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Friday, December 11, 2015

高嶋道: 日本軍の侵略の傷跡を訪ねて -マレーシア・シンガポールでの掘り起こし・交流・和解―(『東京の歴史教育』44号より転載)


「学び舎」中学校歴史教科書

1941年12月8日、日本軍による英領マレー半島、続いてハワイ真珠湾の米海軍基地攻撃によって始まった日から74年が経った。この日本の無謀な戦争を振り返り理解するために今年バンクーバーで高嶋伸欣琉球大学名誉教授を迎え講演を行った。同行した高嶋氏のパートナー、高嶋道(たかしま・みち)氏も長年日本の中高校で社会科の教鞭を取った教育者であり、今年初めて検定に合格した「学び舎」の中学校の歴史教科書の執筆者の一人でもある。

高嶋道氏が所属する東京都歴史教育者協議会の機関誌『東京の歴史教育』44号(2015年8月)に掲載された「研究ノート」(50-59ページ)は、高嶋夫妻が長年行ってきたマレーシアとシンガポールにおける日本軍華僑虐殺の歴史の掘り起こし・現地の人々との交流や和解に向けた取り組みを紹介するものだ。伸欣氏の講演内容をさらに膨らませるような詳細が記されており、伸欣氏の講演レポート(この投稿の末尾にリンク)と併せてぜひ広く読んでもらいたいと思い、東京都歴史教育者協議会と高嶋道氏の許可をもらいここに転載する。

(転載ここから)




【研究ノート】

日本軍の侵略の傷跡を訪ねて  

―マレーシア・シンガポールでの掘り起こし・交流・和解―   

高嶋 道


はじめに

 「娘が日本に留学したいといっていますが戦争にならないでしょうか」と真顔で訪ねた父親がいました。2013 年8月マレーシアの首都クアラルンプールでのことです。マレーシアやシンガポールの華人たちは、各地で「日本の軍国主義復活」への不安を高めていることが伝わってきました。第2次安倍政権が、「戦争ができる国」から、「戦争をする国」へと変えようとしていることへの強い警戒心や危惧からです。
 その数日前の7月 26 日、『南洋商報』等華人系の現地新聞5紙で、写真入りで大きく取り上げられていた記事があります。安倍首相のマレーシア訪問に際し、マラヤ第二次大戦歴史研究会は、日本大使館に声明文を出し、6団体が安倍首相に侵略戦争を認め反省と謝罪を表明するよう要求しています。横断幕やプラカードを持っています。抗議のプラカードの中には、日本語で「平和憲法(9条)改悪は許せない」も見えます。声明には、「安倍首相は専守防衛を大原則とした平和非戦憲法を変えようとたくらんでいる。このままでは日本はかつての道にもどるのではないか」と警戒し「3年8か月の日本占領期に、マレーシアでは約 15 万の無実の民が、日本の軍刀の下に殺戮された。日本の軍政もまた野蛮暴虐で凶悪極まり、陰鬱な恐怖がマレー半島を覆い、大虐殺がマラヤ、シンガポールの至る所で展開された」と歴史を述べています。さらに首相に対して、「日本軍に殺害された人々が葬られている惨死墓地(福建義山)を訪れ一般人にも追悼するよう希望する」とあります。
 1941 年 12 月 8 日、英領であったマレー半島は、日本軍の侵略をうけ、3年 8 か月間軍政下に置かれました。日本軍支配下での住民虐殺、奉納金の強制、皇民化教育など、70 年を経ても人々は決して忘れていません。戦後日本が行った賠償は、日本企業による経済援助であり 、被害を受けた人々にとっては、謝罪もなく、損害賠償も受けていないのです。直接の犠牲者だけではなく、次世代へと歴史認識は継承されていて、今また悪夢が甦って来るほどの恐怖なのです。
 今年は戦後 70 年にあたり、さまざまな視点での振り返りがなされています。アジア太平洋戦争の歴史認識が今ほど問われている時期はないと思います。課題は多くありますが、今回は日本軍の開戦時をめぐる問題提起と住民虐殺に絞って報告いたします。


