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Monday, August 30, 2021

講演録「わたしの目で見た朝鮮 -日本の植民地主義を問う-」(20年11月23日、群馬で)DPRK seen with my eyes - Questioning Japanese colonialism (Nov 23, 2020 in Gunma)

 2020年11月23日 金曰成・金正日主義研究群馬連絡会に招かれ群馬教育会館で行った講演の記録が『金日成・金正日主義研究』176号(2021年1月)に掲載されました。これを許可を得てここに転載します。ちょうど、『ちょっと北朝鮮まで言ってくるけん』というドキュメンタリー映画が封切りされたようなのでいいタイミングとなりました。昨年以来のドラマ『愛の不時着』のヒットによっても朝鮮民主主義人民共和国への関心が高まっているように思えます。この半年後にはコロナで旅行ができなくなったことを考えると、貴重な体験をできたと思います。北米でも日本でも、友人に朝鮮に行ってきたと言うと目を丸くして関心を示されることが多いので、ここで旅行記を誰にでも読めるようにシェアします。今はコロナで無理ですが、ほとんどの日本の人が知らない(私も知らなかった)ことは、日本からの観光旅行が可能ということです。私はJSツアーズという会社を通して行きました。ガイドさんによると日本人観光客で20回以上のリピーターもいるとか。中外旅行社という会社もあります。コロナが収束して旅行が解禁されたらぜひ行ってみてください。


わたしの目で見た朝鮮

-日本の植民地主義を問う-


ピース・フィロソフィー・センター代表 乗松聡子


 本日は3連休の最中で、行楽日和であるにもかかわらず、わたしの講演を聞きに来てくださいましてありがとうございます。

 今回、金日成・金正日主義研究群馬連絡会主催の集まりでの講演を依頼されたとき、驚きました。チュチェ思想を研究しているみなさんに、わたしが話をすることなどないのではないかとも思いました。しかし、逆にわたしは25年間海外にいる日本人として、日本の植民地主義に直面させられるような体験をしたり、植民地主義をなくしていこうとしたり、さまざまな活動をしてきましたので、わたしが何を経験し、どのような活動をしてきたのか、また2019年はじめて朝鮮民主主義人民共和国を訪れることができたときの体験などをふくめて、お伝えできたらよいと思いました。

 本日は、前半はわたしが朝鮮を訪問するまでにたどった道のりや最近考えていることなどについて、後半は朝鮮を訪問したとき、どのような思いを抱きながら過ごしたか、帰ってきた後どのような体験をしたのかということなどをお話させていただきたいと思います。


1、訪朝にいたるまでの歩み


日本のヘイトを危惧する


 まず、わたしは25年ほど海外にいたと申しました。日本に帰国して滞在する期間が今回、2か月になります。こんなに長く日本にいるのは、25年ぶりになります。わたしはカナダのバンクーバーに住んでいますが、日本の報道はつねにバンクーバーから見ています。わたしはかれこれ50数年生きていますが、日本がいまのようにヘイト(憎むこと、憎悪)に満ちた状態にあるというのは、生まれてこのかた、なかったのではないかと思います。少なくともわたしの記憶にはありません。日本がヘイトに満ちていることについて、わたしはたいへん危惧しています。とりわけ、いわゆる「ネトウヨ」(ネット右翼)によるヘイトはインターネットが普及してからたくさんあると思いますが、公的機関によるヘイトが、急激にふえてきたというのを感じています。

 朝鮮高校の無償化除外の差別、またコロナ禍における主に大学生などへの対応として、学びの継続のための「学生支援緊急給付金制度」からも朝鮮大学校は排除されています。他にも群馬では、県立公園・群馬の森にある朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑の設置許可を県が更新しなかったのは違法だとして不許可処分の取り消しなどを求めている訴訟がおきており、わたし自身も関心をもっています。

 かつての植民地支配を全般的に否定する傾向が、公的であれ民間であれ、幅広いかたちであらわれていると思います。1923年の関東大震災直後の朝鮮人虐殺は、群馬でもあったと聞いていますが、朝鮮人虐殺の事実を否定したり、無視したりする風潮があります。東京都でおこなわれている、関東大震災の際に虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式典に小池百合子都知事が追悼文をおくることを拒否する状態がつづいています。歴代の都知事は追悼文をおくっていました。右翼的な石原慎太郎都知事ですら追悼文をおくっていたのです。小池都知事は、東京都の式典で犠牲者をみな追悼しているという趣旨のことを言い、地震災害の犠牲者と虐殺された朝鮮人を同列視しており、結局朝鮮人虐殺はなかったものとする意図があるでしょう。

 朝鮮人の強制徴用、強制動員の否定、歪曲の一つとして、東京都新宿区にある総務省別館の敷地内にできた「産業遺産情報センター」の展示があります。2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」という名で23か所がユネスコの世界遺産として登録され、その世界遺産が産業遺産情報センターで紹介されています。

コロナ禍のためにいま完全予約制になっています。わたしは10月と11月、2回行きました。2015年、世界遺産登録に際して日本政府は「1940年代にいくつかのサイトにおいて,その意思に反して連れて来られ,厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいたこと」が理解できるような措置を講じると約束していましたが、この展示館はその約束を果たさないどころか、逆に強制動員歴史を否定、歪曲するとんでもない場所でした。

 展示のなかに長崎県にある端島(通称、軍艦島)が紹介されています。軍艦島は石炭が海底炭鉱で採掘され朝鮮人、中国人が強制労働させられたところで数々の被害者の証言がでています。ところが産業遺産情報センターでは、元島民というガイドたちが、「日本人も朝鮮人も仲良くやっていた」、「朝鮮人に対する差別も虐待もなかった」、というような、被害者の証言を真っ向から否定するような紹介がなされているのです。

産業遺産情報センターは政府の予算でまかなわれている政府の機関です。2015年の産業革命遺産のユネスコ登録は産業遺産の民間研究者であった加藤康子氏を中心にすすめられました。2015〜2019年、安倍政権のときに内閣官房参与を務めた加藤氏が運営している財団が政府から仕事をもらい、展示しているのです。産業遺産情報センターに行ったとき、元島民のガイドは、「韓国が嘘をついている」、「韓国が約束を破った」などと言い、韓国の人のことを「連中は」といった表現で非難していました。広報を担当するガイドがこのような暴言を吐くのです。これも公によるヘイトの一つではないかと思います。


