To view articles in English only, click HERE. 日本語投稿のみを表示するにはここをクリック。点击此处观看中文稿件한국어 투고 Follow Twitter ツイッターは@PeacePhilosophy and Facebook ★投稿内に断り書きがない限り、当サイトの記事の転載は許可が必要です。peacephilosophycentre@gmail.com にメールをください。Re-posting from this blog requires permission unless otherwise specified. Please email peacephilosophycentre@gmail.com to contact us.

Friday, September 11, 2020

福山市の医療機関でYさんが受けた差別に対する医師の再謝罪文は「差別」を完全にスルーした

福山市HPの「人権」ページ。(9月12日にアクセス)

この投稿は、以下の投稿の続報です。まだの人は以下を読んでください。

7月29日 福山市が市民に提供する無料風疹抗体検査を受けた福山市民のYさんが担当医師から受けた差別

8月6日 福山市の無料風疹抗体検査で医師から差別を受けたYさんからの経過報告

8月25日 福山市の医療機関で差別を受けたYさんに対する医師の「謝罪」と市の対応についてYさんからの報告

上の8月25日の投稿と、7人の人たちのコメントを読めば、最初の医師からのYさんへの謝罪文と、それに対する市役所の「人権」担当者の対応は、二次加害に等しいことは明白であろう。それを受けた医師は、さらなる謝罪文を、今度は封書で市に託してきた。Yさんが市から受け取ったのは9月5日である。Yさんは医師が今度こそ率直に差別したことを認め、誠実に謝罪するのかと思ったら、期待は裏切られた。プライバシーを確保した上でその二度目の「謝罪文」をここに紹介する。


(名前)様へ

 9月2日に福山市職員の方がおいでになり、8月19日にYさんにお渡しした手紙に対するYさんのお気持ちを詳しく伺いました。それを聞いて、私の手紙は対応の説明に終始しており、Yさんのお気持ちに沿っていなかったことに気づき、深く反省している次第です。誠に申し訳ありませんでした。

 改めて、自らの言動を振り返ってみて、私の認識の甘さ、発言の重大さを理解し、自責の念に駆られております。さらに、そのことがYさんの心を傷つけ、Yさんを苦しめてしまったことを心より申し訳なく思っております。

 今後は同じ過ちを二度と起こすことのないように、正しい認識を持って、より一層、患者さんの気持ちに寄り添った診療を行ってゆきますので、どうぞご容赦下さいますようお願い申し上げます。

2020年9月2日

(医療機関名と医師の署名)

以下がこの手紙に対するYさんの所感である。

 前回のメールを受けた後、市職員には、医師には以下のように伝えて欲しいと言った。「謝罪は受け入れられない。謝罪の気持ちの大きさは問題ではない。受け入れられなかった理由を知りたければブログを見てほしい。その上で、過ちに気づいたら、謝罪を受け入れる用意がある」と。

 その後もらった今回の手紙には、「対応の説明に終始」していること、私を傷つけてしまったことへの謝罪が記されている。頑として差別をしたことを認めないのに、あくまで傷つけたことへの謝罪を繰り返したり、「ご容赦ください」と言うのは、私を責めているようにさえ感じる。率直に言うと、加害者の被害者化ではないか。

Yさんの「頑として差別をしたことを認めない」という言葉に、この医師の再謝罪文の問題の根本がある。

私も、この手紙を見せてもらっての最初の感想は、「差別を完全にスルーしている」ということだ。自分の対応が「Yさんの気持ちに沿っていなかった」、「Yさんの心を傷つけた」、「Yさんを苦しめてしまった」と、個人間の感情に問題を還元し、これが客観的な差別であったということを否定しているのである。これは、差別だけでなく、セクハラ、パワハラ、DVの加害者が取る常とう手段でもある。ハラスメントや暴力を振るったということに目をつぶり、「自分があなたを傷つけてしまったのでそのことに謝る」と言うことでハラスメントや暴力を結果的に否定するのである。一見、平謝りに謝っているように見えるから周囲にも「この人はこんなに謝っているんだから」という印象を与えてしまうかもしれない。そうなると「こんなに謝っているのに許してくれない」と、被害者に矛先が向いてしまいかねない。実際この医師自身がそのように思っている可能性がある。Yさんが上で「加害者の被害者化」と言っているのはこの点だ。どんなに謝ったって、自分が犯した過ちが何なのかを言うことができず、それを言わないことによって否定しているのではその謝罪に何の意味もない。

私がこの医師に聞くとしたら、今後は起こさないとしている「同じ過ち」とは何なのか、「正しい認識」とは何を指すのかを聞きたい。もし差別を認めているのなら、「同じ過ち」というのは差別のことである。「正しい認識」というのは「差別をしない」認識のことである。しかしこの医師の文面からは、「同じ過ちをしない」とは患者の「心」に「沿わ」ず、「傷つけ」、「苦しめて」しまわないことであり、「正しい認識」とは、「患者の気持ちに寄り添った診療」ということなのだろう。この医師はすでに自分が普段から患者に「寄り添って」いるという自負があるから、「より一層」という但し書きまでつけている。「こんなに寄り添おうとしている自分が、それでも気持ちに沿いきれずに傷つけてしまったので、より一層患者の気持ちに寄り添う」と言っているのである。はっきり言って、キモイ。「心」とか「気持ち」の次元に踏み込むことによってこの医師はYさんの内面に不必要に入り込んでいるとも思う。だからキモイのだ。

この医師さんに言いたいが、差別をしたことを認めさえすれば、謝罪は一回でいいし、「気持ち」とか「心」とか、「苦しめてしまった」とか、キモイことを言う必要はないのである。「心」とか「気持ち」とか、そういう次元ではなく、ただ普通に、フェアに、差別せずに、他の人と同じように扱えばいいだけの話なのである。

