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Monday, November 11, 2013

「屈辱の日」の怒りとともに-石原昌家: 大阪大正区における講演録「沖縄とヤマトの間にあるものは何か」

少し遡りますが、沖縄国際大学名誉教授の石原昌家さんが3月31日に大阪の大正区で、「大正区制80年と沖縄」という催しの一環として行った講演録の掲載を許可いただいたのでここに紹介します。4月28日、サンフランシスコ平和条約の発効で日本が占領から解かれ、沖縄が自治力を否定され米国軍政下に置き去りにされた日は「屈辱の日」として記憶されています。この日を安倍政権は「主権を『完全に』回復した日」として祝う式典を行いました。この式典の計画は3月7日に発表されたので、3月末の石原さんの講演時には沖縄中に怒りの嵐が吹き荒れていたときです。この講演録は最後の「なぜ屈辱の日か」が大事なので最後まで読んでください。

背景説明として、大阪の大正区への沖縄からの出稼ぎの歴史について、金城実著『知っていますか?沖縄 一問一答 第2版』(解放出版社、2003年)の48-50ページを以下に要約します。

沖縄は「琉球処分」(1879年)以降、農村の窮乏と、第一次大戦後の砂糖相場の大暴落によって、深刻な経済危機に見舞われ、沖縄農村の窮乏を救うため、多くの人々が大阪、東京、福岡に出稼ぎに行った。なかでも、明治中ごろから始まった大阪湾修築工事に伴い、造船工場、煉瓦製造工場、製材工場、紡績工場などが建てられ労働力が求められたこと、大阪-那覇間に船の直行便が就航していたこともあり、大阪方面への出稼ぎの人数は特に多かった。大正区は、近世から木津川、尻無川の水運が盛んで、河港として整備が進み大阪港の一部として発展した。1897年から始まった大阪港の第一次修築工事で木津川、尻無川の河口に埋立地が造成、現在の大正区の港湾地帯ができた。昭和に入ってからの第二次改修工事では、大阪港が拡大され、沖縄の人たちは土木工事に従事した。1923年に大正運河が完成したことで大正区(当時は港区)小林町に製材所が集中し小林木材街が形成され、沖縄の人たちは製材所で働くようになった。現在大正区に住んでいる沖縄出身者の多くは、この頃から定着した人たちとその子孫たちである。

現在沖縄の読谷(よみたん)村で彫刻家として活躍する金城実さんは大阪に長く住んでおり、沖縄出身の青年たちでつくる「がじまるの会」の世話人として、沖縄人が多く住む大正区で活動したといいます。

金城さんの上記の本の51-52頁から引用します。
当時(1970年代前半ー1980年代前半)、大正区北恩加島の湿地帯に沖縄から出てきた人たちが集落をつくっていました。窪地なので通称、沖縄後でクブングヮー(「クブン」とは窪み、「グヮー」は愛称をつけるときに使う)と呼ばれており、沖縄から出てきて貧しい生活を余儀なくされた人たちによって建てられた掘っ立て小屋が密集していました。経済的に貧しい沖縄の一面を象徴しています。・・・このクブングヮーの形成は、貧しい沖縄からの出稼ぎ者が寝泊まりするアパートが火事で焼失し、困り果てた人たちが近隣の大阪市のごみ捨て場に住んだのが始まりとされています。そこで私は沖縄の先輩、若者と出会い、よく泡盛を飲んだものです。大阪市の都市計画によって、いまではクブングヮーは陰も形もありません。・・・大正区の夜はどこからともなく三線(沖縄の三味線)の音が流れてきます。沖縄民謡のカラオケもできており、一杯飲み屋のノレンも沖縄の紅型が多い。・・・
以下、石原昌家さんの講演録です。


沖縄とヤマトの間にあるものは何か

~沖縄を出た民の生活を聞き取ってきました/そして今も構造的な差別は残っています

石原昌家(沖縄国際大学名誉教授)
 

