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Tuesday, September 02, 2014

日本降伏の「聖断」とは何だったのか

1945年9月2日、米艦ミズーリ号の船上で日本の降伏文書が調印された日。この日が正式な終戦の日であるが、日本の戦争記憶においては天皇が「聖断」の上にポツダム宣言受諾を決意し8月15日の「玉音放送」によって戦争が終わった日との認識が圧倒的である。「村山談話を継承し発展させる会」がこの「終戦の詔書」とそれがもたらした歴史の歪曲を検証する。ちなみにこの会は来る9月18日午後2時から、東京でシンポジウム「安倍解釈改憲を撤回し、いまこそ東アジアに平和外交を」行う。@PeacePhilosophy

2月15日に同会が出したアピールについてはこちらを参照: 
「シンガポール占領(陥落)」の記念日に



終戦の詔書


2014年8月7日

8月15日・昭和天皇の「ご聖断」に基づく「玉音放送」によって日本の敗戦を全国民が知らされたアジア太平洋戦争の節目の日に向けて、歪められた歴史認識の広がりを食い止めるとともに正確な歴史認識の更なる定着を求めるアピール
 
「村山談話を継承し発展させる会」

 
 1945年8月15日、日本全国にNHKのラジオを通じて流された昭和天皇の初めての肉声放送。その「玉音放送」は1931年9月18日の柳条湖事件を発端とする満州事変から日中戦争、アジア太平洋戦争に至った15年間に及ぶアジア侵略戦争に敗北した事実を、天皇自身が直接国民に伝えたものだった。それまで天皇の名の下に軍国主義以外の言動を厳しく取り締まられ、アジア侵略に加担してきた国民の多くは、天皇を含む権力者たちの責任が厳格に問われ、日本は成熟した民主主義社会を目指せるものと期待した。

 しかし、占領軍の中核となった米国政府の意向の下、天皇の戦争責任は東京裁判を通じて東條英機たちA級戦犯への転嫁が強行され、「人間宣言」が米国主導で出されるなど様々な”演出“によって、最高責任者であった昭和天皇の責任追及は曖昧なままにされた。結果として、戦後の日本社会では権力の座に近い者ほど倫理道徳や憲法・法律などの社会的規範をないがしろにしてはばからない風潮が根強くはびこる事態となった。それでも、主権在民の社会原理を体現した主権者の権力監視によって、成熟した民主主義社会の構築は確実に推進されてきた。但し、そうした民主的な動きの一環としての平和運動や歴史教育においても、広島や長崎の被爆体験、東京大空襲などの空襲体験など一般市民の被害体験に基づいたものが主流となり、侵略や加害の事実を掘り起こしてその意味を深めようとするものは、少数派にとどまっている。

 そうしたところで近年、歴史教育における歴史修正主義の動きに、憲法改定の思想的潮流形成をめざす政治勢力が加わり、勢いを増すに至った。安倍晋三氏を中心とする戦後世代が自民党の主導権を握ってからは、日本の戦争責任を否定する言動が臆することなく展開され、それらの動きを一定数の国民が支持するという事態が生じている。特に本年7月1日の集団自衛権行使容認の閣議決定については、国内だけでなく近隣諸国からも、強い懸念の声が寄せられている。さらには、安倍晋三首相が来年2015年8月15日に閣議決定を意図していると言われる「終戦70年」談話は、歴史修正主義的内容が色濃く込められたものになると想定されている。そうなれば、ますます近隣諸国の対日警戒心を強め、東アジアの緊張を高めることになりかねない。

 戦後の日本社会が平和と民主主義の社会を構築するに当たり、根底に据えてきたのは、
あくまでも真実に基づいて歴史を見直し、侵略の事実を正面から受け止めて反省し、2度と周辺諸国に脅威を及ぼす国にはならないということであった。この理念を今後も堅持するとの政府方針を国内外に示したものこそ、「終戦50年」に当たる1995年8月15日に閣議決定された「村山談話」であった。

