広島市立大平和研究所教授・田中利幸さんは3月19日、バンクーバーの「ピース・フィロソフィー・センター」で地元の市民向けに日本語で講演しました(共催:バンクーバー九条の会)。米国公文書館からの最新の資料もまじえて、戦後日本、特に広島をターゲットにした原発推進、「科学立国」を盾にした科学者たちも含む無批判の「平和利用」推進、その背景には日本に原爆を落とした上、戦後も「核」で日本を支配し続けようとしてきた米国と、核兵器製造への野望を抱き続けてきた日本の共謀や駆け引きが行われてきたことを明解に説明してくれました。私にとっては、50年代、米議員イエーツが広島に原発をプレゼントしようとした動機に、被爆者のための病院を作るより「有効」であるという考えがあったということが衝撃的であり、日米の一連の核政策が、結局は市民の命や安全や健康を犠牲にすることで成り立ってきたということを象徴する発言であると思いました。
そして以下の田中氏の結論にもあるように、
・・・かくして、日本の反核運動の主流ならびにその重要な一部を担ってきた被爆者たちのみならず、国民のほとんどが、「原子力平和利用」についてはほとんど本質的な検討をしないまま、核兵器保有・使用・持ち込みにだけは反対という態度をとってきた。しかし、核兵器保有・使用に関してもまた、我々は、これが基本的には単にアメリカをはじめとする核兵器保有国の問題であるとしかとらえず、いつもこの問題を「原爆被害者」の立場のみから見るにとどめ、日本政府自体が核兵器製造・所有を核エネルギー導入の最初から企て、その製造能力維持を長くはかってきたことを、いわば「加害者となる可能性」という観点から直視しようとはしてこなかった。原発と核兵器が別ものであるとの錯覚によって双方の存続を許してきてしまったことを認識し、原発と核兵器の問題を自分たち自身の問題として捕え、市民が活動・発言していく大事さを改めて確信しました。@PeacePhilosophy
3月19日バンクーバー「ピース・フィロソフィー・サロン」で講演する田中利幸氏 |
講演概要
「原子力平和利用」と日本の核兵器製造能力維持政策
広島平和研究所
A)はじめに 講義の概略
「原子力平和利用」導入の三つの動因
(1) 米国の覇権戦略としての「原子力平和利用」— とくに日本の被爆者・反原水禁運動への心理戦略を目的とする「平和利用」—
(2) 科学者を含めた戦後進歩的潮流の科学技術進歩志向と近代イデオロギー
(3) 戦後保守政治勢力の改憲・核武装への野心と核持ち込みへの経過
B) 原爆開発と「原子力平和利用」の歴史的背景
1938年、ドイツの化学物理学者オットー・ハーンとリーゼ・マイトナーが、人類史上初めてウランの核分裂実験に成功。そのわずか7年後の1945年7月16日午前5時半、米国アラモゴードで史上初の核実験「トリニティ」。その3週間後の8月6日午前8時15分、広島上空に投下されたウラン爆弾が炸裂し、7万人から8万人の数にのぼる市民が無差別大量虐殺の犠牲となる。その3日後の午前11時2分、今度は長崎にプルトニウム爆弾が投下され、4万人が即時に殺戮され、年末までに7万4千人近い人たちが亡くなっていった。
広島・長崎原爆投下からほぼ2年後の1947年7月26日、米連邦議会で「国家安全保障法」が成立し、これをもって「冷戦」が正式に始まった。戦後の核技術の新しい応用の重要な一つが、潜水艦の「動力源」。原子炉を使い、燃料交換なしで長時間、長距離を潜水航行でき、核弾頭を装備したミサイルを適地近辺の海域から発射することができる潜水艦ノーチラス号の開発。この潜水艦用の原子炉が沸騰水型の「マーク I 原型」=福島第1原発の原子炉と同型。
