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Sunday, November 28, 2010

大槻とも恵:広島長崎の旅に参加して Tomoe Otsuki: Reflection on Hiroshima and Nagasaki

 Hiroshima Cenotaph


2010年夏、広島長崎平和学習の旅にカナダから参加した、トロント大学教育学部博士課程の大槻とも恵さんによる、この旅を振り返るエッセイを掲載します。とも恵さん、ありがとうございました。

Here is an essay by Tomoe Otsuki, a Ph.D. candidate at the Ontario Institute for Studies in Education of the University of Toronto, to reflect on the Hiroshima/Nagasaki Peace Studies Tour that she participated in this summer. Thank you Tomoe, for this insightful essay.

At Radiation Effect Research Foundation in Hiroshima -
Author (right) in the post-lecture discussion with Dr. Neriishi
2010年夏、初めて立命館大学・アジア太平洋大学、そしてアメリカ大学からの学生達と供に「Peaceツアー」に参加した。私はこのツアーを通して、これから被爆者がいなくなり、原爆を語る手段として、テキストとイメージしか残らなくなる時代を目前にし、どう若い世代が被爆者の証言を受け止め、原爆の記憶を継承していこうと考えるのか非常に興味があった。あの二週間を振り返りながら、私の中で最も印象に残った出来事や対話について述べ 、「記憶を継承」するということの意味、「原爆を語る・語り継ぐ」ということについて、私なりの考えを今回参加された人々と分かち合えたらと思う。

ヒロシマ

—幼い頃から、何度このシーンをテレビで繰り返し観てきただろうか— 

それが、ヒロシマでの原爆慰霊式典に最初に参加した私の心に浮かんできたことだった。私はこの式典にそれまで一度も出席したことがないにも関わらず、プログラムの流れが自然に掴めた自分に驚いた。

–次に黙祷が始まる。そして静寂がこのSite of Memory (記憶の場所)を包み込む—

私はそう考えながら、「黙祷」という声を合図に目をつぶる。不可能と分かっていながらも、65年前のヒロシマの「あの日」を想像しようとする。死者たちの声が聞こえるように黙祷する。私はその殆ど「神聖」ともいえる静寂さと、慰霊式典が生み出すある種のAesthetics に魅了されながらも、どこかでその沈黙が飲み込もうとする「声」というものに心を掻き乱された。それは一体何だったのか。

Benedict Anderson の「想像の共同体」(Imagined Communities, 1991) という本がある。その中で、アンダーソンはこう述べている。「国民」とは政治的に想像された共同体である。なぜなら、「国民」は他の「同胞」達全員に会ったことも話したことがないにも関わらず、同じ国に属する「国民」という共同・同胞意識が存在するからである。いつの社会にも、搾取される者、搾取する者が存在し、「平等」という言葉はユートピア的にも関わらず、「国民」という名が言説に出てきた途端、人々はあたかもそこは深い同志愛、つまり幻の「共同体」が存在するかのように振舞うのである。「想像の共同体」は、モニュメント、慰霊祭、祝日、国旗、歴史博物館、国民の歴史(教科書)という「共同体」の表象を通して形成される。日本の戦時中の歴史を振り返れば、靖国神社、天皇が「大日本帝国」という幻の共同体を表象し、「神の子」としての主体を形成していった。アンダーソンの「想像の共同体」という理論の一番の重要な点は、この想像の共同体を創り上げる過程で、多くの人々の記憶、感情、歴史的事実・真実が排他されていき、この共同体の基礎となる、美しい「国民の歴史物語」が創出されることである。そこには、「美しい国」「偉大な国民」を揺るがすような負の歴史や記憶は一切存在しない。そして、この想像の共同体のために、この数百年の間に世界中の何千万という人々が「祖国を守るため」という名のもとに、戦争へ動因され、どれだけ多くの人間が殺されていったか。「想像の共同体」は、理想の国民国家を創り上げるためのテクノロジーであり、権力を持つ者たちにとって望ましくない記憶・歴史・主体は抑圧され次第に忘却されていく。

なぜ、今私は21世紀のヒロシマという特別なSite of Memory を語る上で、この「想像の共同体」について話すのか。それは、このヒロシマの平和公園という「場所」と原爆慰霊式典という「儀式的行為」(Ritual Performance )が、戦後日本の「唯一の被爆国」に住む「平和を愛する日本国民」としての共同体を創り上げてきたことを、今回参加した学生、そしてこれから参加される学生達に認識してもらいたいからである (この点は、米山リサの「記憶のポリテックス」(日本語訳)をぜひ参照して欲しい。1999年にHiroshima Traces: Time, Space and the dialectics of memory(原書)を発表して以来、ヒロシマを研究する上でもっとも重要な文献として、学者たちに引用されているものである)。思い出して欲しい。あの原爆の地で、式典の開会の言葉、続く黙祷、そして最後に「平和」を象徴する鳩が羽ばたく瞬間、何か一瞬「日本国民」として「一体感」のようなものを感じなかっただろうか。何か純化されたような清清しさを感じなかっただろうか。