 安倍政権による歴史修正主義の動きは、教育内容への介入を含め、これまでになく顕著なものとなりつつある。そうした状況下、本年2014年の8月15日という節目の日に当たり、昭和天皇の「玉音放送」の意味を、「村山談話」の基本的観点である侵略責任の明確化という立場から問い直すことは、意義深いものと我々は考える。

 以下、正確な事実の認識深化と広範な定着を求め、「玉音放送」にちなむ個別の事実を挙げて、マスコミ及び教育等の関係者を含む多くの人々に向けたアピールとする。
 
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1.「玉音放送」それは天皇制と昭和天皇の戦争責任を回避するための新たな歴史歪曲の始まりであった、という事実。

「聖断」という形式でしか降伏受け入れを決定できなかったことからも、15年間の戦争の最高責任者は昭和天皇であったことに、疑いの余地はない。これまでの様々な歴史研究において、日本軍の敗北が決定的となっている段階でも建前論や面子にこだわる軍部強硬派の主戦論に対抗できる力が政府・官僚側にはなく、当時の絶対的存在である昭和天皇の「聖断」による以外には、ポツダム宣言受諾による降伏を決定する手段はなかったとされている。

  戦前とりわけ昭和20年までの日本社会では天皇の神格化された権威の下で、挙国一致、国家総動員体制の軍国主義化が究極にまで推進されていたからこそ、「欲しがりません、勝つまでは」などのスローガンに従い、国民は15年間もの戦争遂行に従っていた。
 法理論をもってどのように詭弁を弄しようとも、大日本帝国憲法(明治憲法)によって天皇主権を定めた日本社会の元首は天皇であった。昭和天皇が、折々の戦局に合わせて戦略や戦術に口出しをしていた事実も、現在では確認されている(山田朗著『大元帥昭和天皇』新日本出版、1994年)。昭和天皇に戦争責任がないとする主張に、説得力はない。

  しかし戦後の日本社会ではこのことの議論を、保守派が一貫して避けようとし、あるいは「天皇無答責論」などをもって、話題をそらし続けてきた。また、正面から昭和天皇の戦争責任を問うマスコミなどの動きに対しては、右翼などによる公然・非公然の圧力が加えられ、議論の焦点が外されることが多発した。テレビドラマ『私は貝になりたい』は、捕虜虐待の罪でBC級戦犯にされ死刑になった床屋の物語りとして、1958年の初放送以来繰り返し話題にされている。最近でも『朝日新聞』8月2日(土)朝刊別刷りで詳しく扱っている。しかし、そこでは原作の元戦犯の手記にある「上官の命令は天皇の命令であるとされ、上官の命令に従った行為で戦犯にされたのに『天皇は私を助けてくれなかった』。これで死刑にされるのであれば、『今度生まれかわるならば、私は日本人になりたくありません』『私は貝になりたいと思います』」(加藤哲太郎著『私は貝にな
 りたい』春秋社、1994年)という部分が、脚本段階で削られていることへの言及が全くされていない。世代交代が進む記者の間では、政治的圧力等による情報操作以前にまで視野を遡らせての取材は想定外とされている可能性が伺える。
  改めて、「玉音放送」への話題喚起の必要性が認識される事柄でもある。
 
+*以下、昭和天皇の戦争責任回避に向けた歴史歪曲によって、伏せられてきた「玉音放送」関連の歴史的事実を提示していくこととする。
 
 
2.「玉音放送」が伝えたのは『遅すぎた聖断』であったという事実

 昭和天皇が主戦論の軍部を抑え、ポツダム宣言の受け入れを決断したことで日本の降伏が決定したのであり、この「ご聖断」によって日本は救われたのだという主張が、保守派の中にはある。しかし、降伏を受け入れて戦争を終結させるための「聖断」を実行すべきだとする進言が、6か月前の1945年2月14日に近衛文麿から昭和天皇への上奏文(近衛上奏文)で伝えられていた事実がある。

