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Saturday, February 15, 2014

「シンガポール占領(陥落)」の記念日に 

シンガポールを日本軍が占領した72周年の2月15日にちなみ、「村山談話を継承し発展させる会」によるアピールを紹介します。

シンガポールにある「血債の塔」
(日本占領時期死難人民記念碑)



201424

215日・日本軍がシンガポールを占領したアジア太平洋戦争の節目の日に向け正確な歴史認識の定着と虐殺犠牲者追悼碑への安倍首相の献花を求めるアピール

「村山談話を継承し発展させる会」

1942215日のシンガポール占領(陥落)という日本中が祝賀に酔いしれたできごとが、実は日本の敗北への出発点でもあった。また占領後に多数の住民虐殺が強行された事実を直視し、これらに関する認識の深化と定着と共に安倍首相の追悼碑への献花を求め、以下の通りのアピールを表明する。
 
1.1941128日、日本陸軍は真珠湾攻撃開始よりも早くマレー半島東岸コタバルで先遣隊が英国軍と戦闘を開始していた。陸軍の最大の目標は、シンガポールの英国海軍基地の占領だった。中国戦線が激しい抵抗によって泥沼の長期戦化し、米国が石油や製鉄原料などの禁輸に踏み切ったため、日本軍は一か八かで欧米列強の植民地である東南アジアの資源地帯の強奪をめざし、英米との開戦を決断していた。その日本軍の前に立ちふさがっていたのが西太平洋の覇権を握る米国海軍と英国海軍だった。開戦直後、両国海軍の拠点を制圧することが必須とした日本軍は、ハワイ真珠湾攻撃を海軍、シンガポール攻略を陸軍の分担とした。日本陸軍は、シンガポールの南側海上からの攻略を想定した英国軍に万端の備えがあるのを知り、北のマレー半島側からの攻略作戦を立案、128日にタイ領マレー半島へ本隊を侵攻上陸させたのだった。
  上陸地点からシンガポールまで約1200km(東京・博多間)で、英国軍との本格的な戦闘が不可避と想定した日本陸軍は、占領目標日を「天長節(天皇誕生日)」の429
 としていた。

2.その目標日よりも早く、日本軍は215日にシンガポールの英国軍を降伏させ、占領(陥落)を達成した。あまりにも予想外の大戦果に日本中は沸き立ち、祝賀ムードに
 浸りきった。学校では子どもたちに祝いのゴムまりが配られたなどと、体験談にある。さらに祝賀の式典や提灯行列なども各地で開催され、日本は無謀な戦争をはじめたのではないかと、内心で疑問を感じていた人たちの不安も薄れたりした。

3.そうした不安は、それまでの軍部にもあった。そこで、開戦時に定められていた基本的方針では、開戦が避けられないとしても、英米海軍の妨害を阻止できる状態に持ち込めたら、それ以上は戦線を拡大することなく資源地帯の占領を維持する、とされていた。以後は軍需資源の確保に当たり、英米とは外交交渉などで休戦に持ち込むことで中国戦線での長期戦を可能とする、というのが基本の方針だった。

4。しかし、難敵と思われた英国軍を予想外の快進撃で敗北させた日本陸軍は、さらに占領地を拡大する方針に、簡単に転換してしまった。そこでは、陸軍の武勇ばかりが強調され、英国軍の予想外の弱体の理由の分析が疎かにされたままだった。
  マレー戦線の英国軍は、本国軍が少なく、大半は植民地軍だった。主力のインドからの部隊では、最前線のインド兵が近代的な戦法を無視した突撃で迫る日本軍に恐れをなして、勝手に後退、逃亡を繰り返した。このため、連携して配置されたオーストラリアの部隊なども後退を余儀なくされ、総崩れとなったのだった。
  オーストラリアや米国で十分に訓練された兵士が送り込まれて来れば、様相が一変することを、当時の日本陸軍は見通していなかった。陸軍に蔓延していたのは、現実離れの自信過剰、自惚れだった。

