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Thursday, November 19, 2009

Nagasaki Hibakusha Ayako Okumura's Story 長崎被爆者 奥村アヤ子さんのお話


Hibakusha Ayako Okumura's Story

Ayako Okumura spoke to our Hiroshima/Nagasaki Peace Seminar Group on August 8, 2009. She carefully hand wrote her speech, and gave it to me at the end. Ms. Okumura also spoke as a hibakusha representative at Nagasaki City's Ceremony on August 9th. We wanted to share her story with as many people as possible. We will also try to translate this into English as soon as possible.


昭和十二年日中戦争の時に生れ4歳のときに第二次世界大戦が始まり戦争の真只中で物のない時代に育てられました。国民は、みんな我慢をさせられたのです。台所で話すと、ナベ、釜、ヤカンなど「鉄だったり、真鍮」だったりすると国に供出させられて戦争に使われていたのです。教科書は上級生の人から譲ってもらって勉強していました。洋服は、お正月、お盆でないと新しい服は着ることができませんでした。デパートに行くとか、買い物に行くとかでなく、母が自分の着物をほどいて、姉妹三人おそろいでお盆に着るように出来上がっていました。姉も妹も亡くなり、切ることは出来ませんでした。その代わり、中学校になった時は、母も姉もいないのに姉の服を着させられたときは悲しくなりました。戦争にならないように伝えて行きます。

私が住んでいた城山町は、爆心地から500M離れた静かな田舎でした。山にたんぼにと自然の中で、山に登り、野原をかけまわり遊んでいました。叔母の家が地主でしたので戦争中でしたけど、生活に困ることはなく新しい家を建て家族九人で賑やかに、楽しく、そして幸せに暮らしていました。

一九四五年八月九日十一時二分、原爆が投下され街も家も、人も、一瞬にして灰のように、体は焼かれ一口の水も飲まずに亡くなったのです。

八月九日の朝までは一緒だったのに、ひとことの伝言もなく、姿もみないまま、私の目の前から突然消えてしまったのです。何十年経っても亡くなったとは言いたくないのです。一緒に遊んでいた友達も、私を一人残してほんとうに消えたのです。毎日泣いていましたよ。四十六年間、原爆の話ができませんでした。原爆の2文字がなくなって「頭の中から」消えてほしいと願っていたのです。私の家族が城山町で幸せに暮らしていたことを書き残したくて、あすへの遺産と云う本の中に、旧姓徳永アヤ子で書きました。その本の記録を残すことがきっかけとなり今は、修学旅行の皆さんに被爆体験を伝えています。

私は四十六年間原爆から逃げていましたので、聞きたくない、見たくない、知りたくないと、原爆を自分自身の中に封印していたのです。逃げていた私が原爆と向き合ってしまったのです。逃げていた後木のほうが長いのです。語り始めて十九年になります
。みなさんは64年で長崎にいらしていますね。私が最初に調べたのが原爆投下でした。原爆は、松山の爆心地地上500m上空で炸裂し、強烈な閃光と、耳の鼓膜が破れるような爆発音、それに続く熱戦と爆風が生じ浦上は、完全に破壊され火の海となったのです。それから死の街に変わったのです。原爆は、普通の爆弾とは違っていて放射線を放出したので生き残った人も次から次に亡くなったのです。原爆は、アメリカで三発作られ、一つはアメリカのニューメキシコ州で実験され、残りの二つが広島、長崎に投下されたのです。

原爆は、日本で四ヶ所落とす場所を決められていたそうです。新潟、京都、広島、小倉が決まっていたそうです。京都は文化財が多いのではづされたそうです。京都の代わりに長崎が加えられたそうです。私は京都をはずしたままだったらと…?

広島に落とされたのは、ウラニウム爆弾で15Kトン、長崎に落とされたのはプルトニウム爆弾で22Kトン、威力は長崎に落とされたのが大きかったのですが、被害は広島が大きかったのです。二ヶ目北九州の小倉だったのですが、屋久島の上空で三機が行流して小倉に向かうはづでしたが、一機が遅れて来ないので二機で飛び立ったのです。小倉の上空は、雲の層が厚く目標がわからず三回くらい施回したけど落とせなかったのです。燃料を使っているので小倉がだめなら長崎だときてしまったのです。

「長崎が加えてなかったらどうしたんでしょう?持って帰ってくれたらよかったのに、海の上でもよかったのに、投下してくるように命令を受けていたので」

苦悶尾切れ間から、三菱兵器工場発見し高度900mから投下された長崎は、北部で山にかこまれていたので被害が少なかったのです。長崎を目標に飛んできていたら、繁華街の近くの常盤橋の近くに落として市民を巻き込んで長崎全土を焼き尽くす計算だったのです。造船所もありますし威力も大きかったので広島以上の被害になったと思います。私の親戚も一家全滅です。