ここで、もう少し記憶を遡って欲しい。あのセレモニーの前に、国連事務総長に援護されるかのように秋葉市長が「核兵器廃絶」を訴えた。それに対し、菅総理大臣は「核抑止力」を馬鹿の一つ憶えのように繰り返す。そこには何も一致した決意は生まれなかった。「ノーモア・ヒロシマ」と「日米安全保障」という戦後60年続く言説の平行線で終わったにも関わらず、黙祷という行為と、「平和のメッカ・ヒロシマ」という地、「鳩」という平和の象徴によって、私たちは(政治家を含む)またあの日の儀式を「難なく」終えたように私は感じてならなかった。「世界のヒロシマ」の市長という立場で、被爆者の代弁者として「核兵器廃絶」を公の席で言うことはそんなに難しくはない。しかし、現在も原爆認定を求めて苦しみながら戦い続けている人々の立場に立って、今を生きる多国籍にまたがる被爆者・被曝者の現状を世界に伝え、彼ら彼女らの補償を受ける権利を訴えることは真の正義への決意が必要である。秋葉市長の功績を認める傍ら、私には彼もヒロシマを舞台にした「想像の共同体」というシアターで演じるアクターに映った。

原爆慰霊式典が悪いというのではない。死者への誓いを確認する上で重要な役割を果たすものと認識している。私が懸念しているのは、この慰霊式典が創り出す特殊な空間で、「核兵器廃絶」「恒久的平和」という言説までもが、儀式的なものへと回収されてしまうことなのだ。式典の後、多くのアメリカからの学生が、「心を打たれた」「厳かな気持ちになった」と話した。しかし、一体私たちの何人が、あの慰霊式典を通して、まだ果たされていない死者との約束について思いを馳せただろうか。そして、そのことについて、私たちは対話をしただろうか。

慰霊式典の後、私は他の立命館・アジア太平洋大学の学生たちと供に、8月6日のヒロシマを徹底的に探求することにした。まずはパン・ギムン国連事務総長のスピーチに向かう。ヒロシマの式典で、彼が自身の子供時代に体験した朝鮮戦争での記憶を語り始め、そこから戦争への怒り、核廃絶への決意を示した時、やはり「記憶」というテーマが私の中で大きく響き始めた。また特別講演で彼はこう語った。“You have called us to act. That's why I am here.” 恐らく多くの観衆は、この彼の英文の「You」を現在も活動する被爆者やヒロシマ市民と訳したと思う。そしてそれは決して間違いではない。しかし、私はこの彼のYou には死者たちの記憶も含まれている、いやむしろそれが第一の呼びかけだったのではないかと考えた。つまり死者たちが彼を、そして我々をこのSite of Memory に召還し、Act (行動)せよと呼びかけたのだと。パンギムン氏は、恐らく朝鮮戦争で多くの死を見てきたのだろう。その彼が出会った死者たちの記憶が、原爆で殺された人々、今も苦しみ続ける被爆者・被曝者の声と呼応したのではないだろうか。そして重要なことは、この「死者たちの声」は、日本総理大臣は勿論のこと、秋葉市長の声明にも含まれなかった「想像の共同体」から排他された名もなき死者たちであったと私は思う。1945年8月6日に一瞬にして焼き殺された原爆犠牲者、そして辛うじて生き残ったが、日本政府からもアメリカ政府からも、そして自国の政府からも一切医療手当てを受けることもないまま、痛みと偏見の中で苦しんで死んでいった者たち。フランス人思想家のジャック・デリダは、彼の著書「マルクスの亡霊達」でこう述べている:
私は長いあいだ、幽霊について、伝承と諸世代について、幽霊の諸世代について、いいかえれば私たちに対しても、私たちのなかでも、私たちの外でも、現前したり現前的=現在的に生きていたりしないある種の他者について語る準備をしているが、それは正義の名においてである。{・・・}すでに死んでしまったか、あるいはまだ生まれていないかで、もはや、あるいはまだ、現にそこに現前的=現在的に生きて存在するのではない、そうした他者たちの尊重を原理として認めないようなどんな倫理も、革命的であれ非革命的であれどんな政治も、可能であるとも、考えられるとも、正しい(juste) とも思われない以上、幽霊について、いやそれどころか、幽霊に対して、幽霊とともに語らなければならないのだ。{・・・}まだ生まれていなかったり、すでに死んでしまった者たち---戦争、政治的その他の暴力、民主主義的、人種主義的、植民地主義的、性差別主義的その他の虐殺、資本主義的帝国主義やあらゆる形式の全体主義の抑圧の犠牲者たちや、そうではない犠牲者たち----の幽霊の前で、なんらかの責任を負うという原理なしには、どんな正義も----どんな法も、とはいわないし、くりかえせば、ここでは法=権利が問題なのではない----ありえないし、考えられないように思われる。
デリダのいう「幽霊」とは、「死者が死してなお生者の世界に回帰し、さまざまな効果を及ぼす」ものを指し(高橋哲哉 「デリダ」2008)、私たちに呼びかけてくる記憶である。このデリダの「幽霊への責任」については、この文章をさらに進めることでみんなに理解して欲しいと思う。どうかこの概念を意識の隅にとどめながら、私の考えを聞いてもらいたい。