 進言の趣旨は、最早敗戦は必至であり、このまま負け戦を続けていては、軍部や国民の間に不満が高まり、それに共産主義が乗じて革命を起こされれば天皇制は滅ぶという最悪の事態になるので、早急に休戦・降伏の交渉を進める必要がある、というものだった。これに対して、昭和天皇は共産革命の危険性についてまでの分析に同意しながら、近衛の進言を却下した。理由は、「このような負け戦のままでは、天皇制の存続だけは認めるという有条件降伏の交渉ができない。どこかの極地戦でも良いから戦果(米軍の大損害)を挙げられれば、この有条件を受け入れさせられる可能性が生まれる。それまで待て」というものだった。これに対して、近衛は「そのような時が訪れるでしょうか」と言いつつ、引き下がらされている。

 その後、昭和天皇は天皇制存続の有条件による降伏にこだわり続け、連合国側から可能との感触を得て「聖断」に踏み切る8月15日まで、6か月を費やすことになる。2月14日からの6か月間に、硫黄島が陥落し日本全土へのB29による空襲が本格化し、3月10日の東京大空襲など国内の一般住民の被害がこの間に、激増した。さらに、3月末からの沖縄戦によって、県民の4分の1が死亡した。7月26日のポツダム宣言発表以後も「聖断」が遅れる間に広島と長崎に原爆が投下され、9日にソ連軍が満州への侵攻を開始した。ソ連との関係では、それより以前に降伏をしていれば参戦の口実が失われ、シベリア抑留や北方領土問題も生じることはなかったことになる。さらに、朝鮮半島も南北に分断されずに済んだ可能性が高い。

 こうした回避できたはずの被害や戦後の紛争の種も、ひとえに天皇制(国体)存続の保障を連合国側から得るための交渉に時間を浪費した結果として、生じたものだった。ところで、この事実を正面から取り上げ、昭和天皇の責任を追及したテレビ・ドキュメンタリー『遅すぎた聖断』(琉球放送)は、昭和天皇が重病中の1989年6月に沖縄で放送された。以後様々な番組コンクールなどで受賞のたびに県内では再放送された。沖縄県内にもいわゆる右翼団体が存在するが、この間に街宣車が琉球放送の局舎押しかけて来ることはなく、抗議の電話も全くなかったという。一方で、琉球放送の全国放送キー局の関係者は「この番組名を予告で流しただけで街宣車が押しかけて、局の機能がマヒすることが分かっているので、局内で全国放送の提案することはできない」とした。タイトトルの問題とは、「遅すぎた」という表現が天皇批判である上に、「ご聖断」ではなく「聖断」とされている点を右翼が突いてくると予想されるためであるとされた。

 大手のマスコミがこうした状況である一方で、歴史教育の場では「近衛上奏文」についてのコラムを設けて経過を説明している高校の日本史教科書がすでに登場している(『日本史A 現代からの歴史』東京書籍版、1995年度用以後)。
 
 
3.ポツダム宣言受け入れに関し、もう一つの「聖断」が存在しているという事実。

 もう一つの「聖断」、それは降伏を有条件にするとした上で、天皇制存続を認めることという1条件ですませるか、さらにその他の条件も加えるかについて陸海軍と政府の間で、意見が割れたのに対し、天皇が1条件だけで行くと決めたというものだった。 

 この時挙げられていた他の条件とは、日本側による軍隊の自主的な解散、自主的な戦犯の処罰と占領の制限などで、これらを合わせた4条件で交渉するとのが一つの案だった。天皇が4条件案を却下した理由は、1条件だけでも難しいのに、4条件にまで拡大したのでは、すべてを拒否されかねない。少しでも天皇制存続の1条件承諾を確実にするには、他の条件は組み合わせないほうが良い、ということだったとされている。

