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Saturday, August 08, 2020

韓国・陜川(ハプチョン)で原爆75年を記憶する Remembering the 75th of the atomic bombing of Hiroshima in Hapcheon, Korea

 広島と長崎の原爆投下75年を記憶する時期である。

昨年の7月、釜山と陜川(ハプチョン)を訪ねた。釜山で「国立日帝強制動員歴史館」に行った経験については昨年『社会民主』10月号に書いた「吹き荒れる韓国ヘイトの中で  ――植民地主義克服と、朝鮮半島の平和を考える」を読んでほしいが、この「歴史館」でもう一つ印象に残ったのは、広島・長崎原爆の朝鮮人被害者についてのパネルだ。「各地域の強制動員の概要」というコーナーの中心的位置にあることからも、広島・長崎の朝鮮人被害は、植民地支配の上に被爆までさせられた朝鮮人の二重の被害であることが明確にわかる。当然といえば当然だが、広島・長崎現地の公的式典・資料館には不在の視点だ。このパネルの文言の全訳を紹介する。

国立日帝強制動員歴史館

「1945年8月6日午前8時15分広島市、8月9日午前11時2分長崎市に、人類に向けた最初の原子力爆弾が3日間隔で投下された。その結果、死傷者が数十万名に至ったが、そのなかには日帝の植民地下に故郷を離れてきた数多くの朝鮮人農民と日本の軍需工場に動員された朝鮮人徴用工もあり、日本軍の捕虜として送られた連合軍の兵士もいた。朝鮮人原爆被害者は概ね広島5万人、長崎2万人に至ったが、そのなかで約4万人は1945年を越すことなく死亡し、残りの3万名中23000余名が帰還していたことが推測される。全体の原爆被害者の約1/10に該当する朝鮮人の死亡は57.1%であり、全体の33.7%に比して非常に高い。日本は二つの都市における惨状を大々的に広報し、反戦平和を全世界に訴えている。反戦平和は、人類共通の普遍的価値である。しかし、誰が言うかによりこの意味合いはかなり変わる。日本は反戦平和を叫ぶ前に戦争加害に対する痛切な反省と共にその事に対する責任を負う姿勢を見せなければならない。」

広島の朝鮮人被爆者のうち多くが、釜山から2時間ほどバスに乗ったところにある陜川(ハプチョン)郡出身者であり、「韓国のヒロシマ」と言われている。植民地支配下、「土地調査事業」で土地を奪われたり、日本人の食糧確保のための米の増産計画や日本の紡績・製糸産業のための農業形態転換によって困窮する農民が続出、日本に生活の糧を求めざるを得なくなって移住する人が増えた。陜川の場合は1920年代から広島に移住が始り、血縁や地縁のつながりを通し、また、日中戦争・アジア太平洋戦争の本格化による軍需産業の需要増加、強制動員などで30年代後半から移住は急増していった。

ハプチョンの「平和の家」で語る韓正淳さん(2019年7月)

植民地支配が故に広島に住み、自分たちが始めたわけでもない戦争の中で、米国が日本を標的に落とした原爆に巻き込まれ、戦後朝鮮に帰還しても貧困・差別・医療ケア不足の中での生活を余儀なくされ、その影響は被爆二世、三世にまで引き継がれている。陜川では、仏教団体がつくった被爆二世支援施設「平和の家」で、二世の韓正淳(ハン・ジョンスン)さん(1959年生)と交流した。彼女の母は、被爆後帰国した後に、正淳さんを含む6人兄弟姉妹を産んだが、全員が健康障害を抱えており、自身と姉の一人は大腿部無血性壊死症という難病で何度も人工関節の手術を受けている。正淳さんの二人の息子のうち一人は脳性麻痺を持って生まれた。

韓正淳さんは、「日本には、朝鮮人を犬のように扱った責任を、米国には、核兵器を人間に使った責任を問いたい」と語った。日本は、「徴用工判決」を受けても植民地責任に向き合うどころか国を挙げてヘイトとも言える批判を展開している。米国については2016年にオバマ大統領が現職米国大統領として初めて広島を訪問したが、それは謝罪のためではなかった。陜川でもう一人話を聞いた、幼子のときに被爆した、韓国原爆被害者協会陜川支部長の沈鎮泰(シム・ジンテ)さん(1943年生)は、この時他の韓国人被爆者や韓正淳さんと共に広島で直接オバマ大統領に謝罪をを求めるべく来日したところ、関西空港で入管に3時間も足止めを食らった。沈さんは、「植民地支配の上に原爆を受けた自分たちが、その上犯罪者扱いされた」と悔しそうに語った。

陜川の原爆資料館(2017年開館)。

陜川でも毎年8月6日、追悼式が行われている。2016年には日本の要人としては初の、平岡敬元広島市長が訪問した。

今年の「8.6」は、梅雨の雨の中、コロナのせいで簡素化したとはいえ、しめやかにとり行われたということだ。韓正淳さんから提供され、使用許可していただいた写真をここに紹介する(場所は、陜川原爆福祉館慰霊閣)。





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