先日予告した「第32回 アジア・フォーラム横浜 証言集会「父は二度と家に帰らなかった」沈素菲さんの証言 および 林少彬さん講演」は、150人ほどの参加をえて、成功裡に終わりました。録画がもうすぐYouTubeに出ると思いますので出たらまたアップします。
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| 林少彬さんの講演 |
乗松聡子のコメントの原稿をここに紹介します。実際話した内容は、これに少しアドリブで付け加えたものです。
横浜証言集会 乗松聡子コメント 「敗戦80年、日本の歴史認識を問う」
きょう、お招きいただいた、アジア・フォーラム・横浜の皆さまに深く感謝申し上げます。今回、吉池さんから声をかけていただきました。吉池さんとは、2014年の夏の、高嶋伸欣さんのマレーシアとシンガポールの旅でご一緒させていただいて以来のお付き合いです。この旅のつながりから、2015年、敗戦70年を記念して、カナダ・バンクーバーに、高嶋伸欣・道さんご夫妻をお招きし、マレーシアとシンガポールの華人虐殺の歴史について地元の教会で講演会を開きました。
きょうは、私よりずっと知識や経験のある皆様の前で、何かお役に立てることを言えるのかどうか自信はありませんが、自分の体験にもとづいた話をしたいと思っています。また、資料として、私が今年になってから書いた、「敗戦80年」に関連する記事をいくつか配布させていただきました。
まずは、きょう証言していただいた、沈素菲(シム・スーウィー)さん。小さいころにお父様を日本軍に奪われ、お父様は二度と戻ることはなかったとうかがいました。お母さまも悲しみのあげく亡くなられたと。シムさんが7才ぐらいのときの出来事だと察します。このような小さなときに両親を奪われ、どれだけ寂しかったか、どれほどのご苦労があったかと、想像することも難しいです。
林小彬(リム・シャオビン)さん。林さんは、おじいさまが、「粛清」の被害者であったと聞いております。それも、日本が正式に降伏した後に起こった、9.5マラッカ事件の被害者であられたということは本当に衝撃的なことです。日本から解放されたと思った矢先にこのような残酷な方法で命を奪われ、どれだけ無念だったことでしょう。
私は、高校1年まで日本で教育を受けてきて、その中で、広島や長崎の原爆や、東京大空襲について学ぶことはあっても、日本軍が日本の外で何をしたかということは授業では学びませんでした。
高校2、3年とカナダの学校に留学する機会を得て、私の世界観は変わりました。その高校には5大陸、70か国から来た留学生が全寮制で学んでいました。英語ができず、授業がわからず毎日泣いていた私を助けてくれたのは、ルームメートだったシンガポール出身のリム・アイルンでした。英語名はヘレンでした。ヘレンは私が見下ろすほど体が小さいのですが、ピアノが上手く、英国流の英語を話し、中国語は何種類も話し、フランス語も話す、大変な秀才でした。
ヘレンがある日言いました。戦争中日本軍がシンガポールに来て、罪のない人たちをたくさん殺し、赤ん坊を宙に投げて銃剣で突き刺したと。私は、ただ、「え?」という感じで茫然とすることしかできませんでした。今にしてみれば、「日本人はこんな大事なことを学校で教わらないのか」と、思われたかもしれません。
これが私の「覚醒」の始まりでした。この学校にはフィリピンや、インドネシア、中国の留学生も来ていて、仲良くなった時点で、日本軍占領時の残虐行為について聞かされました。インドネシアの子は「ロームシャ」という言葉を使って、日本軍による強制動員があったことを教えてくれました。17才にして、日本の学校では教えられなかった歴史の洗礼を受けました。
今年は日本敗戦80年です。1945年8月15日、ヒロヒトがポツダム宣言を受諾して降伏したことをラジオで周知した日が「終戦の日」と呼ばれます。今年も、日本のメディアは、8月15日近辺までは戦争関連の内容で盛り上がりますが、そのあとは急速にしぼんでしまいました。上海にいる研究者の友人が今年、「日本は結局敗戦を否認しているのではないか」と言っていましたが、そうとしか思えない風潮はあります。特に、9月の出来事に注目しないことは象徴的です。
