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Thursday, November 16, 2023

イラン・パペ教授「何があっても道義的コンパスを失ってはいけない」You should never lose your moral compass no matter what happens: A summary of Ilan Pappe's talk at UC Berkeley, Oct 19 2023

The Ethnic Cleansing of the Palestine などの著書で知られるパレスチナの歴史の専門家、イラン・パペ教授(英国エクセター大学)が10月19日にUCバークリーで行なった講演のYouTubeがあったのでその講演部分の要約をしました。自分の勉強のためにした要約を公開します。ところどころ重要なキーワードは英語で残してあります。イントロやQ&Aは訳していません。太字は要約者によるものです。

https://www.youtube.com/watch?v=1OcjOP8iUCU&t=3228s 

Professor Ilan Pappé-Crisis in Zionism, Opportunity for Palestine? イラン・パペ教授:シオニズムの危機か、パレスチナのチャンスか?

10月7日まではイスラエルでは政府の改憲反対デモがいっぱい起こっていた。ユダヤ国(西岸にできたセトラーによるメシア主義とシオニズムが混ざった人種主義的勢力――ネタニヤフ下で台頭)とイスラエル国(テルアビブに代表されるセキュラ―:世俗的で多文化、民主主義の勢力)の対立があった。内戦といってもいい、文化的戦争があった。

西岸地区の占領は議論に上がってなかった。占領問題はイスラエルの将来には関係ないとみなされていた。イスラエル国旗がひるがえるデモでパレスチナ国旗を掲げたらぼこぼこにされ、つまみ出されただろう。

いっぽう200万人のパレスチナ人が犯罪化 criminalization されていた。イスラエルのパレスチナ人を脅している犯罪集団でその多くはオスロ合意以降のイスラエルのコラボレーターだ。高度武器で武装しており警察など法の支配から完全に除外されている。それでイスラエルに住むパレスチナ人たちは夜外出もできない。このような話題も「イスラエルの将来」を語る領域に入ることができない。東エルサレムの民族浄化も。

10月7日の時点では「解決した」ことにされていた。過去4回のイスラエルの選挙でもパレスチナは争点にさえならなかった。

ガザ封鎖もすでに問題になっていなかった。ここ2年西岸で毎日パレスチナ人が殺されていても繰り返しのアルアクサ(モスク)に対する攻撃も問題にされなかった。弱いパレスチナ自治政府はセトラーやイスラエル軍の暴力から守ることができなかった。問題がないとされた。イスラエルにある問題は司法改革だけであるとされた。

本質は二種類のアパルトヘイト間の確執であった。ひとつはセキュラ―(世俗的)アパルトヘイト。イスラエルのユダヤ人は西洋的な「民主主義」を満喫し、この形態のアパルトヘイトを維持したいと思っていた。それに対するのはメシア(救世主)的、宗教的、神権的なアパルトヘイト。パレスチナのことは眼中になかった。

10月7日の朝それは崩壊した。一瞬は、ハマースの襲撃のショックをうけて内部の対立はなくなり軍のもとに団結するといった空気があったが、それは幻想であった。対立はいつか戻ってくるだろう。

もっと大事なのは、パレスチナ人のたたかいである。10月7日の出来事について、良心的な人たちさえ陥りかかっている罠にかかってはいけない。それは起こったことの非文脈化 decontextualizing 、非歴史化dehistoricizing である。実質は何も変わっていない。パレスチナ人は1929年以来解放の闘いを行なってきた。これは反植民地主義のたたかいであり、反セトラーの闘いである。どんな反植民地主義の闘いも山あり谷ありである。栄光の瞬間もあれば困難もある。暴力もある。脱植民地主義は製剤のようなプロセス pharmaceutical process ではない(設計に従って進めるようなものではない)。きれい事では済まないIt is a messy business。植民地支配や抑圧が長く続けば続くほどその爆発は暴力的で藁をもすがるような形 desperate になる。

