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Sunday, March 30, 2025

「偉人」の性加害に長崎人権平和資料館はどう向き合ったか:「週刊金曜日」24年11月22日号から転載 How do we respond when respected figures commit sexual assault? -- The case of Nagasaki Museum for Human Rights and Peace

長崎人権平和資料館は、資料館がその名を冠していた平和活動家・元長崎市議・牧師であった者の性暴力の発覚を受け、二次加害防止として、23年10月に閉館、23年11月にいまの名前に改名し、24年4月に再開館しました。そのいきさつをジャーナリストの室田康子さんが取材し、『週刊金曜日』24年11月22日号に「『偉人」の性加害に長崎人権平和資料館にどう向き合ったか」というテーマで2つの記事

  • 長崎人権平和資料館 性暴力への「画期的な対応」がなされるまで
  • 性加害を告発した郡司真子さんインタビュー「20代の長崎で時間は止まったまま」

が掲載されました。記事にあるように私、乗松聡子は被害を告白した郡司真子さんと資料館の橋渡しの役割をつとめました。週刊金曜日、室田さん、郡司さんの許可を得て、ここに記事のテキストを転載します。一人でも多くの人に読んでもらいたい、考えてもらいたい、性暴力がない社会を作る一端を担ってもらいたいと思っています。@PeacePhilosophy  ★この投稿の無断転載を禁じます。共有にはこの投稿のURLを使ってください。週刊金曜日のバックナンバーはこちらで購入できます


注意:性被害の実態を報道するため、この記事には性暴力の描写が含まれています。フラッシュバックなどの心配がある方はご注意下さい。


「偉人」の過去の不正義にどう向き合ったか(上)

長崎人権平和資料館 性暴力への「画期的な対応」がなされるまで/「人権保障なくして平和なし」の思い込めて


平和や人権尊重を求める運動や組織が「偉人」と仰いできた人の過去の不正義を突き付けられたとき、どのような対応をしたのか。平和運動家、岡正治の性加害を告発された「岡まさはる記念長崎平和資料館」と、ジャーナリストむのたけじの差別発言に抗議をされた「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」(名称はいずれも当時)。二つの組織の対応を検証するとともに、その過程ではほとんど表に出ることがなかった被害者の訴えを伝えたい。


 JR長崎駅を背にして坂を上って約10分。キリスト教弾圧で信者らが殉教した西坂公園の近くに「岡まさはる記念長崎平和資料館」が開館したのは1995年10月のことだ。その前年に死去した平和運動家で牧師の岡正治(享年75)の名を冠したこの資料館は、岡らが掘り起こした朝鮮人被爆者の実態や戦時下の日本による強制連行の調査資料などを展示し、日本の加害責任を訴えようと市民によって設立された。展示物はすべて手作り。運営も市民ボランティアが支えてきた。修学旅行生や海外旅行者も訪れる被爆地ナガサキの「知る人ぞ知る」名所だった。

「あの岡さんがまさか」

 2023年、その資料館が大きく揺れた。5月、会員の乗松聡子さんから理事に「ネットに岡正治から性暴力を受けたという女性の投稿がある。対応しなければならないのではないか」と連絡があったことが始まりだった。乗松さんはカナダ在住で人権や社会正義について研究・執筆しており、日本に滞在中だった。

 指摘された投稿は「すき焼き鍋の話」というタイトルで、名前は伏せられていたが「聖職者で活動家で市議だった人」「平和と人権のために尽力し、長崎の偉人として記念資料館まである人物」と書かれていて、容易に岡のことだと推測できた。郡司真子と投稿者名も書かれていた。

 長崎の民放局で記者をしていたとき、他社の記者らと岡の自宅ですき焼き会をした。他の記者が社からの呼び出しで帰り、一人で皿洗いをしていると、岡が「最後の恋だと突然羽交い絞めにしてきた」という。さらに「道具を股間に押し当てられ」「本当に怖かった」。その後も岡に記者クラブで待ち伏せされることが続き、疲弊していく。これ以前にも警察幹部から性暴力を受けており、絶望して記者を辞めることを決意した、とつづられていた。

