と亡くなっていったことは、生き延びた連合軍捕虜たちの証言からも知ることができます。 

戦後、スカルノ政権は死亡した労務者400万人に対する戦後賠償金として日本政府に100億ドルの支払いを要求しましたが、日本政府は「証拠無し」と主張して支払いを拒否しています。実は、スカルノ自身が戦時中に日本軍に協力して、「ロームシャ」を駆り出すことに加担した人物でした。「慰安婦」問題では「河野談話」で、一応、日本政府からの謝罪が出されていますが、「ロームシャ」問題では、これまで日本政府からの謝罪は一切ありません。ちなみに、ロームシャを集めるにあたっては、「高い賃金支払い、十分な食糧提供」などという嘘の条件で騙すという方法がしばしばとられたとのこと。日本軍性奴隷を集める手口と類似していたことが分かります。 

19447月下旬、バタビアの郊外のクレンダーという所に設置されていたロームシャの集合施設、つまりロームシャとして集められた人たちを一旦この場所に集合させ、ここから東南アジア各地に分散して送り込むまでの仮の居住施設にいた900人あまりのインドネシア人全員に、防疫研究所が生産した「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンの注射が行われました。ところが、それから1週間ほど経った8月初旬、次々と彼らには破傷風の症状があらわれ、七転八倒の苦しみの中でバタバタと死んでいくというたいへんな事態となりました。最初は患者を医学校病院に送り込んでいた日本陸軍は、すぐにクレンダー集合所を立入り禁止として、部外者を入れないようにして、900人あまり全員を集合所内で死亡させてしまいました。防疫研究所の陸軍医療スタッフが「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンにさらに未完成の破傷風予防の新ワクチンを加えたものを作り、それを注射したものとしか考えられないと、この本の著者2人は詳しい医学的分析によって結論づけています。通常は、この種の新ワクチンをテストする場合には、まずはモルモットを使って実験を行い、それで安全が確認されてから今度はサルを使って実験するという段階的テストを行うのが通常であるとのこと。陸軍医療スタッフはこうした基本的手順を抜いて、最初からインドネシア人にワクチン注射を行ったわけですから、パスツール研究所から受け継いで開発した新ワクチンにそうとう自信があったものと思われます。日本兵に新ワクチンを投与する前に、インドネシア人ロームシャでまずは試してみようと考えたものと思われますが、このような重大な事態になるとは予想していなかったものと思われます。 

防疫研究所はこの大失態の責任を逃れるために、憲兵隊と共同画策して大嘘をつくことを考え出しました。それは、エイクマン研究所・所長のアクマド・モクター教授が、日本軍占領支配に打撃を与えるために、破傷風菌毒素でワクチンを汚染し、ロームシャを大量殺戮して日本軍の信用を崩壊させる目的で行った破壊工作であったということにしてしまうというものでした。エイクマン研究所にも医学校にも破傷風菌毒素などは保管されておらず、そのような破壊工作はどう考えても不可能でした。しかし、憲兵隊は10月初旬にモクター教授をはじめエイクマン研究所や医学校のインドネシア人スタッフ19名を逮捕し、やってもいない犯罪を白状するよう、様々な拷問を彼らに加えました。間もなく、そのうちの1名が拷問の結果なくなりました。モクター教授は同僚の命を救うために、憲兵隊が用意した全く虚偽の告白状に署名し、自分一人で行った犯罪であると主張したのです。その結果、同僚たちは全員釈放されました。もしかすると、そのような交換条件がモクター教授と憲兵隊の間で取り交わされた可能性もあります。 

しかし、不思議なことにその後もモクター教授は監禁され続け、ようやく翌1945年の73日になって処刑されています。もはや日本の敗戦が明白となった1ヶ月少々前になって処刑が行われた理由は、敗戦になり、連合軍が日本軍の戦争犯罪行為を調べ出して、このでっち上げ事件が明らかになることを日本軍が恐れたためではないかということです。つまり、「主犯」である人物を処刑してしまい、この事件は解決済みということにしてしまったわけです。日本軍の思惑通り、この「モクター事件」は、連合軍による日本軍戦争犯罪調査には全く含まれませんでした。熱帯病に関する相当の医学的知識をそなえた検察官でないと、当時はこの事件の真相について疑いをもつことはできなかったと思われます。 

