Tuesday, August 11, 2026

「広島」と「長崎」の記憶を語りなおす意義 Re-narrativizing the Memory of Hiroshima and Nagasaki: Satoko Oka Norimatsu's talk from the Tricontinenal Asia Webinar

8月11日(インド・日本時間)に開催された トランスコンチネンタル・アジア主催のウェビナー「広島・長崎の記憶を語りなおし日本の再軍備に抵抗する国際会議 Re-Narrativising Hiroshima and Nagasaki, Resisting Japan's Remilitarisationで、乗松聡子が話した内容をここにアップします。尊敬する高井弘之さん、与那覇恵子さんとともに登壇できたのは大変光栄でした。通訳やコーディネートを務めた太田悠晴さんに感謝します。

ウェビナーでは20分の制限時間があったため、いくつかのセクションを割愛しましたが、ここではフルに掲載します。★本サイトがあらかじめ転載を許可しているサイトを除き、許可なしの転載は禁じます。この投稿のURLを広めてください。
https://peacephilosophy.blogspot.com/2026/08/re-narrativizing-memory-of-hiroshima.html


「広島」と「長崎」の記憶を語りなおす意義


乗松聡子

2026年8月11日


導入 平和と戦争の共存?

 きょうのテーマが指し示すように、私は、日本における広島・長崎の語りは、日本の再軍備化を防ぐことにあまり貢献できていないと思います。言い換えれば、日本の再軍備化の方向性との対立を生み出せていないのです。政治学者の姜尚中氏が言っていました。論文「靖国と広島 二つの聖地」(『ヤスクニとむきあう』2006、メコン)で、例えば日本の首相が一方では広島、長崎の戦没者慰霊に加わり、一方では靖国に参拝する、「それがなぜ同じ国民の中に矛盾なく受け止められるのか、(中略)どう考えても整合性がない」と。

 それを象徴するように、広島の平和公園の原爆死没者の慰霊碑の横には、右翼団体が寄贈した巨大な日の丸が建っており、原爆の犠牲者を悼む平和のシンボルと、帝国時代に平和を破壊した日本のナショナリズムのシンボルが共存しています。もしかしたら日本人は原爆の犠牲者と靖国の「英霊」を同様に追悼しているのでしょうか?

 この問いを念頭に置きながら、「広島・長崎の語り」を考えてみたいと思います。

私の歩み

 私の平和活動の入口は「広島・長崎」でした。1970年代、自分が小学生高学年ぐらいのときに、東京の地元で原爆展に行き、衝撃を受けました。自分はこの歴史について何かしなければと思い、周りの人に語りはじめました。

 高校2,3年のときに、カナダ西海岸の学校に留学しました。シンガポール出身の友人から、日本軍が来たとき、銃剣で赤ん坊を刺して宙に放り投げるといった残酷なことをしたと聞きました。フィリピン、インドネシア、中国の友人もみな、親や祖父母世代から引き継いだ、日本軍の残虐の記憶を教えてくれました。

 私は、未熟ながら、「広島・長崎」を語る前に学ばなければいけない膨大な歴史があることを自覚しました。

 そこから20年以上早送りし、私は1997年にカナダに再度留学し、そのまま定住しました。

 2006年、地元の「9条の会」の一員として、バンクーバーで開催された「世界平和フォーラム」に参加しました。日本から多くの参加者があり、そこで初めて被爆者の通訳をしました。私はそれ以来15年にわたり、8月に日米の大学生を広島と長崎に案内し、被爆者の話を聞く旅に通訳・講師として参加しました。

活動の帰結点としての「広島と長崎の語りなおし」

 広島と長崎に通いながら、私は原爆投下を日本の侵略戦争の歴史のなかに位置づけて、より深く考えるようになりました。私は自分が属する「平和のためのミュージアム国際ネットワーク」(INMP)の仲間たちと、2024年、 「平和のためのミュージアム―歴史、記憶、変化を求めて」という英語の本を出しました。

 自分が担当したチャプター  「日本の歴史認識-記憶と忘却の挑戦」では、被害体験を中心とした日本の戦争記憶の語りに疑問を投げかけました。きょうは、この本に書いた内容に、最近の情報もまじえながら、お話したいと思っています。

