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Saturday, November 12, 2022

広島の人々は今も強制労働で作られた発電所から電力を享受している Visiting Hydroelectric Power Plants in Hiroshima Made with Forced Labour from Korea and China

 「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」のHPに載せて頂いたフィールドワークの感想文をここに転載します。


広島の人々は今も強制労働で作られた発電所から電力を享受している

 

2022年11月9日 乗松聡子

中国電力安野発電所

  9月17日、まだ残暑厳しい広島を訪れた。カナダ、千葉、仙台、福岡、山口、広島地元から集まった30代から60代までの小グループが、川原洋子さんの案内で安野発電所のフィールドワークを行った。川原さんは、1992年から30年ににわたり、安野発電所における中国人強制労働の真相究明と和解への取り組みを続けてきた、「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」の事務局長である。

川原洋子さん

 小柄な体から信念に満ちたエネルギーが伝わってくる川原さんに挨拶しながら、私は心中自らに問うていた。この15年、日米学生の広島・長崎の旅に参加し被爆者の通訳や学生たちのリーダーを務めてきて、朝鮮人被爆者の話も聞き、長崎では、大日本帝国の加害に焦点を置いた「岡まさはる記念長崎平和資料館」にも欠かさず訪問してきた。その旅の歴史の中で、川原さんに会う機会が今までなかったのはなぜなのか。広島市内から車で一時間ほど足を伸ばせば見学ができる安野発電所に行ったことがなかったのはなぜなのか。

 答えは難しくはない。自分の無知と怠慢以外にはない。今夏、横浜での「戦争の加害パネル展」(記憶の継承を進める神奈川の会主催)を訪問した。2016年から続いている、日本では珍しい「加害」に焦点を置いた戦争記憶の展示である。ここでは今年画期的な特別展軍都・広島と戦争加害」展示があった。この展示作成に参加した、広島の市民団体「ラジカルバナナ」の小島亜佳莉さんと金井良樹さんとは以前から親交があったこともあり、今回広島訪問にあたり「加害中心の見学」をしたいとの希望を伝えた。それでお二人が川原さんを紹介してくれたのである。

 「広島」は被爆地として知られるが、「強制連行」という角度から学ぶことを自分は怠ってきた。「朝鮮人強制連行真相調査団」編著の「朝鮮人強制連行調査の記録 中国編」(柏書房、2001年)にあった、広島県の強制連行マップ(125頁)には愕然とした。軍需工場や基地、発電所、鉱山、造船、鉄道などの建設現場で朝鮮人連行、朝鮮人がいたと確認されている場所、中国人連行のあった場所、連合国捕虜が動員された場所など50箇所以上が確認されており、その数を上回るほどの未調査地・調査対象地が記されていた。広島のマップといえば、原爆の爆心地を中心とした同心円状の被爆マップを見ることが多かったが、これは私が見たことのない広島のマップであった。

王泊ダム慰霊塔

 1910年の韓国強制併合直後から朝鮮人動員は始まった。1939年以降の「募集」「斡旋」「徴用」という形の戦時強制動員が行われる前であっても、日本の植民地支配下ですでに「自由」が奪われた状態において、生活の糧を失った人たちが日本に職を求めざるを得なかったのだ。だから「自由意思」で来たとは言えないし、その労働実態はまさしく奴隷労働といえるものであった。広島でも戦争政策が強化される中で電源開発が進んだ。太田川水系では「併合」直後に建設された亀山発電所(運転開始は1912年)から、1946年に運転開始した安野発電所を含む9箇所の水力発電所で数千人規模の朝鮮人が動員されたという。今回は、金井さん、小島さんの案内で、安野発電所と同じ太田川水系の王泊ダムと下山発電所の建設(1933-34年)現場で亡くなった朝鮮人や日本人労働者について学んだ。34年には発電所工事場のダイナマイト爆発で25人(うち14人が朝鮮人)が即死する事故が起き、慰霊塔が建てられている。
王泊ダムについて説明する
金井さん(右)、小島さん(左)

このように、すでに30年余にわたって大規模な朝鮮人動員がなされてきた中、戦争の終盤においては中国人さえもが動員されたのである。1942年に「華人労務者内地移入に関する件」が閣議決定され、43年から中国人を日本に強制連行した。全国の鉱山、港湾、発電所や飛行場建設など135箇所の事業場に約4万人が強制連行され、7千人が命を奪われた。西松建設(当時は西松組)は1944年4月に中国人動員を厚生省に申請し許可され、安野発電所建設工事のために360人の中国人を連行した。「外務省報告書」の記載によると、帰国までの約1年間に、112人が負傷、269人が病気になり、29人(船中死亡3人、原爆死5人、殴打致死2人を含む)が死亡したという。帰国した中国人たちは、強制労働による病気や怪我を負って帰った人も多く、貧困に喘ぎ大変な苦労の人生を歩んだ。

1992年以来川原さんらは、「事業場報告書」や「外務省報告書」をもとに、中国での生存者や遺族への聞き取り、当時を知る地元住民の聞き取りを行い真相究明に務めてきた。中国が戦勝国であったことから、外務省はこのような資料を作成せざるを得なかったということだ。「これらの資料があったから裁判も闘えたし、和解にもっていくことができた」と川原さんは、「資料の重み」について語った。逆にそのことは、植民地支配下に動員された朝鮮人については資料が不足し、真相究明の道のりは遠いことを示唆していると私は感じた。

安野中国人受難之碑 碑文

安野発電所横にある、和解事業の一環として建てられた「安野中国人受難」にはこうある。「・・・太田川上流に位置し、土居から香草・津浪・坪野に至る長い導水トンネルをもつ安野発電所は、今も静かに電気を送りつづけている。」これにはびっくりした。今でも広島の人々は強制労働により作られた発電所から電力を享受していたとは!それを意識して生活している人はどれぐらいいるのだろうか??

