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Saturday, October 04, 2014

高嶋伸欣マレーシア講演「日本軍によるマレー戦線の加害事実を掘りおこしてきた私たちのこれまでの取り組み」(2014年8月16日)

今年の夏、ブログ運営者は広島と長崎、そして沖縄への旅の後、琉球大学名誉教授高嶋伸欣氏が1983年から行ってきている「東南アジアに戦争の傷跡を訪ねる旅」に部分参加し、マレーシアとシンガポールに行った。8月16-17日にマレーシア・ペナン島の華人団体「ペナン州華人大会堂」が主催した「8・15世界和平日記念活動」の一環として8月16日午後7時半-9時に韓江学院講堂にてイベント「血と涙の3年8か月の歴史-第二次世界大戦のことをどれぐらい知っていますか?」が開催されたが、その中で高嶋伸欣氏の講演が持たれた。そのときの講演録を紹介する。

2014年8月16日、韓江学院でのイベントにて発言、『旅行ガイドにないアジアを歩く マレーシア』を
紹介する高嶋伸欣氏。右は通訳・現地ガイドの揚佐智氏。



「日本軍によるマレー戦線の加害事実を掘り起こしてきた私たちのこれまでの取り組み」


 高嶋伸欣講演記録

真珠湾攻撃より早かったコタバルでの開戦

私がマレー半島で日本軍がどのような住民虐殺やその他の加害行為を行ったかについて調べ始めたのは、1975年8月からです。以来今日まで40年間その取り組みを、多くの仲間と継続してきました。本日は、その間の様子の概略を限られた時間の中で、判明した歴史的事実をどのように日本の人々に伝えたかを中心に、お話します。

日本では1941年12月8日の戦争のはじまりは真珠湾からだった、と多くの人が今でも思っています。けれども実は日本海軍が真珠湾を攻撃する一時間程前にマレー半島東岸のコタバルに日本陸軍が上陸し、英国軍と戦闘を開始していました。このことは、戦後に日本政府の公式記録で、確認されています。日本軍のあの戦争の目的は、ハワイを攻略することではなくて、東南アジアの資源地帯を横取りすることだったのです。ただし、アメリカ海軍がその邪魔をするのは確実と思われました。そこで、アメリカ海軍の根拠地があるハワイを不意打ちで攻撃して大打撃を与える、ということで真珠湾を攻撃したにすぎなかったのです。ですから日本軍がマレー半島の側からシンガポールを攻めて、2月15日に占領をしたときには、大戦果だということで日本中の新聞に賞賛する記事が出ました。盛大な提灯行列なども行われて、国民の多くが喜びました。そしてさらに日本軍がインドネシア・スマトラの油田地帯の占領にも成功すると、ますます勢いづきました。この時、同時に、中国戦線が泥沼の戦いのもとになった援蒋ルートについても、それを切断するために北部ビルマ(ミャンマー)に一挙に攻め込んでいました。この時に、ペナンからも参加していた「回国機工」の皆さんの内の何人かが犠牲になっています。


日本軍の敗北原因になった予想外のマレー戦快進撃後の島嶼の占領

日本軍は目標としていた「天長節(天皇誕生日)」の4月29日よりも早くシンガポールやビルマを占領できました。実は、日本軍は、それまでの中国軍との戦いとは違って、米軍や英軍はずっと手強いと思っていたのです。そこで、シンガポール、スマトラ、ビルマなどを占領して、資源産地の横取りに成功したら、外交交渉で停戦にして、占領地域での石油などの生産ができるようにすればよい、と考えていたのです。ところが実際には米軍や英軍があまりにも弱くて、予想よりも早くシンガポールなどを占領できたものですから、日本軍は自信過剰になってしまったのです。この自信過剰が、その後大きな間違いをさせてしまいます。それは、インドネシアからパプア・ニューギニア、南太平洋までを一気に奪ってしまおうという意見が声高に唱えられ、冷静な判断が封じられてしまったということなのです。口先だけの勇敢さを誇大に重視して、実態を厳密に分析することを軽視する、日本軍の間違ったやり方がここでまた行われてしまったのです。

