日本人の倫理を問う
2013年2月14日
松元保昭
▼はじめに―嘘と責任
子どもが嘘をついたら、どんな親でも叱るだろう。学校の先生も、やはり嘘をついた生徒を叱るだろう。私は教師だったころ、万引きをした生徒があらわれるとクラス全員によく灰谷健次郎の「チューインガムひとつ」を読み聞かせたものだ。人格からほとばしり出る灰谷の指導による作品なのだろうが、悔悟の深みにおりてゆく安子ちゃんの素直な心性と、とりわけ罪を犯したわが子に恐懼して嘆く母親の姿に胸を打たれた。他者と自己自身にたいする責任という人としての民衆倫理は、こういうところから形成されるのではないだろうか。
松元保昭
▼はじめに―嘘と責任
子どもが嘘をついたら、どんな親でも叱るだろう。学校の先生も、やはり嘘をついた生徒を叱るだろう。私は教師だったころ、万引きをした生徒があらわれるとクラス全員によく灰谷健次郎の「チューインガムひとつ」を読み聞かせたものだ。人格からほとばしり出る灰谷の指導による作品なのだろうが、悔悟の深みにおりてゆく安子ちゃんの素直な心性と、とりわけ罪を犯したわが子に恐懼して嘆く母親の姿に胸を打たれた。他者と自己自身にたいする責任という人としての民衆倫理は、こういうところから形成されるのではないだろうか。
3・11で「文明の病」(石牟礼道子)はさらに深く広がった。原発をめぐるさまざまな事態を見るにつけ聞くにつけ、井上ひさしの「にんげんがおかしくなっていませんか」という声が天から響いてくるような気がしてならない。今の日本では、さまざまな制度の理屈をともなって、嘘と誤魔化しが、無責任と非倫理が横行支配してしまっている。責任者を処罰することもなく、子どもたちとその未来を放射能と誤魔化しで覆うことは、許されないことだ。日本人のモラルの特質と未来について考えてみた。
▼嘘と誤魔化しの現実
この二年間の東電や政府の対応をみると、そのウソには目に余るものがある。最初から情報を正確に伝えないばかりか、事故当初のようにSPEEDI情報の隠蔽や安定ヨウ素剤配布義務の不履行の最中で「ただちに影響はありません」などという言い訳で誤魔化す手法が、その後常套手段になってしまった。例えば飯館村モニタリングポストのように、その地点だけ除染してコンクリートで覆って線量を低くしている策術。75パーセントは山林に囲まれる飯館村はいくら除染しても線量はすぐ戻る。しかし村長は一年以内の住民の帰村を計画しているという。こういう類の制度的誤魔化し、システムによる欺きが行政施策として横行しているのが日本の倫理的現在である。
思いつくままに挙げると、住民被害の最小化を最優先するより原子炉施設と政権の存続を考えた東電と政府の初期対応。その後も一貫している住民のいのちと健康を最優先にしない国と地方の行政姿勢。はなから差別と誤魔化しを制度化している電源三法交付金と総括原価方式。事故責任、賠償責任回避のためのメディアによる巨大な過小評価戦術および人心管理システム。より具体的には汚染線量基準引き上げと海洋、湖沼、河川、山林、および生物濃縮の詳細な被曝線量調査報告義務の意図的不履行。同じことだが自己決定可能な情報提供と補償も賠償もない棄民政策。大地の汚染を無主物と言い張る欺瞞と厚顔。中学生でもわかる食物連鎖と生物濃縮という機制を「希釈」と偽って隠蔽する言説操作の類。希釈拡散禁止という国際合意に反する汚染食品流通やがれき処理の拡散。移染でしかないものを除染と欺き、大手ゼネコンに復興予算が還流する除染や広域がれき処理のシステム。チェルノブイリを超える避難基準の線量引き上げと汚染実態と見合わない区域設定。御用学者とメディアが誘導する一貫した内部被曝の軽視ないしは無視と表裏一体の「安全安心」再誘導、司法もこれに追随。具体的には、放射線核種からの細胞破壊、DNA損傷による心臓疾患、免疫障害、死産、奇形など数多の健康障害の実例を挙げずに、賠償訴訟の困難が目に見えている原因を確定できないがん疾患にのみ特定して「安全」を説く常套戦術。診療せずに「県民健康調査」という誤魔化し。隠蔽のための非診療と非公開。「線量計細工」など無法無権利のまま放置されている大量被曝で使い捨ての原発労働者。活断層など地震の温床を無視する再稼動の準備。事故のない通常稼動でも温排水、放射線核種排出、原発労働の危険性など変わらぬ隠蔽。推進派でかためられた規制庁トップは国民を規制・弾圧する元警察官僚。三基の原発がメルトダウンした史上最悪の惨事が進行中に加え、4号機の使用済み燃料プールが瓦解する一触即発の状況だというのに「収束宣言」。原発の永続化と核兵器の製造可能性に密接に結びついている「すでに破綻している」再処理技術と核燃サイクルへの固執。10万年も100万年も誰も責任など取れないのに、嘘と誤魔化しと欺きの核廃棄物処理、等々。原発を存続させるとしたら、これらの嘘と誤魔化しもまた何十万年も続くことになるのだろう。
圧倒的市民の怒りは、脱原発運動に糾合した。しかし民衆の怒り、「再稼動反対」の叫びは、「脱」原発というエネルギー政策転換の要求をはるかに超えて、蔓延する「嘘と誤魔化しはもうたくさんだ」という民衆の倫理的叫びであった、と私は思う。
これほどの惨事を招きながら誰一人責任を問われず逮捕も処罰もされない法治国家があるだろうか。厳しい責任を問うことこそ、未来への一歩である。現在、東電の事故責任と政府および関係機関の隠蔽・不正の刑事責任を問う告訴・告発が福島原発告訴団によってなされている。またこれに先立って、子どもたちの緊急疎開を求めるふくしま集団疎開裁判も進行中である。脱原発運動とこれらの訴訟が車の両輪となって責任を問い続けることを願っているが、国家責任、企業責任を民衆の立場で裁いてこなかった日本の司法には残念ながら多くを期待できない。事故前から「この国の未来のために、人類の未来のために、原発を止める責任があります」とはじまった脱原発運動が、こんどこそ「責任者の責任を追及する」運動へと深化することを望みたい。チューインガムを盗んでも、他者と自己への厳しい責任追及を果たすことこそ人間になる条件なのだから。
また、日本政府と電力会社が「国際的に合意されている科学的知見」だとして隠蔽と過小評価の拠り所としている国際機関IAEAおよびICRPにも触れなければならない。とりわけチェルノブイリ以降、IAEAおよびICRPによる国策と事業者利益優先の見解およびリスク基準は、内部被曝による多様な健康障害を無視し被害住民に被曝受忍を強制している各国の棄民政策の後ろ盾になっている。これら国際原子力ムラの出先機関は、WHOやUNSCEARの手足を縛り放射線障害の研究および疫学調査を著しく遅滞させ、遺伝子学、分子生物学の知見を無視して、遺伝子、細胞、臓器の各レベル、胎児も幼児も妊婦も同じ平均化数値を「リスク基準」とすることによって、内部被曝によるさまざまな放射線障害の症例を出来させている現実を隠蔽し、受忍強制と棄民政策を放置している。このような、原子力産業を推進し核兵器管理体制を支えている米英仏露など安保理核大国の伏魔殿が控えていることも視野におかなければならない。このIAEAが国際原子力産業のために、いまフクシマの幕引きを画策している。
