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Friday, January 15, 2010

The Japanese Version of Daniel Ellsberg's Memoir "Hiroshima Day: America Has Been Asleep at the Wheel for 64 Years" 「ヒロシマの日――64年間、居眠り運転をしてきた米国」

Introducing the Japanese Version of Daniel Ellsberg's Memoir "Hiroshima Day: America Has Been Asleep at the Wheel for 64 Years"

ベトナム戦争で国民を欺き続けてきたアメリカ政府の内情を機密書類の暴露で暴き、ベトナム戦争終結への道を開いたダニエル・エルズバーグが2009年のヒロシマの記念日に捧げた回顧録「ヒロシマの日-64年間、居眠り運転をしてきた米国」の原文英語版  はこのブログでも以前紹介しましたが、日本語版が出ましたので転載許可を得てここに紹介します。

エルズバーグ氏は、アメリカの核政策の専門家という立場から、戦後核軍縮を進めるどころか世界を核戦争の危険に陥れそのままにしてきているアメリカの責任を厳しく問うものです。またこれは彼の人生の回顧録でもあります。戦時中、高校生としてはじめて学校の授業で核兵器の可能性を知ったときのことが書かれています。また、戦後すぐ父親の居眠り運転で交通事故にあい、自分と父親は助かったのですが母親と妹が亡くなりました。この回顧録の題はそのときの体験にかけているのです。この回顧録で私が涙を誘われたところは戦後の彼と父親のやり取りです。最初に核兵器を開発して使用た国で育ち、さらなる強力な核兵器開発に関わることをすんでのところで断念した父。その父が断念した理由とは・・・

この回顧録に出てくるジョン・ハーシー著『ヒロシマ』は、1946年にその『ニューヨーカー』誌に発表され、大反響を呼びました。ヒロシマの「きのこ雲」の下で何が起こっていたのか、アメリカ人が初めて知る機会を作ったその名著と、ピース・フィロソフィー・センターは深いつながりがあります。この本で取材された被爆者6人のうちの一人であり、被爆者の救済や「原爆乙女」のケロイド治療等にも多大な業績を残した故・谷本清牧師の長女である近藤紘子さんは、毎年日米の学生が広島長崎を訪れ原爆の歴史を学び核廃絶への動きに参加する平和学習の旅(立命館大学・アメリカン大学主催)の客員講師を務め、広島では、この本にゆかりのある場所に案内してくれる。私はこの旅に4年前から通訳として参加し、2年前からはカナダ人学生たちと共に参加しているのです。

エルズバーグ氏の話に戻りますが、2009年、エルズバーグ氏のベトナム戦争当時の勇敢な行動を描いたドキュメンタリー映画 "The Most Dangerous Man in America: Daniel Ellsberg and the Pentagon Papers" は各地の上映で絶賛され、2010年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされる可能性があります。私は昨年10月のバンクーバー国際映画祭でこれを観る機会があったのですが、自分の正しいと思うことを信じてやり抜いたエルズバーグ氏の生き方は勇気を与えてくれると同時に手本にしたいと強く思いました。皆さん、この映画を機会があったらぜひ観てください、そして応援してください!

前置きが長すぎました。以下が回顧録日本語版です。 転送を許可していだいたTUPの古藤加奈さんに感謝します。

乗松聡子


URLは
http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/880


ダニエル・エルスバーグ『人類を破滅させる米国製凶器』序章
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ここに掲載するエルスバーグ回顧録シリーズ序章は、2009年8月15日に彼自身のウェブサイトおよびtruthdigに掲載され、翻訳文書は岩波書店発行の月刊『世界』2010年1月号に掲載された。続編は同誌2月号に掲載された。エルスバーグは、ヒロシマ65周年までに、機密扱いであった彼の初期の仕事および40年間の研究を振り返るこの回顧録シリーズを、インターネット書籍として公開していくと述べている。

回顧録的ドキュメンタリー映画「The Most Dangerous Man in America: Daniel Ellsberg and the Pentagon Papers」(仮題『アメリカで最も危険男――ダニエル・エルスバーグとペンタゴン・ペーパーズ』)が2009年10月に米国で公開された。人類の破滅を招く核世界大戦の危機を国民の同意なく秘密
裏に行使する権限を監視し、阻止するために、全世界の核開発関係者に対する内部告発と全面的な核兵器廃絶を呼びかけている。デトロイト出身。1931年生まれ。詳細は、http://www.ellsberg.net/ を参照。

          翻訳:福永克紀・宮前ゆかり、協力:山崎久隆/TUP
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ヒロシマの日――64年間、居眠り運転をしてきた米国


2009年8月5日
ダニエル・エルスバーグ

 【1】

8月のデトロイト、暑い日だった。私は都心部の街角に立って、棚に並んだ『デトロイトニュース』紙の第1面を見ていた。アメリカの爆弾1発、日本の都市を破壊、と報じるその大見出しを読んでいるとき、路面電車がガタゴトと軌道を軋ませて通り過ぎて行ったことを覚えている。私が最初に思ったことは、
この爆弾の正体が自分には正確に分かるということだった。前年の秋に学校で私たちが議論し、レポートを提出したウラン235爆弾だ。