 最近「原爆資料館 語り継ぐ者たち」という新しい映画を見ました。これは、広島のTV局のプロデューサーが監督した作品です。広島の平和記念資料館の歴代館長のインタビューをまじえながら、資料館の歩みを綴り、「被爆の実相」を語り継ぐ人たちを追う映画でした。この映画に私は、変わらない日本人の「広島と長崎の語り」を見出しました。それは何でしょうか。

歴史性の切り捨て

 まず、この原爆投下が、大日本帝国の70年におよぶ侵略戦争と植民地支配の末に起こったことであるという歴史性が完全に切り取られていることです。ある日突然、広島や長崎の善良な市民たちの上におそろしい爆弾が落ちてきたというストーリーです。これは、資料館を通して、文学や報道を通して、また、多くの被爆証言を通して再生産され続けています。

 私が翻訳、通訳してきた被爆者証言の中には、たとえばこういうものがありました。「私の父はマレーシアから戻り広島の軍司令部に転属になった。東京のほうと違い、広島は平和な場所だった。」「8月9日、原爆が落ちるまでは、夏休みで子どもたちは海や山で遊ぶ楽しい毎日だった。」「私は呉で生まれた。呉は軍港だったので、空襲で2千人以上が犠牲になった」。

 広島は帝国陸軍の重要拠点でした。広島が拠点だった第5師団歩兵第11連隊はマレー半島で華人大虐殺を行いました。広島が「平和だった」というとき、日本の侵略と植民地支配でもう長い間「平和」など知らない朝鮮や満州、東南アジアの占領地の人々のことなどは念頭にないのでしょう。呉は帝国海軍の大拠点でした。今は、米軍も利用する海上自衛隊の基地です。

 ちなみに、呉については、こうの史代氏の、映画化もされた漫画「この世界の片隅で」で、「何も罪がないのに空襲で被害を受けたかわいそうな町」というイメージに浄化されました。この作品も、広島原爆を描いた「夕凪の街 桜の国」も、どちらも無垢な若い女性の被害です。こうの氏はこの二作品で、陸軍、海軍双方の「カワイイウォッシュ」を行ったと思います。

歴史的文脈を加える

 もちろん何もしらなかった子ども時代に被爆した人は、子ども目線で話すことは止むを得ないかもしれません。生涯、心身に後遺症を抱え苦しんできた被爆者は、話せることを話すだけで精いっぱいではないかと思います。だからこそ、被爆者でない者が、歴史の全体を学び、補足する必要があると思います。たとえば海外で被爆証言をお手伝いするときは、まず私が大日本帝国の侵略戦争の全体像を話したうえで、被爆者に証言してもらうことで、被爆証言に歴史的文脈がつきます。

 仮にドイツのドレスデン空爆の被害者が、海外で証言活動をするとして、ナチスの話を全くせずにドイツ人の被害だけを語ったら、それは受け入れられるでしょうか?難しいでしょう。日本の人は、大日本帝国がナチスドイツと同様、残虐行為を広範囲で行ったファシズムの帝国であったという認識を持つ必要があります。

 ナチス政権は12年間続き、そのジェノサイドと迫害によって、約600万人のユダヤ人を含む1,000万人以上が殺されたといいます。一方、日本帝国は約70年間にわたって植民地支配と侵略戦争を展開し、最盛期には現在の日本の約20倍の面積を支配・占領しました。アジア太平洋地域では2,000万人以上が殺されたと推定されます。その期間と殺戮の規模においては、大日本帝国はナチスを上回ると言えるのです。

 日本の政治家は「被爆地に来て被爆の実相を知ってほしい」と繰り返します。8月6日、9日の式典では高市首相も言っていました。私は大日本帝国の残虐の「実相」を知るために中国や朝鮮、沖縄、東南アジア諸国に行っていますが、一生かけても学びつくせないと思うほど膨大な「実相」があります。