NHK「ひろしまタイムライン」問題


 さらにNHK「ひろしまタイムライン」問題というのがあります。NHK広島放送局が戦後、原爆投下75周年という節目に、当時の住民にSNS(ツイッター)が可能であったならどのようなツイートをしたかという企画をたてたのです。いまもまだお元気な当時の広島市民の日記などをもとにして広島にゆかりのある人がツイートする趣向でおこなわれました。つぎつぎにツイートされるなかで、問題化したツイート文というのは、つぎのようなものでした。

 「朝鮮人だ!!大阪駅で戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!」

 「『俺たちは戦勝国民だ!敗戦国は出て行け!』圧倒的な威力と迫力。怒鳴りながら超満員の列車の窓という窓を叩き割っていく そして、なんと座っていた先客を放り出し、割れた窓から仲間の全員がなだれ込んできた!」

 そのようなツイートにたいして、多くの在日朝鮮人を傷つけるものであり、差別やヘイトを助長しているという批判の声があがりました。在日本朝鮮人総聯合会や在日本大韓民国民団が人権救済の申し立てという法的行動をとっているにもかかわらず、いまだに開き直ったかのようにNHK広島はツイート内容を削除していません。それどころかツイッターからわざわざホームページに「移設」するという確信犯的なことを行ったのです。わたしは10月に広島へ行ってシンポジウムをおこない、NHK広島にたいして直訴しましたが、反省し、削除しようという動きさえまったくないという状態がつづいています。NHKは日本を代表する公共放送であり、これも公によるヘイトの一つだと思います。

 こうして見ていくと、わたしは「戦後75周年」と銘打って、日本中でテレビ番組や展示会、書籍や雑誌といった出版物の発行など、いろいろありましたが、決定的に欠如しているのは、日本の近現代の正しい歴史認識です。とりわけ大日本帝国の歴史が何であったのかということは、ほとんどの人が興味もない、わかっていない、わかろうともしないという状況です。戦争の記憶というと、自分たちの街に空襲があり被害がでた、広島、長崎に原爆が投下され、おびただしい被害があった、食べ物がなくてたいへんだった、家族が兵隊にとられた、シベリアに抑留された、というようなことなのです。もちろんたいへんなことだったと思いますが、70年以上におよぶ大日本帝国の植民地支配と侵略戦争の歴史をまったく語らずして、その末期の日本の人たちが被害をうけた部分だけを戦争の記憶だというならば正しい認識とはいえないでしょう。いま安倍政権、菅政権というたいへん右翼的な政権が公のヘイトを主動しています。右翼的な政権が主動しておこなうヘイトに、人々の歴史認識が影響をうけ、引きずられてしまっているといえます。朝鮮にたいする差別が助長されてしまっているのです。戦後わたしたちが教育やメディアのなかで、隣国の人たちを蔑み、憎しみ、支配下におき差別するというような影響をうけ、またわたしたちの親や祖父母の世代の差別意識のようなものを無意識のうちにうけとっており、それを克服してこられなかった戦後の日本人が、少なからずいるのではないかと、自分自身をふくめて思っています。

 そのような問題意識をわたしは何十年もかけてもつようになりました。同世代で同じような問題意識をもつ人は少なくて、わたしは圧倒的な少数派だと思っています。


わたしの活動の原点


 わたしの原点は、40年近く前、高校生のときカナダに留学して、そのときにいろいろ気づかされたことにあります。まだ17、18歳でしたが、カナダの西海岸にあるビクトリアというところで留学生活をおくりました。学校にはカナダ人だけではなくて200人ほど世界中から学生が来ていました。そこでわたしは日本の歴史の授業で大事なことを何も学んでこなかったということに気づかされました。わたしは日本人だから広島、長崎の体験を伝えなくてはならないという感覚を当時はもっていました。ルームメイトや付きあった男子学生、仲良くしていた友人がインドネシアやフィリピン、シンガポール、中国出身の人たちでした。この友人たちは自分たちの国で日本軍がいかにひどいことをしたかということを学んでおり、わたしに教えてくれました。

 そのときわたしは大きなショックをうけ、しばらくは信じられないような気持でした。アジアのなかまに教えられたことは、いまにしてみれば、幸運なことだと思っています。カナダはいわゆる欧米に属するのでしょう、白人が主流の社会で、英語がまったくできなくてつらい思いをたくさんしていたので、そのときにアジアのなかまたちからたいへん助けられました。カナダに留学した高校の2年間は、自分の人格形成に決定的な影響をおよぼしたと思っています。

1984年、カナダのピアソン・カレッジで
(左下が筆者)

 いまでも、日本人としての誇りをどう思いますか、あるいは愛国心についてどう思いますか、などと聞かれることがありますが、わたしはどちらかというと自分のアイデンティティは日本人であるよりもまえに、アジア人であるという感覚をもっています。これは高校生のときだけではなくて、25年間カナダに住み、アジア系のカナダ人がたくさんいるところで暮らしてきて、やはりアジア人同士の助けあいはたいへんありがたいと思って生活していることもあるからでしょう。だからこそ同じ日系の人たちが、たとえば日本軍「慰安婦」の記憶をのこすために少女像を建てよう、あるいは南京大虐殺の記憶をのこすために記念日を設けようという動きがあったときに、同じ地域に住んでいる日本人や日系人が躍起になって反対したりするのを目の当りにするとたいへん悲しい気持ちになりました。その反対する背後には日本の保守派や日本政府が存在しているわけですが、海外にいる日本人や日系人も日本政府の影響でたいへん右傾化してきています。そのような状況があり、わたしもかなり孤立してしまったりするというような体験をしています。

