『創』4月号表紙の一部 |
『DAYS JAPAN』元発行人の広河隆一氏から性暴力・セクハラ・パワハラを受けたと告発する人々や『DAYS JAPAN』という会社自体に構造的問題があったとのレポートが『週刊文春』(1月3&10日号、2月7日号)、『ビジネスインサイダー』(1月9日)、『毎日新聞』(1月16日、1月16日、1月31日)、『東京新聞』(共同通信電、2月18日)といった媒体から続出する中、月刊誌『創』4月号(3月7日発売)に広河隆一氏本人の手記が8頁にわたり発表された。それも最後に「続く」とあり、5月号に後半が出るらしい。一体何をそんなに書くことがあるのかと思ったら、4月号の内容は、被害者が見たら二重に傷つくであろうセカンドレイプの類である。私は『ふぇみん』2月25日号で、広河事件についての多くの同業者のコメントが「ほとんどがとにかく長い。そしてその質は、量に見事に反比例している。悪いことはただ悪いと言えばいいのに、(中略)書けば書くほど実質的な広河氏の擁護、被害者軽視の蟻地獄にはまる。」と書いたが、今回のは広河氏自身がその蟻地獄にはまっているように見える。
以下、昨日とりあえず発信したツイートより。(@PeacePhilosophy) (時間は太平洋標準時間で日本より17時間遅れています)
『創』4月号の広河隆一手記。「知らなかった」という主張で自分がやったことを正当化することはできない。 6:46 PM - 6 Mar 2019 自分の被害者化を行い「ボクちゃんこれだけ勉強してるの、エライでしょ」と延々と同情を誘う試みをしながら、肝心の「自分のしたことは性暴力だった」「立場を利用した合意なき行為だった」という2点を認めていない。 6:46 PM - 6 Mar 2019
広河氏は終始、「性暴力」とカッコ付で、「自分はそうは思っていないが相手がそう言っているもの」「実際は性暴力ではない」というようなニュアンスを含ませているように思える。冒頭から、
私は、「性暴力」というものを理解していなかった。身体的暴力をふるっていないこと、相手と合意があったことを理由に、「性暴力」は自分には関係がないと考えていた。拒否されずに受け入れられたとしても、自分の行為が「性暴力」と評価されうるのだ、ということを指摘されるまで全く理解していなかったのだ。そのことを今ようやくわかろうとする過程にあると思うようになった。
と言っている。ここにもう、それ以降全く読まなくていいと言えるほどのこの記事のエッセンスが凝縮されている。①性暴力を振るっているのに「身体的暴力」を否定し、②立場を利用したり、恐怖を与えたりした上での「拒否の不在」は「合意」とはいえないのに「拒否されずに受け入れられた」と主張し、それらが人によっては「性暴力」と評価されてしまうのだと言っているのである。
この点は読む人に注意してほしい。彼の「学び」とやらのビフォーとアフターが何なのかということ。
広河氏は、 この手記で、「BEFORE 自分のしたことが性暴力とは思っていなかったが、AFTER 今となっては性暴力をしたということがわかった」と言っていると解釈してしまう人がいるかもしれないが、実際に彼が言っているのは、「BEFORE 自分のしたことが性暴力とは思っていなかったが、AFTER 今となっては自分のしたことが『性暴力』と評価されることがあるのだ、ということがわかった」と言っているだけなのである。ここの大きな違いを把握した上で全文を読んでもらえれば、この文の「性暴力の否定」(「合意の主張」と裏表一体)という本質が見えてくると思う。
実際に上にも書いたように、数ある報道の中でも一番最近(2月17日)発表された、共同通信の取材には彼は「性暴力を否定」しており、「これまで性交渉をした女性とは合意があった」と言っているのである。この手記で彼が敢えてこの共同通信への返答に触れていないことからも、彼はこの手記によって、自分の「性暴力を認めていない」「女性たちとは合意があった」という主張を隠しているようにも見える。実際、この手記を読めば内容は共同通信への応答と何ら矛盾がないことがわかる。私に反対する人がいたら、この手記のどの部分から、彼が自らの性暴力を認めているとわかるのかを教えてほしい。私にはどこにも見つからない。
