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Thursday, November 18, 2010

Fujioka Atsushi: Why US Dropped the Two Atomic Bombs on Japan (Japanese) 藤岡惇 原爆投下決定についての論考

Fujioka Atsushi, professor of economics at Ritsumeikan University in Japan, contributed this article on the U.S. decision to drop the two atomic bombs on Japan. 藤岡惇(立命館大学経済学部教授)による原爆投下決定についての論考です。『平和友の会だより』2010年9・10・11月(198-200号)に掲載されました。

米国はなぜ2発の原爆を投下したのか


―――ヒロシマ・ナガサキの悲劇の教訓


藤岡 惇

「日本が下劣な野心を貫こうとして行った犯罪を私が弁護しようとしている、と早合点しないでください。違いは程度の差にあったのです。日本の強欲のほうがいっそう下劣であったとしましょう。しかし日本が、どんなに下劣であったとしても、日本の特定地域の男、女、子供たちを、情け容赦もなく殺してしまうという下劣なことをやってよい権利はだれにも与えられていなかったのです。」

(M.K.ガンジー、「原子爆弾 アメリカと日本」『ハリジャン』1946年7月7日)


16回目を迎えた「平和巡礼の旅」

広島・長崎への原爆投下から65年の歳月がたちました。1995年以来、毎年8月になるとアメリカン大学のピータ・カズニック教授と組んで、日米カナダの学生たち30-50名とともに、京都・広島・長崎を巡る「原爆学習の旅」をおこなってきました。第16回目となったことしも、8月1日から10日の旅程で、総勢48名(米国の学生17名、カナダの学生2名、イタリーの学生1名、中国の学生3名、日本の学生16名、先輩の学生リーダー4名、教職員5名)の参加で、成功させることができました。過去に参加した先輩学生・卒業生たちも集まってきますので、ことしも参加者総数は、60名を超えました。

1996年以来、被爆者でアメリカン大学の卒業生でもある近藤紘子さんが、2007年以降になるとカナダ側から乗松聡子さん(ピースフィロソフィー・センター代表)が講師陣に加わっています。近藤紘子さんは、「原爆乙女」25名の渡米治療運動リーダーの谷本清牧師の長女で、1946年に出版され、世界に衝撃を与えたジョン・ハーシの記念碑的ルポ『ヒロシマ』に登場する最年少の被爆者という経歴の方です。

「原爆学習の旅」とは、被爆した死者を慰霊し、自らの生き方を問う旅でもありますから、「平和巡礼」の旅だということもできます。「学びと巡礼の旅」のなかで、議論し、解明したいと思うのは、つぎの3つの問題です。広島の平和公園には、「安らかに眠って下さい、過ちは繰り返しませぬから」という碑文がありますが、①「過ち」とは何ですか。②「繰り返しませぬから」という文章の主語は誰ですか。③「繰り返しませぬ」という誓いは、どうしたら実現できるのでしょうか、という3つです。

旅のなかで毎年、ホットな討論テーマとなるのが、①なぜ米国は日本に原爆を投下したのか、②原爆投下の責任は誰が負うべきなのか、という論点です。「日本の降伏を早め、百万人もの米軍兵士の命を救うために、米軍はやむなく原爆を投下した。そのおかげで結果的に数百万の日本人の命も救われたのだ」というのが米国政府の公式見解ですが、この公式見解を問いなおすことにもつながります。

 最初の頃は日本の権力者が侵略戦争を始めた責任や、敗戦受け入れをためらったために原爆投下を招いてしまったという日本側の「招爆責任」を明確にすることが先決だという意見が、日本の参加者の間では強かったように思います。「原爆投下を命令したトルーマン大統領に、日本の学生は、なぜこれほど甘いのか」とカズニック教授が憤っていたことを思い出します。

たしかに岩松繁俊さんなどが強調されてきた日本支配層の「招爆責任」の追及は必要ですが(岩松繁俊『戦争責任と核廃絶』1998年、三一書房)、この「過ち」につけこむかたちで、米国の支配層の行った原爆投下という「蛮行」も、不必要で許しがたい「戦争犯罪」というべきであるとか、トルーマンたちの犯した犯罪行為も不問に付さず、米国側の謝罪と補償を求めるべきだといった意見を述べる参加者が増える傾向にあります。