 わたしがいまのように社会的な活動をしはじめたのは、21世紀にはいってからのことです。2004年にバンクーバーで「9条の会」をつくるという動きがあり、それに加わりました。当時、日本でも9条の会があり、加藤周一氏、小田実氏、井上ひさし氏などが名をつらねていましたが、多くの方が亡くなってしまいました。澤地久枝氏や大江健三郎氏などはまだ生きておられます。当時、小泉政権下で、日本が「普通の国」になって、イラク戦争への参加の是非を問うような議論がおこっていたときで、憲法9条がないがしろにされるのではないかという危機感が強まっていたときでした。当時バンクーバーという日本国外で9条の会を結成するというのはたいへんめずらしい動きだったのです。その後2006年に「世界平和フォーラム」という会議がバンクーバーで開催され、日本の9条の会や被爆者の方、原水協(原水爆禁止日本協議会)、原水禁(原水爆禁止日本国民会議)の人たちなどがたくさん参加しました。彼らのなかにはカナダにも9条の会があると知って驚いた方も多く、バンクーバー9条の会は影響力を少しもてたのではないかと思っています。

 バンクーバー9条の会の活動として、8月になったら広島と長崎の記憶をするための原爆展をおこなったり、みんなで折り鶴を折って飾り、平和を祈願したりするというような活動をしました。

2009年、日米学生の広島・長崎の旅
(前列右から3人目が筆者)

 さらにわたしは日米の学生の広島、長崎への学習旅行に15年ほどかかわっています。アメリカン大学と日本の大学の学生が広島、長崎に行って歴史をいっしょに学ぶというプログラムです。アメリカン大学というのはワシントンDCにある大学で、日本の大学は立命館大学、2018年以降は明治学院大学です。今年はコロナ禍により旅行が中止になりました。わたしは主に講師や通訳として旅に参加しています。2011年、「はだしのゲン」の作者の中沢啓治さんの通訳をつとめました。中沢さんは翌年の2012年に亡くなられてしまいました。


日本は加害者である


 しかし活動しながらも、何かがちがう、何かが足りないというのを自分のなかで感じはじめました。高校生のときの体験は前述しました。これまで、たとえば日本国憲法の9条がすばらしい、9条を世界に広めようというような活動をしてきましたが、そんななかで「沖縄」と出会ったのです。

 そこで沖縄の人たちから、日本国憲法9条は貴重だというけれども、そこにはたくさんの欺瞞がある、沖縄に多くの米軍基地をおしこめて、日本の「本土」の人たちは偽りの平和を享受しているだけだと教えられ、わたしは沖縄の現実に直面させられるようになったのです。日本には沖縄にたいする責任があり、これも日本の植民地支配、侵略戦争の結果問われた責任だと思いますが、日本の責任をしっかりと考えていかなければならない、憲法9条だけを主張しても、たいへん偽善的なのだと考えるようになりました。

 広島、長崎の旅をつづけてきて、だんだん気づいてきたのです。「唯一の被爆国」と言う人は多いですが、日本人の被害ばかりを強調するのはおかしいのではないかと、考えるようになりました。

 広島は「国際平和都市」と宣伝しており、広島の平和記念資料館に行くと被爆の被害はたくさん展示されています。しかし、そもそも広島というのは大日本帝国の侵略戦争の一大拠点だったのです。日清戦争、義和団の乱鎮圧(1900〜1901年)、日露戦争などにしても、朝鮮の植民地支配、日中戦争、にしても、さらに太平洋戦争にしても、広島が重要な役割を果たしていたのです。たとえばマレーシアで華人を多数虐殺した部隊というのは広島の部隊です。広島には侵略の拠点としての歴史があるのですが、「平和」を象徴する広島の資料館には加害の資料はほとんど展示されていません。広島の被害について、たいへんエモーショナルに(感情に訴えるように)展示するのは良いのです。しかし、たとえば中国への侵略戦争のことは日中戦争が「勃発した」というように、ただ「起こった」と淡々と述べているだけです。被爆者の10人に1人か、それ以上が朝鮮人であると言われています。被爆者の中に朝鮮人が「いた」ということは言っても、植民地支配のゆえに日本に来た、または連行された末に被爆させられた人たちだということ、朝鮮人被爆が日本の植民地支配の一環として生じたということをまったく論じていないわけです。

 広島と長崎は平和の拠点と言いながら、現在も日米同盟の大軍事拠点であり、アメリカが対中国の戦争準備が進んでおり、日本がそれに加担している一大戦争拠点でもあるのです。しかし広島、長崎が昔も今も侵略拠点であるという部分がまったく人々の認識から欠落していることを感じます。

 こうした問題に気づくのに残念ながら少し時間がかかりました。

 朝鮮人原爆被害者について言うなら、1945年8月の時点で広島市に約9万人、長崎市が約7万人の朝鮮人がいて、広島では約5万人が被爆、そのうち約3万人が亡くなったとされ、長崎では約2万人が被爆、そのうち約1万人の方が亡くなったと言われています。予想の域をはるかにこえた被害がでているわけです。

 広島には韓国人の原爆犠牲者のための慰霊碑があり、毎年8月5日に追悼式がおこなわれています。

長崎では、8月9日の長崎市の式典の前に早朝集会というかたちで、「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」が主催して追悼集会がおこなわれています。長崎には「岡まさはる記念長崎平和資料館」があり、そこでは主に日本の加害の歴史を展示しています。この資料館の関係者もこの早朝集会を支えてきました。早朝集会は日本の市民による植民地支配の反省、謝罪の意味も込めておこなっており、朝鮮の南北にかかわらず朝鮮人被爆の犠牲者を追悼しています。

わたしたちの旅のグループは、朝鮮人被爆や日本の加害をしっかり記憶するように、たとえば広島では毒ガス工場があった大久野島も訪問したりしています。岡まさはる記念長崎平和資料館にもかならず行くようにしています。

2013年にアメリカの映画監督であるオリバー・ストーン監督が来日し広島、長崎を案内したときに、オリバー監督は岡まさはる記念長崎平和資料館も参観しました。オリバー監督は広島、長崎、東京、沖縄を訪問しましたが、岡まさはる記念長崎平和資料館を「アトロシティミュージアム(atrocity museum)」、いわゆる「虐殺資料館」と呼んでいました。彼は岡まさはる記念長崎平和資料館をたいへん気に入って、その後あちこちで講演するたびに、日本では小さいがすごい資料館がある、長崎だけではなくて東京にあるべきだとずっと言っていました。