パン・ギムン氏の声明は力強く観衆の意識を動かす。彼は、日本の総理が核抑止力を30分前に擁護した場所から数百メートルも離れていない場で、核抑止力は「安全保障の幻想」(The Illusion of Security)と発言し、我々は現在も「核の影」(Nuclear Shadow)で生活をしていることを指摘した。そしてパン・ギムン氏の演説は核抑止論への抵抗への道筋を示す。この核抑止力という「安全保障の幻想」のもとに、巨額の資金と資源がこの60年間費やされてきたか。そして、彼が指摘するように、現在の核使用の可能性はある特定の国家よりも、むしろ世界中に散在するテロリスト達である。もしテロリストが核をアメリカに対して使用した場合、アメリカは一体どこに向かって核を打ち込むのか?中東?しかしその場合、アメリカ最大の同盟国イスラエルも間違いなく巻き込まれるだろう。つまり多国籍のテロリストに「核抑止力」も「核による報復」も無効であるということである。彼は幻から目覚めよと訴え、そして今から10年後の75th Anniversary of the Atomic Bomb では核兵器廃絶をこの地で祝えるよう力を合わせようとスピーチを終えた。

8月6日のヒロシマは、気温も政治も暑(熱)かった。厳かなヒロシマ平和公園での慰霊式典を出ると、そこは様々な反核団体のマーチとプラカードで埋まっていた。私はこの光景にヒロシマの強さを感じずにはいられかった。もし慰霊祭が死者へ「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」と促す場であるならば、この平和公園の外でのマーチやプロテストたちは、死者たちを揺り動かし蘇ることを叫んでいるかのようだった。「眠らないでください!過ちが繰り返されそうなんです!」そんな声が聞こえるかのようだった。

人の波をぬぐって、私たちは、ゲストスピーカーとしても参加してくださった田中教授が参加するHiroshima Alliance for Nuclear Weapons Abolition (HANWA) の講演に出席した。ここはグローバル市民政治の場であった。HANWAで一番私達が学んだことは、核兵器使用は勿論のこと、核抑止論のもと核を威嚇として使用することも、国際法で「人道に対する罪」と認識されなくてはいけないという考えを打ち出した点である(田中教授の演説より)。核兵器廃絶という思想は、もちろん倫理感の問題でもあるが、それと等しく重大なことは、核兵器のの犯罪性・違法性を追及する点である。なぜか?

ここで一例を挙げたいと思う。ジェンダー研究の一人者、上野千鶴子が“Politics of Memory”という論文の中で、従軍慰安婦問題について非常に鋭い指摘をしている。上野は論文の中で、従軍慰安婦という存在は韓国・日本でも小説などの中に「存在」していたことを指摘している。つまり、従軍慰安婦は、それまで誰も知らなかった史実ではなかったということである。では、戦後50年近く経って何が彼女たちの証言を政治の場へ引出し、私たちの人道に対する倫理・責任問題を追求する運動へと発展させたのか?それは、これらの女性達へ行われた性暴力が、それまで小説の中などで語られた可哀そうな女性達の「悲劇」の体験ではなく、「人道に対する罪」「戦争犯罪」と認識されたことにあると上野は議論する。事実、従軍慰安婦問題が明かした「犯罪性」は、その後設立されたルワンダ虐殺国際裁判と、旧ユーゴスラビアで行われた戦争犯罪を罰する国際裁判の中で、両国で行われた集団レイプを「人道に対する罪」と初めて法によって認識させることへと貢献している。従軍慰安婦たちの証言は、被爆者の方々のそれと同様に、個人の記憶に留まらず、彼女らの目の前で殺されていった女性達の記憶をも現在へ回帰させる。彼女らの記憶が、忘却の中から蘇り、正義を我々に求めた一例でもあるといえよう。デリダは言う。正義とは、Incompleteness of justice を我々が認識し、動き出したその意識の中に生まれるものであり、法の正義はそこから派生するものであると (デリダ「法の力」)。つまり法が正義を定義するのではなく、我々が法を正義へと作り変えていくのである。

田中教授の「核兵器所持・使用(威嚇を含む)」の犯罪性を問う発言は、今の時代に生きる我々が原爆を語る言葉を呈示している。同時に田中教授は、「核兵器の話をすると、みんな他の紛争を忘れる。」と述べることで、核兵器所持・威嚇を正当化してきた暴力的構造の徹底分析の必要性を問いた。つまり核兵器の所持を正当化する大国の傲慢さを批判する力(これにはNPTという枠組みにも真正面からチャレンジする思考が必要である)、そしてその傲慢さは弱者の搾取・偏見の上に立っている点を追求する理論的・批判的思考が必要であると。核兵器所持・威嚇使用の犯罪性と違法性を設定することは、その他の様々な大量破壊兵器(つまり必然的に民間人を殺傷する兵器・行為)の犯罪性と法の執行要請へと導く可能性へとつながる。

HANWAでは、さらに被爆者という言葉をHIBAKUSHAとグローバル化することで、根底にある人種差別問題、性差別問題など、あらゆる暴力的構造のマイクロな部分が見えることが指摘された。核廃棄物の処理場、軍基地や原子力発電所の建設場所は、いつも都市から遠く離れた、社会・経済的に弱い人々が住む場所が選ばれる。この認識から、原爆・核・基地問題が個別の問題ではなく、実は密接につながると考えることは可能ではないだろうか。原爆・平和を学ぶものは、世界中で発生した(そして現在も続く)多義に渡る暴力の歴史と政治を学ぶ必要性があることも、この集会を通して学んだ。同様に、原爆・平和について教える立場の人間は、若者達のこの批判的思考力を養成する必要であるのだと強く認識させられた日でもあった。21世紀の「ノーモア・ヒロシマ。ノーモ・アナガサキ。」は、イデオロジーや「平和・ピース」という言葉だけでは達成されなかった「正義」の必要性を認識し、被爆者たちへの正義を拒み続けてきた政治と法について批判的に考える力が重大なのだと、再認識した日であった。