 戦犯裁判は勝者による不公正な裁判だったという指摘が繰り返されているが、そうなった経過の一つには、このように日本側自身が「自主的な戦犯処罰」を提案するのを控えたという事実の存在がある。そうした理由が、天皇制存続の1条件を連合国側に承諾させる上で幾分かでも障害になりそうなことは避けるという自主規制にあったのだったが、勝者によるに不公正な裁判と批判する側が、この事実を指摘したことはほとんどない。

 だが、この事実も、『日本史A 現代からの歴史』(東京書籍版)には、明記されている。 ここでも、天皇制存続(国体維持)の条件が最優先され、日本側の主体性保持の条件提示は二の次にされた事実を、高校生は以前から学んでいるという事実が存在している。
 
 
4 「聖断」によってポツダム宣言受諾を決定した日本側の降伏は、無条件降伏ではなく1条件(国体護持)降伏だった、という事実の存在。

 多くの歴史教科書では、ポツダム宣言受諾による“無条件降伏”と記述している。それは条約の字面に合わせた表現にすぎない。実質的には日本側がこだわり続けていた「国体護持」の1条件に関して、連合国側が8月11日の時点で回答した内容から、日本側は要求が満たされたとして、受諾にようやく踏み切ったのだった。

 その回答とは「日本国の最終的政治形態は、ポツダム宣言にもとづき、自由に表明される日本国民の意思によって確定されたものとする」というものだった。神風特攻隊を実行させられるほどに皇民化教育で忠君愛国の思想にマインドコントロールされた日本国民が、一朝一夕で反天皇制に転換するはずはなく、これならば天皇制の存続「国体護持」は可能と、昭和天皇とその側近たちは読み取っている。

 ただし、ポツダム宣言にはこのことが盛り込まれないまま日本に無条件降伏を要求しているので、宣言受諾による降伏は無条件とされる。その一方で、実質的には「国体護持」の言質を得ているものとして、日本側はその後の交渉を進められることになったという段階で、天皇は「聖断」を下し、「玉音放送」に臨んだのだった。

 つまり、無条件降伏とするのは形式論にすぎず、実質的には「国体護持」の1条件だけを連合国に認めさせた有条件降伏だったことになる。しかし、このことを戦後の社会で、保守派はあまり積極的に指摘したり、主張するということをしていない。それは、一般国民の犠牲が膨大であるにもかかわらず、それを最小で食い止めることよりも、「国体護持」を優先していたことが広く知られた場合の天皇批判の高まりを警戒しているためと読める。

 それだけに、今の時点でもこの事実を再度確認しておくことは必要となる。特に世代交代で、天皇制が危険な存在として機能していた時代を知らない世代が大多数となっている現在においては、重要なことと考えられる。
 
 
5 ポツダム宣言受諾に昭和天皇が逡巡したことで、必要がなかった8月13日と14日の最後の空襲が実行され、多くの人々が犠牲になったという事実の存在。

 日本政府は、原爆投下やソ連の参戦を受けてもなお、「国体護持」の確約を連合国に求め、ポツダム宣言の受諾を保留にしていた。そのため、いらだった米国側は、日本側が受諾の意向を8月10日に伝えてきた段階で停止をしていた日本空襲の再開に踏み切る。それが、埼玉県熊谷市、神奈川県小田原市、神戸市。秋田市などへの空襲だった。これらの空襲で失われた人命と家屋や家財などの犠牲は、何のためだったのか。そうした経過が最近の研究や情報公開などによって、新に判明してきている。
 
