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Friday, May 23, 2014

"No is a complete sentence" - ニューヨークで稲嶺市長を迎えたてい子・与那覇‐トゥーシーさんのレポート

(5月25日に一部加筆訂正、再投稿しております)

海兵隊新基地に反対するために訪米した稲嶺進名護市長の日程は無事に終わりました。この旅のコーディネートをしたシンクタンク「新外交イニシアティブ」のフェースブックに報告や写真、報道が掲載されています。この訪米や日本や沖縄のメディアだけでなく、ニューヨークタイムズブルームバーグでも報道されました。
 
稲嶺市長の17日のニューヨークにおける公開イベントは「IWJ岩上安身ジャーナル」でもネット中継されており、私はバンクーバーから見ておりました。質疑応答の時間で、沖縄・名護出身で現在ニュージャージー在住のてい子・与那覇-トゥーシーさんが語った思いには圧倒されました。その夜には、ニューヨークの居酒屋で懇親会がもたれたようです。その日の感想をてい子さんが送ってくれて、私が許可をいただいてここに掲載することとなりました。   @PeacePhilosophy 乗松聡子
 
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下記の内容は単なる私の感想です。別に掲載用の原稿でも何でもありません。ウチナンチュ、ナグンチュとしての心境を分かち合いたいだけです。

去った 5/17(土)NY 沖縄県人会を中心に わったーナグンチュ達を迎えての宴会をニューヨークにある「浪人」という居酒屋で行いました。40 人程集まり貸切り状態の雰囲気の中で ウチナーウドゥイもしました。稲嶺市長さんも踊りました。Cool  で Humble な人格者だと私に話す会員達もいました。クンジャンさばくい(国頭さばくい)は空手の振りで昔から村芝居で踊られている伝統物。その踊りには男だけ 5, 6 人踊らせました。タイムスの記者: Mr. 伊集は「取材-写真を撮りますので…」と ヌガーラレ ました(笑)。
 
稲嶺市長が踊リ始めると 3人 の女性会員達も参加しました。
この踊りは「カジャディ風」といって歓迎する踊りで、つまり当会のメンバーが踊るものですが、歓迎される側の市長さんが踊っているので、親しみを感じ "down to the earth" な市長だと直ぐ大人気あり でした。誰もサンシンは持って来なかったので、5, 6 人程で、大合唱して合わせていました。彼はきちんと踊っていましたよ。
 
☞ ところで、昼間の1時からは、その居酒屋から 2, 3丁目の場所で名護市長の講演会があり勿論、私も参加。場所狭しの部屋は超満員。後で立っている人達で大勢。私は前から二番目の席。2004年の沖国大での米軍ヘリ墜落と現在の大浦湾の映像を見せての説明。稲嶺氏のスピーチの締めくくりは、その様な状況、県民の声を全く無視し「力」で成し遂げようとする日本政府…それは民主主義と言えるだろうか!? ニューヨーク でこんな事があり得る事だろうか? とても落ち着いて誰にでも納得可能な講演でした。

あの12月27日以来私の脳裏では常にぐずついていた石破茂 幹事長らに 知事は事前に直接、間接 洗脳されていた, との強い疑いもはっきりしました。知事の受信・発信 の能力を疑わざるを得ない対話スキルの限度。再選の選挙公約を破り Yes と返事した県民代表。もしそれが中近東かアフリカ、ロシア辺りなら暗殺されていると、と読谷の(元議員)山内氏の(元)書記、森木さんに私は去年そう返信しました。

さて、「瀬嵩」の濃厚な青海が映った時、私は、心臓が喉元に飛び移ったかの様な瞬間的な強烈を感じました。その海は私の母の出身地瀬嵩である。私の兄貴、石川真生の父親は6歳頃まではそこで育った。私は小学の頃  弟達と夏休みを 浜辺に近かった母の実家で過ごし, 丁度その画像に映っている場所で泳いだり貝殻を拾ったりの夏休みだった。父は戦死。終戦後の食料不足で夏休み中は お米、芋、海産物豊富な瀬嵩に私達は つまり あづけられて いたのだ。その頃はその海岸に離れた小さい森島みたいなのがあった。私は泳いでそこに這い上がった事もある。その森島に松の木が生えていたのを明確に覚えていたので、名護市長さんにそれは違う場所の海かと尋ねたら、同じ海岸であの松の木は枯れてしまったと返事をもらった。私はその時 NYC のど真ん中で 67 年前の記憶にさかのぼっていた。

