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Saturday, May 14, 2016

「憲法9条を保持している日本国民にノーベル平和賞を」運動についての意見 an opinion on the movement "Nobel Peace Prize for Japanese citizens who have maintained Article 9"

日本国際法律家協会(JALISA)の機関紙 『Interjurist』 188号(2016年5月1日発行)に掲載されたブログ運営人の記事を転載します。

この記事でも触れている「沖縄」。1952年、サンフランシスコ平和条約により日本から切り離され米軍政下にさらに20年も置かれ、人権を奪われ続けた沖縄が、日本国憲法適用をもとめて選んだ1972年の「復帰」。しかし日本は沖縄から基地を動かすことをせず、沖縄を再び裏切った。結果的に沖縄は「憲法」からも裏切られ、その状態は現在にまで続いている。その「復帰」から今日は44周年である。この記事は物議を醸したが、憲法が大事であるからこそ、日本が憲法から排除し置き去りにした人たちのことをまず考えなければいけないという思いで書いた。


新連載 私は憲法9条をこう考える



「ノーベル平和賞」運動について


バンクーバー9条の会世話人
乗松聡子

JALISAとのつながりは10年前、私の住むカナダ・バンクーバーで2006年6月に開催された「世界平和フォーラム」でそのメンバーの方々に出会ったことがきっかけでした。その後私が日本に一時帰国したときに、笹本潤さんの誘いでJALISAのオフィスを訪ね、入会しました。海外にいて何もお役に立てない存在ですが、今回の寄稿は私のささやかな貢献と思ってください。

今回、私が海外を拠点に活動しながら抱いてきている問題意識をひとつ皆さんと共有したいと思います。
それは「憲法9条を保持している日本国民にノーベル平和賞を」運動についてです。これには何度も賛同や協力のお誘いを受けましたが、私自身は最初に聞いたときから違和感を持ってきました。私は「バンクーバー9条の会」の創設メンバーとして、9条を守り生かしていこうという活動をしてきており、9条に対する基本的姿勢はこの運動を推進してきている人たちと同じであると思います。しかしこの運動にはどうしても賛同できないのです。

私が抵抗を感じるのは、「日本国民にノーベル賞を」と言っているところです。この背景には、9条自体をノーベル賞の対象とはできなかったという事情があることは承知しています。しかし日本人が「日本国民」をノーベル平和賞の対象にするというのは、自分で自分をノミネートしていることになります。そもそも賞とは、人から評価してもらうものであり、自分から求めるものでしょうか。「それのどこが悪い、9条は素晴らしいのだから」と反論する人がいるかもしれませんが、この自画自賛性を私が指摘することにはもっと根が深い問題があります。

それは、海外から観察していて、この運動に限らず日本人の「平和運動」は概して自画自賛的、自己中心的なものが多いということです。自分自身もそうでした。日本の被害を強調する「ヒロシマ・ナガサキ」や都市空襲、物資不足や占領地からの引き揚げの苦労といったことを語ることが「平和教育」だと思っている姿勢は、一歩日本の外に出たら通用しないときがあります。

憲法9条はそもそも、千言万語をもっても語り尽せない被害をアジア太平洋全域にもたらした日本帝国の軍国主義・植民地主義を牢獄に入れたというような性質を持ちます。しかしこの憲法の懲罰性というものを、日本の9条支持者たちもあまり自覚していないように見えます。逆に、「唯一の被爆国」、「焼け跡から生まれた憲法」といった概念とともに、艱難辛苦から立ち上がり「平和憲法」を守る立派な日本人といったイメージが作られています。「9条にノーベル賞を」という運動にも、日本人が日本の憲法を称賛する、というナショナリズムを感じざるを得ません。実際は日本が何も威張れた存在ではなかったから9条があるのです。最近メディアなどにとみに日本賛美の言説が目立ちますが、それと軌を一にするような動きにさえ見えるのです。

また「日本国民」という表現についてですが、日本国憲法は制定の過程で、占領軍の英語草案で People とあったものを日本側が敢えて「国民」と訳すことによって「国民」ではない人たち、すなわち日本国籍のない人たちが法の下に平等に扱われることを阻止した歴史があります。天皇は憲法施行の前日に最後の勅令「外国人登録令」を出し、在日朝鮮人と台湾人を憲法から切り捨てました。これをどれほどの日本人が知っているでしょうか。私は在日コリアンの友人から聞くまで知らず、心から恥じ入りました。天皇は自分の権限が正式にはく奪される前日にこのようなことを行っていたのです。