この本の共著者であるケビン・ベアードとサコット・マズキは、モクター教授がワクチンを破傷風菌毒素で汚染することが不可能であったこと、ロームシャに注射したワクチンを生産した防疫研究所による全くの準備不足による結果以外に死亡事件が起きるはずがなかったことを、医学的分析を駆使して裏付け、さらには関連生存者がのこした様々な回想記や、今も存命中のただ一人の関係者への聴き取り調査などでその裏付けを補足するという方法をとっています。

私のように、医学に無知な単なる歴史家ではとうてい果たせない実証方法です。なぜこのような重大事件がこれまで歴史家によって明らかにされてこなかったのでしょうか。それは、この戦争犯罪ケースの分析には、通常の歴史家が持ち合わせていない、医学的分析力が欠かせなかったからに他ならないと思います。ケビン・ベアードとサコット・マズキという熱帯病専門家の知識と、モクター教授ならびにエイクマン研究所の名誉挽回への彼らの強い熱望があったからこそ、「モクター事件」の真相がようやく明らかにされたのです。 

処刑されたモクター教授には妻と2人の息子がいました。息子の一人はオランダに渡り父親同様に医者になっており、オランダ人女性と結婚しています。彼らの悔しさ、苦しみはいかほどのものであったろうかと想像せずにはいられません。この著書が世に出ることで、戦後70年目にしてようやくモクター家の名誉が回復されます。どう少なく見積もっても数十万というインドネシアの若者たちがロームシャとして故郷を遠く離れた場所で重労働に喘ぎながら亡くなっていきました。息子や夫、父親を強制労働で失った多くのインドネシアの人たちの悲しみと、一家の働き手を失ったその後の生活苦難はいかほどであったろうかと考えずにはいられません。 

このメールが、現在のあまりにも独善的な日本の一方的戦争被害観に対して疑問を投げかける一機会となれば幸いです。 

最後まで読んでいただきありがとうございました。
 


メルボルン(オーストラリア)にて

Friday, August 15, 2014

核兵器、原発、戦争責任 ~沼田鈴子さんの目で見る放射能被害と戦争の非人道性~(田中利幸 講演ノート)

8月15日、日本降伏の日です。田中利幸氏(広島市立大平和研究所教授)による中高生から大学生向けの講演ノート(8月7日に広島で開かれた日本YWCA主催「ひろしまを考える旅2014」での基調講演)を投稿いただき、この日に紹介できる意義深さをかみしめています。期せずしてこのブログ運営者も今マレーシアで日本による戦争被害を学ぶ旅に参加していることに偶然とはいえないものを感じます。@ペナン島にて


核兵器、原発、戦争責任
~沼田鈴子さんの目で見る放射能被害と戦争の非人道性~

講演ノート

田中利幸


1) 広島・長崎の被爆者証言の力強さと弱さ

1945年8月6日と9日の広島と長崎への原爆投下による死亡者は、その年末までに23万人(内4万人は韓国・朝鮮人)にのぼりました。その後も、この69年の間、多くの被爆者が主として放射能被曝によって発病した白血病や様々な癌が原因で亡くなっていきました。これまで長年の間、多くの被爆者が、原爆によるむごたらしい無差別大量殺傷を生き延びた自分の体験を詳しく証言することで、核兵器の恐ろしさを国内外に訴えてきました。核兵器のそのような恐ろしさについて世界に向けて警告を発してきたという点で、(「かたりべ」と呼ばれる)被爆者の人たちの貢献はひじょうに重要かつ貴重です。

しかし、その一方で、被爆者のほとんどが、自分たちのきわめて特異な戦争被害体験だけを強調する一方で、他の戦争被害者、例えば通常爆弾や焼夷弾、枯れ葉剤の被害者やその他の方法による大量虐殺(例えば南京虐殺)の被害者と自分たちとの共通点には、ほとんど目を向けてこなかったという弱点があります。とくにアジア太平洋戦争中(1931-45年)に日本軍が犯した様々な残虐行為=戦争犯罪の被害者に目を向けてこなかったため、中国、韓国・北朝鮮をはじめアジア各国の人たちから被爆者が同情を受けることはほとんどありません。つまり、自分たちの被害だけを一方的に発信する一方、日本が犯した様々な残虐行為で犠牲になった人たちへの日本の加害責任の問題を被爆者は避けてきました。

同時に、被爆者の人たちの大部分が、2011年3月の福島原発事故が起きるまで、核兵器と原発は別のものであり、原発は「原子力の平和利用」であると肯定的にとらえ、アメリカのスリーマイル原発事故(1979年)やロシアのチェルノブイリ原発事故(1986年)で放射能被曝した数多くの人たちに対しても、ほとんど目を向けてきませんでした。