今この会場で自分には二つの選択がある。ここでじっと黙って  後で行わられる歓迎会で何もなかったかの様に楽しむか、或いは、今迄堪えてきた意見を心底から発言するか…であった。会場対象の質疑応答の時間がきた。3, 4人目かに立ち上がった若い女性が、「沖縄県からN Y に 6年前にやって来ました。基地が無くなると沖縄人の生活はどうなるか?」私は、一見教養ありのこの娘さんの質問に対し苦笑した。その時私は、立ち上がらなければ、若いのに こんなウチナンチュも N Y にいるのだから ウチナーオバーとしての責任感を抱いた。そして時計をチェック。この会場は3時半まで。

実は、国際結婚した人達で沖縄を発った 終戦直後当時から1950年代、60年代、70年代…‥とのあの原点で沖縄現地への認識は Stop している人達が結構いる。沖縄は基地が必要なのだから、何故それが問題なの? と真剣にそう思っている ウチナンチュ達も多い。沖縄問題、基地問題は 何らかの理由で全く無関心か、或いは Denial、否認、否定的である。両英和言語でも対応不可能か 或いは 限界あり  の人達、又単に波風を立てたくない、故に  事 無かれ主義を選ぶ、というタイプ、それが残念な現状であろう。

実は、あの12月27日以来 私は常に石破 茂幹事長が影響していて裏に何かある…戦時中防空壕に避難していた時に B-29 と同じ位い怖かった「友軍」を思い出させるあの男、のイメージが脳裏にあった。自民党5氏が後に座っている背景で石破がマイクで話している新聞記事、それを手に取って 稲嶺氏は講演を続けていた。その新聞記事を見て、成程と直感した。NHK で見た あの日,  東京で車椅子の知事の見当意識への私の直感は命中だった。彼の思考過程と結果的な判断能力が 察知できた。パズルが解明したと思った。そして悔しくて 腹が立ち、アキサミヨ  情けなかった。

沖縄の立場、沖縄現地での上の決定者達に向かって私は話し出すつもりで手を上げた。英語で話し出した。米国に丁度50年在住している名護出身の者です、と自己紹介。さっきの県出身の娘さんの方向に向かって私は現在の新都市が Machinato Housing (マチナト  ハウジング) と 呼ばれた時代にそこに家族で住んでいたが、そこが返還されたあとの現在は実に素晴らしい都市になっている…と言った。その後、今は孫が 4 人いる話にまでなった。そしてあの時代は1ドルは 360円 だった、とさっきの娘さんに向かって追加した。それから私の話テーマの "No is a complete sentence." (No とは完全なる文章である)と話し  それを強調する為に続けた。それはたった二文字から出来た文章なのである。

最後に沖縄人は, 米国や日本政府だけを責めるだけでなく沖縄人皆が統一して権利を威厳よく発揮せねばならないとか、そして No  はあくまでも No  である、と話し終えようとすると  途中だったが拍手された。市長さん達は同時通訳で聞いていました。私は仲井真知事の名前こそ一度も口にはしなかったが、Governor (知事) と一度言ったのを覚えている。誰にでも直ぐさとられた内容であった。講演後、ビルの外でも色んなメディアの人達とも話しあった。

仲里さん(市長秘書)は「浪人」で私に(国際結婚した人から)NY で単刀直入にしかも公衆で政治観、意見を耳にするとは大変以外で心から嬉しかったと感動をのべた。私は 非常に心温まる思いを感じ ますます勇気が湧いた。

あぁ、心理的に便秘していた課題はすっきりしました。ウチナーの為にもっと前進しよう❢

てい子より、

(旧姓: 与那覇定子  名護市字名護出身) 
Teiko Yonaha-Tursi, from New Jersey

 
左から、名護市の仲里さん、てい子さん、稲嶺市長、岸本さん
 
 

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