私は思った。「僕たちがそれを最初に手に入れた。そしてそれを僕たちが使った。ひとつの都市に」

深い恐怖感をおぼえ、人類にとって非常に不吉なことが起こってしまったと感じた。アメリカ人として初めての、14歳で抱いたその思いは、わが国はおそろしい過ちを犯してしまったのかもしれないということだった。9日後に戦争が終わったときには喜んだものの、だからといって8月6日に私が抱いた当初の感じ方が間違っていたと思うことはなかった。

マンハッタン計画の部外者のほとんどとは違い、核の時代を迎えたことによる試練を私が初めて認識し、核兵器の出現に対する私の姿勢が形づくられたのは、この新聞大見出しより9カ月ほど前である。それも決定的に異なる文脈においてだった。

それは、1944年の秋、9学年の社会科の授業であった。私は13歳で、ミシガン州ブルームフィールド・ヒルズにある私学、グランブルック校の全額奨学金で学ぶ寄宿生だった。私たちの先生、ブラッドレー・パターソンが、当時の社会学ではよく知られていたウィリアム・F・オグバーンの「文化遅滞論」という
概念を論じていた。

その着眼点は、人類の社会史的な進化においては、技術の発達が技術以外の文化面の発達より常に速く深く進行してきた、つまり、私たちの政府の制度や価値観や習慣よりも、社会や自分たち自身に対する認識よりも、技術の発達のほうが先行する、ということだ。実際、「進歩」という概念そのものが主に技術に対して言及されてきた。「遅滞」してくるもの、社会が新技術に適応していく中でもっとゆっくりと発達してくるもの、またはまったく発達してこないものとは何かというと、技術と、そして他人より優位に立つことを目的としたその使用とを制御し、管理していく私たちの能力に関するすべてのことである。

これを説明するために、パターソン先生はまもなく実現される可能性がある技術的進歩を提示した。ウランの同位体であるウラン235で爆弾を造れば、戦時中の当時に使用されていた最大級の爆弾の1000倍以上も威力がある爆弾を想定することが今やできるのだと、先生は言った。1938年の暮れにはドイツの科学者たちが、ウランには核分裂性があり、莫大な量のエネルギーを解放できることを発見していた。

戦時中の『サタデーイブニングポスト』などの雑誌には、原子爆弾、特にウラン235爆弾の可能性に関する大衆向けの記事がいくつか掲載されていた。どの記事にも、存在自体が機密であったマンハッタン計画からの情報漏洩があったわけではない。どれもが、科学の自主規制に続いて公式に機密指定される以前の1939年から40年にかけて、このテーマに関して自由に発表されていた記事から着想を得ていた。パターソン先生はこの戦時下の記事をひとつ見つけていた。彼は、ウラン核分裂性発見のあとに起こりそうな展開を、科学や技術が私たちの社会的慣行よりも先行して飛躍する可能性の例として、私たちの前に提示したのだった。

「そこで、ある国が、または数カ国が、これで爆弾を製造する可能性を探ることにして、成功したとします。これによって、人類にとってどのようなことが引き起こされるでしょうか。今日あるがままの人類や国家によって、どのように使われるでしょうか。すべてを差し引きして、世界にとって良いことになる
のでしょうか、悪いことになるのでしょうか。たとえばそれは平和のための力となるでしょうか、それとも破壊のためのものとなるでしょうか」。私たちは、この件について1週間以内に小論文を提出することになった。

数日それを考えた私がそのレポートで到達した結論を覚えている。私の記憶の限りでは、クラスのだれもがほぼ同じ判断に行きついた。それは自明のことのようだった。

そのような爆弾の存在は人類にとって悪い知らせになるだろうと、私たちのだれもが結論付けた。人間はそのような破壊的力を制御することはできないだろう。安全に、適切に、統制することはできないだろう。その力は危険で破壊的な「悪用」をされて、悲惨な結果を招くだろう。まさにその時期、連合軍が原
子爆弾なしでドイツのいくつもの都市を破壊しようと全力を尽くしていたように、それ以前にドイツがロッテルダムやロンドンを破壊し尽くそうとしていたように、多くの都市が完全に破壊されることになるだろう。文明が、おそらく人類が、破滅の危険を迎えるだろう。

あまりにも強力すぎたのだ。すでに存在する、都市のブロック全体を破壊できる爆弾でさえ最悪だった。それは「ブロック・バスター」と呼ばれる、10トンの高性能爆弾だ。その1000倍も強力な、いくつもの都市全体を破壊できる爆弾を持つ展望など、人類にとって必要はなかった。

