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Monday, September 06, 2021

浦島悦子作・なかちしずか絵『ジュゴンの帰る海』Picture Book "Dugongs Return to the Sea" by Urashima Etsuko (text) and Nakachi Shizuka (picture)

 


沖縄・名護市の作家、浦島悦子さん作、同じく名護市の画家、なかちしずかさん絵による絵本『ジュゴンの帰る海 ヤンバルの海から命のメッセージ』(ハモニカブックス)を紹介したい。辺野古の海を壊し、地域を分断し、県民のマジョリティが反対している軍事基地建設を強行しているその現場には私も一年半以上行けていないし、コロナで人が減っていると思う。そんな中でこの本が出たことは大変重要だ。

主人公のマカトは、生まれてまもなく両親がパラオに出稼ぎに行き、祖父母に育てられていた。おじい、おばあに守られ、海にもぐり、ザン(ジュゴン)と触れ合い、父母を待ちながら暮らしていたが、沖縄は戦火に包まれ・・・「ザンはニライカナイの神さまのおつかい」。家族を失い、ときは経ち、マカトはあのザンと再会することになる。基地建設で餌場を奪われ、変わり果てた環境の中で。


「ザンの生きる海を埋め立ててはいけない!」

その声が日本じゅう、世界じゅうにひろがっていきます。

日本もアメリカもザンには勝てません。

(絵本より)

 名護市東海岸に住むジュゴンは基地建設が進むにつれて姿を見せなくなってしまったという。浦島さんは「あとがき」で、「私たちが『野生の力』を信じ、やるべきこと、やってはいけないことを守っていけば、この地にジュゴンたちが戻ってくる日も遠くはないでしょう」と訴える。「やってはいけないこと」は基地を造ることであり、「やるべきこと」は基地を止めることと思う。選挙が近づいている。基地を止めることができる政権を選ばなければいけない。

ジュゴンの帰る海』はここからいろいろな書店サイトで注文できるようだ。読者にとって、マカトと一緒に海に潜り、ザンの肌に触れることができるようなこの本を、一人でも多くの人に手にとって欲しい。

乗松聡子


Monday, August 30, 2021

講演録「わたしの目で見た朝鮮 -日本の植民地主義を問う-」(20年11月23日、群馬で)DPRK seen with my eyes - Questioning Japanese colonialism (Nov 23, 2020 in Gunma)

 2020年11月23日 金曰成・金正日主義研究群馬連絡会に招かれ群馬教育会館で行った講演の記録が『金日成・金正日主義研究』176号(2021年1月)に掲載されました。これを許可を得てここに転載します。ちょうど、『ちょっと北朝鮮まで言ってくるけん』というドキュメンタリー映画が封切りされたようなのでいいタイミングとなりました。昨年以来のドラマ『愛の不時着』のヒットによっても朝鮮民主主義人民共和国への関心が高まっているように思えます。この半年後にはコロナで旅行ができなくなったことを考えると、貴重な体験をできたと思います。北米でも日本でも、友人に朝鮮に行ってきたと言うと目を丸くして関心を示されることが多いので、ここで旅行記を誰にでも読めるようにシェアします。今はコロナで無理ですが、ほとんどの日本の人が知らない(私も知らなかった)ことは、日本からの観光旅行が可能ということです。私はJSツアーズという会社を通して行きました。ガイドさんによると日本人観光客で20回以上のリピーターもいるとか。中外旅行社という会社もあります。コロナが収束して旅行が解禁されたらぜひ行ってみてください。


わたしの目で見た朝鮮

-日本の植民地主義を問う-


ピース・フィロソフィー・センター代表 乗松聡子


 本日は3連休の最中で、行楽日和であるにもかかわらず、わたしの講演を聞きに来てくださいましてありがとうございます。

 今回、金日成・金正日主義研究群馬連絡会主催の集まりでの講演を依頼されたとき、驚きました。チュチェ思想を研究しているみなさんに、わたしが話をすることなどないのではないかとも思いました。しかし、逆にわたしは25年間海外にいる日本人として、日本の植民地主義に直面させられるような体験をしたり、植民地主義をなくしていこうとしたり、さまざまな活動をしてきましたので、わたしが何を経験し、どのような活動をしてきたのか、また2019年はじめて朝鮮民主主義人民共和国を訪れることができたときの体験などをふくめて、お伝えできたらよいと思いました。

 本日は、前半はわたしが朝鮮を訪問するまでにたどった道のりや最近考えていることなどについて、後半は朝鮮を訪問したとき、どのような思いを抱きながら過ごしたか、帰ってきた後どのような体験をしたのかということなどをお話させていただきたいと思います。


1、訪朝にいたるまでの歩み


日本のヘイトを危惧する


 まず、わたしは25年ほど海外にいたと申しました。日本に帰国して滞在する期間が今回、2か月になります。こんなに長く日本にいるのは、25年ぶりになります。わたしはカナダのバンクーバーに住んでいますが、日本の報道はつねにバンクーバーから見ています。わたしはかれこれ50数年生きていますが、日本がいまのようにヘイト(憎むこと、憎悪)に満ちた状態にあるというのは、生まれてこのかた、なかったのではないかと思います。少なくともわたしの記憶にはありません。日本がヘイトに満ちていることについて、わたしはたいへん危惧しています。とりわけ、いわゆる「ネトウヨ」(ネット右翼)によるヘイトはインターネットが普及してからたくさんあると思いますが、公的機関によるヘイトが、急激にふえてきたというのを感じています。

 朝鮮高校の無償化除外の差別、またコロナ禍における主に大学生などへの対応として、学びの継続のための「学生支援緊急給付金制度」からも朝鮮大学校は排除されています。他にも群馬では、県立公園・群馬の森にある朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑の設置許可を県が更新しなかったのは違法だとして不許可処分の取り消しなどを求めている訴訟がおきており、わたし自身も関心をもっています。

 かつての植民地支配を全般的に否定する傾向が、公的であれ民間であれ、幅広いかたちであらわれていると思います。1923年の関東大震災直後の朝鮮人虐殺は、群馬でもあったと聞いていますが、朝鮮人虐殺の事実を否定したり、無視したりする風潮があります。東京都でおこなわれている、関東大震災の際に虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式典に小池百合子都知事が追悼文をおくることを拒否する状態がつづいています。歴代の都知事は追悼文をおくっていました。右翼的な石原慎太郎都知事ですら追悼文をおくっていたのです。小池都知事は、東京都の式典で犠牲者をみな追悼しているという趣旨のことを言い、地震災害の犠牲者と虐殺された朝鮮人を同列視しており、結局朝鮮人虐殺はなかったものとする意図があるでしょう。

 朝鮮人の強制徴用、強制動員の否定、歪曲の一つとして、東京都新宿区にある総務省別館の敷地内にできた「産業遺産情報センター」の展示があります。2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」という名で23か所がユネスコの世界遺産として登録され、その世界遺産が産業遺産情報センターで紹介されています。

コロナ禍のためにいま完全予約制になっています。わたしは10月と11月、2回行きました。2015年、世界遺産登録に際して日本政府は「1940年代にいくつかのサイトにおいて,その意思に反して連れて来られ,厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいたこと」が理解できるような措置を講じると約束していましたが、この展示館はその約束を果たさないどころか、逆に強制動員歴史を否定、歪曲するとんでもない場所でした。

 展示のなかに長崎県にある端島(通称、軍艦島)が紹介されています。軍艦島は石炭が海底炭鉱で採掘され朝鮮人、中国人が強制労働させられたところで数々の被害者の証言がでています。ところが産業遺産情報センターでは、元島民というガイドたちが、「日本人も朝鮮人も仲良くやっていた」、「朝鮮人に対する差別も虐待もなかった」、というような、被害者の証言を真っ向から否定するような紹介がなされているのです。

産業遺産情報センターは政府の予算でまかなわれている政府の機関です。2015年の産業革命遺産のユネスコ登録は産業遺産の民間研究者であった加藤康子氏を中心にすすめられました。2015〜2019年、安倍政権のときに内閣官房参与を務めた加藤氏が運営している財団が政府から仕事をもらい、展示しているのです。産業遺産情報センターに行ったとき、元島民のガイドは、「韓国が嘘をついている」、「韓国が約束を破った」などと言い、韓国の人のことを「連中は」といった表現で非難していました。広報を担当するガイドがこのような暴言を吐くのです。これも公によるヘイトの一つではないかと思います。


NHK「ひろしまタイムライン」問題


 さらにNHK「ひろしまタイムライン」問題というのがあります。NHK広島放送局が戦後、原爆投下75周年という節目に、当時の住民にSNS(ツイッター)が可能であったならどのようなツイートをしたかという企画をたてたのです。いまもまだお元気な当時の広島市民の日記などをもとにして広島にゆかりのある人がツイートする趣向でおこなわれました。つぎつぎにツイートされるなかで、問題化したツイート文というのは、つぎのようなものでした。

 「朝鮮人だ!!大阪駅で戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!」

 「『俺たちは戦勝国民だ!敗戦国は出て行け!』圧倒的な威力と迫力。怒鳴りながら超満員の列車の窓という窓を叩き割っていく そして、なんと座っていた先客を放り出し、割れた窓から仲間の全員がなだれ込んできた!」

 そのようなツイートにたいして、多くの在日朝鮮人を傷つけるものであり、差別やヘイトを助長しているという批判の声があがりました。在日本朝鮮人総聯合会や在日本大韓民国民団が人権救済の申し立てという法的行動をとっているにもかかわらず、いまだに開き直ったかのようにNHK広島はツイート内容を削除していません。それどころかツイッターからわざわざホームページに「移設」するという確信犯的なことを行ったのです。わたしは10月に広島へ行ってシンポジウムをおこない、NHK広島にたいして直訴しましたが、反省し、削除しようという動きさえまったくないという状態がつづいています。NHKは日本を代表する公共放送であり、これも公によるヘイトの一つだと思います。