2013年8月、岡まさはる記念長崎
平和資料館を見学するオリバー・ストーン監督

残念ながら東京には加害をしっかり展示する資料館は「アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館」(WAM)ぐらいしかなく、逆に産業遺産資料センターのような過去の歴史を否定するひどい施設が増えてしまっているような気がします。これからわたしもがんばって東京において加害の歴史を記憶することができるようにしていかなければならないと思っています。

今年、画期的だったことは、長崎における早朝集会に、朝鮮民主主義人民共和国の被爆者団体、朝鮮原爆被害者協会からはじめてメッセージが届けられ披露されたことです。メッセージの全文は、ピース・フィロソフィー・センターのウェブサイトに転載しています。朝鮮総聯長崎県本部委員長のキムジョンデ氏がメッセージを読みました。メッセージはたいへん本質をつく内容でした。「日本政府は日本の原爆被害者とは違い、朝鮮人原爆被害者には何の保護、補償も無視されたまま今日に至ってます。これは全く民族的差別によるもの」と断言しました。また朝鮮人被爆者差別は、「日本帝国主義に依るアジア侵略戦争の結果、投下された原爆として、その被害の後遺症で苦しみ、一生精神的肉体的苦痛の中で生きてきた、原爆被害者に対する許す事の出来ない冒とくであり、2重、3重の人権蹂躙犯罪」であると指摘しています。原爆被害者問題は、「日本帝国主義の朝鮮侵略と強占、軍事的支配が生みだした産物」であるということです。

このような朝鮮人被爆の本質をわたしたち日本人は見落としがちなのではないかと思います。外国人の被爆者、朝鮮人の被爆者もいたという程度の認識でとどまってしまい、なぜ多くの朝鮮人が日本にいたのか、植民地支配で連行されたうえに、原爆の被害をうけ、被爆者として戦後も差別されつづけて二重三重の被害をうけたということなのです。長崎で被爆した朝鮮人被爆者の有名な言葉がのこされています。「原爆の火をもっても差別を焼き尽くすことはできなかった」という言葉です。この言葉を聞いたときに大きな衝撃をうけ、いまでも心のなかにのこっています。


2、わたしが見た朝鮮〜心のこもった得難い経験と感動した日々


アメリカを真正面から批判できる国


前述したような問題意識をもって、昨年はじめて朝鮮を訪問することができました。

わたしが朝鮮を訪問したのは2019年8月12日から17日でした。北京空港経由で行ったのですが、本当にわたしはすごくシンプルなことに感動してしまいました。北京空港に高麗航空のカウンターがあり、電光掲示板に高麗航空の何便、平壌行きと、表示されていることだけでものすごく感動したことを覚えています。わたしと沖縄出身の弁護士、2人の在日朝鮮人姉妹の4人の女性でいっしょに朝鮮を訪問しました。わたしたち4人は“女子会”とでもいうように元気いっぱいという感じで訪朝しました。飛行機のなかで朝鮮の『労働新聞』が配られ、わたしと沖縄のなかまは朝鮮語が読めないため、在日朝鮮人の2人に翻訳してもらいました。内容を見せてもらったら、わたしは本当に胸のすくような正しいことを言っているように思いました。たとえば、日本が韓国にたいして経済制裁と称して、半導体の材料など3品目にたいする禁輸をおこなったあとに、さらに貿易においても、いわゆる「ホワイト国外し」をしたと報じていました。日本政府が輸出先として信頼する「ホワイト国」から韓国を除外すると日本政府は決定したのです。日本政府の対応は昨年の8月2日だったので、訪朝したときにちょうどニュースにでてくる時期でした。この日(8月12日)の労働新聞には、「反日機運を逆上させた2次経済制裁」とあります。

他には香港問題への介入を禁止すべきという記事やベネズエラにたいするアメリカの制裁を非難する記事が掲載されていました。いわゆるアメリカが敵国と名指ししている国、たとえばシリア、ベネズエラ、中国、ロシアなどについては、日本やカナダをふくむ西側のメディアは、たいへん悪く書きます。ですから朝鮮の『労働新聞』を読むと、西側の偏向報道が是正されるような気がしました。わたしは沖縄の米軍基地を批判する活動をしてきたことから、朝鮮の『労働新聞』はまさしく基地帝国、軍事帝国としてのアメリカというのを真正面から批判できる媒体なのだと思っています。

平壌空港に到着するとガイドさんがつきました。どのような人数のグループが行っても2人のガイドさんと1人の運転手さんがつくというルールがあるようでした。わたしと沖縄の友人は、観光客という立場で朝鮮を訪問しました。最初は4人全員がすべていっしょに行動するものと思っていたら、在日朝鮮人の2人は祖国訪問というあつかいなので、別の部署が担当し、別の指導員がついて、車も別でした。宿泊するホテルはいっしょで、あちこちの参観がいっしょのときはよかったのですが、別行動のときは少し悲しい気持ちになりました。

朝鮮に到着したときに、ガイドさんに「朝鮮」というのは「鮮やかな朝の国」だと言われて、とても印象にのこりました。

最初に訪問したところは、大聖百貨店というたいへん豪華なデパートでした。ブランド品などもたくさんあって、ソニーのパソコンや大型液晶テレビ、高級感のある朝鮮の洋服など、いろいろな売り場に案内されました。

その後レストランへ食事に連れて行ってくれました。食事にはビールが1杯ついて、1杯目は無料で、2杯目からは1杯5米ドル(約500円)ということでした。朝鮮のお金で500円といえば、かなり高いという感覚でしょう。日本的な感覚だと、居酒屋でビール1本500円は高いというほどではなでしょう、もちろん、日本にはもっと安い店もあると思います。ビールというのはだいたい1杯飲むともう1杯飲みたくなってしまうもので、わたしはついつい2杯目をたのんでしまいました。

わたしたちの泊まったホテルは平壌ホテルというところです。高麗ホテルなどは、外国人がよく泊まる高級ホテルですが、わたしたちは、海外同胞がよく泊まるホテルだということで平壌ホテルに案内されました。今回、わたしたちは在日朝鮮人のなかまといっしょだったことから、朝鮮の同胞がよく宿泊するホテルになったと理解しています。ホテルには、全国から在日の人たちが来ているようで、たいへん興味深い出会いもありました。