この本質さえつかめば、この手記の他の部分は、何ページもだらだらだらだらと、ときには自分の被害者化や、同情を誘うような自虐的表現を織り交ぜながら、手を変え品を変え、”一生懸命考えて学んでいる”というアピールをしているという類に過ぎず、合意の不在と、性暴力を認めているのか、という本質からはかけ離れていることがわかる。
そして、この手記の一番怖いところは、彼は長い全編を通して性暴力を認めるのを拒否していながら、しきりに被害者に「謝罪」したがっていることだ。性暴力の被害者というのは、加害者の存在を思い起こすことだけで、加害者がこの世のどこかにいる(だからどこかで出っくわしてしまうかもしれない)と想像するだけで、心や体に異常が出てくるものだ。この感覚がわからない人は伊藤詩織氏の『BLACK BOX』を読んでほしい。
ただでさえ加害者のことを思い起こすのも苦痛である被害者に対して、直接会うか、手紙を書くか、人を通してか知らないが、とにかく被害者にコンタクトするということを迫ること自体が暴力に上塗りをする行為なのである。上では「ストーカー」と書いた。一体誰のための謝罪なのかということを問えば明白だろう。ましてや、自分の性暴力を認めない形での「謝罪」など、セカンドレープにしかならない。「ボクは性暴力とは思っていないが、あなたにとっては『性暴力』となってしまった行為をしたことを、謝罪します」とでも言うつもりなのだろうか。論外だ。
性暴力の被害者にとっては、加害者が「謝罪したがっている」ということを知るだけで苦痛なのだ。加害者が自分のことを考えているということを想像するだけでも気持ちが悪くなるものだ。じゃあどうすればいいのか。性暴力を認めることだ。合意がなかったことを認めることだ。自分が立場の差、指導・雇用関係、相手の自分への畏敬や尊敬の念を利用して、合意なき性行為や性的行動の対象として相手に強いたことを認めることだ。本人に直接「謝罪」したい(許させたい)という自分のエゴを諦めることだ。自分が被害者にとっていかに思い出したくもない、気持ち悪い存在かということを受け入れ、それを変えようとはしないことだ。
この手記の細部には突っ込みたいところがもっともっとたくさんあるが、以上に述べた本質から離れたくないので、とりあえずはこれぐらいにしておく。
最後に、この手記を「自分を切開し」とか美化し、被害を訴え性暴力を糾弾する声を「バッシング」と呼び、加害者の被害者化つまりセカンドレイプに加担した『創』の編集長、篠田氏の罪は重い。広河氏と、篠田氏に問いたい。『創』5月号で、さらにセカンドレイプを続けるつもりなのか。
乗松聡子 @PeacePhilosophy
参考記事
広河隆一氏の性暴力 女性差別抜け落ちた「人権」(『琉球新報』)
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-874320.html
広河隆一性暴力事件が突きつけるもの(『ふぇみん』)
http://peacephilosophy.blogspot.com/2019/02/from-femin-eiko-tamamoto-and-satoko-oka.html
巧妙ですね。自分に権威や権力があることに気が付かなかった、皆、自由に意見を言っていると思っていたなどと書いていますが、彼がオフィスで、男女を問わず、怒鳴り散らしていて、皆ぴりぴりしていたのは、権力も、権威も持っているとは知らない人にできることでしょうか。拒絶はされなかったとしても、合意とは、どういう言葉で合意されたのか聞きたいです。他の用事にかこつけて、ホテルに呼んで、すぐセックスに及ぶのは、立派なレイプでしょうと言いたい。セクハラなんてものじゃありませんよ。でも、パワハラを放置していた周りもどうしたことかと思います。パワハラとセクハラは同根のものだと思います。
ReplyDeleteとにかく、あれほどのことをして、よくしゃーしゃーと自己弁護できるものですねえ。
盗人、猛々しいとは、この人のための言葉かと思ってしまします。
『創』、購入して読みましたが、本当にひどい内容と思いました。
ReplyDeleteこの手記は乗松さんのご指摘のように、最初から最後まで自己批判風の自己弁護であり、被害者をセカンドレイプしている点で大問題です。乗松さんのご指摘は全面的に正しいと思います。
結局、広河は自分の行為ではなく「被害者の気持ちに気づけなかった」ことしか反省していません。手記やそこで引用されている文献の節々からも、被害者意識や「相手の心を読むことができるエスパーでないと女性と関係も築けないのか」といったどうしようもない本音が見え隠れしています。
