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Thursday, January 21, 2010

Emotions of Henoko - Yumiko Kikuno 辺野古の気持ち 菊野由美子


This is a report by Yumiko Kikuno, Editor of a community journal "U-yu-yu" based in Miyazaki. Yumiko and I visited the "Henoko Tent Village" together on December 25, 2009.


年末、沖縄で一緒に行動した宮崎のコミュニティ誌「うゆゆ」の編集長 菊野由美子さんが、09年12月25日、私と一緒に「辺野古テント村」を訪れて当山村長の話を伺ったときの経験を主に綴ってくれました。


                              
辺野古の気持ち

菊野由美子

 はるかなる琉球王国時代、豊かな自然と海と共にアジア諸国と友好的な交易を結ぶ独立国家だった沖縄。しかし、1609年3月に薩摩藩の侵攻、そして明治12年(1879年)の琉球処分によって首里城が明け渡され、琉球王国の歴史は幕を閉じた。その後、皇民化政策により琉球文化も奪われ、太平洋戦争では日本国内最大規模の地上戦を強いられた。そして今、日本にある米軍基地の75%が沖縄に集中している。なぜ琉球の地が、こんなにも悲劇の歴史を歩まなければならないのか?普天間基地移設問題の中、今、少しでも沖縄へ心を寄せたかった。

 2009年12月25日、カナダ・バンクーバーの平和教育団体代表の乗松聡子さんと名護市・辺野古へ向かい、非暴力で辺野古への基地建設阻止活動を13年間行ってきた拠点であるテント村を訪ねた。その日、辺野古の海はあいにくの雨で、白い砂浜と波が泣いているように見えた。テント村に詰めていた当山栄(とうやま さかえ)村長さん、仲里朝治さん、ヤスさん(通称)、なっちゃん(通称)と挨拶を交わして、辺野古を守る運動の経緯を当山さんに丁寧に説明していただいた。

 1995年、3名の米海兵隊による当時12歳少女への暴行事件をきっかけに、米軍基地に対する大規模な県民の抗議活動が沖縄全島に及んだ。そして1996年、県民の怒りを静めるために、日米政府は普天間飛行場を沖縄北部東海岸辺野古に移すこと決めた。(SACO合意)1997年、基地反対の意思表示をするために、辺野古住民達は「命を守る会」を結成した。さらに、住民投票によって名護市民の過半数が反対票を投じた。それにもかかわらず、当時の名護市長は受け入れを表明した。ここから辺野古の長い戦いが始まる。

辺野古沖合い基地計画の阻止成功

 2002年、辺野古沖合い2kmに長さ3000mの飛行場建設が決まった。もし、この飛行場ができれば、辺野古の美しい水平線は全く見えなくなるのだ。 2004年4月19日に作業が開始されたが、ダンプを通さないように70名が座り込んだ。同年9月19日には、機動隊が出動する連絡が入り、そのときは、400名が早朝5時ごろから集まり座り込んだ。その状況から、防衛施設局側は正面突破は無理だと判断し、キャンプシュワブ内を通り、チャーターした辺野古漁民の漁船に機材を積んで作業現場の沖へ出た。(漁民へは、施設局から高いチャーター代が支払われている。)

 今度は海での攻防戦になった。1年に63本のボーリングを打ち込むためのやぐら建設を阻止するために、作業開始1時間前にカヌーで現場沖へ行き、ブイ周辺を囲み、潜水調査の阻止活動を約2ヶ月続けたが、4つのやぐらが建てられた。今度は、体に巻いた鎖をやぐらの上に設置されたモーターにつなげて鍵をかける作戦で阻止活動を展開。この攻防戦で50代の女性を初め、やぐらから付き落とされてケガ人も出たほどだった。

 そして、2004年11月頃には、近隣の漁船20隻が応援に駆けつけてくれたこともあり、ボーリング作業もできなくなってきた。カヌーや漁船で沖へ出る人たちは、朝4時から夕方5時までやぐらについていた。風が冷たい中、ゴザを撒いて冬の寒さをしのぎ、特に女性はトイレが大変なので、水を飲まずに沖での阻止活動に参加するなどしていた。

 そして2005年4月下旬からは、施設局側が夜まで作業し始めたので、阻止活動も24時間体勢になった。少しでも隙を見せると作業をされてしまうので、2交代制でやぐらにつくことを約50日間続けた。ここで一番大事なのは非暴力での阻止活動だったので、作業者がやぐらに到着する前に居座るということを続けなければならなかった。また、このような海での阻止活動と平行して、運動を支える県内組織は、防衛施設局へ約50人体制で何度も出向き、夜の作業は、作業者と阻止活動者両方にとって危険であることや、夜まで作業をするとジュゴンが餌場に行けなくなるなどを訴え続けた。

 このような粘り強い活動の末、2005年10月29日、沖合いの飛行場建設を断念させるに至った。それまでの座り込みの延べ人数は6万人、そのうち海に出た人は1万人にもなった。県内の世論調査でも8割が反対を支持していた。

辺野古をさらに苦しめる日米政府の新しい合意案

 2005年10月29日、辺野古沖合いの基地建設断念と同時に、日米政府は辺野古沿岸に1800mの滑走路1本を作ることを決めたが、これは住宅地から700mしか離れておらず近すぎるとして、沖合い基地賛成だった名護市長や県知事も反対した。ところが2006年4月、当時、額賀防衛庁長官が島袋名護市長を呼びつけ、「着陸と離陸専用に別れたV字型滑走路だと、集落の真上を飛ばないから安全だ。」としてV字型滑走路にGOサインを出させた。しかし、当山さんの説明によると、軍事飛行訓練は、「タッチアンドゴー」という一本の滑走路で、着陸したらすぐに飛び立つという訓練が主流であり、普天間基地でもその訓練がされている。なので、V字型滑走路でわざわざ離陸と着陸とに分けたややこしい訓練は行わない、と米国資料にも説明されていた。いつでもどんな風向きでも飛行訓練が出来るのがV字型滑走路の利点なのだ。この点を野党が国会で追及すると、「訓練によっては、両方の滑走路から飛び立つこともある。」と最初の主張が崩れてきた。当山さん達はこの国会での答弁を名護市に伝えて、GOサインの撤回を要請したが聞き入れてもらえなかった。