2) 沼田鈴子さんの証言・平和活動の卓越性

そのような被爆者の中で、ひじょうにユニークな証言・平和活動を積極的にされたのが、広島の被爆者、沼田鈴子さん(1923-2011年)でした。原爆によるすさまじい爆風で吹き飛ばされ、その結果、左足切断を余儀なくされた沼田鈴子さんは、単に自分の被爆体験を語るだけではなく、国内外の様々な戦争被害者、とりわけ日本軍が犯した戦争犯罪の被害者とも直接会い、その人たちとの交流を通して反戦平和活動を力強くすすめました。また、チェルノブイリ原発事故が起きてからは、原発事故と核兵器の両方による放射能汚染の恐ろしさの共通点についても注目し、原発廃止の声もあげるようになりました。さらに、沼田さんは、被爆を生き延びた樹木である青桐に、「痛みの共有」、「命の再生」と「希望の創造」というメッセージを託し、被爆青桐の種を日本国内だけではなく世界各地に拡散させ、青桐を繁らせることで、年齢、性別、人種を問わず、多くの人に感動を与え続けました。

沼田さんは、自分の証言活動を通して多くの人と出会い、「痛み」を分かち合うことで感動し合い、そこに新しい人間関係を発見し、その新しい人間関係から希望のある行動を共に出発させることで、世界の多くの人々と親交を深めました。沼田さん自身がしばしば述べたように、「出会い - 感動 - 発見 - 出発」が、沼田さんのモットーの一つでした。

しかし、沼田さんの証言・平和活動が、最初からこのような人間的深みと広がりをもっていたわけではありません。


3) 戦前・戦中の沼田さん

沼田さんは1923年に大阪で生まれましたが、彼女が5歳のときに、父親の仕事の関係で一家が広島に移ることになりました。小学校2年生のときに満州事変(1931年9月18日に日本軍が起こした鉄道爆破事件:ここから15年にわたるアジア太平洋戦争が始まった)が起きました。小中学校時代の彼女は、戦争には全く無関心でした。1936年に広島市内の安田高等女学校に入学。翌年の1937年7月7日、盧溝橋事件が起きて日本は中国と全面戦争に突入しました。

1937年8月、日本軍は南京をはじめに中国各都市に爆撃を開始しました。とくに重慶は、中国国民党政府・市民の戦意喪失をねらって日本軍が行った最大の無差別爆撃の攻撃目標となりました。1939-41年に3次にわたっておこなわれた重慶無差別爆撃の犠牲者は、死者1万9千人、負傷者1万4千人にのぼっています。

1937年12月には南京に侵入した日本軍が、推定20万人という数の中国市民の大虐殺を行いました。しかし、この大虐殺については何も知らされなかった当時の日本人は誰もが大喜びしました。「南京城陥落」を祝う提灯行列が日本各地で行われ、広島での行列には沼田さんも参加しました。
1939年7月からは、沼田さんたち女学生は勤労奉仕にかりだされ、広島の兵器製造工場で、大砲の弾丸(直径30センチ、長さ70センチ)を磨いてサビを落とす作業をさせられました。このとき沼田さんは、「お国のために役立っているのだわ、私たちが一生懸命に磨いた、この大砲を日本の軍隊が使って、敵を一人でも多く殺せば、日本は戦争に勝つのだから、心をこめて磨かなければいけない、しっかり磨いて、早く戦場に送り届けたい」と思ったそうです。つまり、「筋金入りの軍国少女」になっていたとのこと。

沼田さんは1940年に安田高等女学校を卒業し、しばらく家業を手伝ってから、広島逓信局に就職しました。1943年秋に島根県松江市に住む男性と婚約しましたが、間もなく婚約者には召集令状がきて軍隊に入隊。翌年3月に、彼は広島の宇品港から東南アジアの戦地に向けて出征。港まで見送りにいった沼田さんは、「死なないで帰ってきて下さい。軍人として手柄をたてて下さい」と心の中で叫んだそうです。

1945年8月6日の朝、いつも通り広島逓信局(爆心地から1.3km)に出勤した沼田さんは、原爆で崩れたコンンクリートの下敷きとなり、一命をとりとめましたが、左足に大けがを負い、8月10日に左足を麻酔薬もなく切断することを余儀なくされました。数日後には、婚約者も、乗船していた船が攻撃を受けて沈没し亡くなっていたことを知らされました。