中心地も私が住んでいた城山も安全地帯でみなさんが疎開をしてきて亡くなったのです。城山の中心地の所を工事した時に、お骨が出てきたのです。今も残されています。「地層」56軒の人が幸せに暮らしていたのです。一軒の台所じゃないかと云われています。浦上の街はお骨が眠ったままの悲しい街です。

八月九日を歩きながら伝えます。
私の家族の話を聞いてください。

一九四五年八月九日の朝までは、楽しく賑やかに朝食を済ませ、父と兄は元気に工事に出かけみんな元気でした。数時間後には、みんなとの別れになるなんて考えられない十一時二分がやってくるのです。父と兄が出かけた後、母と一緒に防空壕に避難しましたが解除になり兄弟は母と一緒に家に帰りましたが、私は友達の家に遊びに行ったのです。家から少し離れた高台で大きな柿の木の下で遊んでいました。爆心地500m場所でしたが遊びに夢中で爆発音も、原子雲も見ていないのです。閃光はピカっとものすごい光がかきねの間からワァときたので地面に伏せたんじゃないかと思います。「私たちは勉強より避難訓練を習っていたのです。地面に伏せたので助かったと思います。」

腕、ひじに火傷をしていましたがそれには気がつきませんでした。遊んでいた友達は爆風でとばされていませんでした。友達は捜しませんでした。二軒あった家が崩れていたのでおそろしくなり家に帰ろうと自分の家を見ると、遊びに行く時は畑があり家もあったのに、畑はなく家も崩れてるし私には何がなんだか解らなくなりながら自宅へと急ぎました。森山さんの馬は死んでいるし人が死んでいるところを通りやっと家の前の道路まできた時、新築して一年位の我が家がみるかげもなく崩れていたのです。家には、母も姉も誰もいないのです。隣組の防空壕を思い出して坂を上りかけた時、四才の弟に逢ったのです。弟は火傷をして泣いていたのです。どうしたのと聞くけど、痛いから泣くだけです。母ちゃんを呼んでくるから動かずにここにおらんねと云って、母を捜しに行きかけた時、近所のおばさんから涼子ちゃんはキンカンの木の所にいるよと聞き、キンカンの木は姉の同級生の家だったので姉ちゃんと涼子は一緒にいると思い急いで行ってみましたが姉はいませんでした。妹は顔は少し腫れて動かすこともできず、水、水、と云っていましたが水もやらず「姉がいなかったので」母を捜しにその場を離れたので妹はいつ死んだのか、今も解らないのです。三年生のよしつぐちゃんは、目玉がとび出していて動けないでいましたが何もしてやれませんでした。

母の行きそうな、たんぼ、畑だろうかと捜しましたが八月九日の日は、母にあえませんでした。弟をつれて防空壕の前で家族を待ったのです。よその家族は、行きとったとね。元気やったねと再会しているのに、父も、母も、兄も、姉も、待っても待ってもだぁれも帰ってきませんでした。妹のように死にかけていても、どんな姿でもいいのです。私の目の前に母か姉がきてくれたらほっとしたと思います。伯母さんは、たんぼで草取りをしていて被爆しているので、皮膚はたれさがり重傷でしたが家までつれてこられて家族六人顔を見ることが出来るのに、私の家族は、どれだけ待っても帰ってきませんでした。

私は原爆投下後一週間位、伯母さんの家族と暮らしているのに、防空壕までは覚えているのに、原爆のショックと、悲しさと、寂しさで、記憶喪失になっているのです。四十六年間記憶喪失になっていることさえ知らず、どうして、なぜと誰に聞くこともなく過ごしていたのです。

十五年振りに従姉妹と再会し、小さい時に遊んだ所に連れて行ってくれました。山は崩れていました。洗たくしたりよく遊んだ川は、今もありました。ただみ二枚位の広さのしみずと云って生活の水に使っていたのです。それがあふれて小さい川に流れていたので自分のものを持って行って洗たくしたり

