もうひとつのかわいそうなゾウの話
―戦時の猛獣処分をテーマにした児童文学に潜む問題について―
小幡 詩子
『かわいそうな ぞう』は児童文学作家の土家由岐雄によって、太平洋戦争中の上野動物園で、象が殺処分を受けたという実話を元に描かれ、1951年『愛の学校・二年生』(東洋書館)の中で発表された。1970年に金の星社より「絵本」として出版されるや大反響を呼び、1998年までに100万部、2005年時点で220万部を超えた。紙芝居や副読本にも収録されるのみならず、小学年生向けの国語教科書にも採用され、1974年~1986年まで使用され、79年には英訳本も刊行された。文字や絵を通じてのみならず、評論家の秋山はラジオ番組『秋山ちえ子の談話室』で1970年~2002年の32年間、毎年終戦記念日に戦争の悲惨さを伝えるためにこの絵本を朗読した。秋山氏によると、この放送が子どもたちに、戦争はごめんだ!と思う心を育てる役割を果たしてくれると願って続けたようだ。
あらすじ
第二次世界大戦が激しくなり、東京市にある上野動物園では空襲で檻が破壊された際の猛獣逃亡を視野に入れ、殺処分を決定する。ライオンや熊が殺され、残すは象のジョン、トンキー、ワンリー(花子)だけになる。 象に毒の入った餌を与えるが、象たちは吐き出してしまい、殺すことができない。毒を注射しようにも、象の硬い皮膚に針も折れてしまう。そこで餌や水を与えるのを止め、餓死するのを待つことにする。象たちは餌をもらうために必死に芸をしたりするが、ジョン、ワンリー、トンキーの順に餓死していく。さて、三頭の死に飼育員たちは泣き叫ぶわけだが、初出では心の中で叫ぶのに対して、絵本版では、死んだ象の上を敵機が何機も飛んでいて、その敵機に向かって「戦争をやめろ」と叫んでいる。
以上、絵本では飼育員たちが「戦争をやめろ」と東京上空を飛んでいる敵機に、こぶしを振り上げ叫んでいるが、本当に大空襲の最中での出来事であったのか? 関連資料を調べると、象たちが殺された1943年の夏、空襲はまだ切迫してはいなかった。確かに42年にB25爆撃機による空襲はあったが、まだ小規模な奇襲攻撃にしか過ぎなかった。B29による東京大空襲は1944年11月から始まるので、空襲で猛獣たちが逃げ出す心配などなかった。猛獣ならともかく、なぜおとなしく芸をして人気者の象まで殺されなければならなかったのか? 児童文学評論家の長谷川潮は、土家が殺処分と空襲の時間的経過を明らかにせず、切迫していないのに殺処分は仕方がないと描き、そもそも猛獣処分命令の背後にある真の意味を描き出すことをせず完結させたと批判し、戦時猛獣処分をテーマにした児童文学に潜む問題点を追及した。
そこで長谷川潮の『戦争児童文学は真実をつたえてきたか』、野坂昭如の『干からびた象と象使いの話』および小森厚の『もう一つの上野度物園史』に基づいて、殺処分命令の背後に一体何があったのか時系列的にまとめてみる。これは仕方のなかった事件ではなく、戦争推進側の人間の勝手によって引き起こされた、象にとっても動物園の人々にとっても戦況を知らされていなかった国民にとっても悲劇である。
1943年、上野動物園園長の古河忠道は陸軍獣医として応召しており、福田三郎が園長代理を務めていた。8月16日、福田と古河は東京都公園課長から「戦局が悪化したわけではないが、万一に備え一ヶ月以内にゾウと猛獣類を射殺せよ」と命令を受けた。しかし射殺は住民に不安を与えるので毒殺に変更された。
動物園関係者は動物の一部でも救えないか、と他の動物園に相談した。8月23日、仙台の動物園がゾウの『トンキー』とヒョウの赤ちゃんを受け取ることになり、田端駅貨物係との打ち合わせも済んだ。
ところが、これを聞いた東京都長官(今の都知事、当時は任命された内務官僚)が激怒し、中止を命令。9月1日に猛獣処分はほぼ完了。でもゾウはまだであった。3頭は鋭い嗅覚で毒殺用の餌を嗅ぎ分け、食べなかった。そこで絶食による餓死の処置がとられた。オスのジョンは餌と水が絶たれ、17日後に死んだ。