なぜこのような傾向が強まってきたのか。戦争を早く終わらせるために、米国は原爆を投下したのではない、むしろ逆に2つのタイプの原爆を投下するまでは日本に降伏を許さなかったというのがコトの真相ではないか、という点を解明する研究書が最近数多く出版されてきたからです。ソ連への威嚇と新型戦争の効果の「人体実験」をするために、米国は戦争の終結を故意に引き延ばしたのではないか、というわけです。これに加えて、広島市立大学の田中利幸さんたちが2006-2007年にかけて開催した「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島」(レノックス・ハインズ裁判長)なども、波紋を呼びおこしました。以下、最近の研究動向を紹介しつつ、私の見解を述べてみたいと思います。


ポツダム会議開会の前日に最初の原爆実験

極秘の突貫工事のすえに、米軍がニュー・メキシコ州アラモ・ゴードの地で原子爆弾の最初の実験に成功したのが1945年7月16日です。ご存知のとおり、原子爆弾の設計・製造にあたっては、核分裂材料としてウラニウム235を使う方法とプルトニウム239を使う方法があり、爆発させる方法としても、砲身型と爆縮型の2つがあります。ただし手探り状態で開発が進んだために、様々な方式にもとづく開発が並行的に進められてきた経緯があります。

最初の実験にあたっては、プルトニウム239を用いた爆縮型原爆が用いられました。日本の降伏条件を協議する連合国のポツダム会議(7月17日―8月2日)開会の前日のことです。ポツダム会談に参加するためすでにポツダムに到着していたトルーマン大統領は、実験成功の報告を聞いてソ連をコントロールできる有力な武器が手に入ったと安堵の笑みを浮かべたといわれています。「日本降伏にたいするソ連の関与を可能なかぎり回避し、ソ連参戦前に日本を原爆によって降伏させる」可能性が出てきたとトルーマンは考えたからです(進藤栄一『戦後の原像――ヒロシマからオキナワへ』1999年、岩波書店、232頁)。


ポツダム宣言原案の12条末尾の一節がなぜ削除されたのか

大日本帝国に降伏を勧告したポツダム宣言の当初の原案の第12条には、「連合国の占領軍は、我々の諸目的が達成され、平和的傾向を持ち、日本国民を代表する性格が備えた責任ある政府が、疑問の余地なく確立され次第、日本から撤収されることになろう」という文章の後に、「そうした政府が、二度と侵略を企図することがないと世界が完全に納得するならば、これには現在の皇統のもとでの立憲君主制も含むものとする」という一節が入っていました。日本の降伏を早めようと、知日派総帥のジョセフ・グルーの助言(杉原誠四郎『日米開戦とポツダム宣言の真実』1995年、亜紀書房、12-31頁)のもと、H.スティムソン国防長官らが書き加えた苦心の一文だったのですが、会議直前になって、ジェームズ・バーンズ国務長官らの強引な介入をうけて、この一文が削除されます(進藤栄一『戦後の原像』1999年、岩波書店、202頁。仲 晃、『黙殺(上)』2000年、288頁。長谷川 毅『暗闘――スターリン、トルーマンと日本降伏』2006、中央公論新社、第3・4章、とくに197・247頁。ジム・B・スミスほか『ラスト・ミッションーー日米決戦終結のシナリオ』2005年、麗澤大学出版会、195-197頁)。

それはなぜか。この付加された一文があれば、日本政府はポツダム宣言を受諾してしまう可能性があったからです。そうなるとせっかく開発した原爆を投下するチャンスがなくなる。原爆開発を主導してきた人々の立場にたてば、原爆を投下するまでは、日本を降伏させてはならなかったわけです。この論点は、1990年代からガー・アルペロヴィッツさんが明確に提起してきたものです(ガー・アルペロビッツ『原爆投下決断の内幕 上・下』1995年、ほるぷ出版)。その影響下で鳥居 民さんは『原爆を投下するまで日本を降伏させるなーートルーマンとバーンズの陰謀』(2005年、草思社)という本を書かれましたが、事態はこの本のタイトルどおりに進みました。

ポツダム会談開会の3日前の7月14日の時点で、すでに「・・・米軍首脳が原爆投下の命令書を担当責任者に手渡して」いました。「この命令書には、日本政府が今後ポツダム宣言を受諾した場合、原爆投下を取りやめるといった“条件付き”の指示が、一切書き込まれていなかった」ことも明らかになっています(仲 晃『黙殺(上)』2000年、60ページ)。