4)証言活動を始める以前の沼田さん

沼田さんは、婚約者が戦死したことも重なって、被爆後しばらくは精神的打撃から立ち直ることができず、自暴自棄になり、自殺を何度も考えたこともありました。しかし、ご両親や妹さんの愛情に支えられながら、1947年9月には教員となることをめざして再び立ち上がりました。にもかかわらず、学生の間も、教員となってからも、身体障害者と被爆者に対する二重の差別に苦しめられるという苦い経験から、被爆者であることを隠し続ける生活を、その後長年続けました。

1957年には、沼田さんにプロポーズした同僚の男性教師が、彼の親が被爆者との結婚には猛烈に反対したため、自ら命を絶つという悲惨な出来事が起きました。そのため、沼田さんは「もう再び人を愛することはすまい」と決意します。屈辱的体験に対する感情的反応を心理的に閉め出してしまうというこのような心理現象は、被爆者だけではなく、他の戦争犠牲者にも多く見られるものです。しかし、こうした「感情的反応の心理的閉め出し」は心理的な自己抑圧をもたらし、人間関係を断ち切るだけであって、人間関係の修復・再構築という点ではなんらの解決策も産み出しはしません。その結果は、徐々に自己の「人間性喪失」をもたらすことになります。

しかしながら、沼田さんの場合には、ご自身が身体障害者であるということから、自分の仕事との関連で障害者支援という活動に従事したことが、「他者の痛み」への配慮という温かい人間性を育み続け、自己の「人間性回復」へと繋がっていったのではないかと考えられます。さらには、病に倒れた母親の介護のために1979年3月に教職を退いた後も、原爆特別養護老人ホームでのボランティア活動を通して、「人間関係構築」をはかりました。そうした「人間性回復」の蓄積が、1983年に本格的な証言活動を開始した後で大きく開花することになります。つまり、身体障害者であるというハンディキャップが、彼女の人間性を豊かにするという、逆説的な結果につながったのです。

被爆者に対する差別と偏見が理由で被爆体験を語らない、あるいは「あの悲惨な出来事は言葉で表現できるようなものではない、それゆえ、語ることは嘘をつくことにもなり、死者を冒涜する」と考え、沈黙を続ける被爆者が今なお多くおられます。しかし、長く沈黙を守ってきた被爆者が、ある日突然、証言活動に乗り出すというケースも多々見られます。その動機は被爆者それぞれによって異なるでしょうが、沼田さんも、そうしたケースのお一人でした。


5)証言活動の開始と初期の証言内容

沼田さんの場合は、1981年5月、10フィート運動によって入手可能となったフィルムを、映画『人間をかえせ』として制作するために、編集段階で見せられたことがきっかけとなりました。沼田さんは、1946年3月にアメリカ戦略爆撃調査団が撮影した、切断された痛々しい左足をさらけ出した35年前の自分の映像と対面させられました。その公開承諾を初めは躊躇したものの、被爆者で当時すでに「かたりべ」であった坂本文子さんと出会い、彼女の「私もあなたも生かされている」という言葉に勇気づけられ、証言活動を始めることになりました。このとき沼田さんは、すでに57歳になっていました。

35年前の自分との対面で、沼田さんの心理にはどのような変化が起きたのでしょうか。カメラに向かって虚ろな目を向けている35年前の自分に、沼田さんは精神的には「死んでいる自分」を見たのではないでしょうか。徐々に人間性を回復してきて今ここに生きている自分が、「死んでいる過去の自分」と対面させられることによって、それとは極めて対象的な、自己の生命力のその活力と大切さをあらためて再認識させられるという、「命の再生」という思想的体験を沼田さんはしたのではないでしょうか。その貴重な体験が沼田さんを動かしたのではないでしょうか。沼田さんの87年にわたる人生の中では、後で述べる被爆青桐だけではなく、他にも様々な要素が沼田さんを動かしていきました。

証言活動を開始したからといって、すぐに沼田さんが被爆青桐の話を自分の証言の中で紹介しはじめたわけではありません。1982-83年、映画『人間をかえせ』の海外上映隊に参加してヨーロッパ、カナダ、アメリカを訪問し、各地で証言を行いましたが、ご自分も認めていたように、その証言は原稿に書かれた形式的な文章を読み上げ、通り一遍の核兵器廃絶を訴えるだけのもので、聴き手に感動を与えるような内容のようなものではなかったのです。