ついでに言えば、人道支援と民主主義の伝道師、警察官のような顔をしたこの核安保理大国は、最近でもアフガニスタン、イラク、リビア、シリアと内外から武器を供給しては内乱を呼び起こし何十万、何百万人もの人々を虐殺しては避難民に追いやり、国家をぐちゃぐちゃに破壊しても平気である。イラン、北朝鮮へと続かないことを祈る。同時にこれらの核保有管理国は核廃絶を先延ばしにしながら、稼動中の原発427基、建設・計画中も含めると596基の原発を全世界で存続推進しようとしている。ECRRの試算によると、核実験および通常稼動の原発から放出された人工放射能によって、すでに6000万人以上のがん死亡者を生み出しているという。金力と権力を祭壇とする彼らにとって、人のいのちや自然など何の値打ちもない。
▼自然の復権―パチャママ法の実現
故郷を奪われ、焼け石に水の僅かな賠償金で棄民され、誤魔化しの線量基準でモルモットにされている福島県民が、もし、「故郷の自然を守り」自然と共に生きる生業が最優先され、放射性物質や化学物質を排出する自然を汚染する事業は禁じられ、責任者は処罰されるという法律が施行されたなら、「天佑」として歓迎することだろう。
アイヌ民族にしかるべく狩漁権や土地が返還され、旧被差別部落民や貧農や在日朝鮮人に優先的に土地が配分され、琉球人民の独立権が確立し安保条約・地位協定が廃棄されて、米軍基地を日本全国から全面的に撤退させたなら、どれほど多くの人たちが日本という「国」に希望をもつだろう。さらに、敵をつくらず歓待の精神に充ち溢れている先住民族の知恵が生かされて、北朝鮮との国交が樹立され、日本軍「慰安婦」や強制連行被害者はもちろん明治以降の周辺諸国への侵略行為に謝罪と和解と補償の政策が実施されるなら、どうじに戦争責任・戦後責任にかかわる在日朝鮮人・中国人、原爆被爆者、空襲被災者たちと、水俣病など多くの公害犠牲者たちにも同様の謝罪と和解と補償の政策が実施されるなら、そのときこそ日本民族の未来に本当に新しい一ページが開かれることになるのかもしれない。(とうぜん法人税・累進税の大幅変更、最低賃金底上げ、医療および老後の完全保障、労働時間の大幅縮減など制度的住民救済が必須であるがここでは触れない。)
福島原発事故の経験から圧倒的多数の人々は、国家というものは信用ならぬものであり、人間は自然に依存しなくては生きていけないという二つのこと思い知らされた。避難を余儀なくされた、あるいは避難か残留か帰村か棄郷かの逡巡を日常的に強いられている200万の福島県民だけではなく、日本列島に住まうあらゆる人々が海洋、山林、河川、湖沼の汚染の測り知れぬ脅威を前に、いま自然そのものの毀損に懼れ慄いている。
「理性の営みは、地のエレメントの逆襲によって破綻する」とヘーゲルが言ったそうだ。自然を支配することに人間の主体・主権をみたヨーロッパ近代なるものの限界が唱えられて久しい。人間の産業活動、核軍事力をともなう国家活動の制限は各国憲法によってもいまだ道半ばであって、その国家に庇護された資本の自由放任は依然、地球上各地で自然破壊、人権破壊の猛威を振るっている現状だ。
原発は、自然界全体に放射性物質を撒き散らすことによって人間のみならず全生命システムを不可逆的に毀損攪乱する。ことは人間の身勝手な費用対効果(リスクベネフィット、コストベネフィット)論をはるかに超えて、自然とともに生きる人間の基本的なあり方の攪乱と破壊である。世界の最貧国のひとつ多民族国家ボリビアの試みに着目してみたい。
昨年10月、ボリビアのエボ・モラレス大統領は、「パチャママ(母なる大地)法」の施行を全世界に公表した。ひとつの生命体としての「パチャママ」(母なる大地)を神聖なものととらえ、この大地とともに調和して生きる生物の「共通の利益」を最優先にするという立法である。生命とその再生という自然のバランス・システムを擁護するため生物多様性を尊重し、遺伝子組み換え作物は禁じられ、清浄な水と空気の保障、人間活動の影響からの回復、放射性物質や毒性化学物質による汚染からの自由に対する権利などが、「地球(母なる大地)」に与えられることになる。
権利の主体は自然であり、人間活動から自然環境を守ることに法の主眼がある。先住民族の知恵に裏付けられたその哲学は、一言でいえば「人間は自然の一部」であり自然によってこそ「よく生きる」ことができるという原理である。自然を破壊する資本の開発に抗して、自然と調和して「よく生きる」ための「母なる大地法」として提案されたものである。この法案は、2010年4月にボリビアで開催された「気候変動にかんする世界民衆会議」のために、ボリビアの36の先住民族グループすべてと300万人以上を代表している広範な主要社会運動組織5団体が草案を準備したもので、2011年12月に議会で承認され、2012年10月15日エボ・モラレス大統領によって公布された。
▼倫理と希求を押し潰してきたサムライ日本
それにしても、これほどまでに嘘と誤魔化し、隠蔽と策術に長けた日本人とは何であろうかと思ってしまう。政府と原子力ムラの意向を最優先に報じるメディアの「大本営発表」はたびたび揶揄されてきたし、科学と科学者の信用を失墜させた御用学者の誤魔化しも白日の下に晒された。こうした奸策は、はたしていつごろから日本人に定着したものなのか。
いまだに「維新」をありがたがる風潮は跡を絶たないが、黒船到来から西南戦争の内乱、そして明治憲法の成立にいたるサムライたちの権力闘争とその民衆統治には姦策が付き物だった。アイヌモシリと琉球の植民地化、江華島事件にはじまる対外侵略の過程では目を覆うばかりの、民衆を虫けらのように犠牲にして怪しまない奸計、姦策、陰謀、謀略の歴史が敗戦まで続く。
これらの姦策、奸計は、敗戦直後の昭和天皇自ら保身濃厚な沖縄無期限貸与発言を含めて、支配層の常套手段であったばかりではない。数多の軍人、官吏、一般市民の卑劣な奸計行為が日本人の他民族支配の本質をなしてきた。その具体的事例は、例えば朝鮮半島支配の実態、強制連行、軍「慰安婦」、関東大震災時における朝鮮人虐殺のデティールを見れば明らかである。帝国軍隊はさながら人殺しの道場のようであったとしても、戦場に駆り出された兵士たちの目に余る蛮行も一人一人の人間が行ったことだし、強制連行も、軍慰安婦の調達、隠匿、使役、その後の隠蔽も、日本人民衆が関わる制度的な奸策なしには為されなかった。戦後憲法制定時の人民規定を「国民」に限定したのも在日朝鮮人排除を念頭においたものであったし、今日の高校無償化不適用の画策にいたるまで、朝鮮人に対する一貫したあの手この手の差別排除の行為は行政権力だけでなくそれに関わる国家・地方公務員および支持する市民の共犯あってのこと。しかもデティールを見れば明らかな姦策、悪巧みを自民族の行為として直視し謝罪したくないものだから、フォーカスをボカしてはついには「なかったことにする」という他者に対する倫理的欺瞞と卑劣さ、ここに日本人の特質があると言わざるをえない。それを覆い隠す象徴的遺物はなんといっても天皇と軍隊と靖国神社であろう。高橋哲哉氏は、靖国=沖縄=福島を犠牲のシステムと呼ぶ。