第2次大戦直後の数年間はアメリカが核軍事力を独占していたが、それも1949年8月29日にセミパラチンスクで行われたソ連初の核実験の成功で終わりを告げた。さらにソ連は、1953年8月12日に水爆実験と思われる核実験を行った。これに対抗して、アメリカ側は、1951年から53年にかけて、合計36回の爆発実験を実施し、軍事力の誇示に努めた。こうした事態のために、近い将来に米ソ間で核戦争が引き起こされるのではないかという不安が高まってきた。
このような緊張した状況を緩和する手段として、1953年12月8日、米大統領アイゼンハワーが、国連演説で “Atoms for Peace”、すなわち「原子力平和利用」なる政策を打ち出した。このアメリカの平和政策の背後には、アメリカ軍事産業による西側同盟諸国資本の支配という野望が隠されていた。
史上初の核兵器攻撃の被害国である日本も、アメリカのこの「原子力平和利用」売り込みのタ−ゲットにされ、アメリカ政府や関連企業が1954年の年頭から様々なアプローチを日本で展開し始めた。その結果、日米安保体制の下で、兵器では「核の傘」、エネルギーでは「原発技術と核燃料の提供」、その両面にわたって米国に従属する形をとるようになった。その結果、日本政府は、核兵器による威嚇を中心戦略とする日米軍事同盟と、原発からの放射能漏れならびに放射性廃棄物の大量蓄積の両面で、これまで多くの市民の生存権を長年脅かしてきただけではなく、そのような国家政策に対する根本的な批判を許さないという体制を維持してきた。
C)広島ターゲット作戦第1弾:「広島に原発建設を」
1954年3月、ビキニ環礁における米国の水爆実験で第5福竜丸が死の灰を浴びるという大事件によって急激な高揚をみせた日本の反核運動(3千2百万人が反対署名)と反核感情を押さえつけ、さらには態勢を逆転させるため、さまざまな「原子力平和利用」宣伝工作を展開。
1954年9月21日:
米国原子力委員会のトーマス・マレーが、アトランティック市で開催された米国鉄鋼労組大会で、アメリカ援助による原発の日本国内建設を提唱。
「広島・長崎(原爆投下)の記憶が鮮明にまだ残っている今、日本のような国にそのような(原子力)発電所を建設することはひじょうに劇的なことであり、かつまた、これら二つの都市に対して行われた殺戮の記憶から我々を遠ざけるキリスト教的行為ともなる。」「このようにして、我々は、汝の敵を赦せという十戒に現実的な意味をもたせることができるのであり、暗澹として疑心に満ち、分裂状態にある現在の世界に対して、我々が関心をもっている核エネルギーは、単に兵器にのみ限られたものではないということを知らしめることができる。」
1955年1月27日:
米国下院の民主党議員シドニー・イエーツが広島市に日米合同の工業用発電炉を建設(建設費2億2,500万ドル、出力6万キロワット、資源はアメリカから持参3年計画)する緊急決議案を下院本会議に提案し、2月14日の本会議でも再度この決議案に関して演説。
「日本の場合、戦争が産み出した原子が日本人に与えた焼印の傷を消し去ることで役立ちたいという我々の願い、そのような友情を築く上で、原子を平和という形で利用し、自然資源が極めて少ない彼らを助けるという形での奇跡を可能にするほど現実的なやり方はない。」
「(その意味で、)原子力の平和利用に向けての原子炉を、原爆による破壊を初めて受けた場所に建設することは極めて適切であると私は考えます。」
同年2月4日、イエーツは、上下両院合同原子力委員会およびアイゼンハワー大統領に書簡を送り、同決議案の実現を要請したが、その書簡の中で次の3点を明らかにしている。
1. 広島を原子力平和利用のセンターとする。
2. 私の考えでは広島の原子力発電所は3年以内に操業できる。
3. 私は最初原爆に被災し、いまなお治療を要する6千名の広島市民のため病院建設を計画したが、原子力発電所建設の方が有用だと考えるに至った。
広島側の反応:
浜井市長:「医学的な問題が解決されたなら、広島は“死の原子力”を“生”のために利用することは大歓迎」。