アジア太平洋戦争はコタバルから始まった

 毎年 12 月 8 日が近づくと、ほとんどの新聞、テレビ、雑誌では「真珠湾奇襲からはじまった太平洋戦争」という取り上げ方をしています。「真珠湾奇襲から始まる」は「太平洋戦争」の枕詞のようです。世間でも、これが常識化しています。しかし、この説明は、歴史的事実ではありません。 中・高の教科書を調べてみました。「1941年 12 月8日、日本軍はイギリス領であったマレー半島に上陸する一方、ハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地を攻撃しました。日本は、アメリカ・イギリスに宣戦し、太平洋戦争 ( アジア太平洋戦争 ) が始まりました」( 帝国書院・中学生の歴史 2012 年 )、 「1941 年 12 月8日、日本軍はイギリス領・タイ領マレー半島に上陸、ハワイ真珠湾を空襲し、中国のみならずアメリカ・イギリスとも戦争をはじめました」(実教新日本史A 2014 年)とあります。この記述は正しいです。
 公式記録はどうでしょうか。防衛庁防衛研修所戦史室著作には「12 月8日0215侘美支隊のコタバル第 1 次上陸部隊が敵岸に達着した。0320 海軍機動部隊は真珠湾空襲第一撃を開始した。」(『戦史叢書 マレー侵攻作戦』)とあります。  (注:東京時間に換算して、午前2時 15 分を0215と表示されている ) 「たかが1時間ほどの差ではないか、こだわることはない」。また、「海軍による真珠湾攻撃の米軍への大打撃と比較すると、陸軍のマレー半島コタバル上陸による英軍との戦闘は、戦史上たいしたことではない」、「すでに日本軍は仏印への進駐を行っており、東南アジアへの戦争は始まっていたのだから」などの声もあります。そうでしょうか。
 1937 年7月盧溝橋事件以来の日中戦争は中国民衆の抵抗によって泥沼化していました。戦争続行に必要な物資の獲得のための東南アジアへの侵略は「国防資源取得」(「帝国国策要綱」 1941 年7月2日)として正当化されています。
 さらに「帝国ハ世界情勢変転ノ如何ニ拘ワラズ大東亜共栄圏ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄与セントスル方針ヲ堅持ス」(同年 11 月 20日)としたのです。日本は、米英等による「ABCD包囲網」に対する自衛のための戦争であると宣伝扇動し、「アジア解放の聖戦」と美化しました。この戦争の目的は、石油・鉄鉱石・ゴム・ボーキサイトなどの資源を獲得するためであることが出発点であったことを確認しておきたいものです。「真珠湾奇襲から太平洋戦争が始まった」との観点では、この戦争の本質を見えにくくしてしまうのではないでしょうか。真珠湾奇襲作戦は、西太平洋におけるアメリカの海軍の威力を奪うことが目的でした。東南アジアから日本に輸送する航路にかかわる制海権を確保するためでした。


忘れられている日タイ戦争の真実

 もうひとつコタバルにこだわる理由があります。それは、日タイ戦争のことです。日本軍佗美支隊の、コタバル上陸後、タイ領のシンゴラ、ナコンシータマラート、プラッチュアップキリカンなどに本隊が上陸します。
 タイとは、領土不可侵・中立政策尊重を内容とした『日タイ間友好和親条約』(1940 年6月調印、12 月 23 日、バンコクで批准書交換)を締結していました。日本軍は勝手な計画であったタイからの「無害通行」の許可を得られぬまま侵入し、タイ軍と激戦になりました。双方 400 人以上の死者を出したといわれています。明らかに国際法違反の上陸です。その後、日本軍は武力を背景にビブン首相に強要し、約8時間後に領土内通過を認めさせ中立政策を破棄させました。この通知が届かず、プラッチュアップキリカンでは、30 数時間も戦闘が続きました。
 この時の「民間人の豹変」もタイでは良く知られています。開戦直後に、バンコクなどに在住の民間の日本人が、突然軍服を着て現れた時の驚きの話です。写真屋、測量士、医者、商人などを装い、生活していたのは、実は日本軍のスパイだったのです。突然の侵略とあわせ日本人への不信感は一挙に高まりました。
 「日本軍はタイに無血上陸」「ちょっとした小競り合いだった」と多くの本に書かれています。公式の戦史も同様です。戦後 70 年、知られざるまま今もこれに触れたくない外務省。国際条約違反は、当時の天皇の責任を問われるからです。ナコンシータマラートなどでは、今も日タイ戦争は語り継がれ、毎年 12 月 8 日には追悼式が行われています。歴史の真実は、被害者にとってはけして忘れられないことです。