5.現実無視の自惚れに浸っていた日本陸軍が打ち出した方針転換、それは戦線拡大、占領地を連合軍の態勢が整わない間に最大限に拡大しておく、というものだった。合理性よりも勇敢さや手柄を競い合うことに重きを置く日本軍では、この無鉄砲な新方針が容易に組織決定とされた。
 
6.その結果、陸軍は石油産地のスマトラ島だけでなく蘭領東インド(インドネシア)の全諸島の占領から、パプア・ニューギニアさらには南太平洋のソロモン諸島にまで占領地域を拡大した。これは、見た目には広大な地域を支配したことになり、日本軍の勢いの強さを示すものとして、国内外に誇示された。しかし、軍事的には兵力を分散させ、
 物資輸送態勢の準備もなく島嶼戦の経験や研究も乏しいままで、結果的には各部隊の孤立化を招くものだった。やがてこれが、太平洋戦線での陸軍の敗北の決定的要因となり、日本軍は敗退の道を歩むことになる。

7、かくして、1942215日のシンガポール占領は「予想外の大戦果」であると同時に、日本軍敗北を不可避とする陸軍の無謀な戦線拡大を誘発させたものとして、海軍の
 ミッドウェー海戦の敗北と共に、重視されるべき意味を持つものとなっている。このことは、戦史研究においては早くから指摘されている。
  しかし、マスコミ報道や歴史教育などの場ではこうした分析や裏付けとなる事実、証言などが明らかにされてきたことは、ほとんどない。

8.米国軍との戦闘ぶりや中国戦線での住民虐殺や略奪など、侵略の実態についてはこれまでに多くの研究者や報道関係者などによって、証言や記録の掘り起こしがされ、それらの分析も重ねられている。しかし、東南アジア戦線については、そうした一般的な事実の掘り起こしもわずかにしかされていない。このため、東南アジア戦線と中国戦線との共通点などについての分析と認識の定着も不十分な状況にある。

9.たとえば、日本兵による住民虐殺の背景の共通性の話題がある。中国戦線での南京攻略戦では、上海攻略で苦戦となった日本軍が増援に派遣した部隊によって勝利したことにより、兵士たちの多くはこれで帰還できると期待していた。しかし、現地指揮官の独断で南京攻略を命じられた。兵士たちは落胆し、首都攻防戦による明日の戦死を予想し、南京への途上で強奪、強姦、虐殺を頻発させ、それが南京虐殺事件を誘発させたと分析されている。
  同様にマレー戦線でも、シンガポール占領によって警備部隊と交代して帰還できるとの戦闘部隊の兵士の期待が、戦線拡大方針によって裏切られる事態となっていた。そのことが、戦闘終了後のシンガポールと英領マレー(半島)での「敵性華僑討伐」において手当たり次第同然の虐殺を各地で実行することの要因になったと、元兵士の体験記などにある。ここにも、思いつき同然の戦線拡大が、侵略の様相を悪化させた一面が如実に現れており、「215シンガポール占領」の負の側面に注目する必要性が示されている。
 
10。さらに、最近のシンガポールとマレーシアでは、日本軍によって虐殺された中国系住民(華僑)を追悼する活動が、日本社会における歴史修正主義の蔓延に反比例する勢いで、各地で展開されている。しかし、こうした事実が日本国内にはほとんど報道されていない。
  シンガポールの場合は、占領直後の約2週間に虐殺された人々の遺骨を埋葬した「血債の塔」の下で、毎年215日に各界各層の参加による盛大な追悼式が挙行されている。式には政府幹部を初め各国外交官も出席し、最近では日本大使も出席している。この様子も、日本に報道されたことはない。
  その一方で、日本の歴史教科書の多くに、すでに「血債の塔」の写真が掲載され、児童・生徒は学校で、こうした事実を学び、家庭から地域・大人社会に伝える役割りを果たしている。この点で、マスコミ報道は学校教育に遅れている。

