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Thursday, June 22, 2017

沖縄「慰霊の日」に 大田昌秀さんを偲ぶ 沖縄国際平和研究所に協力を Remembering Ota Masahide, 1925-2017

前回の投稿では、元沖縄県知事の大田昌秀さんの2010年のインタビュー、未発表の日本語版を紹介しました。沖縄時間でその2日後、6月12日、92歳の誕生日に、大田さんは永眠されました。沖縄戦体験者として、ジャーナリストとして、学者として、教育者として、政治家として、沖縄、日本、世界中のたくさんの人たちに影響を与えてきた人と思いますが、私も、その晩年に多くのことを教わることができた幸運な者の一人でした。訃報をきいたときは、翌日からカナダ東部、トロントとモントリオールへの旅に出ることになっていました。予定変更して、沖縄に駆け付けようかと思いましたが、行先では仲間たちが沖縄について話をする場を設けてくれていました。前投稿にもあるように「壁の向こうに友人を作る」大切さを強調していた大田さんなら、きっと、しっかり任務を果たしてきなさいと私に言うだろうと思い、予定通り行ってきました。大田さんにいただいて以来、座右の書としている『死者たちは、いまだ眠れず 「慰霊」の意味を問う』(新泉社、2006年)を携えて。

きょう、沖縄の「慰霊の日」です。

この本の前書きより:
1945年も半ばを過ぎると、日本軍にとって、負け戦の沖縄本島南部戦場は、まるで「人間屠殺場」ともいうべき凄惨きわまる断末魔の様相を呈していました。そこでは、対敵同士の殺し合いどころか、わずかの水や食糧を奪い合って味方同士までが殺し合う無間地獄そのものでした。
わたしは、その激闘の戦場から奇跡的に生き延びて以来、敗戦後六〇年余の今日にいたるまで、この死闘の実相を一日も忘れたことはありません。多感な一〇代のころの戦争体験だけに、しかも多くの親しい学友たちのかけがえのない若い命を奪われたこともあって、忘れたくても忘れようがないのです。
もはや二度と会うことも叶わぬ親しい人たちの無残な死にざまを目の当たりにして私は、心の底から戦争を呪い、憎まずにはおれませんでした。思えば、敗戦までのわたしの人生は、文字通り戦争に出るための「準備期間」でしかなかったのです。そんなこともあって、敗戦後のわたしの「余生」は、むごたらしい死をとげた恩師や学友たちのいわば「慰霊の道のり」にほかなりませんでした。
戦後すぐ、米軍の圧力を気にしながらも死者の遺骨収集に取り組んだ若き日から、県知事として取り組んだ、沖縄県平和祈念資料館の拡充と内容の充実、「平和の礎」の建立経緯を綴り、とくに日本の再軍備化と連動する沖縄の戦争記憶の「靖国化」は許さない、という危機感は2017年の今日、残された私たち世代が引き継がなければいけない問題意識です。

この本に、何度も繰り返し読んだ部分があります。大田さんが戦後沖縄が米軍占領下にある中、本土から密航船で持ち込まれた新憲法の写しに出会ったときの気持ちを書いているところです。(147-8頁)
初めて目にした新しい憲法。わたしはそれを手にしたとき、かーっと全身が燃え上がり身震いしました。そして思わず胸中にこみあげるものを覚えたものです。そのころは、戦場から生きのびたとはいうものの、一種の解放感のほかは、生きている喜びもなければ実感もわかず、文字どおり身も心もボロボロの状態でした。それほど戦争後遺症で心身共に病んでいる状態でした。しかも敗戦後は、価値観が丸ごとひっくり返ったこともあって、前途にいかなる希望を見出せず、いたずらに無為にその日その日を過ごすだけだったからであります。 
それだけに新憲法の一語一句が切実に胸にしみました。とりわけ憲法前文の理念と九条の戦争放棄の規定は、まさにわたし自身の気持ちを適確に代弁したにもひとしく、驚喜したものです。
それは、いくどとなく戦場で死と向き合うたびに心の底から希求せずにはおれなかった平和の思いとぴったりの内容に思われたのです。新憲法には戦場で完全に失われていた人間としての基本的権利とともに何よりも戦争を禁じ平和への志向が明確に保障されていたからでした。
わたしは夢中になって、平和憲法の前文と九条をはじめ主要な条文を鉛筆で書き写しました。複写機などない時でしたから、書き写すのに相当の時間がかかりました。が、少しも苦にならず、鉛筆をなめなめ一語一語に力が入ったものです。
こうして新憲法との思わぬ出会いが、わたしに新たに生きる希望と喜びを与えてくれました。まさに感無量でした。言うなれば、新憲法は、誇張ではなく、わたしの生きるよすがとなっただけでなく、その後の新たな人生そのものへの最善の指針ともなったのです。
ここを何度も読むのは、感情を揺さぶり奮い立たせる言葉であると同時に、そのように大田さんが希求した日本の戦後憲法が戦後72年経ったいまも、沖縄には事実上適用されていない状況を自らに突きつけるものであるからです。