住民虐殺の調査・住民との交流を続けて

 髙嶋伸欣が、1975 年に東南アジアに教材集めに行きはじめたときのことです。立ち寄ったマラッカの郊外の食堂で「日本人か?日本軍がこのあたりでも虐殺したことを知ってるか?」と問われ、追悼碑に案内されました。石碑に刻まれた漢字(中国語)から、日本軍の蛮行が読み取れました。当時評判だった本多勝一氏の『中国の旅』の証言を思い起こしました。
 このことが、夫がマレーシアでの華僑住民虐殺の調査を始めるきっかけでした。帰国後、関係の書籍を探しましたが、軍人関係の戦史や体験記ばかりで、住民虐殺に関する研究書はありませんでした。それならば、自分で調べるほかはないと覚悟しました。海外の調査ですからすぐには進まず、手探りの状態が続きました。
 夫は夏休みや春休みなどに出かけていくことになり、私も時折同行しました。初めの頃ですが、墓地を探してうろうろしたり、墓碑銘を読んだりしていると、何処からともなく厳しい疑いの視線を感じました。戦後 40 年近いとはいえ、侵略し虐殺し、謝罪もしない日本でしたから、疑われても仕方がないのです。
 「日本人が何しに来たのだ。」と罵られたり、殴られそうになったり、石を投げられたりもしました。何度も訪ねているうちに、その趣旨を理解して、とりなしてくれたり、証言者を紹介してくださるようにもなりました。「政府のスパイではないか」と思ったとの声もあとで聞いて驚きました。
 とりわけ 82 年、文部省(当時)が教科書検定で「侵略」を「進出」に書き換えさせていた教科書問題が起きたとき、マレーシア各地でも、「日本の侵略の事実をきちんと記録し継承しよう」という運動がおきました。地域の証言集『日治時期森州華族蒙難史料』出版(1988 年)の際には、林博史氏(関東学院助教授・当時)と髙嶋伸欣が協力をしました。この邦訳は『マラヤの日本軍 ネグリセンビラン州における華人虐殺』(1989 年;青木書店)として解説などをつけて刊行されました。各地で新しい証言の収集や追悼碑の建立も行われました。
 住民との交流が深まる中で、各地の新聞記者たちが私たちの調査を紹介したり、新しい情報を教えてくれたりして、地域との繋がりが急速に広がりました。83 年に「戦争の傷跡に学ぶマレー半島の旅」も始め、それまでの掘り起しが、参加者に伝えられるようになりました。
 さらに、85 年の中曽根首相の靖国神社参拝に反対して設立された市民組織「アジア太平洋地域の犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」(代表、上杉聡氏)の現地集会を行ったり、日本に証言者をお招きしたりする交渉などもするようになったのです。
 87 年秋、林博史氏が『陣中日誌』を防衛庁防衛研修所図書館から発見しました。軍隊の公式記録ですから、この資料の意味は極めて重要です。たとえば、陸軍第5師団歩兵第 11 連隊第1大隊が発した 42 年3月2日の命令書には、「鉄道線路および道路から 500 m以上の地域で発見した中国人とイギリス人は老若男女を問わず徹底して皆殺しにする」とあります。日々の記録は、各地の住民虐殺の証言の信憑性を裏付けることになりました。
 また、94 年以来「アジアフォーラム横浜」(代表、吉池俊子氏)が、毎年 12 月8日にちなみ証言者を横浜に招く集会を開き、日本の加害の真実を伝える活動を続けられています。
 97 年には、写真記録集『東南アジア 歴史・戦争・日本 3 マレーシア・シンガポール』(ほるぷ出版)のなかに、それまでに調査できたことがらも含んだ出版ができました。
 被害を受けた方々の深い傷は、時が経ってもけして消えることがないことを、交流を深めるほど感じています。クアラルンプールでは毎年 8 月 15 日、セレンバンでもその前後に、犠牲者の追悼式が行われ、ツアーの一行も参加して、交流を深めています。近年、鬼籍に入られた方が増えてきました。証言を記録し、記憶し、伝えていく活動をどう続けていくか、大きな課題です。とりわけ、侵略の真実を伝えることを「自虐史観」などとする歴史の改竄を許してはならないとの思いです。
 加害と被害の立場を超えての市民の交流で得たものは、ツアー参加者に持ちかえられ、各地で種をまかれています。きっと平和を築く力になっていることでしょう。今夏は 41 回目のツアーを実施します。