思い起こせば、この結論は、だれがその爆弾を所有するか、所有者の数がどれぐらいか、最初に持つのはだれかなどとはほとんど無関係であった。そして、私の記憶の限りでは、クラスの全員が、進行中の戦争の所産としてすぐにでも起こることとしては扱っていなかった。設問に従えば、ドイツが最初の科学的知見を発見したからにはドイツが最初にそれを手にするだろうと想定されてはいたようだ。しかし、これが必然的にナチスの、ドイツの爆弾となるという前提で否定的評価を下したのではなかった。すべてを比べ見て、たとえ民主国家群が最初に手にしたとしても悪い発展になるだろうと結論付けた。

私たちがレポートを提出してクラスで討論してから、再び私がこの問題を考えることになるまで何カ月かが過ぎていた。デトロイトの街角でのそのときを、今でも覚えている。8月6日に新聞大見出しを読んだときの光景を見ることも感じることも、考えたことを思い起こすことも、先に記述したように今なおできる。

爆弾開発競争の勝利と日本に対する爆弾の有効性について語るハリー・トルーマン大統領の誇らしげな声の調子をラジオで耳にした当日もその後の何日も、私は違和感を感じていたことを思い出す。当時もそれ以降も、私は全般的にトルーマンを称賛していたが、彼の声明を聞いて、その声には懸念が欠けており、悲劇の自覚も、未来に対する絶望も恐怖も感じられないことに嫌悪を感じた。私には原爆投下の決断は苦渋の選択であるように思えたが、トルーマンが行なった公式声明の様式も論調も、そのような選択ではなかったことを如実に表していた。

私にとってそのことは、わが国の指導者たちが事態を理解することもなく、自分たちが先例を作ってしまった重大性も、未来に及ぼす不吉な影響の重要性も把握していなかったことを意味した。その明確な無自覚そのものが恐ろしかった。私はなにか不気味なことが起こってしまったと確信し、その爆弾が実現可能だという事実は人類のためにならないと、そしてその爆弾の使用は、短期的には否定的側面が利益と釣り合うか、あるいは利益のほうが大きいとしても、長い目で見れば悪い結果を招くことになる、と考えた。

振り返ってみれば、当時の私の受け取り方が正しかったことは明らかなようだ。

さらに、それ以来の私の人生を貫く二つの相関する命題、核兵器に対する強烈な嫌悪と、婦女子を殺すことに対する全般的な嫌悪をよくよく考えてみると、一年も過ぎないうちに起こった二つの出来事を、自分の感情的記憶の中で融合してきたのではないかと思うようになった。二つとは、ヒロシマと、その11カ月後に私自身の家族を襲った惨事だ。

1946年7月4日、暑い日の午後、デトロイトからデンバーの親戚を訪ねる途中、アイオワ州のトウモロコシ畑を通り抜ける平坦な直線道路を走っていたとき、 私の父が居眠り運転をしてしまい、車が道をそれたまま走り続け、道路の下を横切る排水路上に建てられた道路側壁に激突して、車の右側が削ぎ取られ、母と妹が死亡した。

父の鼻はつぶれ、額が切れた。パトカーが到着したときには、父は血を流しながら放心状態で残骸の周りをうろついていた。私は車の中で脳震盪を起こして意識不明のままであり、額の左側部分に大怪我をしていた。私は後部座席の足元に置かれていた毛布で覆われたスーツケースの上に座っていて、頭の位置はちょうど運転席の真後ろだった。車が壁にぶつかったとき、頭が運転席後部の金属製備品に激突して意識を失い、額の肉が大きな三角形型に開いてしまった。36時間、昏睡状態だった。私は車に横向きの格好で両足を伸ばしていたのだが、右足が膝のすぐ上部で骨折してしまった。

 【2】

父は、ネブラスカ州では道路工学技術者だった。彼の説明によると、幹線道路の壁はこのように道路となんの隔てもない同一路面上に建てられるべきではなかったのであり、その後の法律はそういう配置を禁じる傾向になった。妹は前向きに座り、母は車の横側に背もたれして左向きに座っていたが、この壁は二人が座る車の片側をひき剥がしてしまった。デトロイトから現場に駆け付けた私の兄がのちに語った話によれば、スクラップ置場で車の残骸を見たとき、右側部分はまるで繊維状の鉄鋼のようだった。生き残った者がいたことが驚くべきことだった。

あの出来事がどのように発生したか――疲れきった父が運転し続けて起こしただけの事故というわけではないと、父から聞いた――私の理解と、あの出来事が私の人生にどのような影響を与えたかの話は、また別の機会にする。しかし、のちにペンタゴン・ペーパーズ[訳注:国防総省秘密報告書]を読んで私が導き出したことと、それ以降の私の市民としての活動を今から振り返ってみれば、1945年8月の出来事と46年7月の出来事の中に、知らず知らずのうちに共通のメッセージを読みとっていたのだと思う。父を愛しており、トルーマンを尊敬していた。だが、惨事から自分を守り、自分の家族を守るためには、信頼する権威者に完全に依存することなどできないだろう、たとえその人がどんなに善意の人であろうとも、その人をどれだけ称賛していようとも。権威者たちの庇護に、さまざまな出来事すべてを安全にゆだねることはできない。もし必要なら呼び覚ますとか、他の者に警告するとか、何らかの警戒が必要だったのだ。彼らも居眠り運転をし、壁や断崖に向かってしまうときがある。のちに私はリンドン・ジョンソンと彼の後継者にそれを見たし、その後も幾度となくそれを見てきた。