 こうして見ていくと、わたしは「戦後75周年」と銘打って、日本中でテレビ番組や展示会、書籍や雑誌といった出版物の発行など、いろいろありましたが、決定的に欠如しているのは、日本の近現代の正しい歴史認識です。とりわけ大日本帝国の歴史が何であったのかということは、ほとんどの人が興味もない、わかっていない、わかろうともしないという状況です。戦争の記憶というと、自分たちの街に空襲があり被害がでた、広島、長崎に原爆が投下され、おびただしい被害があった、食べ物がなくてたいへんだった、家族が兵隊にとられた、シベリアに抑留された、というようなことなのです。もちろんたいへんなことだったと思いますが、70年以上におよぶ大日本帝国の植民地支配と侵略戦争の歴史をまったく語らずして、その末期の日本の人たちが被害をうけた部分だけを戦争の記憶だというならば正しい認識とはいえないでしょう。いま安倍政権、菅政権というたいへん右翼的な政権が公のヘイトを主動しています。右翼的な政権が主動しておこなうヘイトに、人々の歴史認識が影響をうけ、引きずられてしまっているといえます。朝鮮にたいする差別が助長されてしまっているのです。戦後わたしたちが教育やメディアのなかで、隣国の人たちを蔑み、憎しみ、支配下におき差別するというような影響をうけ、またわたしたちの親や祖父母の世代の差別意識のようなものを無意識のうちにうけとっており、それを克服してこられなかった戦後の日本人が、少なからずいるのではないかと、自分自身をふくめて思っています。

 そのような問題意識をわたしは何十年もかけてもつようになりました。同世代で同じような問題意識をもつ人は少なくて、わたしは圧倒的な少数派だと思っています。


わたしの活動の原点


 わたしの原点は、40年近く前、高校生のときカナダに留学して、そのときにいろいろ気づかされたことにあります。まだ17、18歳でしたが、カナダの西海岸にあるビクトリアというところで留学生活をおくりました。学校にはカナダ人だけではなくて200人ほど世界中から学生が来ていました。そこでわたしは日本の歴史の授業で大事なことを何も学んでこなかったということに気づかされました。わたしは日本人だから広島、長崎の体験を伝えなくてはならないという感覚を当時はもっていました。ルームメイトや付きあった男子学生、仲良くしていた友人がインドネシアやフィリピン、シンガポール、中国出身の人たちでした。この友人たちは自分たちの国で日本軍がいかにひどいことをしたかということを学んでおり、わたしに教えてくれました。

 そのときわたしは大きなショックをうけ、しばらくは信じられないような気持でした。アジアのなかまに教えられたことは、いまにしてみれば、幸運なことだと思っています。カナダはいわゆる欧米に属するのでしょう、白人が主流の社会で、英語がまったくできなくてつらい思いをたくさんしていたので、そのときにアジアのなかまたちからたいへん助けられました。カナダに留学した高校の2年間は、自分の人格形成に決定的な影響をおよぼしたと思っています。

1984年、カナダのピアソン・カレッジで
(左下が筆者)

 いまでも、日本人としての誇りをどう思いますか、あるいは愛国心についてどう思いますか、などと聞かれることがありますが、わたしはどちらかというと自分のアイデンティティは日本人であるよりもまえに、アジア人であるという感覚をもっています。これは高校生のときだけではなくて、25年間カナダに住み、アジア系のカナダ人がたくさんいるところで暮らしてきて、やはりアジア人同士の助けあいはたいへんありがたいと思って生活していることもあるからでしょう。だからこそ同じ日系の人たちが、たとえば日本軍「慰安婦」の記憶をのこすために少女像を建てよう、あるいは南京大虐殺の記憶をのこすために記念日を設けようという動きがあったときに、同じ地域に住んでいる日本人や日系人が躍起になって反対したりするのを目の当りにするとたいへん悲しい気持ちになりました。その反対する背後には日本の保守派や日本政府が存在しているわけですが、海外にいる日本人や日系人も日本政府の影響でたいへん右傾化してきています。そのような状況があり、わたしもかなり孤立してしまったりするというような体験をしています。

 わたしがいまのように社会的な活動をしはじめたのは、21世紀にはいってからのことです。2004年にバンクーバーで「9条の会」をつくるという動きがあり、それに加わりました。当時、日本でも9条の会があり、加藤周一氏、小田実氏、井上ひさし氏などが名をつらねていましたが、多くの方が亡くなってしまいました。澤地久枝氏や大江健三郎氏などはまだ生きておられます。当時、小泉政権下で、日本が「普通の国」になって、イラク戦争への参加の是非を問うような議論がおこっていたときで、憲法9条がないがしろにされるのではないかという危機感が強まっていたときでした。当時バンクーバーという日本国外で9条の会を結成するというのはたいへんめずらしい動きだったのです。その後2006年に「世界平和フォーラム」という会議がバンクーバーで開催され、日本の9条の会や被爆者の方、原水協(原水爆禁止日本協議会)、原水禁(原水爆禁止日本国民会議)の人たちなどがたくさん参加しました。彼らのなかにはカナダにも9条の会があると知って驚いた方も多く、バンクーバー9条の会は影響力を少しもてたのではないかと思っています。

 バンクーバー9条の会の活動として、8月になったら広島と長崎の記憶をするための原爆展をおこなったり、みんなで折り鶴を折って飾り、平和を祈願したりするというような活動をしました。

2009年、日米学生の広島・長崎の旅
(前列右から3人目が筆者)

 さらにわたしは日米の学生の広島、長崎への学習旅行に15年ほどかかわっています。アメリカン大学と日本の大学の学生が広島、長崎に行って歴史をいっしょに学ぶというプログラムです。アメリカン大学というのはワシントンDCにある大学で、日本の大学は立命館大学、2018年以降は明治学院大学です。今年はコロナ禍により旅行が中止になりました。わたしは主に講師や通訳として旅に参加しています。2011年、「はだしのゲン」の作者の中沢啓治さんの通訳をつとめました。中沢さんは翌年の2012年に亡くなられてしまいました。


日本は加害者である


 しかし活動しながらも、何かがちがう、何かが足りないというのを自分のなかで感じはじめました。高校生のときの体験は前述しました。これまで、たとえば日本国憲法の9条がすばらしい、9条を世界に広めようというような活動をしてきましたが、そんななかで「沖縄」と出会ったのです。

 そこで沖縄の人たちから、日本国憲法9条は貴重だというけれども、そこにはたくさんの欺瞞がある、沖縄に多くの米軍基地をおしこめて、日本の「本土」の人たちは偽りの平和を享受しているだけだと教えられ、わたしは沖縄の現実に直面させられるようになったのです。日本には沖縄にたいする責任があり、これも日本の植民地支配、侵略戦争の結果問われた責任だと思いますが、日本の責任をしっかりと考えていかなければならない、憲法9条だけを主張しても、たいへん偽善的なのだと考えるようになりました。

 広島、長崎の旅をつづけてきて、だんだん気づいてきたのです。「唯一の被爆国」と言う人は多いですが、日本人の被害ばかりを強調するのはおかしいのではないかと、考えるようになりました。

 広島は「国際平和都市」と宣伝しており、広島の平和記念資料館に行くと被爆の被害はたくさん展示されています。しかし、そもそも広島というのは大日本帝国の侵略戦争の一大拠点だったのです。日清戦争、義和団の乱鎮圧(1900〜1901年)、日露戦争などにしても、朝鮮の植民地支配、日中戦争、にしても、さらに太平洋戦争にしても、広島が重要な役割を果たしていたのです。たとえばマレーシアで華人を多数虐殺した部隊というのは広島の部隊です。広島には侵略の拠点としての歴史があるのですが、「平和」を象徴する広島の資料館には加害の資料はほとんど展示されていません。広島の被害について、たいへんエモーショナルに(感情に訴えるように)展示するのは良いのです。しかし、たとえば中国への侵略戦争のことは日中戦争が「勃発した」というように、ただ「起こった」と淡々と述べているだけです。被爆者の10人に1人か、それ以上が朝鮮人であると言われています。被爆者の中に朝鮮人が「いた」ということは言っても、植民地支配のゆえに日本に来た、または連行された末に被爆させられた人たちだということ、朝鮮人被爆が日本の植民地支配の一環として生じたということをまったく論じていないわけです。

 広島と長崎は平和の拠点と言いながら、現在も日米同盟の大軍事拠点であり、アメリカが対中国の戦争準備が進んでおり、日本がそれに加担している一大戦争拠点でもあるのです。しかし広島、長崎が昔も今も侵略拠点であるという部分がまったく人々の認識から欠落していることを感じます。

 こうした問題に気づくのに残念ながら少し時間がかかりました。

 朝鮮人原爆被害者について言うなら、1945年8月の時点で広島市に約9万人、長崎市が約7万人の朝鮮人がいて、広島では約5万人が被爆、そのうち約3万人が亡くなったとされ、長崎では約2万人が被爆、そのうち約1万人の方が亡くなったと言われています。予想の域をはるかにこえた被害がでているわけです。

 広島には韓国人の原爆犠牲者のための慰霊碑があり、毎年8月5日に追悼式がおこなわれています。

長崎では、8月9日の長崎市の式典の前に早朝集会というかたちで、「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」が主催して追悼集会がおこなわれています。長崎には「岡まさはる記念長崎平和資料館」があり、そこでは主に日本の加害の歴史を展示しています。この資料館の関係者もこの早朝集会を支えてきました。早朝集会は日本の市民による植民地支配の反省、謝罪の意味も込めておこなっており、朝鮮の南北にかかわらず朝鮮人被爆の犠牲者を追悼しています。

わたしたちの旅のグループは、朝鮮人被爆や日本の加害をしっかり記憶するように、たとえば広島では毒ガス工場があった大久野島も訪問したりしています。岡まさはる記念長崎平和資料館にもかならず行くようにしています。

2013年にアメリカの映画監督であるオリバー・ストーン監督が来日し広島、長崎を案内したときに、オリバー監督は岡まさはる記念長崎平和資料館も参観しました。オリバー監督は広島、長崎、東京、沖縄を訪問しましたが、岡まさはる記念長崎平和資料館を「アトロシティミュージアム(atrocity museum)」、いわゆる「虐殺資料館」と呼んでいました。彼は岡まさはる記念長崎平和資料館をたいへん気に入って、その後あちこちで講演するたびに、日本では小さいがすごい資料館がある、長崎だけではなくて東京にあるべきだとずっと言っていました。

2013年8月、岡まさはる記念長崎
平和資料館を見学するオリバー・ストーン監督

残念ながら東京には加害をしっかり展示する資料館は「アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館」(WAM)ぐらいしかなく、逆に産業遺産資料センターのような過去の歴史を否定するひどい施設が増えてしまっているような気がします。これからわたしもがんばって東京において加害の歴史を記憶することができるようにしていかなければならないと思っています。