差別したことを認めてください。そうでなければあなたはまた差別をやります。差別を否定すること自体が差別なのです。それでは再発防止にはなりません。今後、あなたの医療機関にも、他の医療機関にも、福山市に対しても、ひいては日本社会全体に対しても、これがいい教訓になるように、差別したことを認めて、この問題に一つの区切りをつけてください。

乗松聡子(@PeacePhilosophy) 

Tuesday, September 08, 2020

「自分のところにも母親があんな風に出てきてくれるといいんだけれどね」- 被爆者 岩佐幹三さんを偲ぶ Remembering IWASA Mikiso, a Hiroshima Hibakusha (1929-2020)

 2006年バンクーバーで開催された「世界平和フォーラム」に日本被団協の派遣団で来ていた被爆者のおひとり、岩佐幹三さんが亡くなったとの報せを聞いて大変ショックな気持ちでいる。

私は地元の「バンクーバー9条の会」の一員として、このとき、もう一人の被爆者の三宅信雄さんの証言の通訳と、井上ひさしの劇『父と暮せば』の朗読上演を行った。

そのとき、岩佐さんは他の被爆者のみなさんと一緒に客席で観ていてくれていた。私は、この劇で描かれている被爆者と、岩佐さんが、似た体験をしていることを知っていたため大変緊張したことを覚えている。

2011年に私が翻訳で参加した本、木村朗、ピーター・カズニック著『広島・長崎への原爆投下再考 日米の視点』(法律文化社)に寄せたコラムでこのときのことを書いた。

2006年にバンクーバーで世界平和フォーラムが開催されたとき、私はバンクーバー九条の会の一員として、故・井上ひさしの原爆劇『父と暮せば』英語版の朗読上演をした。爆風で倒壊した家の下敷きになった父親を助けることができずに、猛火が迫る中父親を置いて逃げるしかなかった若い女性の元に、死んだ父親が現れて、娘を励ますという設定の劇である。「あんときおまいは泣き泣きこようにいうとったではなーか。『むごいのう、ひどいのう、なひてこがあして別れなきゃいけんのかいのう』…。」少年だった岩佐さんも、同じようにお母さんを置いて逃げなければいけなかった。そんな岩佐さんをこの劇の客席に迎えたということは忘れられない体験となった。その後岩佐さんは、「自分のところにも母親があんな風に出てきてくれるといいんだけれどね」と微笑みながら語ってくれた。「こよな別れが末代まで二度とあっちゃいけん…あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされとるんじゃ。」この劇の父の言葉のような思いで、岩佐さんをはじめ被爆者たちは生きてきたのだろう。

2010年5月の核不拡散条約再検討会議のときも、岩佐さんは被団協の派遣団の一人として、炎天下の中で行進を行っていた。ニューヨークの同時多発テロ事件(911)の被害者家族とともに開催した証言会でも岩佐さんはご登壇、私は通訳を務めた。

2006年の平和フォーラムのときの派遣団のうち、岩佐幹三さん、三宅信雄さん、大野禮子さん、寺沢茂さんとは、夏の広島・長崎の日米学生の旅が終わった後には毎年のように、被団協の事務局の欠塚さんの手配で、集まって食事を共にした。

写真は、2011年の8月11日に集まったときのもの。場所は覚えていないが、被団協の事務局のある大門の近くだったと思う。

左から、大野さん、私、寺沢さん、岩佐さん、三宅さん

(寺沢さんとお会いしたのはこの時が最後となってしまった。この一年後、2012年8月31日に85歳で亡くなられた。)


ちょっとお酒が回ってきて話も弾む。

帰り途、お互いによりかかるようないい気持ちで駅に向かう。
左から、三宅さん、岩佐さん、寺沢さん。

地下鉄のホームで、岩佐さんと、三宅さん

私の知る岩佐さんは、いつもにこにこされている温厚な方であったが、核兵器廃絶には非常に厳しい姿勢で取り組んでおられた。2016年5月にオバマ大統領が広島に来たときは日本被団協代表委員の一人として列席した一人であった(オバマ大統領との直接の交流は許されなかった)。ここ数年は体が弱られて、お電話で話すことしかできなかった。


岩佐さん、やっとお母様に、会えましたね、きっと。どうか安らかにお眠りください。


★ ★ ★

2010年、ニューヨークにおける核不拡散条約再検討会議のときの岩佐さんの証言を、ここに紹介します。


核兵器も戦争もない平和な未来を

-日本の原爆被爆者を代表して-

                                                 岩佐幹三

千葉県船橋市 

  2010NPT再検討会議の成功をめざして参集された皆さん、また、核兵器、核戦争の脅威から解き放たれることを心から願っている皆さん、核兵器の一日も早い廃絶のために力をあわせましょう。そのために日本から被爆者を代表して参加した一員として、私の被爆体験と願いを訴えます。

  1945年8月6日と9日に広島と長崎に投下された原子爆弾は、爆風、熱線、放射線を総合した巨大な破壊的エネルギ-によって、一瞬のうちに両市を瓦礫の街に変え、市民たちを地獄の劫火と放射能の渦巻く汚染荒野の中に投げ込みました。

  その日16歳の中学生だった私は、動員中の軍需工場が電休日だったので、広島の爆心から近距離1.2kmの自宅の庭にいました。飛行機の爆音が聞こえて間もなく、激しい爆風の衝撃をうけて、地面にたたきつけられました。やわらかい畑地だったので大した傷は負いませんでした。50cm右にいたら庭石にたたきつけられて即死だったでしょう。家の前のバス通りをはさんだ向かいの家の屋根の陰になって、奇跡的にやけども負いませんでした。