だが1945年8月にヒロシマとナガサキが焼き尽くされたとき私がほとんどすぐに感じたことは、わが国の大統領と爆弾に対してそうした感情をもったことで、自分が周りのほぼ全員から、両親や友人からも、他のほとんどのアメリカ人からも孤立することになる、ということだった。人に話すべきことではな
かった。愛国心のない者と思われかねないだけだった。それは、第二次大戦中にはもっともそう思われたくないことだった。私自身にだけ秘められた思いとなった。

14歳のアメリカ人少年が、戦争が終わった週にたどり着きそうにもない考えだろうか。もし前年の秋にパターソン先生の社会科の授業を受けていなければ、そうだろう。でもあのクラスの生徒なら誰でも、夏休みに8月の新聞の大見出しを読んだとき、すぐ私のようにあの爆弾のことだとわかったはずだ。さらにそこから先は、以前のクラス討論に照らして、皆が私と同じように受け止めたかはわからない。

しかし、先にああいう結論を出したり8月6日に私のような受け止め方をしたからといって、私たちが優れた予言者というわけではなかった。その日以前には、マンハッタン計画(しかも内部のごく少数者だけのことだが)の部外者で、私たちのクラス以外の大衆の中に、私たちのように1週間、いや、1日た
りとも、そのような兵器が人類にもたらす長期的見通しを考えて過ごした人はおそらくいなかっただろう。

その上、もうひとつ別の重要な形で、私たちはアメリカ人同胞とは違っていた。1945年の8月にその爆弾の実現性自体を初めて知らされたとき、計画の部外者や、私たちのクラス以外の人々で、それに付随してきた猛烈に偏った肯定的想念に惑わされることなくこの爆弾のことを考えるきっかけを持てた者はたぶんいなかった。その想念とは、爆弾は「我々の」兵器であり、ナチスの爆弾を阻むために開発されたアメリカ民主主義の道具であり、大統領ふたりの追求努力の産物であり、戦争勝利をおさめた兵器であり、そう謳われあまねく信じられたように大きな犠牲を伴う日本本土攻略なくして戦争を終わらせるには必要不可欠な兵器である、ということだった。

前年の秋に形成された私たちの態度は、8月6日以降に新しい核時代について考え始めた他の人たちほぼ全員とは異なり、そのような兵器が正義の力として戦争を勝利させたとか、その偉業なくしてはアメリカ人100万人の命を(それと同数かそれ以上の日本人の命を)犠牲にしなければならなかったはずだとか、そういう主張や見せかけによって形づくられたり歪められたりしたものではな
かった。

他のほとんど全てのアメリカ人が爆弾の長期的未来にどんな畏怖を抱いたにせよ(著名メディアでは大半の人がのちに覚えている以上に、この畏怖を多く表明していた)、爆弾の妥当性を漂わせ、ほとんど奇跡的な正義の潜在能力が現実化されたと思わせる強烈な独特の雰囲気によって、当時もその後もその畏怖は帳消しにされてきた。いまだに大多数のアメリカ人にとっては、ヒロシマとナガサキの原爆は、自分自身の命や、夫や兄弟、父や祖父の命を救ったものであり、さもなくば日本本土攻略の危険を冒さねばならなかったのであり、なにより感謝すべきこととみなすものである。こういうアメリカ人や他の多くの人々にとって、原爆は大虐殺の道具というより、一種の救世主であり、貴重な命の保護装置であった。

それ以来ずっと大部分のアメリカ人が、ヒロシマとナガサキの住民を撲滅することは、実質的にはテロにすぎないのだが、想定された状況下では正当な手段として成り立つとし、必要で効果的だったとみなしてきた。そのようにして、彼らの目からは、1日のうちに実行された歴史上2番目と3番目に大きな虐殺が正当化されてきた(最大の大虐殺とは、5カ月前の3月9日の夜、同じくアメリカ陸軍航空軍による東京大空襲であり、8万人から12万人の民間人を焼死ないし窒息死させたことだ。この事件を知るごく少数のアメリカ人の大半が、やはりともかく戦時中には適切だったと受け入れている)。