 そして2007年4月から施設局が事前環境調査を行うことになったが、これは環境アセス法違反であると反対派は訴えた。本来、大規模工事が行われるときは、環境アセスメントが行われて工事完成日などが決められていくのだが、辺野古のV字型滑走路建設については、完成が2014年と決定されていての事前調査なので、アセス法に沿っていないのである。この事前調査では、、ジュゴンの鳴き声をキャッチする受動的音波探知機30個の設置。夜間でも撮影できる水中ビデオカメラ14個。サンゴの卵の付着状況を調べる機械。海流を調べる機材などすべて合わせて120個を設置するものであった。
 
 この作業が開始される2007年5月18日、反対抗議活動を阻止するために日本政府は、なんと海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」を沖縄へ出動させたのだった。住民の抗議運動に自衛隊を投入させることは異常であり前例がない。当日の午前5時の辺野古沖は、まるで沖縄戦のときに米軍艦隊が取り巻いていたように、海上保安庁の巡視艇4隻、作業船30隻にゴムボート15~6隻が黒々と停泊していた。そして命がけの阻止活動も報われず、ほとんどの機材が設置されてしまった。当時の久間防衛庁長官が、「2005年の辺野古沖飛行場建設断念のときのような悔しい思いをしたくない。」と発言し、作業船を増やしたり、海上保安庁を30名から100名に引き上げてボディーガードに使った。その結果、海上保安庁からは2,3時間足止めされたり、カヌー隊のダイバー1人が機材の下に潜り込んでの阻止活動に対して、すぐに2,3人の施設局側の作業員が対抗するなど、阻止活動が機能しない状況になった。
 
 完全に阻止ができなくても、調査を虫食い状態にして、2010年1月の名護市長選や11月の県知事選まで引き伸ばす効果はあると今も座り込みとカヌー隊の阻止活動は続いている。「防衛施設局の調査が終わると、次は埋め立て申請をしなければならない。その許可の権限は知事にあるので、11月の知事選に基地建設反対の知事を登場させれば基地建設も阻止できるという展望も見込みながら活動を続けていきます。」と当山さんは語った。

 また、環境問題での補足として耳を疑うような事実を当山さんから説明された。 160ヘクタールの海を埋め立てるのに必要な土砂は2100万リューベ。(10トン車210万台分)そのために、沖縄東海岸の海砂のほとんどを持ってくることになり、さらに辺野古ダム周辺30ヘクタールの木々を伐採して、200万リューベの土や石を掘り起こす。これによってジュゴンが食べる海藻は無くなりジュゴンは死滅、辺野古ダムの水も使えなくなる。防衛局側によると、土砂を搾取する場所を辺野古ダム周辺に決めたのは、「早く確実に取れる場所だから」という説明だった。当山さん曰く、「安全保障のための基地建設といいながら、人の飲み水まで台無しにすることは、本末転倒で乱暴な計画を進めているということなのです。」

これからの展望

 政治面において当山さんは、「与党3党が沖縄県民の負担軽減の為に米軍再編を見直す作業に入っており、辺野古以外の移設先の検討には希望は感じるが、辺野古の基地反対と言っておきながら、2010年4月の埋め立て申請をすることになると、与党の自己否定になるので、それがまず大きな瀬戸際であると感じています。また、前回の衆院選では沖縄4地区すべての議員は基地反対派が勝っていることもあり、来る名護市長選や県知事選にもそのような流れがくると思っています。」と話した。また、「基地建設賛成派のほとんどは、三菱重工などの大手ゼネコンの孫受けとして仕事を引き受ける土建業者です。沖縄の第2次産業の中で土建業の比重は高いが、それでも県民の7割は反対で賛成は15%です。」と付け加えた。そして環境面では、2008年に辺野古米軍施設建設計画は米国の国家歴史保存法に違反している判決が下されたが、この判決は基地建設撤回まで求めるものではなく、保護策を立てるように命じるものだが、引き続き米裁判所は米政府の動きを見ている状態にあるということだ。

 当山さんの説明を聞きながら、雨風は激しくなり、テントを支える鉄パイプの軋む音が辺野古の切ない叫び声に聞こえてきた。テント内を見渡すと、一枚の大きなタペストリーが目に入った。それにはこう書かれていた。


あの沖縄戦が終わったとき
山は焼け、里も焼け、豚も焼け、
牛もやけ 鳥もやけ
陸のものは すべて焼かれていた
食べるものといえば
海からの恵みだったはず
その海への恩返しは
海を壊すことではないはずだ


 琉球王国が攻められてから約400年、私たちは一度でも沖縄の声に耳を傾けたことがあっただろうか?一度でも願いを聞き入れたことがあっただろうか?辺野古での戦いの13年間でさえも関心を寄せただろうか?「辺野古、そして沖縄、ごめんなさい・・・」

 当山村長さん、テント村に詰めていらした皆さん、丁寧なご説明をありがとうございました。心から感謝いたします。そして、今回の辺野古行きに誘っていただいた乗松聡子さん、貴重な体験をありがとうございました。

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