ポツダム会議に集まった米・英・ソ連・中国の4首脳のうち、ソ連を除いた3カ国は、7月26日に日本に降伏をせまる「ポツダム宣言」を発表しますが、その前日の7月25日の段階で、トルーマンは、ポツダムの地から「2発の原爆投下を裁可する最終命令」を発しました。この経過から分かることは、ポツダム宣言の文面がどうなろうとも、あるいは日本政府がどのような態度をとろうとも、原爆を投下するという方針は早い段階から確定していたということです。

とはいえ日本政府を「ポツダム宣言を黙殺(拒否)する」状態に追い込んだ方が原爆投下もやむなしという世論を強め、投下を正当化することができます。そのためソ連をポツダム宣言の署名国からはずし、日本のエリートのなかにあった「公正な仲裁者として、天皇制日本を助けてくれるのではないか」という、奇怪な「ソ連幻想」を煽りたてた。「ソ連の和平仲介の可能性という『子守唄を聞かせながら[日本を]眠らせつづける』」(進藤栄一『戦後の原像』、238頁)ためにです。また回答期限を付さないなど、ポツダム宣言が日本に降伏を迫る「最後通牒」であるという印象を慎重に消し去そうと努めたわけです。

こうして7月28日には、日本政府をして「ポツダム宣言を黙殺する」という談話を出さざるをえない状況に追い込みます。連合国側の通信社は、「黙殺する」という日本語を「拒否する」というニュアンスをもつ“REJECT”という英文に置き換えて配信し、ニューヨーク・タイムズは、7月28日付けで日本はポツダム宣言を“REJECT”したと報じました。このような舞台装置を作ったうえで、米国の支配層は、「ポツダム宣言を『拒否』した頑迷な日本にたいして懲罰を加える」と称して、ウランを用いた砲身型原爆を8月6日に広島の庶民住区の上空で、プルトニウムを用いた爆縮型原爆を9日に長崎(浦上)の庶民住区の上空で爆発させたわけです。


2発の原爆――なぜ軍事拠点ではなく庶民密集地が標的となったのか

広島では、日本軍の中枢――西部方面軍司令部のあった広島城内ではなく、1キロ余り南西の住宅密集地区の相生橋を標的としていました。通勤時間帯の8時15分に、しかも空襲警報が解除され、市民が日常生活をはじめた時に、原爆がさく裂しました(実際には、すこしばかり目標をそれ、相生橋の南東300メートルの島外科病院の上空600メートルで原爆がさく裂したのですが)。

従来の兵器とは異なる原爆のような兵器を初めて使用するばあい、使用後は、威力や破壊力のデータを集め、投下方法や爆撃機の脱出策も含めて、作戦全体の再検討を行い、その教訓をふまえたうえで、第2発目以降の投下のありかたを決めるのが普通です。しかし原爆投下のばあい、そのような手続きがとられず、広島に投下して3日後の9日には、別タイプの原爆第2号が長崎に投下されるのです。ソ連の対日開戦予定日を目前にひかえ、2発の原爆投下をやり終えようとして、米国の支配層がいかにあせっていたのかが、よく分かる事実です(仲 晃『黙殺――ポツダム宣言の真実と日本の運命(上)』2001年)。

長崎のばあいも、投下目標は三菱兵器工場などの軍事拠点ではなく、軍事的目標のない商業地区の常盤橋が目標地に選ばれていました。ただし厚い雲にさえぎられて目標地点を視認できなかったので、じっさいには3キロ北の浦上地区に投下されたわけです。被爆当時10歳であった歌手の美輪明宏さんはこう述べています。「11時少し過ぎでした。私は夏休みの絵の宿題を描いていました。描き上げて、机に立てかけ、出来映えを見ようと椅子から降りて、立ったとたんにピカッ!。空は真っ青だったので、『え? こんなにいい天気に雷?』と。そう思うか思わないかくらいで、次はどかーん! と地震みたいな衝撃が来た。目の前のガラスが一瞬で『ぴっ!』と飛んだんです。何が起きたかのかわからない。で、その後に、ものすごい爆音が聞こえたんです。B29が逃げていく音。敵もさるものでね。不意打ちするためにエンジン止めて来てたんですよ。だから原爆の前には警戒警報も空襲警報も鳴らなかったんです。」(美輪明宏「表現者が向き合う原爆」『週刊金曜日』810号、2010年8月6日号、17ページ)。