碑の前で川原さんは語った。1993年に安野の被害者2人が戦後初めて来日し、「安野発電所が今も動いて電気を送っている」ことにとても衝撃を受けていたと。「西松が今もあるなら謝罪と補償を求めたい」という被害者の希望を受けて西松建設との交渉を開始した。被害者の要求は3項目あり、「謝罪」、「記念碑・記念館」を作ることと「しかるべき賠償」であったという。

川原さんによると、繰り返しの補償交渉に対し西松建設側は「国策だったから一企業ができることはない」などと言って責任を認めなかったという。しかしそもそも西松建設を含む日本の産業側が労働力不足を補うために日本政府に強く求めて中国人連行を制度化させたということではないか。それを「国策だった」と言って逃げるのはあまりにも無責任であると思った。被害者と支持者たちは、その後交渉は打ち切り、訴訟に踏み切ったという。

川原さんの説明をきく

98年に原告5人(被害者3人、遺族2人)が360人の被害者を代表し、西松建設を提訴、地裁は敗訴、高裁は逆転勝訴したが最高裁で再び逆転敗訴した。しかし「西松建設を含む関係者において、本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待される」という最高裁の付言が、後の和解につながったという。2009年10月23日、360人について和解が成立した。西松建設は強制連行・強制労働の事実を認め、被害者と遺族に謝罪を表明し、和解金として2億5千万円を支払った。和解金には360人分の補償のほか、記念碑の建立、追悼の集い、被害者や遺族を中国から招く費用なども含まれていた。

一番忘れられない体験は、安野発電所を作るときに労働者が上り下りさせられたという果てしなく長い階段を私たち見学者も登ったことである。中国人強制労働者たちは、昼食には小さな万頭一個しか出ないのにそれを食べに飯場に降りて、仕事に戻るのにまた同じ階段を登らされたという。食べた分はその上り下りだけで消費してしまいそうだ。重い荷物を持たされ登らされたことも。靴も擦り切れ、裸足で登った人もいただろう。私は、登りながら、息が切れてだんだん無言になっていくうちに意識は自分の内面に向かった。被害者たちは、骨と皮のようにやせ細った体で、一段一段階段を上りながら、どんなことを考えていたのだろう、と思いを馳せた。どれだけ無念であったであろうか。

 安野発電所強制労働の被害者の人たちが求めていたものの中でひとつ、「記念館」は実現していない。私はこれこそが広島に必要なものなのではないかと思った。安野発電所の強制労働の歴史を含む、「加害の広島」を展示するような記念館があったらいい。広島を訪れる誰もが立ち寄れるようなところにそのような「記念館」を作ることが、いま広島に、ひいては日本の人々に、求められているような気がする。大日本帝国の残虐の歴史は日本では概して語らない、教えない、それどころか歴史を捻じ曲げたり否定したりする風潮が蔓延している。きたる12月は、日本が中国に対して行った残虐行為を代表する大規模戦争犯罪「南京大虐殺」の85周年である。安野発電所で酷使され、尊厳を奪われた人たちの体験を思い出しながらこの重要な節目を迎えたいと思う。このフィールドワークによって、広島は自分にとって二度と同じ場所ではなくなった。

 2010年以来、「安野中国人受難之碑」前で、中国から遺族を招き「平和と友好を祈念する集い」が毎年開催されている。和解が成立した10月23日の記念日に合わせ、10月第3日曜日に開催されているようだ。私も次の機会にぜひ参加したいと思う。そして広島の強制連行全体の真相究明と記憶継承について自分ができることをやっていきたいと思う。 

この貴重な学びの体験を与えてくださった川原さん、小島さん、金井さんに心から感謝します。 

安野中国人受難之碑

(のりまつさとこ カナダ・バンクーバー在住 ピース・フィロソフィー・センター代表/平和のための博物館国際ネットワーク」共同代表/アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス」エディター)


★安野発電所の中国人強制連行については川原さんら「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」のサイトに大変詳しいです。ぜひ訪問し、被害者の証言などを読んでください。⇒https://keishousurukai.com/index.html 


3 comments:

  1. 私自身このフィールドワークで自分の不勉強を恥ずかしく思いました。隣の県に住んでいながら全く知らずに過ごしていたということ、朝鮮人だけではなく中国人の方も強制労働の被害に遭っていたこと、とにかくたくさんのことが衝撃でした。聡子さんの文を読んで、共感するばかりです。このことを次世代に伝えていくべきですし、歴史を歪曲したり否定することは、また同じ過ちを繰り返す危険に繋がりかねないと思っています。このフィールドワークでの体験は本当に大きな気づきを与えてくれました。今でも毎日のように思い出します…忘れられない体験になりました。

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  2. さとちん10:27 am

    「このフィールドワークによって、広島は自分にとって二度と同じ場所ではなくなった」というの、100万回頷きました。かたや行っただけで満足していましたが、こうやって迫力のある文章を読んで改めて旅を振り返ることができました。どうもありがとうございます。

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  3. 渡辺孝4:18 pm

    西松建設の和解は安野発電所での強制労働だったとは、そこまで深く学んでいませんでした。また、30年も前から活動されている川原さんに頭が下がります。HPもしっかり作られており、被害者の方のマントウ1つしか渡されなかった証言では、この場所だけの話ではないでしょう。聡子さんの言う通り、広島に加害を示す記念館があれば、その意味はとても大きいですね。

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