 広島・長崎を語るときは、国内で語るときでも、日本の戦争の全体像を捉えていることが大事と思います。これは被爆者よりもむしろ当事者以外の人間のほうが果たせる役割かもしれません。日本ではいわゆる「戦争体験者」が減少してきて体験が「風化」することを危ぶむ声があります。「継承」は大事ですが、戦争体験者がいればこそ「平和」を保てるといった論理がまかり通るとしたら、体験者の不在が戦争を正当化しかねません。「平和」のために常に戦争を繰り返さなければいけないという逆説も生じます。体験者がいなくても戦争を防ぐシステムとして、戦争放棄を定めた憲法があるのです。

語りに見え隠れするナショナリズム

 しかし実際には被爆者のフリをする人を育てるような事業が進んでいます。広島市では「被爆体験伝承者養成事業」、長崎市では「家族・交流証言者育成」として、被爆者に替わって「証言」する人を養成しています。広島の資料館で実際に被爆者ではない人が訓練を受けた上で「証言」するのを聞きました。被害中心の語りであるのは想定内でしたが、その証言者は、「被爆した人たちが、整然と行列を作って川を渡るのを、自らも被爆している若い兵士が助けている」場面を見て「ほんと日本人のもつ素晴らしさ」と言っていました。

 これは元々の被爆者がそう言ったのを繰り返していたのかもしれませんが、どうしてここで「日本人素晴らしい」になるのかと、驚きました。この兵士は徴兵された朝鮮人や台湾人だった可能性もあります。このようなときのナショナリズムの噴出にこそ、「ヒロシマ・ナガサキの語り」の本質が見え隠れしているのかもしれないと思いました。

 また、日本人は、公金を使って「証言者」を再生産するほど、「戦争体験者」の減少に危機感を感じ保存に努力しているかたわら、南京大虐殺の幸存者、強制動員や日本軍性奴隷の被害者などの減少に危機感を感じている様子はありません。そういう意味で「日本人ファースト」の政党と同じ方向を向いているのです。

 海外にいても、「日本人だからこそ核兵器の恐ろしさを語れる」といった特権意識のようなものを持っている人に出会います。広島や長崎出身者だったりするとそれがさらに強化されます。自分が被爆者でもないのに、「被爆」を日本の勲章のように使う人たちが、いっぽうで「南京大虐殺」や「日本軍慰安婦」を記憶しようとする行為となると、目じりを吊り上げてやめさせようとする姿を私は嫌というほど見てきました。ここに見えるのも、平和主義というよりもナショナリズムです。

「唯一の被爆国」と朝鮮人被爆

今年も「唯一の被爆国」「唯一の戦争被爆国」という言葉が日本で飛び交っています。朝鮮人被爆者の支援をしてきた市場淳子氏は『ヒロシマを持ちかえった人々』(凱風社、2000) で、「全被爆者の約1割が朝鮮人であった。この事実は、世界に向かって『唯一の被爆国』を自称する日本の隠された素顔を照らし出している」と言っています。「唯一の被爆国」は日本人の原爆ナショナリズム、朝鮮人被爆者排除の表徴なのです。これも排外主義を進める現政権と同じ方向性を向いています。

 日本の平和主義の矛盾を指摘した『平和なき「平和主義」』(法政大学出版局、2016)の中で著者のクォン・ヒョクテ 氏は、朝鮮人被爆者の存在が顕在化していくにつれて、また朝鮮民主主義人民共和国の核の脅威が強調されるとともに、メディアや反核運動などでの「唯一の被爆国」への言及が増える傾向を指摘しています。

 推計では、広島では5万人の朝鮮人が被爆し3万人が亡くなりました。長崎では2万人が被爆し1万人が亡くなりました。朝鮮人は植民地支配の故に日本にいて、被爆させられ、被爆後も医療や救済措置において差別を受けるという三重の被害を受けました。その故、死亡率も日本人被爆者より高かったのです。原爆投下は米国の責任でも、朝鮮人の被爆とその後は日本の責任です。

 日本ではその責任を覆い隠そうとするかのように朝鮮人被爆についてはあまり語られません。映画「原爆資料館」も語りません。広島の歴代市長の中で、その「平和宣言」において日本の侵略戦争と植民地支配について謝罪したのは平岡敬市長(1991-8在任)だけでした。彼は意図的に「唯一の被爆国」という言葉は避けましたが、その後の秋葉忠利市長は復活させました。