なぜ軍事拠点を標的にせず、庶民居住地区を標的にして、無警告で、しかも防空壕に退避させないようにしたうえで、原爆を投下したのか。答えは明らかです。こんごの原子戦争に備えて、原子戦争の威力と効果についての情報を集めておくことが不可欠であったからです。とりわけ性質の異なる2発の原爆――砲身型と爆縮型、あるいはウラニウム型とプルトニウム型の破壊力や軍事的有用性の違いを知る必要があった。そのため年齢・性別の点で多彩・多様な実験材料をできるだけ多数、投下地点周辺に集めておくことが必要だったからです。


空襲警報が解除されていたのはなぜか

空襲警戒警報が解除され、住民が日常生活に戻ろうとして防空壕から出てきた直後に、原爆が投下され、被害者を増やしたという点で、広島・長崎は共通しています。どうしてこのような結果となったのでしょうか。

 長崎の場合、不意打ちするためにエンジンを止めて原爆投下機が飛来し、投下した後に爆風を避けるためにエンジンを全開して飛び去ったという感想を、被爆者の美輪明宏さんは語っています。最初に飛来した偵察機が飛び去ったので、空襲警報を解除したが、その後に、本命の原爆搭載機が忍び寄ってきたのでしょう。

 広島のばあい、つぎのような証言があります。「広島に原爆を投下したエノラ・ゲイは・・・

瀬戸内海に出て、広島上空に達した後いったん広島を通過、しばらくして反転して、原爆を投下した、というのだ。広島上空に接近した際にいったん空襲警報が発せられ、みんな防空壕に入ったのだが、何も投下せずに通過したので空襲警報が解除され、みんな外に出て来た。ところがエノラ・ゲイは旋回して舞い戻り、ピカドンと原爆を落としたというのだ。…エノラ・ゲイの航路については、なお諸説がある。だが被爆の瞬間には多数の人が外に出ていて、ごくわずかの人たちが防空壕に隠れていたというのは動かし難い事実のようだ」(春名幹男「核密約」『世界』2010年5月号、185頁)。真相究明してほしいテーマの一つです。


原爆の威力

原爆の威力は、広島のばあいは1万5千トン、長崎のばあいは2万2千トンのダイナマイトを一挙に爆発させたのと同等のものでした。原爆のさく裂の際に放出された大量のガンマ線と中性子線などの初期放射線によって爆心地に近い住民の身体の分子構造に深刻な異変が生じました。自ら被爆者である物理学者の沢田昭二さんは、こう書いています。「ガンマ線の大部分は爆弾周辺の大気によって吸収され、超高温・超高圧の火球をつくった。・・・爆発の100分の1秒後には、・・・高圧の大気が火球から離れて衝撃波として、(毎秒340メートル以上の音速で、ドンという猛烈な音をもたらしながら)広がっていった。火球の表面温度が太陽の表面温度と同程度の数千度になると、可視光線と熱線を放出し始め、地上の人々を焼き殺し、火傷を負わせ、建物に火をつけ火災を引き起こした。・・・衝撃波は、大気との圧力差で爆風を発生させ、(秒速200メートル以上に達した)爆風が人びとを吹き飛ばし、殺傷し、建造物を破壊した。・・・衝撃波によって分解された建造物は爆風で倒壊して人びとを閉じ込め、閉じ込められた人々は火災によって焼け殺された」と(括弧内は、沢田昭二さんの教示により補足した)。それだけではありません。放射性降下物や誘導放射化物質の残留放射線による外部被曝にさらされただけでなく、これらの放射性物質を呼吸と飲食を通じて体内摂取することにより、被爆者(その後の入市被曝者も含む)の身体は内部被曝にさらされることになりました(沢田昭二「被爆実態に基づく広島・長崎原爆被害の実相」『季論 二一』2010年夏号、55ページ、矢ケ崎克馬『隠された被曝』2010年、新日本出版社)。

被爆地の民は、初期放射線の照射・熱線・衝撃波・爆風・火災・残留放射線による被曝と、つごう6回も殺されたわけです。なんという残虐な殺され方だったのでしょうか。

生者のほうも、「幸運」ではありませんでした。「原爆で殺された者をさえ、うらやまざるをえない」ような状態で放置され、希望を奪われた被爆者の間では自殺者が続出します(石田 忠「原爆死をどう考えるか」『科学と思想』86号、1992年10月)。