(6月24日追記:映画『沖縄 うりずんの雨』のジャン・ユンカーマン監督が同映画の取材映像で、大田さんが摩文仁でちょうどこの新憲法を知ったときのエピソードを話している映像を公開してくれました。許可をもらってここに映像埋め込みします。ジャンさん、ありがとう!)



★★★

大田さんと一緒に写真を撮ったのは1月31日が最後でした。大田さんをノーベル平和賞にノミネートしたグループの、宮城千恵さん、石原昌家さん、高良鉄美さんと一緒に大田さんの事務所を訪ねました。

右から、高良さん、大田さん、宮城さん、乗松、石原さん。
2017年1月31日、沖縄国際平和研究所にて。
このときは、みんな、この時間の貴重さをどこかでわかっていたと思います。大田さん、ノーベル賞受賞演説を用意しておいてくださいよ、などと談笑しながら写真やビデオを撮りまくりました。

最後に大田さんに会った日、またいつでも遊びに来なさいと言ってくれたときの笑顔が忘れられません。手を取りましたが、もう骨と皮のようになっていて、握ったら壊れてしまいそうでした。

★★★

事務所で大田さんを支えてきた桑高さん、藤澤さんに感謝を申し上げます。大田さんが県知事時代に構想しつつも県の事業としては道半ばで終わった国際平和研究所はいま、「特定非営利活動法人 沖縄国際平和研究所」として生き続けています。私はこの研究所の会員ですが、研究所のニュースレター5月号で理事長の大田さんはこう会員にメッセージしています。
会員のみなさま、お変わりなくお過ごしのことと拝察いたします。お詫びのないほどご無沙汰しておりますことをお許しください。
平成24年に、沖縄国際平和研究所を立ち上げて4年、いま、皆さまのご協力を賜って、職員2人とともに、小さいながらも沖縄戦とホロコーストの写真展示と沖縄国際平和研究所の維持に努めております。しかし、創立以来の厳しい状況はなかなか変わりません。現在の危険極まりない日本の状況、そして数多くの基地を抱える沖縄にあってはとりわけ、あらゆる手段を講じて平和を創出させることが不可欠の課題ですが、期待どおりの関心を十分に呼ぶことができずにいることが残念でなりません。
私ごとで恐縮ですが、今年、満で92歳を迎えます。寄る年波とはいえ時に自分の身体が自分のものでないようなもどかしさ、歯がゆさを感じながらも、諦めるゆとりはないぞと、老骨に鞭打って平和の創設に精一杯の努力を強いているところです。
この事務所の維持も、ひとえにみなさまのご支援のおかげです。どうぞ今後ともご指導、ご鞭撻を賜りますよう、切にお願い申し上げます。
2017年5月 大田昌秀

大田さんが亡くなったことが大きく報道され、県民葬ももたれるとのことですが、近年、大田さんの国際平和研究所とその仕事は十分な注目を集めないできました。この機会に、みなさんには、大田さんの遺志を引き継ぎ、沖縄国際平和研究所を起点とした、平和のための活動や研究の維持・発展に協力していただけますよう、会員の一人として呼び掛けたいと思います。

2017年6月22日(沖縄時間23日) 「慰霊の日」に  乗松聡子








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