ここでリマインドしたいのはこの国(米国)における奴隷の闘争の歴史だ。アメリカ先住民族の反乱もあった。アルジェリアでのセトラーに対する闘いもあった。アルジェリア解放戦争でのFLN(アルジェリア民族解放戦線)による解放戦争時のオラン虐殺(1962)もあった。解放のための闘いの中で起きたことだ。戦略に疑問があるときもあるだろう。やり方が認められないと感じるときもあるだろう。当然だ。

しかしみなさんはここで道義的コンパス moral compass を失うことだけはしてはいけない。起こったことを非文脈化、非歴史化をしてはいけない。この国のメディア、アカデミア、西側、グローバルノース全般にある語り方だが、ある事件を取り上げて、その事件に全く歴史がないかのごとくに扱っている。襲撃された音楽フェスティバルが愛とか平和とか言っていたが、それはガザというゲットーから1.5キロしか離れていないところで起こっていた。愛とか平和とか言っていたすぐそこに、15年も封鎖され、人々が一日何カロリー摂るかまでイスラエルからコントロールされ、出入りも制限され、200万人の人たちが閉じ込められている監獄があるのだ。

さらに大事なことがある。パレスチナに取り組む活動家、学者の課題は、何十年も続いているプロパガンダや情報捏造についての取り組みだ。あまりにも多くの情報源が、パレスチナについて誤った情報を流してきた。メディア、学術界、ハリウッド映画、テレビ、など限りない。これらが人々の頭脳や感情に影響してきた。これらが長年植え付けてきたイメージを簡単に崩すことはできない。正義感だけでも太刀打ちできない。その正義感が深い歴史的知識に基づいていないと太刀打ちできないのだ。

リベラルやプログレッシブと言われる人たちでさえイスラエルを免責するような言語を使い、パレスチナの反植民地の闘いを正当と認めることをしない。反植民地化の英雄としてネルソン・マンデラ、ガンディ、などいろいろな人たちを崇めているが、その中にパレスチナ人は一人もいない。本質的には反植民地運動なのにいつも「テロリスト」と言われてきた。

使うべき言語を使い、その地の歴史を知り、適切に分析するスペースが必要だ。ただ「あなたは間違っていて私が正しい」だけではできない。これが私たちの前に立ちはだかる一番大きな壁だ。いま、アメリカでは、無条件にイスラエルを支持し、イスラエル人の被害に同情が集まっているが、この長い歴史の中でパレスチナ人に同様の共感があったことはなく、偽善としか言えない。

10月7日とその後の出来事の非歴史化に対する解毒剤のような「歴史のレッスン」があるとすれば、歴史的文脈は2本の重要な柱がある。

1)シオニズムという柱

ひとつは、シオニズムの正確な定義を決して忘れないということ。シオニズムに触れずに議論はできない。シオニズムに触れたとたんにアンチセミティズム(反ユダヤ主義)のレッテルを貼られ黙らされてしまう。これは最初から人種主義的イデオロギーであった。人種主義の系譜に属するのであって殆どの米国の大学で歪められて語られているような(ユダヤ人)「解放運動の歴史」とは関係ない。グローバルノースで教えられているような、または西側メディアが言っているような「民族運動」でもない。

これはレイシズムの歴史に属するのである。元々レイシズムとして始まったわけではないかもしれないがパレスチナの地においてはレイシズムとして現れたイデオロギーである。この人種主義は、シオニズム運動のセトラーコロニアル的特徴の一部であり、これもみなさんが知っているように例外的なものではない。米国でもそうだ。欧州にいられなくなった欧州人が別の土地で、欧州人でいようとし、先住民族と遭遇したときに排除の論理が始動する。パレスチナでも同じだ。19世紀末のシオニズム運動の初期シオニストのDNAがパレスチナ人と遭遇したときに排除政策が生まれた。簡単にいえば、パレスチナの土地をなるべく多く、そこにパレスチナ人ができるだけ少なくなる状態を望んだ。地理的側面と人口的側面がつねにあった。

排除的政策とは、ジェノサイドであったり民族浄化 ethnic cleansingであったりアパルトヘイトであったり、いろいろな場所でいろいろな形態をとる。シオニストの排除的政策から、先住のパレスチナ人を排除したという歴史から今回起こったことを切り離すことはできない。最初はシオニストの計画としてはじまり、1930年には実際の戦略となった。そして1948年には、パレスチナ人口半分の追放とパレスチナの集落の半数の破壊という、民族浄化として実行された。