今年、画期的だったことは、長崎における早朝集会に、朝鮮民主主義人民共和国の被爆者団体、朝鮮原爆被害者協会からはじめてメッセージが届けられ披露されたことです。メッセージの全文は、ピース・フィロソフィー・センターのウェブサイトに転載しています。朝鮮総聯長崎県本部委員長のキムジョンデ氏がメッセージを読みました。メッセージはたいへん本質をつく内容でした。「日本政府は日本の原爆被害者とは違い、朝鮮人原爆被害者には何の保護、補償も無視されたまま今日に至ってます。これは全く民族的差別によるもの」と断言しました。また朝鮮人被爆者差別は、「日本帝国主義に依るアジア侵略戦争の結果、投下された原爆として、その被害の後遺症で苦しみ、一生精神的肉体的苦痛の中で生きてきた、原爆被害者に対する許す事の出来ない冒とくであり、2重、3重の人権蹂躙犯罪」であると指摘しています。原爆被害者問題は、「日本帝国主義の朝鮮侵略と強占、軍事的支配が生みだした産物」であるということです。

このような朝鮮人被爆の本質をわたしたち日本人は見落としがちなのではないかと思います。外国人の被爆者、朝鮮人の被爆者もいたという程度の認識でとどまってしまい、なぜ多くの朝鮮人が日本にいたのか、植民地支配で連行されたうえに、原爆の被害をうけ、被爆者として戦後も差別されつづけて二重三重の被害をうけたということなのです。長崎で被爆した朝鮮人被爆者の有名な言葉がのこされています。「原爆の火をもっても差別を焼き尽くすことはできなかった」という言葉です。この言葉を聞いたときに大きな衝撃をうけ、いまでも心のなかにのこっています。


2、わたしが見た朝鮮〜心のこもった得難い経験と感動した日々


アメリカを真正面から批判できる国


前述したような問題意識をもって、昨年はじめて朝鮮を訪問することができました。

わたしが朝鮮を訪問したのは2019年8月12日から17日でした。北京空港経由で行ったのですが、本当にわたしはすごくシンプルなことに感動してしまいました。北京空港に高麗航空のカウンターがあり、電光掲示板に高麗航空の何便、平壌行きと、表示されていることだけでものすごく感動したことを覚えています。わたしと沖縄出身の弁護士、2人の在日朝鮮人姉妹の4人の女性でいっしょに朝鮮を訪問しました。わたしたち4人は“女子会”とでもいうように元気いっぱいという感じで訪朝しました。飛行機のなかで朝鮮の『労働新聞』が配られ、わたしと沖縄のなかまは朝鮮語が読めないため、在日朝鮮人の2人に翻訳してもらいました。内容を見せてもらったら、わたしは本当に胸のすくような正しいことを言っているように思いました。たとえば、日本が韓国にたいして経済制裁と称して、半導体の材料など3品目にたいする禁輸をおこなったあとに、さらに貿易においても、いわゆる「ホワイト国外し」をしたと報じていました。日本政府が輸出先として信頼する「ホワイト国」から韓国を除外すると日本政府は決定したのです。日本政府の対応は昨年の8月2日だったので、訪朝したときにちょうどニュースにでてくる時期でした。この日(8月12日)の労働新聞には、「反日機運を逆上させた2次経済制裁」とあります。

他には香港問題への介入を禁止すべきという記事やベネズエラにたいするアメリカの制裁を非難する記事が掲載されていました。いわゆるアメリカが敵国と名指ししている国、たとえばシリア、ベネズエラ、中国、ロシアなどについては、日本やカナダをふくむ西側のメディアは、たいへん悪く書きます。ですから朝鮮の『労働新聞』を読むと、西側の偏向報道が是正されるような気がしました。わたしは沖縄の米軍基地を批判する活動をしてきたことから、朝鮮の『労働新聞』はまさしく基地帝国、軍事帝国としてのアメリカというのを真正面から批判できる媒体なのだと思っています。

平壌空港に到着するとガイドさんがつきました。どのような人数のグループが行っても2人のガイドさんと1人の運転手さんがつくというルールがあるようでした。わたしと沖縄の友人は、観光客という立場で朝鮮を訪問しました。最初は4人全員がすべていっしょに行動するものと思っていたら、在日朝鮮人の2人は祖国訪問というあつかいなので、別の部署が担当し、別の指導員がついて、車も別でした。宿泊するホテルはいっしょで、あちこちの参観がいっしょのときはよかったのですが、別行動のときは少し悲しい気持ちになりました。

朝鮮に到着したときに、ガイドさんに「朝鮮」というのは「鮮やかな朝の国」だと言われて、とても印象にのこりました。

最初に訪問したところは、大聖百貨店というたいへん豪華なデパートでした。ブランド品などもたくさんあって、ソニーのパソコンや大型液晶テレビ、高級感のある朝鮮の洋服など、いろいろな売り場に案内されました。

その後レストランへ食事に連れて行ってくれました。食事にはビールが1杯ついて、1杯目は無料で、2杯目からは1杯5米ドル(約500円)ということでした。朝鮮のお金で500円といえば、かなり高いという感覚でしょう。日本的な感覚だと、居酒屋でビール1本500円は高いというほどではなでしょう、もちろん、日本にはもっと安い店もあると思います。ビールというのはだいたい1杯飲むともう1杯飲みたくなってしまうもので、わたしはついつい2杯目をたのんでしまいました。

わたしたちの泊まったホテルは平壌ホテルというところです。高麗ホテルなどは、外国人がよく泊まる高級ホテルですが、わたしたちは、海外同胞がよく泊まるホテルだということで平壌ホテルに案内されました。今回、わたしたちは在日朝鮮人のなかまといっしょだったことから、朝鮮の同胞がよく宿泊するホテルになったと理解しています。ホテルには、全国から在日の人たちが来ているようで、たいへん興味深い出会いもありました。

平壌外国語大学日本語学科を卒業した通訳も兼ねたガイドさんが2人ついてくれました。1人はベテランの女性で、1人は若い男性でした。彼の話では、いま日本語だけではあまり仕事にならないという現状もあり、英語も中国語も堪能でした。朝鮮から一歩も外にでたことがないのに、3か国語を使いこなしているので、語学エリートといえるでしょう。

高級マンションが建ち並ぶ黎明通りを見学しました。

2019年8月、平壌の黎明通り

朝鮮に入国したときに、注意事項のようなかたちで説明をうけました。ルールというほどのものはそれほどないけれども、軍人の写真は撮ってはいけない、ただし観光ガイドをしている軍人は撮ってもよいということでした。そして金日成主席と金正日総書記の銅像や肖像は敬意をもって正面から全体を撮るようにしてくださいとのことでした。他にはとくにルールのようなものは聞きませんでした。そのような説明をうけていたので、注意を要する対象を撮るときは緊張しました。

チュチェ思想塔も参観しました。塔にのぼると展望台は平壌が見渡せるたいへん眺めのよいところでした。ここに参観してはじめてチュチェ思想研究会という団体があることを知り、恥ずかしい思いをしました。塔の下には、世界のチュチェ思想研究組織のプレートが壁に並べられていました。大阪や群馬の研究会から寄贈されているプレートもあり、日本にもチュチェ思想を研究している人たちがいることを知って驚きました。

大洞江をはさんで周辺を行き来しました。平壌の眺めの美しさはいまも忘れられません。

もう一つ知らなくて恥ずかしい思いをしたのは、朝鮮には平和自動車という国産の自動車製造会社があるということです。その製造工場の前を通過しました。

右:わたしと沖縄の友人はこの平和自動車で案内された。
下:チュチェ思想塔参観後、車に戻る一行

わたしたちが乗った車も2人の在日朝鮮人が乗った車も平和自動車で製造されたものでした。

冷麺で有名な玉流館にも行きました。2018年9月、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の首脳会談のときに、金正恩委員長と文在寅大統領も玉流館で冷麺を食べたということです。

8月15日をはさんで訪朝したことから、朝鮮で迎えた8月15日は少し格別な感慨がありました。8月15日はもちろん日本は敗戦の日ですが、朝鮮では解放の日と呼ばれ、韓国では光復の日と呼ばれています。


祖国解放戦争勝利記念館


わたしたちは祖国解放戦争勝利記念館を参観しました。

朝鮮人民が呼ぶ祖国解放戦争というのは、日本の植民地支配からの解放を指すのではなくて、日本で言われる“朝鮮戦争(1950~1953年)”を指しています。わたしたちが訪れたときには女性の団体が見学に来ていました。韓国にある朝鮮戦争の記念館を見学したことがあります。両国の記念館は敷地内に兵器などが展示されており、ある意味で似ています。しかし韓国の戦争記念館は、国連軍、米軍、韓国軍の兵器が誇らしげに展示されていますが、朝鮮の記念館は米軍から鹵獲した兵器など、いわゆる戦利品が誇らしく展示されていました。韓国と朝鮮の展示品のちがいが印象にのこりました。

順路にそって歩いていると、ハングルで書かれたスローガンがあり、同行した在日のなかまに翻訳してもらうと、“米帝侵略者たちを消滅させよ“という勇ましいスローガンでした。

わたしが祖国解放戦争勝利記念館でうけとめたキーメッセージというのは、ガイドさんも言っていたのですが、金日成主席は日米2つの帝国主義を倒した英雄であるということです。2つの帝国主義を倒したというのは朝鮮革命における金日成主席の業績として高く評価されています。日本人のなかには2つの帝国主義と聞いて理解できない人がいるかもしれませんが、これは当然ながら日本帝国主義とアメリカ帝国主義なのです。朝鮮の博物館は巨大で、とても短時間で見ることのできないほど、量的にも膨大です。

他にも日帝の残虐行為や米帝の残虐行為を展示している「階級教養館」があるという説明をうけ、次回は是非行ってみようと思っています。

2019年8月、マスゲーム観覧席にて、旅のなかまと(右端が筆者)
(写真上はマスゲームがおこなわれるメーデースタジアム)

マスゲーム「人民の国」を見ることができました。このマスゲームは解放後の歴史をつづったものです。朝鮮のマスゲームはたいへん有名で人気があり、他の国ではまず見ることができないでしょう。10万、20万の人たちが出演し創造する一つの総合芸術ともいえる舞台でありショーだといえます。2時間ほどたっぷり楽しませてくれました。マスゲームは外貨収入を得る貴重な手段となっているようでした。たくさんの観光客が来ており、朝鮮の観光客の8割ほどは中国人で、他の2割はヨーロッパの人が多いと聞きました。わたしたちが行ったときも、ベルギーの親子連れやイタリアから来ている団体、ドイツから一人旅で来ている人などがいました。ドイツから1人で来ている人にも2人のガイドと1人の運転手さんがつくようでした。旅行客にたいしてできるかぎりの接待をする姿勢はすごいなと思いました。

8月14日、祖国解放記念日の前日に、万寿台の丘にある金日成主席と金正日総書記の大きな銅像を参観しました。そこを訪れる人たちが後をたたないほど、大勢参観に来ていました。