日本国憲法は法的には「日本国民」以外の人たちを排外はしていないようですが、在日コリアンや、基地被害を押し付けられ9条の枠外に押しやられている沖縄の人々など、事実上憲法が適用されない状況が続いている人々のことを想えば、容易に「日本国民」とは言えないのではないかという思いがあります。「日本国民」には自分たちは含まれていないと感じる人も多いでしょう。しかしこの人たちは、「日本国民」と憲法上同じ権利を保障されることを渇望してきました。そういう意味で、憲法を保持することに多いに貢献してきたのではないでしょうか。それなら、その人たちがあまり疎外感を感じないように、たとえば、「憲法9条を保持している人々」という方がよりよいのではないかと思います。

このような感覚は日本にいた時代の私にはありませんでした。カナダで自分は、国籍がないにもかかわらず、市民としてカナダの憲法下でカナダにいるすべての人間と同等の人権を保障されている安心感があります。それを意識して、初めて、日本で日々そのような安心感を持てずに暮らしている人たちの存在に気づいたのです。日本で日本人やっている限りは気づかなかったかもしれません。

私が平和運動に入ったきっかけは原爆の被爆者の方々との出会いであり、米日や他のアジア諸国の学生たちを毎年広島・長崎に連れていく平和の旅に参加し、被爆者の皆さんの声を世界に届ける活動をしてきました。日本軍がどれだけ極悪非道なことをしたとしても原爆で一般市民が大量殺りくされたことは許されざることです。海外で活動していると、アジア隣国の人々や元連合軍捕虜や遺族たちの中に根強い、「原爆のおかげで助かった」という歴史観に一対多数で立ち向かわざるを得ない場面もあります。私がこの原稿で書いていることはこのような立場から来ているものであり、決して日本の戦争被害者の被害を軽視しているものではありません。

このノーベル賞運動には、9条の国際的認知度を高め、安倍政権の好戦的政策や改憲を阻止する一助にしたいという狙いがあるのだと思いますし、その善意は疑いません。これを機会に、日本人の平和運動のあり方、そして日本国憲法が守ることができてこなかった人たちのことを一緒に考えませんか。

最後に、私の初稿にたくさんの貴重なご意見をくださったJALISAの理事の方々に感謝します。


乗松聡子(のりまつ・さとこ)
『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』(apjjf.org)エディター、平和教育団体「ピース・フィロソフィー・センター」(peacephilosophy.com)代表、「バンクーバー9条の会」(vsa9.org)世話人。編著に『正義への責任―世界から沖縄へ』(琉球新報社、2015年)、共著に『沖縄の〈怒〉-日米への抵抗』(法律文化社、2013年)など。連絡先メール:info@peacephilosophy.com


2 comments:

  1. 聡子さん、みなさま、

    ブログをアップしてくださり、私の頭も慌しく動いています(笑)。

    はじめに結論を。日本式’戸籍謄本’血統「国民」(沖縄はアイヌや在日はどうなるのか)が受ける候補にあがるような「平和賞」なら、反対します。聡子さんとまったく同意見。

    (1)、まず「憲法」は「9条」も含め、日本「国民」が自ら勝ちとり作成したものではありません。敗戦後の「外圧」(アメリカ占領軍統治)によって全権代表マッカーサーが与えたのです。現在の「9条」の価値、重要性と無関係に、内容も実にいいかげんです(それすら「骨抜き」「棚上げ」状態)。聡子さんが論じてくれた「国民=People」はもとより、「内務省」(特高警察、戦後廃止)と「文部省」は表裏一体。だから「教科書裁判」jなどが起こる。

    前者が「暴力」で思想を取り締まったのを後者が日々「教育」で強制、実践したのです(「文部省=Ministry of Education」も英訳時の混乱から「教育」ということで残してしまいました(ドイツと違い大多くの「国民」は廃止を主張すらしなかった。今でも断固’全廃’すべき)。