  母が倒壊した家の下にいます。あたりの静寂をやぶって「お母さん」と叫びました。すると屋根の下から「ここよ」という声が聞こえてきました。「ああよかった。生きていてくれたんだ」とその瞬間は安堵しました。しかしその喜びも束の間でした。屋根板をはがして逆立ちをするよう顔を突っ込んだ目の前には、家のコンクリ-トの土台の上に大きな柱が重なって、行く手をはばんでいました。わずかな隙間から1mほど先に仰向けに倒れた母の姿が見えました。つむった目のあたりから血が流れていました。「こっちからはもう入れんから、そっちで動けないか」と聞くと、「左の肩の上を押さえている物をどけてくれんと動けんよ」という答えが返ってきました。また別の方から掘り始めましたが、仲々進みません。そのうちに爆風の吹き返しの火事嵐が物凄い勢いでで迫ってきました。火の粉がふりかかってきます。誰も助けてくれる人はなく、少年一人の力ではどうしたらよいかわかりません。気も動転してきました。とうとう「母さん。駄目だよ。火事の火が燃えついてきているよ。何とか動けんのか」と悲鳴をあげました。外にいる私だって何が起こったのかわからないのです。まして家の下敷きになって周りが見えない母は、不安というよりも恐怖心で一杯だったと思います。でも母は、死を覚悟したのか、「そんなら早よう逃げんさい」と言って、自分は「般若心経」(仏教)のお祈りを唱え始めました。私は、その声を聞きながら、生きたまま焼け死ぬ母を見殺しにして逃げたのです。

  その時周りは、すでに火の海でした。私は、家の裏手にあった中学校の校庭のプ-ルにやっと辿りついて飛び込み、何とか助かることができました。少し遅れて逃げてきた人が、校庭の端まで到達しながら火ダルマになって焼け死ぬ姿を見ました。この人のように多くの被爆者が、倒れた家の中からやっとのことで這い出すことはできたものの、周りの猛火に逃げ場をうしなって、家の側に備えつけられていた小さな防火水槽で、寄り添って焼け死んでいったのです。広島と長崎のいたるところで、そのような惨状が繰り広げられました。この世の地獄としか言えない残虐なありさまでした。

  数日後、私は、家の焼け跡から母の遺体らしいものを掘り出しました。それは、マネキン人形にコールタールを塗って焼いたような、油でヌルヌルする物体でした。とても母の死体とは思えませんでした。母は、人間としてではなく、モノとして殺されたのです。広島と長崎での被爆者たちの死は、「人間の死」といえるものではありませんでした。

  女学校1年生(12歳)の妹は、軍の命令で爆心地近くに動員されて作業中に被爆しましたが、どこで死んだのか未だに行方不明です。その年の5月父を病気で失っていた私は、その日から原爆孤児になりました。その妹を探して広島市内を歩き回った私は、1カ月後に急性症状にかかって倒れました。身体中に赤紅色の斑点が生じ、喉の痛みでろくにものも飲み込めず、鼻や歯茎からは出血しました。髪の毛も抜けました。夫を原爆で失った叔母の必死の看病で奇跡的に死線を脱しましたが、その後もいろいろな疾病と健康障害を引き起こしました。原爆は、さらに牙をむいて襲いかかってきました。近年は晩発性放射能障害によるガンを発症して、闘病生活を続けながら、被爆者運動に参加しています。

  私の被爆体験は、何十万人も被爆した中のほんの一例にしか過ぎません。私のように原爆のキノコ雲の下で直接被爆した者ばかりではありません。被爆した家族を探したり、救援のために入市したりした人々も、残留放射能にさらされ、放射能を帯びた塵やほこりを吸い込んだり、汚染された食べ物や水を摂取して、身体の外からだけでなく、身体の内部でも放射能による被曝をしたのです。被爆後65年経った今もなお多くの被爆者が、私以上にもっともっとひどい被害をうけて苦しみとたたかいながら、「ふたたび自分たちのような被害を繰り返させてはならない」と訴えて頑張って生きています。

  原爆=核兵器被害は、このように被爆者の「いのち(からだ)」に対する被害だけではありません。「くらし」「こころ」についても被爆者は、苦悩に充ちた人生を一生背負い続けているのです。健康障害をかかえた上に家族を失い、家庭が崩壊したためにその後の人生の立て直しを全く狂わされた人、さまざまな社会的差別に苦しみ続けてきた人、被爆したために「結婚」や「出産」を諦めた人は少なくありません。また母親の胎内で被爆したために小頭症の状態で誕生した子供の場合は、親は自分だけでなく、その子の生涯についても想像を絶する負担と苦悩を背負い続けています。被爆2世の白血病や癌による死亡についての情報も多く寄せられていますが、遺伝的影響については未解明のままに残されています。

   原爆は、このように被爆者に「人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許さぬ」被害を与え続けています。私たち被爆者は、この人類史上最大の人災の生き証人です。

  しかし私たちは、「報復」を主張したことはありません。報復を考えるには、その被害があまりにも甚大で破滅的だったからです。私たちは、報復ではなくて、「自分たちのような体験はもうたくさんだ」、「この苦しみを人類の上に二度と繰り返させぬ」ために「核戦争するな、核兵器なくせ」と核兵器の廃絶を訴え、原爆被害に対する国家補償の実現を求めて運動を進めてきました。私たちの国の内外にわたって、被爆体験を語り、核兵器廃絶を訴える運動の輪を大きく広げてきました。そして今日まで幾度か直面した核戦争の危機を防ぐことに貢献してきたと確信しています。

