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Friday, November 06, 2009

沖縄在住の一被爆者から A Letter From a Hibakusha in Okinawa


Here is a letter written by a hibakusha (A-bomb survivor) in Okinawa, shared by Yuki Tanaka, Professor of Hiroshima Peace Institute. See the English version here. 広島市立大平和研究所の田中利幸先生から託された、沖縄のある被爆者の方がその思いを綴ったレターを公開します。英語版はこちら

沖縄在住の一被爆者から
  広島市市民・長崎市民の皆様への手紙(決して被爆者の代表ではありません)

                       
  
1946年8月6日 広島市民のすべての人、8月9日、長崎市民のすべての人が被爆者にされてしまいました。

あれから64年、広島市民・長崎市民であることが被爆者とは限らなくなりました。

むしろ、高齢化し、その数は少なくなり、やがていなくなる日がやってきます。

その残された被爆者、いや、すべての被爆者は、あまりにも突然の人類史上極悪非人道的な武器、原爆によって言葉さえ出てこない断末魔の中に閉じ込められ、さいなまされながら、必死に生きてきたのです。心の傷だけではありません。

残留放射能のため、いつ我が身かと脅かされつつ生きているのです。

被爆者の痛みは十人十色。一言で被爆者と束ねられるものでは決してありません。

本心はアメリカがにくくてしかたがなかったのです。

 あれさえなかったらとさいなまされるのです。

口に出して『アメリカのバカヤロウー』といえれば、少しは気分も楽になったかもしれません。しかし、占領下ではそれすらできませんでした。

意気地無しといわれたら、甘んじて受けるしかありません。被爆者は核廃絶の前に心と体を癒してほしいのです。

それが被爆者の偽らざる本心です。そのうえでの核廃絶運動です。

ヒロシマのこころは十人十色の被爆者の痛みが、すべての原点であり、出発点だということを忘れないで下さい。

被爆者ひとりひとりに幾重にもまつわりついている重い悲しい糸をときほぐそうともしないで、核廃絶運動が一人歩きしていると感じているのはボクだけでしょうか。

オリンピックの招致の発想はまさにその現れとしかいいようがありません。

また、アメリカの長〔大統領〕を招きたいのなら、まず懺悔です。核の恐怖を世界にばらまき、被爆者をつくりだしたのですから・・・・。

それとともに被爆者への医療と生活保障、見舞金、さらにABCC時代の資料の開示を求めてください。

私たちは決して不寛容ではありません。むしろ、被爆者ゆえに、絶望のなかから生きる意味と希望をみいだしてきたのです。

十人十色の創造があるのです。ですから、心から平和と核廃絶をもっとも希求しているのです。

広島市民、長崎市民の皆さまに申し上げます

この度、原爆を開発使用したアメリカの長が、ダイナマイトや無煙火薬を発明し、大富豪になったノーベルから平和賞をもらったそうです。それはそれで金持ちや権力をもった族が大衆の目をくらます常套手段なので驚くにあたりません。

消防士が放火して、率先して消火活動をした人がいましたがそれと同じです。

しかし、です。

その張本人を懺悔も保障も求めず、ただ招きたいという、広島、長崎市民の署名活動は、
被爆者を蹂躪するものです。被爆者をこれ以上傷つけないで下さい。

広島、長崎市民の善意の署名活動だけに被爆者は行場がないのです。

私たちは老い先、短い高齢者です。

広島市長 長崎市長に申し上げます

ナショナリズムをいやがおうでもあおるとしかいいようがないオリンピックを共同開催しようという、被爆者を愚弄する企画を臆面もなく発表されたことについて、市長としての品格とともに資質を疑わざるをえません。

アウシュビッツでやるでしょうか。ナチがベルリン大会を民族の祭典にして以後、オリンピックはスポーツ精神の名のもとに民族、国家の誇示に利用され、今日では経済の餌食になり下がっています。