日本軍の住民虐殺

 中国大陸での日本軍の蛮行はかなり知られていますが、東南アジアの華僑虐殺は一般にはあまり知られていません。マレー半島の実相の一端を紹介します。加害側の日本人が被害者の証言を聞き取るまでには、前述のように多くの方々に協力をいただきました。信頼関係を築き、心を開いてくださって初めてできることです。40 年近くマレーシアに通っているうちに、まるで親戚のような関係もできてきました。九死に一生を得た方々は幸存者と呼ばれていますが、封印してある辛い体験談をお話されると、悪夢が甦り数日間眠れなくなるとお聞きしています。


シンガポールの「大検証」(華僑大虐殺)

 1942 年 2 月 15 日、日本軍はイギリス軍の軍事拠点シンガポールを陥落させ、地名を「昭南島」と変えさせました。日本の統治時代は「暗黒の3年8か月」といわれています。当時、マレー半島には多くの華僑が住んでいました。彼らは、日本の侵略に抵抗している祖国の中国政府へ資金援助のための組織をつくり、募金活動を行っていました。また、イギリス軍によって組織された抗日ゲリラ活動をしている者もいました。日本軍はこれらを断ち切りたかったのです。15 歳から 65 歳までの男性をすべて集めて「大検証」といわれる大弾圧を実施したのです。短時間に「敵性華僑」を見つけるといっても、言葉も通じず、困難なことだったので、極めて杜撰でした。学者や教師、医者、技師などは敵性華僑と決めつけ、インテリは怪しい、たいてい眼鏡をかけているからというような程度で疑いをかけ、拘束するなど、いい加減な面もありました。捕えた人たちをトラックで海岸に運び、殺害し捨てたのです。海は真っ赤に染まったそうです。数万人が殺害されたといわれています。日本軍の記録では数千とのことですが、それはごく一部にすぎません。(紙幅の関係で、個別の証言は、記載いたしません)
 戦後の工事現場で大量の人骨が発見された中に女性の装飾品や赤ん坊の足環なども発見されました。「大検証」の実態が見えます。1967 年、犠牲になった華僑の遺骨を収集し追悼のために 68m の白亜の塔が建てられました。これが「日本佔領時期死難人民紀念碑」(「血債の塔」)です。この写真が中学の歴史教科書などには掲載されるようになりました。しかしシンガポールを訪れる日本人でこの史実を知っている人はまだまだ少ないようです。「日本が支配した昭南時代」の認識を持っている人は多くないのは、残念なことです。
 ちなみに、ここに献花した日本政府の要人は 1994 年、土井たか子衆議院議長と村山富市首相(ともに当時)だけです。政府は、日本の加害を認めることになるので、触れたくないのです。今でも毎年 2 月 15 日に小学生から大学生、各界からの代表者、市民などで、1000 人規模の追悼式がここで行われています。日本からも参列して献花をしている市民グループがあります。私も毎年ではありませんが、参加しています。


マレー半島各地の大虐殺

 シンガポールでの大検証後、1942 年 3 月末までに日本軍は引き続き、マレー半島各地で「敵性華僑狩り」を行います。現在までの調査によって、マレーシア国内で確認できた 70 余の追悼碑や墓の存在が、それを物語っています。今回は、犠牲者が多いネグリセンビラン(森)州の例を挙げます。
 この州は首都クアラルンプールから車で約1時間ほどの地方で、州都はセレンバンです。山がちなところなので、戦争中はゲリラが活動しやすい場所でもあったため、日本軍は集中して、「敵性華僑狩り」を実施しました。そのため住民虐殺による犠牲者が最も多い地域です。