沼田さんが本格的な証言活動を開始したのは、『人間をかえせ』上映旅行から帰国した1983年からです。証言活動のこの初期の段階で、沼田さんがどのような内容の証言をしていたのか、その詳細は明確ではありません。しかし、これまたご本人が述べられているように、自分と逓信局の職場の同僚たちが体験したすさまじく残酷な被爆状況を、涙を流しながら語るということに終始した証言だったのです。そのため、彼女の証言を聴いた子供たちの感想文は「かわいそうだ」というものが大半であったということです。したがって、沼田さんは、このような証言では、子供たちに被爆者の苦しみの実情と核兵器廃絶の重要性を知ってもらうことはできないと反省し、もっと冷静に事実を知ってもらえるような証言作成に努力したと述べています。

これより4年後の1987年における沼田さんのビデオ・テープ証言記録が、広島市平和記念資料館に所蔵されています。逓信局ビル跡地に残されている、正面玄関にあった階段を背景に、30分ほどの証言ですが、極めて冷静に、しかし詳細にわたり被爆当時の惨状を説明しています。1年半の間に4回も手術を受けなければならなかった自分の足の状態、瀕死の状態で隣に横たわっていた人の吹き飛んだ右腕の肉を大きなウジ虫が喰っている恐ろしい状況や、妹さんが乳癌を患い、甲状腺癌の疑いもあることなど、原爆投下による犠牲者の苦悩、苦闘にのみ焦点が当てられた証言内容です。その証言は、「今日は他人の身、明日は我が身」という言葉を引いて、いつあなたも核兵器の被害者になるかもしれないと示唆し、したがって現在の繁栄に甘えることなく、いつでも平和が続くということを信じてはならないという警告で終わっています。

つまり、この段階での証言は、徹底した被害者意識にのみ基づいた内容で、私たちが現在知っている「他者の痛みへの配慮」、「命の再生」、「希望の創造」といったものとは格段の差があります。被爆青桐の話は全く出てきません。このように、1987年の段階においても未だ、証言内容が一貫して「被害描写」に集中していたことは否めないように思えます。ただし、「私たち被爆者は、事実を知るためにもっと勉強して、<見える者>になりたい」という、沼田さんらしい発言が結論部分で述べられています。「事実を求める知恵が平和をつくる大きな力になる」という、その後の沼田さんのモットーとなった信念は、すでにこの段階で形成されつつあったことが分かります。


6)沼田さんの思想に最初から根づいていた「痛みの共有」

1983年の段階に話を戻しましょう。子供たちの「かわいそうだ」という感想文からの反省を踏まえ、感情を抑え、なるべく冷静に話すという手法はとられても、おそらく、引き続き自分の被爆状況と被爆者の苦しみに焦点をおいた証言内容に、基本的には変化がなかったものと推測されます。だからといって、聴き手の子供たちの心を動かさなかったとは決して言えません。

1983年11月に、大阪府立西成高校2年生220名の一行が修学旅行で広島にやってきました。在校生のほぼ4分の1が被差別部落出身、在日韓国人・朝鮮人、崩壊家庭、貧困家庭といった背景をもつ生徒たちで、彼らに対する根深い差別意識のために、学校は低学力、非行、校内暴力で荒廃していました。集まった15名の被爆者たちが、精神的に荒れたこれらの生徒たちに証言を聴かせることになりました。その15名の中に沼田さんも加わっていました。小グループに分けられた生徒たちが各被爆者から被爆体験を聴き、原爆で家族を失った悲しみや、差別や病気の苦しみを乗り越えて生きているという証言に、自分たちがおかれている境遇との共通点を発見し、深く心を動かされました。この修学旅行の後、西成高校に大きな変化が見られるようになりました。それは、生徒たちと被爆者の間に「痛みの共有」という現象が起きた結果だったのです。

被爆者に「痛みの共有」を見いだした生徒たちの一部が中心となり、様々な困難を克服して、翌年の8月に50名ほどのグループで再び広島を訪れ被爆者と再会しました。生徒たちは、このとき原爆病院に入院を余儀なくされていた沼田さんを見舞います。沼田さんは、生徒たちの中に両親を亡くし苦学している男子学生を見つけ、自分の長い闘病記録が記されている期限切れとなった原爆手帳を彼に手渡し、次のように呼びかけました。「これ、あなたにあげるから、私の原爆手帳。どんな苦しいことがあっても、私がこんなに頑張ったんだから。苦しいときはこれを見て、あなたも頑張らなくちゃ駄目よ。あなた親がいないと言ったでしょう。だけど、親がいなくたって、広島の被爆者の人が見守ってあげているからね。勇気を持って、頑張ってね。」彼は、沼田さんの手をしっかり握りしめ泣きました。感動を呼び起こす、「痛みの共有」の象徴的な場面です。沼田さんは、若者たちとの「痛みの共有」を通して、自分自身が強く勇気づけられたと明言しています。