  今人類は、非常に重要な状況に直面しています。

 昨年45日、オバマ大統領は、チェコのプラハでの演説で、核兵器を使用したアメリカの大統領として初めて、その道義的責任を認めて、「核兵器のない世界」に向けた力強い決意を表明しました。私たち被爆者は、心から敬意を表します。オバマ大統領の決意が、このたびのNPT再検討会議で活かされて、核兵器廃絶に向けた国際的な協議の場の設定と実現のための具体的な道筋の討議が直ちに開始されることを期待します。同時に私たちに課せられた任務の重大さも自覚しています。私たちは、今、国連本部のメインギャラリーで、原爆展「ヒロシマ・ナガサキから世界へのメッセージ」の展示と代表団による被爆体験の証言活動を行なっています。一日も早く核兵器の廃絶が実現できることを切望し、ともに頑張りたいと思います。


For a Peaceful Future without Nuclear Weapons and Wars

-- On behalf of the A-Bomb Survivors in Japan -- 


Mikiso Iwasa 

Funabashi City, Chiba Prefecture

 

May 2010

    


Dear friends,

I feel honored and pleased to be together with you, who have come to New York to achieve a successful outcome of the 2010 NPT Review Conference, and who are earnestly hoping and working for a world set free of the threat of nuclear weapons and nuclear war. Let us work together to abolish nuclear weapons without any further delay. Representing the Hibakusha, atomic bomb survivors of Japan, I have come here today to work for our common goal. Allow me to share with you my A-bomb experience and my appeal as a Hibakusha.   

The atomic bombs dropped on Hiroshima and Nagasaki on August 6, 1945 and on August 9, 1945 respectively turned the two cities into rubble in instants through the enormous, combined destructive power of blast waves, heat rays, and radiation. The citizens there were thrown into infernos of fire and devastation contaminated with radioactivity. 

At that time, I was a sixteen-year-old middle school student. As the factory at which I was mobilized to work was closed on that day due to a power shortage, I did not go to work. I was in the yard of my house, which was located 1.2 kilometers from what would be ground zero. Soon after I heard the roar of planes flying over, I felt the impact of a strong blast, and my body was smashed to the ground. I was not particularly injured, as the ground was soft soil. If I had stood about half a meter to the right, I might have been killed instantly, smashed on a garden rock. Miraculously, I suffered no burns, as I was in the shade of a neighbor’s house standing opposite mine across the street. 

In the ominous silence, it suddenly dawned on me that my mother was under the collapsed house. I cried out, “Mom!” And I heard her reply, “I’m here,” from under the fallen roof. I was relieved to know that she was alive, but my joy was short-lived. When I managed to lift the roof sheet and to thrust my head under, I saw the fragments of the collapsed support pillars scattered over the foundation of the house. Through narrow slits between them, I saw my mother lying on her back about a meter away. She was bleeding from her closed eyes. “I cannot get in from here. Can you move out from there?” I asked. She said, “I cannot move unless you remove the beam lying on my left shoulder.” I tried to remove the debris, attacking it from another side, but I could not make my way any closer to her. After some time, a fierce firestorm approached, and I worked desperately in a shower of falling sparks. There was no one to help me. Feeling powerless, I became nearly frantic and cried, “Mom, there’s no way I can move it. The fire is coming. Can’t you make it through somehow?” I had no idea what was happening in Hiroshima beyond the confines of my collapsed house. My mother must have been full of fear, not able to see anything around her, trapped under the fallen house. But she seemed to have accepted death and said to me, “Then you must escape quickly!” And she began to recite a Buddhist prayer. Hearing her prayer, I ran away. I left my mother to be burnt alive in raging flames. 

At that time, all around me was a sea of fire. I struggled through and managed to reach the swimming pool of a junior high school located behind our house. I jumped into the water and eventually escaped from the fire. But I saw a man, who was also trying to flee from the fire, reach the edge of the schoolyard a little later. He was enveloped in flames and burnt to death. Like him, many people were burnt to death after narrowly escaping their fallen houses. Losing their way in firestorms, they swarmed to a small water tank and died altogether. Similar dreadful scenes were seen everywhere in Hiroshima and Nagasaki right after the atomic bombings. It was literally a hell on earth. 

A couple of days later, I dug out what looked like my mother’s body from the ruins of our house. It was a greasy and slimy object, like a mannequin painted with coal tar and burned. I could not believe that it was my mother’s body. She was killed mercilessly, not as a human being but as an object. The deaths of A-bomb victims in Hiroshima and Nagasaki could not possibly be described as human deaths. 

My younger sister, then aged 12 and a first grader in a girls’ middle school, had been mobilized by the military and was working near ground zero when the bomb was dropped. To this day, she is still unaccounted for. We do not know where or how she died. As my father had died from an illness in May that year, I became an A-bomb orphan. Looking for my sister around the city center, I fell ill, suffering the acute symptoms of radiation poisoning. Scarlet spots developed all over my body. I could not swallow due to a sore throat. I bled from my nose and from my gums. I lost my hair. Thanks to the devoted care of my aunt, who lost her husband to the A-bomb, I survived. But since then, I have suffered many different illnesses and health conditions related to radiation poisoning. Recently, I developed cancer caused by the delayed effects of A-bomb radiation. I continue my Hibakusha activities while battling my cancer.

Please remember that my experience is only one of the several hundred thousand victims who went through the A-bombings. Not all of the Hibakusha were under the mushroom cloud. Many more people who later came into the city looking for their families or engaging in rescue work were also exposed to residual radiation, inhaling radioactive dust and air and drinking or eating contaminated water and food, irradiated not only externally but also internally. Even after sixty-five years, many Hibakusha still suffer from the dreadful consequences of the A-bombs, many worse off than I, but they still struggle to survive. We want to make sure that we stop repeating such atrocities. No one should have to experience such atrocities. 

