The Revenge of History: Chomsky on Japan, China, the United States, and the Threat of Conflict in Asia
http://www.japanfocus.org/events/view/211
(翻訳:酒井泰幸)
ノーム・チョムスキーと、デイヴィッド・マクニールの息子 |
歴史は復讐する:ノーム・チョムスキーが語る、日本、中国、アメリカと、アジア紛争の脅威
ノーム・チョムスキー
デイヴィッド・マクニールとの対談
前文(デイヴィッド・マクニール)
1930年代から40年代にかけて、政治的な立場のまだ定まっていなかった若き日のノーム・チョムスキーが大きく影響を受けたのは、世界恐慌と、世界戦争に向けて容赦なくゆっくりと滑り落ちていくように見える情勢であった。あらゆる側面で、好戦的愛国主義と、人種差別主義、残虐性が、堰を切ったようにあふれ出したことに彼は狼狽したが、住んでいたフィラデルフィアから見るかぎりでは、アメリカは日本人に対する敵意が特別の高みに達するのを差し控えていたように見えた。アメリカ政府が1945年の夏に広島への原爆投下をもって空襲による一般市民の大量殺戮に終止符を打ったとき、16歳だった彼は、彼の周りで繰り広げられる祝賀会に深い疎外感を覚え、その喧噪を離れて近くの森に歩み入り、ひとり喪に服した。「このことは誰にも話せませんでしたし、他の人たちの反応を決して理解することはできませんでした」と彼は語った。「私は完全な孤立を感じました。」
その後の20年間で、チョムスキーは輝かしい学問的業績をものにし、常識破りの学説をいくつも発表して言語学の研究を一変させた。ベトナム戦争の間に、彼は不承不承ながら別の顔を持つようになり、アメリカ外交政策の容赦ない批評家として、世界中に知られるようになった。以来、彼が知的生活のほとんどを費やしてきたのは、アメリカの「まやかしの自己像」と彼が呼ぶものや、幾重にも重ねられた自己弁護とプロパガンダを、剥ぎ取っていくことだった。それらは、アメリカが地球上いたる所で行う露骨な権力と利潤の追求に用いているものだと、彼は言う。チョムスキーは多くの主流派コメンテーターとは異なり、ベトナムの泥沼は単なる逸脱ではなく帝国拡大の避けられない結果だと見ていた。
連合国が戦後に東京とニュルンベルクで行った戦犯裁判の法律が、もしも公正に適用されたなら、「戦後アメリカの大統領は全員絞首刑だったはずだ」と、チョムスキーは彼の最も有名な宣言の一つで語った。この大統領免責の先例は彼の青年時代に作られた。東京への焼夷弾爆撃と、広島・長崎への原爆投下は戦争犯罪なのだが、それはただ我々の戦争犯罪でなかったというだけなのだと、彼は指摘した。「戦争犯罪とは、こちら側が向こう側に対してはどんな時でも問えるが、向こう側がこちら側に対しては問えない罪のことである。」