11。また、戦闘終了後に強行された住民虐殺は、人目に付きにくい幹線道路や鉄道線路から500m以上離れたところにいる中国人や英国人は「老若男女ヲ問ワズ徹底的ニ掃討ス」ること、という日本軍の正式の命令文書に基づいて実行されたものであることが、判明している。
  当時の日本陸軍刑法では、仮にスパイと判明していても処刑するには裁判の手続きを
 経ること、と規定していた。従って、この地域での住民虐殺は、軍の規定にも反した違法殺害に相当する。こうした陸軍刑法に反した殺害が中国戦線、特に南京で繰り返されていたことを、秦郁彦氏が『産経新聞』紙上で199474日の時点ですでに指摘している。
  しかし、秦氏も東南アジア戦線での殺害については、同じ観点からの指摘はしていない。他のマスコミ報道でも同様の状況にある。

12。さらに、上記の東南アジア戦線での住民虐殺事件については、日本側の公式記録「陣中日誌」などによって事件そのものの多くが確認されていて、侵略の事実は否定できないものとなっている。これらについても、最近の歴史教科書の多くには住民虐殺の記述が登場し検定にも合格しているが、マスコミによる報道は散発的でしかない。

13 また、虐殺の犠牲者数について日本側(主に戦友会など)と地元側とで論争は現在も続いていて、南京事件の論争と類似している。類似しているのも当然で、日本軍は軍刑法に定めた裁判の手続きを省略し、現場指揮官の判断だけで処刑するという、満州事変以来の悪習「現場処理」を繰り返していたのだった。このため、氏名は勿論、人数についても正確な記録を残されてなく、確固たる数字を提示できない状況に今の日本側は追い込まれている。地元側が、どのような数字を提示してきても、日本側は対抗できる数字を出せないという極めて苦しい立場に、今ある。それは、日本軍の非人道的な体質の現れである侵略の諸事実を隠し通そうとしている今日の姿勢からすれば、当然の事態である、と考えられる。このような立場に日本側が置かれていることもほとんど報道されていない。
 
14 日本軍が、それぞれに人間としての尊厳を備えているはずの中国・東南アジアの住民を「虫ケラ」同然に扱ったという人道主義に反する行為の責任を問う声が、南京事件や「従軍慰安婦」問題の論争での地元側にはある。さらに最近の教科書検定基準の改定などをめぐる議論を通じて、そうした声は日増しに高まってきている。215日のシンガポール攻略にちなむ出来事の再検証に、今取り組むことの意義がここにもある。

15。さらに、「血債の塔」に日本の政治家、特に首相が献花をするかどうかに、地元での関心は高い。
  19914月末、湾岸戦争後の機雷処理のために自衛隊の掃海艇部隊がマニラ、シンガポールなどに寄港しながら派遣されることになり、海部俊樹首相が事後承諾を取り付けるために、東南アジア諸国を歴訪した。シンガポールではリー・クワン・ユー首相に「次の時は事前に承諾を求めて欲しい」との苦言を受けた。その後の講演では、日本軍の侵略責任を厳しく問う現地の声を意識して、日本軍の戦時中の行為を「厳しく反省する」とは述べたものの謝罪はしなかった。しかし、日本大使館が地元のマスコミに配布した英文の講演録では、sincere contrition (心から過去を謝罪し改心する)と歪訳され、日本国内向けと地元向けとを使い分けていたことが発覚し、厳しい批判の声が一斉に上がった。地元の主要な華語紙『聯合早報』のコラムでは、海部首相が講演もそこそこに空港ヘ移動してマニラへ直行し、入港した掃海艇部隊に慰問の果物を差し入れたとの情報を受け、「それだけの時間があったのなら、講演会場から空港に行く途中の『血債の塔』に立ち寄り、献花をすることが可能だったはずだ。海部氏の発言は口先だけにすぎない」とされたことが、地元では語り継がれている。