日本人の倫理を考えるときもっとも困難で重要なことは、いったん民衆から自生した倫理的審査要求が国家形成に継承されることもなく徹底的に押し潰されたことである。幕末からの数多の百姓一揆を引き継いだ自由民権運動から田中正造をへて幸徳秋水に至るまでことごとく弾圧され押し潰され小林多喜二の虐殺に行き着く暗黒の歴史によって、日本人の民衆倫理はついに国家や天皇を超える自立したものにはならなかった。倫理を教導するはずの諸宗教は、ことごとく教義をねじまげて戦争協力になびいた。
ところで武勇を奉るエートスは、維新のはるか昔から和人の表の顔でもあった。神武以来8代の天皇に武がつくという逸話もさることながら、坂上田村麻呂の征夷によって謀殺されたアテルイとモレの話はじつに9世紀初頭の話である。コシャマインもシャクシャインも和合を偽っての謀殺である。秀吉の東北アジア征服構想による鼻塚・耳塚はいまも京都にあるが、クナシリ・メナシ惨殺後の塩漬けの話は知らない人が多い。アイヌの記憶に耳を傾けると幕末のイシカリ浜民族浄化から明治の土人扱いにいたるまで、和人および日本人の卑劣、野蛮、非道は、その後につづく琉球人、朝鮮人、中国人に対しても同様、標本のように並んでいる。西洋に媚を売る新渡戸稲造は武士道を美化したが、「勝つためには手段をえらばず」、敵に打ち勝ち自分の身内一族郎党のためには姦策・謀略何をしてもよいというのが武士道の本義だった。無論サムライはオトコ社会であって、女性は最初から隷属排除されてきた。非倫理の下手人は天皇はじめすべてオトコであった。こうしたサムライのモラルは利益を目指す企業人エートスに接ぎ木され、武勇は受験、スポーツ、企業競争へのエネルギーとして肉体化され身内への集団主義的貢献、保身と栄達のための克己に転化してきた。
そうした国家体制そのものは、敗戦によって清算されたかに見えた。日本国憲法の倫理的自己批判が、このような精神構造を廃棄させたかに見えた。しかし原子力ムラの強固な布陣が見せているのは、国家制度全体が巨大独占資本に乗っ取られているということだ。60年もの自民党支配のもとで網の目のような資本系列に加え中央地方の行政組織が利益誘導の潤滑油となって、ほとんどあらゆる企業、労働組合までもが国策誘導になびくシステムになっている。大は資本の海外進出から小は地域の土建屋まで、どんな小さな企業や組織で働こうとも企業・組織への貢献は国家社会への貢献に連動して無意識化される。だから、無批判な「サムライニッポン」の掛け声が、「絆」がそのまま動員の原動力にもなる。維新によってビルトインされたサムライの魂は、しっかり生きている。
ここでは、個々人の「倫理的重心(魂の重心)」は毎日のメシをあてがってくれる「組織の恩恵」を超えるものであってはならず、それは容易に「国家の恩恵」に拡延されて多くの市民が「国家・組織に依存する個」を脱却できずにいる。こうして組織的隠蔽が正当なものとして扱われ、制度的犯罪、国家犯罪が横行してしまう構造になっているのではないか。オキナワもフクシマも巨大な国家犯罪である。例えば、隠蔽を暴くはずのメディアの報道犯罪をメディア自身が暴くことができない。カネに縛られている地方自治体も住民本位に出来ない。企業や組織に個人の倫理を表現する場はなく、表現したものは組織から排除される。国家の嘘、組織の嘘は、同胞の嘘であって、許容し合うというムラやサムライの倫理が司法の頂点まで残存支配しているように思える。国家・組織に忠誠を尽くし貢献することによって日々の安楽と将来の保障を対価とし受け取る構造は、戦前の一枚岩的な国家主義の構造と基本的には変わらない。朝鮮統治時代や南京虐殺最中の当時の新聞をみると、「安楽全体主義」が粛々と生きていたことがわかる。
こうして対外的な奸計、姦策、陰謀、謀略に対するに、対内的な「国家・組織への忠誠」「仲間への監視」というサムライの倫理パターンが受け継がれてきた。戦前戦後と一貫しているこの倫理無き倒錯は、絶えず武人としての克己振る舞いを正当化することを属性としている。簡単に言うといつも自分を「よい子」に扱っていたがる。この自己正当化は、自民族中心主義の温床となって生きている。
明治以降の他民族支配の歴史をけろりと忘れ責任ある謝罪も賠償もなく「平和愛好国民」と思い込む。かつての「一大家族国家」の残影からすぐに「絆」に「領土防衛」に踊らされる。「組織への忠誠」こそ倫理だと思い込むところから、組織全体が加害者になっていることにも目を塞ぐ。自分自身が加害者の一端を担っているということにも目を塞ぎ心を閉ざす。直近の見本は、がれき処理に反対して不当逮捕された大阪の下地真樹准教授の「学生のみなさんへ」を読めば明らかだ。犯罪を取り締まる警察と検察という組織そのものが犯罪を犯し共犯者を生み出している。組織中心の閉鎖的な視野狭窄世界こそ、島国ニッポンの安楽な居場所となる。
例えば、米国批判の論調にも無意識に「よい子」があらわれている。オキナワにせよ、TPPにせよ、F35にせよ、その都度「日米同盟」への従属が、米国の誘導が指摘される。だが肝心の日本の権力中枢、巨大独占資本の野望と実態はいつも隠されている。日本の中枢の要望無しには果たされ得ないのに。アメリカが悪いのでなく(無論世界に冠たる悪だが)日本人が悪いのだ、とは思いたくない。自己を、身内を、抉ることができない。
こうした組織への忠誠と自己肯定が日本人と日本社会の根底にあって、この土壌の上に排外主義と敵視政策が連綿と続けられてきたといえる。朝鮮学校無償化排除が決定し、このたびの核実験後は、北朝鮮への偏見とバッシングはさらに一層強まろう。(米韓日の核脅迫外交で封じ込め、戦後一貫して足蹴にしてきた事実に頬かむりして倫理無き日本人は怒る。)それに乗じて日本の軍事拡大化に拍車がかかろう。その準備ともいえるあからさまな情報遮断の秘密保全法が危ぶまれている。ハンナ・アーレントは、「国家のドグマを受け容れようとしない者、あるいは何らかの理由から教化の対象から除外されている者すべてに対する、婉曲で間接的な脅迫…ここにはすでに、全体主義テロルの完全に発達した最終段階が顔をのぞかせている」と指摘する。
戦前の対外的な責任を回避する方法は戦争であった。戦後は米国の核の傘のもとで札束で責任を回避し、経済の触手が中東、アフリカ、ユーラシアに広がってきたいま、再び軍事力で解決しようとしているのが倫理無き国家の有様である。過去の遺伝子から容易に全体主義の軍事国家になるだろう。中国だ、北朝鮮だと、絶えず「敵」をつくっては「敵」に立ち向かうサムライ倫理にぴったりと符合する。
しかし心ある日本人の魂は引き裂かれ、「諦め」を乗り越えて魂の安寧を保つことは並大抵ではない。安子ちゃんのように真摯な反省が魂を浄化させ新たな倫理的人格を獲得するという努力は、日本のような社会では容易なことではない。
みなが、「生活」を奪われないために善意を「誤魔化して生きる」生活を強いられる。そんな卑怯な生き方が出来ないものは、結局、企業や組織から一抜けたというところで自然農法などで没社会的に生きるか、家庭と立身を犠牲にして市民運動に飛び込むか、はたまた幸徳や多喜二のように死を賭してでも闘わなければ倫理に忠実に生きることが出来ない、というところに追い込まれているのが、倫理無き国家の民衆の在り様なのではないか。国家から独立した個、国家や組織の向こうにある生身の他者がかかわっている歴史や未来に対する責任という倫理本来の在り方を多くの市民が身に着けることが出来なくなっている。この制度全体を支えている、飼い馴らされ抵抗もしない中心部日本国民の変革無くして、日本民族の未来はむなしい。