The harmful effects of nuclear weapons are not limited to the damage done to the bodies of their victims. Survivors continue to suffer in their everyday lives and from psychological wounds that will never heal as long as they live. Many of the Hibakusha have had chronic health problems, have lost family members, have experienced family break-ups, and have not been able to rebuild their lives, facing various kinds of social discrimination, giving up thoughts of marriage and children. In the cases of those who were exposed to the A-bombs in utero and were born with microcephaly, their parents continue to bear unimaginable burden and suffering, not only as Hibakusha themselves, but as parents of Hibakusha. While we know of many cases of second-generation A-bomb victims who have died from leukemia or cancers, the mechanism of the genetic effects of the A-bombs remains unstudied. 

Thus, the A-bombs continue to inflict serious damage on the survivors to the extent that they are not allowed to die as human beings nor live as human beings. We, the Hibakusha, are living witnesses of one of the worst human disasters in history. 

But we have never called for retaliation. The A-bomb damage was too grave and too destructive to consider retaliation. Instead, we have promoted our movement to ensure that such tragedies should not be repeated. We have worked to prevent nuclear war and to abolish nuclear weapons. We have also worked to achieve state compensation for the A-bomb damage. We speak about our A-bomb experiences both in Japan and internationally. We are confident that our activities have contributed to preventing the outbreak of nuclear war in a number of crises. 

Now, we are at a very important juncture in our history. 

On April 5, 2009, U.S. President Obama in his speech in Prague, Czech Republic, expressed his strong determination to achieve a “world without nuclear weapons”, acknowledging for the first time the moral responsibility of the country that has used nuclear weapons to act for that goal. We the Hibakusha pay tribute to him for his statement. We sincerely hope that during this NPT Review Conference his determination will be translated into real action. Discussions should start immediately to set out a concrete path for international negotiations for and realization of the abolition of nuclear weapons. 

At the same time, we are aware of the significance of our own task. Currently, in the Main Gallery of the Visitors Lobby of the U.N. building, we are holding an A-bomb exhibition entitled “A Message to the World from Hiroshima and Nagasaki.” There, our delegation members are also giving witness to their atomic bomb experiences. Please come and visit our exhibition. We earnestly hope to achieve our goal of the elimination of nuclear weapons, and for this, we continue to work together with you. Thank you.

 

 


Monday, September 07, 2020

NHK広島放送局「ひろしまタイムライン」の「シュン」ツイッターが参考にしたと思われる新井俊一郎氏の手記

 「ひろしまタイムライン」の「シュン」6月16日、8月20日ツイートの元になっていると思われる、新井俊一郎氏の手記『激動の昭和史を生きて』(2009年)を友人が図書館から借りて該当ページを送ってくれました。差別的な言葉が含まれていますが、事実を伝えるためにここに公開します。閲覧には注意してください。


『激動の時代を生きて 戦争の時代を乗り越え半世紀』表紙

以下、傍線はブログ運営者によるものです。「朝鮮人」についての言及のある部分を中心に傍線を引きました。傍線を引いていない部分でも、「シュン」の6月16日、8月20日ツイートが参考にしたと思われる部分があります。

112-113ページ


114-115ページ


144-145ページ



146-147ページ



奥付

尚、問題になっているツイートがどのようなソースからどのような経緯で発信されたにせよ、それらのツイートが及ぼす差別的影響には何らの変わりもありません。このようなツイートがこのまま存在することは、新井氏にとっても不本意であろうことは、9月6日の朝日新聞報道からも読み取れます。これらツイートに対する責任はNHKにあるのであって、引き続き、これらの差別的ツイートの削除をNHK広島放送局に対して求めていきたいと思います。

以下の投稿を併せて読んでください。

NHK広島放送局は「ひろしまタイムライン」の、「シュン」による一連のヘイトツイートを削除してください。

Monday, August 31, 2020

関東大震災97周年 9.1朝鮮人犠牲者追悼集会 オリバー・ストーン監督とピーター・カズニック教授のメッセージ Oliver Stone and Peter Kuznick's message for the 97th anniversary of the massacre of Koreans in the aftermath of Great Kanto Earthquake

 きょう(日本の9月1日午前11時~)東京・墨田区の横網町公園「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」前でとり行われた「関東大震災97周年 9.1朝鮮人犠牲者追悼集会」に、オリバー・ストーン監督と、ピーター・カズニック教授(アメリカン大学、歴史学)のメッセージが寄せられました。英日語でここに紹介します。From 11 AM, September 1, the annual memorial ceremony for the victims of the massacre of Koreans and others in the aftermath of the Great Kanto Earthquake that occurred on September 1, 1923, was held at the Korean victims' memorial within the Yokoamicho Park, Sumida Ward, Tokyo. This year marked the 97th anniversary of the worst hate crime in modern Japan. Filmmaker Oliver Stone and historian Peter Kuznick sent a message for this memorial. 

式典の動画はここです。 



「鎮魂の舞」

Message for the Memorial for the Victims of the 1923 Kanto Massacre


September 1, 2020   

Americans may know Japan’s four decades of brutal colonial rule of Korea, but few know about the massacre of thousands of Koreans, hundreds of Chinese, and some Japanese socialists in the aftermath of the Great Kanto Earthquake of September 1, 1923, by Japanese soldiers, police, and civilian vigilantes, who were instigated by false rumors. We are heartened to hear that some Japanese remember and feel remorse for this terrible injustice and hold a memorial ceremony to honor the victims of the massacre. We are disappointed, though not surprised, to hear about intensified efforts by right-wing Japanese history deniers, including the governor of Tokyo, to whitewash this history. We know that confronting the past honestly is not easy for any nation. Our own country is struggling with this problem right now, especially as it involves racial oppression, the legacy of the Second World War, including the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki, and the history of empire. We stand firmly in solidarity with those, like you, who fight for a truthful view of history and join you in mourning the victims, with the determination that we will never allow such crimes of hatred to happen again. 