ナガサキ

長崎レクチャーでは、ヒロシマとナガサキの原爆資料館、そして原爆慰霊式典についての違いについて多くの意見が出た。私の研究が長崎に重点を置いているというのも大いに手伝い、私はこの意見交換を非常に興味を持って観察した。しかし、ここでひとつ述べたいことがある。ナガサキとヒロシマの違いについて注目し意見を交わすことは、どちらの方が良い悪いという単純な議論に陥ってはいけない。言うまでもなく、「怒れるヒロシマ」の声がなければ、今日の平和のメッカ・ヒロシマは決して存在しなかっであろう。また先ほども述べたように、「ヒロシマの心」という単一な概念は存在しない。秋葉市長の考えは(とくに彼の言う「ヒロシマの和解の精神」は、多くの市民団体や学者たちに批判されていることを一例としても)ヒロシマの一致した考えではないことを、HANWAやヒロシマの街を行進していた多くの団体が証明している。同様に、これが「ナガサキの心」という単一の思想はない。私が敢えてレクチャーの中で、ナガサキとヒロシマの違いについて発言した理由は、みんなに何故ヒロシマばかりが注目されてナガサキが影に隠れてしまってきたのかの原因となる記憶のポリティックスについて考えて欲しかったからである。ナガサキ原爆を語ることは、アメリカの「正義としての原爆投下」「戦争早期終了への貢献」という今日も支配している原爆言説・原爆神話を揺るがせる可能性について考えて欲しかったのである(この点は鹿児島大学の教授が指摘していたと思う)。事実、ナガサキで証言してくれた被爆者ほぼ全員が、「なぜ二発も原爆を落としたのか?」「ヒロシマだけでもう勘弁して欲しかった。」「戦争を終わらせためだけなら、一発で良かったはずなのに・・・」と言っていたことを思い出して欲しい。ナガサキ被爆者の訴えは、日米合作の原爆神話に疑問を突きつける。私が先ほど述べた「記憶のポリティックス」とは、この神話を揺らがす可能性のある「声」と「記憶」を沈黙させてきた力と、ナガサキがヒロシマの影に隠れてきた歴史との関連性であり、それを思考する必要性を問いたかったのである。

多くの学生たちが、長崎で被爆された下平作江さんの証言に心を強く動かされていた。それは衝撃といっても過言ではなかったのではなかろうか。私にとっても、下平さんの証言が、今も一番の思い出となっている。そして今も彼女の証言を、その時に感じた痛みと供に思い起こす。事実その痛みが、自分の研究の原動力となっている。それは「原爆とはこういうことだったのだ」という知識や、センチメンタリティーを遥かに超えたレベルでの肉体化された情動(embodied affect)であった。それは、Kaja Silverman が、「他者の記憶を受け継ぐ・記憶するということはどういうことなのか?」という問いに対し述べている一節を想起させる:
If to remember is to provide the disembodied 'wound' with a psychic residence, then to remember other people's memories is to be wounded by their wounds (Threshold 189, emphasis is mine).
もし記憶するということが、肉体をすでに離れた「傷」に、己の心の内に定住場所を与えるということならば、他者の記憶を記憶するということは、彼ら彼女らの「傷」に自らをも傷を受けるということである(Translated by me)。
ここで、下平さんの証言の力、そして他者のトラウマ的記憶を記憶・継承するという問題について、私の考えを述べたいと思う。

広島で私たちが聞いた証言には、殆ど必ずといっていいほど「アメリカを憎んでいません。」という言葉が含まれ、戦後占領軍としてやってきたアメリカ人との交流を通して、彼らを憎むという気もちが消えていったことが強調されていた。それが偽りであるという気は全くない。アメリカ人を憎めという気持ちも一切ない。しかし、挑発的に聞こえることを覚悟で続けるのだが、「アメリカを憎んでいません」という言葉は、原爆の証言を「救済」と「和解」という大きな物語へと導き、聴衆(とくにアメリカ人)に安堵感を与える。この語り部の方々とアメリカ人(日本人も混じった)の聴衆の間に横たわる目に見えない力関係が、現在の安全保障を機軸にした日米関係を象徴するように思えてならないのである。核三原則という憲法を保持しながら、米の核の傘にいることと米軍による日本本土への核の持込を黙認する日米関係と、核廃絶を我々に強く訴える反面、彼ら彼女らの壮絶な体験を「和解」の物語りに回収してしまう語り部の証言には、どこか共通点があように私には映った。

誓って言うが、私はここで語り部の方々を非難する気持ちは一切ない。むしろ私がここで問題にしているのは、この力関係を崩す必要性なのだ。ミッシェル・フーコーというフランスの思想家がいる。彼は、話し手の言説・証言は、聴衆との力関係に常に影響され形成されていると指摘する。たとえば、あなたが友人と話す時と、教授と話す時では、言葉遣いも服装も仕草も変わる。そして私たちは殆どの場合、「相手の聞きたい話」を提供する。そのために、あなたは本音を自ら抑圧する。つまりそれは力へのある種の迎合と屈服である。そして、この力関係はだんだん正常化(Normalization)されていき、人々は無意識のうちにその言動・行動をこの力に統制(discipline)されていく(M. Foucault, Knowledge/Power) 。普段の社会関係では、それも必要なこともあるだろう。しかし、これが何万人もの人々の命を奪った自国の歴史的責任問題と、それを認めずに今も民間人の攻撃を正当化する自国の政治の話になった時、それを他の誰よりも強く批判することの出来る被爆者の証言までもが力関係に形成されていたら、大きな問題ではないのか。言い換えるならば、語り部の人たちが、なぜ「アメリカ人を憎んでいません」と証言に入れるかは、彼女彼らの問題ではなく、むしろ聴衆として参加する私たちの問題であり、日米の力関係を決定する日本の外交・政治の問題でもある。