 初めて読んだとき、乗松さんはためらったという。自身も平和運動に携わり、岡正治や資料館を評価して会員になった。しかし、知ったからには何もしない選択肢はないと思った。ところが驚いたことに、何人かの理事は投稿された20年の時点でこの文章を読んでいた。にもかかわらず「そんな昔のこと」「当人が亡くなっていて反論のしようがない」「何が目的かもわからない」などと対応せずにいた。

 改めて理事会で投稿のことが共有された。初めて知った人は「あの岡さんがまさかという思いで、なかなか受け入れられず、しばらく思考停止で落ち込んだ」という。一方で、「下ネタが好きな人だったが、行動に出ていたとは」という声もあった。岡と面識のない30代や40代の理事は「衝撃だった。でも絶対に対応しなければならない」と前向きだった。崎山昇理事長や新海智広副理事長も動き出した。まず被害者の話をきちんと聞こうと、性暴力についての知識もある乗松さんが投稿者の郡司さんに会うことになった。

 8月に東京でおこなわれた聞き取りは2時間以上に及んだ。岡の性暴力は投稿に書かれた1回だけでなく、その後も「謝りたい。平和運動の新しいネタもある」と言って郡司さんを呼び出し、キスをしたり体に触ったりしていた。乗松さんは、当時の岡の様子や活動を知る人たちへの聞き取りも進めた。岡は牧師として勤めていた教会に来る若い女性と恋愛関係になったり、信者から相談された性にまつわる話を長崎市政記者室で面白おかしく話したりしていたという証言が複数の人から出てきた。

 9月の理事会で、対応が固まった。館名から岡の名前を外す。休館して展示を変更する。具体的には、個人顕彰をやめ、「岡正治記念コーナー」と岡の盟友で初代理事長だった故高實康稔さんのコーナーをなくし「性差別と性暴力」のコーナーを新設する。休館は10月から24年3月末までの半年間。思い切った提案だったが、理事の間で反対はなかった。内容を聞いた乗松さんは「ここまでやるのかと迅速な決断に驚いた」という。ただし、なにより被害者への謝罪が優先だと主張した。

 崎山理事長と理事会一同からの謝罪文が9月末に郡司さんに届けられた。文書には、20年時点で投稿を読んでいた者がいたにもかかわらず対応が遅れたこと、郡司さんの苦しみに寄り添ってこなかったことへのお詫びの言葉があった。「(岡が)権力的立場を利用して、人権と尊厳を踏みにじる行為をした」と認め、「社会正義や人権を重んじる社会運動の中にも根強く存在する性差別に対し、常に自覚的であり、改善のために発言・発信・行動していく資料館に変わっていきたい」と書かれていた。

 郡司さんは、通り一遍ではない謝罪文に驚いたという。「被害を明らかにしても、ずっと無視され続けてきた。告白したのは個人的な恨みからではなく、社会運動の中での性暴力、報道取材現場での性暴力の問題を改善したいという思いから。それを理解してもらえてうれしい」と述べ、「画期的な前代未聞の動き」と評価した。

顔の見える相手とガチに

 しかし、理事会の方針がすべての会員にすんなり受け入れられたわけではない。10月、公式発表を前に会員やボランティアを対象に開かれた説明会は大荒れだった。「男女のことだから真相はわからない」「性暴力といえるのか」と、被害者への「二次加害」といえる発言が飛び出した。「公になったら右翼などから攻撃されて資料館が立ちいかなくなる」「閉館までする必要があるのか」という声もあった。批判的な意見の多くは、岡に尊敬の念を抱き、ともに活動してきた人たちからだった。たとえ性加害があったとしても、そんなことであれほどの功績がある岡を地に落としてしまってよいのか――。