大半のアメリカ人のようにこういう行ないをまったく犯罪でも不道徳でもないとみなすことは、何事であれ、文字通りまったく何であれ正当な手段となりうる、最悪でも最小限の必要悪となりうると信じることになる。少なくとも、戦争中に、大統領の命令でアメリカにより実行されたならば。実際、わが国は、爆撃で、特に大量破壊兵器による都市爆撃で戦争に勝利したと信じていて、そうすることがまったく正しかったと信じている世界唯一の国である。これは危険な精神状態だ。

たとえこういう正当化の前提が現実的であったとしても(長年の研究の結果、事実はそうではないと、多くの学者とともに確信するようになったが、ここではそれを論じない)、そのような信念が後続する政策決定にもたらした結果が破滅的になるのは必至だった。そういう信念が根底にあればこそ、アメリカ政
府も国民も、核兵器による大量抹殺の威嚇をいつでも実行できる態勢を整え、それをわが国の安全保障の基礎とすることを、以来ずっと歓迎してきたのであり、政府高官やエリートたちも今なおこのような兵器の廃絶を不可能なばかりか望ましくもないと考えているのである。

これとは対照的に、もしも大統領による既成事実があんなやり方で固められる前の1945年の夏に熟考する幾日かが与えられていれば、人並外れた倫理観の持ち主でなくても誰でも、パターソン先生の授業で私たちみなが到達した不吉な予感を感じたはずだ。13歳の9学年生にも、マンハッタン計画の科学者多数と同様に、たやすくできることだった。科学者たちにはむろん、原爆が使われる前に自分たちの判断を形づくる機会があった。

しかし、科学者たちは、国民にも政策決定最高責任者たちにさえも知られていない他の事実を知っていた。それは、自分たちが製造しようとしているウランとプルトニウムの核分裂爆弾である原子爆弾は、ほぼ間違いなく熱核融合爆弾を含むさらに強力な爆弾、後に水素爆弾あるいは水爆と呼ばれる爆弾の先駆者にすぎないということだった。結果的に私たちが数万発も手にすることになったその水爆は、その爆弾を起動するために必要な核分裂爆弾よりもずっと大きな威力を持つことになる。核分裂爆弾の1000倍だ。

しかも、核兵器の長期的影響に注目していた科学者の大多数が、遅ればせであるが、1945年5月のドイツの降伏以降には、日本に対する原爆の使用は兵器の国際的管理を見込みもないものにしてしまうだろうと信じるようになった。代わりに、死に物狂いの軍拡競争を不可避にし、合州国はすぐに敵対国家群による歯止めのない熱核兵器所有の危険にさらされることになり、科学者たちが爆弾投下以前に大統領に提出した請願にあるように、その結果「米国の都市ばかりか各国の都市までもが、突然に消滅する危険に絶え間もなくさらされることになるだろう」(この点においては彼らが正しいと証明された)。彼らは、倫理的根拠と文明の長期的生存への配慮を基に、日本への原爆投下は、たとえ終戦を早めるとしても、こうしたプロセスの引き金を引くことになると大統領に警告したのだった。

 【3】

だが、彼らの請願は「然るべきルートを通じて」提出され、マンハッタン計画の責任者レズリー・グローブス少将によって意図的に留め置かれた。爆弾が投下されてしまったあとになるまで、大統領にもヘンリー・スティムソン陸軍長官にすらも届かなかった。核攻撃が将来に与える影響を案ずる科学者たちの懸念もその判断も、トルーマン大統領が決定を下す以前にも以降にも大統領に知らされたという記録は全くない。ましてや、アメリカ国民に知らされることはなかった。

科学者たちの請願とその論理的根拠は、戦争の終結時に再び機密に指定されて公知のものとはならず、その存在は10年以上も知られることはなかった。のちにマンハッタン計画の科学者数名が、クリアランス[訳注:国家が保有している機密情報や物品の取り扱いを許可された者に与えられる資格証明]を取り消されたり、身分を奪われたり、場合によっては起訴されかねないと恐れて機密情報管理官たちの要求に屈したこと、そしてこの問題の致命的部分を国民に知らせないでおくことに加担してしまったと、悔恨の念を表明した。

そのうちの一人、ユージン・ラビノビッチは、終戦後に『ブレティン・オブ・アトミック・サイエンティスト』誌(原子力科学者会報、それには終末時計が掲載されている)を設立して編集者を務めた人物であるが、彼は、その爆弾が実際に存在していて日本に投下する計画があることと、投下がもたらす長期的
危険性や倫理的問題についての科学者たちの見解を、同僚たちと袂を分かってもアメリカ国民に警告しようと、ドイツが5月に降伏したあと実際に真剣に検討していた。

このことを、彼は、1971年6月28日の『ニューヨークタイムズ』に掲載された手紙で公表した。その日は、私がボストンの連邦裁判所で逮捕を受け入れざるを得なかった日である。その日までの13日間、妻と私は、ペンタゴン・ペーパーズの公表が『タイムズ』と『ワシントンポスト』で差し止め命令を受けて
中断してしまったのちに、17紙にそれを配布しながらFBIの手を逃れて潜伏生活をしていたのだった。ラビノビッチの手紙は、自分がいま打ち明ける気持ちになったのは、「米国によるベトナムへの介入に関する国防総省の歴史が、『機密』に指定されているにも関わらず、『タイムズ』で暴露されたこと」で
ある、という言葉で書き始められていた。