平壌外国語大学日本語学科を卒業した通訳も兼ねたガイドさんが2人ついてくれました。1人はベテランの女性で、1人は若い男性でした。彼の話では、いま日本語だけではあまり仕事にならないという現状もあり、英語も中国語も堪能でした。朝鮮から一歩も外にでたことがないのに、3か国語を使いこなしているので、語学エリートといえるでしょう。

高級マンションが建ち並ぶ黎明通りを見学しました。

2019年8月、平壌の黎明通り

朝鮮に入国したときに、注意事項のようなかたちで説明をうけました。ルールというほどのものはそれほどないけれども、軍人の写真は撮ってはいけない、ただし観光ガイドをしている軍人は撮ってもよいということでした。そして金日成主席と金正日総書記の銅像や肖像は敬意をもって正面から全体を撮るようにしてくださいとのことでした。他にはとくにルールのようなものは聞きませんでした。そのような説明をうけていたので、注意を要する対象を撮るときは緊張しました。

チュチェ思想塔も参観しました。塔にのぼると展望台は平壌が見渡せるたいへん眺めのよいところでした。ここに参観してはじめてチュチェ思想研究会という団体があることを知り、恥ずかしい思いをしました。塔の下には、世界のチュチェ思想研究組織のプレートが壁に並べられていました。大阪や群馬の研究会から寄贈されているプレートもあり、日本にもチュチェ思想を研究している人たちがいることを知って驚きました。

大洞江をはさんで周辺を行き来しました。平壌の眺めの美しさはいまも忘れられません。

もう一つ知らなくて恥ずかしい思いをしたのは、朝鮮には平和自動車という国産の自動車製造会社があるということです。その製造工場の前を通過しました。

右:わたしと沖縄の友人はこの平和自動車で案内された。
下:チュチェ思想塔参観後、車に戻る一行

わたしたちが乗った車も2人の在日朝鮮人が乗った車も平和自動車で製造されたものでした。

冷麺で有名な玉流館にも行きました。2018年9月、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の首脳会談のときに、金正恩委員長と文在寅大統領も玉流館で冷麺を食べたということです。

8月15日をはさんで訪朝したことから、朝鮮で迎えた8月15日は少し格別な感慨がありました。8月15日はもちろん日本は敗戦の日ですが、朝鮮では解放の日と呼ばれ、韓国では光復の日と呼ばれています。


祖国解放戦争勝利記念館


わたしたちは祖国解放戦争勝利記念館を参観しました。

朝鮮人民が呼ぶ祖国解放戦争というのは、日本の植民地支配からの解放を指すのではなくて、日本で言われる“朝鮮戦争(1950~1953年)”を指しています。わたしたちが訪れたときには女性の団体が見学に来ていました。韓国にある朝鮮戦争の記念館を見学したことがあります。両国の記念館は敷地内に兵器などが展示されており、ある意味で似ています。しかし韓国の戦争記念館は、国連軍、米軍、韓国軍の兵器が誇らしげに展示されていますが、朝鮮の記念館は米軍から鹵獲した兵器など、いわゆる戦利品が誇らしく展示されていました。韓国と朝鮮の展示品のちがいが印象にのこりました。

順路にそって歩いていると、ハングルで書かれたスローガンがあり、同行した在日のなかまに翻訳してもらうと、“米帝侵略者たちを消滅させよ“という勇ましいスローガンでした。

わたしが祖国解放戦争勝利記念館でうけとめたキーメッセージというのは、ガイドさんも言っていたのですが、金日成主席は日米2つの帝国主義を倒した英雄であるということです。2つの帝国主義を倒したというのは朝鮮革命における金日成主席の業績として高く評価されています。日本人のなかには2つの帝国主義と聞いて理解できない人がいるかもしれませんが、これは当然ながら日本帝国主義とアメリカ帝国主義なのです。朝鮮の博物館は巨大で、とても短時間で見ることのできないほど、量的にも膨大です。

他にも日帝の残虐行為や米帝の残虐行為を展示している「階級教養館」があるという説明をうけ、次回は是非行ってみようと思っています。

2019年8月、マスゲーム観覧席にて、旅のなかまと(右端が筆者)
(写真上はマスゲームがおこなわれるメーデースタジアム)

マスゲーム「人民の国」を見ることができました。このマスゲームは解放後の歴史をつづったものです。朝鮮のマスゲームはたいへん有名で人気があり、他の国ではまず見ることができないでしょう。10万、20万の人たちが出演し創造する一つの総合芸術ともいえる舞台でありショーだといえます。2時間ほどたっぷり楽しませてくれました。マスゲームは外貨収入を得る貴重な手段となっているようでした。たくさんの観光客が来ており、朝鮮の観光客の8割ほどは中国人で、他の2割はヨーロッパの人が多いと聞きました。わたしたちが行ったときも、ベルギーの親子連れやイタリアから来ている団体、ドイツから一人旅で来ている人などがいました。ドイツから1人で来ている人にも2人のガイドと1人の運転手さんがつくようでした。旅行客にたいしてできるかぎりの接待をする姿勢はすごいなと思いました。

8月14日、祖国解放記念日の前日に、万寿台の丘にある金日成主席と金正日総書記の大きな銅像を参観しました。そこを訪れる人たちが後をたたないほど、大勢参観に来ていました。

朝鮮革命博物館で、ガイドさんと
銅像のすぐそばに朝鮮革命博物館があります。金日成主席や金正日総書記がどのように朝鮮革命をなしとげたのかが展示されています。朝鮮革命博物館も巨大な建物で10ぐらいのセクションがあり、わたしたちは抗日革命闘争時期のセクションしか参観できませんでした。館内の写真は撮ることができませんでしたが、日帝、米帝とたたかった朝鮮の歴史を学びました。ここでもっとも印象にのこったのは、植民地支配が40年あまりにおよんだという考え方でした。韓国では日本帝国主義の植民地支配の期間を1910年の「韓国併合」とも言われる強制併合の年から1945年までの36年と表現されることが多いのです。朝鮮では40年と言っていたことがたいへん印象にのこっています。40年というのは、1905年の日韓保護条約、第2次日韓協約とも乙巳条約とも呼ばれていますが、外交権を剥奪され、日本の統監政治が施行された年で、事実上執権を奪われた年を起点として40年と数えていると思いました。