深読みという人がいるかもしれない。しかし考えて欲しい。従軍慰安婦たちの証言も、南京大虐殺の被害者たちの証言も、冷戦の終焉、民主化、被害者側の国の経済発展による日本との力関係の均衡性、国境を越えたフェミニズム運動の躍進など、多くのポリティックスが絡み合った中で、記憶・証言の場が開かれ、日本の責任を問うことを可能にした事実を思い起こして欲しい。そしてもうひとつ考えて欲しい。もし元従軍慰安婦の女性達が、最初から日本に対して、「もう憎んではいませんよ。和解しましょう。でもね、もうこういったことは起こさないでくださいね。」と言っていたら、私たちはこの問題を本当に真剣に受け止めていただろうか?ここまで私たちの国の過去に対しての居心地の悪さと、私たちの倫理へのチャレンジを感じることが出来たであろうか?そして教科書に記述するしないで、これだけ国際的に物議をかもし出しただろうか?さらには、2000年に行われた女性の国際戦争犯罪裁判が行われただろうか?これだけ多くの世界中の学者が日本の戦争責任について研究していただろうか?今や、日本政府による犯罪・従軍慰安婦を知らない人はいない。むしろ、彼女たちの一貫した人間の尊厳の回復と、日本人による自国の犯罪の認識と謝罪を求めるその強さに、私たちは突き動かされたのではないか?フィリピン人の元従軍慰安婦が、女性国際戦争裁判の法廷でこう発言した。「私は正義を求めます。そのために、こうして生き抜いてきたのです。」韓国人の元従軍慰安婦はこう言った。「幽霊になってでも、私はこの世に回帰し、日本政府が犯罪を認め謝罪するまで、死んでいった同胞の無念を訴え続けます」。(高橋哲哉 「証言のポリテッィクス」)

そう考えると、なぜ被爆者の語りが、アメリカ人の聴衆との関係、日米関係の力関係に影響されていないと言えるだろうか?被爆者の証言を聞くということは、彼ら彼女らの一言一句を暗記するように聞き取ることではなく、こうしたCritical thinking を働かせながら、語り部の方々が本当に言わんとしていることを紡ぎだす作業だと私は思う。そしてもう一つ伝えたいのは、行動を促す源は、決して居心地の良い環境では生まれない。それを揺らがせるような被害者との対面がない限り、自分の倫理が今問われているのだという自覚が、彼ら彼女らとの対面にとって「危機感」に陥らない限り、それは起きないと思う。私は、一度ある被爆者の方に、「もう何度も証言をされてきて、それでも伝えきれないこと、伝えることをためらうことはありますか?」と訊いたことがある。その被爆者の方は、少し黙った後大きく息をつき、そしてゆっくりと、しかしハッキリとした口調で、「憎しみです。」と言った。そしてこう続けた。「でも、それを言ってはもう証言は出来なくなります。ましてや、アメリカに対する憎しみを言っても、核廃絶には繋がりません。人類にとっての一番大事なことを伝えるために、私の個人的な感情を犠牲にすることは構いません。」

ピーターが、何度も被爆者の方々に「アメリカを憎んでいないか?」「トゥルーマン大統領についてどう考えるか?」と訊いた。興味深い質問ではあった。でも、同時に私は思った。アメリカ人の観衆がいる限り、被爆者の方々は絶対に憎しみなど口にしない。それは、現在の日本の歴史責任の複雑性をも象徴する。パール・ハーバー奇襲攻撃という汚名、アジア諸国から謝罪・補償・歴史責任をもう何十年も追求され続けながら、一貫して責任と補償を拒む日本政府、そして従属的な日米関係というポリティックスの狭間で、被爆者の方々の証言は「反核」「和解」「平和」という言説を無意識のうちに構築し反復していることを、私たちは知覚しなくてはいけなかったのではないだろうか。憎しみは新たな暴力を生み出す。戦争を体験された被爆者たちはこのことを誰よりも知っている。だからこそ、被爆者の方が憎しみと怒りを抑え付けながら訴えてきた核廃絶を私たちが目ざすには、核廃絶運動は正義なのだという意識で目指さなければいけない。正義という考えを具体化するために、国際法の整備 (法の正義)、今も苦しむ被爆者・被曝者への救済 (社会正義)、投下責任としての米国主導の核廃絶の徹底(政治の正義)を求める運動が必要なのである。そして、正義なき平和などない。絶対にない。