今年85歳で、今も世界中で演説家として引く手あまたのチョムスキーが、先ごろ来日した。折しも、第二次大戦の歴史の亡霊が再び出現し、危険なまでに不安定になった日中関係を脅かしている。安倍晋三首相は、日本の戦後政治の枠組みの変革を推し進める意図を持っていることを示唆した。平和憲法を再解釈する試みは、日本の戦争犯罪の歴史についてのダブル・スピーク[印象操作のための婉曲語法]の乱発と歩調を合わせたもので、中韓その他のアジア諸国を憤慨させた。東アジアで再び戦争が起きるという、かつては考えられもしなかった可能性が、いま主流の議論の中に入ってきた。その可能性はまだ遠くにあるように見えるが、チョムスキーが東京へ出発する前に行われたこの対談で指摘するように、「歴史が教えているのは、恐ろしい破壊能力を持つ国家の場合は特に、火遊びは賢明な方針ではないということなのだ。」彼は別の道についても思いを巡らせる。衰退しつつあるとはいえ依然として危険なアメリカの軍事力に、べったりと依存することから脱却した、平和で繁栄するアジアの基礎となりうる、躍動する地域経済の発展である。
マクニール 日本とのつながりについて聞かせてください。
チョムスキー 私は1930年代に日本が満州国と中国ではたらいた凶悪な犯罪のことを読み、それ以来日本に興味を持ってきました。1940年代はじめに、10代の若者だった私は、人種差別主義的かつ好戦的愛国主義的な反日プロパガンダのヒステリー[病的興奮]に、すっかり顔色を失いました。ドイツ人は、邪悪だとはいえ、いくらかの敬意をもって扱われていました。彼らは何といっても金髪のアーリア人種で、我々の想像上の自己像と同じでした。日本人は単なる害虫で、蟻のように踏み潰されるべき者たちでした。日本の都市の焼夷弾爆撃についての報道から十分に認識できたことは、多くの意味で原子爆弾よりも悪質な、重大な戦争犯罪が進行中であるということでした。
マクニール 広島への原爆投下とそのアメリカ人の反応にあまりの衝撃を受けたため、その場を離れて独りで喪に服さなければならなかったという話を、私は以前お聞きしましたが…、
チョムスキー そうです。1945年8月6日に、広報スピーカーで広島への原爆投下が発表されたとき、私は子供の夏キャンプにいました。みんなはそれを聞きましたが、その後すぐに野球や水泳などの活動に戻っていきました。一言のコメントも無く。私は、その恐ろしい出来事とそれへの無反応の両方にショックを受け、ほとんど言葉を失いました。それで?ジャップがもっと焼け死んだのさ。アメリカだけが原爆を持っているから、それはいいぞ、僕たちは世界を支配できて、みんなが幸せになるんだ。
私は強い嫌悪感を持ちつつも戦後処理を見続けていました。私が現在していることを、もちろん当時の私が予見することはできませんでしたが、愛国的なおとぎ話を打ち崩すのに十分な情報は得られました。私が初めて日本に旅したのは50年前のことで、妻子と一緒でした。個人的に「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の人々に会いはしましたが、純粋に言語学のための訪日でした。それ以来何度も日本に来ていますが、いつも言語学の研究が目的でした。世界が燃えさかっているときでさえ、会話やインタビューが言語学の関連分野だけに絞られているというのは、私が訪れた多くの国々の中で日本だけだという事実は、私にとって本当に衝撃的なのです。
マクニール あなたは今回、歴史的転換点となりうる時に来日されます。政府は、日本は国外の脅威に「もっと柔軟に」対応しなければならないと主張して、日本の60年にわたる平和主義的な姿勢に対し重大な挑戦を開始する準備をしています。中韓両国との関係は毒々しいものになり、戦争さえも話題に上るようになりました。私たちは憂慮すべきなのでしょうか?