 韓国・釜山の国立日帝強制動員歴史館では、朝鮮人被爆を強制動員の被害の一環と捉えており、こう言っています。「日本は広島と長崎における惨状を大々的に広報し、反戦平和を全世界に訴えている。反戦平和は、人類が共栄するための普遍的価値である。しかし、誰が言うかによりこの意味合いはかなり変わる。日本は反戦平和を叫ぶ前に戦争加害に対する痛切な反省とともにその事に対する責任を負う姿勢を見せなければならない」。

 「反核平和」の普遍的価値観に逃げ込み、戦争責任に向き合わない日本へのこれ以上の的確な批判はないでしょう。

被爆者の美化

 運動には、被爆者を不必要に美化する傾向もあります。被爆者も普通の人間です。怒りもするし、嫉妬もします。右派もいますし、差別をする人もいます。私がこういう話をすると被爆者に失礼だとか怒る人がいますが、被爆者を普通の人間として扱わないことこそが差別ではないでしょうか。

 秋葉元広島市長は、市長時代、「被爆者の哲学」という概念を強調していました。私も通訳者として通訳したことがあります。その意味は簡単にいえば、「自分のような苦しみを後世の人に味わわせたくない」という普遍的倫理観で、「報復より和解を」選び、核兵器廃絶の目的のために邁進するような被爆者の姿です。

 その「被爆者の哲学」を体現する人の例として元広島資料館館長で、被爆者の、高橋昭博さん(2011年に死去)を挙げています。この人は「原爆資料館」の映画でも主役のような存在です。手指の付け根にガラスが突き刺さり、変形した爪が生え続けることで、爪自体が資料館に展示されたことでも有名な人ですが、私は、生前に通訳をしたことがあります。

 原爆を落としたB29エノラ・ゲイの機長だったポール・ティベッツ氏と面会した経験を話した後に、アメリカ人の学生から質問がありました。「もしあなたがティベッツ機長の立場だったらどうしますか」と。高橋氏は全く迷う様子もなく「軍人として責任を全うするだろう」と答えました。彼は1931年生まれ、想像するに少年として軍国主義教育を徹底的に受けていた世代でしょう。その瞬間の表情は軍人に成りきっていたように見えました。

 私がこの例で何を言いたいかというと、尊敬された被爆者でも軍国主義時代の産物であり、聖人ではないということです。長崎ではカトリック教徒で医師、作家であった永井隆博士が聖人化されています。長崎の原爆記憶を研究しているカナダの学者、大槻とも恵氏は論文で、永井隆が帝国陸軍の軍医として南京に従軍していたことに触れ、永井が南京大虐殺をはじめ中国での日本軍の残虐行為を語らなかったことを指摘しています。

責任を問わない、問わせない

 被爆者の美化は、「広島・長崎語り」のもう一つの問題につながります。秋葉氏のいうような「被爆者の哲学」を実践する被爆者は、「報復」を語らず、原爆を投下した米国に責任を問うたり、怒りを表明したりもしない模範的な被爆者です。私も被爆者の通訳を何年もやりながら、「アメリカが嫌いなわけじゃない。いけないのは戦争だ。」というのを何度も聞きました。

 ある映像作家がヒロシマ・ナガサキのドキュメンタリーを作ったときに話をしたことがありますが、その人は「被爆者は恨みを抱かずに平和を求めるのに比べて、あの中国人や韓国人たちは何?日本をいつまでも恨んで!」と差別感情を露わにしていました。その時は驚きましたが、20年活動してきて、この人のような日本人は珍しくないと思うようになりました。

 歴史学者の田中利幸氏は、著書『検証「戦後民主主義」』(三一書房、2019)で、日米間の「原爆正当化」という「共同謀議」が日米軍事同盟の原点となっていると言っています。米国は、戦争を終わらせるには原爆が必要だったという「原爆神話」を打ち立て、一方アジア太平洋各地で日本が犯した膨大な戦争犯罪と天皇ヒロヒトの責任をうやむやにするという、もちつもたれつの関係があるというのです。