日本の敗戦がまぎれもなくわかる9月2日の降伏文書調印式や、日本が満州侵攻した日、中国では知らぬ人はいない9.18の記念日は、日本ではあまり語られません。1923年9月1日以降の関東大震災後朝鮮人大虐殺も、日本の朝鮮植民地支配の中で起きた出来事ですが、戦争責任という歴史的文脈で語られることがあまりありません。
そして、中国やロシアなど多くの戦勝国が集まった、9月3日の北京における抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利80周年記念大会は、日本の敗戦を振り返るにふさわしい機会であったのに、日本政府はこの催しを反日イベント扱いし、各国に出席しないように呼びかけるといった、加害国にあるまじき行為まではたらきました。
日本は、8月14日、または9月2日に開催される、米国や英国における対日戦勝記念日(VJデイ)に文句を言った形跡はありません。どうして中国には文句をいうのでしょうか。それはやはり、米英に対して負けたのであって、中国に対して負けてはいないという「敗戦の否認」があるからではないかと思います。
これは、12月8日が、「真珠湾攻撃」という一言だけで片付けられ、真珠湾より前にマレーシアのコタバルに陸軍が侵攻していたこと、それだけではなく同日にタイ、シンガポール、香港、フィリピンなども攻撃していたことを覆い隠すことにも共通する歴史認識です。
「先の大戦」と称するものが、米国とだけ闘い、米国に対してだけ負けたかのような印象操作がずっと行われてきました。「真珠湾」で始まり「広島・長崎」で日本が負けたというナラティブです。2016年、当時のオバマ大統領が広島を訪問し、安倍首相がそのお返しとして年末に真珠湾を訪問したことが「和解の交換」であるかのごとく演出され、強化された歴史認識でした。
オバマ大統領は広島に行く前に岩国海兵隊基地を訪れ、3千人もの海兵隊と海上自衛隊関係者の前で満面の笑みで、日米同盟絶賛の演説を行い、「オーラ―!」と大歓声を上げました。広島の平和記念資料館には10分もいなかったということなので、広島には「ついで」に寄ったとしか思えない比重の差でした。
その一カ月前には沖縄で、米軍属による残酷な性暴力および殺人事件が起きたばかりでしたが、それに言及することもありませんでした。結局すべては現在の日米同盟のためなのです。同盟といえば聞こえはいいですが決して平等ではなく、米国による日本の軍事支配のためなのです。歴史認識もその日米のストーリーに都合のいいように形成されます。
この歴史観によって、日本が東南アジアの欧米植民地を攻撃した理由を問わなくてよくなります。日本は中国への侵略戦争を続行するために東南アジアに資源を求め、援蒋ルートを断ち切る目的があった。「真珠湾」以外を語ると、この戦争の本質に迫らざるを得なくなるから、語らないのです。中国に対して負けたということを認めたくない日本と、第二次大戦のアジア側の闘いの手柄はおもに米国にあるというストーリーを作りたい米国の利益と合致するものです。
「中国に対する敗戦を認めない」という日本の姿勢は、11月7日の高市首相による、「”台湾有事”は存立危機事態になり得る」、つまり再び日本が中国に武力行使をすることができるという「再侵略宣言」ともいえる発言とつながっています。これは政策転換でもなんでもありません。高市氏のような、侵略戦争さえ認めず靖国神社に平気で行くような、日本の保守政治家に連綿と受け継がれてきた歴史観の顕れです。それに、戦後の米国による軍事支配が重なり、米国の中国封じ込め政策に乗っ取った発言をしたに過ぎません。とうとう本性を出したな、ということなのです。
これを、大日本帝国が中国をはじめ、アジア太平洋諸国に何をしたかを知らないまま大人になった人たちは、中国がなぜここまで怒っているのか理解もできず、またしようともせず、長年のメディアによる嫌中・反中キャンペーンが功を奏したか、高市首相の支持率はかえって上がっています。
もうすぐ12月13日、南京大虐殺を記憶する日です。この、「敗戦80年」という、祈念すべき年なのに、日本政府みずからによる歴史否定と中国に対する裏切り行為により、日中の交流が途絶え、最悪の空気の中でこの年を終えなければいけないとしたらあまりにも悲しいことです。責任は全部日本にあります。