Oliver Stone and Peter Kuznick     


1923年関東大震災時虐殺の犠牲者のための追悼式典へのメッセージ


アメリカ人は、日本の40年にわたる朝鮮半島の残酷な植民地支配について知っているかもしれませんが、192391日の関東大震災の後、流言飛語に扇動された軍、警察、民間の自警団によって、何千人もの朝鮮人、何百人もの中国人、そして日本人社会主義者が虐殺されたことを知っている人はほとんどいないでしょう。私たちは、日本人がこの恐ろしい不正義を記憶し、反省し、大虐殺の被害者を追悼する式典を行っていることを聞き、勇気づけられる思いがします。私たちは、東京都知事を含む、日本の右翼的歴史否定主義者たちが、この歴史を歪曲しようとする動きを強めていることを聞いて、驚きはしませんが、失望しています。過去に正直に向き合うことは、どの国にとっても容易なことではないでしょう。それは私たちの国が今直面している課題でもあります。とりわけ人種的抑圧、広島・長崎への原爆投下を含む第二次世界大戦の負の遺産、帝国の歴史といった歴史問題があります。私たちは、皆さんのような、真実の歴史観のために闘う人々との連帯を強固にし、このような憎悪に基づく犯罪を二度と起こさせないという決意のもと、みなさんと共に被害者を追悼したいと思います。

2020年9月1日 

映画監督 オリバー・ストーン & アメリカン大学教授 ピーター・カズニック

(翻訳 乗松聡子)

Sunday, August 30, 2020

「シュン」ツイートの差別性を認めながらも削除に反対する人へ(@PeacePhilosophyツイッターより抜粋)To those who recognize the discriminatory nature of Hiroshima NHK's "Shun" tweets and still oppose deletion of them

 

「シュン」のツイッターは8月21日以来更新されていない。

NHK広島「ひろしまタイムライン」の「シュン」の差別ツイート関連です。まだの人は8月23日8月28日の投稿を読んでください。また、8月28日東京新聞の「こちら特報部」で取り上げられました。読んでください。

自分のツイッターからの抜粋ですが、記録のためにここに置いておきます(一部修正後)。

フェースブックの投稿にはコメントも複数ついています。読んでください。

【8月27日、ある人がツイッターで川崎哲氏もこの問題に関心を持っているようで、ブログに論考を書いています。ただ事実関係は今後の検証でNHK側の説明が崩される可能性があり、現段階では一般論で話を進める以外にないのでしょう。」と言って記事を送ってきたのに対し】

以下、私のツイッターでのリアクションです。

問題はヘイトツイートがいま存在しているということであってNHKがどう説明するのかは二次的問題です。現段階では、とかそういう問題ではないのです。削除しなければいけないヘイトなのです。殴っている人がいるとしたらなぜ殴ったかなんかは、まず殴るのをやめさせてから考えることです。(リンク

ヘイトスピーチに「表現の自由」など適用しないことはもう常識中の常識です。これだけこのツイートに問題点を見出していながら、削除に反対する人がいるとしたら、やはり、当事者ではないから、当事者の気持ちに一瞬でも思いを馳せることがないからなのではないかと思います。気づいてほしいです。(リンク

他にもっと酷いヘイトがあるとか言う人がいる。どんなヘイトだって大問題だけど、今回の問題の根幹の一つに、これが、こともあろうに公共放送のNHKが発信しているヘイトだってことなんですよ。その社会的影響力は計り知れないものがあるんです。だから全力で抗議しないといけないんです。(リンク

「ひろしまタイムライン」ツイートの差別性を認めておきながら削除に反対する人は、当事者にとって、このツイートが一秒でも長く存在すればその時間分暴力が続くということがわからないのでしょうか。悪いね、暴力だね、といいながら、殴っている人を止めないのでしょうか。自分が殴られているわけではないから?(リンク

さきほど賛同してくれた、在日朝鮮人人権協会の朴金優綺さんのコメントをここに紹介します。
『在日朝鮮人への差別と暴力を扇動する効果を持つヘイトツイートをNHKが削除せず放置している現実に、そしてそれを日本政府が傍観している現実に、在日朝鮮人の一人として、何度目とも知れない失望感を抱いています。国連の人種差別撤廃委員会は2018年、日本政府に対して「政治家およびメディア関係者を含む、私人あるいは公人によるヘイトクライム、人種主義的ヘイトスピーチおよび憎悪の扇動を調査し、適切な制裁を科すこと」を勧告しています。NHK広島による当該ツイートの削除はもちろんのこと、日本政府による同勧告の履行と再発防止措置を強く求めます。』

以上です。 

引き続き賛同の連名やコメントを募集しています。同時にNHK広島放送局に抗議してください。賛同・連名してくれた方々の名簿はここ、この投稿のコメント欄にはたくさんのコメントをもらっています。

Wednesday, August 26, 2020

NHK 広島放送局に電話し、広島の平和・反核の訴えを担ってきたこれだけの人たちが差別ツイート削除を求めていると伝えました。I called NHK Hiroshima and told them that many people who are leading the No-More-Hiroshima/Nagasaki movement are demanding deletion of their Tweets that instigate hate against Koreans.