チョムスキー 断じて憂慮すべきです。平和主義的な姿勢を捨てるのではなく、世界を鼓舞するモデルとして日本はそれを誇りに思うべきですし、率先して「戦争の惨害から将来の世代を救」うという国連の目標を支持するべきです。この地域が直面する困難は本物ですが、必要なのは政治的和解と平和的な関係の確立に向けたステップなのであって、そう遠くない昔に破滅的だと判明したような政策への回帰ではありません。
マクニール でも、具体的にはどのように政治的和解を達成できるのでしょうか?私たちがアジアで直面している状況は、国家主義がぶつかり合い、非民主的国家が台頭し、その軍事支出は不透明で、衰退しつつある大国との関係で今に何か起こるにちがいない。これが意味するものについてはますます恐ろしい。このような状況での歴史的前例は、良いものではありません。
チョムスキー ここに本当に重要な問題があるのですが、この質問は少し違う観点で整理すべきだと思います。中国の軍事支出はアメリカが注意深く監視しています。実際に増大していますが、アメリカの軍事費に比べればほんの僅かですし、アメリカ側には同盟諸国の軍事支出もあります(中国にはありません)。じっさい中国は、太平洋での対中封じ込めラインを突破しようと目論んでいます。それが中国の通商と太平洋への自由な出入りに欠かせない水域への中国の支配を制限しているからです。これが戦闘の火種となりうるのですが、その相手は自国の権益がからむ地域勢力もありますが、主としてアメリカです。もちろんアメリカは、自国に僅かでも匹敵し、さらに世界支配を主張するような国の存在を考慮に入れることは決してありません。
アメリカは「衰退しつつある大国」で、衰退は1940年代後半から続いているのですが、現在も覇権国として並ぶものはありません。アメリカの軍事支出は世界の他国を全部合わせたものに相当しますし、技術も遙かに進んでいます。何百もの軍事基地を世界中に張り巡らせ、世界で最も膨張的なテロ作戦を実行するなど、他の国なら夢見ることさえできないでしょう。オバマの無人機が行う暗殺作戦とはまさにそういうことなのです。そしてもちろんアメリカには、侵略と政権転覆を行ってきた残忍な歴史があります。
これらが、政治的和解を模索するうえで本質的な条件とすべきものです。具体的には、中国の国益はこの地域の他国と同様に認知されるべきです。しかし覇権国の支配を受け入れることは正当化できません。
マクニール 日本の「平和主義」憲法の問題として認識されるものの一つは、それがあまりにも事実と一致していないということです。日本はアメリカの核の傘のもとで行動し、何十もの米軍基地と何万ものアメリカ兵を国内に擁しています。これは憲法9条の平和主義的な理想を実現したものと言えるでしょうか?
チョムスキー 日本の行動が正当で合憲な理想と矛盾するかぎり、行動を変えるべきです。理想を変えるのではありません。
マクニール 安倍晋三首相が二度目の首相の座へ返り咲いて以来の動きは追っていますか?彼を批判する人々は彼のことを超国家主義者と呼んでいます。支持者たちによれば、教育基本法と、1947年の平和主義憲法、日米安保条約という、アメリカの戦後占領の産物である時代遅れとなった日本の3つの憲章を、彼は時代に合うように更新しようとしているだけだと言うことになります。あなたはどうご覧になりますか?
チョムスキー 日本は、ラテン・アメリカなどの国々に続いてアメリカの支配を払拭し、世界でのより自立した役割を追求するほうが有意義です。しかし、安倍の超国家主義(私はこの言葉が正確だと思うのですが)とは実質的に反対の方法で自立を追求するべきです。特に平和主義憲法は、固守すべき占領の遺産です。
マクニール ナチス・ドイツと中国の台頭を比較して、どう思われますか?日本の国家主義者がこのような比較をするのをたびたび耳にしますが、最近フィリピン大統領ベニグノ・アキノも同様の発言をしました。中国の台頭は、しばしば日本が軍事力の自制を解くための理由として語られます。
チョムスキー 中国は台頭しつつある勢力で、「屈辱の世紀」を打ち捨てて地域・世界情勢に影響力を及ぼそうとしています。いつもながら、このような展開には負の側面や、時には脅威となる側面があるものです。しかしナチス・ドイツにたとえるのは馬鹿げたことです。2013年末に発表された国際世論調査で、どの国が「世界平和にとって最大の脅威であるか」という質問に対し、アメリカは他のどの国よりもずっと上位にランクされ、中国の4倍の得票でした。そのことに注目してはどうですか。この判断には確固たる理由があります。いくつかは先に述べました。それでも、アメリカをナチス・ドイツになぞらえるのは完全に馬鹿げたことでしょうし、なおのこと中国には該当しません。中国は、暴力や政権転覆などの介入に訴えることがずっと少ないのです。
中国とナチス・ドイツの比較は全くヒステリー[病的興奮]です。アメリカが第二次世界大戦後にイギリスから世界の支配者という役割を引き継いで大幅に拡大して以来このかた、世界中で行ってきていることを、ほんの僅かでも日本の読者は知っているのだろうかと思います。
マクニール 中国・日本・韓国を中心に絡み合いアジア全体へと拡がる貿易の力学に基づいて、アジアの地域主義が出現する可能性を予見する人々もいます。このような取り組みがアメリカの覇権と国家主義の両方に打ち克つことができるとしたら、それはどのような条件の下でということになるでしょうか?