下平さんの証言に戻ろうと思う。彼女の証言の特徴は、安易な「救済」(redemption) と「和解」(reconciliation) が入る余地のない語りであることではないだろうか。つまり聴衆と語り部の力関係から一切解放された場所から彼女は被爆者たちの「絶望」(despair)と原爆によって「喪失した約束・希望」を語りだす。恐らく、そこに彼女の証言の強さの源があるのではないか。「長崎はクリスチャンの街だったので、この辺りには落ちないと思っていました。アメリカ人の方々を信じて生きようと思っていました。きっと落とさないと。ところが戦争はそんなの関係ないんですね。」下平さんは淡々と語る。戦争に慈悲などない。また彼女はこうも言う。「戦争がもうすぐ終わると思っていました。{戦後への}希望がありました。だって、もう周りには戦う人がいなかったんです。」この語りには、女・老人・子供しか残っていなかった当時の長崎の状況と、そこへ原爆を投下したアメリカへの倫理に対する疑問、そして原爆で破壊された「希望」の喪失が込められている。いったい原爆は何万人の希望と約束を破壊したのだろうか。

ここで、少し下平さんの証言を書きとめようと思う。
「{焼け野原で}食べ物と骨を拾いました。それを缶に入れるんです。でも拾っても拾ってもきりがない。GHQはその上をローラーでつぶして土をかけ飛行場を作りました。・・・私たちは73,800人の遺骨の上を歩いているんです。」
「生き残っても、人間らしく生きることも、死ぬことも出来なかった。妹は死ぬ勇気を、私は生きる勇気を選んだ。お墓にお花をあげるために、最後の生き残りとなって生きることを選びました。」
「原子爆弾を最後にして欲しい。最後の一人の生き残りとして頑張ろうと思った。」
下平さんの証言は、「あの日」について彼女自身の体験を淡々と語りながら、当時の社会背景など多くのことを聞き手に与える。そして、「あの日」からどう彼女が生きてきたかへと移行する。多くの人々が毎日にように列車に飛び込んで自らの命を絶ったこと、飢えに苦しんで進駐軍のごみを漁ったこと、子宮癌にもかかり、現在も原因不明の病気に苦しんでいることなど、原爆の後遺症が65年経った今も続いていることを私たちに伝える。原爆は終わっていない、正義は達成されていないことを、彼女の淡々とした証言から私は受け取る。今もスミソニアン博物館にある原爆は「解体不可能」だそうだ。それは、下平さん、こうこさん、他の被爆者の方々の心身のトラウマが解体不可能であることとどこか共通しているようにさえ感じる。

下平さんの証言は、有名なホロコースト生存者の女性の証言をも想起させる。そのアウシュビッツの生存者は、ニュールンベルグの戦争裁判所の法廷に立ちこう証言した。
父も弟も、死の列へと並ばされガス室へ送り込まれました。母も妹も私の目の前で死の列へと並ばされていきました・・・その時私は決心したのです。ヒトラーよりも一日でも長く生きてやろうと。そして、このアウシュビッツで私が目撃したことを世界中に証言してやると。そうやって私は生き延びてきました (L. Langer, Holocaust Testimonies: Ruins of Memoryから抜粋)。
ある立命館の学生が、「どうしたらそんなふうに強く生きられるのですか?」と下平さんに訊いたことが印象に残っている。彼女がどう答えたのかは記憶に残っていないが、質問した彼の目は真剣そのもので、知りたいという強い衝動がこちらにも伝わってきた。私に下平さんを代弁する資格などないのだが、いまこうして私が書きとめた彼女の証言と、アウシュビッツを生き残った女性の証言を併記することで、彼の問いの手がかりになってほしいと思う。

また下平さんの証言は、現在と過去が同時に存在する感覚を引き起こす。原爆投下は65年前で、今の長崎にはその片鱗を見つけることは難しい。しかし、彼女が我々の足の下に埋もれる犠牲者の遺骨の存在を指摘した瞬間、私は65年前に破壊され回帰する記憶の存在を、彼ら彼女らの悲痛な思いを、下平さんの証言を通して知覚し、彼らの死の意味を構想しようとする。

やはり立命館の学生が、「実際に見たことのない自分達がどうやって被爆者の記憶を引き継いでいけますか?」と質問した。この女子学生の質問は、原爆と平和を学習する上で、恐らく一番要となるべきものだったと考える。ゆえに、私たちが何時間かけてでも徹底的に話し合うものであったのではないだろうか。そして、それは下平さんや他の語り部の方々が答えを呈示できるものではない。彼女・彼らは、助けを求め、そして救うことの出来なかった思いを証言する任務を果たすのであり、それをどう記憶していくかは、聞き手の私たちが探し当てなくてはいけない。残念ながら、私にもこの女子学生がすがるように下平さん、そしてあの場にいた全員へ投げかけた質問への明確な答えがない。実は私も、ずっとこの問題の答えを探し当てるのに、ホロコーストをはじめとする、世界中の多くの記憶の継承・責任そして歴史教育について研究してきているにも関わらずだ。しかし、これらの世界中の研究と原爆の記憶を探る上で、鍵となるポイントがある。