8月23日(8月25日追記)の投稿をまだの人は読んでください。

NHK広島放送局は「ひろしまタイムライン」の、「シュン」による一連のヘイトツイートを削除してください。

NHKが「謝罪」したという報道が流れたとき、私が声をかけた多くの人が、NHKは「謝罪」したのだからツイート自体を削除したと思い込んでおり、いや、ツイートはそのままですと言ったら「信じられない」という反応を示していました。当然と思います。過ちを認めているのに、いつでも削除できるツイートをそのままにしておく(削除を拒否する)とは誰の目にも理解できないと思います。

削除の訴えには、26日の時点で、80人以上の人が賛同してくれました。

日本時間の8月27日午前10時すぎ、私はNHK広島放送局の「ご意見・お問い合わせ」番号に電話しました。ここでは意見を聞くだけで、返答はしてくれないということで、とりあえず以下を伝えました。

★すでに何度もメールしましたが、返信をもらえていないこともあり、電話しました。

★「配慮が不十分だった」という「謝罪」を出したのに、差別的ツイートを削除しないというのはおかしい。そのままでは差別は助長され、傷つく人たちがもっと出てくるので削除してほしい。

削除の訴えには80人以上の人たちが連名してくれている。この中に、広島・長崎の平和、反核の訴えを中心的に担ってきた人や、団体の人がいる。たとえば、

  • サーロー節子さん(カナダ在住の広島被爆者)
  • 和田征子さん(日本被団協事務局次長、長崎被爆者)
  • 平岡敬さん(元広島市長)
  • スティーブ・リーパーさん(元広島平和文化財団理事長)
  • ピーター・カズニックさん(アメリカン大学教授)
  • 野平晋作さん(ピースボート共同代表)
  • ノーマ・フィールドさん(シカゴ大学名誉教授)
  • ランメル幸さん(バンクーバー在住の広島被爆者)
  • 三宅信雄さん(埼玉在住の広島被爆者)
  • 高橋博子さん(大学教員・元NHK中国地方放送番組審議会委員)
  • 田中利幸さん(広島市立大学平和研究所元教授)
  • 藤岡惇さん(立命館大学名誉教授)
★あとはこのサイトを見てくださいと伝えておきました。

NHKは、公共放送が差別を再現・扇動するようなツイートを発信するなど許されない、国際的に見てもあり得ないということをわかってほしいですし、ツイートを削除してもらいたいと思います。

乗松聡子@PeacePhilosophy 

PS:全員のお名前を言う時間がなかったのは悔しいですが、当サイトに来て賛同者リストをみてくださいと念を押しました!

賛同者リストはこの投稿の末尾にあります↓コメントも読んでください。



Tuesday, August 25, 2020

福山市の医療機関で差別を受けたYさんに対する医師の「謝罪」と市の対応についてYさんからの報告

 ★8月26日追記。「下線④」となっていた部分は正しくは「下線③」でした。訂正しました。

7月29日投稿「福山市が市民に提供する無料風疹抗体検査を受けた福山市民のYさんが担当医師から受けた差別」、8月6日の投稿「福山市の無料風疹抗体検査で医師から差別を受けたYさんからの経過報告」の続きですが、被害者のYさんからのその後の報告です。大変怒りを感じる内容です。市の「人権」担当職員は、最初、医師が直接Yさんに謝罪する場を設けるという提案をしました。検査の結果を聞くためにもう一度この医師に会うことさえ非常に負担が大きかったのに、その後もう一度さらに会うということはYさんには耐えられないことでした。そこで文書での謝罪を求めたところ、医師はそれを受け入れ謝罪文を書きましたが、市はそれを渡すために被害者のYさんを市役所に出頭させ、男性2人対女性1人という構造で会合は2時間に及びました。市の職員は加害者である医師を擁護しながら、医師の謝罪を受け入れるようYさんを説得しようとし、Yさんは、自分の意思に反してこの謝罪を受け入れなければいけないという重圧を感じました。謝罪文は、Yさんがここに書いたように納得のいかない言い訳だらけのもので、率直に差別を認めて謝罪する内容ではありませんでした。それを問題視するYさんに対し、市の職員は「怒らないでください」と何度も言ったと言います。弱い立場、差別される立場の人が当然の怒りの声をあげると「感情的になるな」といってその声を抑えつけることを「トーンポリス」といいますが、これはまさしくトーンポリスと思いました。それなのに、Yさんの報告にもあるように、ご自分は声を荒げるときもあったとか。また、今回、市側は医師の謝罪文を全文公開はしないようにYさんに求めました。「事情も知らないのに好き勝手に書く人がいる、攻撃的なことを書く人がいる」からというような言い方だったそうです。私がいままでこの件について書いてきたことはすべてYさんのチェックを受け、Yさんの気持ちを反映する内容であることを確認しています。Yさんはこの報告を、当初の事件のときを上回る絶望感と苦痛の中で書きました。Yさんがここに書くように、率直に差別したことを認め謝罪する誠実な謝罪文であったらここに内容を記す必要もなかったでしょう。市役所の「人権」担当職員が本当に被害者の意向と気持ちを尊重する対応をしていたら、このような報告をしなくても済んだでしょう。私自身、謝罪文と市の対応の個々の項目については言いたいことはたくさんありますが、今回は保留し、まずは読者のみなさん、Yさんを支援する人たちに読んでもらいたいと思い、ここに掲載します。(前文 乗松聡子@PeacePhilosophy)


(ここから、Yさんの報告)

 812日、市職員から連絡あり。医院を訪問し事情を説明したとのこと。医師は、行き違いがあったようだ、直接謝罪したい旨話したとのこと。市役所での面会を提案される。一旦了承するも、連休明けに再度対面することを想像すると一睡もできない。

 813日、医師からの面前謝罪を断り、謝罪文による謝罪を提案する。819日、市職員より謝罪文が届いたので翌日市役所に来てほしいと伝えられる。

 820日、市役所で職員2名と2時間ほど会合する。

 謝罪文は市職員にメールで届き、プリントアウトされたものを受け取る。職員2名はすでに目を通していた。

824日、市役所職員(下記3.の発言者ではない)に電話する。謝罪は重要な点で不十分があり受け入れられないと医師に伝言し、20日の会合における職員の対応は不適切な点が多くあり、信頼していただけに絶望したと伝える。職員からは「申し訳ない」と謝罪を受ける。

 