出稼ぎ労働者のオーラルヒストリー

 私は沖縄国際大学で教員をしておりました。1979年から大正区で聞き取りをしてきました。このことを報告することは私にとって大変ありがたいことです。

 私は62年に大阪外国語大学に入学しました。当初1年間は生駒山ふもとの石切神社があるところで過ごしました。それから吹田市千里丘に沖縄学生寮があるというの知り、63年からその学生寮に移りました。その学生寮というのは戦前の料亭を買い取ったものでした。後に彫刻家となる金城実さんが私より先輩としており、一緒に寮生活を送っておりました。

64年ごろだったと思いますが、初めて大正区に寮運営のカンパのお願いで何名かでやって来たことがありました。そのとき煙突から赤やオレンジの煙がもうもうと出ていてびっくりしました。ちょっと歩いている間に持っている本等がざらざらになっていました。その後67年から大阪市立大学院に進学、ちょうど万博が始まって間もないころに沖縄に引き揚げました。復帰前の沖縄です。そういう8年間の大阪暮らしの経験があります。

79年2月に文部省の科学研究助成金を得て、大阪で沖縄の人の聞き取り調査を開始しました。沖縄では沖縄戦体験の膨大な記録をしてきたのですが、私が自分の主体的な調査テーマとしては、沖縄人の出稼ぎ移住についてなのです。 

そのときなぜこういう出稼ぎ移住の調査をやり出したか。沖縄の農山村漁村離島から那覇を中心とした沖縄の都市部に移動してきている人たちの結合組織である郷友会の調査をやり出していたのです。その調査をやっていたので、沖縄からたくさんの人たちが本土に渡っているわけだからやはりこの人たちを聞き取りしなければならないという気持ちに駆られました。

本当におひとりおひとりが、ものすごい苦闘の歴史というもの、人知れず大変な歴史を作り上げています。それをちょっとずつでも、子や孫の世代に何とか伝えていかねばならないという気持ちに駆られてずっと人から人へ芋づる式に聞き取りをしていきました。 

沖縄県内では沖縄戦の体験、戦後体験、米軍支配下の体験をずっと聞き取りしてきました。聞き取りというのは実際調査して文字化するというのにはものすごく時間がかかるのです。これは大変な記録になっていきますので、本来ならば類型化すべきではないのかもしれませんが、類型化したプリントを配付してあります。

そして戦後体験というものがどういうものであったか、どうして今、68年も外国の軍隊が沖縄で植民地的な支配状況を維持できているのか、その辺が分かると思います。外国の軍隊と共生させられた沖縄の人たちにとって、「肯定的」な側面と否定的な側面というものを分けています。括弧付きですが「肯定的」な側面というのは、こういうふうな経験をしているからなかなか外国の軍隊の支配化から脱却できない構造になっているんだというのがちょっと分かると思います。さらにこういう聞き取りというもの、オーラルヒストリーというものが時の権力者、はっきり言うと日本政府によってどういうふうに捏造されているのかということもお分かりいただけると思います。

学問として聞き書きというものについて少し述べます。私が聞き取りを始めたころ、「あんたは人の話を聞くだけで学問が成り立つのか」ということを結構言われたりしました。今は社会科学の分野でもかなりこの聞き書きというのは一般化されております。言葉としては「オーラルヒストリー」とか、日本語では「口述史」、「聞き書き」とか言われます。調査の方法としてはライフヒストリー法という学問の体裁があります。それによる調査結果を、私は社会史として位置付けています。社会史というのは、民衆の日常生活は多面的に把握する、いろいろな角度から聞き取りをすることです。家族の中、あるいは友人、知人、あるいは会社とか職場など、個人間の相互作用を通して生じる人間感情をベースに社会全体の生き生きとした歴史を記述するということです。個々人の個人的な体験がいかに社会と関わっているか、あるいはひいては世界史的な動向といかに連動しているかという視点で記述していく。