長崎総合科学大学の横手一彦という教授が、「原爆を語る言葉」という非常に印象に残るエッセイを残している。横手氏の論文に、恐らく多くの学生達が戸惑った「原爆を語ること、記憶を継承すること」の意味の答えではないが、この問題の対話を促す道しるべが秘められている。
ナガサキの原爆を語ることと、ナガサキの原爆をこれからも語り続けることは、重ね合わせて考えられている。しかし、その一方が次第に剥落しつつある。その時、改めて語るということの連続性と非連続性の領域が、未だに判然としないままにあることに気付いたのである。双方の関係は、たとえばバトンの受け渡しと喩えられる。それは、ナガサキの原爆を語った延長戦上に、ナガサキの原爆をこれからも語り続けることが考えられている直列的な形である。しかしこの考え方には、非連続性の在りようが、すっぽりとそこから抜け落ちている。問われていることは、むしろ、非連続性の在りようなのである。このことは、よって、その周囲にさらなる困難を随伴しているといえる・・・しかし肝心な点は、誰が語り手であるかということではない。そこで、何がどのように語られ、受け取られているかということである。(158-159) 
少しホロコースト教育について話したい。現在、ホロコースト教育は、世界中のカリキュラムに含まれている。従来のホロコースト教育は、Primo Levi や Elie Wiesel に代表されるような、アウシュビッツ生存者に書かれた小説や、ランズマン監督の「ショアー」というドキュメンタリー映画、そして生存者の証言を読むことを中心とされてきた。しかし最近になり、多くの教育者や研究者の中から、Second Generation Holocaust Survivor(ホロコースト二世)による文学を取り入れることの重要性が唱えられるようになった。何故か?それは、これらのホロコースト生存者の子供たちが、この記憶の継承の責任と難しさに最初に、そしてもっとも強烈に経験し、記憶の継承がバトンの受け渡し、もしくは輸血(Memory Transfusion) をするように受け継ぐことの「不可能」さを、文学という形式で物語るからである。それは、横手氏が言う「非連続性の在り方」と深く関連している。ホロコースト教育研究者の Rachel N. Baum は、直接のホロコースト生存者だけでなく、彼ら彼女らの子供達が書いたホロコースト二世の文学も「証言」として読むべきだという一人である:
Survivors stories are irreplacable in their witness of the event, but they do not provide models of remembrance for those who did not experience the destruction firsthand. Without detracting from the specificity of the experience of children of survivors, I want to take seriously that second-generation narratives have something to say to post-Holocaust generations about what it means to live after the Holocaust, and of how to create an identity in relation to the past. Those committed to learning about the Holocaust must read these texts too as testimony, as they bear witness to the struggle of living within the shadow of the destruction (Rachel N. Baum, p. 95).
あの出来事(ホロコースト)の直接の目撃者としての生存者の語りは、何ものにも置き換えることなどできない。しかしこれらの生存者が、ホロコーストを経験していない者たちへ、どうあの出来事を「記憶」をするかについて何か模範を与えることなどはできないのも事実である。ホロコースト生存者を親にもつ子供達の特殊な経験を損なわないように配慮しながらも、私はこのホロコースト二世が、ホロコースト後に生まれてきた私たちへ何か大切なことを伝ええようとしていると考えたいのである。このホロコースト二世たちの文学には、アウシュビッツという歴史の後に生きるということの意味、そしてその難しい過去とどういう関係を持ちながらアイデンティティを形成していくのかについて、重要なことを示唆していると思えるのだ。ゆえに、ホロコーストについて真剣に学ぼうとしている者たちは、ホロコースト二世たちの文学も、あの人間破壊の影の中に生きながら、あの記憶を継承していくことの葛藤を語る者たちの「証言」として読まなくてはいけない。(Translated by me)
同様に、私たちが被爆者の記憶を継承するということは、原爆後の今をどう生きるのか、どう原爆を今のこの状況の中で語るのかと考える必要がある。ヒロシマの語り部が「アメリカ人を憎んでいません。」と証言に入れるのは、アメリカ人から涙ながらに「I'm sorry」とセンチメンタリズムに彩られた謝罪を聞くためではない。和解を打ち出すことで、もしアメリカ人が彼ら彼女らの話を聞いてくれて、語り部の最終的な祈り、「核兵器廃絶」へと動いてくれたらという気持ちからである。核廃棄廃絶へと動いて欲しいのだ。そのために、つらい体験を何万回も話し続けてきたのだ。彼ら彼女らの記憶を継承するということは、核兵器廃絶へどう動いていくかを考えることであり、次世代に記憶を伝えるということは、被爆者の体験・証言を思想化し、その意味とそれを語る言葉を常に更新し続け (この点は非常に重要なのでしっかりと憶えていて欲しい)、核のない世界を作りあげることなのだと私は思う。「どう記憶を継承するのか?」は、被爆者へ向けられるものでなく、私達自身への問いであり続けなければならない。そしてその答えは、時代と供に変わっていかなくてはいけない。

結び

こうして、ピースツアーを通して、北米と日本で勉強する学生達が共同の場で、互いの意識の違いなどに気付かされた面はとても大きな収穫だった思う。個人的には、せっかく少数ながらも中国人やカナダ人の学生がいたのだから、彼ら彼女から見る原爆の歴史について聞く機会があればなお良かったと思う。恐らく、日本人・アメリカ人の学生達の盲点を衝く様な意見や考えがあったのではないだろうか。

アメリカ人の学生達は、どう今回のピースツアーを回想したのだろうか。日本からの参加者と彼らの回想録の比較は、これからピースツアーをさらに発展させるためにもしっかりと研究されるべきだろう。私たちは、二週間を寝食供にしながらも、必ずしも常に同じカリキュラムの中にはいなかったのではないか。双方が同じテキスト(多くの重要なテキストは日本語訳・英訳されている)を参加前に読み、ディスカッション・クエスチョン、コースの目的を共有させてみるのも大切なのではないだろうか。

