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Thursday, December 27, 2012

「バトンタッチ!」中沢啓治さんを追悼して Remembering Nakazawa Keiji

2011年8月4日、日本、米国、中国、韓国ら出身の大学生を対象に
証言する中沢さん。左は近藤紘子さん、右はこのブログ筆者の乗松聡子。
12月24日、バンクーバーの自宅でクリスマスディナーの支度をしているときにニュースが飛び込んできた。 『はだしのゲン』で知られる漫画家、広島原爆被爆者の中沢啓治さんが12月19日に亡くなられたと。信じられない思いだった。病気だとは聞いていたが、こんなに早く逝ってしまうとは、思いもよらなかった。中沢さんを心から尊敬していた私は動揺し、客人を招いてのパーティはやっとの思いで乗り切った。

 昨年(2011年)8月4日、広島で、1995年から続いているワシントンDCのアメリカン大学と立命館大学による広島・長崎の平和の旅の参加者ー学生、教員合わせて50余名を対象に中沢さんが証言したときに通訳を務めた。訃報を聞いて、そのときの体験が昨日のように蘇ってきた。この旅にいつも同行する被爆者、近藤紘子さんの父親、故・谷本清牧師の功績を記念する谷本清平和賞を中沢さんが受賞した縁で、近藤さんが中沢さんのトークを手配した。会場は広島市立大平和研究所教授の田中利幸さんが提供。

 私は『はだしのゲン』は原爆を伝える文学の中でも突出したものであると思っている。原爆被害の描写のリアルさ、被爆者を美化せずその人間性の複雑さを描写しきった点、そして被爆の被害だけではなく、日本の軍国主義と植民地主義、トルーマンの原爆投下責任、天皇の戦争責任、アジア隣国への加害についてもタブーはなしに、するべき批判をしている。これは戦争中から戦争を批判し非国民扱いされ、投獄・拷問されても信念を貫き通した父親の影響によるものだろう。私は昨年、その中沢さんに会えて通訳ができる光栄に恵まれ、尊敬の念に心躍らせ通訳に臨んだ。


講演後学生たちと。
中沢さんの体験は、『ゲン』を読んで知っていたので覚悟はしていた。辛い体験を通訳するための心のタフさというのは身につけていたつもりだったが、このときは被爆者の通訳をして6年、初めて最中に泣き崩れるという醜態をさらしてしまった。『ゲン』を読んだ人は知っているだろうが、原爆が落ちたとき、小学校の塀の陰にいて奇跡的に助かった啓治さんは帰宅し、母親は助かっていたが父親と姉、弟が壊れた家の下敷きになっていた。姉はもう死んでいるようだったが父と弟は生きていた。火の手が迫るなか、どうしても救い出せない状況の中、「一緒に死ぬ」と泣き叫ぶ啓治さんの母の手を隣人が無理に引いて逃げた。お母さんは極限状況の中、自分が出産直前であったこと、啓治さんが生き残っていたことで、生き残る勇気を得たのだろう。しかし、夫と、焼かれるわが子が「おかあちゃん!あついよ!あついよ!」と助けを呼ぶ声を後にして逃げなければいけない母親のことを思うと、これ以上むごいことはあるのか、と・・・言葉にはならない。通訳などできない。

そのあと関係者で食事に行ったのだが、中沢啓治さんは私が席を外している間、アメリカン大学の引率ピーター・カズニック教授に、このように強い感情的反応をした通訳は初めてだ、と、肯定的に話してくれていたようだ。それを聞いてほっとした。この食事の席上で、中沢夫妻の前に座ることができて、『ゲン』を読んで疑問に思っていたことをいろいろ聞くことができた。特に『ゲン』に出てくる、日本人から差別を受けながら、戦争に反対するゲンの家族の味方になってくれた朝鮮人の隣人の朴(パク)さんが実在する人だったと聞いて嬉しかった。また、漫画では、原爆で死んだ弟にそっくりな原爆孤児「隆太」という子が出てきて、母親とゲンは家族の一員として家に迎え入れたということになっていたが、やはりその子も実在していた。死んだ弟に似ているという部分は脚色だったようだが、「隆太」がその後悪の道に足を踏み入れた経緯などは事実に沿っていたようだ。今その方はどうしているのですか、と聞いたら中沢さんは苦笑し、「刑務所にいるよ」と言った。
2011年8月4日、食事会で、中沢啓治ご夫妻と。
奥さんのミサヨさんはずっと中沢啓治さんの仕事を支えてきた。