渡辺市長(5月に市長に就任):「原子炉導入については世界の科学的水準の高い国々ではすべて原子炉の平和利用の試験が行われ、実用化の段階に入っているので、日本だけ、広島市だけいたずらに原子力の平和利用に狭量であってはならない。適当な時期に受入れる気持である。」
長田新(おさだあらた)広島大学名誉教授で、子供たちの原爆体験記『原爆の子』を編集):「米国のヒモつきでなく、民主平和的な原子力研究が望ましい。」
森瀧市郎(当時、広島大学教授、原水爆禁止広島協議会の中心的人物):「アメリカ人に広島の犠牲のことがそれほどまっすぐに考えられることならば、何よりもまず現に原子病で苦しんでいる広島の原爆被害者の治療と生活の両面にわたって一部の篤志家だけに任せないで、国として積極的な援助をしてもらいたい」と拒否反応。のみならず、反対の理由として、原発が原爆製造用に転化される懸念、平和利用であってもアメリカの制約を受けること、さらに、戦争が起きた場合には広島が最初の目標になる危険性を挙げている。
しかし、全般的には、多数の被爆者が「原子力平和利用」に対し、最初から「条件付き賛成」という態度を表明。
アイゼンハワー大統領ならびに国務省の意見:
「広島に原子炉の贈り物をという提案は、ある人々には米国が(原爆投下という)罪を認めたと受け取られ、米国の対日本政策を損なうものとなるであろう。」
「このような提案は、広島で核兵器用の(高濃度)プルトニュウム生産が可能となり、それが米国に輸送されるということであり、そうなれば、我々が広島で生産したプルトニュウムを兵器用のために貯蔵しているという非難にさらされるという、心理的ブーメランについても考慮する必要がある。」
D) 広島ターゲット作戦第2弾:「原子力平和博覧会」
「ホプキンス原子力使節団」訪日(1955年5月9日から1週間):
読売新聞社主・正力松太郎が、原子力援助百年計画の提唱者であるゼネラル・ダイナミック社長のジョン・ホプキンスを代表とする「ホプキンス原子力使節団」を東京に招待。滞在中に、鳩山首相と懇談させたり、随行員として連れてきたノーベル物理学賞受賞者、ローレンス・ハウスタッドに「平和利用」に関する講演会を日比谷公会堂で開き、テレビ中継を行ったりした。
「原子力平和利用博覧会」(東京:読売新聞主催、1955年11月1日〜12月12日):
この博覧会は、アメリカが当時、“Atoms for Peace”政策の心理(=洗脳)作戦の一部として、CIAが深く関与する形で、米国情報サービス局(USIS)が世界各地で開いていたものであった。
広島での開催(1956年5月27日〜6月17日の3週間):
東京の後、名古屋、京都、大阪、広島、福岡、札幌、仙台、水戸と巡回。広島の場合には、広島県、市、広島大学、アメリカ文化センター(ACC=USIS)および中国新聞社の共同主催で、予算は728万円を計上。会場=平和公園内に前年8月に完成した広島平和記念資料館と平和記念館(現在の平和記念資料館東館)。
展示物の中で広島にとって「適当」とみなされるものを、アメリカ側が広島平和記念資料館に寄贈=アメリカ側は、最初から「原子力平和利用」宣伝が、広島で、しかも原爆被害の実情を伝える目的で建設された平和記念資料館内で、繰り返し行われることを狙っていた。
展示内容:
(1)原子力の進歩に貢献した(湯川秀樹を含む)科学者の紹介(2)エネルギー源の変遷(3)原子核反応の教育映画(4)原子力の手引(5)黒鉛原子炉(6)原子核連鎖反応の模型(7)放射能防御衣(8)ラジオアイソトープの実験室(9)原子力の工業、農業、医学面における利用模型(10)田無サイクロトロン模型(11)マジックハンド(12)動力用原子炉模型(13)CP5型原子炉模型(14)水泳プール型原子炉模型(15)原子力機関車、飛行機、原子力船の模型(16)移動用原子力炉、実験用原子炉模型(17)PGD社原子力発電所模型(18)原子物理学関係図書室