朝鮮革命博物館で、ガイドさんと
銅像のすぐそばに朝鮮革命博物館があります。金日成主席や金正日総書記がどのように朝鮮革命をなしとげたのかが展示されています。朝鮮革命博物館も巨大な建物で10ぐらいのセクションがあり、わたしたちは抗日革命闘争時期のセクションしか参観できませんでした。館内の写真は撮ることができませんでしたが、日帝、米帝とたたかった朝鮮の歴史を学びました。ここでもっとも印象にのこったのは、植民地支配が40年あまりにおよんだという考え方でした。韓国では日本帝国主義の植民地支配の期間を1910年の「韓国併合」とも言われる強制併合の年から1945年までの36年と表現されることが多いのです。朝鮮では40年と言っていたことがたいへん印象にのこっています。40年というのは、1905年の日韓保護条約、第2次日韓協約とも乙巳条約とも呼ばれていますが、外交権を剥奪され、日本の統監政治が施行された年で、事実上執権を奪われた年を起点として40年と数えていると思いました。


平壌市内をはじめ各地を参観


fe6日間の朝鮮滞在のうち、2日間は地方に行きました。1日は龍岡温泉という温泉保養地で、もう1日は板門店に行きました。

その保養地に行く途中は農村地帯がひろがっていて、写真を撮ってよいのかどうかわからなかったのですが、普通の人々の様子を撮りたかったので撮ってしまいました。トウモロコシ畑がとても多いと聞きました。面積あたりの収穫量がトウモロコシは他の作物に比べて多いそうです。

龍岡温泉は高級温泉地として知られているところで、連れて行ってもらったのですが、停電が多かったのです。平壌で停電を経験することはなかったのですが、この温泉地ではしょっちゅう停電していました。部屋に温泉の風呂があり、電力がないとお湯がだせないしくみになっていました。着いた日に温泉にはいろうと思ったら停電になってしまい、結局、はいらないままに疲れて寝てしまいました。翌日、起床してお湯をだそうと思ったら、また停電していてだせませんでした。温泉地に行ったのですが、結局温泉に1回もはいれなくて終わってしまいました。電気が不足し、停電がちというのも西側の制裁と無関係ではないと思いました。他の国で停電があったら怒ったりするかもしれませんが、高級な温泉地に連れてきてもらっただけで感謝すべきで、停電で文句を言ったりしてはいけないと思って我慢したことを覚えています。

わたしたちは、朝鮮の名物にもなっているハマグリのガソリン焼きを他の観光客と同様に楽しみました。ガイドさんと運転手さんは日頃はときちんとしたスーツを着てオフィシャルな感じでしたが、この日だけはラフな格好でいっしょにハマグリ焼きを食べました。運転手さんは手慣れたものでした。ハマグリのガソリン焼きがいつごろからはじまったのかは諸説あるようですが、運転手さんがガソリンを利用できる職務であることから、外国の観光客をもてなす運転手さんがガソリンをつかってハマグリを焼いたことからはじまったという説があるようです。日本の場合は、運転免許はオートマティック車でゴーカート場のような場所で練習して取れてしまいます。しかし、朝鮮では車を運転できるだけではなくて、きちんと車を修理し、整備できる技能がないと運転免許が取れないので、運転免許はたいへん高度な免許であると聞きました。大洞江ビールやソジュという朝鮮の焼酎といっしょに、ハマグリを食べるのがハマグリのガソリン焼きの一つのスタイルになっているようです。

8月14日、解放記念日の前日、龍岡温泉から平壌に帰る途中で、女性たちがきれいな服を着て踊っていました。解放の日をお祝いして踊っていると聞きました。

スーパーマーケットにも立ち寄りました。スーパーマーケットでも解放記念日セールと銘打って営業しており、そこで買い物をさせてもらいました。

基本的には現地のお金を観光客は使わないようになっています。スーパーマーケットで買い物をするときは、そこに設置された両替所でガイドさんが中国元や米ドル、日本円を現地のお金に交換してくれて買い物ができるという仕組みになっていました。現地のスーパーマーケットで買い物をしたところ驚くほど安い値段でした。観光客用のレストランでは1杯500円のビールを飲んでいましたが、スーパーマーケットだと500円だせば、ソジュやお菓子、ラーメンなどたくさん買えてしまって、こんなにたくさん買えてよいのかととまどうほど安かったことを覚えています。

平壌では地下鉄にも乗りました。平壌の人たちの雰囲気やファッションなどは地方との格差がかなりあると教わりました。みなさんとても背筋が伸びており、女性はボディコンシャス(女性の身体のラインをそのまま、あるいは強調する意)というのでしょうか、きちっとしたタイトスカートをはき、ハイヒールを履いて闊歩するというようなイメージでした。よくテレビでみる金正恩委員長の妹である金与正さんの格好が平壌のスタンダードになっており、平壌にいたときには金与正さんのような髪型や服装の女性がたくさん歩いていたという印象をうけました。

地下鉄では、旧式の車両と新式の車両があったのですが、ガイドさんにしたがって新式の車両に乗りました。その車両は比較的混んでいました。わたしたちは座らなければならないような年齢でもありませんが、中学生ほどの少年たちが、サッと立って席をゆずってくれました。たいへん礼儀の正しい、きちんと教育をされている印象で、うちの子たちとはずいぶんちがうと実感させられました。

後で朝鮮の人に聞いたら、外国のお客様を国として精一杯もてなすように教育されていると言われました。わたしは日本人で、顔をみただけでは外国人とはみえないと思い、ガイドさんに、わたしは外国人に見えますかと聞いたら、朝鮮の女性でそんな髪の毛の色にしている人はいませんと言われました。

凱旋門にも立ち寄りました。日本帝国主義の植民地支配から解放され、金日成主席が祖国に凱旋し朝鮮人民の前に姿をみせ、挨拶をした場所が凱旋門の前にある金日成競技場だという説明をうけました。

金正恩委員長が指導して建設された大規模なプール施設、「紋繍遊泳場」にも訪れました。日本でもこんなに大きなプール施設は見たことがありません。施設のなかにはビールを飲めるバーもあれば美容院もあります。美容院には数種類の髪型が表示されており、好きな髪型を選ぶことができるようになっています。男性の髪型で一番人気があるのは何だと思うかと聞かれて、皆目見当がつかないでいると、金正恩委員長と似た髪型がいま一番人気があるとのことでした。

朝鮮で有名な大洞江ビールを飲める場所に行きました。平壌にいくつかあるようです。1番から7番の種類の異なるビールを選んで飲むことができます。わたしが飲んだのは1番と2番、7番だったと思います。普通のラガービール、そしてコメからできたビールはさっぱりしてすごくおいしいものでした。さらにいわゆる黒ビールは、ギネスビールに比べて味がさっぱりしており飲みやすいものでした。まだ暑い時期だったので、すごくおいしくありがたくいただきました。しかし、値段は外国人向けの料金で、たしか1杯500~600円程度だったように思います。

また板門店にも行きました。板門店は観光客で混雑していて、わたしたちは小グループだったことから、大型観光バスで乗りつけたグループに先を越されるとあちこちで混むからと、だいぶせかされたことを覚えています。

板門店への道中には休憩所があり、トイレや売店があるサービスエリアでしたが、中国やヨーロッパの観光客で混雑していました。

朝鮮戦争停戦協定交渉の場にも訪れました。たくさん観光客が訪れていたために、なかまと2人だけで写真を撮ることができなくて、たくさんの観光客といっしょに写真を撮りました。

板門店の停戦会議場を見学

トランプ大統領や金正恩委員長、文在寅大統領などが会合をおこなった場所も参観しました。金正恩委員長と文在寅大統領、金正恩委員長とトランプ大統領が、たがいに肩を並べ握手し、談笑しながら境界線をまたいだ、世界に配信された写真はこの近辺で撮られたものです。板門店は分断の象徴であり、北側から見た様子と南側からみた様子はちがっているようです。北側からも南側からも板門店に行ったことのある人の話を聞くと、南側のほうが警備が厳しく、緊張していて怖いということでした。北側のほうはわりとリラックスしていて、怖いという印象はありません。軍人が案内するのですが、観光ガイドに徹していて、いっしょに写真を撮ってくれたりするのです。その日は、韓国人の研修グループが軍事境界線の向こう側に見えました。軍人のガイドさんの話では、韓国側の見学者がこんなに間近に見えることはまずないと言っていました。めずらしいことだったようです。わたしは観光気分だったせいもあり、思わず向こう側に手をふってしまい、さすがにやめるように言われてしまいました。南北はいまも戦争状態(停戦状態)なので、手をふるまでしてはいけなかったことでした。

板門店をでると、近くに開城があります。開城は高麗王朝の古都だったのでいろいろな史跡をみました。驚いたのは、いろいろな場所がユネスコの世界遺産の指定をうけているということでした。日本や他の国だったら参観に際して入場料をとり、お土産の店が軒を並べていたりして、観光化されていると思いますが、開城の史跡群は資本主義的な金儲け主義とは無縁でした。誰でも参観できるようになっており、1000年以上も前の史跡がお土産の店は一つもなく閑静なたたずまいだったのですごく印象にのこりました。閑静なたたずまいの史跡でも、手をつないで参観に向かう微笑ましいカップルをみかけたのでシャッターチャンスを逃しませんでした。

都として開城が栄えた時代の両班のご馳走をランチで食べさせてもらいました。参鶏湯を注文して、たいへんおいしくいただきました。

朝鮮三大名滝の一つといわれている朴淵の滝も訪れました。暑かったので身体をいくらかでも浸すことができ、とても気持ちのよい時間を過ごしました。

最後の晩は、あひるのバーベキューをみんなで食べ、楽しいひと時をすごしました。


ガイドさんとの交流


若いガイドさんが、朝鮮の歴史や政治的立場をいろいろ解説してくれました。彼の歴史観や政治にたいする見解はたいへん興味深く、たくさんのことを学ばせてもらいました。びっくりするような発言もありましたが、日本人が考えたこともないような視点を提供してくれるので、たいへんよかったと思います。

日本人は朝鮮の統一について、朝鮮は独裁政権であり、民主主義国ではないというような見解をもって、統一するなら朝鮮が韓国のようになると漠然とイメージしている人が多いと思います。ドイツは西ドイツが東ドイツを吸収合併するようなケースだったわけです。彼が強調していたのは、ドイツのような統一のモデルを考えているとしたら大間違いだ、統一して一方の体制になるというのは、イコール戦争という意味だからだ、と言っていました。西ドイツが東ドイツを吸収合併したようなやり方では合意できないし、戦争を再開することになるという意味だと理解しました。彼の言った「イコール戦争」という表現にとても驚きました。