▼嘘と誤魔化しの現実
この二年間の東電や政府の対応をみると、そのウソには目に余るものがある。最初から情報を正確に伝えないばかりか、事故当初のようにSPEEDI情報の隠蔽や安定ヨウ素剤配布義務の不履行の最中で「ただちに影響はありません」などという言い訳で誤魔化す手法が、その後常套手段になってしまった。例えば飯館村モニタリングポストのように、その地点だけ除染してコンクリートで覆って線量を低くしている策術。75パーセントは山林に囲まれる飯館村はいくら除染しても線量はすぐ戻る。しかし村長は一年以内の住民の帰村を計画しているという。こういう類の制度的誤魔化し、システムによる欺きが行政施策として横行しているのが日本の倫理的現在である。
思いつくままに挙げると、住民被害の最小化を最優先するより原子炉施設と政権の存続を考えた東電と政府の初期対応。その後も一貫している住民のいのちと健康を最優先にしない国と地方の行政姿勢。はなから差別と誤魔化しを制度化している電源三法交付金と総括原価方式。事故責任、賠償責任回避のためのメディアによる巨大な過小評価戦術および人心管理システム。より具体的には汚染線量基準引き上げと海洋、湖沼、河川、山林、および生物濃縮の詳細な被曝線量調査報告義務の意図的不履行。同じことだが自己決定可能な情報提供と補償も賠償もない棄民政策。大地の汚染を無主物と言い張る欺瞞と厚顔。中学生でもわかる食物連鎖と生物濃縮という機制を「希釈」と偽って隠蔽する言説操作の類。希釈拡散禁止という国際合意に反する汚染食品流通やがれき処理の拡散。移染でしかないものを除染と欺き、大手ゼネコンに復興予算が還流する除染や広域がれき処理のシステム。チェルノブイリを超える避難基準の線量引き上げと汚染実態と見合わない区域設定。御用学者とメディアが誘導する一貫した内部被曝の軽視ないしは無視と表裏一体の「安全安心」再誘導、司法もこれに追随。具体的には、放射線核種からの細胞破壊、DNA損傷による心臓疾患、免疫障害、死産、奇形など数多の健康障害の実例を挙げずに、賠償訴訟の困難が目に見えている原因を確定できないがん疾患にのみ特定して「安全」を説く常套戦術。診療せずに「県民健康調査」という誤魔化し。隠蔽のための非診療と非公開。「線量計細工」など無法無権利のまま放置されている大量被曝で使い捨ての原発労働者。活断層など地震の温床を無視する再稼動の準備。事故のない通常稼動でも温排水、放射線核種排出、原発労働の危険性など変わらぬ隠蔽。推進派でかためられた規制庁トップは国民を規制・弾圧する元警察官僚。三基の原発がメルトダウンした史上最悪の惨事が進行中に加え、4号機の使用済み燃料プールが瓦解する一触即発の状況だというのに「収束宣言」。原発の永続化と核兵器の製造可能性に密接に結びついている「すでに破綻している」再処理技術と核燃サイクルへの固執。10万年も100万年も誰も責任など取れないのに、嘘と誤魔化しと欺きの核廃棄物処理、等々。原発を存続させるとしたら、これらの嘘と誤魔化しもまた何十万年も続くことになるのだろう。
圧倒的市民の怒りは、脱原発運動に糾合した。しかし民衆の怒り、「再稼動反対」の叫びは、「脱」原発というエネルギー政策転換の要求をはるかに超えて、蔓延する「嘘と誤魔化しはもうたくさんだ」という民衆の倫理的叫びであった、と私は思う。
これほどの惨事を招きながら誰一人責任を問われず逮捕も処罰もされない法治国家があるだろうか。厳しい責任を問うことこそ、未来への一歩である。現在、東電の事故責任と政府および関係機関の隠蔽・不正の刑事責任を問う告訴・告発が福島原発告訴団によってなされている。またこれに先立って、子どもたちの緊急疎開を求めるふくしま集団疎開裁判も進行中である。脱原発運動とこれらの訴訟が車の両輪となって責任を問い続けることを願っているが、国家責任、企業責任を民衆の立場で裁いてこなかった日本の司法には残念ながら多くを期待できない。事故前から「この国の未来のために、人類の未来のために、原発を止める責任があります」とはじまった脱原発運動が、こんどこそ「責任者の責任を追及する」運動へと深化することを望みたい。チューインガムを盗んでも、他者と自己への厳しい責任追及を果たすことこそ人間になる条件なのだから。
また、日本政府と電力会社が「国際的に合意されている科学的知見」だとして隠蔽と過小評価の拠り所としている国際機関IAEAおよびICRPにも触れなければならない。とりわけチェルノブイリ以降、IAEAおよびICRPによる国策と事業者利益優先の見解およびリスク基準は、内部被曝による多様な健康障害を無視し被害住民に被曝受忍を強制している各国の棄民政策の後ろ盾になっている。これら国際原子力ムラの出先機関は、WHOやUNSCEARの手足を縛り放射線障害の研究および疫学調査を著しく遅滞させ、遺伝子学、分子生物学の知見を無視して、遺伝子、細胞、臓器の各レベル、胎児も幼児も妊婦も同じ平均化数値を「リスク基準」とすることによって、内部被曝によるさまざまな放射線障害の症例を出来させている現実を隠蔽し、受忍強制と棄民政策を放置している。このような、原子力産業を推進し核兵器管理体制を支えている米英仏露など安保理核大国の伏魔殿が控えていることも視野におかなければならない。このIAEAが国際原子力産業のために、いまフクシマの幕引きを画策している。
ついでに言えば、人道支援と民主主義の伝道師、警察官のような顔をしたこの核安保理大国は、最近でもアフガニスタン、イラク、リビア、シリアと内外から武器を供給しては内乱を呼び起こし何十万、何百万人もの人々を虐殺しては避難民に追いやり、国家をぐちゃぐちゃに破壊しても平気である。イラン、北朝鮮へと続かないことを祈る。同時にこれらの核保有管理国は核廃絶を先延ばしにしながら、稼動中の原発427基、建設・計画中も含めると596基の原発を全世界で存続推進しようとしている。ECRRの試算によると、核実験および通常稼動の原発から放出された人工放射能によって、すでに6000万人以上のがん死亡者を生み出しているという。金力と権力を祭壇とする彼らにとって、人のいのちや自然など何の値打ちもない。
▼自然の復権―パチャママ法の実現
故郷を奪われ、焼け石に水の僅かな賠償金で棄民され、誤魔化しの線量基準でモルモットにされている福島県民が、もし、「故郷の自然を守り」自然と共に生きる生業が最優先され、放射性物質や化学物質を排出する自然を汚染する事業は禁じられ、責任者は処罰されるという法律が施行されたなら、「天佑」として歓迎することだろう。