 それに対する理事の福田美智子さん(44)の答えは明快だ。「岡は自身の平和運動家としての権威を性暴力の道具にしていた。記者との『教えてやる』『教えてもらう』という権力関係を利用して性暴力に及んだ。功績は別ということはありえない」。また、30代の理事は「朝鮮人被爆者の実態が明らかになった現状が、岡が成し遂げたことの延長線上にある。それで十分で、さらに個人をたたえる必要はない」と割り切っている。

 説明会での激しいやりとりは、同じ運動をしている人の中でも性暴力に対する考え方に大きな隔たりがあることをあらわにした。福田さんは、性暴力の問題を矮小化する背景には性差別意識があると指摘する。「運動の中で女性が裏方的な仕事に回ることも多く、女性たちの働きが小さく見られがちな面がある」。

 資料館を守るために問題に目をつぶろうとする流れもあった。「右傾化する社会で、こんなことで仲間割れしてはいけない」という声も出た。先の30代の理事は「これまで運動で自分たちが『相手』としてきたのは日本政府や右翼、無関心層など、顔が見えない人だった。それが今回は自分の周りにいる顔の見える人になった。その人たちとガチに話さなければならないのがきつかった。でも、そこから逃げてはいけない」と振り返る。

 波乱はあったが、理事会の方針が変わることはなく、資料館のホームページに公表するとともに記者発表をした。崎山理事長は「権威ある男性を疑わず被害者の証言を重大に捉えない、内面化された性差別意識やジェンダーバイアスがあった」とコメントした。新聞やテレビがいっせいに「岡正治氏が『性暴力』」「資料館は名称変更、一時休館へ」と報じた。11月の総会を経て、館の名称は「長崎人権平和資料館」になった。「人権保障なくして平和なし」の思いが込められている。

運動の分岐点になれば

 2024年3月には、社会学者の梁・永山聡子さんを講師に迎えて学習会が開かれた。梁・永山さんは、韓国で20年に人権派弁護士として知られた朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長(当時)が元秘書からセクハラを告発されて自殺した後、被害者に対して猛烈なバッシングが起きたことを話した。

 「被害者は、信じてもらえないことやお前のせいで英雄が傷ついたと言われることが一番つらい。韓国では性暴力相談所を中心に多くの社会運動団体が協力して彼女を支えた。大事なことは一資料館のみの問題にせず社会運動全体で取り組むこと。資料館にとって、被害者を守りながら性差別・性暴力に取り組むトップランナーになれるチャンスでもある」と訴えかけた。そして「長崎での対応がこれからのリベラルな運動の分岐点になりうる」と期待を寄せた。

 4月、資料館は長崎人権平和資料館として再出発した。二階にある「性差別と性暴力」のコーナーには、岡正治の性加害や資料館の対応、「二次加害」とは何かを説明するパネルが展示された。しかし、これらはまだ半分。9月に資料館を訪れると、壁には「その他のパネルについては現在作成中です」と紙が張られていた。今後は日本社会と性暴力を考える展示や被害者支援の情報も出していく予定という。ボランティアで運営に携わる人たちにさらに大きな課題が課せられた。半分空白の壁は、資料館をつくり変えていく遠い道のりを象徴しているように見えた。

(以上、『週刊金曜日』24年11月22日号34-37ページのテキスト転載)


「偉人」の過去の不正義にどう向き合ったか(上)

性被害を告発した郡司真子さんインタビュー

「20代の長崎で時間は止まったまま」

「わたしが声をあげていたら、後輩たちが傷つくことはなかったのではないか」


――長崎へは就職で?