「ヒロシマとナガサキに原爆が投下される前に、米国政府が国民と相談することもなく計画しているこの致命的な行為、すなわち原子爆弾を初めて実戦使用しようとしていることを、できれば定評ある報道媒体を通じてアメリカ国民に暴くべきだろうかと思いめぐらしながら、幾夜となく眠れぬ夜を過ごしていた。25年後の今にして、もしそうしていれば正しかったのにと感じている」

私はそれが公表された日の朝にはこれを見ていない。というのも、ラビノビッチが1945年にやっていればよかったと思うことを、そして私が1964年にやっていればよかったと思うことを私が実行したため、私自身が逮捕され召喚されていたからだ。私が内部告発者たろうとする人物(こんな人物を私は他には知らない)によるこのただならぬ告白に初めて巡り合ったのは、ロバート・ジェイ・リフトンとグレッグ・ミッチェルによる"Hiroshima in America: Fifty Years of Denial"(ニューヨーク、1995年、249ページ)でだった[訳注:岩波書店から、大塚隆訳『アメリカの中のヒロシマ』上下巻として95年11月と12月に発売された]。

いまだいささかの驚きとともに、ラビノビッチの書いたことを読み直すと、私は彼に同意する。彼がそれを考えたことは正しかった、そして彼が本当にそうしていれば正しかったのに。そうしていれば(彼の手紙が公表されたときに私がそうだったように)そのときは起訴され投獄の憂き目を見ていたかもしれな
いが、市民として人間として、アメリカ国民に情報を提供し、彼らに命運を分ける決定の責任を共有させたことで、このうえもなく正当化されていたはずだ。

その同じ科学者たちの何人かがヒロシマから4年後に、同様な試練に直面した。原爆にもまして恐ろしい兵器、人類生存を脅かすかも知れない危険をもっとはらんでいる兵器、水素爆弾を開発する可能性が検討されたのだった。このときは、日本に対する原爆使用を推奨した者の何人かが(上述の請願には異議を唱えていた)、「人類に対する極端な危険性」の観点からその新案件の実験にも、開発にさえも反対していた。「はっきりと認識してもらわねばなりません」と、彼らは言う。「これはスーパー兵器であり、原子爆弾とは完全に異なる範疇に属するものだということを」(『アドバイザー(顧問)』ハーバート
・ヨーク著、カリフォルニア、1976年、156ページ)。

またしても、私は随分とあとから知ったのだが、この秘密の可能性を知っていたのは、政府の科学者たちだけに完全に限られていたわけではなかった。少数の部外者が、実は私の父もそのうちの一人だったと判明したのだが、大統領の承認印が押されて米国政府のプロジェクトとなる以前にこの秘密の展望を知っていた。そしてまたもや、このように事前に知識を得ていた条件下では(先と同じく一般国民に知らせることは拒まれていた)、倫理的危険性と長期的危険性を把握することは核科学者でなくてもできた。父の場合も、そうだった。

ここで、少し背景説明をしなければならない。私の父、ハリー・エルスバーグは建築工学技術者だった。「民主主義の武器庫」と呼ばれたデトロイトで、アルバート・カーンのもとで働いていた。第二次世界大戦が始まったとき、陸軍航空隊向けのB-24爆撃機リベレーターを製造するフォード・ウィローラン工場
の設計を担当する建築工学技術者の責任者だった(2009年6月1日、現オーナーのGM社が破産手続きの一環としてこの工場の閉鎖予定を公表した)。

父は、一戸建ての工業用建物では世界最大だという事実を自慢していた。そこでは、フォードが車を造るように爆撃機を組み立てラインで生産していた。ラインは、2キロの長さに及んだ。

父が言うには、工場は彼が最初に設計した直線型の代わりに、L字型になってしまった。建設用地の選定のとき、フォードの会計監査部門から、工場が郡境を越えて会社の影響力があまりない隣の郡に越境してしまい、地方税も高くなるとの指摘があった。そこで、組み立てラインもその建屋も、設計上フォード王国の内部にとどまるよう直角に曲げられなければならなかった。

父が一度、稼働中のウィローランの見学に連れて行ってくれたことがある。見渡せる限り、巨大な金属の機体が軌道上を移動し、作業員が部品を鋲打ちして取り付けていた。まるで、かつて見たシカゴにある食肉処理工場の屠畜された牛の写真のようだった。しかし父が説明してくれたように、機体は軌道上を1.2キロ移動して、回転台で90度回され、最後のL字型を800メートル運ばれていた。最終的に飛行機は、1時間に1機の割合で工場の端にある格納庫入口まで運ばれ、つまり始めから終わりまで10万の部品を取り付けるこのラインは一機製造に59分を要したのであるが、そこで燃料を充填されて戦争に飛び立っていったのだ。(資料と写真は、ここ[*1]とここ[*2]を参照)[*1]
http://apps.detnews.com/apps/history/index.php?id=73&category=locations
[*2] http://en.wikipedia.org/wiki/Willow_Run_Bomber_Plant