アイヌ民族にしかるべく狩漁権や土地が返還され、旧被差別部落民や貧農や在日朝鮮人に優先的に土地が配分され、琉球人民の独立権が確立し安保条約・地位協定が廃棄されて、米軍基地を日本全国から全面的に撤退させたなら、どれほど多くの人たちが日本という「国」に希望をもつだろう。さらに、敵をつくらず歓待の精神に充ち溢れている先住民族の知恵が生かされて、北朝鮮との国交が樹立され、日本軍「慰安婦」や強制連行被害者はもちろん明治以降の周辺諸国への侵略行為に謝罪と和解と補償の政策が実施されるなら、どうじに戦争責任・戦後責任にかかわる在日朝鮮人・中国人、原爆被爆者、空襲被災者たちと、水俣病など多くの公害犠牲者たちにも同様の謝罪と和解と補償の政策が実施されるなら、そのときこそ日本民族の未来に本当に新しい一ページが開かれることになるのかもしれない。(とうぜん法人税・累進税の大幅変更、最低賃金底上げ、医療および老後の完全保障、労働時間の大幅縮減など制度的住民救済が必須であるがここでは触れない。)
福島原発事故の経験から圧倒的多数の人々は、国家というものは信用ならぬものであり、人間は自然に依存しなくては生きていけないという二つのこと思い知らされた。避難を余儀なくされた、あるいは避難か残留か帰村か棄郷かの逡巡を日常的に強いられている200万の福島県民だけではなく、日本列島に住まうあらゆる人々が海洋、山林、河川、湖沼の汚染の測り知れぬ脅威を前に、いま自然そのものの毀損に懼れ慄いている。
「理性の営みは、地のエレメントの逆襲によって破綻する」とヘーゲルが言ったそうだ。自然を支配することに人間の主体・主権をみたヨーロッパ近代なるものの限界が唱えられて久しい。人間の産業活動、核軍事力をともなう国家活動の制限は各国憲法によってもいまだ道半ばであって、その国家に庇護された資本の自由放任は依然、地球上各地で自然破壊、人権破壊の猛威を振るっている現状だ。
原発は、自然界全体に放射性物質を撒き散らすことによって人間のみならず全生命システムを不可逆的に毀損攪乱する。ことは人間の身勝手な費用対効果(リスクベネフィット、コストベネフィット)論をはるかに超えて、自然とともに生きる人間の基本的なあり方の攪乱と破壊である。世界の最貧国のひとつ多民族国家ボリビアの試みに着目してみたい。
昨年10月、ボリビアのエボ・モラレス大統領は、「パチャママ(母なる大地)法」の施行を全世界に公表した。ひとつの生命体としての「パチャママ」(母なる大地)を神聖なものととらえ、この大地とともに調和して生きる生物の「共通の利益」を最優先にするという立法である。生命とその再生という自然のバランス・システムを擁護するため生物多様性を尊重し、遺伝子組み換え作物は禁じられ、清浄な水と空気の保障、人間活動の影響からの回復、放射性物質や毒性化学物質による汚染からの自由に対する権利などが、「地球(母なる大地)」に与えられることになる。
権利の主体は自然であり、人間活動から自然環境を守ることに法の主眼がある。先住民族の知恵に裏付けられたその哲学は、一言でいえば「人間は自然の一部」であり自然によってこそ「よく生きる」ことができるという原理である。自然を破壊する資本の開発に抗して、自然と調和して「よく生きる」ための「母なる大地法」として提案されたものである。この法案は、2010年4月にボリビアで開催された「気候変動にかんする世界民衆会議」のために、ボリビアの36の先住民族グループすべてと300万人以上を代表している広範な主要社会運動組織5団体が草案を準備したもので、2011年12月に議会で承認され、2012年10月15日エボ・モラレス大統領によって公布された。
▼倫理と希求を押し潰してきたサムライ日本
それにしても、これほどまでに嘘と誤魔化し、隠蔽と策術に長けた日本人とは何であろうかと思ってしまう。政府と原子力ムラの意向を最優先に報じるメディアの「大本営発表」はたびたび揶揄されてきたし、科学と科学者の信用を失墜させた御用学者の誤魔化しも白日の下に晒された。こうした奸策は、はたしていつごろから日本人に定着したものなのか。
いまだに「維新」をありがたがる風潮は跡を絶たないが、黒船到来から西南戦争の内乱、そして明治憲法の成立にいたるサムライたちの権力闘争とその民衆統治には姦策が付き物だった。アイヌモシリと琉球の植民地化、江華島事件にはじまる対外侵略の過程では目を覆うばかりの、民衆を虫けらのように犠牲にして怪しまない奸計、姦策、陰謀、謀略の歴史が敗戦まで続く。
これらの姦策、奸計は、敗戦直後の昭和天皇自ら保身濃厚な沖縄無期限貸与発言を含めて、支配層の常套手段であったばかりではない。数多の軍人、官吏、一般市民の卑劣な奸計行為が日本人の他民族支配の本質をなしてきた。その具体的事例は、例えば朝鮮半島支配の実態、強制連行、軍「慰安婦」、関東大震災時における朝鮮人虐殺のデティールを見れば明らかである。帝国軍隊はさながら人殺しの道場のようであったとしても、戦場に駆り出された兵士たちの目に余る蛮行も一人一人の人間が行ったことだし、強制連行も、軍慰安婦の調達、隠匿、使役、その後の隠蔽も、日本人民衆が関わる制度的な奸策なしには為されなかった。戦後憲法制定時の人民規定を「国民」に限定したのも在日朝鮮人排除を念頭においたものであったし、今日の高校無償化不適用の画策にいたるまで、朝鮮人に対する一貫したあの手この手の差別排除の行為は行政権力だけでなくそれに関わる国家・地方公務員および支持する市民の共犯あってのこと。しかもデティールを見れば明らかな姦策、悪巧みを自民族の行為として直視し謝罪したくないものだから、フォーカスをボカしてはついには「なかったことにする」という他者に対する倫理的欺瞞と卑劣さ、ここに日本人の特質があると言わざるをえない。それを覆い隠す象徴的遺物はなんといっても天皇と軍隊と靖国神社であろう。高橋哲哉氏は、靖国=沖縄=福島を犠牲のシステムと呼ぶ。
日本人の倫理を考えるときもっとも困難で重要なことは、いったん民衆から自生した倫理的審査要求が国家形成に継承されることもなく徹底的に押し潰されたことである。幕末からの数多の百姓一揆を引き継いだ自由民権運動から田中正造をへて幸徳秋水に至るまでことごとく弾圧され押し潰され小林多喜二の虐殺に行き着く暗黒の歴史によって、日本人の民衆倫理はついに国家や天皇を超える自立したものにはならなかった。倫理を教導するはずの諸宗教は、ことごとく教義をねじまげて戦争協力になびいた。
ところで武勇を奉るエートスは、維新のはるか昔から和人の表の顔でもあった。神武以来8代の天皇に武がつくという逸話もさることながら、坂上田村麻呂の征夷によって謀殺されたアテルイとモレの話はじつに9世紀初頭の話である。コシャマインもシャクシャインも和合を偽っての謀殺である。秀吉の東北アジア征服構想による鼻塚・耳塚はいまも京都にあるが、クナシリ・メナシ惨殺後の塩漬けの話は知らない人が多い。アイヌの記憶に耳を傾けると幕末のイシカリ浜民族浄化から明治の土人扱いにいたるまで、和人および日本人の卑劣、野蛮、非道は、その後につづく琉球人、朝鮮人、中国人に対しても同様、標本のように並んでいる。西洋に媚を売る新渡戸稲造は武士道を美化したが、「勝つためには手段をえらばず」、敵に打ち勝ち自分の身内一族郎党のためには姦策・謀略何をしてもよいというのが武士道の本義だった。無論サムライはオトコ社会であって、女性は最初から隷属排除されてきた。非倫理の下手人は天皇はじめすべてオトコであった。こうしたサムライのモラルは利益を目指す企業人エートスに接ぎ木され、武勇は受験、スポーツ、企業競争へのエネルギーとして肉体化され身内への集団主義的貢献、保身と栄達のための克己に転化してきた。
