25年11月18-24日の「撫順の受け継ぐ会 関西支部 第10次訪中団 ~ 成都・重慶・廠窖・常徳 ~」に参加した自分の感想文をここにシェアします。
| 成都の大熊猫繁育研究基地にて。パンダの名前は覚えきれないほどたくさんいた。 |
高市首相「台湾発言」の波紋の中、中国西南・華中を旅する
撫順の奇蹟を受け継ぐ会関西支部 第10次訪中団 参加感想文
乗松聡子
2026年1月25日
まず、参加者が少なめだったにもかかわらずこの旅を実現させてくださった野津さん、そして、各地でガイドをしてくださった曾誠さん、蔡昌錫さん、李衛雄さん、旅を一緒にしてくださった8人の友人たちに、心よりお礼を申し上げたいと思います。
この旅は期せずして、特別な意味を持ったと思います。11月7日、高市早苗首相が国会答弁で、「台湾有事」が、「存立危機事態」となりうるという発言をしました。そもそも違憲法制である「安保法制」で規定されている、集団自衛権の行使の条件のひとつとなり得る、つまり自衛隊発動の法的根拠となり得るという発言だったのです。
これは、1972年の日中国交正常化時の、日中共同声明以来の「ひとつの中国」の尊重を約束し、二度と侵略戦争をしないという約束をした日本の、中国に対する裏切りでした。中国からみたら、大日本帝国の軍国主義がふたたび首をもたげた、再侵略宣言と受け取られたのです。
この発言で中国政府も人民も激怒していたときにこの訪中が重なったことで、いくつかの困難がもたらされたことは否定できませんが、逆に、この時期の中国の空気を肌で感じ取ることができたことは、貴重な体験だったと思っています。それはただ「貴重な体験をした」で終わるような自分勝手な感想ではなく、その後の自分の行動の指針となったという意味です。
| 大熊猫繁育研究基地 |
この旅で最初に行ったのは成都の「大熊猫繁育研究基地」でした。私は、1972年国交正常化のシンボルとして中国からやってきたカンカンとランランを見たく、上野動物園で母の手を握って2時間並んで、初めてのパンダを見た世代です。2026年1月現在、双子パンダのシャオシャオ&レイレイも中国への帰国が決まり、日本にパンダがいなくなります。
そういう意味でも、成都で、たくさんの元気なパンダを見ることができたのは特別でした。私は、一番人気の、体が三角おにぎり形のかわいすぎるパンダ「花花(ファーファー)」を見たいと思っていましたが、ガイドの曾さんから「花花は3時間待ちです」と言われてしまいました。またこんど出直したいと思います。建川博物館 侵略に対し毅然と立ち向かう人々
建川博物館は民間の、30もの展示館がある巨大な施設でした。私たちが見学で重点を置いたのは、日本軍の残虐行為を展示する館でした。
「奴化教育罪行」の展示では、占領地で人民を従順な愚民にさせる教育が「軍事占領や民族抑圧、経済的搾取よりもさらに陰険で、より悪辣で、より欺瞞性に富み、危害もより深刻」と表現されていました。占領肯定を中国人民に内面化させる教育は確かに、民族の誇りや抵抗の気力も奪う、一種の拷問と言えるものではないかと思いました。
日本軍性奴隷については「日軍姦淫罪行」と書かれていました。同じ残虐行為でも、日本語での表現とは違う中国語表現に出会うと、より本質に近づくような気がします。ここでは性奴隷にされた女性の全裸の写真が名前とともに展示されており、ドキリとしました。事実ではあったにせよ、このような展示は必要だったのかどうか疑問を抱きました。
中国では日本軍の残虐行為「惨案」が数えきれないほど起こりました。この展示館でもそれを実感します。たとえば潘家峪の虐殺―1941年1月25日、日本軍は「密かに河北省豊潤県潘家峪を包囲し、村民1,230人を残忍に虐殺した。全村はほぼ壊滅した。」という事件の展示がありました。ここも行ってみなければと思いました。
成都から重慶へ乗った、高速鉄道
重慶では、抗日戦争期から新中国成立後にかけての中国の民主党派の諸政党と中国共産党の協力関係の歴史を紹介する「中国民主党派歴史陳列館」、「民主の家」といわれ、抗日戦争期、毛沢東が張潤ら民主人士と会談した場所であるという「特園」を訪れました。
また、1938年以降、国民政府の臨時首都が置かれた重慶に、中国共産党が「紅岩村」に拠点を置き、抗日民族統一戦線の交渉、国民党との連絡・折衝、国内外への宣伝活動などを行った場所、「紅岩革命記念館」も見学しました。
| 「重慶大爆撃惨案遺址」の展示より。 逃げ道を求める市民の姿 |