1937年、大虐殺が進行中であると知りもしない日本人は「南京陥落」だとお祝いし、各地で旗行列や提灯行列をやりました。1942年2月、シンガポール陥落のときも同様のお祭り騒ぎだったと聞いています。現在中国に牙を向けている高市氏を止めようともしない、止めるところか一緒になって中国敵視をやっているマジョリティの日本人は、あの頃と同じ、旗行列と提灯行列をやっているのです。
私は11月18日から28日、中国で「撫順の奇蹟を受け継ぐ会関西支部」という団体が主催した、日本軍の加害を学ぶ旅に参加し、成都、重慶、常徳、廠窖、武漢などに訪問しました。現地で、高市発言の余波をもろに感じながら過ごした貴重な10日間でした。TVをつければ高市特集をやっているといっても過言でないほど連日中国は批判を展開していました。旅の間に交流プログラムが中止になったり、北京から通訳として呼んだ大学院生が日本人との交流を禁じられ呼び戻されたりといったこともありした。
現地の友人たちといろいろ話しましたが、研究者の友人は、中国の人たちの意見は多様であるが、「台湾については、日本の介入への怒りは、14億人の総意と言って間違いないと思う」と言っていました。わたしは最後の武漢で病気になってしまい、2日間寝込みました。中国の友人たちは私を病院に連れていってくれ、果物や食事や薬を部屋に届けてくれ、いたれりつくせりのケアをしてくれました。こういうときだからこそ、このような人と人とのつながりの有難さが身に沁みました。
中国の人たちは日本人が嫌いなわけではなく、逆です。歴史を共有した上で、仲良く交流したい人たちが大半です。現在の若い世代は日本のアニメやマンガとともに育ちました。中年以上の世代も、日本の歌を驚くほど多く知っています。中国人のそういった好意を、歴史を否定し中国を嫌うことによって踏みにじっているのは日本側なのです。
高市首相は10月末のASEANプラス3の外交の場で、マレーシアとシンガポールの人たちの、戦争の傷に塩を塗る行為も行いました。10月26日のソーシャルメディア投稿で、クアラルンプール日本人墓地を訪問し「マレーシアで命を落とした先人を慰霊した」と言いながら、日本軍による3年半の占領とその中で起きた残虐行為については一切触れませんでした。あたかも「慰霊」に値するのは日本人だけであるかのような言い方に地元の人たちからも批判が殺到しました。
日本人は12.8を皮切りに日本がどこをどう攻撃して何をしたかをもっと知るべきと思います。私もまだ全然知りませんが、今年、日本が攻撃・占領した場所の中から、2月にフィリピン、7月に香港に行きました。
フィリピンでは、1945年2月の約一カ月の闘いで10万人の市民が殺されたマニラ市街戦大虐殺の80周年の式典と国際会議に出ました。マニラ市街戦を学んでいると沖縄戦の構造と似ていることがわかります。日本はあえて住民を巻き込む市街地に立てこもり、住民被害が拡大し、スパイ視で住民を殺し、女性に性暴力をふるいました。
高市首相のマレーシアでの行為について言いましたが、2016年には日本の天皇夫妻も「慰霊の旅」と称してフィリピンに来て、マニラ中心地にあるこの市街戦記念碑には行かず、片道3時間はかかる、郊外の非常に行きにくい場所にある、日本人の慰霊碑(「比島戦没者の碑」)にわざわざ行っていました。(実際は、天皇ですから、専用ヘリで行ったようですが)。高市と大差ありません。
私は10日間滞在しましたが、ルソン島だけでも、いたるところに、虐殺の跡地があり、とても周り切れませんでした。ここでも、現地で道を聞いたりすると持ち場を離れてまで連れていってくれるような人たちに助けられました。
日本軍性奴隷もフィリピン各地で横行しました。リラ・ピリピーナという支援団体がいまでも、残り少ない生存被害者の支援を続けています。この性奴隷の歴史を記憶するための像がマニラ湾を見渡す海岸沿いの公道にあったのに、日本政府の圧力により撤去されました。市内のバクララン教会というカトリック教会の中に移転するはずだったのが、その像がまた、消えてしまうという事件が起こりました。いま、台座だけが残り、この日本政府の歴史否定という暴力を静かに伝えています。