よく遊んだ川を後に従姉妹の家に行き不思議な話を聞かされるのです。私達が家を建てるまで一緒に暮らしていた伯母の話。「たんぼで被爆したお母さんが死ぬ時は、自分達よりアヤちゃんが一人で泣いてくれたのよ」と、伯母さんのそばらから離れずに死んだらダメ、死なないでと泣いてくれてありがとう、と云うのです。私は貴女達と一緒に暮らしたかったのに田舎につれていかれたので知らないよと云ってしまったのです。しばらくしてから、私はどうおして伯母さんのそばにいたの、誰がつれていってくれたの、弟はどうしていたのと聞いたけど答えてくれませんでした。無理に聞かなかったのです。

私は原爆投下後しばらく長崎で暮らしているのに思い出せないのです。母を捜したこと、森山さんの庭で死体を焼いたこと、八月九日しか覚えてないのです。

四十六年振りに姉の友人大塚美子さんにお会いするのです。大塚さんから私の家族のこと
姉のこと、私のことを知ることになるのです。私は四十六年間何かおかしいとずっと思っていたのです。育てられたところでも何も聞かなかったのです。四十六年振りにやっと解ったのです。

どんなに待っても帰らなかった父は山の中腹で亡くなっていたそうです。一番捜した母は、家屋の下敷きになって二才の弟を助けていたのです。本には即死と書きましたが、母も弟もいきていたのに部落は全滅しているし誰も助けてくれる人はなく親子家の下敷きになって亡くなっていたのです。姉は真黒に焼かれてパンツの網だけが残っていたそうです。大塚さんも家の下敷きになりやっと助けられて防空壕にいった時にかすかな声でミッチャン水、水と声かけたそうです。

男子か女子かわからない姿で立っていたので貴女はだぁれとたづねたら京子よといったので私の姉とわかったそうです。姉ちゃんは人間じゃなかったよと聞かされた。皮膚もなく墨のように真黒になって死んだのよと。一番最初に葬られたのが姉だったと防空壕の前は次から次に亡くなり借りのお墓になったのです。姉は、妹と一緒に死んだと思っていたのに?家にいてくれたら私と逢えていたのにそしたら母と弟が助かったのにと。

家から防空壕に行くには坂になっているのに死にかけた体で一生懸命登ってたどり着いているのに私とは逢えなかったのです。兄は、昭和二十年に卒業して大橋兵器工場就職。朝出勤したまま帰らぬ人となったのです。大好きな兄は私の心の支えでした。新聞や看板を見ると「徳永」、兄の名前をさがしていたのです。「九日」命日がくると毎月城山の墓に三時間以上かかる道を一人歩いて行くのです。兄がもしかして先にきてないかな?私達が田舎にいったのは知らないからお墓で逢えるかと、朝から夕方まで兄を待ったのです。平成三年八月三菱兵器製作所の慰霊祭があることを知り、参列しましたが、父の名前はありましたが兄の名前はありませんでした。写真を見せられ話を聞き、生きていることは無理と思いました。やっと区切りが出来ました。
兄の写真も仏壇の中に入れて供用するようになりました。私の家族は裸で真黒に焼かれてあっちこっちで亡くなっています。人間は四十年もすると土にかえるそうです。なくなった所の土をいただいてきて下着を入れてやりみんなが同じ墓に眠ることができたのです。

私と弟は一度も行ったことのない田舎につれて行かれます。行く途中、みなれた住宅はなく、真黒に焼かれた死体がそのままでした。私はここから覚えています。浦上にきた時はびっくりです。浦上川は長崎の港にそそがれています。潮の満ち干できれいになりますが今は手も入れたくありません。五十九年前は大橋から先は、たんぼが多く農薬も使っていなかったのできれいな水がながれていて子供たちはプールの変りに泳いだり魚を釣ったり、ひき潮になると貝を取っていたのです。八月九日上から照らされ地表温度が3000度~4000度、鉄を溶かすのが1500度だそうです。三倍と思ってみてください。水がほしいものですから浦上の人はきれいな水が流れているのを知っていますから動ける人、はってくる人、浦上川を目指してきて一口飲んだ人から亡くなって死体が折り重なるようにして亡くなっていたのです。

水をくださいと待っていても誰も飲ませてくれる人はいません。自分の事で一杯だったのです。私も妹にも近所の人にも水を飲ませてあげなかったのです。浦上川を通り焼け野原を荷車に載せられて田舎につれて行かれました。家族がいると思って母を捜しましたが、母はいませんでした。弟は重傷でしたので私は一人で三時間以上トボトボ歩いて焼け野原を歩いて城山まで家族を捜しに行くのですがつれもどされるのです。新築した材木、財産を運ぶのに忙しいので私が弟をつれて病院につれて行くのです。私と弟は、愛情、やさしさで引き取られてないのです。きびしい人でしたからあまえることも泣くこともできず二人で我慢するしかなかったのです。かあちゃんがいたら、おんぶしてよ、だっこしてよ、痛いよとあまえたかったでしょうに私と二人で手をつないで、ゆっくりゆっくり時間をかけて病院通いが始まったのです。家では泣かない弟でしたけど、包帯をはがされる時は、痛いものですから我慢できず泣いていました。