 「聖断」と「玉音放送」について隠されていた事実が判明するのにともない歴史歪曲の事実も次々に明らかにされてきている。以下、歴史歪曲の事実を列挙する。
 
 
6 昭和天皇の御製「身はいかになるとも いくさとどめけり ただたふれゆく 民をおもひて」は欺瞞であることが明らかであるとの事実の存在

 すでに明らかにしたように、「玉音放送」時の天皇は「国体護持」が可能とする連合国からの言質を得ていて、「身はいかになるとも」などとひどく怯える必要のない、落ち着いた状態にあった。にも拘らず、天皇であるわが身よりも「民」を思いやって、降伏を受け入れたのだと、いかにも心優しい君主であるかのように装う内容の御製となっている。

 「近衛上奏文」をめぐるやり取りやその後の天皇の行動を事実に即してみるならば、この「御製」がいかに虚飾に満ちているか、自明のこととなる。しかし、この御製が毎年8月になると靖国神社の本殿に掲げられ、参拝者に示されている。

 それだけではなく「新しい歴史教科書をつくる会」系の中学用歴史教科書と公民教科書には、この「御製」が掲載されている。そこでは「国民とともに歩んだ昭和天皇」と題した記述との組み合わせによって、昭和天皇を称える学習が展開されることになる。いかにも、虚実取り混ぜて天皇制美化を図った手法さながらだが、そうした手法が許容されたのは、戦前の学校教育においてだった。

 現在の日本社会ではそうした手法は許容できないはずだ。にもかかわらずその手法による教科書が、検定に合格している。そうした脱法行為がなぜ通用するのか。歴史修正主義の政治権力者による影響が検定の場にも及んでいると考えるしかない。この事態を是正する方策の一つは、虚偽の記述を容認している検定関係者の責任を厳しく追及することにある。それとは別に、こうした「御製」自体の欺瞞性を社会全対が認識するならば、教科書に「御製」を掲載すればその歴史修正主義者ぶりが即座に露見することとなるので、掲載そのものを控えることに追い込める。そのためにも、この「御製」にまつわる昭和天皇の「聖断」関連の諸事実が正確に広く知らされることが、必須の条件となる。
 
 
7. 「玉音放送」で周知された「終戦の詔書」では、「終戦(敗戦)」の対象を宣戦布告した「米英二国」に限っていて、中国との戦争は含めていないという事実の存在。

 「終戦の詔書」では「交戦己ニ四歳ヲ閲シ」とある。中国との戦争を含むのであれば4年間という年数は短すぎる。アジア太平洋戦争に限定していることは明らかで、ここに至ってもなお中国を見下す姿勢を取り続けていることが分かる。さらに「詔書」では「朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス」として、あくまでも大東亜解放のための戦争だったという姿勢を変えていない。

 ここには、8月15日の敗戦の遠因が、中国を中心とするアジアの民衆の自尊心と抵抗力を見誤り、差別的民族観そのままに思い上がりを武力に置き換えたために、泥沼の戦況に引き込まれ、破局の道に追い込まれたという事実経過についての認識がまるで見当たらない。そのことは、アジアの人々に対する差別的民族観が公然と語られていた当時の状況からすれば、当然と思えなくもない。しかし、そうした民族観は誤りであるとされている現代においては、許容されない。にもかかわらず、現在の日本社会では、この「詔書」同然の戦争認識から抜け出せていない。

 8月15日の「玉音放送」で伝えられた敗戦は,対米英に限定したものであった。そのことを明確に認識することなく、戦後の日本社会は平和と民主主義の社会建設と国際交流推進を標榜し続けてきた。中国や韓国・朝鮮さらには東南アジアの人々の交流が欧米との交流と比較して二の次となったのは、政治的な障壁の存在だけでなく、こうした事実の確認を怠ってきた我々一般国民の責任に由来する部分も少なくない。

 そうした怠慢に気付かせてくれる機会をもたらすものとしても、「村山談話」の今日的存在意義は大きい。
 
 
「玉音放送」から始まった歴史歪曲・、修正主義の動きを、修正主義の極め付きである安倍晋三政権下で検証しなおすための取り組みとして、今後も節目の日にちなむ問題提起のアピールは続けて行きたい。
  

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