この結果、マレー半島とシンガポールにいた陸軍の部隊は、復員の期待を裏切られ、これらの島々に占領軍として移動させられてしまいました。そうすることで、日本軍は島々に兵力を分散させてしまったのです。一方米軍は、米本国やオーストラリアで態勢を立て直して、順番に一つずつ島を取り返し始めたのです。日本の陸軍はそれまで大陸での戦闘ばかりで、島での戦闘、特に島を守る戦いの経験がなく、戦術も補給や増援についての研究さえしていませんでした。これでは、勝つどころか占領した島々を守り通せるはずがありません。こうして、日本軍の負け戦が始まったのです。日本軍はミッドウェー海戦で海軍が大被害を受けて、海からの物資輸送、増員の体制がなくなったことに加え、島々に兵力を分散したことによって、負けの態勢を自分で作ってしまったのです。日本軍はそれぐらい計画性のない戦争をしていたのです。


日本軍の公式記録が証明している住民虐殺の事実

日本軍は、占領したマレー半島でもきちんと先を考えた占領政策を実行していたわけではありません。それのことを証明しているのがマレー半島での無差別な住民虐殺です。これでは、占領後の資源生産に住民の協力を得られるはずがありません。住民虐殺の証拠となったのは、日本軍の公式記録『陣中日誌』です。私とともに調査研究をしていた林博史さん(関東学院大学講師・当時)が1987年、日本の防衛庁(当時)研修所の図書館で見つけ出したのです。ネグリセンビラン州を占領した陸軍第5師団歩兵第十一連隊、第七中隊の『陣中日誌』のコピーを入手した私たちは それを詳しく読み取りました。1942年の3月1日から31日まで、この間日本軍はペナン島を含めマレー半島各地でいわゆる「敵性華僑狩り」を実行していたのです。十一連隊の本部から正式な命令書が出され、「人目につかないところにいる中国系の人、イギリス人などは老若男女問わず全て殺せ」と、各部隊に指示しています。1937年12月の南京大虐殺と比較してみると、マレー戦線での虐殺は公式の命令によって実行したものだった点が大きな違いです。『陣中日誌』の3月16日のところには、「不偵分子一六八ヲ刺殺シ」云々と非常に具体的に書いてあります。

これは軍の公式の記録ですから個人が手帳に書いていた日記とはまるで信憑性が違います。動かぬ証拠であるこの記録の発見は、当時、新聞やテレビによって全国的に大きく報道されました。その結果、マレー半島の住民虐殺については、元日本軍関係者もこれは間違いだとか嘘だとか一切言わなくなりました。


教科書にも記述されるようになった住民虐殺の事実

私たちが調査を始めた1970年代の歴史教科書には、こうした住民虐殺のことがほとんど書かれていませんでした。それが、最近の中学校の歴史教科書では、シンガポールの大虐殺を記憶し追悼する「血債の塔」の写真を載せて、説明の文章から学ばせるようになりました。そのようなことが日本の歴史教科書にも書かれるようになったのは、日本で私たちと同じようなことを考えている人たちが協力してくれた結果です。

また、出版社の人が私たちの調べた結果を本に載せましょうと言ってくれました。その一つが、マレー半島中にある虐殺犠牲者の追悼碑の分布を2ページの見開きで示した本です。1992年に出版した「写真解説『日本の侵略』」(大月書店)では、マレーシアの地図にそれまでにわかっていた30か所の追悼碑の写真を組み込んで載せました。日本の人々は、これで初めて住民虐殺がこんなに多くのところで行われていたのだと知って、驚いたはずです。

ところで、この2ページに載せた30か所の追悼碑を私が確認できたのは、マレーシアの皆さんが協力してくださっていたからです。そこで、この本をマレーシアに持って来て、「皆さんと調べたことを、このようにして本にまとめて日本人に知らせられるようになりました」と報告しました。すると、マレーシアのあちこちで大騒ぎになりました。マレーシアの皆さんは、自分の地域で起きた事件は、お年寄りからも聞いて知っていました。けれどもマレー半島全体でこれほどたくさんの事件が起きていて、こんなに多くの追悼碑が建っていたとは知らなかった。それを日本人が調べた、ということに驚いたということでした。もちろん「これは私たちだけで調べたのではなく各地で地元の人が協力してくれたからです」と説明しました。すると若い新聞記者の皆さんが、「まだもっとあるかもしれない。もう一回自分たちの地域を調べ直そう」と言いだしてくれたのです。