平壌市内をはじめ各地を参観


fe6日間の朝鮮滞在のうち、2日間は地方に行きました。1日は龍岡温泉という温泉保養地で、もう1日は板門店に行きました。

その保養地に行く途中は農村地帯がひろがっていて、写真を撮ってよいのかどうかわからなかったのですが、普通の人々の様子を撮りたかったので撮ってしまいました。トウモロコシ畑がとても多いと聞きました。面積あたりの収穫量がトウモロコシは他の作物に比べて多いそうです。

龍岡温泉は高級温泉地として知られているところで、連れて行ってもらったのですが、停電が多かったのです。平壌で停電を経験することはなかったのですが、この温泉地ではしょっちゅう停電していました。部屋に温泉の風呂があり、電力がないとお湯がだせないしくみになっていました。着いた日に温泉にはいろうと思ったら停電になってしまい、結局、はいらないままに疲れて寝てしまいました。翌日、起床してお湯をだそうと思ったら、また停電していてだせませんでした。温泉地に行ったのですが、結局温泉に1回もはいれなくて終わってしまいました。電気が不足し、停電がちというのも西側の制裁と無関係ではないと思いました。他の国で停電があったら怒ったりするかもしれませんが、高級な温泉地に連れてきてもらっただけで感謝すべきで、停電で文句を言ったりしてはいけないと思って我慢したことを覚えています。

わたしたちは、朝鮮の名物にもなっているハマグリのガソリン焼きを他の観光客と同様に楽しみました。ガイドさんと運転手さんは日頃はときちんとしたスーツを着てオフィシャルな感じでしたが、この日だけはラフな格好でいっしょにハマグリ焼きを食べました。運転手さんは手慣れたものでした。ハマグリのガソリン焼きがいつごろからはじまったのかは諸説あるようですが、運転手さんがガソリンを利用できる職務であることから、外国の観光客をもてなす運転手さんがガソリンをつかってハマグリを焼いたことからはじまったという説があるようです。日本の場合は、運転免許はオートマティック車でゴーカート場のような場所で練習して取れてしまいます。しかし、朝鮮では車を運転できるだけではなくて、きちんと車を修理し、整備できる技能がないと運転免許が取れないので、運転免許はたいへん高度な免許であると聞きました。大洞江ビールやソジュという朝鮮の焼酎といっしょに、ハマグリを食べるのがハマグリのガソリン焼きの一つのスタイルになっているようです。

8月14日、解放記念日の前日、龍岡温泉から平壌に帰る途中で、女性たちがきれいな服を着て踊っていました。解放の日をお祝いして踊っていると聞きました。

スーパーマーケットにも立ち寄りました。スーパーマーケットでも解放記念日セールと銘打って営業しており、そこで買い物をさせてもらいました。

基本的には現地のお金を観光客は使わないようになっています。スーパーマーケットで買い物をするときは、そこに設置された両替所でガイドさんが中国元や米ドル、日本円を現地のお金に交換してくれて買い物ができるという仕組みになっていました。現地のスーパーマーケットで買い物をしたところ驚くほど安い値段でした。観光客用のレストランでは1杯500円のビールを飲んでいましたが、スーパーマーケットだと500円だせば、ソジュやお菓子、ラーメンなどたくさん買えてしまって、こんなにたくさん買えてよいのかととまどうほど安かったことを覚えています。

平壌では地下鉄にも乗りました。平壌の人たちの雰囲気やファッションなどは地方との格差がかなりあると教わりました。みなさんとても背筋が伸びており、女性はボディコンシャス(女性の身体のラインをそのまま、あるいは強調する意)というのでしょうか、きちっとしたタイトスカートをはき、ハイヒールを履いて闊歩するというようなイメージでした。よくテレビでみる金正恩委員長の妹である金与正さんの格好が平壌のスタンダードになっており、平壌にいたときには金与正さんのような髪型や服装の女性がたくさん歩いていたという印象をうけました。

地下鉄では、旧式の車両と新式の車両があったのですが、ガイドさんにしたがって新式の車両に乗りました。その車両は比較的混んでいました。わたしたちは座らなければならないような年齢でもありませんが、中学生ほどの少年たちが、サッと立って席をゆずってくれました。たいへん礼儀の正しい、きちんと教育をされている印象で、うちの子たちとはずいぶんちがうと実感させられました。

後で朝鮮の人に聞いたら、外国のお客様を国として精一杯もてなすように教育されていると言われました。わたしは日本人で、顔をみただけでは外国人とはみえないと思い、ガイドさんに、わたしは外国人に見えますかと聞いたら、朝鮮の女性でそんな髪の毛の色にしている人はいませんと言われました。

凱旋門にも立ち寄りました。日本帝国主義の植民地支配から解放され、金日成主席が祖国に凱旋し朝鮮人民の前に姿をみせ、挨拶をした場所が凱旋門の前にある金日成競技場だという説明をうけました。

金正恩委員長が指導して建設された大規模なプール施設、「紋繍遊泳場」にも訪れました。日本でもこんなに大きなプール施設は見たことがありません。施設のなかにはビールを飲めるバーもあれば美容院もあります。美容院には数種類の髪型が表示されており、好きな髪型を選ぶことができるようになっています。男性の髪型で一番人気があるのは何だと思うかと聞かれて、皆目見当がつかないでいると、金正恩委員長と似た髪型がいま一番人気があるとのことでした。

朝鮮で有名な大洞江ビールを飲める場所に行きました。平壌にいくつかあるようです。1番から7番の種類の異なるビールを選んで飲むことができます。わたしが飲んだのは1番と2番、7番だったと思います。普通のラガービール、そしてコメからできたビールはさっぱりしてすごくおいしいものでした。さらにいわゆる黒ビールは、ギネスビールに比べて味がさっぱりしており飲みやすいものでした。まだ暑い時期だったので、すごくおいしくありがたくいただきました。しかし、値段は外国人向けの料金で、たしか1杯500~600円程度だったように思います。