朝鮮半島の分断にたいする日本の責任という意味では、もちろん日本の植民地支配があります。ガイドさんは、当時38度線以南に駐留していた日本軍が、わざとアメリカに降伏して朝鮮の真の独立を阻んだという表現をしていました。

わたしは広島と長崎に行き平和問題に深くかかわってきたことから、原爆のことも聞いてみました。ガイドさんは、「アメリカは原爆を投下する必要はなかった」と言いました。日本でもアメリカでも日本の降伏の第一の要因をソ連の対日参戦ととらえる歴史家はいますが、彼もそのような考えだったと思います。

そのうえで、彼は日本の侵略戦争が「あと1か月つづいていれば朝鮮半島は分断されなかった」と言っていました。戦争が長引けば朝鮮の分断はなかったというのは、たいへん興味深い発言だったと思います。戦争があと1か月つづいていれば、ソ連の影響下で、朝鮮半島の分断なき真の朝鮮の独立が実現していたはずだという意味だったと思います。

ガイドさんは南朝鮮にはいまも核兵器が1000発あると言っていました。本当かどうかは、わかりませんが、核兵器の存在が嘘だとも言いきれません。実際韓国と日本の米軍基地に本当に核兵器がないかどうかなど調べようもないのです。いずれにせよ、日本と南朝鮮は、アメリカという核兵器大国の傘下にあるので、核兵器が物理的にあろうとなかろうと、朝鮮の人にとっては南朝鮮も日本も核保有国に等しいのだと思います。

沖縄にも冷戦期には核兵器が1300発も中国にむかって配備されていまいた。沖縄が日本に復帰する前に、アメリカは核兵器を沖縄から撤去したということになっていますが、第三者が検証したわけではありません。沖縄のかなりの人は、まだ核兵器は沖縄にあるのではないかと疑っていますし、検証することもできません。各国の米軍基地もIAEA(国際原子力機関)が査察でもしないかぎり、核兵器が存在するかしないかはわからないのです。南朝鮮に核兵器が1000発あるという言葉は、核にたいする脅威をあらわす言葉だったのではないかと思います。

朝鮮滞在の最後のほうで、ガイドさんはわたしに、「一つの民族が分断されているのは世界でも朝鮮だけです」とポツリと言いました。わたしはガイドさんの言葉を聞いて、重いものを背負わされたような気持ちをもちました。

わたしは、高校生のときからいろいろな体験をしながら学んだこと、日本人として植民地支配と侵略戦争について学んだことを反省するというような気持ちでずっと活動をしています。

朝鮮民主主義人民共和国にたいしては、西側世界でものすごく悪魔化しており、朝鮮と言えば「核、拉致、ミサイル」というように、日本人は自動的に敵視政策にそった考えをするようになってしまっています。日本人が朝鮮にたいして否定的イメージをもっているのは、メディアが連日のように悪口ばかり書いている結果だと思います。朝鮮にたいする偏見をまずは克服しなければならないと思いました。朝鮮の1人の人とでも心と心を通わせるような交流ができれば、かけがえのないものになると思います。わたしたちが交流できた朝鮮の人たちというのは、もちろん限定的であり、政府の管理下で観光客に朝鮮を正しく伝えるように案内しなさいと指導されているガイドさんたちです。それでも、わたしたちの接した3人のガイドさんは、本当に心をこめた案内をしてくださったと感じました。


朝鮮と交流を深め正しく理解する


最後に空港でわかれるときは本当に涙がでました。ガイドさんたちに、これから朝鮮のことをよろしくお願いしますと頼まれてしまいました。何をお願いされたのか、そこまで聞くことはしませんでしたが、ガイドさんらの思いはわたしに伝わりました。朝鮮のことが世界にもっと正しく理解されるように、偏見がなくなるようにお願いします、ということだったとわたしは理解しています。

ガイドさんと重い話もしたし、すごく楽しい旅でもあったのですが、最後の最後にたいへんなことがおきました。訪朝した4人は無事に帰国の途に就きました。北京経由で、わたしは羽田空港から、沖縄の友人は那覇空港から、在日朝鮮人の2人は上海経由で福岡空港から日本に入国しました。

ところが在日朝鮮人の2人は、福岡空港でほとんどのお土産を没収されました。これは日本独自の制裁の一環なわけです。日本政府は法的根拠として「外国為替及び外国貿易法に基づく北朝鮮に係る対応措置について」という閣議決定に基づいているようですが。経産省のホームページでは、「北朝鮮を原産地又は船積地域とする全ての貨物について、経済産業大臣の輸入承認義務を課すことにより、輸入を禁止します(関係条文:外為法第52条)」とあります。在日朝鮮人の友人は、10品目までお土産を持って帰ってよいと言われたようです。それでもほとんどのお土産を没収されてしまった在日朝鮮人の2人は、福岡空港での理不尽な措置にたいして何時間にもわたって抗議したということです。さらに税関の職員から、みずから手放すことが書かれた「任意放棄書」という文書に品名、数量等を記入させられ、署名までさせられたのです。自分は手放したくもないのに、何をどう手放すのかというのを全部強制的に書かされたのです。せっかくの祖国訪問で楽しい思いをした2人にとっては、本当に屈辱的なことであり、最後にすごく悔しい結果になってしまったのです。

税関の職員は、別に在日朝鮮人だから差別しているわけではなく、誰にでも同じ適用をしていると話したようですが、わたしと沖縄の友人はまったくフリーパスだったのです。わたしたち2人も朝鮮から帰ったということがわかれば、荷物を開けられて、調べられて、とられていたでしょう。し、朝鮮は出入国するときパスポートにスタンプは押さないのですが、中国の出入国記録として2回入国が連続することから、税関職員が中国の入国から再入国の期間、どこにいたのかとつっこめばつっこむことができるのです。しかし中国から帰国する日本人のパスポートをくまなく全部調べることまでしないのでしょう。結局わたしや沖縄の友人はフリーパスでお土産も全部もって帰ることができました。

いまにして思えば在日の友人のお土産をすべてわたしたちが引き受けてもって帰ればよかったのかもしれませんが、そこまでは思いがいたりませんでした。没収されたという話を聞いたので、わたしのお土産はとっておいて、今年のはじめに在日の友人2人と会って、いっしょに朝鮮のお土産パ-ティーをホテルで開きました。

朝鮮を訪問する日本人のなかにはひどい人がいるようです。わざわざ朝鮮に行っているのに、朝鮮革命博物館の日帝時代におこなわれた残虐行為が展示されているのをみて、“日本の悪口ばかり書いてある、けしからん”などと言ったり、ガイドさんの説明の途中で帰ったり、怒りだしたりする人がいるようです。その点、わたしや沖縄の友人は、わりとめずらしい日本人として朝鮮の人たちはうけとめていたようです。

わたしは以前から、人と人とのつながりは大事にしなければいけないと思うようになりました。

日本は韓国との交流はしても、朝鮮との交流はしない、朝鮮を無視するという傾向が顕著です。日本軍「慰安婦」の問題、徴用工問題について、日本は韓国にたいして一方的に無視するようなことはできませんが、朝鮮にたいしてはその種の問題がないかのようにふるまっています。植民地支配による被害というのは南も北もないわけですから、本来は同等にあつかうべきです。日本と朝鮮とのあいだに生じた拉致問題というのは、もちろん大事な問題ですが、それ以上に40年の植民地支配の中で及ぼした甚大な加害に向き合うことは大事だといえます。日朝平壌宣言においても「不幸な過去の清算」について強調されていますが、この点が多くの日本人の意識から欠落していると思います。日朝国交正常化においては、植民地支配の清算問題、現在の在日朝鮮人の地位に関する問題に誠実に取り組むことが大切です。そのためにはまず、朝鮮学校無償化除外という差別政策をやめるべきです。

当初の問題意識にもどりますが、韓国であれ朝鮮であれ、わたしたち日本人一人ひとりが朝鮮植民地支配の被害者の立場にたって過去清算の問題を解決し、さらに朝鮮戦争を終結させることが大事だと思います。そのためにここ数年間、金正恩委員長、文在寅大統領、トランプ大統領がいろいろな試みをしてきたわけですが、わたしはアメリカがバイデン政権になっても、展望が明るくないと実は感じています。

朝鮮半島の非核化の流れを止めずに、米国および属国による朝鮮への敵視政策を終わらせて、朝鮮戦争を終結させ、東アジアの平和に一歩でも近づくことができることを願ってやみません。

(2020年11月23日)




Monday, July 26, 2021

岡まさはる記念長崎平和資料館会報より転載「李鶴来(イハンネ)さんの死去のニュースを聞いて」(園田尚弘)

東京オリンピックの演出を担当していた人が、過去にナチスによるホロコーストの歴史をネタにしていたということが発覚してオリンピック開幕直前に解任されたということを聞いて、私は当然だと思いながらも、複雑な感情を持たざるを得なかった。第2次世界大戦中のユダヤ民族を標的にしたジェノサイドを否定することはこれだけ「あり得ないこと」との世界的認識がある中で、かたやホスト国日本は政府が率先して大日本帝国が植民地支配下に置いた朝鮮半島の人々を大量に強制動員したり性奴隷にしたりした歴史を否定したり矮小化したりして、真摯な補償も謝罪も拒んでいるのである。現政権には南京大虐殺を否定する者もうじゃうじゃいる。ホロコースト揶揄で即刻関係者がクビになるのだったら、そもそも国を挙げて大日本帝国の数々の大虐殺行為の歴史を否定する日本が開催国になる資格があったのだろうか?