このような惨禍をもたらした原爆投下の目的とは何だったのか。①ソ連を威圧することで戦後の世界秩序づくりを米国の有利な形で進めること、②ウラン型かプルトニウム型か、あるいは砲身型か爆縮型か、いずれが軍事的に有用であるかを知るためには人体実験が不可欠であったことーーこの二つが重要だったといわれます(木村 朗「ヒロシマ・ナガサキーー今こそ『原爆神話』の解体を」『週刊金曜日』07年8月10日号)。

占領後に米軍は、「原爆被害者調査委員会」(ABCC)を設立し、原爆の軍事的有用性について徹底的な調査を行います。ABCC(現在は放射線影響研究所)は被爆者の健康調査をするだけで、治療をしない機関として悪評にさらされますが、機関の使命からしてそれは当然のことでした。原爆使用直後に敵の戦闘能力がどれほど破壊されるかが、軍事的有用性を評価するポイントとなるからです。放射線の影響にかんしていえば、初期放射線による外部被曝の破壊力に関心が集中し、残留放射線被曝による身体への長期的影響などは関心の外だったわけです。

それはともかく、広島型原爆と長崎型原爆の有用性と製造容易性を調査した結果、長崎に投下されたタイプ(プルトニウムを材料とした爆縮型原爆)のほうが優れていることが判明します。戦後冷戦期に製造される核兵器(原爆)のほとんどは、プルトニウムを材料とした爆縮型となりますが、2発の原爆投下は、そのきっかけを作ったといえるでしょう。


原爆投下後に、なぜ米国は天皇制温存の約束を発したのか

2種類の原爆を爆発させ、多数の庶民を相手に人体実験をなし終えた直後に、日本の降伏を「遅らせる」から「早める」方向へと、米国の対日戦略が急転換します。米国による原爆投下の動きを察知していたソ連は、対日開戦予定日をさらに2日繰り上げ、8月9日午前0時(日本時間)を期して日本にたいして宣戦布告を行い、中国東北部への侵攻を開始したからです。長崎への原爆投下の11時間前のことでした。

原爆の人体実験をなし終え、その威力をソ連支配層に誇示した後の米国の支配層にとってみると、ソ連軍が中国東北部から朝鮮半島を占領する前に、日本を降伏させることが緊急課題となりました。放置しておいては、日本を降伏に追い込んだ最大の功労者はソ連であるという評価をうみだし、戦後の東アジア経営にあたって、ソ連の発言力を高めることになります。

日本の天皇制政府にしてみても、原爆による攻撃をうけた衝撃よりも、ソ連の侵攻の衝撃のほうが、はるかに強烈であったようです。ソ連軍に本土を占領される事態となれば、天皇制は打倒され、日本は「赤化」してしまうという恐怖感が身を貫いたのだろうと思います。降伏が避けられない事態となったばあい、ソ連軍ではなく、米国軍に降伏する方がましだというのが天皇制政府の考え方でした(西嶋有厚『なぜ原爆は投下されたか』1968年、青木書店)。

ソ連参戦という事態をうけて、日本政府は8月10日、「天皇の国家統治の大権を変更するとの要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言を受諾するという方針を通告します。それにたいして米国政府は、ジェームズ・バーンズ国務長官の指示のもと「日本国政府の最終的形態は、『ポツダム宣言』に従い、日本国民の自由に表明された意志によって決定される」という回答を8月11日付けで送ります(ガー・アルペロビッツ『原爆投下決断の内幕 上』1995年、ほるぷ出版、23章・606頁)。この回答は、「日本国民の多数が望むならば、連合国は天皇制の存続を容認する」と解釈できるものでした。米国の対日政策の重点は、降伏を「遅らせる」から「早める」方向へと急転換したのです。

ただしポツダム宣言の文言に拘束されていますから、バーンズ国務長官の回答には、「天皇制の存続を確実に保障する言質までは与えられない」という限界がありました。この限界を乗り越えるためにバーンズらが編み出したのは、「本音」をマスコミにリークし、報道させるという便法だったようです。原爆投下直後の8月11日付けの『ニューヨーク・タイムズ』は、一面トップに「日本が降伏を申し出た。米国は天皇を存続させるだろう」と報じ、翌8月12日付けの『ニューヨーク・タイムズ』になると、もっと確定的に「連合国は占領軍司令長官の意向によって、ヒロヒトを存続させることを決定した」と報道しました。12日付けの段階では、事実上ポツダム宣言12項末尾のスティムソン原案の線に立ち戻り、「天皇制は確実に残すから、安心して降伏せよ」と呼びかけるに至ったわけです。小田 実さんは、こう述べています。「翌12日付けの『ニューヨーク・タイムズ』には、もっと驚くべきことに、前日のmay(であろう)がなくなって、ヒロヒトを残すことを決めたと書いてある。・・・これは(中立国の)スイスを通じて、天皇の耳、日本政府の耳に入っていたはずです」と(小田実・上田耕一郎「戦争と戦後60年」『経済』05年10月号、87頁)。