    (2)スウェーデンやノルウェーといった発祥や当時の精神はともかく、現在は「平和」と関係ない。人種隔離政策の実践者デクラーク(元南アフリカ大統領、’ナチ’の戦犯みたいなもの)や侵略者ニクソンとかキッシーンジャー、兄は元A級戦犯容疑者岸、佐藤栄作(戦後首相、アメリカのベトナム侵略を援助した)のどこが「平和主義」なんでしょうか。また「平和賞」じゃないけど(どうでもいいから、なんだか忘れました=(^_^;/同じく元A級戦犯容疑者の笹川良一までいる。一方、マンデラやキング牧師、侵略と戦ったベトナム外相レ・ドクトも選ばれてる辺り、矛盾してます(辞退=これも実態の証明なのでは))。

    (3)、戦犯を己の手で裁かず、責任もとらず「天皇制」を盲目的に容認している(もはや代表的「日刊紙」は全部、一面で「アイコさま・ケイコさま」とやっとる)。私の両親も、「一度とおった道」にどんどん近づいていると絶望してます(「国民」ですが、そんなの’辞退’するでしょう)。準植民地の劣等庶民として「皇国臣民化」を暴力で強要して勝てもしない戦争に狩り出しておきながら、「憲法」も「国民」も責任を取らなかった。

    -「星条旗」と「日の丸」がひるがえる奪われた祖先からの地で、「沖縄タイムス」「琉球新報」などを読んでいる方々はどう思うか。また「伊藤博文」(旧植民地朝鮮総督・暴力併合時、閣議が開催中の宮城(ソウル)を軍隊で包囲し、自ら乗り込み反対した大臣に鉄拳をお見舞いした兇漢)がお札にされても不思議に思わず、「基本的人権」を国家から享受する「特権」としてしか考えられない(この考えから生まれたのが「国民」(’臣民’時代と変わらず)。

    -カナダの首相が「憲法改悪はナチス戦法」に学ぼう」(今、「嘘も千回繰り返せば本当になる」(ゲッベルス宣伝大臣)をまさに実践中)や、トロント市長が「南京大虐殺はなかった」と発言したらどうなるか。これも実に「日本的」発想といえるでしょうか。世界では通用しません。

    -日本式わがまま発想、常に理不尽な攻撃を’一方的’に受ける被害者「国民」。「一億総国民無責任体系」式。「北朝鮮」に何をいってるのか。拉致・誘拐の「罪を認め、謝罪し、賠償しろ」、自分たちは?

    (4)ルポ的に列挙します。

    -「通州事件」(軍政下、「麻薬売買」を組織的に行っていた日本人たちが15~6人殺された」(じゃあ、なんで中国のそんなとこに’日本人’がいたんだ)VS「南京事件」(杭州湾と上海方面、華北の3方向からろに食糧も持たず南京に押しよせた。進撃中の市町村を部落を焼き払い、徴発に名をかりた’掠奪’’強姦’’虐殺’は日本軍がとおったところすべて道筋に沿って死体の山となった。揚子江は血で真っ赤。死体に埋まり、サメが南京近郊まで上がってきた。

    -南京「30万」「20万」そんなに殺しとらん「1万いや2千」戦闘行為だ「100人」VS通州事件「20人」よくも殺したな。第一次上海事変(参謀本部が雇った中国人暴漢に僧侶を襲撃させ’3~4人’が死傷した)。大儀名分あるのか。

    -50年の台湾、35年の朝鮮植民地支配。1910年在日コリアン「790人」1945年「250万人」、100万が強制連行)台湾人戦傷者20万、朝鮮人40万、沖縄県民20万(VS「北朝鮮」許さん。拉致被害者「20人くらい」。経済制裁だ在日を追放しろ。「理解しろ」「過去は変えようがない」

    -仮に「広島」で「70万」も死傷者は出てない。「2~3万」なら虐殺とはいわない、と叫ばれたら?(被爆者や旧植民地から無理やりつれてきた人たちはどうなのか)。これでは二発の原爆投下、アジア諸国の民衆が「バンザイ」でも文句はいえなくなる。

    お粗末な「日本発」式甘ったれ考えは認められない。

    -「最後の大倭寇」として、鬼に醜く兇悪な’ツノ’が生えてる絵があるほど忌み嫌われている「太閤殿下」秀吉は英雄扱い。趣味の読みもの、インチキ・’ノン’フィクション(ルポルタージュ、ドキュメンタリーではない)「司馬遼太郎」(戦争大好き・元産経新聞記者)が「国民文学」だの「司馬史観」どうこうと’政治家’が使ってる。