でもメスの2頭はなかなか死に至らなかった。芸をすれば餌がもらえると思い、飼育員の前で覚えている限りの芸を必死に披露する健気な姿を見て、さすがに飼育担当係は内緒で餌を与えていたのだ。それがばれて飼料倉庫は施錠され、飼育係が倉庫に近づくことすら禁止されてしまった。
ゾウの殺処分が遅れ、戦時猛獣処分の事実が公表前に世間に洩れることを恐れた都は、9月2日に、この『時局に鑑みての非常処置』を公表し、9月4日に動物慰霊碑の前で慰霊法要を行った。慰霊碑に近い象舎の周囲に鯨幕が張られ、中にはまだ生きている2頭のゾウが隠されていたのに…
慰霊祭の7日後、絶食18日後にワンジーが死に、トンキーは9月23日、絶食30日後に死んだ。
さて、殺処分は『軍からの命令』と語られているが、都ではまだ戦争は緊迫していなかった。米軍による大空襲は、この1年以上先、敗戦色濃厚になった1944年秋のこと。では誰がこれを命令したのか?東京都長官に就任したばかりの大達茂雄(戦後の文部大臣)である。古河によると「都長官になる前シンガポール市長であった大達は、内地に帰って、勝ち戦と思い戦争の怖さも知らないでいる国民に自覚させるために、動物園の動物を処分することで警告を発したかった」とのこと。さらに「ゾウなどの疎開も断固許さなかったのは、東京が戦争切迫に備え全国に範を垂れるとしてやった」のである。つまり殺処分は大空襲で猛獣が逃げ出し、住民が危険に晒されるのを避けるために仕方がなかったことではなく、国民に覚悟させ戦争を継続させるための、いわば『精神論』として行われ、そのため葬式を派手に演出する必要があった。
この様に、絵本では大空襲が先で殺処分が後に続くが、実際は順序が逆であった。文学では、事実に基づく戦記物でも虚構の導入は当然である。だがこの場合、前後の関係が逆転することで意味合いが全く異なってくる。土家の絵本をはじめ、空襲が始まって人間を守るために殺処分されたという視点から書かれた児童文学は、その決定者たちを人道的に描写し、虐殺指示(加害)の責任を不問に付す傾向にある。虐殺の命令者は戦争推進者で戦争を始めた側だ。虐殺命令に至る過程を明白にし、その責任を追求し、初めて本当に戦争に抗議することではないか?敵機に「戦争やめろ」と叫ぶのは見当はずれではないか。
この絵本の他にも、純真な子どもたちの情緒に訴えようと被害の視点から戦争に反対する感動作はある。特に動物殺処分は子どもたちの心を切に捉える。しかし前後の入れ替えによって、結果として加害の責任がぼやかされ、被害(犠牲)の面が前面に出され、圧倒的情念に気圧されると、戦争の本質や真実は捉えにくくなる。情念自体は結構であるが、論理が議論を生み、熱狂がもたらす暴走を防ぐのに対して、情念は議論を封じ論理の破綻を隠蔽することもあるのを忘れてはならない。さらに問題なのは、戦後ずっと本作品を代表的戦争児童文学として、平和教材のひとつとして祭り上げ、神話化してきたことだ。長谷川は、戦争に至る構造を見抜く批判力が我々(読み手)に必要である、としている。
だが、現政権肝入りの教育再生実行会議を中心とする【美しい日本の歴史】観の下で、構造的に見抜く力は育つのであろうか?一層難しくなろう。無垢な幼少期より、被害中心の悲しいけれど健気で感動的な絵本やビデオに触れて情操が教育されると、加害の視点が育ちにくくなる。そんなマインドセットの児童たちが小・中学校の歴史の授業において、自虐史観はいけないとばかり、加害性、残虐性、強制性等薄められた近現代史を教え込まれると、加害意識はなくなり、その分尊大な被害者意識が膨れ上がる危険性もある。もし被害妄想から他罰的になり、先制攻撃をすることにもなったら、いつか来た道を辿ることになる。そうならないためにも、教科書のみならず戦争児童文学の批判的読み直しが焦眉の急であろう。絵本は教科書以上にやりにくいだろう。たかが絵本、されど絵本なのだ。
小幡詩子:
小幡詩子:
地域ケアを考える【猫の手会】のソーシャルワーカー。
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