配布パンフレット『原子力平和利用の栞』:
「原子医学が無数の人々の命を救ったことは周知のことである。原子力によって農場では食糧が増産された。商業面では、洗濯機・たばこ・自動車・塗装・プラスチック・化粧品など、家庭用品の改良のために。アトム(原子)は一生懸命はたらいてきた。
豊富な電力は冬にはビルをあたため、夏にはビルを冷房してくれる。だが、原子力はそれ以上の意味があるのだ。医者は本世紀の終わりまでには、ある種の危険な病気は完全になくなるだろうと予言する。もし、われわれが賢明であれば、原子力はすべての人に食を与え、夢想にも及ばぬ進歩をもたらすことになろう。」
「病院では、ラジオアイソトープは奇跡をあらわす名医である。その放射線は腫瘍やガンの組織を破壊する。それは赤血球の異常増加を抑止し、アザをとり除き、甲状腺の機能状態を明らかにして、その機能昂進を抑制する。血液の中に注射されると、その放射線は人間が生きるためには何リットルの血液が必要か、また血球の補充力が低下しているかどうかを医者に告げる。」
かくして、原子力利用は、発電のみならず、医療、農業、工業など様々な分野で、今後飛躍的な一大進歩を遂げることが期待されており、「全人類の福祉のために、その前途は無限に輝いている」というメッセージになっていた。
広島で開催された「原子力平和利用博覧会」への入場者数は記録的な数となり、中国新聞報道によると、「広島会場の総入場者数は10万9,500名。広島の男女知識層を中心に遠くは長野県、茨城県、北九州からの見学者、全国校長会議出席者、中国5県からの団体見学者など各地のあらゆる階層の老若入場者を集めた。」この博覧会で上映された原子力利用に関する11種類の映画は、広島アメリカ文化センターの管理下に置かれ、学校や文化団体に貸し出すという制度も設置された。
博覧会閉会後、原爆関係の展示物がもとに戻された資料館では、悲惨な原爆展示物を見終わった見学者が、見学の最後には、突然に、「原子力平和利用」に関する展示が置かれた、輝くような明るい部屋に誘導され、そこを通過して退館するような見学コースに変更。
E)
「広島復興大博覧会」
広島復興大博覧会:(1958年4月1日から50日間の会期)
平和公園、平和大通り、新しく復元された広島城の三カ所に、テレビ電波館、交通科学館、子供の国といった合計31の展示館を設置。中でも最も人気を集めたのが、史上初のソ連の人工衛星を展示した宇宙探検館と原子力科学館。原子力科学館には、アメリカが期待していたように、「原子力平和利用博覧会」の際に寄贈された展示物が再び展示され、その展示館として広島平和祈年資料館が再度当てられた。
今回は、原爆関係の展示物を別会場に移すことなく、「原子力平和利用」展示物と並列させるというスタイルがとられている。展示物を並列させることで、「核兵器=死滅/原子力=生命」という二律背反論的幻想を強烈に高めた。
『広島復興大博覧会誌』:「近い将来実現可能な原子力飛行機、原子力船、原子力列車などの想像模型が並べられている。人類の多年の夢が、今や現実のものとなってくるかと思えば本当に嬉しい限りだ。原子力の平和利用は、世界各国が競うて開発しているところであるが、ここには各国最新の情勢が写真でもって一堂に集められている。今や日進月歩の発展を遂げつつある世界の原子力科学の水準に一足でも遅れないようにわが国も努力をつづける必要があると痛感させられる。」
この復興大博覧会を訪れた見学者は、「原子力平和利用博覧会」の見学者のほぼ9倍にあたる91万7千人。
まさに地獄のような原爆体験をさせられ、放射能による様々な病気を現実に抱え、あるいはいつ発病するか分からないという恐怖のもとで毎日をおくっている被爆者たち、しかも被爆者の中の知的エリートたちまでもが、なぜゆえに、かくも簡単にこの二律背反論的幻想の魔力にとり憑かれてしまったのであろうか?