3月28日、BC戦犯として裁かれ、日本政府に救済と名誉回復を求めていた李鶴来(イ・ハンネ)さんが96歳で亡くなった。植民地支配の下で加害者にならざるを得なかった元朝鮮人軍属は、最後まで正義を見ずに亡くなったのである。7月1日発行の岡まさはる記念長崎平和資料館会報『西坂だより』102号の巻頭言として、同資料館理事の園田尚弘さんが寄稿した文を許可を得てここに転載します。


巻頭言


李鶴来(イハンネ)さんの死去のニュースを聞いて

             

岡まさはる長崎平和資料館理事  園田尚弘


 2021年3月28日、BC級戦犯として裁かれた李鶴来さんが東京で亡くなった。96才であった。


理不尽を絵に描いたような問題

 岡まさはる長崎平和資料館二階の戦後補償のコーナーに、目立たないけれども、小さな説明版がある。それは朝鮮人元BC級戦犯についてのもの。アジア太平洋戦争中、捕虜監視をさせられた朝鮮人軍属が、BC級戦犯として1956年までも服役し、戦争に多大の責任があるA級戦犯容疑者たちが1948年末には釈放されたこと、戦後補償のなかでもあまりにひどい日本人と朝鮮人との差別を日本政府が放置していることを指摘したプレートである。この問題は理不尽を絵に描いたような問題である。

 釈放後、援護措置を求めて長く政府に要請を続けてきた鶴来さんたち朝鮮人元BC級戦犯は、問題の解決をはかるべく、1991年、日本政府に謝罪と補償を求める訴訟を起こした。

強制的な徴用であったこと、二年間の契約であったにもかかわらず、契約が守られなかったこと、日本人戦犯との差別処遇などを根拠に政府を訴えた。

 地裁、高裁、最高裁と訴えは退けられたが、裁判所は、立法措置によって訴えを実現するように付言した。付言にしたがって、鶴来さんたちは国会での立法を求めて長い間運動を続けたのである。その間に、ともに訴訟と運動を続けてきた仲間の原告たちは死に絶え、鶴来さんは最後の生き残りであった。このひとの死によって運動の当事者は死に絶えることになる。李さんは「有罪になった朝鮮人戦犯148人の唯一の生き残り」でもあった、という。(『世界』、2021年7月号による)

 長年にわたる運動の経過のなかで鶴来さんたちはさまざまの困難、苦悩を味合わされたが、近年になって鶴来さんが訴えていることはしぼられていた。

 「私が言いたいことは一つだけ。同じ戦犯でありながら、日本人の場合は戦犯として恩給や援護等の処遇をし、われわれ朝鮮人の場合は、日本国籍ではない、と、謝罪も何もしようとしない、ここが一番不満なところです。」(『世界』2020,9月号)

 この言葉は、長い間、日本政府に謝罪と補償を要求してきた運動のプロセスのなかで、当初よりは引き下げられた要求であろうが、味わった理不尽さを端的に表現している。同じように戦犯でありながら、日本人であれば、恩給や年金を受給できるのに、朝鮮人を不当に差別しているという訴えが出てくる歴史的な背景はこうである。


泰緬鉄道と捕虜監視

 李鶴来さんは全羅南道、光州近くの宝城という村の出身で、朝鮮が日本の植民地であった1925年に生まれた。17才で強制的に軍属として捕虜の監視を行なうことになった。朝鮮半島全土から3000名が集められタイ、ジャワ、マレーなどに送られた。李さんは捕虜の扱いに関する国際条約(ジュネーヴ条約)について知らされることもなく、精神訓話を聞かされ、軍事教練を受けたのみで、タイの捕虜収容所に赴き、泰緬鉄道の敷設に追い立てられた連合軍捕虜の監視の仕事をおこなった。泰緬鉄道は日本軍がインパール作戦遂行のためにタイのバンポンからビルマ(現在のミュンマー)のタンビュザヤまで敷設した約415kmに及ぶ鉄道であった。泰緬鉄道工事については、私達の資料館でも二階踊り場のコーナーで写真を展示しているが、その工事は「枕木一本に一人の死者」といわれるほどの過酷な工事として歴史的にも悪名高い。連合軍捕虜5万5千、東南アジアの労務者7万人以上が動員され、多大の犠牲者が出たことが知られている。連合軍からの捕虜の死者数は1万2千以上、労務者にいたっては死者数もわかっていない。鶴来さんが送られたタイのヒントクでは食料は不足し、伝染病は蔓延し、しかも薬品は欠乏していた。鶴来さんたちは軍鉄道隊の要求にこたえて、無理にでも作業員の数をそろえなければならなかった。このことが戦後、捕虜虐待として有罪判決をうける原因になった。1946年9月に出された起訴状は却下され、一旦は釈放された。しかし帰還船での帰路、香港で止められ、香港からふたたびシンガポールに連れ戻された。1947年3月20日、オーストラリア裁判で死刑の判決を受ける。(一度下された判決を無視して、再度刑を宣告するのは裁判の常識を無視しているが)。八ヵ月後に20年の刑に減刑される。李さんと同時期に戦犯として有罪判決を受け、刑死した朝鮮半島の出身者は23人に上っている。李さんは死刑になった仲間の無念さを忘れることはなかった。(同じように日本の植民地であった台湾出身者は26名の刑死者)


日本人の「肩代わり」をさせられた朝鮮人

 李鶴来さんは1951年シンガポールから東京の巣鴨プリズンに移送された。

1952年、日本はサンフランシスコ条約によって独立し、朝鮮人は非日本人となる。この措置によって外国人として日本政府の援護措置からは除外されることになった。一方で刑を宣告されたときは日本人であったからという理由で戦犯としての拘禁は続いた。

 天皇制ファシズム国家の二級国民で、ピラミッド構造の下層の朝鮮人軍属が1956年まで拘束された一方で、戦争遂行に重い責任があるトップのエリートたちは(たとえば後に日本国首相になった岸信介)1948年には釈放された。A級戦犯容疑者の「岸は植民地政策の計画立案者であったし、1941年、日本の宣戦布告の署名人の一人であった。」岸がエリート中のエリートであったことは論をまたない、とG.マコーマック氏は断じている。朝鮮人BC級戦犯はこれらの日本人の「肩代わり」をさせられたといわれるゆえんである。

 朝鮮人でありながら、戦争中はいやおうなしに日本人として徹底した皇民化を強いられ、戦後は手のひらをかえすごとくに「外国人」として突き放されたことがどんなに腹立たしいことであったかを、多くの日本人はほとんど理解できないのではなかろうか。私自身あるとき真横に座っていた徐正雨さんが怒りをこめて「戦争中は日本人、日本人だといって、戦後になったら外国人という」と発言するのを聞いて、自分のことを言われたと考え、恥ずかしく思った。長崎の端島炭鉱で強制的に働かされ、三菱造船所で被爆した徐さんにとっては、昔のこととはいえ、国籍の喪失は、昨日のことのごとくに怒り心頭に発する出来事であったであろう。それはたんに言葉の問題だけでなく、政府の援護から不条理にも突き放されるという苦痛をも意味しているのであったから。

 繰り返しになるが、鶴来さんの死によって立法措置を求める運動の当事者はいなくなってしまった。

 新聞報道によれば、死後、4月1日、国会内で超党派の国会議員11名や市民が、特別給付金による救済立法を求める集会を開いた。

その際「長年、運動を支援してきた内海愛子・恵泉女子学園大学名誉教授は『不条理に対する当事者の思いを伝える立法運動を続けていく』と話した」(毎日新聞2021年4月2日

救済のための立法が実現するように、私たちも国会議員たちの活動に注目し、李鶴来さんたちの願いが実現するように声を合わせていきたいと思う。しかし立法による戦後補償を求める声に応える議員たちの動きはまことに鈍い。

               (そのだなおひろ)

関連報道記事

(社説)李鶴来さん死去 日本の正義問い続けて(朝日)

外国人BC級戦犯、救済立法求め集会 超党派議員ら、当事者死去受け(本文中で触れられている毎日新聞2021年4月2日の記事)

李鶴来さん(韓国人元BC級戦犯)を悼む 謝罪と補償、闘いの人生=内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)(毎日)

「戦犯となった朝鮮人青年」、苦難に満ちた65年間の戦いの末、無念の死(ハンギョレ)




李鶴来さんの本『韓国人元BC級戦犯の訴え―何のために、誰のために』(梨の木舎、2016年)



Thursday, July 15, 2021

〈転載〉「慰安婦」問題の解決は「被害者中心アプローチ」から外れてはならない  ~2015年日韓合意を前提にした提言「共同論文 慰安婦問題の解決に向けて」をめぐって~ 위안부 문제 해결은 피해자 중심 접근 에서 벗어나서는 안 된다 ~2015년 한일 합의를 전제로 한 제언 공동논문 위안부 문제 해결을 향해 에 관하여

 한국어 버전은 여기를보세요.

日本軍「慰安婦」問題解決全国行動 のページから許可の下に転載します。私はこの投稿に全面的に賛同します。(ピース・フィロソフィー・センター代表 乗松聡子)




2021年3月24日、日韓関係や戦後補償問題に取り組む研究者や弁護士ら8名が「慰安婦問題の解決に向けて」と題する論文を発表しました。 

この共同論文は長年市民運動にも関わってきた著名な研究者、弁護士、ジャーナリスト、市民活動家が呼びかけているため、日本社会において人権を尊重する市民を代表する意見として韓国でも紹介されています。

私たち、日本軍「慰安婦」問題解決全国行動は、日本軍「慰安婦」問題解決のために全国各地で活動してきた団体と個人が集まって結成したネットワークとして、日本の市民社会にこの共同論文とは異なる意見があることを訴えるともに、「慰安婦」問題解決のために日韓両政府が被害者の意思を尊重した施策をとるよう、日韓の市民社会の対話を促していきたいと考えます。


 ■共同論文の矛盾点

 この共同論文では、被害者の「心に届く誠実な謝罪」が最も大切であり、具体的には、①加害者が加害の事実と責任を認めて誠実に謝罪し、②その証として何らかの金銭的補償を行い、③過ちを繰り返さないために問題を後世に伝えることだとしています。

とりわけ、①②とともに、③を誠実に継続実行することによって①②の謝罪が真摯なものであることが被害者・遺族に理解されるようになると主張しています。
これは、私たちが2014年に日本政府に提出した「提言」の内容と合致しており、この部分について全く異論はありません。 

しかし、この共同論文が解決案の基盤としている2015年の日韓合意はまさに、③「過ちを繰り返さないために問題を後世に伝えること」を否定しています。2015年の日韓合意の核心は「最終的不可逆的に解決されることを確認する」という文言にあり、日本政府はこの合意を根拠に韓国側に「慰安婦」問題を二度と蒸し返すことがないよう求めたことが、その後の調査でも明らかになっています。

日韓合意のプロセスを検証した韓国外務省・作業部会の報告によると、合意には「非公開部分」があり、この合意に被害者支援団体が抗議しても韓国政府が説得に当たること、日本大使館前の「慰安婦」像を移転すること、第三国での「慰安婦」関係の像や碑の設置を控えること、今後、「性奴隷」という言葉を使用しないことを日本政府が韓国政府に要請していました。

日本政府の要請を韓国政府が丸ごと承認したわけではないですが、日本側がこうした要請をしたこと自体に日韓合意の本質が現れています。

日本政府にとっては、過ちを繰り返さないために記憶し継承するのではなく、加害の事実をなかったことにするための合意でした。

したがって、被害者の「心に届く誠実な謝罪」を日韓合意の延長上に行うことは不可能だと思います。


 ■政府間の公式合意の扱い方について

 共同論文を発表した方々は、日韓合意を仕切り直すことなど非現実的であるという認識に立ち、日韓合意を前提とした解決案を提案されているのではないでしょうか。しかし、それは日本は変われない、これが限界だ、韓国側に妥協して欲しいということを意味します。

加害国が被害者、被害国に寛容を強いて良いのでしょうか。 
私たちは、日韓合意の存在を否定しているわけではありません。
韓国の文在寅大統領も日韓合意は政府間の公式合意であったと述べています。

しかし、政府間の合意であっても、政権交代で見直しが迫られることはあります。TPP(環太平洋経済連携協定)を推進してきた米国がトランプ政権に代わって、いきなりTPPからの離脱を表明したとき、日本は米国を約束を守らない国だと批判しませんでした。

日韓合意はその後の検証で様々な問題が明らかになり、国連の拷問禁止条約委員会からも「被害者中心アプローチを取るべきである」と勧告を受けています。韓国政府が一方的に破棄するのではなく、日韓両政府が合意のプロセスに問題があったことを認め、新たな合意を結び直せば良いはずです。 


日韓合意という暴力 

日韓合意を仕切り直すことは非常に困難で、非現実的だと感じるのは日本社会に暮らす市民のリアリティだと思います。

しかし、韓国社会から見ると、日韓合意を継承することを前提に対話することの方が非現実的なのではないでしょうか?