ナチは昔話と思っている人もいるかもしれませんが、今回、2016年の招致合戦を見れば、益々民族、国家の欲はふくらみ、その先には戦いがみえかくれしています。

競争は人格を磨き自信を育てると一般に考えられています。しかし、ほとんどのごく一部の人をのぞいて劣等感を抱かせ、自信を失わせているのです。

もっと危ないのは自分の価値、あるいは、自分たちの国や地域、学校などを勝ち負け、数字でしか判断できなくなってしまっていることです。

目に見えない精神が創造をつちかってくれるのです。

戦争はなぜなくならないのでしょうか。戦って勝ち取る核廃絶は必ずまた新しい対立を生み出すことは明らかです。もっと強い強力な武器が開発されることもあるかもしれません。

無言の被爆者の苦しみ、すべての戦争犠牲者の苦しみに思いをはせ、共感共有できる精神の創造こそが、やがてすべての武器の意味を失わせ、人間が戦争から解放できる出発点です。その意味で核廃絶は平和精神創造運動なのです。

これからの時代は民族・国家をこえて地球規模で地球家族として生きようという志をもち、戦いでない方法を解決の道に創造していかなければ人類の尊厳はありません。

行間、音間、余白、に隠された意味があるように、無言の被爆者の声に耳をかたむけてください。

                       ありがとうございました。
2009年10月

2 comments:

  1. 藤岡惇5:09 am

    アウシュビッツでオリンピックを行えるか、という問いかけは、
    いままで考えたことのない視点でした。
     私は、広島・長崎で、もっとまともな原点に返ったスポーツの
    共演を、というオリンピックの体質変革を求める運動と結びつける
    など、運動の中身を変えていく必要があるのではないか、
    という刺激をうけました。

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  2. 深く考えさせられるお手紙でした。

    広島長崎原爆の被爆者の方たちは、よく、「アメリカに恨みごとを言わない」ことを驚かれたり感心されたりすることがあるようです。

    しかし最近被団協がNPT振り返り会議用に全国の被爆者にアンケートを取り発行した「被爆者からのメッセージ」のダイジェスト版を読んだところ、やはり気持ちの根底に流れる怒りというものを深く感じました。

    公の場で証言されるときには怒りを露わにしなくとも、やはりアメリカに責任をただすという姿勢を持つ人が多いと思います。名前の出る証言ではなく、匿名のアンケートによる回答でのほうが、絞り出すような思い、怒り、悲しみをストレートに表現している人が多いように思えました。

    オバマ大統領が原爆を落としたのではないといえ、オバマ招致運動において、「謝罪でなくていいので来てください」というようなニュアンスがあるとしたら、それはやはりあまりにも迎合的な態度ではないかと思います。たとえば日本の首相が南京大虐殺事件の被害者を追悼するために南京に行く場合、「謝罪ではありません」と旗を掲げていくことが許されるでしょうか。また、招致する側が、ましてや被害者でもない人たちが「謝罪じゃなくていいので来てください」などと言えるでしょうか。国のリーダーである以上、このような行為は謝罪的性質を持たないということは不可能と思います。単に核兵器廃絶を唱えている大核保有国の大統領として広島
    長崎を表敬訪問するなんていう単純な意味合いの訪問はあり得ません。それはア
    メリカ側こそ十分承知していて、それだからこそ慎重になっているのだと思いま
    す。私は今回オバマさんが広島長崎に行かなかったということよりも、広島長崎
    訪問の重みとその複雑さを十分受け止めて検討していると思われる大統領やその
    周辺の態度を評価したいと思います。

    月下さんのレターに喚起されたさまざまな問題意識についてもっと書きたいのですがとりあえず今回はこれくらいにしておきます。

    また、被爆者でない自分が被爆者の方々の気持ちをわかったつもりになっているような思いが少しでもあったとしたらそれは改めなければいけないという自戒心はいつも意識して持とうと思っております。それだからこそ、月下さんのおっしゃるように被爆者の方々のさまざまな、率直なご意見というものを聞きたく思い、それを自分の仲間たちとも共有していきたいと思っています。

    乗松聡子

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