したがって、証言活動を始めたばかりのこの時期の沼田さんの証言内容がいかなるものであったにせよ、沼田さん自身の人格の中に「他者の痛み」への深い配慮と、「痛みの共有」への強い願望がしっかりと根づいていたことが分かります。すでに述べたように、それは、沼田さん自身が身体障害者であり、障害者支援活動によっても培われてきた彼女の人間性によるものでした。しかし、この「他者の痛み」が強烈な形で証言内容に反映されるようになるまでには、後述しますように、もっと多くの「出会い」を経る必要がありました。

1984年12月23日に、沼田さんは日本キリスト教団府中教会にて洗礼を受け、キリスト教者となっています。沼田さん自身は、自分の宗教信仰については、公的な場所ではほとんど述べていません。極めてプライベートなことと考えていたのかもしれません。しかし「洗礼」は、言うまでもなく、キリスト信仰を通して自分が精神的に生まれ変わる、すなわち「自己再生」という意味をもつものであり、このことも沼田さんの後の証言内容の重要な要素の一つである「命の再生」と、思想の上では深く関連しているのかもしれません。

1985年3月には、沼田さんは在韓被爆者実態調査団に加わって初めて韓国を訪問し、韓国人被爆者と交流。1988年8月には「ヒロシマとオキナワを結ぶ市民の会」のメンバーとして沖縄を訪れ、沖縄戦で市民がなめた様々な苦汁について学ぶと同時に、米軍基地の実態についても直に自分の目で見ることになりました。こうして彼女は、徐々に広島以外の戦争被害者と出会い、戦争関連の知識を精力的に吸収しはじめました。しかし、この段階での「出会い」は、同じ原爆被害者としての韓国人、同じ太平洋戦争被害者としての沖縄市民であったことから、「他者の痛み」への配慮は、自国民とその延長である韓国人の戦争被害者仲間としての「他者」に限定されたものでした。


7)沼田さんの思想と活動の飛躍的発展

沼田さんの思想と証言・平和活動を大きく飛躍させる「出会い」は、1988年の終戦記念日8月15日に起きました。この日、「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」が大阪で開いた市民集会で、ここに招かれた5人のマレーシア人の証言を、沼田さんは初めて耳にしました。彼らは、太平洋戦争中に日本軍がマレー半島で犯した大量虐殺で親族を殺され、自分たちもかろうじて生き延びた人たちだったのです。シンガポール・マレー半島での日本軍による大量虐殺の犠牲者は10万人にのぼると言われていますが、彼らは、マレー半島のネグリセンビラン州で抹殺された4千人を超える住民虐殺で親や兄弟姉妹を殺され、自分たちも銃剣で傷つけられた人たちだったのです。しかも、このマレー半島を侵略し虐殺に加わった兵隊たちの一部は、広島に本部が置かれていた第5師団歩兵第11連隊所属の兵員だったのです。このマレーシア人たちとの出会いによって、沼田さんは戦争行為が持つもう一つの局面、すなわち「加害」の局面に直面することになりました。翌年3月下旬から4月上旬にかけて、沼田さんは、美術の先生である吉野誠さん御夫妻と共に、マレーシアに慰霊と証言を聴く旅に出て、さらに詳しく「加害」の状況について学びました。

日本軍の非人道的な残虐行為に対する責任は、戦時中に日本勝利を願って軍需工場での動員作業に汗を流した自分、婚約者の出征の際に「一人でも多くの敵兵を殺して手柄をたて、日本勝利のために頑張って欲しい」と願った自分、その自分の「加害者」としての責任という思いと重なり合い、沼田さんは彼らに謝罪します。そうした謝罪によって、沼田さんのそれまでの限定された「他者の痛み」への配慮が、一挙に深みと広がりをみせ、「いかなる人の人権も尊重する」という普遍的で根本的な原理に裏打ちされた「他者への痛み」への共感として、強く且つ深く彼女の思想の中に根を下ろしたものと考えられます。こうした沼田さんに、マレーシアの被害者たちも沼田さんの原爆被害による「痛み」に対して応えるという、「痛みの共有」という感動的な現象が起きました。