    「平和賞」の’資格’あるんでしょうか。在日や沖縄、アイヌの人は認めるでしょうか。

    -「国民」以外の人たちに、今の苦境を与えている責任は「日本人」たちにあります。「政府」は国民が選び「認め」なければ存続しません。「命令」を「実行」するものがいなければはじまらない。

    「仏の顔も三度まで」。もう「だまされていた」「知らなかった」は通用しません。問題意識を持てず話もきかないのであれば、「国外」に支援を求める道義的正当性も失う。

    -カナダ人として持論をいわせてもらえば、ドイツにこそ贈ってほしい。元A級戦犯が「首相」となりその孫が「与党」どうこうで、「ナチス」云々といわせてほったらかし(国際社会での重大性と非常識すらわからない)の7割程度「国民」にその資格はない。

    -それらは何の疑惑すら感じず「ゴーマニズム」や「嫌韓中本」を海外に持参し、平気で「モザイク社会」でゴチャゴチャ。’日本語’で「少女像をどかせ」「日韓条約違反」云々と「ヘイトデモ」まがいを行って恥じない。許しがたい。「平和賞」を在日や沖縄の方々に贈れるような「国民」になってください。真の自由と民主主義は「我が国」から温情で与えられる「特権」ではない。敵視して腹を立てている中国、韓国人や多くの世界では庶民たち自らの手で勝ち取りました。

    -また、陛下サマなどにはまた「人間宣言」してもらい、「平民」として「ご隠遁」「年金生活者」に。天皇制など「未開野蛮なしろもの」「世界でもっとも遅れた野蛮な風習」に過ぎません。何の未練がありましょう。

    -私は同校の大先輩で友人のあるイギリス人博士から、「俘虜虐待」のことをたずねられ(親戚に犠牲者)あまり上手く説明できませんでした。申し訳ない気持ちでいっぱいで。さらに自由党クレチエン政権時代、カナダの外相が日本人をけなす発言をして謝罪しました。「祖父が日本軍の捕虜となり、苦労したのでつい」と。「我が国」政治家や、日本「国民」たちはどう反論するのか。全アジア地域で日本軍の捕虜となった連合軍兵士総数は「25万」、軍属や一般人は含まれず。死亡率「27%」ナチは「4%」(ただ西側に限り、ソ連は2千万殺されました)。「遺憾である」以外、何の補償も謝罪もしていません。

    *最後に一つだけいわせていただくと、「日章旗」や「旭日旗」をカナダでふりまして怖じない人間たちが出てくる「本国」であるなら、「世界の一員」としては受け入れられません。他国の人々の「理解」と実際の「距離」は変わらないので「ヘイトスピーチ」デモなどを拝んでから仕事で、ユダヤ系の市民が多い地域になど行くと「ここで「鉤十字」を振りかざし「ハイル・ヒトラー」と巨大音量でやったらどうなるか。

    こうした問題を深刻にみて、理解できて行動できるような「国民」(戦中の’臣民’と基本的に変わりない)なら断じて戦争推進・侵略者「与党」などをのさばらせては、おかんでしょう。「平和賞」の実態が何より証明されたことでは。確かに今の「国民」が候補にあがるのも分る気がする)。

    支離メツレツになってきました(-_-;(>_<;この辺りで。

    たびたびお付き合いありがとうございました。

    サミー

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  2. 小林はるよ9:46 pm

    私は現憲法を改悪から守る運動の象徴として9条を掲げることにはむしろ反対なので、9条へ平和賞をという運動には違和感があります。9条があったので自衛隊を直接的な戦闘行為にさせずにすんできましたが、アメリカの侵略戦争には、朝鮮戦争をはじめとして、ずっと、積極的に加担してきました。そして「保持している」といっても、今にも保持できなくなりそうではありませんか。「9条を保持している日本国民へ平和賞」と主張するのでしたら、現在着々と進んでいる憲法改悪の企てを阻止できてからにしてはどうなのでしょう。私は、アベ政権が強く決意している憲法改悪を日本国民が阻止できれば、そのときこそ、9条は押しつけではなく、日本国民が守ってきたものだと言えると思うのですが。

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