そうした国家体制そのものは、敗戦によって清算されたかに見えた。日本国憲法の倫理的自己批判が、このような精神構造を廃棄させたかに見えた。しかし原子力ムラの強固な布陣が見せているのは、国家制度全体が巨大独占資本に乗っ取られているということだ。60年もの自民党支配のもとで網の目のような資本系列に加え中央地方の行政組織が利益誘導の潤滑油となって、ほとんどあらゆる企業、労働組合までもが国策誘導になびくシステムになっている。大は資本の海外進出から小は地域の土建屋まで、どんな小さな企業や組織で働こうとも企業・組織への貢献は国家社会への貢献に連動して無意識化される。だから、無批判な「サムライニッポン」の掛け声が、「絆」がそのまま動員の原動力にもなる。維新によってビルトインされたサムライの魂は、しっかり生きている。
ここでは、個々人の「倫理的重心(魂の重心)」は毎日のメシをあてがってくれる「組織の恩恵」を超えるものであってはならず、それは容易に「国家の恩恵」に拡延されて多くの市民が「国家・組織に依存する個」を脱却できずにいる。こうして組織的隠蔽が正当なものとして扱われ、制度的犯罪、国家犯罪が横行してしまう構造になっているのではないか。オキナワもフクシマも巨大な国家犯罪である。例えば、隠蔽を暴くはずのメディアの報道犯罪をメディア自身が暴くことができない。カネに縛られている地方自治体も住民本位に出来ない。企業や組織に個人の倫理を表現する場はなく、表現したものは組織から排除される。国家の嘘、組織の嘘は、同胞の嘘であって、許容し合うというムラやサムライの倫理が司法の頂点まで残存支配しているように思える。国家・組織に忠誠を尽くし貢献することによって日々の安楽と将来の保障を対価とし受け取る構造は、戦前の一枚岩的な国家主義の構造と基本的には変わらない。朝鮮統治時代や南京虐殺最中の当時の新聞をみると、「安楽全体主義」が粛々と生きていたことがわかる。
こうして対外的な奸計、姦策、陰謀、謀略に対するに、対内的な「国家・組織への忠誠」「仲間への監視」というサムライの倫理パターンが受け継がれてきた。戦前戦後と一貫しているこの倫理無き倒錯は、絶えず武人としての克己振る舞いを正当化することを属性としている。簡単に言うといつも自分を「よい子」に扱っていたがる。この自己正当化は、自民族中心主義の温床となって生きている。
明治以降の他民族支配の歴史をけろりと忘れ責任ある謝罪も賠償もなく「平和愛好国民」と思い込む。かつての「一大家族国家」の残影からすぐに「絆」に「領土防衛」に踊らされる。「組織への忠誠」こそ倫理だと思い込むところから、組織全体が加害者になっていることにも目を塞ぐ。自分自身が加害者の一端を担っているということにも目を塞ぎ心を閉ざす。直近の見本は、がれき処理に反対して不当逮捕された大阪の下地真樹准教授の「学生のみなさんへ」を読めば明らかだ。犯罪を取り締まる警察と検察という組織そのものが犯罪を犯し共犯者を生み出している。組織中心の閉鎖的な視野狭窄世界こそ、島国ニッポンの安楽な居場所となる。
例えば、米国批判の論調にも無意識に「よい子」があらわれている。オキナワにせよ、TPPにせよ、F35にせよ、その都度「日米同盟」への従属が、米国の誘導が指摘される。だが肝心の日本の権力中枢、巨大独占資本の野望と実態はいつも隠されている。日本の中枢の要望無しには果たされ得ないのに。アメリカが悪いのでなく(無論世界に冠たる悪だが)日本人が悪いのだ、とは思いたくない。自己を、身内を、抉ることができない。
こうした組織への忠誠と自己肯定が日本人と日本社会の根底にあって、この土壌の上に排外主義と敵視政策が連綿と続けられてきたといえる。朝鮮学校無償化排除が決定し、このたびの核実験後は、北朝鮮への偏見とバッシングはさらに一層強まろう。(米韓日の核脅迫外交で封じ込め、戦後一貫して足蹴にしてきた事実に頬かむりして倫理無き日本人は怒る。)それに乗じて日本の軍事拡大化に拍車がかかろう。その準備ともいえるあからさまな情報遮断の秘密保全法が危ぶまれている。ハンナ・アーレントは、「国家のドグマを受け容れようとしない者、あるいは何らかの理由から教化の対象から除外されている者すべてに対する、婉曲で間接的な脅迫…ここにはすでに、全体主義テロルの完全に発達した最終段階が顔をのぞかせている」と指摘する。
戦前の対外的な責任を回避する方法は戦争であった。戦後は米国の核の傘のもとで札束で責任を回避し、経済の触手が中東、アフリカ、ユーラシアに広がってきたいま、再び軍事力で解決しようとしているのが倫理無き国家の有様である。過去の遺伝子から容易に全体主義の軍事国家になるだろう。中国だ、北朝鮮だと、絶えず「敵」をつくっては「敵」に立ち向かうサムライ倫理にぴったりと符合する。
しかし心ある日本人の魂は引き裂かれ、「諦め」を乗り越えて魂の安寧を保つことは並大抵ではない。安子ちゃんのように真摯な反省が魂を浄化させ新たな倫理的人格を獲得するという努力は、日本のような社会では容易なことではない。
みなが、「生活」を奪われないために善意を「誤魔化して生きる」生活を強いられる。そんな卑怯な生き方が出来ないものは、結局、企業や組織から一抜けたというところで自然農法などで没社会的に生きるか、家庭と立身を犠牲にして市民運動に飛び込むか、はたまた幸徳や多喜二のように死を賭してでも闘わなければ倫理に忠実に生きることが出来ない、というところに追い込まれているのが、倫理無き国家の民衆の在り様なのではないか。国家から独立した個、国家や組織の向こうにある生身の他者がかかわっている歴史や未来に対する責任という倫理本来の在り方を多くの市民が身に着けることが出来なくなっている。この制度全体を支えている、飼い馴らされ抵抗もしない中心部日本国民の変革無くして、日本民族の未来はむなしい。
いま日本人は、露呈されたこの「どうしようもないオカシサ」の前にたじろいでいる。日本人全体が「ダメになっている」とささやかれている。仮に一人一人がおかしくなくとも、15世紀のヒエロニムス・ボスが描いたように全体の構図においては普通の顔の人々が超現実の地獄絵に収まる世界が呼び起こされる。あるいは我が子を喰らうサトゥリヌスを描いたゴヤが…。
▼希望は自然と共に―責任倫理と民族形成の課題
子どもが外で遊べない、海で泳げない、川遊びができない、野山をかけっこできない、魚や貝が食べられない、食べ物、空気、飲み水、住まい、触れるものすべてがいつも不安だ。人類史上、こんなことがあっただろうか。大地に抱かれていた自然への帰属感が根底から揺らいでいる。
事故後の8月、福島県二本松市のゴルフ場が除染を求めて東電を提訴した。それに対して東電が「無主物」に対する責任は負えないと反論し話題となった。言うまでもなく天然自然には誰も所有者がいないというローマ帝国以来の「無主の地(Terra Nullius)」を逆手に取った責任逃れである。挙証責任を被害者になすりつける卑怯な便法である。