だから社会全体というものはこれは老若男女、各界各層、上下という意味であれば政財界を担っている人であるとか、いくらもがいても生活が楽にならない庶民の人々、それぞれみんなが寄り集まって一つの社会ができあがっているという観点で聞き取りをしています。

私は、泥棒をしていたのだ、という人からでも聞き取りをしています。あるいは沖縄出身の中でもしかしたら沖縄初の大臣が生まれたのではないかというような大物からも聞き取りをしています。私はこの社会史の研究のベースとして出稼ぎ定住者というのをずっと聞き取りをしてきています。

私は関西だけではなく名古屋、関東でも聞き取りをしました。また90年代にはハワイを初め、ブラジルにも聞き取りに行きました。そこで社会調査法としての生活史の聞き取り調査というものの最大の特徴は、アンケートによる量的な調査法とは違い、質的調査というものです。信頼関係です。信頼関係が作れないと聞き取りはできません。聞き取りをしますと親戚以上の親しい関係が生まれてくる場合があります。それが大きな特徴だと思います。この研究をしている研究者の中には、聞き取り調査をした人と家族ぐるみの付き合いが今もまだ続いているという人が必ずいると思います。
 

日本と向け合った先人の記録

 1894年生まれの方に聞き取りをしたことがあります。私が聞き取りをした1980年当時は本人は86歳でした。下地玄信さんという方です。この方がこの時代の長老でした。1924年に関西沖縄県人会というのができています。それまで部落単位の郷友会、村人会、各地区県人会がからなるものです。出稼ぎという形で移住されてきているのに、24年関西沖縄県人会設立と同時に『同胞』という機関紙を発行しているのです。これは手書きではなく全部活版です。

『同胞』(25年3月5日第6号)によると23年、大阪市内13カ所の私立職業紹介所が扱った就職紹介数の県別人数というのが新聞に出ています。それによると総数が23万7690人、そしてその大阪市の中で沖縄県人がなんと2万8010人です。全国で11番目です。

そこにこの県人会の目的というものが出ております。「関西沖縄県人会はお互いに助け合うという同胞会によって、共存共栄し、一致団結することにより、社会的発言力を高め、大都会の渦に飲み込まれずに地位を向上させ、沖縄県人会の存在を社会に認知させる」。

私が今とても感動していることがあります。それから88年後の今、大正区の区長さんがこの沖縄の県人会で挨拶をされました。区長さんが県人会の皆さんの前で挨拶をされるというのは、私がずっと聞き取りをしてきた中でやはりとても感動します。

「ふるさとを忘れてはいけないけれども、しかし大阪人になれ。大阪人にならないといけない」ということを強調されていた先人がいました。そういう意味でもこの大阪大正区の区長が県人会の集まりに来られて挨拶をされたというのは認知させていくという目的が達成されたのだと思います。だから私にとってはとても感慨深いことです。 

 県人会の活動内容についてです。「遺骸引取り火葬」、「工場即死者引き取り」、「引き取りなき病死人引取り、県人会葬」、「病気見舞い」、「義捐金募集」、「病人の帰郷、経費は本部負担」、「帰郷者の見送り」、「出産見舞い」、「職業紹介」、「不当解雇交渉」、「復職交渉」、「皆勤賞表彰」、「住所案内」、「県人会事務所での仮宿泊」…… 『同胞』(25年5月20日)。

聞き取りをしていてよく聞きましたが、本当に当てもなくただ1250銭ぐらいの船賃さえあればふらっとやってきて、さまようような形でやってくる人たちがいました。そしてだれかが面倒を見るというような形でそれぞれの仕事を見つけていくというのが大方だったのです。

それをこの県人会が見るに見かねた形で面倒をみてやっていたのがこの活動内容です。本当に西も東も分からないような状況の中で、突然亡くなっている人たちもいました。そういう人たちをどういうふうに扱っていくかというのは本当に大変だったという話はよく聞きました。