その一方で、ネグリセンビラン州の人たちは、1980年代の前半から資料集を作るための取り組みをすでに始めていました。しかし、編集は終わったけれども出版する資金がないということで、長い間印刷ができないままになっていることを、1987年の12月の調査の時に、私たちは知りました。そこで、「それはもったいない。出版のために、私たちが印刷費用を前払いするのはどうでしょうか。そのかわり、私たちにその金額に見合うように、出版した本を冊数分いただければ、日本で販売して資金の回収をしたいと思います。でもみなさんが、日本人がそのようなことをするのは不愉快だ、ということでしたら、提案は撤回します」と申し出ました。返事は「ノープロブレム!」でした。こうして1988年1月に出版されたのが、森美蘭(ネグリセンビラン州)中華大会堂編『日治時期森州華族蒙難史料』です。

この時の印刷代分として私たちは300冊を受け取り、日本国内に紹介し販売しました。さらに、中国語で書かれたこの本を日本語に翻訳して『マラヤの日本軍』(青木書店1989年)として出版し、その著作権料を中華大会堂に届けました。そのお金で、増補改定版がまた発行されたと、後になって聞きました。


加害の事実を多くの日本人が知るためのガイドブック発行

私は1983年から今年まで、マレー半島各地での加害の事実を確認し、追悼するツアーを企画して実行してきました。今回で40回目になります。そのたびに報告書を発行し、現地で得た情報などを翻訳して紹介してきました。この間、ネグリセンビラン州などで新たに見つかった追悼碑の保存や改修にも資金面などで協力しながら交流を続けています。クアラルンプールでは毎年8月15日には地元の華人の団体の追悼行事に私たちも参加させてもらうということを繰り返しています。今年も、クアラルンプールでセレモニーに参加してきました。

さらに、先ほどは2ページにまとめた30か所の追悼碑のことを紹介しましたが、その後私は、『写真記録 東南アジア-歴史・戦争・日本- 第3巻 マレーシア・シンガポール』(ほるぷ出版社 1997年)を出版し、新しくわかった追悼碑のことなども紹介をしました。現在では、追悼碑など70か所までわかっています。

これらの本や資料を、日本の学校や図書館に備えてもらうように働きかけ、多くの人に読んでもらいたいと努力してきました。さらに実際に現地へ出かけて、確かめたいという人が一人でも行けるように、追悼碑への道順などを示しながら、なぜそういう追悼碑が立てられるようになったのかということを説明したガイドブックを作ることにしました。教師の鈴木晶さんと関口竜一さんとの共著で、2010年に『旅行ガイドにないアジアを歩く マレーシア』(梨の木舎)として発行しました。その中には、このペナン州にある追悼碑や鐘霊中学校の犠牲の解説なども載せてあります。


今後も怯むことなく歴史の事実を明らかにしていくために  
私たちはこのような活動を40年間続けてきました。その間には嫌がらせもずいぶんあって、家族が怖い思いをしたこともあります。また、日本の加害の事実を教科書に書こうとした時には、日本の政府(文部省)の教科書検定で原稿を却下されるということも経験しました。その時には、そのまま泣き寝入りしたのでは、証言をはじめ、さまざまの協力をしてくださったマレーシアの皆さんに言い訳ができないと考えて、政府と裁判で闘うことにしました。裁判では、原告が私一人でした。当時国立大学付属高校の教師という立場で、文部大臣と争うことになりましたが、ここに一緒に旅行で来た人たちなど日本中の大勢の人たちが支えてくれました。

私は、これからも、歴史の真実を明らかにし、平和な社会を作っていくために、皆さんと一緒に行動を続けたいと思っています。このような活動は、私だけではなくここに来ている人たちが引き継いでくれると思いますので、これからもよろしくお願いします。

今日は、こちらの地域の皆さんと交流できる機会をつくっていただき、誠にありがとうございました。


高嶋伸欣(たかしま・のぶよし)
1942年生まれ。琉球大学名誉教授。高校教諭だった1975年以来、東南アジアでの皇軍による住民迫害を調査。その記述を削除させた検定に対し、横浜で教科書裁判を提訴(1993)。一審は勝訴、高裁・最高裁(2005)は敗訴。81年度「日本史」教科書検定で沖縄戦住民虐殺の記述削除以来、沖縄戦と教科書問題にも取り組んでいる。著書『80年代の教科書問題』(新日本新書、1984)『旅しよう東南アジアへ』(岩波ブックレット、1987)『拉致問題で歪む日本の民主主義』(スペース伽耶、2006)、共著『旅行ガイドにないアジアを歩く マレーシア』(梨の木舎、2010)など多数。


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