  日韓合意が被害者にとって、韓国の市民にとって、どれだけ屈辱的なものであったのかということを日本の市民は想像してみるべきだと思います。
謝罪と引き換えに、平和の碑(「慰安婦」被害者の少女像)の撤去を求めたり、「慰安婦」問題の関連資料をユネスコの記憶遺産に申請することを取り下げるよう求めることがどのようなことを意味するかを考えてみるべきだと思います。

ドイツの首相がホロコーストについて謝罪する代わりに、ポーランド政府に対して、アウシュビッツ収容所を撤去しろと言うでしょうか? 

アメリカの大統領が広島・長崎への原爆投下を謝罪する(まだしていませんが)代わりに、日本政府に二度とヒロシマ・ナガサキと口にするな、原爆ドームを撤去しろと言ったら日本人はどう思うでしょうか?

 そのようなことを口にしたら、どのような謝罪の言葉があっても、被害者と被害国の市民が謝罪を謝罪として受け止めることは出来ません。まったく反省はしていないけれども、二度と蒸し返して欲しくないので、謝ってみせたんだと受け止め、怒りが湧いてくるのではないでしょうか?

 日本政府が日韓合意で韓国に対して行ったことはそのようなことです。

 したがって、日韓合意の延長上に対話を進めようとすることは、日韓合意が暴力的なものであったという自覚が日本の市民にないことを意味します。

この共同論文の呼びかけ人の方々に再考を求めます



日本軍「慰安婦」問題解決全国行動



<2021.3.24共同論文>

「慰安婦問題の解決に向けて ーー 私たちはこう考える」は以下から読めます(2021.3.24共同論文までスクロールしてください)

Wednesday, May 26, 2021

「アジアへのとびら」冊子に二冊の本を紹介しました My column in booklet Ajia e no tobira (A Door to Asia), introducing two books

 16の出版社が集まって作った「アジアの本の会」の冊子、「アジアへのとびら」に二つの本の紹介をさせていただきました。一つは少し古い本ですが自分の座右の書である、故・大田昌秀元沖縄県知事による『死者たちはいまだ眠れず』、もう一つは出たてほやほやの本、李里花さん編著『朝鮮籍とは何か』です。表紙と、自分のページをここに起きます。拡散OKのようなのでぜひシェアしてください。「アジアの本の会」という企画は今回梨の木舎の羽田さんから聞くまで知らず、この冊子で私も「アジアの本」への旅に出たくなりました。

この冊子は非売品で、全国の書店で配布しているようです。配布店リストはここにあります。




Tuesday, May 04, 2021

韓国大法院判決の主柱である「不法な植民支配」という判断に一言も触れず、「論点のすり替え」をした安倍首相 (戸塚悦朗弁護士の寄稿転載)The Core of the Korean Supreme Court Ruling on the Forced Labour Lawsuit Was the ILLEGALITY of the Japanese Colonial Rule of Korea: Etsuro Totsuka

日本軍「慰安婦」問題、「徴用工」問題など、日本による朝鮮の植民地支配が生み出した犯罪の本質を突く発信、活動を続けてきた戸塚悦朗弁護士が、「東アジア平和センター・福岡」による「東アジア平和ブックレット第3巻『正義なくして平和なし ー韓国人強制徴用の歴史と今日の課題ー』(2021年3月1日発行)に寄稿した文を、許可を得て転載します。

この冊子は、他にも吉澤文寿「2018年韓国大法院『10・30判決』の歴史的意義」、崔鳳泰「旧日本帝国による被害者問題の解決策を考える」、山本晴太「大法院判決と日韓請求権協定を人権の視点から考える」など、植民地支配・戦後補償問題を考える上で不可欠な論考が掲載されています。

一般の書店にはないかもしれないので、入手希望の人のために巻末にあった発行所の連絡先を記しておきます: 東アジア平和センター・福岡/810ー0027 福岡市中央区御所ヶ谷5ー39 TEL 092-521-7122 


隠された日韓関係の危機の真因 ー「徴用工問題」と論点のすりかえ

2018年韓国大法院判決が問う植民地支配責任 

弁護士 戸塚悦朗 (元龍谷大学法科大学院教授)

 

20209月菅義偉政権が誕生したので、日韓関係の好転への期待が生まれました。113日の米国大統領選挙の結果、国際協調主義を唱える民主党のバイデン元副大統領が当選したことも日韓関係に好ましい変化をもたらす可能性があります。韓国からは、次々と要人が日本に派遣されていて、日韓関係の立て直しのために、日韓の高官協議が繰り返されているだけでなく、1114日のテレビ会議方式で行われた東南アジア諸国連合(ASEAN)と日中韓の首脳会談で、韓国の文在寅大統領は菅氏だけ名前をあげて呼びかけたということです[1]。これらが日韓関係の急速な改善という成果を上げることができれば、それが望ましいと考えます。

しかし、安倍晋三政権の政策を継承するとして首相の座を射止めた菅義偉新首相の対韓政策は、前政権時代からの負の遺産をも継承しているのです。私は、以下のような問題点[2]を考慮しておく必要があるとも考えます。

 

1.隠された日韓関係の危機の真因

日韓関係の危機は、韓国人戦時強制動員被害者による日本企業に対する慰謝料請求を認容した韓国大法院判決(20181030日)が日本に衝撃を与えたことに端を発しました。これは民間人と民間企業の間の民事事件ですから、本来政府が出る幕はないのです。ところが、安倍政権が1965年請求権協定による解決済み論を盾にとって、あえて経済制裁まで加えて韓国に対抗したことから、国家間の紛争になってしまいました。

しかし、視点を変えてこの危機の本質を掘り下げて考察すると、もっと深い問題が見えてきます。大法院判決は、日本に何を問いかけているのでしょうか?その核心について十分な理解が日本に不足していることに注目すべきです。そのような理解不足が、なぜ起きているのか?という難題を解く鍵が見つからないことこそが危機の真因だと考えます。

日本の国会では質問に正面から答弁しない「論点のすり替え」論法が全盛を極めています。問題の本質をすり替えられてしまうと、核心が隠されてしまいます。大法院判決への対応でもこの手法によって問題の本質(植民地支配責任)が隠されてしまったのです。

 

2.2018年大法院判決が問う植民地支配責任

2018年大法院判決の主柱は、「日本政府の韓半島に対する不法な植民支配(判決の表現)」とする規範的判断なのです。これは韓国憲法(国内法)の解釈から導かれました。筆者は、その論旨を国際法の視点から考察し、『「徴用工問題」とは何か?――韓国大法院判決が問うもの』(明石書店、2019)を出版しました。判決文を熟読すれば、大法院がこの「不法な植民支配」という判断[3]を大前提としてほとんどすべての重要な判断を導き出していることがわかります。

注目すべき最大の論点は、大法院判決の主柱である植民地支配の不法性判断なのです。判決は、それを基礎にして、なぜ被告企業に責任があるのかを詳しく説明しています。判決は、「不法な植民支配」下で、侵略戦争と密接にかかわる強制動員の被害者が被った人道に反する不法行為を認定し、その責任を引き受けるべきだ、と日本企業に問いかけているのです。ですから、この「不法な植民支配」という主柱を除いてしまっては、大法院の判断の本質を理解できなくなってしまいます。大法院判決が植民地支配責任の履行をこそ求めていることに注目すべきなのです。

ところが、日本では、大韓帝国は、19108月の韓国併合条約によって大日本帝国に合法的に併合され、植民地となったとされてきました。佐藤栄作首相(当時)は、日韓基本条約(1965年)等に関する国会審議の際、併合条約について「対等の立場で、また自由意思でこの条約が締結された、かように思っております」と答弁しました(衆議院特別委員会1965115)。日本政府のこの法的な立場は、日韓交渉の間も同じでしたし、それ以後も今日まで変更されていません。

しかし、大法院判決の判断は、佐藤首相答弁と矛盾しているのです。これに何の反論もしなければ、「不法な植民支配」とする判決の判断について日本政府が(黙示の)承認をしたと解釈されかねません。それにもかかわらず、なぜ安倍政権は、大法院判決が問いかけている「不法な植民支配」とする判断に沈黙し続けているのでしょうか。

 

3.論点のすり替え

安倍首相は、原告側が被告企業の資産を差し押さえたことに対して、「極めて遺憾。政府として深刻に受けとめている」と語り、判決を「国際法に照らして、ありえない判決」と批判し(朝日新聞デジタル201916日)、韓国側が1965年請求権協定によって解決済みの問題を蒸し返していることが国際法違反だと示唆しました。この論理によると、韓国の国際法違反によって日本が被害を受けている、と韓国を非難したことになります。

しかし、大法院判決が問いかけている被害加害関係は、逆なのです。判決によれば、被害者は、日本による「不法な植民支配」の下で日本加害企業による強制動員によって重大な人身被害を加えられた韓国人であり、「不法な植民支配」による被害については日本が日韓交渉に際して否認し協議に応じなかったので、1965年協定では解決していない、と判断しています。

ところが、安倍首相は、判決の主柱である「不法な植民支配」という判断に一言も触れず、「論点のすり替え」によって、1965年日韓請求権協定だけに衆人の注目を集める対応をしました。この高度のPR作戦によって、植民地支配責任の問題は巧妙に隠蔽されてしまったのです。その結果、被害加害関係が逆転するというパラダイムシフトが起きました。日本は、国際法違反の被害者としてふるまい、韓国を加害者に仕立て上げて非難するという離れ業に成功したのです。結局、日本が不法な植民地支配の加害者であって、韓国の強制動員被害者のヒューマンライツ侵害こそが問題の核心なのだという、ことの真相が隠蔽されてしまったのです。