かくも苦しい体験を強いられ、愛する親族や友人を失い、自分も傷つけられた被爆者だからこそ、「貴方たちの命を奪ったものが、実は、癌を治療するのに役立つのみならず、強大な生命力を与えるエネルギー源でもある」というスローガンは、彼らにとっては、ある種の「救い」のメッセージであったと考えられる。
アメリカにとって、とりわけ原子力推進にかかわっていた政治家や企業家にとっては、「毒を以て毒を制す」ごとく、原爆被害者から「原子力平和利用」支持のこのような「お墨付き」をもらうことほど有利なことはない。それゆえにこそ、広島が、とくに被爆者が、「原子力平和利用」宣伝のターゲットとされ、繰り返し「核の平和利用」の幻影が彼らに当てられ、被爆者たちはその幻影の放つ輝かしい光に眩惑されてしまったのである。その意味では、被爆者たちは「核の二重の被害者」とも言える存在である。
F) 「原水爆禁止世界大会」での「原子力平和利用」支持
被爆者を支える意図も含めて立ち上げられた「原水爆禁止世界大会」が、「原子力平和利用」幻想を打ち砕くのではなく、逆にその発足当初から支持してしまい、被爆者の眩惑をさらに強めてしまったのみならず、反核運動にひじょうな熱意をもって全国から大会に参加した多くの市民をも同じ幻想におとしめてしまった。
1955年8月6日に広島市公会堂で開かれた第1回原水爆禁止世界大会:
オルムステッド女史(国際婦人自由平和連盟代表、米国人)の挨拶:
「私の国の政府が、人類の生活の向上に使わねばならない原子力を、破壊のために使ったことを深くおわび申し上げます。 …… 原子力は人間のエネルギーと同じく、あらゆる国であらゆる人に幸福をもたらさねばなりません」(強調:田中)。
「広島アピール」に含まれた文章:
「原子戦争を企てる力を打ちくだき、その原子力を人類の幸福と繁栄のために用いなければならないとの決意を新たにしました」。
長崎での第2回原水爆禁止世界大会では、「原子力平和利用」に関する独自の分科会がもたれた。しかし、ここでも「平和利用」そのものを全面的に支持しながらも、原子力が巨大資本に独占されていることに対する批判に議論が集中。したがって、秘密主義、独占主義を排除し、「民主・公開・自主」という日本学術会議が打ち出した平和利用三原則を支持するという結論で終わっている。
かくして原水爆禁止世界大会では、「原子力の民主的な平和利用」こそが、様々な経済社会問題を解決する魔法のカギでもあるかのようなメッセージが、1963年に分裂するまで毎年、反復され続けたのである。(原水爆禁止世界大会は63年、原水爆禁止国民会議[原水禁]と原水爆禁止日本協議会[原水協]に分裂。1969年に原水禁が初めて公式に「原子力平和利用」反対の方針を打ち出した。しかし、実質的に原水禁が反原発で行動をとるのは、スリーマイル・アイランド原発事故後の1979年以降である。)
G) 科学者を含めた戦後進歩的潮流の科学技術進歩志向と近代イデオロギー
8月16日に天皇から新内閣の組閣を命じられた東久邇宮(ひがしくにのみや)は、戦時中の日本の最大の欠点は「科学技術」を軽視したことであると述べ、自国の敗北の原因を敵国の最新科学技術=原爆に求めた。新内閣の文部大臣に就任した前田多門は、就任直後の記者会見で「われらは敵の科学に敗れた。この事実は広島市に投下された1個の原子爆弾によって証明される」(強調:田中)のであり、「科学の振興こそ今後の国民に課せられた重要な課題である」と述べた。
「科学立国」という基本方針は戦後もそのまま持続され、様々な形で科学教育の推進がはかられた。しかし、それは、占領軍の民主化政策と絡み合いながら、日本独自の展開をみせる。とくに平和憲法の理念と密接に結びついて、「科学技術」は「平和と繁栄」と同義語であるかのような、情緒的とも言える受け止め方が日本社会に急速に浸透していった。戦争があまりにも悲惨であったため、平和の促進と経済繁栄のために「科学技術」の大いなる利用をという極めて短絡的な論理展開で、平和と科学技術を直結させてしまうという現象がみられるようになった。