 そのときの中沢さんのトークが、手違いで録音も録画もしていなかったことをずっと悔やんでいたのだが、亡くなったと聞いて後悔の念はより強まった。あのとき聞いた話と似た記録はどこかにないかと思って探したら、中国新聞が今年の7月に15回シリーズで中沢さんのインタビューを掲載していた。同紙が核廃絶・平和推進のために日本語と英語で提供しているウェブサイト「ヒロシマ・ピース・メディア・センター」で全部読むことができる。昨年聞いたお話はほぼこれに沿っているもので、中沢さんの最期の年となった2012年半ばにこの企画をした中国新聞に心から感謝している。

食事会で関係者と記念撮影。前列右から近藤紘子さん、
中沢夫妻、アメリカン大学教授カズニックさん、後列右から筆者、
立命館大学教授の藤岡さん、中沢さんの映画の製作にかかわる
渡辺さん、広島市立大平和研究所教授の田中さん。
中国新聞ヒロシマ・ピース・メディア・センター
「『生きて』 漫画「はだしのゲン」の作者 中沢啓治さん」15回連載インタビューはここから見られる。(2023年4月追記。現在は中国新聞デジタルのページにあり、有料会員しか読めない設定になっている)。

英語版は、各回のページの右上のところで "English" のボタンをクリックすると見られる。15回分のリンクリストは以下にある。
My Life: Interview with Keiji Nakazawa, Author of “Barefoot Gen"
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/index.php?topic=Features_en&page=2
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/index.php?topic=Features_en
(2023年4月追記。現在はこれらのリンクは切れており、英題で検索すれば探し出せる。第一回目はここにあるが全15回のリンクのリストはなさそう。)

最終回で中沢さんが使った言葉「バトンタッチ」は、昨年8月4日の証言後のQ&Aでも繰り返し出てきた、中沢さんの若い世代へのキーワードであると思う。昨年の殴り書きの通訳ノートをもとに、おもにQ&Aで中沢さんが世界から集まった学生たちに伝えたことを書き記しておきたい。
父は京都で滝沢修などと一緒に演劇をやっていたこともあり、反戦思想があった。そのせいで投獄され、1年半経って帰ってきたときには歯ぐきがボロボロになっていて気力もない人間になってしまっていた。塩を一切与えないという拷問を加えられていたのである。自分たちは学校では天皇のために死ね、と教えられた。「東条さん、東条さん、えらい人」といった歌を教わり、家で歌っていたら「バカたれ!」とおやじに怒られた。東条は悪い奴だ、そんな歌はうたうなと。

バトンタッチがしたい。戦争はいけない。平和憲法を守り戦争をしない世にしないといけない。これだけの犠牲を払った上でこの憲法を得たのだ。戦争をしないということは民主主義の根幹である。人類は核兵器をまだもっているが、広島長崎の教訓がわからないのか。人類の滅亡と背中合わせなのだ。恐ろしい地球に我々は生きている。核のない世界をまず築かないといけない。自分はもう72歳、先は見えている。(アメリカ人の学生たちに対して)アメリカに戻って多くの人に伝えてほしい。

20世紀を繰り返してはいけない。自分は若い世代にバトンタッチがしたい。自由に交流できる世界をつくり、自分たちの経験を継承して、戦争をなくしていってほしい。戦争は儲かるものだ。「死の商人」たちが儲けて市民が犠牲になることを許してはいけない。
  中沢さんは、亡くなる前に「やりたいことは全部やった」と言っていたそうである。それを聞いたときに、はっと思った。私たちがしなければいけないことは、立ち止まって泣いていることではなく、彼から受け取ったバトンを受け取り走り続けることであると。ゲン(中沢さん)のお父さんがいつも言っていたように、踏まれれば踏まれるほど強くなる麦のように生きることであることを。このようなむごい別れが繰り返されないように、戦争と暴力を止めることを。

2012年12月27日 

乗松聡子 @PeacePhilosophy


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