ニューヨーク・タイムズの一面見出しの図

このような「高等戦術」を編み出した中心人物は、人種差別主義の牙城たる米国南部サウスカロライナ州を地盤とするジェームズ・F・バーンズ国務長官でした(ロナルド・タカギ『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したか』1995年、草思社、56頁。なおバーンズは、戦後は郷里に戻り、サウスカロライナ州知事に再選され、モルガン系のデュポン社と組んで、水爆燃料を製造する巨大なサバンナリバー・プラントを同州に誘致するうえで大きな役割を担います。藤岡 惇『サンベルト米国南部』1993年、青木書店。鬼塚英昭『原爆の秘密(国外篇』)2008年、成甲書房)。

対日プロパガンダ放送を担当した海軍情報局のエリス・ザカリアスや、中立国スイスの日本大使館にたいする情報工作を担当したアレン・ダレスもまた、独自のルートを使って「天皇制の存続」を保障する秘密メッセージを日本の支配層に送っていました(有馬哲夫『アレン・ダレスーー原爆・天皇制・終戦をめぐる暗闘』2009年、講談社)。8月14日午前に畑 俊六ら3人の元帥を引見した際、「皇室の安泰は敵側からの確約があり、それについては心配ない」と昭和天皇が述べたとされていますが、その背景には上のような事実があったのです(有馬哲夫『昭和史を動かしたアメリカ情報機関』2009、平凡社新書、149頁)。


ガンジーの慧眼、マッカーサーの複雑さ

1946年7月7日付の『ハリジャン』紙に、M・K・ガンジーは「原子爆弾 アメリカと日本」という論説を書きました。そこで彼はこう書いています。「日本が下劣な野心を貫こうとして行った犯罪を私が弁護しようとしていると早合点しないでください。違いは程度の差にすぎません。日本の強欲のほうがいっそう下劣であったとしましょう。しかし日本が、どんなに下劣であったとしても、日本の特定地域の男、女、子供たちを、情け容赦もなく殺してしまうという下劣なことをやってよい権利はだれにも与えられていません。・・・原子爆弾は、連合国の武器に空虚な勝利をもたらしたにすぎません。ここしばらく、日本の魂は破壊されてしまっているでしょう。爆弾の投ぜられた国の魂にどのようなことが起こるか、本当にわかるには時間が短すぎます」と。

ガンジーの論説が出て1年余り後、「爆弾の投ぜられた国の魂」は憲法9条を生み落としました。産婆役になったのは、若き日に外交官として1928年のパリ不戦条約交渉に参加した経験をもつ日本の幣原喜重郎首相であり、幣原のリーダーシップに支持を与えた占領軍最高司令官のダグラス・マッカーサー将軍でした。

マッカーサー将軍は、朝鮮戦争で原爆使用を主張し、トルーマンに解任されることになりますが、水爆出現以降の原子戦争では、これまでのような勝者と敗者の区別が消え去ること、人類全体の共滅を招きかねないことに気づき、衝撃をうけるようになっていました。じっさい、1951年5月5日の上院の公聴会で彼は、マクマホン上院議員との間で、次のような質疑応答を行っています。「マクマホン上院議員:さて元帥、問題全体を解決する方策を見つける上で、何かわれわれに希望を与えるお考えをお持ちですか?