関西沖縄県人会の臨時大会では大阪中央職業紹介所所長を招いて、就職先の工場主側と職業紹介所側からの沖縄県人観というのを聞いています。耳の痛い話を県人会としてみんなに聞かせて、それを機関紙にきちんと記録を取ってみんなに配っているのです。

ちょっと紹介します。

「大多数が職業を次々と変えていくので、いつまでも不熟練工が多い。言語が不明瞭。たとえば機械工場従事者の場合、機械の名前を教えるのに長時間かかる。言葉が通じないために機械を破損したり、あるいは危険を冒すことになる」。

この話は体験者からもたくさん話を聞いています。そもそも言葉が通じないというのは、自分は標準語を一応話せるということで来たのに、大阪弁ときたらまるきり話が通じない、それで大変苦労したという話はたくさん聞いています。

「継続性がない。一人前になったらすぐに転職してしまうので雇い主側からしたら相当の理由ではないのにも関わらず、ある工場に10人ぐらい一緒に勤めているとき、1人が辞めるとあとの人もこれという理由なしに辞めてしまうことがある」。「甲の賃金より乙の賃金が高いというだけで乙のほうに移る」。

これを雇い主側のヤマントンチュからじかにウチナンチュが話を聞いてきているのです。「ある工場で職工を求める際、職業紹介所で沖縄県人を絶対紹介してくれるなという条件を付けてきたところさえある。職業を選択する際『友人に相談してから』などとぐずぐずして判断力の鈍い者が多く、さらに紹介先に行っていない者が多数いる」。というように沖縄の出稼ぎの皆さんにとってはとても耳の痛い話を県人会自身が聞いています。こういう問題が切実にあったということを示していると思います。
 

差別という現実

 沖縄人差別の事例です。

これは嫌になるほど聞きました。いろんな事例があると思います。私も本当に聞き取りをしていたら差別の塊みたいな話を一杯聞きました。私が聞いた中でも一番の最年長の下地玄信さんのことです。

下地さんは元日本公認会計士協会の副会長です。私が中学校の頃、沖縄にいてもこの下地さんが日本を代表してロンドンの会計士の会議に出席したというのが大きなニュースになっていたのを記憶しています。それが子ども心にもとっても嬉しかったというのをとても覚えています。その方にじかにお話をお聞きすることができたときはとても感慨深かったです。『大阪球陽新聞』(昭和12(1937年)9月1日第3号)にこの方のことが出ています。「ウチナンチュとしては政財界で異例の出世をした県人会のリーダーの1人、宮古島出身の下地玄信さん。下地氏のごとき大阪の社交界では著明の士であり器量人として敬服されてゐるが▲数年前或破産銀行整理委員として敏腕を揮い先生々と崇められてゐたが▲一旦沖縄人だといふことが判ったら掌を覆へすように態度が違ひ女事務員までもが変な目で見るので▲太っ腹の先生従来よりもウンと辺幅を飾り吸へもしない葉巻を咥えて反身返つたといふ笑えへないナンセンスもある▲尚ほ去年の宮古の記念祭の一件で同君の名前がしばしば新聞に出るので沖縄人だと分かって頼んだ事件さえ引込めてきたという馬鹿馬鹿しい話もある」

下地さんは朝日新聞の社主が相続問題で大問題になって相続で払えないような窮地に陥ったときに、この下地さんがちゃんと調べていったらそんなに相続税を取られることはないと分かり、何億円という相続税が助かったということで、千里の万博会場になった土地に新築の家と1台の新車をプレゼントされたと話しておられました。

また沖縄でも宮古島の人は「ナークー」と言ってものすごくばかにされました。宜野湾の人もばかにされていたのです。佐喜眞興英という宜野湾出身の非常に有名な民俗学者がいますが、佐喜眞興英さんと下地玄信さんは沖縄県立第一中学校の同級生です。そこで2人は密約を交わしていました。何の密約かというと、絶対に首里、那覇の連中を見返してやるために2人で猛勉強をして常に成績1、2位を争う、それから文武を強くなろう、学校で英語だけで話すということでした。