 広島と長崎の「平和の語り」はこの「共同謀議」を強化するものだと思います。米国への怒りを言わない「模範的」な被爆者が好まれるのに加え、歴代の広島・長崎市長の「平和宣言」で、原爆投下した米国に責任を問うことはありません。今年の式典も同様でした。24年の日本被団協のノーベル平和賞の授賞式スピーチでも、誰が原爆を落としたのか言いませんでした。

 オバマ大統領が16年に広島に来たときは「死が空から落ちてきた」と言いました。オバマ大統領と言葉を交わしたりハグしたりすることを許された被爆者は、これらの「和解派」の被爆者たちです。米国の核政策に厳しい姿勢を取っていた被爆者は交流を許されませんでした。あらかじめ外務省から「オバマ大統領と話せたら何を伝えたいか」と聞かれて、選別されたようなのです。当時を知る人から聞きました。

責任を問うた被爆者

 「被害語り」だけではない被爆者もいました。際立つのは「はだしのゲン」の中沢啓治氏でした。被爆者を美化せずその人間性の複雑さを描写しきるだけでなく、トルーマンの原爆投下責任、ヒロヒトの戦争責任、中国への残虐行為、朝鮮人差別について痛烈な批判をしています。だから図書館閉架化問題など、右翼の標的にされたのです。2011年、中沢さんが亡くなる前年に通訳をする機会に恵まれました。学校で「東条さんえらい」という歌を習って、家で歌っていたら父親に「ばかたれ!」と怒られたといいます。この父親は「ゲン」の作品に描かれたように反戦思想で逮捕され、1年半も投獄され拷問されました。

 もう一人、2011年に亡くなった沼田鈴子さんがいました。私は残念ながら生前直接交流したことはありませんでしたが、平和公園の「被爆アオギリ」の横で証言をしている姿を見たことがあります。沼田さんは、1988年にマレーシアの華人虐殺のサバイバーの証言を聞き、加害者が広島を拠点としていた第5師団歩兵第11連隊だったことを知って責任を感じ、マレーシアでの加害の歴史を学ぶ旅に参加しました。

 ネグリセンビラン州のティティという町の近くのイロンロンでは、1942年3月18日に日本軍が村民1474人を殺害し、家屋を焼き払い、村が地図から抹消されました。その現地を訪ねて住民100人余りの前で、沼田さんはこう謝罪したのです。これは引率していた、当時高校教員だった高嶋伸欣さんの記憶による沼田さんの発言の大意です。

 「みなさん、私は皆さんの何も罪のないご家族を次々と虫けらのように殺した日本軍の根拠地広島の人間です。私は広島の部隊がマレーシアで残虐な行為をしていたことを知りませんでした。そのことを昨年知って、どうしてもマレーシアに来たいと思うようになりました。それは皆さんに、直接おわびを言いたかったからです。皆さん本当に申し訳ありませんでした。どうか許してください」

 沼田さんが話したあと地元の人たちはいっせいに沼田さんのほうに駆け寄りました。「原爆で片足を失った不自由な体で、ここまでよく来てくれた」「日本人からいつか聞きたいと思っていた言葉が聞けてうれしい」「あなたこそ被害者なのに、よくぞ言ってくれた。感激している」などと口ぐちに叫んでいたのだそうです。

 沼田さんは中国の重慶にも行って日本軍の重慶爆撃に対し謝罪しました。日本から被害を受けた国々では「原爆は神の救いであった」という歴史観が根強くあります。理解できる感情ではありますが、被爆者にとっては受け入れるのは難しいでしょう。沼田さんが被害国を訪ねた背景にはそのような感情がある国にこそ向き合いたいとう思いがあったのではないかと、高嶋さんは語っていました。

広島と長崎の資料館問題

 広島を拠点とした第五師団の話をしましたが、第五師団は、日清戦争、義和団の乱の鎮圧、日露戦争、3・1独立運動の弾圧、青島出兵、シベリア出兵、日中戦争、そしてマレーシア・シンガポールにおける華人虐殺など、大日本帝国による主要な侵略戦争や植民地支配、人民蜂起の弾圧に繰り返し関与してきた部隊です。日清戦争時には大本営そのものが広島に置かれ、明治天皇がそこから陸海軍を直接統率していました。