13歳の子供にはわくわくする光景だった。父を誇りに思った。戦争時における父の次の仕事もやはり、もっと大きな飛行機のエンジンを製造するまたもや世界最大の一戸建て工場の設計であり、それはB-29のエンジンを独占製造するダッジシカゴ工場だった。

戦争が終わると、父は、ワシントン州ハンフォードのプルトニウム生産工場増設の監督官に迎える申し出を受け入れた。原子力委員会との契約でゼネラルエレクトリックが請け負ったプロジェクトだ。父はこのプロジェクトの建築工学技術長の職に就くため、長年働いたアルバート・カーンの建築工学会社を辞
め、ギフェルズ&ロゼッティと名付けられることになる会社[訳注:米国の建設会社]に移った。のちに父が私に語ったことだが、この会社は当時、世界最大の建築契約量を誇り、彼のプロジェクトも世界最大だった。私はこの上ない大きな話を聞きながら育った。

ハンフォードのプロジェクトは、初めて父に高給を与えた仕事だった。しかし、私がハーバード大の2年生で家を離れている間に、ギフェルズ&ロゼッティの仕事を辞めてしまい、当時その理由を私は知る由もなかった。父は1年間ほど仕事から離れていた。その後、会社全体の建築工学技術長として復帰し
た。およそ30年を経て、1978年に父が89歳になったとき、なぜギフェルズ&ロゼッティを辞めたのかたまたま聞く機会があった。父の答えは私を唖然とさせた。

「彼らが私に水爆を造る手伝いを望んだからだ」

 【4】

この言葉を1978年に耳にして、とても驚いた。当時、カーター大統領がヨーロッパに持ち込むことを提案していた小型水爆の一種である中性子爆弾の配備に対し、私は持てる時間のすべてをさいて反対活動を行なっていた。中性子爆弾から出力される中性子による致死半径は、その爆発による破壊半径よりずっ と大きい。都合のよいことに、空中爆発した中性子爆弾は放射性降下物も少ないし、建物、設備や車両を破壊することもないが、この爆弾の中性子は建物や戦車の内外を問わず人間を殺してしまう。ソ連はこれを人間は殺すが財産は破壊しない「資本主義の兵器」とあざ笑ったが、彼らもまた他の国々と同様にこのような兵器の実験を行なったのである。

私はそれまでおよそ20年間にわたりこの概念を開発したり実験することに反対していた。友人であり、ランド研究所での同僚でもあり、「中性子爆弾の父」 として知られることを望んだサム・コーヘンから最初に説明を受けて以来だ。限定的な効果しかなく、致死効果が制御可能であるかのような「小型」兵器として戦争に利用できると見做され、米国が最初にこの兵器を使用して「限定核戦争」をはじめる可能性が高まることを恐れたのである。これは、わが国の核兵器の大部分を占め、当時のソ連所有の全核兵器でもあるもっと放射線汚染度の高い水爆による応酬合戦を勃発させることになるだろう。

父とのこの会話があった年、水素爆弾のプルトニウム起爆装置すべてを製造し、中性子爆弾用のプルトニウムコア[訳注:プルトニウムコア(芯)=核融合反応を起こすには高温高圧状態をつくる必要があるが、そのために最初に爆発させる小型のプルトニウム爆弾のこと。高純度のプルトニウム239(93%以上)を使う]を製造することになっていたロッキーフラッツ核兵器製造工場の鉄道を封鎖して、私は4回逮捕された。そのうちの1回は8月9日のナガサキの日だった。ロッキーフラッツで製造されていた「起爆装置」は、実際のところ原子爆弾の核構成要素で、1945年のその日に長崎を破壊したのと同種のプルトニウム核分裂爆弾だ。

わが国の戦略軍が保有する何千もの水爆、すなわち熱核融合爆弾の一つひとつが、起爆装置としてナガサキ型の原子爆弾を必要とする(アメリカ人100人のうち一人でもこの簡単な事実を知っているかどうかは疑わしく、それゆえ原爆と水爆の違いを明確に理解しているとも、過去50年におよぶ熱核兵器の現実を理解しているとも思えない)。

ナガサキとヒロシマが廃墟と化したおなじみの映像から国民が抱く核戦争のイメージは、奇怪なほど真実を歪めている。これらの映像が示すのは、今や近代的核兵器用の単なる起爆雷管によって爆破されたときに人間や建物がどうなるかだけなのだ。