一晩で消されたイロンロン(余朗郎)村

 1942 年3月 18 日、日本軍はイロンロン村に「食料配給のための戸籍の調査をする。もし一家族に一人でも欠けていれば皆殺しにする」と告げて村人を集めました。その後、何十人かずつを一組にして物陰や林などに連れていき殺したのです。女性は、強姦され殺されました。その後全戸に火をつけて焼き払ったのです。老若男女 1474 人の命が奪われました。200世帯の人々が穏やかに暮らしていた村は、たった一晩で廃村になってしまったのです。辛うじて生き残った村人は、離散し、戦後も村の再建はできませんでした。1983年、初めてこの地を訪れた私は、ただただ呆然と立ち尽くしました。人々が暮らした村を想像することはできませんでした。戦後マレー人が入植したその地には、サトウキビ畑と背の高い雑草が果てしなく広がって、風が吹いているだけでした。
 事件当時のありさまを実感できたのは、5 年後の証言集会に来日された蕭嬌さんが示してくださった村の絵地図を見た時でした。
 蕭嬌さん(当時 14 歳)は危険を察した姉に促され事件の直前に逃げ、虐殺を免れました。 1988年の大阪での証言です。「密かに村を出て、隣村のバナナ園の溝の中に身を隠していると、イロンロン村が燃え始めるのが見えました。そのことは今でも忘れられません。空は真っ黒い雲に包まれ、そして、燃えている家屋から、炎が高く空まで昇っていくのです。人々の殺される時の凄まじい悲鳴がはっきりと聞こえてきました。」次の日「村は死体に覆われ、まるで死の海でした」と涙ながらに語りました。詩人石川逸子さんの長編詩『一粒の風となってせめて――マレーシア無辜生命鎮魂詩』は、この犠牲者を慰めるために作られたものです。犠牲者の声が聞こえてくる重い作品です。集会では、朗読され、鎮魂の時を持ちました。
 この村の犠牲者の追悼碑は隣村のティティに建てられています。2012 年虐殺事件 70 年にあたり、追悼碑の傍に新しい説明版ができました。中国語、マレー語、英語のほかに日本語版もあり、驚きました。村を消されてしまった華人たちが、直接日本人に伝えたい、という強いメッセージにほかなりません。長いですが、全文を掲載いたします。

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余朗郎(Yulanglang)(ティティ)における大虐殺 

日本帝国軍隊による大虐殺は第2次世界大戦中の 1942 年日本軍占領下にあったマラヤで起こりました。中でも最も衝撃的な悲劇は 1942年 3 月 18 日に余朗郎の華僑村落に起こった大虐殺でした。
 ライフル銃や銃剣で武装した 100 人以上の日本兵の一集団は、200 世帯ほどの農村を取り囲みました。同集団による殺害で命を落とした村民の数は高齢者や子供を含め 1470 人以上にも上りました。遺体はその辺り一帯に散乱し、その村を流れる川は血で赤く染められました。そして日本軍は残虐行為の証拠を抹消のため、村を全焼しました。しかし、罪を犯した人は神による非難を受け、歴史を捻じ曲げた者には天罰が下るのです 殺害から逃れ、九死に一生を得た者、その惨殺の知らせを事前に耳にし身を隠した者、日本兵による強姦を恐れて身を潜めた女子ら。彼らがいち早く逃げ切り、戦後この苦悩の体験を明らかにしたことで、日本軍隊の残虐行為の証拠がようやく日の目を見ることができました。
 当時、日本軍隊は民家を一軒一軒捜索した後、住民全員を育群学校に集め、数人ごとのグループにまとめ、木造家屋に引きずり込み痛めつけました。また怯えを露わにした住民は一人ずつ銃剣で突き殺しました。幸いにして苦痛に耐え得た者は、近くのバナナ農園まで這いずり身を隠しました。彼らが逃げ切ったからこそ今日でもその悲劇の証人が存在するのです。時が流れ、時代が変化しても耐え忍ばれた苦しみと痛みは、ここに永存します。 残忍な戦争では、弱者の殺害は臆病者の行為です。戦争により家族が破壊され悲劇が引き起こされました。誰もがこの悲劇を教訓とし、二度と同じような間違いを繰り返すことのない、平和と調和ある世界を築くよう懇願します。
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母が守ってくれた命