16 そうした地元側の関心の高まりを受け、1994822日に土井たかこ衆議院議長が
 シンガポール訪問の冒頭日程として、「血債の塔」への献花を実行し、同828日には
 村山富市首相が献花をした。このことが、地元マスコミでは大きく報道されたが、日本国内にはほとんど伝えられていない。
  「村山談話」はこうした経過を踏まえて、1995815日に閣議決定されたものである。
  しかし、これ以後にも日本の首相や閣僚がシンガポールをたびたび訪問しているが、献花をした事実は報道されていない。その一方で、修学旅行で同国を訪問している日本の高校生たちが献花をしている例が少なくない。そのことは、「血債の塔」の下に残る花輪によって確認できる。ここでも、学校教育が適正な歴史認識の定着において一般社会、マスコミ報道よりも一歩先んじている。

17 折しも、安倍首相は昨年末の靖国神社参拝について内外からその政治的姿勢に対して、疑問と批判の目を向かられている。もし安倍首相が、本心から日本の侵略の事実を認め責任を自覚し、アジアの戦争犠牲者にも哀悼の気持ちがあるというのであれば、215日のシンガポールでの追悼行事に参加し、献花するという行動で、その証明をすることが可能であり、効果的であると考えられる。
  今年の215日(土)は週末であり、安倍首相の得意とする週末の外国訪問の方式をもってすれば、十分に可能となる。安倍首相の215日シンガポール追悼行事への参加を求めてやまない。

18 最後に、最近の日本国内ではアジア太平洋戦争において日本軍が欧米列強を撃退したことで、アジアの人々は深く感謝しているという書籍が複数出版され、一部のマスコミでもてはやされている事実がある、しかし、それらはすでに破綻している「大東亜戦争肯定論」の焼き直しにすぎない。そこで語られている多くは、日本軍が弾圧した中国系住民(華僑)などの仕事や財産を首尾よく手に入れて今日の社会的地位や財産によって生活を謳歌している立場の人々によるものでしかない。
  ドイツでも、ナチスによるユダヤ人弾圧で、失業中のキリスト教徒ドイツ人の多くが同様の利益を得ることになり、ナチスの横暴な政策を支持していた事実がある。しかし、戦後のドイツではそうしたナチス支持の行為の責任が問われ、誤りであったことが社会的認識として定着している。
  ここにも、ドイツと日本の戦争責任に対する落差が今なお歴然と存在し、気を緩めれば落差が拡大しかねないという日本の現実がある。こうした書籍が公然と出版され一部のマスコミがもてはやす一方で、それらを批判する声を伝える報道がわずかでしかない現状は、残念というほかない。


 215日の節目の日を含め、我々「村山談話を継承し発展させる会」は、今後も同談話の理念の再確認と定着のためのアピールを続ける決意であることを、ここに表明する。

1 comment:

  1. 高嶋道3:08 am

    土井たか子さんが亡くなりました。アジア太平洋戦争の反省と平和のためにも心を尽くされた方でした。あまり知られていませんが、土井さんは衆議院議長の時、シンガポールの「血債の塔」(「日本占領時期死難人民紀念碑」)に参拝した初めての日本政府要人です。1994年8月のことです。土井さんは、以前から日本のアジア侵略の加害・被害についての認識を深め、広島・長崎の式典の挨拶でも言及されていたことを記憶しています。さらに、この年、日本軍が加害をした現地を公式訪問し、犠牲者に献花し追悼をしたのです。この数日後には、村山首相が同碑に公式参拝し、現地では大きなニュースになり、歓迎されました。ところが、それ以後どの首相も政府要人もこの碑を訪れていません。シンガポールを訪問したり、会議があってもです。
     昨秋発足した村山談話の会では、安倍首相に、今年の2月15日の追悼式典に参加し、献花をすることを勧めましたが、無視されています。安倍首相は、日本の侵略や加害についての歴史認識はなく、むしろ あの戦争は、日本の自衛戦争だったという認識を持ち、今や憲法第9条を骨抜きにし、日本を戦争のできる国にしていこうとしています。そのため、アジアの国々からは、またもや日本は軍備を拡張し覇権の道を歩むのではないかと危惧されてます。首相は 公的な場では「村山談話を継承する」と言ってはいますが、免罪符として利用しているだけにすぎないことは、誰の眼にも明らかです。このような安倍首相を、シンガポールやマレーシアの新聞等では「右翼」「極右」の政治家などと称されるのは当然でしょう。

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