 

4.国際法学からも植民地支配は不法

「不法な植民支配」という結論を導いた大法院による憲法解釈は、韓国の国内法の問題です。しかし、日韓の国際関係が紛争の場になった場合は、国際法上の解釈が問題となり、法の平面が異なってしまいます。そこで、国際法上も日本による韓国の植民地支配は不法だったのかという問題を検討する必要があるのです。

筆者は、『歴史認識と日韓の「和解」への道』(日本評論社、2019)を出版して、19051117日付の「日韓協約」とされている条約は実際には「存在しない」こと[4]を論証しました。

この発見は、どのような派生効果を生むでしょうか。読者には衝撃的かも知れませんが、論理的には以下の2点が言えると、筆者は考えています。

    不存在の「日韓協約」を根拠として、大韓帝国が「自由意思」に基づいて合法的に日本による保護国(実質的な植民地)となったとされてきたのですが、この「日韓協約」が存在しない以上、大韓帝国の条約締結権者の「自由意思」によらない保護国化であり、不法な支配(武力による強制的占領)と評価されます。

    不存在の「日韓協約」により創設された「統監」は、不法な存在でした。その不法な統監(寺内)が大日本帝国を代表して署名し、且つ大韓帝国政府を指揮して署名させた1910年併合条約は、双方代理により制定されたのです。そればかりか、大韓帝国側の批准もなかったのです。結局、併合条約は無効だったと評価されるべきです。そうすると、大法院判決による「不法な植民支配」との憲法判断は、国際法学の立場からも裏付けられたことになるのです。

 

5.記憶(記録)の削除

細川政権以来日本の歴代政権は、植民地支配に関する歴史認識を着実に進め、19958月戦後50年の村山首相談話が特に注目されました。併合条約100年に際して出された菅直人首相談話(2010810日)は、「当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ・・・」と述べ、併合条約についての法的立場を変更する一歩手前まで歴史認識を深化させたのです。

ところが、2015年戦後70周年安倍首相談話は、韓国併合条約による植民地支配について沈黙しました。安倍政権は、論点をすり替えて大法院判決を非難し日韓の国家間紛争を激化させた直後である20192月、菅直人首相談話を首相官邸のHPから静かに削除してしまったのです[5]。しかし、このことはほとんど知られていません。歴史の忘却の時代が始まったのです。

菅直人首相談話の削除は、菅義偉首相が官房長官だった時代に起きました。安重根記念館の設置を計画した中国政府を批判し、菅義偉官房長官(当時)は、義軍参謀中将として大韓帝国の独立を守る自衛戦争を戦った安重根を「テロリスト」[6]と切り捨てました。

大法院判決問題を「記憶・責任・未来」財団が象徴するドイツモデルに学んで解決しようとする有力な声もあります。しかし、安倍政権の承継を旗印に、過去を直視することを拒否し、歴史認識の記録をも削除する政治家には、過去の記憶と責任を未来に継承しようとするドイツの思想から学ぶことは、きわめて困難ではないでしょうか。

 

6.過去の記憶と責任を未来に継承しよう

 日本の政府と社会、つまり私たちは、どのような心構えを持てば、日韓の関係を友好的なものとすることができるでしょうか。まず、第1に、過去とりわけ植民地支配の歴史的な事実を直視すること。第2に、「徴用工問題」のような植民地支配の責任を引き受けること。そして、第3に、その過去の記憶と責任を未来に継承すること。そのような心構えを持つことが求められているのではないでしょうか。

まず、日本社会は、このような心構えを広く共有することから再出発しないと、性急な「解決」を急いでもまた躓いてしまいます。201512月の日韓外相合意が「慰安婦」問題の解決を実現できずに、結局失敗してしまったことを想起すべきでしょう。この合意では、日本政府は、過去に直面するのではなく、(秘密合意のなかでですが)「慰安婦」問題が「性奴隷」の問題であるとする国際的な評価を否定することに執着しました。また、過去を記憶するどころか、逆に「少女像」の撤去を韓国側に要求し、歴史の忘却をこそ自己目的化してしまったのです。その結果、この外相合意は、これを拒否する一部の被害者と被害者支援団体によって受け入れられず、被害者側全体との和解を実現することに失敗してしまったのです[7]

 日本は、この「和解」の失敗を教訓としてかみしめ、過去の記憶と責任を未来に継承しようとするドイツの思想を誠実に学びなおす契機とすることによって、真の日韓友好を実現するために再出発してはどうでしょうか[8]



[1] 朝日新聞20201122(朝刊14)「韓国、対日関係立て直し バイデン政権にらみ南北対話戦略 元徴用工問題なお壁」。

[2] この発表は、202011月に立命館大学(東アジア平和協力研究センター)に提出したエッセイ「2018年韓国大法院判決が問う植民地支配責任――論点のすり替えによって隠された本質―」をもとに若干の修正を加えたものである。

[3] 以下は、前掲拙著『「徴用工問題」とは何か?――韓国大法院判決が問うもの』(明石書店、2019)からの引用(139-140頁)です。大法院判決が、日本の植民支配は不法だったと判断したことについて、以下のように説明しています。

結論から言いますと、大法院判決は、日本の植民支配は不法だったというのです。それは韓国の憲法の解釈から導きだされています。

 大法院判決は、上告理由第1点についての判断の中で、「本件日本判決が日本の韓半島と韓国人に対する植民支配が合法的であるという規範的認識を前提に日帝の「国家総動員法」と「国民徴用令」を韓半島と亡訴外人と原告2に適用することが有効であると評価した」と判断し、そのような判決理由が含まれる「本件日本判決をそのまま承認するのは大韓民国の善良な風俗やその他の社会秩序に違反する」と言っています。

これを言い換えてみますと、大法院判決は、日本の韓半島と韓国人に対する植民地支配が不法であると判断していることになります。

さらに、上告理由第3点の判断の中では、大法院判決は、「本件で問題となる原告らの損害賠償請求権は日本政府の韓半島に対する不法な植民支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権(以下「強制動員慰謝料請求権」という)である」と言っています。ここでも、「日本政府の韓半島に対する不法な植民支配」と言っているのです。

これらを見ますと、大法院判決が、日本の韓半島と韓国人に対する植民地支配が不法であると判断していることは間違いありません。そして、この点こそが、大法院判決の結論を導く決定的な理由になっていると考えられます。実は、前掲の筆者による説明で述べた通り、2018年大法院判決が植民地支配を不法だと判断したのは、2012年大法院判決(差し戻し判決)が採用した韓国の憲法解釈から導いた国内法を法的根拠とする判断なのです。」 

[4] 20195月以降いくつかの講演等により報告してきた。①ウェブでは、戸塚悦朗「19051117日付の「日韓協約」は存在しない」コリアネット【コラム】、2020326https://japanese.korea.net/NewsFocus/Column/view?articleId=183574&pageIndex=2 20201213日閲覧。②その他の講演等については、戸塚悦朗「歴史認識と日韓の「和解」への道(その8)――2018年韓国大法院判決の衝撃と「植民支配」の不法性判断への対応――」龍谷法学第53巻第1号、223-272頁に報告した。③最近では、戸塚悦朗講演「19051117日付の「日韓協約」は存在しない」「乙巳条約協定締結115周年記念特別研究会」(Zoom)、立命館大学にて20201118日に開催。

[5] 前掲戸塚悦朗「歴史認識と日韓の「和解」への道(その8)」で報告した。

[6] しかし、安重根は、「テロリスト」とは言えない。不存在の19051117日付「日韓協約」を裁判管轄権の根拠として、日本国内法(刑法)による死刑判決を下した安重根義軍参謀中将に対する裁判(1910214日)は、裁判管轄権を欠き、不法だった。安重根は、自国の独立のために義軍参謀中将として自衛戦争を戦ったのだから、法廷で彼が主張したとおり、捕虜としての処遇を受ける権利があり、且つ処罰しようとするなら戦争犯罪を侵したか否かについて国際法による裁判を受ける権利があった。

[7] 2019同年1226日ソウル高等法院=「慰安婦」被害者(原告)と韓国政府(被告)の間で継続中だった「慰安婦合意」国家賠償請求事件において「調停に代わる決定」が出された:「被告は 20151228日、韓日外交長官会談合意(以下「慰安婦合意」という)が歴史問題解決において確立された国際社会の普遍的原則に違背し被害者中心主義原則に反するものであり、上記合意により原告らが精神的苦痛を被った点を謙虚に認める。被告は慰安婦合意が日本軍慰安婦被害者問題の真正な解決になりえないことを明らかにして、今後被害者らの尊厳と名誉を回復するため対内外的努力を継続する。」

20191227日韓国憲法裁判所決定=前記外相合意にもかかわらず「慰安婦」被害者の権利も韓国政府の外交保護権も失われていないことを明らかにした:「本件合意は日本軍「慰安婦」被害者問題の解決のための外交的協議の過程での政治的合意であり、過去事問題の解決と韓日両国間の協力関係の継続のための外交政策的判断であって、これに対する様々な評価は政治の領域に属する。本件合意の手続と形式においても、実質において具体的権利・義務の創設が認められず、本件合意を通じて日本軍「慰安婦」被害者らの権利が処分されたとか、大韓民国政府の外交的保護権が消滅したとは言えない以上、本件合意により日本軍「慰安婦」被害者らの法的地位が影響を受けるとは言えない。」

[8] 筆者は、未来をひらくために、歴史認識の原則を以下のように整理した。①”KI MURI KI MUA”「未来のために、過去に目を向ける」(マオリの言葉)。「前事不忘 後事之師」(周恩来中華人民共和国元首相)。「過去を忘れる者は、現在にも盲目となる」(ワイゼッカー・西ドイツ元大統領)。「私たちは、日本と朝鮮半島の21世紀を信頼と希望の世紀として創造するために、『世界人権宣言』および『日本国憲法』の理念に基づいて、各自「同胞の精神」をもって行動したいと考えます」(「韓国併合」100年「反省と和解のための市民宣言」)。



戸塚悦朗(とつか・えつろう)

弁護士(第2東京弁護士会)。日中親善教育文化ビジネスサポートセンター顧問。龍谷大学社会科学研究所付属安重根東洋平和研究センター客員研究員。元龍谷大学法科大学院教授。ヒューマンライツを保障する国際法の実践・研究を専攻。主著に『「徴用工問題」とは何か?ー韓国大法院判決が問うもの』明石書店、『歴史認識と日韓の「和解」への道』日本評論社など。