 パリティンギ(巴力丁宜・現カンウェイ)は、クアラピラ県にある小さな村です。都会から疎開してきた人もいれると人口は 1000 人ほどだったと推定されています。1942 年3月 16 日日本軍は、「安居証」(安全を保証するという書類)を配布するからと村民に集合をかけました。村長が軍から事前に渡されていた書類を指揮官に渡したところ突然破り捨てられたそうです。そして、いきなり住民は 30 人ぐらいの人数に分けられて、徐々に山の中に連行され 675 人が殺害されました。
 蕭文虎さん ( 当時 7 歳 ) は、もとはクアラルンプールに教員の両親と住んでいたのですが、日本占領になってからこの地に避難してきて、虐殺にあったのです。蕭さんに銃剣が振り下ろされようとしたその瞬間に、母親が蕭さんを抱きしめ、地面にうつ伏せになりました。銃剣は母親の体を突き抜け、蕭さんにまで刺さり、気を失いました。蕭さんの体には、両脇 5 箇所、太ももと背中にも切りつけられた傷痕が残っています。母は身重であったそうです。「傷痕を見るたびに母の愛と生まれることの出来なかった赤子のことを思うと、たまらない」と涙ぐんで語りました。両親と 2 人の弟を失ってしまいました。
 また村長の子どもであった楊振華さん(当時9歳)は「日本軍は私たちにひざまづかせ、両手を地面につけさせ、後ろから銃剣で刺しました。私は、背中 5 か所、胸 3 か所、そして指1か所を切り落とされたのです。折り重なった死体の中で気を失ってしまいました」と語りました。家族と親戚 26 人を殺害され、ただ一人生き残りました。


日本兵は赤ん坊を空中に放り投げた

 レンバウ県の小さな村ペダスのゴム園に住んでいた鄭来さん(当時6歳)は、7人家族のうち5人が殺されました。日本兵が、母親の抱いていた生後6か月の赤ん坊の末弟を奪い、空中に放り投げ、別の日本兵が赤ん坊を銃剣で串刺しにしました。鄭さんはこれを目撃した後、自らも6箇所刺され気を失ったのです。生地獄のような恐怖に出会い、気づいた時は、母も姉も周囲はみな息は絶えていて、2つ年下の弟と瀕死の状態で生き残りました。
 これらの報告は、私たちが聞きとったごく一部です。孤児になった方たちが、その後生き抜くために辿った道は、極貧生活で艱難辛苦そのものでした。誰もが、「生きていくためには、何でもやったんだ」と言って、多くを語りませんでしたが、お聞きしただけでも想像を絶するものでした。
 鄭来さんは、4度来日され、常に日本の軍国化に危惧をいだき、「戦争は、絶対にいけない。平和こそが、一番大切」と語られています。日本は、鄭さんが提唱し期待する平和国家にはほど遠い危険な状態です。私たちは、忌まわしい過去を忘れず、学び、何をすべきかをいつも問われ続けています。


忘れられていた雙双渓鐳(スンガイルイ)の墓

 この地名を初めて知ったのは、1984 年のことでした。それは、第2回目のツアーで知り合った現地の方から手渡された『星洲日報』(1984年7月6日)の記事にありました。ジャングルの中で、大きな古い集団墓が見つかり、それは、 42 年前に日本軍がこの地で虐殺をした際の犠牲になった 368 人の墓だという。掲載された証言を読み、心が凍りつくほどの恐怖に襲われたことを今も覚えています。
 事件は 1942 年8月 29 日に起きました。発端は、数日前に日本軍のスパイとして雇われていたマレー人が行方不明になっていたことでした。日本軍は、彼が抗日ゲリラに拉致されたとして、この地域を調査と称してやってきたのです。 中国系だけではなくマレー系住民の証言もあり、全貌がわかったのです。何よりも、『陣中日誌』の8月 30 日の記録がそれを裏づけています。この日、日本軍はバハウから鉄道で移動し、警察官を引き連れてやってきました。そのころ、近郊で金鉱山の採掘がおこなわれており、タバコ栽培もさかんで、駅周辺には商店も並んでいて、にぎわっていました。警察官は、買い物客を含め村民を集め、民族別に並ばせ、マレー系住民には広場の一隅で様子を見るように指示します。マレー系を優遇し、中国系(華僑)を敵視していた日本軍の分断政策が良くわかります。
 日本軍の尋問には、みな「知らない」と答えていたところ、やがて日本兵は、機関銃で住民を撃ち始めました。また、商店に押し込め、ガソリンを撒き火をつけて焼き払いました。逃亡する人は機関銃で撃ち殺したのです。悲しみの号泣が響きわたりました。村は焼きつくされ、だれも住めなくなり消えてしまいました。
 おびただしい遺体を、周辺の中国系の住民が、日本軍の許可をとって穴を掘り埋めたそうです。戦後の 47 年2月、事件を知る人たちによって遺骨を掘り起こした時の頭蓋骨は 368ありました。『陣中日誌』の記録には「支那人を殲滅」「家屋内の掃蕩」などとあり「本日討伐ノ戦果、不良分子 80名」と書かれています。公式記録でも数字は鵜呑みにできません。
 その後、村は再建されることはなく、犠牲者の縁の方々も亡くなるなどして、この集団墓のことは忘れ去られました。そのため、84 年の発見までの 37 年間、このあたりは樹木が生い茂りジャングルのような状態になっていたのです。