また板門店にも行きました。板門店は観光客で混雑していて、わたしたちは小グループだったことから、大型観光バスで乗りつけたグループに先を越されるとあちこちで混むからと、だいぶせかされたことを覚えています。

板門店への道中には休憩所があり、トイレや売店があるサービスエリアでしたが、中国やヨーロッパの観光客で混雑していました。

朝鮮戦争停戦協定交渉の場にも訪れました。たくさん観光客が訪れていたために、なかまと2人だけで写真を撮ることができなくて、たくさんの観光客といっしょに写真を撮りました。

板門店の停戦会議場を見学

トランプ大統領や金正恩委員長、文在寅大統領などが会合をおこなった場所も参観しました。金正恩委員長と文在寅大統領、金正恩委員長とトランプ大統領が、たがいに肩を並べ握手し、談笑しながら境界線をまたいだ、世界に配信された写真はこの近辺で撮られたものです。板門店は分断の象徴であり、北側から見た様子と南側からみた様子はちがっているようです。北側からも南側からも板門店に行ったことのある人の話を聞くと、南側のほうが警備が厳しく、緊張していて怖いということでした。北側のほうはわりとリラックスしていて、怖いという印象はありません。軍人が案内するのですが、観光ガイドに徹していて、いっしょに写真を撮ってくれたりするのです。その日は、韓国人の研修グループが軍事境界線の向こう側に見えました。軍人のガイドさんの話では、韓国側の見学者がこんなに間近に見えることはまずないと言っていました。めずらしいことだったようです。わたしは観光気分だったせいもあり、思わず向こう側に手をふってしまい、さすがにやめるように言われてしまいました。南北はいまも戦争状態(停戦状態)なので、手をふるまでしてはいけなかったことでした。

板門店をでると、近くに開城があります。開城は高麗王朝の古都だったのでいろいろな史跡をみました。驚いたのは、いろいろな場所がユネスコの世界遺産の指定をうけているということでした。日本や他の国だったら参観に際して入場料をとり、お土産の店が軒を並べていたりして、観光化されていると思いますが、開城の史跡群は資本主義的な金儲け主義とは無縁でした。誰でも参観できるようになっており、1000年以上も前の史跡がお土産の店は一つもなく閑静なたたずまいだったのですごく印象にのこりました。閑静なたたずまいの史跡でも、手をつないで参観に向かう微笑ましいカップルをみかけたのでシャッターチャンスを逃しませんでした。

都として開城が栄えた時代の両班のご馳走をランチで食べさせてもらいました。参鶏湯を注文して、たいへんおいしくいただきました。

朝鮮三大名滝の一つといわれている朴淵の滝も訪れました。暑かったので身体をいくらかでも浸すことができ、とても気持ちのよい時間を過ごしました。

最後の晩は、あひるのバーベキューをみんなで食べ、楽しいひと時をすごしました。


ガイドさんとの交流


若いガイドさんが、朝鮮の歴史や政治的立場をいろいろ解説してくれました。彼の歴史観や政治にたいする見解はたいへん興味深く、たくさんのことを学ばせてもらいました。びっくりするような発言もありましたが、日本人が考えたこともないような視点を提供してくれるので、たいへんよかったと思います。

日本人は朝鮮の統一について、朝鮮は独裁政権であり、民主主義国ではないというような見解をもって、統一するなら朝鮮が韓国のようになると漠然とイメージしている人が多いと思います。ドイツは西ドイツが東ドイツを吸収合併するようなケースだったわけです。彼が強調していたのは、ドイツのような統一のモデルを考えているとしたら大間違いだ、統一して一方の体制になるというのは、イコール戦争という意味だからだ、と言っていました。西ドイツが東ドイツを吸収合併したようなやり方では合意できないし、戦争を再開することになるという意味だと理解しました。彼の言った「イコール戦争」という表現にとても驚きました。

朝鮮半島の分断にたいする日本の責任という意味では、もちろん日本の植民地支配があります。ガイドさんは、当時38度線以南に駐留していた日本軍が、わざとアメリカに降伏して朝鮮の真の独立を阻んだという表現をしていました。

わたしは広島と長崎に行き平和問題に深くかかわってきたことから、原爆のことも聞いてみました。ガイドさんは、「アメリカは原爆を投下する必要はなかった」と言いました。日本でもアメリカでも日本の降伏の第一の要因をソ連の対日参戦ととらえる歴史家はいますが、彼もそのような考えだったと思います。

そのうえで、彼は日本の侵略戦争が「あと1か月つづいていれば朝鮮半島は分断されなかった」と言っていました。戦争が長引けば朝鮮の分断はなかったというのは、たいへん興味深い発言だったと思います。戦争があと1か月つづいていれば、ソ連の影響下で、朝鮮半島の分断なき真の朝鮮の独立が実現していたはずだという意味だったと思います。

ガイドさんは南朝鮮にはいまも核兵器が1000発あると言っていました。本当かどうかは、わかりませんが、核兵器の存在が嘘だとも言いきれません。実際韓国と日本の米軍基地に本当に核兵器がないかどうかなど調べようもないのです。いずれにせよ、日本と南朝鮮は、アメリカという核兵器大国の傘下にあるので、核兵器が物理的にあろうとなかろうと、朝鮮の人にとっては南朝鮮も日本も核保有国に等しいのだと思います。

沖縄にも冷戦期には核兵器が1300発も中国にむかって配備されていまいた。沖縄が日本に復帰する前に、アメリカは核兵器を沖縄から撤去したということになっていますが、第三者が検証したわけではありません。沖縄のかなりの人は、まだ核兵器は沖縄にあるのではないかと疑っていますし、検証することもできません。各国の米軍基地もIAEA(国際原子力機関)が査察でもしないかぎり、核兵器が存在するかしないかはわからないのです。南朝鮮に核兵器が1000発あるという言葉は、核にたいする脅威をあらわす言葉だったのではないかと思います。

朝鮮滞在の最後のほうで、ガイドさんはわたしに、「一つの民族が分断されているのは世界でも朝鮮だけです」とポツリと言いました。わたしはガイドさんの言葉を聞いて、重いものを背負わされたような気持ちをもちました。