それで本当にこの2人は学校で1、2位になったそうです。差別をばねにしたのです。下地さんは、常にどこに行っても差別があってその差別を全部ばねにしてきたということをしきりに強調していました。だから自分は侮蔑されたのがありがたいと、そういうことまでおっしゃっていました。 

 戦前というのは差別があり、そして大変な苦労の中で地位を築いていきました。それは本当にそれぞれの置かれている状況の中でされていました。労働としては実は沖縄では大体7~8才ぐらいから、朝の3時、4時ぐらいに起きて草刈りだとか仕事を強いられたという人もいました。あるいは親の借金の利息代わりにその家で働かされてきたということがありました。それでものすごく体力があるわけです。出稼ぎでは力仕事などに従事していた人たちがかなりいらっしゃいます。1日大体1516時間働いていたそうです。「1カ月50日分働いた」とかそういう話も結構聞きました。それで何とかお金を作って送金をしていたというご苦労な話を一杯聞いています。
 

侵略戦争へ そして敗戦

1940年、日本では全体主義国家として大政翼賛会が作られています。要するにファシズム、総動員体制です。総動員体制の中でこういう県人会のような集まりというのは許されないのです。それで県人会は解散するようにと大政翼賛会の支部の中で圧力がかかってきました。県人会の活動というのは特にアジア太平洋戦争が勃発したあとというのはほとんど休眠状態に入りました。

 45年の敗戦後まもなく1111日に沖縄人連盟が結成されました。15年戦争の終結で外地からの引揚者、復員軍人などが本土各地に引き揚げてきて、収容されました。沖縄はアメリカ軍の占領下にあるわけなのですぐには帰れません。戦時中にはどんどん沖縄からの徴用工が軍需産業への労働力としてたくさん来ていました。また日本本土への沖縄からの疎開者というものが敗戦によって全部放り出されたような形になっているわけです。そういう人たちが衣食住のあてもなく路頭に迷い、栄養失調者も見られました。

そういうときに特にこれから寒い冬に向かっていくまでには何としてでも沖縄人が組織を結成してお互いに助け合わないといけないという緊急事態という状況がありました。戦前からの沖縄からの定住者が同胞を放置するわけにはいかないと、郷友会、村人会、県人会を組織して活動してきた経験を生かして、沖縄出身のインテリ層、社会運動家が中心となって全国的な沖縄人の組織として沖縄人連盟というのを組織していきました。

先ほどの関西沖縄県人会も実はそのときにすでに単なる職工だとかと別に教員、公務員、あるいは医者とかの沖縄からのインテリ層がいました。そういう人たちがやはりこういう組織を作ろうというふうな呼びかけをしています。そして戦後もすぐこのノウハウを生かして沖縄人連盟を結成していきました。 

 沖縄人連盟は451111日に東京で結成されました。①民主主義平和日本の建設への貢献、②郷里における民主主義政治の確立、③郷里の経済、文化の復興促進、④内外同胞の組織的統一、⑤本土在住同胞の生活権確保、⑥郷里における戦災の完全補償の実現。この補償というのはこれは政府に責任を取らせるということです。⑦郷里との交通、通信、送金の自由の実現。これらを綱領にしていました。

沖縄人連盟の目的①沖縄諸島への通信、救援物資の募集又は送付の斡旋、②避難民又は引揚者の帰島の斡旋、③沖縄諸島現存者の調査、④沖縄戦の実相に関する調査、⑤その他本連盟の目的達成に資する一切の事業。このような内容でこの連盟の活動というのは全国的に大変な働きをしていきます。政府に交渉をしていろんなことを要求していきました。