この「無主地」に由来する「先占(Occpatio)」は、世界各地の先住民族を除外し敵視したわずかな国家間の「国際法」となった。自然支配と人間の虐殺・奴隷化・隷属化、さらに人権の剥奪・侵害が必然的に交差している原型は、日本列島でサムライの犠牲となったアイヌを含め世界いたるところの先住民族の記憶に刻まれている。先住民は野蛮人で征服されるべきものというキリスト教起源の観念はシェイクスピアにも正直に描かれている。この、対イスラームにはじまったカトリック、さらにプロテスタント国に引き継がれた大規模な植民地時代が、今日の「近代」をつくった。しかし未知の自然と異民族は神が人間に委託した被造物であり征服支配の対象などとは考えないイスラームは、この「無主地先占」には与しなかった。西洋植民地主義を可能にしたこの地球支配の戦略は、「自然」への身勝手な定義によってヴァリエーションを変えて続いている。すなわち、未知の生命体の知的所有権として、遺伝子組み換えの新しい経済支配として。そして原発と核兵器という核開発による、人工放射線核種を全地球に拡散しても「自然」には所有権がないと責任を回避する方便として、人間と自然の汚染と破壊と収奪は現在も続いている。
今回の「無主物」発言は、はからずも核時代において、数百年も続いてきた植民地主義の継続と資本のグローバリズムが告白されているわけだ。核を軍事と産業の基軸に据えた現代は、科学と技術の限界というよりも資本・国家と結合したそのあり方が限界点に達したと見るべきであろう。
とりわけ自然の恩恵を被ってきた日本は、「公害列島」および「列島改造」によって罰当たりなほどに自然を毀損・破壊してきた民族であって、さらにフクシマ後「放射能汚染列島」にしてしまった罪は途方もなく深く重い。日本の人民は、サムライの夷狄征伐、天皇国家の対外侵略、さらに敗戦後の自然破壊の経済一辺倒という二重三重の過去の非倫理を乗り越えて未来を展望しなければならい。
責任とか倫理とかモラルなどと何と迂遠な話を、とお叱りを受けるかもしれない。しかし倫理とは、過去と未来の歴史を見据えた、たえず現在にかかわる実存的態度決定のことである。決断とは断つことである。
福島の事故後、脱原発へと大きく舵を切ったドイツの倫理委員会共同委員長マティアス・クライナー氏はつぎのように語った。「私はひとりの父親として自問自答しました。大量の廃棄物を生み、巨大事故のリスクを抱えた技術を、利用して良いのだろうか、負の遺産を未来の世代に押しつけることが本当に許されるのだろうか、原発の是非は単なる経済の是非ではなく、倫理の問題として考えるべき課題なのです。」
倫理無き日本にはこうした委員会も委員長も不在であるが、ナチスを生み出したがゆえにドイツには強い知的伝統がある。カール・バルトからボンヘッファーにいたる告白教会の系譜やドイツ敗戦直後の罪責についてのカール・ヤスパースの思索などが背景にあってヴァイツゼッカー演説を導いたことはよく知られている。倫理的責任という応答可能性が、人間の無くてはならない本質だという認識がドイツおよびヨーロッパには根強くある。こういう普遍的言説空間あるいは精神性が社会的に共有されていない、デモや市民運動以外に共有の場がない、というところに日本人の大きな困難性があるといえる。碩学ヤコヴ・ラブキン氏は「みずからの政治について道徳的な問いかけを許容しない社会は必然的に腐敗した社会となる」と警告している。
事故後の日本では哲学者の高橋哲哉氏が、この責任について精力的に語っている。ヤスパースの罪責論を下敷きに、福島原発事故の①刑事上の罪、②政治上の罪、③道徳上の罪について的確に告発している。④番目の形而上の罪とは、通常一神教における「神の呼びかけ」に応答しない罪であるが、日本にも「天の恵み」に感謝する、あるいは反する行いなどの観念が古くからあった。
ユダヤ教、キリスト教、イスラームの一神教の聖書では、人間の織り成す歴史と天変地異に神意をみる格闘が描かれている。こうした伝統にあった人々の「形而上」という観念は、神意を帯びた意味性の領域であった。倫理とは、自然との営み、他者との応接、そして歴史や伝統に自己を位置付ける「意味と応答」をめぐる精神の営みであった。神意をどのように見るかはここでは問わないが、自然と他者とを自分のように尊重する伝統が日本にもあった。
例えば「真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし」と説いた田中正造、「森を守る事は人間の暮らしそのものを守る」と説いた南方熊楠、あるいは「循環と調和」というエコロジーを先駆的に説いた安藤昌益のように。そうした際立った達人もさることながら、地域の自然と仲間を守るために立ち上がった無名の農民一揆のダイナミズムに日本人の倫理の根源があるような気がしてならない。戦後も自然と地域の内発性の再発見あるいは森と里の思想など日本の自然と伝統の知恵から近代を超える提言が続けられている。自然の多様性に包まれて生きてきた東アジアモンスーン地帯でこそ、自然の復権に豊かな未来の可能性が潜んでいるのではないか。
ついでに言えば、人類はカメラや自動車を食って生きるわけにはいかない。世界諸民族の生存は、まずもって農水畜産の恩恵なしには立ち行かない。産業革命以降の囲い込まれた工場での賃金労働と投機を主とした「一部文明国」の経済から、自然に帰属し自然と共に歩む「人類史的」な経済が土台にならなければならない。福島事故の最初の犠牲者が、牛と共に生きてきた畜産農家であったことは痛ましくも象徴的な警告である。
日本にも近代法を超えた「母なる大地の法」が施行され、新しい倫理的審査基準をつくって人間と社会を形成し直すべきだ。自然との共生にもとづく人権の再定義が、企業法人の再定義が必要となろう。教科書も大幅に書き変えられよう。それはまた、倫理性を備えた日本民族の未来を選択することでもある。先住民族の世界観の復権をともなって、アイヌ、沖縄および周辺諸国民との和解と共生の道へとつながる。倫理の復権は、自然の復権にあると考える所以である。
私たちは、自然を失ったことの「形而上的な罪」をいまこそ考えなくてはならない。冒頭の安子ちゃんに代わって武藤類子さんが自然を毀損したことの謝罪からはじまる素晴らしい未来への言伝を残してくれた。彼女が、責任者を裁く告訴団の代表であることは心強い。繰り返すが、真摯な反省と謝罪、賠償がなくては、日本人はまっとうな倫理的人間になれない。そのために「裁き」は不可欠の関門である。革命はつづく…。
松元保昭(パレスチナ連帯・札幌)
元高校教師。ここ10年ほど「パレスチナ連帯・札幌」代表として、パレスチナ問題とアイヌ問題を結び付けて北海道で活動。3・11後は、反原発の立場で精力的に情報提供や発言をしている。
▼希望は自然と共に―責任倫理と民族形成の課題
子どもが外で遊べない、海で泳げない、川遊びができない、野山をかけっこできない、魚や貝が食べられない、食べ物、空気、飲み水、住まい、触れるものすべてがいつも不安だ。人類史上、こんなことがあっただろうか。大地に抱かれていた自然への帰属感が根底から揺らいでいる。