まるで時代についていけなかったとでも言いたげですが、いつの時代だろうとアウトであることを理解していないし、「最近はなんでもセクハラになっちゃうから息苦しい」などというセクハラオヤジの言い分から少しも出るものではありません。
そして、加害者が、性暴力を被害者の受け取り方の問題にすりかえるのは、最大級のセカンドレイプです。
掲載したメディアの責任についても厳しく問われなければならないという点も同感です。
具体的な被害者が存在するのが分かっていながら、加害者への「バッシング」ばかりに心を痛め、加害者の言い分をそのまま垂れ流すことに何の正義があるのか。
建設的な議論を期待するなら尚更やってはならないことだと思いますし、性暴力被害の深刻さや心の傷を少しでも理解していたら出てこない発想だと思います。
『創』編集長は、この手記によって生じた二次被害について、どのように責任を取られるのでしょうか。
こうした批判すら「両論併記」した上で、『創』5月号で二次加害を続けるつもりなのでしょうか。
広河の手記の掲載を取り止めるよう、『創』編集長、および編集部に強く求めます。
乗松さんがご指摘しているようにカッコつきの「性暴力」や、未だ合意があったと主張していることはもちろん許しがたいですし、さらに彼の語りぶりはまるで悲劇のヒーローであるかのようで、此の期に及んでどうしたらここまで自己陶酔できるのか呆れるばかりです。
ReplyDelete「30年遅れで学ぶ」というタイトルも、yahooニュースの記事で『創』編集長・篠田氏が「広河さん自身が原稿につけてきた」と書いていましたが、広河には「おまえの“学び”の材料にされる被害者の気持ちを考えろ」と言いたい気分です。
この手記を載せてしまうメディアがあるということからも、問題に対する理解が十分でない人が多いことを再認識し、悔しいです。
今のところ手記に関して広河を擁護するような発言を見ていないのは救いですが、一方で、そのような性暴力に関して「アウトな」認識の人たちは彼が世間で叩かれているのを見て何も言えなくなっているだけだろうとも思います。
同じような被害が今後どこかで繰り返されないためにも、一個人のスキャンダルではなく社会の問題として多くの人に考えられていく必要性を改めて感じました。
広河隆一氏の性暴力問題については、文春記事を読んでいませんが、乗松さんのコラムで最初に知りました。吐き気を催すばかりです。日本の知識人が戦争に協力しても「仕事上の功績は別だ」と免罪されてきたことを想起します。広河氏の被写体となった事柄と広河氏を切り離すことは必要ですが、広河氏の仕事と行動は切り離されるべきではないと思います。むしろ一見健全な社会の底辺に、いかに女性差別と暴力が蔓延しているかに、愕然とします。
ReplyDelete広河氏に限らない。
ReplyDeleteよくあるパターン。
そんなつもりはなかったけど、相手にとっては暴力と受け止められたんですね、分かりました受け入れます、とはいえ自分にはかくかくしかじかの理由があって暴力のつもりはなかった、
でも傷つけてしまったので謝ります、自分がどんなに反省して申し訳ないと思ってるかを相手に伝えたい、これから自分の加害性に向き合い、性暴力について学びます………
「誠実な」加害者、であろうとする。
その文章の長さが、とうとうと自分の葛藤を語れることが、力の濫用だというのに。
被害者は、沈黙を強いられ、やっとの思いで告発するのに。
「謝罪したい」という欲望を、まだ語るのか。
謝罪し、受け入れられたら「ゆるされた」、拒否されたら「謝罪したいが受け入れてもらえない」、どっちに転んでも周囲は「よくやった」と言うだろう。
被害者は、謝罪を受け入れたら「これでお終い、もう蒸し返さないで」と語ることを禁じられるか、受け入れなけば「あんなに反省してるのにかわいそう」と非難される。
どこまでいっても変わらない力関係。
特異な個人の性格の問題ではなく、
力関係、力の濫用という暴力の構造だから、似たパターンになる。
構造を知れば、同じパターンで暴力が起きることへの手立てをうつことができる。
そうしなければ、暴力はなくならない。
被害者は、自分と同じようなことが二度と起こってほしくないから、このままだと繰り返すから、告発するのだ。