沼田さんは、1990年、91年には南京虐殺の犠牲者や重慶爆撃の犠牲者とも出会い、日本軍戦争犯罪行為の責任を認め、謝罪することによって、中国人被害者との「痛みの共有」にも成功しています。重慶は広島市と姉妹都市関係にありますが、広島の被爆者の中で、これまで日本軍の重慶爆撃について謝罪した人は、おそらく沼田さん一人だと思われます。

戦争が起きると、常に必ずといってよいほど「敵の顔」は非人間化されます。そのため生きた諸個人=普通の市民、つまりわたしたちと同じ市民である人間の顔も非人間化され、人間性が剥奪されてしまいます。他者を非人間化することを避け、戦争やテロ、暴力を防止するためには、私たち一人一人が、そうした暴力行為の被害者の立場に立ち、被害者の目線で暴力を見つめ直してみることが必要です。自分の国が犯した残虐行為の犠牲者であろうと、他国が自分たちに犯した非人道的行為の被害者であろうと、常に被害者の目線で見るということは、顔の見える具体的な被害者の「個人の物語」に耳を傾け、その人の「痛み」=精神的苦痛を自分が追体験し、内在化する、つまり自己の感性として自分の記憶の中にしっかりと根づかせるということです。沼田さんは、自分が出会った一人一人の戦争被害者の話にしっかり耳を傾け、その人の「痛み」を自己内在化することに努力し続けました。そのことによって、他者もまた、沼田さんの「痛み」を自分のものとする内在化で応えてくれました。そこから互いに「生きる希望」が創り出されたのです。


8)沼田さんが被爆青桐に託したメッセージ

こうした努力の結果、1990年代初期頃から沼田さんの証言内容に変化が表れたように思われます。自分の被爆者としての痛みについての言及は必要最低限な情報提供におさえ、むしろ、その「痛み」と「苦しみ」から自分が学びとったもの、すなわち「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった点に重点を置くようになったのです。それらを表す象徴として、被爆青桐の話が沼田さんの証言に使われるようになったわけです。被爆しても奇跡的に生き延びた青桐の木は、沼田さんが被爆した広島逓信局の敷地内にあった(現在は平和公園内に移植されている)ものでした。生前、しばしば沼田さんが子供たちに語った、この被爆青桐の話を引用しておきましょう。

「おばちゃんはね、何度も自殺を考えたことがあるのよ。夢も希望もあったのに、原爆で何もかもなくなったのですからね。良いお嫁さんになりたかった。子供を産んで立派なお母さんにもなりたかった。でも婚約者は戦争で亡くなり、おばちゃんは原爆で片足を切り落としました。若い娘でしたから。もう死を選ぶしかないと思ったの。そのときね、このアオギリに出会ってね。よく見ると、傷ついた幹からちょうど細い枝が出ていて、そこに小さな葉をつけていたのです。じっと見つめていると、アオギリがね、私にこう言ったように思うのです。あなたは生かされたのですよ、それなのに、なぜ死ぬことばかり考えるのですか、だめじゃないの - 。このときおばちゃんはね、ああ、仲間のアオギリは懸命に生きようとしているんだ、私も懸命に生きなくちゃいけない、こうはっきり決意したのです。だからおばちゃんは、アオギリから生きる勇気を教えられたのよ。」

おそらくは、1990年以前は、被爆青桐は、沼田さんの記憶の中ではそれほど鮮明に残っていなかった可能性があります。しかし、「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった要素が沼田さんの思考の中で重要性を増すにつれて、被爆青桐の記憶はこれらの要素と連結し、その意義を強調するような形で、記憶自体が沼田さんの中で鮮明にされ、高められ、説話化されていった可能性があります。

原爆によるすさまじい爆風で吹き飛ばされ、その結果、左足切断を余儀なくされた沼田さんの平和活動家としての見事な「再生」と、彼女が被爆した同じ場所で、激しく傷つきながらも新緑の芽を出し「再生」した青桐。しかも被爆を生き延びたその青桐が、原爆により精神を深く傷つけられ「死の呪縛」にとらわれていた沼田さんに、その呪縛から自己を解き放つ力を与え、生きることの希望を与えた青桐。「命の再生」と「希望の創造」を、自然と人間との相互関係として象徴的に表現する沼田さんの証言は、年齢性別を問わず、私たち聴く者全ての心を深く感動させました。沼田さんと青桐の相互関係は、しかし、傷ついた両者が互いに痛みを分かち合う人間関係の象徴性を内包しているからこそ、私たちの心をかくも強く震わせるのです。被爆青桐の「痛み」を語る沼田さんは、他者の「痛み」への優しい配慮を、青桐に疑似化して語っていたわけです。沼田さんは、「相手の痛みの分かる心を持つこと」に平和の原点の一つを求めましたが、青桐はその象徴的シンボルだったのです。青桐の繁殖は、「痛みの分かる心」の繁殖をめざしています。