墓が結んだ民族の和解

 再発見後、この墓は、縁のある人々の努力によって、周辺の整備とともに、立派に作り直されました。しかし、スムーズにいったわけではありません。発見された後、中国系住民(華僑)が墓参などで現れるようになると、当時この近隣まで入植してゴム園を営んでいたマレー系の住民との間は一触即発の状態になったのです。マレーシア政府は、このあたりの未利用の土地を、マレー系住民に一括で払い下げることになっていたのです。マレー系住民にとっては、この墓のために、払い下げが出来なくなるのではないかと不安になり、墓に青いペンキを撒いたりするなど嫌がらせが続発していました。臨時の警察官出張所が置かれて警戒する状態でした。このことは、当時朝日新聞のシンガポール特派員だった松井やよりさんの報道で知っていました。85 年、私たちのツアーが、新聞記者たちの案内で訪れた時には、警官が突然やってきました。尋問を受け、参加者名簿を提出せよなどと要求されました。
 土地は、予定通りマレー系の住民に払下げられ、墓地近くまで油やしの苗木が植えられました。華人は、根の成長が、墓の地下の遺骨に及ぶのではないかと案じ、両民族の対立は深刻化したのです。これを解決したのは当時スンガイルイ村の2人の村長でした。華人系の林金發氏は、マレー系のムヒディン氏に、墓地の周辺一帯を手放してもらえないかと華人の思いを伝え相談しました。ムヒディン氏は、「信じる宗教は違っても、お墓と埋葬されている死者の尊厳は同じなので、気持ちは理解できます」と応じてくれたのです。彼は、早速マレー系の村人を説得し、同意書をとりつけてくれたのです。林氏は墓地の一画は農業用地から墓地にする要望を政府に申請しました。許可が下りるまでの数年間、事実上、マレー人の了解を得て、墓地の周辺の伐採などが着々と進んでいきました。林氏は、私財をなげうって、沼地に土を入れたり、周辺の整備をしました。土地をめぐる民族的対立はこうして和解し、解決したのです。死者への畏敬の念を持った二人のリーダーの決断と行動力に深い感動を覚えます。
 イスラーム教徒ムヒディン氏は、1942 年に日本軍が起こしたあの当時の惨劇の場に偶然いて目撃させられた 16 歳の少年でした。おそらく中国系の人々の犠牲への怒りや深い悲しみに心を寄せ、胸の底に沈めていたのでしょう。


加害と被害を超えた平和への思い

 この地で、もう一つの和解が生まれました。 2012 年のことです。住民虐殺の指揮命令をし戦犯として処刑された橋本忠少尉の甥橋本和正さんが広島からツアーに参加され、この墓前で追悼したのです。橋本さんは、地元の犠牲者や関係者にとっては、日本軍人の家族とも考えられます。橋本さんは大変緊張して、挨拶をはじめました。「自分は、日本軍のこの地の掃討作戦の指揮官であった橋本忠少尉の甥です。叔父は戦犯として、クアラルンプールで処刑されました」「私は、あの事件で皆様に責任を果たすことはできませんが、責任というのは、英語で responsibility といわれ、それは反応するという意味があるそうです。私にできることは、みなさんの声に応えて、住民虐殺の事実を伝え、戦争をなくし、平和な世界をつくるために努力することだと思います。今日はみなさんに迎えられて本当にうれしく思っております。ありがとうございました」と語りました。元村長の林さんの眼にうっすらと涙が浮かんでいました。世話役の顔世質さんは、「わざわざ日本からいらっしゃって感謝しています。我々の共通の目標である世界平和、戦闘行為をなくして、平和な生活を続けていくことは同じ夢です。これからも協力していきましょう」と応じました。
 林さんと顔さんは、橋本さんに駆け寄り3人で固い握手が交わされました。緊張がほぐれ、和やかな空気がながれ、橋本さんにも微笑が浮かびました。
 集まっていた住民らは、橋本さんの真摯で誠実な言葉をしっかりと受け止め、ともに平和を築く仲間として温かく迎えてくれたのです。地元の新聞社も取材に来ていて、次の日に大きく報道されました。
 日本軍の侵略で消された悲劇の村は、こうして宗教の異なる2つの民族の共生、そして加害者と被害者の和解を生み出す場となりました。
 この年の 12月7日、アジアフォーラム横浜の証言集会は、林さんと橋本さんをお招きして開かれました。翌8日には、広島でもお二人を招きシンポジウムが行われました。どちらも加害と被害を同時に考える時を持ち、感銘の深い場となりました。原爆資料館を見学した後、 NHK の取材を受けた林さんは「絶対に戦争はいけない。日本も大きな被害を受けている」と静かに語りました。