関西沖縄人連盟の結成も行なわれています。沖縄人連盟機関紙『自由沖縄』(4512月6日第1号)によると「関西在住8万同胞の生活向上を目指し、県人会として特異な存在だった関西沖縄県人会は、その幾多の変遷を経て戦時中全く有名無実の状態にあったが、終戦と同時に発表された数々の暴虐行為と沖縄人の蒙れる惨禍の甚大なことに憤激し、全国に散在する同胞の政治的経済的文化的利益の促進を目標」。

いち早く沖縄戦の実態、実相というのは認識していたようです。だからはらわたが煮えくり返るような思いでいたということです。そこで決議として「学童疎開、徴用工、挺身隊、引揚人、復員軍人の生活を保障する」、「沖縄への調査員の派遣をマ司令部(マッカーサー連合軍司令部)に請願する。これは既に京都進駐軍に請願済みであるが、改めて再請願する」というものがありました。

4512月9日、東京神田の教育会館で関東沖縄人連盟主催の「引揚民救済沖縄県人大会」で、関西沖縄人連盟代表、豊川忠進弁護士の挨拶というものがありました。すごい内容ですので紹介します。

「吾等の故郷沖縄本島は日本侵略主義戦争の大敗北に終わった 世界戦史にかつて見ざる惨禍に荒れ果てた最後の戦場となった。山川草木悉く姿を変え 父母兄弟の行方未だ判明せず 我等は憂鬱に日を暮らしている。・・・かくのごとく日本侵略戦争大敗北の犠牲によってわれら沖縄人同胞は徹底的に打ちのめされている。是に対する政府当局の救援施設はどうだ。・・・我等は沖縄人は沖縄人のみによつて救援される可きものではない。あくまでも日本侵略主義戦争の犠牲に基づき、全国民の協力によって支持される可べきことを要求する。しかしながら、今次、沖縄人同胞の痛手は深刻にして、広範な範域に渡っており、その救援はいくら物資があっても、金銭があっても、決して足れりとは言われない。したがって恒常的に組織化するもの、強化を必要とする。われらはことに全国に在住する沖縄人たちが今こそ立ち上がって沖縄人全体の旗のもとに集結した未だに残っている野蛮にして無謀なる軍国ファシズムを根絶し、全国民と共に民主主義政治の建設によってのみ、沖縄人の経済的、政治的、文化的破滅から打開する道の開かれることを確信する。本大会を通じて我等は関東の同志も、関西の同志も、九州の同士も一丸となって全国沖縄人連盟の組織に邁進せられることを切望するものである」。これが『自由沖縄』(46年元旦号)に載っています。

このような非常に格調高い挨拶が終戦直後に行なわれていました。これには本当に感動します。このような無謀な戦争、侵略戦争という認識はあの当時、40年代の国会会議録を見るとごく普通に使われています。「侵略戦争だった」などと女性議員などが発言しています。52年3月に恩給法に代わる戦傷病者戦没者遺族等援護法というのが制定されるのに当たって、公聴会を開いています。そこで日本遺族会の代表が「無謀なる戦争、前途ある青年たちを死なせた国家による殺人行為」とまで国会で述べています。そして「援護とは何事か。補償しろ」という発言をしています。このような時代でした。

沖縄内ではこのような言葉というのは、資料をひっくり返してもはっきり言うとわたしは今のところ見つけていません。それよりも出稼ぎ定住されたり、様々な沖縄出身の皆さんというのは非常に見識の高いものがあったのだということを痛感しています。
 

なぜ、屈辱の日なのか

今、戦後沖縄定住者は2世、3世、もう4世の方もいらっしゃるでしょう。『週刊金曜日』のインタビュー記事を紹介します。

メディアでは何か勘違いをしているのではないかと思います。それは「屈辱」というものですが、「52年4月28日に分断されたのが屈辱だ」という言い方が大方なのです。サンフランシスコ平和条約第3条を読めばそうではないというのはだれもがすぐ分かることです。