戦時下の日本でも極めて小規模ながら「原爆開発研究」が行われていた。理化学研究所の仁科芳雄をリーダーとする「ウラン爆弾開発研究」、別名「ニ号研究」と呼ばれるプロジェクトと、京都帝国大学理学部の荒勝文策教授の指導の下に行われた、通称「F研究」と呼ばれる開発研究。この2つの研究プロジェクトには、当時の日本の原子物理学者のほぼ全員が動員されたが、「ニ号研究」の中には武谷三男が、「F研究」には戦後ノーベル物理学賞を授与された湯川秀樹が含まれていた。戦後、武谷も湯川も原水禁運動や核兵器廃絶運動に積極的に関わるようになるが、両者とも自分が「原爆開発研究」に携わったことに対する自己批判はまったく行っていない。もちろん、その当時、仁科や荒勝をはじめ、ほとんど誰も原爆を実際に製造できるなどとは考えてはおらず、原爆開発研究を科学者温存のための隠蓑として利用したことは周知のとおりである。
そのため、原爆開発研究に深く関わったという意識が薄かったためであろうか、湯川、武谷のみならず、多くの物理学者たちは、自分が関与したはずの軍事科学技術開発の批判的検討を行わないまま、1950年代半ばから始まった「原子力平和利用」の動きには、「基本的に賛成」という形で、いとも簡単に「軍事利用」から「平和利用」に横滑りしていく。「原子力平和利用」が、いかに密接に「軍事利用」と連結しており、「平和利用」の実体がいかなるものであるかを十分に検討しないまま、当時のほとんどの物理学者たちが横滑りしていった。しかし、こうした傾向は日本だけに見られた特殊なものではなく、1957年に、ラッセル・アインシュタイン宣言によって発足したパグウォッシュ会議に世界各地から参加した学者たちに、共通に見られた傾向であった。その後、世界パグウォッシュ会議も、また湯川や朝永振一郎がリードした日本パグウォッシュ会議も、中心テーマはあくまでも「核兵器廃絶」であって、「平和利用」の問題は完全に蚊帳の外におかれてきた。
H) 戦後保守政治勢力の改憲・核武装への野心と「核持ち込み」への経過
原子力平和利用の裏に隠された真の目的:
1951年9月8日、吉田茂首相がサンフランシスコで対日平和条約と日米安全保障条約に調印し、翌52年4月28日に講和発効。講和発効の1週間前、4月20日の読売新聞が、「(政府は)再軍備兵器生産に備えて科学技術庁を新設するよう具体案の作成を指令した」と報じた。科学技術庁設置の中心人物であった前田正男(自由党衆議院議員)は、科学技術庁の附属機関の一つとして「中央科学技術特別研究所」設置を提案。その目的は「原子力兵器を含む科学兵器の研究、原子動力の研究、航空機の研究」であったと言われている。[1956年1月1日:原子力委員会発足(初代委員長 正力松太郎)、同年3月13日:科学技術庁開庁(初代長官 正力松太郎)]
1953年夏、中曽根康弘(改進党 衆議院議員)は、米国諜報機関のお膳立てて渡米し、ハーバード大学でヘンリー・キッシンジャーのセミナーに参加。このセミナーには20数カ国から45人が参加。冷戦時代にアメリカの影響力を確固たるものとするため、若い政治家の教育と相互の人脈形成が目的。中曽根は、この時、とくに核兵器に興味を示し、日本の核兵器保有実現を強く望むようになったと言われている。かくして中曽根の「原子力平和利用」も、最初から改憲・再軍備・核武装を狙うための不可欠な手段と位置づけられていた。
1954年3月2日(ビキニ米水爆実験被災の翌日)、原子炉建造のため、2億3千5百万円の科学技術振興追加予算が、突然、保守3党の共同提案として衆議院に出され、ほとんどなんの議論もなく可決された。衆議院本会議で小山倉之助(改進党)が行った提案主旨では、次のような説明が含まれている:
「この新兵器[=核兵器]の使用にあたっては、りっぱな訓練を積まなくてはならぬと信ずるのでありますが、政府の態度はこの点においてもはなはだ明白を欠いておるのは、まことに遺憾とするところであります。……新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またはこれを使用する能力を持つことが先決問題であると思うのであります。」(強調:田中)
かくして、原子炉建設は、新しいエネルギー開発が目的などではなく、当初から「原子兵器を理解し、これを使用する能力を持つため」であったことを、はっきりと小山は述べていた。