チョムスキー それは単に可能というだけでなく、もう存在しているのです。近年の中国の急成長は周辺の産業先進国からの高度な部品や設計といったハイテク支援に非常に大きく依存しています。そしてアジアの他の地域もまた、このシステムに結び付きつつあります。アメリカはこのシステムの重要な一部分で、西ヨーロッパもそうです。アメリカは、高度な技術を含む生産設備を中国に輸出し、最終製品を輸入します。どちらも膨大な規模です。中国での付加価値はまだ低いですが、それは中国が技術の段階を登るにつれて増加していくでしょう。適切に対処するなら、これらの展開は、深刻な紛争を避けたいのであれば必須となる、全般的な政治的和解に結びつくことでしょう。
マクニール 最近の尖閣諸島を巡る緊張で、中国と日本の間に軍事紛争の脅威が高まりました。論評者の多くは、その結果の膨大さと、2つの経済大国を結びつけている金融・貿易の深い繋がりを考えれば、まだ戦争にはなりそうもないと考えています。あなたはどのようにご覧になりますか?
チョムスキー 現在起こっている対立は極めて危険です。係争中の地域に中国が防空識別圏を宣言したこと、アメリカがこれを即座に侵犯したことも同様です。恐ろしい破壊能力を持つ国家の場合は特に、火遊びは賢明な方針ではないということを、歴史は確かに我々に教えてきました。小さな事件が急速にエスカレートし、経済的な繋がりなど圧倒してしまうかもしれません。
マクニール この全てにおいて、アメリカの役割は何でしょうか?アメリカ政府は中国との紛争に引き込まれたくないことは確かなように見えます。オバマ政権は、安倍の歴史観と、日本の歴史修正主義の要である靖国神社に彼が参拝したことに気を害しているとも聞いています。しかしアメリカを「信頼できる仲介者」と呼ぶことなど到底無理ですね…。
チョムスキー 無理です。アメリカが中国を軍事基地で包囲しているのであって、その逆ではありません。アメリカと中国が互いに相手の姿勢を自らの基本的権益に対する脅威と認識する状態を、アメリカの戦略分析家は、この地域の「古典的な安全保障のジレンマ」と表現しています。問題なのは米国が、自国直近のカリブ海やカリフォルニア沿岸の海域ではなく、遠く離れた中国沿岸海域までをも支配しようとしていることです。アメリカにとっては、世界支配が「核心的権益」なのです。
鳩山首相がアメリカ政府に背いて沖縄住民の大多数の意思に従ったとき、彼がどうなったかを思い出してみてはどうでしょうか。ニューヨーク・タイムズが報じたように、「鳩山由紀夫首相は日曜日[2010年5月23日]に、憤慨する沖縄住民を前に、主要な選挙公約を果たせなかったことを謝罪して、アメリカと当初合意していたとおり米空軍基地の沖縄本島北部への移設を決定したことを告げた。」彼の「降伏」は(これは適切な表現なのですが)、アメリカからの強い圧力の結果でした。
マクニール 中国はいま、日本や、南シナ海のフィリピン、ベトナムとの領土紛争に巻き込まれ、係争中の国境線上に防空識別圏も設定しています。これら全てのケースで、アメリカは直接間接に関与しています。これらは、中国の拡張主義の事例として理解すべきなのでしょうか?