マッカーサー元帥:それは・・・戦争の廃止です。もちろんそれが達成されるまでは何十年もかかるでしょうが、スタートしなければなりません。中途半端ではダメなのです。皆さんは核戦争の専門家としてそれを知るべきです。・・・日本(の憲法9条)にその偉大な例証があるのですから」(伊藤成彦「憲法9条はどこから来たか」『軍縮問題資料』1997年5月号、30頁)。

1955年の米国退役軍人協会総会の記念講演でも、彼は次のように説いています。「皆さんは直ちに反問されるかもしれません。『戦争の廃絶は幾世紀もの間、人類の夢であったことは確かだが、この理想の実践は、不可能であり、空想的だとして、ことごとく放棄されてきたのではないか』と。・・・しかし核兵器をはじめ兵器が驚くべき進化をとげた結果、戦争の廃絶が、宗教的・道徳的な問題ではなく、科学的リアリズムの問題として再び浮上してきたのです。・・・・私たちは新しい時代に生きています。古い方法や解決策は、もはや役立ちません。私たちには新しい思想、新しいアイデンティティ、新しい発想が必要なのです」と(『岡本非暴力平和研究所ニューズ』2010年春季号から)。

インドを独立に導いたガンジー・ジーの慧眼に驚くとともに、「核の時代」を生きたマッカーサーという軍人の複雑さにも注目したいと思います。


残された3つの課題

本稿では、何らかの程度で天皇制存続の保証をあたえておけば、原爆投下をせずとも、日本の支配層は敗北を受け入れたであろうという側面を強調してきました。これにたいして、日本の軍国主義者や天皇主義者を冷戦体制に取り込もうとしたジョセフ・グルーなどの反共保守主義者の役割を評価しすぎているのではないかという意見が出されるかもしれません。この保守的路線が戦後の対日政策の中軸に座ったために、むしろ侵略戦争に無反省の旧体制派が日本社会に根強く生き残る結果となり、アジアとの民衆レベルでの和解が不十分となったのではないか、という反論もありうるでしょう。日本の軍国主義的勢力の犯した「原爆投下を招いた責任」を解明する課題と、「人道に反する残虐兵器」を「不必要に」使用し、戦後の冷戦体制のもとで核戦争態勢を強化し続けた米国支配層の責任を解明する課題とをどう統合したらよいのかという問題は、こんごも深めていきたいと考えます。

いま一つは、トルーマンやバーンズら当時の米国支配層の原爆投下責任の重さをどう測ったらよいのかという問題です。侵略戦争を開始し、2千万人ともいわれるユダヤ人や共産主義者を皆殺しにしようとしたアドルフ・ヒットラーのホロコースト責任とハリー・トルーマンの原爆投下責任の重さとは同等のものでしょうか。侵略戦争を遂行するなかで犯された蛮行と、侵略された国を解放する戦争のなかで犯された蛮行とでは位置づけや意味は、どの程度異なってくるものなのでしょうか。

第3に、トルーマンやバーンズの犯した原爆投下を「戦争犯罪」としたばあい、彼ら(あるいはその後継者)には、どのような罰を与えるべきかという問題です。「かりに日本軍が原爆開発に成功していたとしたら、人道的観点から日本側は原爆投下を踏みとどまっただろうか」と授業の中で質問すると、「日本軍だって、起死回生の手段として原爆を使っただろう」と、ほとんどの学生が予測します。時代の文脈から切り離し、個人だけを罰して、こと足れりとするわけにいかないのです。

長崎県原爆被災者協議会の事務局長の山田拓民さんはこう述べています。「トルーマンと米国政府には、原爆投下という蛮行をおかしたことを直視し、謝罪してほしい。ただし米国政府に補償金を請求しようとまでは思わない。そうではなく彼らには、反省の証として核兵器廃絶の先頭にたつことを要求したい」と。みなさんは、どのようにお考えですか。 

(本稿作成にあたって、名古屋大学名誉教授の沢田昭二さん、鹿児島大学教授の木村 朗さんに貴重なアドバイスをいただいた。記して感謝したい)

藤岡惇
立命館大学経済学部教授。専門はアメリカ経済論・平和学。アメリカ南部経済の研究に始まり軍需・宇宙産業を研究、平和経済への転換を探る。世界平和フォーラムなどの平和運動にも積極的に参加。主な著書は「グローバリゼーションと戦争 宇宙と核の覇権めざすアメリカ」大月書店など。1995年以来、米国アメリカン大学と共同で、日米、カナダ、アジアの大学生を広島長崎への学習旅行を引率している。

付記:上記の学習旅行のアメリカ側の引率、ピーター・カズニック(アメリカン大学)と木村朗(鹿児島大学)共著の原爆史についての本が出ました。藤岡惇と、このブログの運営者・乗松聡子のコラムも掲載されています。

木村朗・ピーターカズニック著(乗松聡子訳)『広島・長崎への原爆投下再考―日米の視点』(法律文化社)

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