1950年代のアメリカ側の核兵器持ち込み政策:
朝鮮戦争で朝鮮半島の政治状況が悪化し、北朝鮮への核攻撃が真剣に検討されていたこの時期、米国ペンタゴン統合参謀本部は、日本にも核兵器への持ち込みを強く要望していた。しかし、国務省がこれを許可しなかったが、核物質を取り外した核兵器がすでに1954年6月段階で持ち込まれていたことを示唆する最高機密書類が存在する。
「1954年6月23日、統合参謀本部は日本に(核兵器の)非核兵器部分を配備する権限を与えられた。この段階では、核物質の配備は許可されなかった。」
「戦争という緊急事態においては、米国支配下にある日本近辺地域に貯蔵されている核物質を即座に日本に配備することを、日本の軍司令部に貴下が勧告する権限が貴下には与えられている。」
国防長官から統合参謀本部宛に送られた最高機密覚え書き 1955年3月3日
「原子力平和利用博覧会」も、最終的には、日本への核兵器持ち込みを可能にさせるための準備手段であったことが下記の資料からも明らかとなる。
「日本の市民指導者たちを、通常兵器による国防という点で教育を行うことが一旦完了すれば、原子兵器を受け入れられるような状態に彼らはなるであろうし、たぶん、最終的には彼ら自身が日本での原子兵器が利用可能になることを望むようになるであろう。…………
短期的には、原子力平和利用に集中したほうが最も効果的であろうし、米日関係の信頼性をもっと高める上で、すでに我々は、その目的を半ば達成した段階にある。」
国務長官特別補佐官ジェラルド・スミスより国防副長官ゴードン・グレイ宛の極秘手紙
1956年12月3日
日本の核兵器生産研究への具体的な動きと「核兵器持ち込み」の裏取引:
1967年〜70年にかけ、佐藤栄作首相の指示で、日本の核武装についての研究・検討が、内閣、外務省、防衛庁、海上自衛隊幹部などによって、半公式、私的形態で精力的に推進。核保有問題を、岸政権以来の法律論、抽象的議論から、製造プロセスへという具体的な政策レベルへと押し進めた。
しかし、日本の核兵器保有を許さず、日本(とくに沖縄基地)をアジアにおけるアメリカ軍事覇権維持のために利用するというアメリカの政策=安保条約のために、佐藤政権は、「核武装カード」をちらつかせながらも、当面は核兵器を保有しないと譲歩。それを「非核三原則」で保証してみせ、それと引き換えに沖縄の「核抜き返還」を承諾させ、さらには核保有断念との引き換えに、日本に対する米国の核の傘を保証させるという取引を成立させようとした。ところが、現実はそう甘くはなく、アメリカ側の「核抜き返還」は全く形式的なもので、実質的には、「核兵器の持ち込み」という裏取引を日本政府は要求され、「非核三原則」は最初から尻抜け状態。
その後も日本政府は、核兵器保有を許さない米国支配の「安保体制」の中で、「核武装カード」を維持し続け、高純度プルトニウムを製造するためのプロジェクトとして動力炉・核燃料開発事業団(動燃)を科学技術庁傘下に設置。再処理工場と高速増殖炉の技術開発を目指しながら、核兵器運搬手段となるロケットの技術開発を国家戦略の下に統合するため、宇宙開発事業団を同じく科学技術庁傘下に設置。
「プルトニウム開発」が核兵器製造目的のものではなく、あくまで「エネルギー政策の一環」であることを、自国民のみならず、海外に向けても宣伝するため、「核燃料サイクル」計画を打ち出し推進してきた。「平和利用」の裏にはこの真実が隠されていたことに、我々は今こそ気づくべきである。
I) 結論 − 反核・反原発を統合的に推進するために
かくして、日本の反核運動の主流ならびにその重要な一部を担ってきた被爆者たちのみならず、国民のほとんどが、「原子力平和利用」についてはほとんど本質的な検討をしないまま、核兵器保有・使用・持ち込みにだけは反対という態度をとってきた。しかし、核兵器保有・使用に関してもまた、我々は、これが基本的には単にアメリカをはじめとする核兵器保有国の問題であるとしかとらえず、いつもこの問題を「原爆被害者」の立場のみから見るにとどめ、日本政府自体が核兵器製造・所有を核エネルギー導入の最初から企て、その製造能力維持を長くはかってきたことを、いわば「加害者となる可能性」という観点から直視しようとはしてこなかった。