「屈辱」とは単に日本から分断されたので屈辱という意味ではなく、サンフランシスコ講和条約第3条にある信託統治制度の下に置かれることになる、ということです。「信託統治制度の下に置く」と言っているのです。アメリカが国連にこのことを提案する。提案したら日本政府はそれを了解すると言っているわけです。

信託統治というのは、沖縄の人は自治能力がないから米国が信託統治にすることを国連に提案をし、日本は同意するということです。沖縄は独立国として存在してきました。それを明治政府が武力を背景にして日本に組み入れました。「廃藩置県」という言葉も訂正しなければいけないものです。つまり勝手に琉球を藩にして、国際社会を騙すための手段なのです。それで「廃藩置県」したというのです。歴史家はこれは武力を背景にして琉球王国を廃止したので「廃琉置県」と呼んでいます。こうして、ヤマトは、沖縄に自治能力がない、いわば無能呼ばわりしているのです。その意味で「屈辱」なのです。屈辱の日だというのはこの意味で、認識すべきなのです。 

今置かれている沖縄の状況からして、沖縄の中ではかなり独立論的な気持ちというのが相当湧き起こってきています。独立というのは日本から離れることです。だから分断されことが屈辱ではなく、無能呼ばわりされ、それを日本国会が決議しているということが屈辱なのです。沖縄の歴史で61年前の4・28は人間の尊厳を奪われた決定的な日なのです。ここが大事だと思います。

主権回復の日を祝うという主張を支持する約7割の日本人、安倍首相にとって沖縄の感情というのは全く念頭にないということが、今、沖縄では言われています。ただ沖縄というものを日米同盟の軍事要塞地、土地としてしか認識していない。そこに住んでいる人間のことは念頭にないのではないか。

対日講和条約第三条は昭和天皇メッセージと全く同質同根です。それぞれの資料を見れば全くそれが分かります。昭和天皇が沖縄を軍事占領し続けることを希望した通りに、米軍の実質的占領がずっと続いているわけです。現天皇が主権回復の日の式典出席予定のようですが、現天皇の出席というのは昭和天皇の天皇メッセージを踏襲するという意味になりかねない。現天皇は皇太子時代から何度も沖縄を訪問しているので、沖縄でも親近感を持つ人は相当います。だから現天皇にとっては4・28の式典に出席するというのは非常に具合が悪いような事態だと思います。現天皇にとっても不本意なことではないだろうかと思います。

さらにあまり言われていないことですが、主権回復の日というのは日米安保体制による軍事同盟が構築された日でもあるわけです。つまりアメリカの従属国家という批判をかわして、日米安保体制を当然視させる意図があるのではないか。安倍自民党政権の念願は改憲をして、天皇の元首化、そして自衛隊の国防軍化です。つまり戦前の軍事国家日本の再現を狙うものです。この動きは沖縄地域の軍事強化、沖縄戦の再来を想起させます。何が動いているかというのを見通していかなければなりません。

オスプレイ配備の際も、2カ月ほど配備した岩国に対して長島昭久という民主党の防衛副大臣は訪問して謝罪しているのです。沖縄県民が10万人も集まって「何としても沖縄に配備するな」という沖縄の民の声を無視しているのにです。日本政府の国内における対応と、沖縄における対応というのはものすごく差があるということが分かります。

もはや日本国家というものは沖縄に対する構造的差別が構造的暴力として沖縄を迫害している。沖縄の中にいれば迫害の歴史がずっと続いていると言わざるを得ない。そういう状況に今、あります。この4・28というものは沖縄にとっては本当に自立の道を歩んで行くようなそういう日として位置付けていかねばならないのではないかと思います。
 

石原昌家 (いしはら まさいえ)
1941年台湾宜蘭市生まれ、那覇市首里出身。首里高校、大阪外国語大学を経て、1970年大阪市立大学院文学研究科修士課程社会学専攻修了。1970年4月から国際大学講師。1972年4月から2010年3月まで沖縄国際大学に勤務。現在沖縄国際大学名誉教授。


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