 1992年に大学を卒業して長崎文化放送にアナウンサー兼記者として入社しました。局では女性として初めて警察取材を担当し、毎日警察署を回っていました。その年の冬、長崎警察署の幹部から電話がきて「事件のことで話がある。会わないか」と言われました。思案橋の小料理屋でビールを飲みながら話を聞いていたら、突然気を失ってしまったのです。気づいたらホテルの部屋で裸にされてベッドにいました。意識がない間にレイプされて、写真まで撮られていました。

「特ダネを取っていけ」

――気を失わされて……。

 警察幹部はビールに睡眠導入薬を入れたと言っていました。もうろうとした頭で「これは犯罪じゃないですか」と言うと、「事件には絶対できない。しようとしてもつぶしてやる」とすごまれました。薬のせいでとにかく気持ちが悪く、タクシーで家に帰るのがやっとでした。当時知識があれば、病院に行ったり性暴力被害の救済機関に相談したりしたでしょうが、できなかった。1カ月ぐらい具合の悪い日が続きました。

――すぐに被害を訴えることができなかった。

 言ってもしょうがないと思ってしまったのです。相手が警察だから握りつぶされると思ったし、被害者だと主張するとアナウンサーとしての生命が絶たれてしまう。立場を失うのが怖かったのです。そのうちまたその警察幹部から「取材のネタを提供するから」と言われて会い、ホテルに行きました。そんなことが5回ぐらいあった。すごく気持ち悪くて嫌なのに、断りきれませんでした。

――職場の上司に相談は?

 私たちのことが噂になって、長崎県警の(不祥事や服務規定違反を調査する)監察官から事情を聞きたいと呼び出され、その前に報道制作部長や先輩記者に相談しました。こんな関係を続けるのはつらいと言うと、部長から「お前が悪い。わきが甘かった。誘うようなことをしたのではないか」と言われ、「だが記者として生き残るすごいチャンスだ、これを道具にして特ダネを取っていけ」と諭されました。もう正常な判断ができない状態でした。県警の監察官にはレイプのことは話さず「あくまで警察幹部と記者の関係」で通しました。その後、幹部は転勤し呼び出しはなくなりましたが、どうしても警察の取材を続けるのがつらく、長崎市政の担当に変えてもらいました。

――そこで、岡正治からの性被害に遭ったのですね。

 岡は平和運動の大物で、被爆問題を担当する市政記者にとって重要な取材対象でした。94年の春、岡の自宅に市政担当の記者4人が集まってすき焼きを食べながら懇談する会があったのです。夜遅くなって、他の3人の記者が社に呼び出されて帰り、私は皿洗いをしてから帰ることになりました。

 すると岡は五輪真弓の「恋人よ」のレコードをかけ、下着姿になって「好きだ」とか「パパと呼んで」とか言いながら後ろから抱きついてきました。隣の部屋にはいつの間にか布団が敷かれていた。私が警察幹部から性暴力を受けたことを知っていて「清めてあげる」とも言われました。もうびっくりしてしまって。「すみません、遅いから帰らないと」と言って必死で逃げてきました。

記者としていいのか

――被害はそのときだけではなかった。

 記者室に電話がかかってきて「この前のことを謝りたい。平和運動の新しいネタもあるから」と言われ、仕方なく家に行きました。そうしたら謝罪などなく、「付き合いたい」と言われて押し倒され、キスをされ下半身を触られました。フリーズして動けなくなっていると、タオルの上に性具を並べて「どれがいい」と。「お願いだからやめてください」と言って必死で帰ってきました。

それからも記者室や市役所の周りをうろついたり電話がかかってきたりして、怖くて。その年の夏に突然亡くなったと聞いたときは、正直言ってホッとしました。

――お別れの会に取材者として行ったそうですね。

 たくさんの人が参列して、みんなが岡のことを持ち上げていました。でも、私はこの人の秘密、本当の姿を知っている。そのことを書かなければと思いました。それなのに、あの日私が書いたのは結局、立派な偉人でしたという原稿だった。記者としてこれでいいのか。この日私はテレビ局を辞める決意をしました。警察幹部に加え岡からも性暴力を受けて、絶望したからです。

その後、遺品整理の取材に行き、すき焼き鍋をもらいました。岡にされたことは絶対に忘れない。岡のひどい面を知った自分には、それを明らかにする責任がある。自戒として鍋を持っていようと思ったのです。

――鍋は今も手元に?