私も腕に火傷をしていましたが、自分の治療がいつ終わったのか覚えてないのです。一緒に泣いていたのでしょう、包帯を巻かれるとだまって私に手を引かれてついてくるのです。弟は十月の二十三日に亡くなるのです。可愛そうでしたよ。

みなさんの廻りには、痛みを我慢するものがたくさんありますようね。テレビがあったりゲームが出来たり、本が読めたり?私達が育てられた所には、ラジオもなかったので外で人が行ったりきたりするのをながめている弟でした。母がいたら、心も体もあまえられたでしょうに、自分の痛みを我慢し地獄のような苦しみだけを背負って二ヵ月半で亡くなったのです。生きている時は、弟が痛かろうと二人でいられたので何も思わなかったけれど、亡くなって送り出す時は、短い命なら母ちゃんと一緒に即しの方がましだったと思いました。弟がじっと我慢していた姿が頭の中から消える事はないでしょう。

ひとりぼっちになり天国と地獄がやってくるのです。私は外で被爆してますので、直接放射線を浴びていましたので、髪の毛は抜け歯茎から出血するし体全身具合が悪いので病院行かせて下さい、横になりたいと云っても病院なんか行かせてくれませんでした。朝から晩まで働かされたのです。なまけものだ云って山ほど仕事をいいつけて畑に行ってしまうのです。母がいたら、兄ちゃんがいてくれたらと泣いていました。学校に行く前にはき掃除ふき掃除をしないと学校に行かせてくれませんでした。いつも遅刻ばかり帰りはみんなより早く帰らないと仕事が山ほど待っているのです。お風呂の話、学校に行けなかったこと。

私には両親も、兄弟も、帰る故郷もありませんけれど何でも話せる友達がいます。それで元気です。今も季節を通してビワができたよ、ブドウができたよと届けてくれて家族のように行き来して仲良くさせてもらっています。感謝しています。私は二人の子供を育ててきました。小学校、中学校は、友達と作りなさい、仲良くしなさいと云って育ててきました。高校、大学、社会人になってからは行く先々に何でも話せる友達、聞いてくれる友達を作りなさいと今も云っています。遠く離れて暮らしていますが電話の先から元気な声が聞こえてきます。私が歩いてきた人生、子供を育てていえることは、自分の身近な所に話の出来る人、聞いてくれる人がいたら元気になれます。

小・中学校の話は、みなさんが平和の中で物の豊かさの中で何の不自由もなく暮らしていらっしゃるので話さなくなりました。
人間は一人では生きて行けないのです。助けたり助けられたり、まわりの人と仲良くして平和につなげられたらと思っています。平和とはよく耳にしますが答えはむづかしいですね。

平和の原点は人間の痛みがわかる心を持つことです、と云っています。

私もみなさんとの出合いで自分が伝えたいことが全部話せた時はほっとする心の平和がたまにあります。私は、自分自身が平和にならないと平和は伝わらないと思っています。今の平和が歩いてきたわけじゃないのです。多くの人の犠牲のもとに出来た平和です。知賢の特攻基地からは、勉強なかばにしてお国の為、お父さんお母さんの為と今の平和の為にと帰る燃料はないのに特攻隊として亡くなった人、原爆で逃げることも出来ず亡くなっていった人は、今の平和も、物の豊かさも知らないのです。残された平和を守り平和をつくり平和を伝える人になってほしいと思います。
私の人生を変えたのも原爆です。体に受けた傷は良くなりましたが、心に受けた傷は一生消える事はないのです。長崎に投下された原爆の500~1000倍もの威力をもつものが数として三万発以上残っているそうです。どうか三万発が使われることのないように、長崎を最後の被爆地になるように原爆の実相を伝えたいと思っています。

一. 一本の鉛筆があれば何よりもまず「人間の命」と書き「核兵器廃絶」と書き続ける決意である「広島市長」

一. 平和を願う心は人類の心、人類は違っても人間同志は敵ではない。相手を憎み殺し合わせようとする戦争こそが敵です。

一. 戦後、平和と物の豊かさの中で暮らすことが出来ましたが、心をどこかに置いてきています。豊かな心を取り戻せたら人を殺すとかイジメがなくなり毎日をたのしく過ごすことが出来る。

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