今回ハマースが短時間占領したキブツの中には破壊されたパレスチナ人集落の跡地に作られたものもあった。そのハマースの人員の中には1948年に破壊され難民とされたパレスチナ人の三世がいた。これもストーリーの一部である。私がこういう話をすることによって起こったことを全て正当化するというつもりではない。しかしこのような歴史の文脈がなければこの暴力の根源に向き合うことはできないのである。暴力の症状を扱うだけではだめだ。根源に行かないと。この根源がシオニズムという人種主義的イデオロギーなのである。もう一度言うがこれは例外的なことではなく先住民族を排除することによるセトラーコロニアリズムというのは他にも多数ある。

この排除的政策が実行されたのが、植民地主義、人種主義、集団的人権とか公民権などに世界が無関心であった19世紀ではなく、これは第二次世界大戦以降に行われたことである。これは、グローバルノースがとても誇りに思っている世界人権宣言が行われた年に起こったことである。第二次世界大戦を経た世界はいま道義的基礎があり、第二次大戦であったような人種主義、大虐殺、などは廃絶される!ということだったがこの同じ年に南アフリカはアパルトヘイト法を公布した。イスラエルはパレスチナの民族浄化を行なった。これは両方、世界からの「人権宣言を行なった、しかしお前たちには適用されない」というメッセージである。

このとき、あるアメリカ人の知識人が言ったように、「大きな不正義をただすために小さい不正義を容認する」という正当化の仕方があった。これは、パレスチナ人が、何千年も続いたヨーロッパ人キリスト教徒のアンチセミティズム(反ユダヤ主義)の代償を払うということだった。戦後間もないとき、新生西ドイツを国際社会の一員として認めることに抵抗があった中、初期に認めたのがイスラエルであった。イスラエルがあたかもホロコーストの犠牲者と生存者全員を代表するかのように「新生ドイツを認めるかわりにパレスチナで自分たちがやっていることに干渉するな」というディール(取引)をとりつけたのだ。

1950年代、西ドイツの援助で近代イスラエル軍ができた。民族浄化が世界からお墨付きを得たために継続し、1948年から67年までにイスラエルから36の集落を追放した。67年6月の戦争では西岸地区とガザから30万人のパレスチナ人を追放した。67年からこんにちまで通算で西岸地区とガザから70万人を追放した。マサファー・ヤッタ、エルサレム都市圏など各地で現在も民族浄化が続いている。

民族浄化はイスラエルのパレスチナ政策のDNAとなった。それには何十万人の人々が関与している。48年のような大規模な民族浄化ではなく、incremental 少しずつ進む民族浄化なのだ。追放の対象が一人だったり一家族だったり、追放ではないが集落の閉鎖だったり、ガザ地区の飛び地化だったりする。これらみな民族浄化だ。ガザは200万人をゲットー化して、アラブ対ユダヤ人の人口的バランスから排除できる。

以上が一つめの歴史的柱。パレスチナの旗をふったら「テロリストを支持している」とか、10月7日の出来事とホロコーストを比較したりするような言説があるが、近代のパレスチナの歴史という大きな歴史に加え、2007年以来のガザ封鎖という特定の歴史をふまえる必要がある。200万人の人をこのように、おそらく史上最長の封鎖といえるだろう―食糧、水、移動の自由の制限といった非人道的な、2020年にUNが「人間にとってガザでの生活は持続可能とはいえない」と言ったような状況において。

ガザについてのレッドラインはとっくに超えている。だからもちろん怒りの爆発、復讐、暴力は起こる。なんのサプライズもない。奴隷も、先住民も、植民地支配されたインドから北アフリカの人たちも、反植民地の闘いがあった。それがどれだけ平和的か暴力的かは植民者、民族浄化する者たち次第だ。抑圧されている人たちはいなくならない。闘いを諦めることはない。これが理解できるのが早ければ早いほど、植民地的現実からポスト植民地的現実への移行ができる。これを理解しないのなら、何度でもしっぺ返しを喰らい続けるであろう。10月7日が最後ではない。