このような歴史的背景から、一方では、反原発運動では、スリーマイル・アイランドやチェルノブイリのような大事故が起きた時にのみ、反核運動にはかかわっていないが、身の危険を感じた一般の主婦、母親、環境保護運動家たちが立ち上がるという現象を見せてきた。反核運動組織や被爆者からの支援をほとんど受けないそのような市民運動は、電力会社、原子力産業と政府が打ち出す「安全神話」の反撃によって弱体化され、おおきなうねりを全国的規模で持続させるということができなかったのである。
また他方、反核兵器運動においては、基本的に核兵器は自国の問題ではありえないという態度のもとで、他国にのみ核軍縮・廃絶や核実験停止を求めるだけで、自国の核兵器製造能力である「核再処理施設」に対する問題に対して強い関心を示し、それを自分たちの反核兵器運動の中に深く取り込んでこなかった。
現在、福島第1原発事故による大惨事という経験を強いられている我々市民、とりわけこれまで反核運動に取り組んできた組織に身をおいてきた者たちは、このような歴史的背景を持つ自己の弱点を徹底的、批判的に検討する必要がある。
原爆が無数の市民を無差別に殺戮したのと同じように、核実験ならびに核兵器関連施設や原発での事故も、放射能汚染の結果、予想もつかないほどの多くの人たちをして、無差別に病気を誘発させ死亡させることになる恐れがある。
核兵器使用は明らかに「人道に対する罪」である。「人道に対する罪」とは、「一般住民に対しておこなわれる殺人、殲滅、奴隷化、強制移送、拷問、強姦、政治的・宗教的理由による迫害」などの行為をさすものであり、核攻撃は、そのうちの「一般住民に対しておこなわれる殺人、殲滅」に当たる。核実験ならびに核兵器関連施設や原発での事故は、核兵器攻撃と同じく、放射能による「無差別大量殺傷行為」となりうるものであり、したがって「非意図的に犯された人道に対する罪」と称すべき性質のもの。「人道に対する罪」が、戦争や武力紛争の際にのみ行われる犯罪行為であるという既存の認識は、ウラルの核惨事、チェルノブイリや福島での原発事故が人間を含むあらゆる生物と自然環境に及ぼす破滅的影響を考えるなら、徹底的に改められなければならない。
この最も根本的な点にもう一度立ち返り、我々は、反核兵器と反原発の統合的な反核運動のあり方について深く再考し、今後の運動のあり方について広く議論する必要がある。
参考文献:
有馬哲夫著『原発・正力・CIA』(新潮新書 2008年)
武藤一羊著『潜在的核保有国と戦後国家 フクシマ地点からの総括』(社会評論社 2011年)
槌田敦、藤田裕幸ほか著『隠して核武装する日本』(影書房 2007年)
田中利幸、ピーター・カズニック著『原発とヒロシマ 「原子力平和利用」の真相』(岩波ブックレット 2011年)
田中利幸著「<原子力平和利用>の裏にある真実」『科学』(岩波書店)2011年12月号
米国公文書館所蔵関連資料
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関連投稿:
櫻井春彦
日本の原子力村はアメリカが全面核戦争の準備を進める過程で作り上げられた
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2011/10/blog-post_02.html
ピーター・カズニック
原発導入の背景に「広島長崎の意図的な忘却と米国の核軍拡」
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2011/05/peter-kuznick-japans-nuclear-history-in.html
原子力が軍事と不可分である以上、
ReplyDeleteこの事態を招いた責任のある人たちは戦犯として裁かれるべきだと思います。
しかし、過去の例だと戦争犯罪は勝者によって裁かれてきたので、
原子力の敗戦では誰も勝っていないので裁くモチベーションは被害者の側にしかない
というところが、これまでの戦犯法廷と異なるのだと思いました。
アメリカがこれを裁けば自らの対日原子力政策の誤りを認めることになる。
そんなことを感じました。