 それを広島の平和記念資料館は展示しているでしょうか。広島が「軍都」だった記述はありますが、淡々とした記述で、悪いことをしていたというニュアンスはありません。原爆被害の感情移入した展示とは対照的です。南京大虐殺については、メディアテーブルというコーナーで、タッチパネルを何度も押さないと記述が出てきません。それも日本語では「南京事件」とし、英語では Nanjing Massacre とするなど、日本語と英語で内容を使いわけています。日本が侵略戦争を行ったという史実は、あの広い広島の資料館のどこを見ても、不在です。(注:2019年のリニューアル完成後の資料館)

 長崎の原爆資料館は、1996年のリニューアルのときに、右翼の街宣車に囲まれたほどに、アジア太平洋戦争の全体像を年表や映像で展示するコーナーがあるのですが、それも近年、年表の中に南京大虐殺の言及があることについて右派が問題視し、長崎市は資料館全体のリニューアルを機にこのコーナーを一変させようとしています。

 すでに中国朝鮮からは問題視されており、国際問題に発展しつつあります。長崎には「長崎人権平和資料館」という、朝鮮人被爆、強制連行など、日本の加害を専門に扱う民間の資料館がありますが、その資料館は長崎市の観光マップにも載せてもらえず、原爆資料館にパンフレットを置かせてもらうこともできません。

 広島も長崎も、かつては日本の侵略戦争を支える軍事・軍需産業の拠点でした。敗戦後は米軍が来て、「被爆の聖地」を一歩出たら、周囲は米日の軍事基地だらけです。今も昔も、広島と長崎は侵略戦争の拠点とされているのです。長崎では、戦前以来の三菱重工の存在のために、原爆資料館でも「現在の軍事化」については展示できない状況であると、内部を知っている人から聞いたことがあります。

最後に

 以上、日本における「広島と長崎の語り」が、なぜ日本の再軍備化と矛盾することなく共存し、それを防ぐ力になり得ていないのかを考えてきました。その背景には、原爆投下を大日本帝国の全体の歴史から切り離して語ること、日本の戦争責任と米国の原爆投下責任を問わないこと、「唯一の被爆国」に象徴される被爆ナショナリズムと、それにともなう朝鮮人被爆者の捨象など、さまざまな要因が絡み合っています。

 「広島と長崎の語り」を語りなおすとは、1945年8月に突然始まる「被爆の実相」だけではなく、大日本帝国による植民地支配と侵略戦争の最終局面で広島と長崎への原爆投下が起こったという歴史の全体を語ることだと思います。その歴史と責任を引き受けた上で米国の原爆投下の責任を問い、反戦・反核を訴えることによってこそ、アジアの隣国との協調、そして東アジアの平和への道が開かれるのではないでしょうか。

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Saturday, August 08, 2026

Webinar: 広島・長崎の記憶を語りなおし日本の再軍備に抵抗する国際会議 Re-Narrativising Hiroshima and Nagasaki, Resisting Japan's Remilitarisation

8月11日追記。乗松聡子の講演録をアップしました。↓クリックしてください

「広島」と「長崎」の記憶を語りなおす意義 


イベント案内です。日本語は下方を。

Register 登録リンクは ここです。

Re-Narrativising Hiroshima and Nagasaki, Resisting Japan's Remilitarisation

Aug 11

New Delhi / Colombo 9:30 AM | Beijing / Manila 12:00 PM | Okinawa / Seoul 1:00 PM

Aug 10 

Vancouver/Los Angeles 9:00 PM | Toronto/New York Midnight

Eighty-one years ago, the United States dropped atomic bombs on Hiroshima and Nagasaki, killing more than 200,000 civilians in the first and only wartime use of nuclear weapons. Coming at the end of the World Anti-Fascist War in the Pacific, after the peoples of Asia had paid an immense price to defeat Japanese fascism, the bombings left an indelible mark on humanity's conscience and strengthened the global conviction that war—and especially nuclear war—must never be repeated.

Today, that legacy is under threat. Okinawa remains burdened by the overwhelming concentration of US military bases in Japan, while Japan's rapid remilitarisation has become a central pillar of Washington's New Cold War in Asia. On the anniversary of the bombings, this webinar brings together voices from Okinawa and mainland Japan to reflect on what "never again" demands of us today. As militarisation expands across our region, Hands Off Asia is a call to oppose foreign military bases, reject imperial confrontation, and defend the sovereignty of Asian peoples.