チョムスキー 中国は地域影響力を拡大しようと目論んでいますが、これは世界の覇権国と認められたい従来からのアメリカの要求と矛盾し、地域勢力の権益とも矛盾します。「中国の拡張主義」という表現は正確ですが、圧倒的なアメリカの世界支配に照らし合わせれば、むしろ誤解を招くものです。
第二次世界大戦後初期を思い出してみると役に立ちます。アメリカの世界統治計画では、アジアはアメリカの支配下にあるのが当然と見なしていました。中国の独立はこのような意図に対する深刻な打撃でした。これを、アメリカの議論では「中国の喪失」と呼びます。「中国の喪失」は誰の責任かという問題は、マッカーシズムの台頭を始めとする主要な国内問題になりました。この用語自体が隠れた意味を物語っています。私は自分の財布を喪失する(失う)ことはできますが、私があなたの財布を喪失することはできません。アメリカの議論が暗黙の前提にしていたのは、中国は正当なアメリカの所有物だということです。この覇権的概念と醜い歴史に相応の注意を払わずに「拡張主義」という言葉を使うことには用心すべきです。
マクニール 沖縄について、辺野古に新たな米軍基地の建設を進める本土政府と、先月圧倒的多数で基地に反対する市長を再選した沖縄住民との間に、大きな衝突が起きる舞台は整ったように見えます。これがどのように展開するか、何かお考えはありますでしょうか?
チョムスキー 米軍基地の受け入れは沖縄県民が圧倒的多数で反対していますが、これを強制する安倍政権の嘆かわしい努力を拒絶した、名護市民と稲嶺進市長の勇気には、感服するほかありません。そして本土政府が即座に名護の民主的決断を踏みにじったことは、これまでの圧力にも増して、恥ずべきことです。その展開がどうなるか、私には予測することができません。しかしそれは、民主主義の運命と平和の将来に重大な影響を与えるでしょう。
マクニール 安倍政権は、原発を再活性化し停止中の日本の原子炉を再稼働しようとしています。支持者たちは、原子炉を休ませておけばエネルギー・コストと化石燃料使用量の大幅増加という代償を払うことになると言います。反対者たちは危険が大きすぎると主張します…。
チョムスキー 原子力全般の問題は単純ではありません。いまだ終息とは程遠い福島原発事故の後、原子力がどれほど危険かを強調する必要はほとんどありません。化石燃料の使用を続ければ遠くない将来に全地球的な大災害となる恐れがあります。賢明な道は、現在ドイツが行っているように、持続可能なエネルギー源にできるだけ早く移行することです。他の道はどれも想像すらできないほど破滅的です。
マクニール 原子力が地球を過熱から救う唯一の道だと主張するジェームズ・ラブロックやジョージ・モンビオなど熱心な環境保護論者の著作はご存じだと思います。短期的には、そのような分析はある程度当てはまるように見えます。日本の原発災害の直接的影響の一つは、石炭、天然ガス、石油の輸入が大幅に増加したことです。短期間で十分な再生可能エネルギー源を作って気候変動の暴走を食い止めることなど、我々には不可能なのだと彼らは主張します。
チョムスキー 確かに、このような見方にもいくらかの利点はあります。より正確に言えば、核廃棄物処分のような、極度の危険と未解決の問題の数々をともなう原発に、限定的に短期間依存しなければいけないことが、持続可能エネルギーを迅速かつ大規模に開発するきっかけになるのなら、このような考え方にある程度の利点はあるかもしれません。このような持続可能エネルギー開発こそ、最優先にすべきで、非常に急を要します。破局的な環境破壊という重大な脅威は遠い未来のことではないからです。
(この文章は、2014年 2月22日のジャパン・タイムズに掲載された記事を加筆したものである。)
ノーム・チョムスキー教授の講演会は2014年3月5日、6日に上智大学で開催された。
“The Architecture of Language Reconsidered”「言語の構成原理再考」
“Capitalist Democracy and the Prospects for Survival”「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」
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