2012 年 8 月 12 日ツアー一行の献花
(後列左から二番目が橋本和正さん)

 今回は、証言を中心として、あまり知られていないマレーシアの華僑〈華人〉虐殺の現場を、ネグリセンビラン州の例で報告いたしました。
 現在のマレーシアでは、マレー人優先の国家体制なので、日本占領期の華僑の殉難などを継承する政策はほとんどありません。そのため華人社会では、学校教育だけではなく、家庭での教育、そして社会教育の場でも、それを目指しているのではないのでしょうか。
 翁清玉さん(第 2 次世界大戦歴史研究会会長)は、「侵略戦争について、悪いことをしたとの反省があれば、許します。しかし、歪曲していては、けして、許せません」と、強い口調で断言しました(2013 年 8 月 15 日 )。翁さんは、マレーシアの華人団体中華大会堂の主席として重鎮的存在です。華人のこのような発言は、安倍政権の歴史認識への警告にほかなりません。
 翁さんは、前年のクアラルンプールでの追悼の式典で「日本政府は、日本の侵略がもたらした人命や財産の被害に対し、公の場で謝罪していないので、この慰霊祭を毎年続けている」と語りました。翁さんの挨拶は毎年聞いていますが、これほど強く表現されたことは、ありませんでした。侵略を受けた側が大変危機感を持つのは当然でしょう。
 戦後 70 年の日本をマレーシアをはじめアジアの人々は注視しています。首相談話のみならず、一人ひとりの生き方が問われています。歴史教育の果たす役割は限りなく大きく、私たちの責任は重いのです。加害から目をそらさず、戦争責任や戦後責任を考えなければ真の和解はできません。 被害者や遺族の証言を聴き、交流し、追悼して、学ぶことの多い旅を続けたいと思っています。
ネグリセンビラン州全体の追悼集会
(2014 年8月 10日)冊子の表紙 

 (注)報告の時使用した、NHK 広島による  TV 番組の DVD および毎年のツアーの記録集『東南アジアに戦争の傷跡を訪ねる旅』についてのお問い合わせ等は、髙嶋まで。

参考文献
 
『華僑虐殺 日本軍支配下のマレーシア』 林 博史 すずさわ書店 1992 年
『シンガポール 華僑粛清』林 博史  高文研    2007 年
『旅行ガイドにないアジアを歩くマレーシア』髙嶋 伸欣  関口 竜一 鈴木 晶 梨の木舎 2010 年
『観光コースでない マレーシア シンガポール』陸 培春  高文研 1997 年
『アジアの声第 3 集 日本軍のマレーシア住民虐殺』戦争犠牲者を心に刻む会偏東方出版  1998 年
『旅しよう 東南アジアへ 戦争の傷跡から学ぶ』 髙嶋伸欣  岩波ブックレット 1987年
『写真記録 東南アジア3 マレーシア・シンガポール』 髙嶋伸欣  ほるぷ出版 1997 年





(転載はここまで)
高嶋 道さん

★高嶋 道(たかしま・みち)さんは元北鎌倉女子学園中学校・高等学校教諭。「教えることは学ぶこと」をモッ トーに、長年女子中高校で教鞭をとってきました。2015年10月、夫の伸欣さんとバンクーバーを訪問した際、道さんを囲む会を催し、日本語で地元の市民対象に、「学び舎」教科書を発行した意図や経緯などを話してもらう会を設けました。下がそのときの写真です。

10月16日、バンクーバーにて、高嶋道さんを囲む会。赤いセーターを着ているのが道さん。
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