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Thursday, July 17, 2008

東京大空襲・戦災資料センターと言問橋を訪ねて

Peace Journalist 菊野由美子

隅田川に架かる言問橋の上で、見つめ合い手をつないだ恋人たちが川へと飛び込む。お母さんとはぐれた少年がおもちゃを手にしたまま川へ飛び込む。しかし、後から後から川へと飛び込む人達に、その恋人たちの手は引き離され、少年は溺れて息絶え、握っていたおもちゃが手から離れて川底へと沈んでいく。そして、西へ逃れようとする人、東へ逃れようとする人たちが溢れかえっている言問橋を一瞬で猛火が襲う。まるで、草原の草が燃えているようだ。しかし、燃えているのは草ではない、人間だ。
   今年3月に東京大空襲の様子を再現したテレビドラマが2本放送された。そのうちの1本のワンシーンである。広島・長崎や、沖縄地上戦の惨劇のドラマはよく作られていたが、東京大空襲を描いた作品を観たのは初めてだった。そしてこのドラマが、私をある場所へ行かなくてはという強い思いを呼び起こした。それは、東京都江東区にある東京大空襲・戦災資料センターである。



1945年(昭和20年)3月10日未明、約300機のアメリカ軍爆撃機B29が東京下町を集中無差別空爆した。降り注いだ焼夷弾32万発は町を猛火の海とし、その灼熱は逃げ惑う人々の衣服や髪もわしずかみにし、息ながら火だるまとなる。この一晩で東京の4分の1が焦土と化し、10万人もの命を奪った。その廃墟の町には、焼死、溺死、一酸化炭素中毒死の他、炭化して原形を留めていない遺体がおびただしく積み上げられていた。2時間あまりの爆撃で、10万人もの人が死んだという記録はそれまでの戦争史にない。さらに、犠牲になった人々のほとんどが、徴兵男性の留守を守る女性、子供、お年寄りだった。                 

母子像「戦火の下で」河野新さん作

この惨劇を後世に残すために建てられたのがこの資料館である。だが、完成までの道のりは長かった。1970年、このセンターの館長であり作家の早乙女勝元氏が「東京空襲を記録する会」を呼びかけた。しかし、1999年に東京都の「平和祈念館」建設計画が凍結された。それまでに集めた膨大で貴重な資料をこのままにはしておけないと「政治経済研究所」のグループと共に草の根の民間募金運動に奔走した。そして約4000人からの募金で目標額の1億に達して、2002年3月9日に「東京大空襲・戦災資料センター」が完成した。さらに、2007年3月には増築し内容がより充実された。


「世界の子供の平和像」


このセンターはレンガ造りの3階建てで、一番被害が大きかった江東区北砂にひっそりと建っていた。1階は受付、研究室、資料などが陳列されている。2階に上がり、1978年3月に放送されたNHK特集「東京大空襲」の縮小版(25分)を観た。 それによると、それまでの爆撃は軍事施設だけであったが、カーチス・E・ルメー少佐が指揮官になってから、一般民間人も巻き込む無差別爆撃作戦がはじまったなどのアメリカ軍の戦術の解説がされた。そして、暗闇の東京下町が白い炎に包まれていく様子が時間を刻みながら映し出される。遺体収集作業にあたった男性が言う。「川の死体を引き上げたら、次の日の朝の満潮時にまた死体があふれている。いったいこれだけの遺体がどこからくるのか・・・。」そして、取材当時72歳になっていた東京大空襲を指揮したカーチス・E・ルメー将軍のインタビューを試みた場面がある。彼は、遠い昔のことだから忘れたい、とインタービューを拒否したが、日本から送られた勲一等の勲章の撮影だけは許してくれた。これは、戦後19年経ってから、航空自衛隊の訓練に貢献したとして贈られたものだった。


2階はその他に、空襲を描いたさまざまな絵画、写真や被災地図が飾られている。当時、警視庁警務課写真係だった石川光陽氏が撮影した空襲後の無残な町の様子などの写真が見られる。これらの写真は戦後、石川氏がGHQからのネガの引渡し要請を命をかけて断り続け守られたものである。また、私は被災地図に記してある仮埋葬地を見て、錦糸公園に1万人以上の遺体が仮埋葬されていたことを知り足がすくんでしまった。ちょうど2,3日ほど前、次の約束までに時間があったので、お弁当を買って昼食を取った公園だった。新緑が美しい木々に包まれながら、乳母車で散歩するお母さんと赤ちゃん、お孫さんと遊ぶおじいさん、お弁当を広げて談笑するOLさんを眺めながら、「平和だなぁ。いいなぁ。」と自分の心を休ませていた場所だ。しかしその場所は当時、1万人以上の犠牲者の魂が安らぐ場所ではなかった。




3階は、実際に投下された焼夷弾や被災品が展示されている。そして「戦争と子供たち」と題するコーナーでは、戦時中の教育の様子を学ぶことができる。1941年に国民学校がスタートし、皇室を支え、天皇の忠実なる臣民となることを求められていた。愛国イロハカルタやメンコで遊んでいた当時の子供たちを思うと心が痛い。




   この資料館で私が気に入っているコーナーが次に来る。そこには、平和の絵本や早乙女勝元館長の著作、平和への取り組みが展示されている。また、吉永小百合氏、手塚治虫氏、童画家のいわさきちひろ氏などの著名人よる平和へのメッセージを見ることができる。東京大空襲の惨劇を知り、恐怖、憤り、悲しみだけを心に残したまま資料館を去るのではなく、そんな気持ちを超越させてくれるやさしさを感じる空間だった。

東京大空襲資料館を訪ねた次の日、私はドラマの舞台にもなった言問橋に来た。浅草雷門から歩いて5分ほどの場所にあり、隅田川は穏やかに流れていた。川岸は木々の緑あふれる遊歩道になっており、ウォーキング、ジョギング、散歩を楽しむ人たちにやさしい日かげを作ってくれていた。また一方、ホームレスの人たちがたくさん集まっているのを見た。そして、言問橋のたもとで「ごめんなさい。安らかに。」と手を合わせた。それでもまだ私は、この場所であのような惨劇が起こったのが信じられない気持ちでいっぱいだった。しかしその後少し遊歩道を歩くと、引き寄せられるようにあるものを見つけた。それは東京大空襲で亡くなられた方々のための慰霊碑だった。それには、「あぁ、東京大空襲 朋よ安らかに」と刻まれていた。その碑を前にして、言葉で言い表せない気持ちがあふれてきた。そしてもう一度言問橋に駆け寄って、手を合わせて心から祈った。



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