私は、日々の人間関係のいざこざは勿論のこと、歴史問題に関しても、意味のある対話というのは、ある程度の衝突やテンションの中からしか生まれてこないと思っている。対話とは、他者との違いを認識するところから始まる。Krondorfer が書いたRemembrance and Reconciliation: Encounters between young Jews and Germans (1995) という本がある。著者自身もドイツ人で、ナチス時代に生きた非ユダヤ人の祖父母・両親を持つ。この中で、ユダヤ系アメリカ人とドイツ人の若者たちが、最初はお互いに持つ偏見と葛藤し、理解しきれない他者にとまどい、衝突し、しかしそれらの難しさに敢えて対面することで、相手の歴史的記憶というものを理解し、「和解」とは何かということを、供に話し合う過程が書かれている。それを読むと、テンションなき対話や和解など有り得ないということが理解できるのではと思う。

あの京都・ヒロシマ・ナガサキでの2週間、私たちは、そのテンションを無意識のうちに押さえ込もうとしていなかっただろうか。その結果、テニスのように何度も何度もラリーすべきはずの対話が、ボーリングのように一人が玉を転がして終わってしまうような印象があった。例えば、日本人の女子学生が、なぜ今も原爆投下を正当化するのかと訊く。それが多くの市民の命を奪うことなのになぜ?とさらに訊く。この質問は、今も続けられるイラク・アフガニスタンでの空爆へにもつながり、ゆえにアメリカ人の学生は、そのことへの自分の考えを持って日本に来るべきではなかったのか。しかし、驚くことに誰一人その質問に意見を述べるアメリカ人はいなかった。その一方で、アメリカ人の学生が、米国が核兵器を所持する必要性と正当性を唱えた。私は彼女の意見に真っ向から反対する立場にいながら、彼女があの雰囲気の中で、そう発言したことへ感謝した。そうなのだ、ここにせっかく私たちがいるのだから、この核抑止論を徹底的に話すべきなのだと。しかし、やはり彼女の投げたボールは、誰にもキャッチされることなく床にポロリと転がっただけだった。最終日の方になると、日本人の学生達の質問はどんどん精巧に、政治的になっていった。たとえば一人の学生は、なぜアメリカは軍事産業に今も比重を置き、人々の生活や経済発展に役立つインフラストラクチャーへの投資を怠るのかと、経済構造の問題点を突いた。大学院生が約半数占めていたアメリカ側から何も答えはない。質問は受け取り、話し合うという点がもっと徹底されていたらと振り返る。

アメリカ人の学生たちとも、多くを語った。残念ながら、印象に残っている対話の全てが、レクチャー以外の場であった(殆どが、京都の二段ベットのひとつに4人が集まって真夜中過ぎまで話したり、移動中の列車の中で交わされた)。あるアメリカ人の学生が、「ともえ、もしアメリカが、ナガサキとヒロシマに和解の謝罪のモニュメントを送るとしたら、どのようなものが一番適切だろうか?」と訊いた。私は、「Nothing can be appropriate. Atomic Bomb Memory and what Hibakusha went through are unrepresentable. We have to think about how we remember and represent the unrepresentability of their memory (どんなモニュメントも被爆者の方々が経験した記憶を表象することなんて出来ない。むしろ私たちが考えなくてはいけないのは、その表象不可能性をどう記憶し表象していくのかなのだと思う)。」と答えた。この学生はさらに私にこう言った。「何故、日本人はピース、ピースと繰り返すのか?」それに対し、私は、なぜ正義ではなく、ピースとしか繰り返さない被爆者の心情を考えたことがあるか?と訊いた。また他のアメリカ人の学生達は、被爆者の証言も、ツアーを包み込む雰囲気も「a bit too comfortable...」 と不安そうに応えた。これらの対話は、いろいろな意味を示唆するように思える。

私たちは、「平和」「Peace」について、日米の大学の学生合同で話しあうために集まったが、この「平和」「Peace」という言葉の多義性について一度か話し合っただろうか。核兵器廃絶を唱えるということは、核廃止論の虚構性についてまず徹底的に話しあうことが絶対条件だと思うのだが、私たちは、そのことを十分に話しただろうか。私はこれらの疑問を自分に投げかけながら、あのピースツアーから数ヶ月たった今、モントリオールという、かつてマンハッタン計画の一都市であった街のアパートで、原爆・平和教育の意味・意義について自分なりに再思考している。

最後になるが、今回ピースツアーで私たちに貴重なレクチャーを与えてくださった藤岡先生、ピーター、そしてインストラクター兼ファシリテーターという役目をこなしながら、つねに通訳もしてくれた聡子さんに深く感謝を表明したい。それから、小さな体で常にアメリカと日本の大学からの参加者たちの間を行ったりきたりしてくれ、最大のムードメーカーとして振舞ってくださったこうこさんにも深くお礼を言いたい。それから、我がままばかり言い、時間にもルーズだった私たちに対し、常に笑顔でお世話をしてくださった、学生委員会のみんな、本当にどうもありがとう。そして、日本の大学から参加した学生達の知的レベル・探究心、分析力の高さと、明瞭な発言力に、私は幾度も敬服したことを記しておきたい。みんなとの対話の中から、どれだけ多くのことを学んだか書ききることはできない。本当にどうもありがとう。いつか、また何処かで会えることを祈りながら、2010年ピースツアーの回顧録に筆を置きたいと思う。

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