「重慶大爆撃被害者による対日賠償請求訴訟」原告団事務所では、幸存者の方々とお会いすることができました。7歳のときに空爆で両親を失い、自分も頭に生涯の傷を負った93歳の陳桂芳さんが、涙ながらに体験を語ってくれました。日本軍の攻撃は一瞬でも、生き残った孤児の貧困と苦労に満ちた人生は、そこから長期にわたって続くのだということを思い知らされました。
重慶爆撃幸存者たち。腕を見せているのが陳桂芳さん。
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| 高鋒さん 細菌戦受害者名録の前で |
湖南省の廠窖(チャンジャオ)という町は、旅の前まで地名も聞いたことがありませんでした。ここでは1943年5月9日から11日、3日間で3万にも及ぶ市民が集団虐殺・強姦殺害・略奪・焼き討ちにされました。廠窖で日本軍は、およそ人間とは思えない行為に及びました。女性を捕まえ、父、兄との性交を強制し、側に親族を無理やり立たせ、笑うよう強要し、笑えないと刺殺したというのです。南京大虐殺でも同様の話を聞いたことがあります。廠窖惨案犠牲同胞記念館 静かな敷地内の様子
「廠窖(チャンジャオ)惨案犠牲同胞記念館」の広大な敷地内には、記念館のほか、追悼碑、「血みどろの川」、「警鐘亭」など、当時の記憶を語り継ぐ場所がちりばめられています。「平和の広場」には、日本軍の残虐を伝える「焼毀(焼き討ち)」、「搶奪(略奪)」、「活埋(生き埋め)」、「奸淫(強姦)」を象徴する生々しい銅像が建てられていました。
訪問する直前、記念館はメンテナンスのため一週間閉館すると告げられたそうです。お会いできるはずだった幸存者の方も、訪問する日の朝に病院に運ばれたということで、お会いすることはできませんでした。私たちは追悼碑の前で、警備員が見守る中、静かに献花し、追悼しました。
廠窖惨案死難同胞記念碑 |
近代日本の初の海外出兵は、1874年の台湾出兵でした。日清戦争に勝った日本は清国から台湾を奪い、50年間植民地支配しました。「台湾」は、中国にとって大日本帝国による70年余の侵略戦争を象徴する地域です。高市首相の発言は絶対に許せるものではありません。中国政府は日本渡航自粛を呼びかけ、日本関連の交流プログラムなどが軒並み中止されました。
廠窖での次々のキャンセルは、この動きと無縁ではなかったと思います。当然だと思いますし、このようなときに日本からの団体が来て献花させてもらっただけでも、ありがたいことと思います。
旅は、毛沢東が青年期を過ごした長沙で終わりました。団体旅行はここで終わりましたが、私は、参加者のうちの一人の和田さんと共に、武漢に向かいました。武漢は、私の父が生まれた場所であり、私の祖父が漢口日本租界(という植民地)で新聞社を通じてプロパガンダ活動をしていたことから、今回訪問し、4日間、調査や見学を行う予定でした。
ここでも、地元の大学との交流の計画が当初ありましたがキャンセルとなり、私が個人的に通訳とガイドをお願いしていた北京の大学の大学院生も、漢口で一日過ごしただけで呼び戻されました。ハプニングはこれだけではなく、着いた翌日から私は具合が悪くなり、重い風邪の症状で寝込んでしまいました。このとき、地元の武漢に戻っていたガイドの李さんや、上海から会いに来てくれていた友人たちが、病院に連れていってくれたり、宅配で食べ物や薬を届けてくれたりしました。ホテルの部屋でTVをつければ高市批判。
なかには、日本にいる中国人の友人までが武漢の友人に連絡して、食事を届けてくれたりもしました。テレビをつければ高市批判特集をやっている中国において、中国の友人たちの思いやりと優しさは、一生忘れることはできないでしょう。ホテルの部屋に可愛い配達ロボットが現れるたびに、気持ちがありがたさでいっぱいになりました。
そばにいて支えてくださった和田さんにも感謝しています。この旅の学びと、お世話になった方々の厚情に報いるには、日本に戦争および戦争準備をさせない努力を続けるしかありません。帰国後、「村山談話を継承し発展させる会」で高市「台湾発言」撤回要求大会を行いました。2026年になった今、いきなり選挙となり、高市政権を打倒しなければと思っています。日本国憲法を守り、二度と侵略戦争を行わない国にしなければいけません。
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| 漢口のホテルの窓からの夜景 |
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