香港戦については日本ではほとんど語られません。1941年12月8日の午前7時、本土側から日本軍が攻め入り、カナダ軍やインド軍も含む英国軍は、地元では「18日間の闘い」として知られている防衛戦を経て、12月25日、クリスマスの日に降伏しました。その後の捕虜虐待、香港住民へのスパイ容疑、虐殺、性暴力、略奪などは、他の占領地と変わらない残酷さでした。
香港島の南端のSt. Stephen’s College(セント・スティーブンズ・カレッジ)という名門校のキャンパスは日本軍攻撃に備え臨時病院となっていましたが、クリスマスの日に日本軍が突入しました。英国やカナダの傷病兵56人を銃剣で殺害、看護婦や避難女性を性暴力の上殺害し、残忍な遺体損壊を行いました。構内にはいま、被害者を悼むチャペルや、この歴史を伝える資料館があります。
香港戦へのカナダ兵派兵は、チャーチルへのお付き合い的な派兵で、訓練もろくに受けていない若いカナダ兵2千人が投入され、戦闘で生き残った1700人ほどは香港で、また日本の各地に連行され、過酷な状況で強制労働につかされ、260名以上が命を失い、残りは生涯残る心身の傷を負いました。私は2016年、生き残りのカナダ兵の一人、Gerry Gerrard(ジェリー・ジェラード)さんにインタビューする機会がありました。
インタビュー当時94歳のジェリーさんは、1943年1月から45年3月の東京大空襲のあたりまで、この横浜にいました。日本鋼管鶴見造船所東京第三派遣所と聞いています。その後岩手県・釜石の日本製鐵大橋鉱業所に移されそこで解放を迎えました。日本政府は元カナダ兵捕虜については誠意のひとかけらもない対応しかせず、心からの謝罪を受けることもなく、ジェリーさんは亡くなりました。
ジェリーさんは、俘虜体験を語ってくれたあと、最後に私に言いました。「日本政府にもう一つ問いたかったのは、日本市民に謝罪したのかということ。日本人も戦争で大変な苦労をしたはずだ」。今回、香港市内にあるシャムスイポの捕虜収容所跡地にあった記念碑とメープルの木の下で、ジェリーさんに会えたような気がしました。
沈さん、林さん、日本軍による加害を話すことによって、しばらくはお辛い気持ちになることもあるかと思います。このような話を受けて、聞きっぱなしではなく、そのご体験を受け止めて生かしていかなければなりません。真相究明も調査も、ほんらいは、日本人がやらなければいけないことです。お聞きした話を心に刻み、語り継ぎ、もう二度と政府に戦争をさせない、もう二度と差別をしない、そういう社会をつくりたいと思います。
明後日、12月8日、午後2時から、参議院議員会館にて、「村山談話を継承し発展させる会」は、高市首相の存立危機事態発言の撤回を求める記者会見を行います。どうか、報道関係者の方や、発信ができる方に来てほしいと思っております。当日は私も発言する予定で、その足で空港に向かい、バンクーバーに戻ります。
アジア・フォーラム横浜のみなさん、関東大震災朝鮮人大虐殺の真相究明をやっている皆さん、など、神奈川には加害に向き合う草の根の試みが本当に多くあり、見習いたいと思います。日本政府や大衆は、歴史否定や無関心にかたむきがちですが、日本の隅々に、その地の強制連行や加害を調査し記録するグループがあり、これはもっともっと海外にも知られるべきではないかと思っています。それによって、国際的な連帯が築けるのではないかと思います。
一つの例として、昨年6月に開館した、カナダ・トロントの、アジア太平洋平和博物館があります。欧米圏では初の、アジアにおける第二次世界大戦に特化した平和ミュージアムです。そこでは、シンガポールにおける「粛清」についても大きく展示されています。すでに日本の右翼政治家が問題視していますが、民間が作ったミュージアムなのでどうすることもできないでしょう。どうかみなさん、ぜひカナダに来てください。私がご案内いたします。
(以上)
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| 閉会の挨拶で「体験」の重要さを訴える、アジア・フォーラム横浜代表の 吉池俊子さん。 |



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