This is part of the webinar series of “Hands Off Asia”, a campaign of the International Peoples’  Assembly, supported by Tricontinental: Institute for Social Research.

ニューデリー/コロンボ 午前9時30分 | 北京/マニラ 午後12時00分 | 沖縄/ソウル 午後1時00分

81年前、米国は広島と長崎に原子爆弾を投下し、20万人以上の民間人を犠牲にした。これは、戦争中に核兵器が使用された最初かつ唯一の事例である。太平洋における世界反ファシズム戦争の終結間際、アジアの人々が日本のファシズムを打ち破るために計り知れない代償を払った後に起きたこの原爆投下は、人類の良心に消えることのない傷跡を残し、戦争――とりわけ核戦争――は決して繰り返してはならないという世界的な確信を強固なものにした。

今日、その遺産は脅かされています。沖縄は、日本国内における米軍基地の圧倒的な集中という重荷を依然として背負い続けており、一方、日本の急速な再軍備化は、ワシントンによるアジアでの「新冷戦」の中心的な柱となっています。本ウェビナーでは、沖縄と日本からの市民の抵抗運動の声を結集し、悲惨な歴史を「二度と繰り返してはならない」という言葉が、今日の私たちに何を求めているのかを考察します。この地域全体で軍事化が拡大する中、「Hands Off Asia」(米軍はアジアに手を出すな!)は、外国の軍事基地に反対し、帝国主義的な対立を拒絶し、アジアの人々の主権を守るよう呼びかける運動です。






Wednesday, August 05, 2026

玉城愛:運動と性暴力の問題 「wamだより」vol.63 から転載 TAMAKi Ai: Sexual Violence and Social Movements - Reposted from WAM Newsletter, Vol. 63

「wamだより」の表紙の一部

戦時性暴力、とりわけ日本軍性奴隷に焦点をあてた記憶と活動の拠点として2005年6月に東京・新宿区にオープンした、アクティブ・ミュージアム「女たちと戦争の平和資料館」(wam)の会報「wamだより」vol.63 (2026年7月)より許可を得て転載します。(写真は転載していません。)

このサイトでは、社会運動の中の性暴力を多く取り上げてきました。「平和」「人権」の名の下に行われる活動の中で性暴力、セクシュアルハラスメント、性差別がいまだに横行しています。声を上げようとすると、運動のために我慢しろとか、右派を利するだけだとか、黙らせ圧力が強まります。残念なことにそのような黙らせ圧力の中には差別を内面化した女性によるものも少なくありません。そういった中、声を上げ続けてきた女性たちの一人、玉城愛さんによる本質に迫る文を、ここに転載したいと思います。

「辺野古沖転覆事故」で亡くなった金井創氏も、生前性暴力を行っていたとの被害者による告発が、琉球新報で取り上げられました。私はこの件について、被害者から直接話を聞いた友人から数年前に話を聞いていました。何かしたほうがいいのではないかと思いながらも、自分は行動しませんでした。そのことによって自分も「黙らせ圧力」に加担していました。自分が今できることといえば、この件について運動側からも出ている二次加害的な発言に対して批判し、抗議し、被害者の立場に立った発信をしていくことではないかと思っています。

本文より抜粋します。


家父長的な社会 において、性暴力は相手を支配するための手段であり武器 として使われてきた。その暴力性は、「非暴力」や「反戦」の 思想からどれだけかけ離れたものでしょうか。

 

玉城さんは、40年前以上も前に沖縄の女性たちが運動内の性差別に声を上げてきたことに触れながら、「記録」に希望を見出しています。

文末に、いままでこのサイトで扱った関連記事のリストを載せています。私も、「記録」の試みの一端を担うことができればと思っています。


運動と性暴力の問題


玉城愛(沖縄女性社会運動史研究)


「運動」が見えなくしているもの 

 先月 6 月 17 日付の『琉球新報』で、金井創氏(故人)が過 去に性暴力の問題を起こしていたことが報道されました。 社会運動の中にいる男性たちの性差別問題や性暴力の問題 をよく見聞きしていたので、「またか」と思いました。