 いいえ。翌年テレビ局を辞めた後、結婚して夫の転勤で香港に行きました。鍋も持っていったのですが、香港で中国語を学び現地放送局の同時通訳などをして、生まれ変わったような気持ちになりました。もう自分はあのことにこだわらず生きていこうと、鍋を捨てました。

――それで忘れることができましたか。

 忘れることなどできません。帰国して子どもが生まれ、その子に発達特性があったことから発達支援の仕事に携わりました。二人の子育てをし、会社をつくって経営の苦労もしました。いいこともあったし、いろんな体験もしてきた。なのに、それよりも長崎での3年間の記憶が人生で一番重い。自分が人間として尊重されていないと知った23、4歳のときから、時間が止まっている気がします。あのときの衝撃があまりに大きくて、それが解消されていないのだと思います。

言えるまでに27年

――2020年にネット上の「note」やツイッター(現「X」)で自身の性被害を告白しました。

 そのころ、フリースクール東京シューレで起きた性暴力の被害者を支援したり、性暴力に抗議するフラワーデモに参加したりして、私も被害者だと気づいたのです。それまでは、あんなことがあったのは自分にスキがあったからだ、嫌なのに関係を続けてしまったのは自分が弱かったからだと思っていました。でも悪いのは加害者で自分は悪くなかったと気づいた。自分に起きたことを言えるようになるまで27年かかりました。

――同年3月に長崎であったフラワーデモで、警察幹部から受けた性暴力を訴えました。

 私の被害のことを知った新聞労連(日本新聞労働組合連合)の人から話をしてほしいと言われたのです。私の被害は、取材の現場で起きました。長崎文化放送は朝日新聞や長崎新聞と資本関係があり、私が勤務していた当時の部長やキャップ(指導的な立場の記者)も両新聞社から出向してきていました。彼らは私を助けてくれませんでした。何としてでもネタを取ってこいという文化の中で、女性の人権など無視されてきた。私が声をあげていたら、長崎市の部長から性暴力を受けて提訴した女性記者(22年に勝訴)のように後輩たちが傷つくことはなかったのではないか。そう考えて長崎に行ったのです。あの後、スピーチで名前を挙げた先輩男性から「自分は被害の実態を知らなかった。名前や新聞社名を出さないように」という手紙が来ました。

 フラワーデモで、私は性被害に遭ってすごくつらかったと話してからやっと、あの警察幹部に会う夢を見なくなりました。以前は、怖くて「あーっ」と叫びながら目覚めることが何度もあったのです。

時効の壁に阻まれて

――そして、同じ年の7月に岡正治の性加害を告発しました。

 やっと言えるようになった。でも3年近く何の反応もなかったので、23年になって岡まさはる記念長崎平和資料館(当時)の会員である乗松聡子さんから連絡をもらったときはとても驚きました。わかってくれる人がいた、自分はなかったことにされなかった、と思いました。資料館が私に謝罪し、きちんとした対応を取ったことは画期的です。

――それに比べて、長崎県警は何の対応もしていません。取材を申し込みましたが、「事実かどうかも含めてコメントできない」という返事でした。

 私の被害は時効で裁判を起こすことはできませんが、道義的責任はあると思います。個人的には、あの警察幹部に会って「あれは同意ではなかった。性暴力だった」と伝えたい。

――今は性暴力をなくすための活動を精力的にしています。

 発達支援が必要な女の子たちが性被害に遭うことが多く、それを防ぐ運動や法整備の働きかけをしています。踏みにじられた私の尊厳はまだ回復していませんが、性暴力防止の活動が自己治療の一環にもなっています。

聞き手・まとめ 室田康子   

むろた やすこ ジャーナリスト。

(以上、『週刊金曜日』24年11月22日号37-39ページのテキスト転載)


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