2)パレスチナの自決権、民主主義という柱

もう一つの歴史的柱がある。米国や西側の言論を聞いているとパレスチナ人についての一般化が行われている。パレスチナ人はこうであるとの一般化がされるのだ。911の後にもイスラム教徒がそうされた。シオニズムが破壊したパレスチナというのは、もしその破壊がなかったらこうであったろうというパレスチナとは全く違うものだ。1948年前のパレスチナはどうだったのかを何度でも思い出す必要がある。

イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の人たちが共存していた地だった。理想ではなく実際にそうだったのだ。今はないが、水がふんだんにあった。EUの長が最近繰り返していた嘘だが、シオニズムがパレスチナの砂漠を肥沃な土地にしてやったと。これは使い古された捏造。多くの場所ではシオニズムが肥沃な土地を砂漠に変えたのだ。人間だけでなくエコロジーとの関係においても歴史を脱構築しなければいけない。パレスチナ人と植物、自然との関係もシオニズムが破壊した。故エミル・ハビビ(作家)が言っていたが自分は1948年どこの家がキリスト教でどこの家がイスラム教など知らなかったと。これはノスタルジアではない。これは「異なるパレスチナがあった」ということなのだ。

シオニズムが来たあと生まれた反植民地パレスチナ民族運動が忠実に守った2つの原則がある。一つは、right of self-determination of people 民族自決権。二つ目は民主主義。

400年間オスマン帝国の支配下にあった。オスマン帝国後のパレスチナは、多数決にもとづく民主主義の政治を求めていた。しかし1918年から1945年まで、パレスチナに来た米国や国際派遣団のすべては、西側が自決権や民主主義を大事にしていたにもかかわらず、それらの原則はパレスチナに適用しなかった。それは、大英帝国が、パレスチナをユダヤ人の国にすると約束していたからだ。ユダヤ人が非常に少数派だったから民族自決権がパレスチナ人に適用されることはなかった。多数派による民主主義もパレスチナ人には論外とされた。どのような抑圧を受けたのかということを文脈化するためにもここは重要な点。パレスチナについて西側は人種主義を支持した。

このもう一つの柱は、シオニズムが何をしたのか、パレスチナがシオニズムなしだったらどうなり得たのかをリマインドするためにも大事だが、これは解放後のパレスチナを想像するにおいても重要だ。いまガザで起こっていることを見てパレスチナ解放後の将来を描くことをやめてはいけない。パレスチナ人と話してみたらいい。きょう何を戦術的にやるかだけではなく解放後をどう思い描いているかと。展望のある解放である。解放がなにをもたらすかである。奪われる前に1948年前のパレスチナにあったものである。宗教やセクト、文化的アイデンティティで差別はしない社会。民主主義を重んじる社会。パレスチナをアラブに返還させる社会。アラブ世界の一部になることは容易ではない。しかしアラブの一部にならないとアラブの問題の解決の一端を担うこともできない。イランの人権、エジプトの公民権なども、パレスチナの人権を除外したら意味がない。いつも外の援助を必要としていたら劣等な立場に置かれ続ける。アラブの問題もその解決もパレスチナがその一端を担う。

まとめ

今目にしている劇的な状況がある。これからもっと起こるだろうしガザだけではなく西岸地区にも波及するおそれがある。もちろん一番緊急なのはこれを止めることだ。しかし今後の戦略を作ることが大事だ strategize. 基本的な問題は今回のことが終わってもなくならない。何があっても道義的コンパスを失わないことが大事だ。アルジェリアや、ケニアや、インドの植民地支配の歴史をふりかえっても、闘争の中でどのような事件があってもこれらの国々が植民地主義から自由になる権利は変わらないことは疑問を差し挟む余地はないだろう。We never question the basic right of independence. パレスチナについても同じである。

平和的なパレスチナを実現したいのであれば、何よりも大事なのは、「パレスチナ解放 Free Palestine」である。

(要約以上)


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