 「正義」の名の下に振り上げられる拳は国家権力に向け られるものであると同時に、家庭や運動内部で、時には地域で女性に振りかざされることもありました。まるで「日 米安全保障に反対することは男性のロマンであり、必ずしも女性の人権に結びつくものではない」と言われているような気持ちです。その状態は、米軍専用施設や新基地建設 に反対する運動が一部の男性の「生きがい」と化し、自分の名声をあげるための活動にすぎないということです。 

 軍事主義や家父長制は歴史や文化、芸術の破壊、女性や こどもの人権を奪ってしまう。軍事を用いた「安全保障」が 人間の生命や耕してきた土地を破壊する。家父長的な社会 において、性暴力は相手を支配するための手段であり武器 として使われてきた。その暴力性は、「非暴力」や「反戦」の 思想からどれだけかけ離れたものでしょうか。仮に「人権は 大事」だと加害を加えた側が思っていたにせよ、性暴力の 加害を与えた後も堂々と運動の場に居座る男性自身の人権 感覚と、それを許容してしまう「運動」そのものが孕んでい る問題を問い直し、公の問題にしていかなければなりせん。 

 軍事化された米兵の身体と、家父長制のなかで男性性を内面化してきた日本人男性及び沖縄男性の身体。自らの特 権意識と男性性をそぎ落とさなければ根本的な差別の問題 は変えられません。なぜなら無意識のうちにも、誰かを圧 倒させてしまう暴力へと深く結びついているからです。 

声を上げ続けてきた沖縄女性たち 

 運動の内部に潜む差別や暴力の問題は、最近から始まっ たものではありません。1980 年に沖縄で結成された「80 年 沖縄女の会」は、家庭や学校、職場、地域、組合運動など、あらゆる場所に性 差別が存在していると指摘したグルー プです。特に、労働組合の青年部にいる男性たちへの批判は今日の問題に繋がっ ています。反米軍基地を掲げて、売買春の問題がなくならないのは米軍基地があ るからだと叫び訴えた組合青年部の男性らが、デモが終わった後その足で風俗街へ向かう実態を明らかにしま した。

 また、高里鈴代さんがある 集会で男性に言われた「基地 問題を女性問題に矮小化するな」といった発言もそうです。 沖縄で暮らす女性たちにとっ て軍事主義を纏った安全保障の問題は女性やこどもの人権問題そのものです。 

 筆者自身も、運動の中でハラスメントを受けたことがあ ります。当時市議をしていた 30 代男性に「AV 女優に似ている」と言われ、「カンパするから僕と連絡をとりあってほ しい」という東京在住 50 代半ばの男性も出現しました。「妻 と激しいセックスをした」話をしてきた大阪在住の 70 代男 性もいました。運動の場にはクソ野郎ばかりしかいないの だろうかと頭を抱えそうになります。 

記録がもたらす希望 

 運動が目的以外のところでつまずいてしまう時、わたし は「80 年沖縄女の会」の活動に支えられました。40 年以上 も前に、運動の内部における性差別の問題に声をあげてい た女性たちが存在していて、しかもその女性たちの史資料 が残されていることに希望を感じました。

  わたしは沖縄の政治史において住民たちによる運動が重 要な役割を果たしてきたと認識しています。運動によって 人々は暮らしと土地を守り、自由を主張することはわたし たちの権利です。戦後の貧しい生活を生き延び、1975 年 の国際女性年やそのあとに続く国連女性の十年をきっかけ に、性別役割分業や性差別に反対してきた女性たちが積み 上げてきた結果です。記録されたあしあと、まだ記録され ていない女性たちの歴史には、十分な価値があります。 

 最近、沖縄で生まれ育ったこどもたちにどんな風景や思想を残したいか考えるようになりました。温かいご飯を食 べて、安心して眠る場所があること。信 頼できる大人や友人にであうこと。小さな希望を積み重ねて、ゆっくり大人にな っていくこと。耕した豊かな土地が侵略 されて破壊されてしまうような世界では なく、新緑が芽吹いて花が咲き、実がな るような優しい場所を、自分の身の回り から築いていきたいと思います。

(転載以上)

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