1.謝罪文の概要

・傷つき不愉快な思いをさせたことへの謝罪

「言い訳に聞こえるかもしれませんが」との前置き後、受給資格として住民票が福山市にあるかを確認するため ①福山市への納税=住民票の有無を聞いた

国籍や婚姻等は無関係な質問であった

当日が土曜日であったため、本来であれば福山市へ問い合わせるべきところ、本人に口頭で確認した

※②後で検査要綱資料を確認したところ健康保険証での住所確認でよかったことがわかった。確認不足により、あとで考えれば不適切な質問をして申し訳なかった

・外国籍の患者は多く来るが差別をしたことはないし、自身の留学経験で幾度もつらい経験をしたこともあり、気を付けていた。差別する気持ちはまったくないにもかかわらず、発言で傷つけてしまった行為そのものが差別であると受け止めている

・意図と違う結果になってしまったのは自分の不徳によること、謝罪

 

2.謝罪文への所感

 下線①について、質問は「あなた、税金ははらっているの」であり、「税金は福山市に払っているの」というような表現ではなかった。その後に住民票は福山市に移したかという質問が続いた。日本語として質問文の述語「払っているの」の主題は「税金は」であり、「福山市に」ではない。医師が住民登録の在りかを確認したい意思でこの質問をしたというのは疑問である。

 市職員によると、③国民健康保険であれば住民票の確認ができたが、Yさんは社保なので住所が記載されておらず、医師は住民票について質問したようだ。不明の場合、口頭で質問することになっている。

 下線③について、医師は、口頭で住民票も福山市にあるとの返答を得たにもかかわらず、その後自己負担にすると述べている。

 自己負担にしようと思ったのは社会保険被保険者だからだろうか。下線②によると、問診後、要綱を確認して初めて健康保険証で足ると知ったという。しかし、社会保険の被保険者でこの検査を受けたのは私が初めてであるとか、社会保険被保険者がこの種の検査を希望する場合、毎回住民登録の有無を福山市に問い合わせていたというのは、信じがたい。

 ちなみに、福山市のHPでは住所確認資料として、健康保険証のほかに運転免許証も候補に入っている。運転免許証は当日も携帯していたが、求められなかった。

 次に、無関係な質問であったという国籍や婚姻手続の有無などは、対象者であるかどうか判断する文脈で質問し、最後には「あなた(Y)は自己負担で」でと結論付けている。

 「韓国籍?朝鮮籍?」との質問、日本人である夫の「籍に入っている」か否か、夫(福山市で発行された国民健康保険を提出していた)の国籍まで聞いたり、「日本人だけど外国人と結婚しているということね」と述べたことからは、外国人は市民であっても無償検査の対象ではないと判断していることが伝わった。当日の医院は混雑しており医師はとても忙しく、これらは雑談という口調でもなかった。

 外国籍市民を市民として同等に扱わなかった点に差別発言の根源があるのに、住民票が福山市にあるか確認しようとした経緯を述べた部分は、「言い訳」として成立していない。

 

3.市側の反応

 会合における発言のほとんどは職員2名のうち上席の方からであった。以下は、その一部である。

・(謝罪文の感想を聞いたところ)言い訳はあるが、行為が差別であると認めている点は評価できる。

・医師からはすぐに謝罪の言葉が出た。事実を認めず悪びれない差別者が多いなか、医師はしっかりと反省している。Yさんもつらいと思うが、医師も自責の念に駆られ夜も眠れないそうだ。

・医師は、今まで対象ではない人に無償で検査を受けさせてしまい、求償するのに苦労した経験があるそうだ。

・当日クリニックは忙しく、思いついたことをポンポンと言ってしまったのだろう。そうであったとしても、彼の行いが差別であることに変わりはないが。

・(今回の件とは別に)人権教育を受けていなかったためにネットで差別を書きこんでしまった人は加害者であり被害者でもあるから啓発していきたい。

・医師のように差別をしてしまったが、しっかりと反省した人を差別と闘う人に変えるのが目標。

・謝罪文の全文をネット上に公開することは辞めていただきたい。

・医師は返事を待っており、放置はしないでほしい。

・Yさんの意思がわからなかったので、話せてよかった。

 

4.市側の対応への所感

 直接事実確認のためクリニックを訪ねてくれて、ありがたかった。

 会合では、話をよく聞いてくれた。

 しかし、医師を思いやる言葉に続き返事を促されたことから、謝罪文が受け入れられるかどうかは他者が決めることではなく、被害者自身が決めるということを理解しているのか、不安に感じた。

 また、市の職員は、医師の反省した様子や評価できる点を話す際に「怒らないでくださいね、あくまで客観的な話をしているのです」と何度も前置きする一方、私が「医師の発言は在日を二級市民として扱っている」と表現したときは、「それは絶対に違う。すぐに謝罪するような人が二級市民と思っているはずがない」と結構大きなトーンで反論され戸惑った。その後、医師が何を「思って」いようが、医師が行った差別的発言の影響に変わりはないことから、発言行為そのものをもって「二級市民としての扱い」と表現したと説明し、理解を得られた。

 

5.結語

 私が市に求めているのは再発防止の一点である。

 率直に差別行為を認める謝罪文であったならば、ここに引用するつもりはなかった。

しかし、謝罪文はのマークをつけたような言い訳や説明が全体の50%以上を占めているうえ、下線②にすら行動と内心が分離していたと捉えられる断り書きがついている。差別する「気持ち」は決してなかったが「行為」が差別になってしまったからそれを謝るというスタンスでは、もはや謝罪と言えるのか。少なくとも再発防止にはつながらないだろう。

また、市の職員の発言について引用することも悩んだ。職員の方たちは事実確認のため医院に赴くなど助けられている面も多いからである。しかし、人権侵害が起きた時、市のような公共機関がいかに対応したかという情報には公共の利益があり、とくに福山市民の読者の方には有用な内容であると思い、率直に書くことにした。

 (以上)