わたしは、高校生のときからいろいろな体験をしながら学んだこと、日本人として植民地支配と侵略戦争について学んだことを反省するというような気持ちでずっと活動をしています。

朝鮮民主主義人民共和国にたいしては、西側世界でものすごく悪魔化しており、朝鮮と言えば「核、拉致、ミサイル」というように、日本人は自動的に敵視政策にそった考えをするようになってしまっています。日本人が朝鮮にたいして否定的イメージをもっているのは、メディアが連日のように悪口ばかり書いている結果だと思います。朝鮮にたいする偏見をまずは克服しなければならないと思いました。朝鮮の1人の人とでも心と心を通わせるような交流ができれば、かけがえのないものになると思います。わたしたちが交流できた朝鮮の人たちというのは、もちろん限定的であり、政府の管理下で観光客に朝鮮を正しく伝えるように案内しなさいと指導されているガイドさんたちです。それでも、わたしたちの接した3人のガイドさんは、本当に心をこめた案内をしてくださったと感じました。


朝鮮と交流を深め正しく理解する


最後に空港でわかれるときは本当に涙がでました。ガイドさんたちに、これから朝鮮のことをよろしくお願いしますと頼まれてしまいました。何をお願いされたのか、そこまで聞くことはしませんでしたが、ガイドさんらの思いはわたしに伝わりました。朝鮮のことが世界にもっと正しく理解されるように、偏見がなくなるようにお願いします、ということだったとわたしは理解しています。

ガイドさんと重い話もしたし、すごく楽しい旅でもあったのですが、最後の最後にたいへんなことがおきました。訪朝した4人は無事に帰国の途に就きました。北京経由で、わたしは羽田空港から、沖縄の友人は那覇空港から、在日朝鮮人の2人は上海経由で福岡空港から日本に入国しました。

ところが在日朝鮮人の2人は、福岡空港でほとんどのお土産を没収されました。これは日本独自の制裁の一環なわけです。日本政府は法的根拠として「外国為替及び外国貿易法に基づく北朝鮮に係る対応措置について」という閣議決定に基づいているようですが。経産省のホームページでは、「北朝鮮を原産地又は船積地域とする全ての貨物について、経済産業大臣の輸入承認義務を課すことにより、輸入を禁止します(関係条文:外為法第52条)」とあります。在日朝鮮人の友人は、10品目までお土産を持って帰ってよいと言われたようです。それでもほとんどのお土産を没収されてしまった在日朝鮮人の2人は、福岡空港での理不尽な措置にたいして何時間にもわたって抗議したということです。さらに税関の職員から、みずから手放すことが書かれた「任意放棄書」という文書に品名、数量等を記入させられ、署名までさせられたのです。自分は手放したくもないのに、何をどう手放すのかというのを全部強制的に書かされたのです。せっかくの祖国訪問で楽しい思いをした2人にとっては、本当に屈辱的なことであり、最後にすごく悔しい結果になってしまったのです。

税関の職員は、別に在日朝鮮人だから差別しているわけではなく、誰にでも同じ適用をしていると話したようですが、わたしと沖縄の友人はまったくフリーパスだったのです。わたしたち2人も朝鮮から帰ったということがわかれば、荷物を開けられて、調べられて、とられていたでしょう。し、朝鮮は出入国するときパスポートにスタンプは押さないのですが、中国の出入国記録として2回入国が連続することから、税関職員が中国の入国から再入国の期間、どこにいたのかとつっこめばつっこむことができるのです。しかし中国から帰国する日本人のパスポートをくまなく全部調べることまでしないのでしょう。結局わたしや沖縄の友人はフリーパスでお土産も全部もって帰ることができました。

いまにして思えば在日の友人のお土産をすべてわたしたちが引き受けてもって帰ればよかったのかもしれませんが、そこまでは思いがいたりませんでした。没収されたという話を聞いたので、わたしのお土産はとっておいて、今年のはじめに在日の友人2人と会って、いっしょに朝鮮のお土産パ-ティーをホテルで開きました。

朝鮮を訪問する日本人のなかにはひどい人がいるようです。わざわざ朝鮮に行っているのに、朝鮮革命博物館の日帝時代におこなわれた残虐行為が展示されているのをみて、“日本の悪口ばかり書いてある、けしからん”などと言ったり、ガイドさんの説明の途中で帰ったり、怒りだしたりする人がいるようです。その点、わたしや沖縄の友人は、わりとめずらしい日本人として朝鮮の人たちはうけとめていたようです。

わたしは以前から、人と人とのつながりは大事にしなければいけないと思うようになりました。

日本は韓国との交流はしても、朝鮮との交流はしない、朝鮮を無視するという傾向が顕著です。日本軍「慰安婦」の問題、徴用工問題について、日本は韓国にたいして一方的に無視するようなことはできませんが、朝鮮にたいしてはその種の問題がないかのようにふるまっています。植民地支配による被害というのは南も北もないわけですから、本来は同等にあつかうべきです。日本と朝鮮とのあいだに生じた拉致問題というのは、もちろん大事な問題ですが、それ以上に40年の植民地支配の中で及ぼした甚大な加害に向き合うことは大事だといえます。日朝平壌宣言においても「不幸な過去の清算」について強調されていますが、この点が多くの日本人の意識から欠落していると思います。日朝国交正常化においては、植民地支配の清算問題、現在の在日朝鮮人の地位に関する問題に誠実に取り組むことが大切です。そのためにはまず、朝鮮学校無償化除外という差別政策をやめるべきです。

当初の問題意識にもどりますが、韓国であれ朝鮮であれ、わたしたち日本人一人ひとりが朝鮮植民地支配の被害者の立場にたって過去清算の問題を解決し、さらに朝鮮戦争を終結させることが大事だと思います。そのためにここ数年間、金正恩委員長、文在寅大統領、トランプ大統領がいろいろな試みをしてきたわけですが、わたしはアメリカがバイデン政権になっても、展望が明るくないと実は感じています。

朝鮮半島の非核化の流れを止めずに、米国および属国による朝鮮への敵視政策を終わらせて、朝鮮戦争を終結させ、東アジアの平和に一歩でも近づくことができることを願ってやみません。

(2020年11月23日)