事故後の8月、福島県二本松市のゴルフ場が除染を求めて東電を提訴した。それに対して東電が「無主物」に対する責任は負えないと反論し話題となった。言うまでもなく天然自然には誰も所有者がいないというローマ帝国以来の「無主の地(Terra Nullius)」を逆手に取った責任逃れである。挙証責任を被害者になすりつける卑怯な便法である。
この「無主地」に由来する「先占(Occpatio)」は、世界各地の先住民族を除外し敵視したわずかな国家間の「国際法」となった。自然支配と人間の虐殺・奴隷化・隷属化、さらに人権の剥奪・侵害が必然的に交差している原型は、日本列島でサムライの犠牲となったアイヌを含め世界いたるところの先住民族の記憶に刻まれている。先住民は野蛮人で征服されるべきものというキリスト教起源の観念はシェイクスピアにも正直に描かれている。この、対イスラームにはじまったカトリック、さらにプロテスタント国に引き継がれた大規模な植民地時代が、今日の「近代」をつくった。しかし未知の自然と異民族は神が人間に委託した被造物であり征服支配の対象などとは考えないイスラームは、この「無主地先占」には与しなかった。西洋植民地主義を可能にしたこの地球支配の戦略は、「自然」への身勝手な定義によってヴァリエーションを変えて続いている。すなわち、未知の生命体の知的所有権として、遺伝子組み換えの新しい経済支配として。そして原発と核兵器という核開発による、人工放射線核種を全地球に拡散しても「自然」には所有権がないと責任を回避する方便として、人間と自然の汚染と破壊と収奪は現在も続いている。
今回の「無主物」発言は、はからずも核時代において、数百年も続いてきた植民地主義の継続と資本のグローバリズムが告白されているわけだ。核を軍事と産業の基軸に据えた現代は、科学と技術の限界というよりも資本・国家と結合したそのあり方が限界点に達したと見るべきであろう。
とりわけ自然の恩恵を被ってきた日本は、「公害列島」および「列島改造」によって罰当たりなほどに自然を毀損・破壊してきた民族であって、さらにフクシマ後「放射能汚染列島」にしてしまった罪は途方もなく深く重い。日本の人民は、サムライの夷狄征伐、天皇国家の対外侵略、さらに敗戦後の自然破壊の経済一辺倒という二重三重の過去の非倫理を乗り越えて未来を展望しなければならい。
責任とか倫理とかモラルなどと何と迂遠な話を、とお叱りを受けるかもしれない。しかし倫理とは、過去と未来の歴史を見据えた、たえず現在にかかわる実存的態度決定のことである。決断とは断つことである。
福島の事故後、脱原発へと大きく舵を切ったドイツの倫理委員会共同委員長マティアス・クライナー氏はつぎのように語った。「私はひとりの父親として自問自答しました。大量の廃棄物を生み、巨大事故のリスクを抱えた技術を、利用して良いのだろうか、負の遺産を未来の世代に押しつけることが本当に許されるのだろうか、原発の是非は単なる経済の是非ではなく、倫理の問題として考えるべき課題なのです。」
倫理無き日本にはこうした委員会も委員長も不在であるが、ナチスを生み出したがゆえにドイツには強い知的伝統がある。カール・バルトからボンヘッファーにいたる告白教会の系譜やドイツ敗戦直後の罪責についてのカール・ヤスパースの思索などが背景にあってヴァイツゼッカー演説を導いたことはよく知られている。倫理的責任という応答可能性が、人間の無くてはならない本質だという認識がドイツおよびヨーロッパには根強くある。こういう普遍的言説空間あるいは精神性が社会的に共有されていない、デモや市民運動以外に共有の場がない、というところに日本人の大きな困難性があるといえる。碩学ヤコヴ・ラブキン氏は「みずからの政治について道徳的な問いかけを許容しない社会は必然的に腐敗した社会となる」と警告している。
事故後の日本では哲学者の高橋哲哉氏が、この責任について精力的に語っている。ヤスパースの罪責論を下敷きに、福島原発事故の①刑事上の罪、②政治上の罪、③道徳上の罪について的確に告発している。④番目の形而上の罪とは、通常一神教における「神の呼びかけ」に応答しない罪であるが、日本にも「天の恵み」に感謝する、あるいは反する行いなどの観念が古くからあった。
ユダヤ教、キリスト教、イスラームの一神教の聖書では、人間の織り成す歴史と天変地異に神意をみる格闘が描かれている。こうした伝統にあった人々の「形而上」という観念は、神意を帯びた意味性の領域であった。倫理とは、自然との営み、他者との応接、そして歴史や伝統に自己を位置付ける「意味と応答」をめぐる精神の営みであった。神意をどのように見るかはここでは問わないが、自然と他者とを自分のように尊重する伝統が日本にもあった。
例えば「真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし」と説いた田中正造、「森を守る事は人間の暮らしそのものを守る」と説いた南方熊楠、あるいは「循環と調和」というエコロジーを先駆的に説いた安藤昌益のように。そうした際立った達人もさることながら、地域の自然と仲間を守るために立ち上がった無名の農民一揆のダイナミズムに日本人の倫理の根源があるような気がしてならない。戦後も自然と地域の内発性の再発見あるいは森と里の思想など日本の自然と伝統の知恵から近代を超える提言が続けられている。自然の多様性に包まれて生きてきた東アジアモンスーン地帯でこそ、自然の復権に豊かな未来の可能性が潜んでいるのではないか。
ついでに言えば、人類はカメラや自動車を食って生きるわけにはいかない。世界諸民族の生存は、まずもって農水畜産の恩恵なしには立ち行かない。産業革命以降の囲い込まれた工場での賃金労働と投機を主とした「一部文明国」の経済から、自然に帰属し自然と共に歩む「人類史的」な経済が土台にならなければならない。福島事故の最初の犠牲者が、牛と共に生きてきた畜産農家であったことは痛ましくも象徴的な警告である。
日本にも近代法を超えた「母なる大地の法」が施行され、新しい倫理的審査基準をつくって人間と社会を形成し直すべきだ。自然との共生にもとづく人権の再定義が、企業法人の再定義が必要となろう。教科書も大幅に書き変えられよう。それはまた、倫理性を備えた日本民族の未来を選択することでもある。先住民族の世界観の復権をともなって、アイヌ、沖縄および周辺諸国民との和解と共生の道へとつながる。倫理の復権は、自然の復権にあると考える所以である。
私たちは、自然を失ったことの「形而上的な罪」をいまこそ考えなくてはならない。冒頭の安子ちゃんに代わって武藤類子さんが自然を毀損したことの謝罪からはじまる素晴らしい未来への言伝を残してくれた。彼女が、責任者を裁く告訴団の代表であることは心強い。繰り返すが、真摯な反省と謝罪、賠償がなくては、日本人はまっとうな倫理的人間になれない。そのために「裁き」は不可欠の関門である。革命はつづく…。
松元保昭(パレスチナ連帯・札幌)
元高校教師。ここ10年ほど「パレスチナ連帯・札幌」代表として、パレスチナ問題とアイヌ問題を結び付けて北海道で活動。3・11後は、反原発の立場で精力的に情報提供や発言をしている。
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