いずれにせよ、沼田さんが被爆青桐に、私たちの誰にとっても重要な「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」という象徴性を持たせたことは、広島から世界に向けての「平和のメッセージ」発信という意味で、極めて重要なことです。「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」は、世界に共通する普遍的価値をもつ、私たち人間誰にとっても欠くことのできない要素であり、平和構築と維持にとって不可欠の要素であると私は信じます。それゆえ、これらこそ「ヒロシマの思想」の確立にとっての支柱となるべきものであり、広島市民が被爆体験から学びとり、継承すべき叡智であると考えます。

その意味で、沼田さんの証言・平和活動は、今後の私たち広島市民の反核・反原発・平和運動にとってのモデルを提供しています。新しい人との「出会い - 感動 - 発見 - 出発」を通して、さらには「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」に努力することで、平和の絆は必ず広がっていくはずです。


2014年8月7日 広島市民交流センターにおける講演


― 完 -


講演後の補足

(1)
被爆者の平均年齢が80歳に迫り、被爆者数も急激に減少しつつあるところから、最近、「被爆体験の継承」ということが盛んに広島では議論されている。そうした「継承」運動の広島市の主たる取組みは、被爆証言者=語り部の証言内容を、戦後生まれの非被爆者ボランティアがノートに書取り記憶し、語り部が亡くなった後は、語り部に代わって証言を行うという役割を担う、そのような人間を育成するというものである。これは「継承」ではなく単なる「伝承」である。「伝承」は限られた人間の間でほそぼそと伝えつがれるものであって、「平和メッセージ」のような世界各地の多くの市民を対象としたものではない。「自分の被害」状況だけを一方的に語る内容の「伝承」であるならば、それは「共感」をよぶことは難しく、遅かれ早かれ消滅していく。真の「継承」、すなわち「語り」の内容が多くの市民の共感をよび、長年にわたってそれが人々の心を震わせ感動し続けるためには、「語り」の内容が普遍的要素を強く具えていなければならない。つまり、「普遍的要素」がなければ、そのメッセージが拡散し永続化することは極めて難しい。したがって、「被爆体験の継承」には、沼田鈴子の証言活動に深く根づいていた「痛みの共有」、「命の再生」、「希望の創造」といった「普遍的要素」が欠かせない。沼田鈴子の証言・平和活動に、今後の私たち広島市民の反核・反原発・平和運動にとっての一つのモデルを見ると私が主張するのは、そのような理由からである。

(2)
最近、沼田鈴子をモデルにした劇映画『青桐にたくして』(http://aogiri-movie.net/)
が広島でも上映された。映画制作計画段階から支援を依頼されていた私は、完成する映画内容に大きな期待をよせていた。ところが、できあがった映画を観て私はたいへん失望した。はっきり言うが、この映画は全くの愚作である。映画では、主役である「田中節子」なる人物(すなわち「沼田鈴子」のモデル人物)の心身両面にわたる個人的な「痛み」のみが強調され、沼田が常に大切にしていた「痛みの共有」、「希望の創造」、とくに日本軍の戦争犯罪の犠牲者との「痛みの共有」、その「痛みの共有」から産まれる「希望の創造」は全く無視されて話題にもなっていない。文字通りの単なる「お涙ちょうだい」映画である。この映画は、沼田鈴子の思想と活動をいたく歪曲し萎縮させている愚作である。

関連推薦図書

広岩近広著『被爆アオギリと生きる 語り部・沼田鈴子の伝言』(岩波ジュニア新書 2013年)

斎藤貴男・沼田鈴子・広岩近広共著『あなたは戦争で死ねますか』(日本放送協会 2007年)

横山秀夫著『平和の芽』(講談社 1995年)

川良浩和・山田真理子共著『ヒロシマ花一輪物語―被爆者・沼田鈴子の終わりなき青春』(径書 1994年)

広岩近広著『青桐の下で ― 「ヒロシマの語り部」沼田鈴子ものがたり』(明石書房 1993年)

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