これらの兵器用のプルトニウムは、ハンフォードとサウスカロライナ州のサバンナ・リバー・サイトから来たもので、コロラド州のロッキーフラッツで兵器構成部品に機械加工されていた。1978年8月9日、プルトニウム爆弾が5万8000人もの人間を殺したその命日に(1945年末には約10万人が死亡していた)、アレン・ギンズバーグと私は多くの人々とともに、この工場の入り口を封鎖して平常どおりの業務を妨げたのだった。

私はそれまで父が水爆に何らかの関係があるなどと聞いたこともなかった。父は私の反核運動やベトナム戦争が終わってからの私の活動について特に熱心な関心を寄せていたわけではない。ギフェルズ&ロゼッティ社を辞めたことについてのさっきの話はどういう意味か、父に尋ねた。

「会社は私に水爆用の原料を製造する大きな工場の設計責任者になって欲しかったのだ」。ハンフォードの施設を構築したデュポン社が原子力委員会から契約をもらうことになっていたと父は言った。そうだとしたらサバンナ・リバー・サイトのことだろう。それはいつのことだったのか、聞いてみた。

「1949年の後半だった」

「きっと日にちを間違っているね。当時水素爆弾の話を耳にするはずはないよ、早すぎる」と父に言った。ちょうどハーブ・ヨークの新刊『顧問』でそれについて読んだばかりの頃だった。ロバート・オッペンハイマーが議長を務め、ジェイムズ・コナント、エンリコ・フェルミ、イシドール・ラビを含む原子力委員会(AEC)の一般顧問委員会(GAC)では、その秋に水素爆弾の突貫開発計画を始めるかどうか検討していた。それは以前に「スーパー兵器」と呼ばれていたものだ。彼らはそれに強く反対する勧告を行なったが、トルーマン大統領は彼らの意見を退けた。

「トルーマンは1950年1月になるまで実行の決定を下さなかったんだよ。それにこの話はすべてものすごい機密事項だった。父さんが1949年にそれを耳にすることなんてありえないね」

父はこう言ったのだ。「いいかい、実行するつもりだったとしたら誰かが工場を設計しなければならなかったんだ。私はちょうど理にかなった人物だった。戦争の後、私はハンフォードのプロジェクト全体の建築工学の責任者だったからね。Qクラスのクリアランスを持っていた」

核兵器の設計と蓄積情報に対する原子力委員会のクリアランスであるQクリアランスを父が持っていたと私が初めて知ったのはそのときだった。1964年にランド研究所を去って国防総省に移った後には、国防総省で私自身も10数件の最高機密以上の特別なクリアランスに加えて、そのクリアランスを持っていた。自分の父親がクリアランスを持っていたのは初耳だったが、ハンフォードのためにそれが必要だったことは納得できた。

私はこう言った。「てことは、父さんは一般顧問委員会以外で1949年にこの国が水素爆弾の構築を検討していることを知っていたほんの一握りの人々の一人だったってこと?」

「そういうことかな。とにかく、1949年の末というのが確かなのは、そのとき会社を辞めたからだ」

「なぜ辞めたの?」

「水素爆弾を造りたくなかったんだ。なにしろ、あれは原子爆弾より1000倍も威力があるということだったんだ!」

私は、89歳の父の記憶力に一本取られたと思った。父は比率を正しく覚えていた。それはオッペンハイマーやその他の人々が1949年の報告書で予測していたのと同じ比率だった。彼らは正しかったのだ。5年後、本物の水素爆弾の最初の爆発では、ヒロシマ型爆発の1000倍の威力があった。

15メガトン、つまり1500万トンの高性能爆弾と同等の威力で、それは第二次世界大戦当時最大の従来型の爆弾より100万倍も威力があった。この爆弾一つで、第二次世界大戦でわが国が落としたすべての爆弾の爆発力と比べて8倍の力があり、人類の歴史のあらゆる戦争で使われたすべての爆発力をも上回っていた。1961年、ソ連が58メガトンの水爆実験を行なった。

父は続けた。「原子爆弾の仕事もしたくはなかったんだ。でも当時のアインシュタインはわが国はそれを必要としていると考えていたようだし、ロシアに対してわが国がそれを所有しなきゃならんことは納得がいった。だからその仕事を引き受けたのだが、それについていい気持ちになったことはない」

「だから、その1000倍も大きな爆弾を造るつもりだと会社に言われたとき、これが私にとって限度だと思ったんだ。自分のオフィスに戻り、私の次席責任者にこう言った。『あいつらは気が狂っているよ。彼らは原子(A)爆弾を持っているのに、今度は水素(H)爆弾を欲しがっている。彼らはZ爆弾までアル
ファベット順に突っ走るんだろう』」

「うん、いまのことろまだN(中性子)までしか行っていないね」と私は言った。

父は「それからもうひとつ我慢できないことがあった。こういうものを造るとたくさんの放射性廃棄物が生まれた。私にはこの廃棄物用のコンテナを設計する責任はなかったが、それがいつか漏洩してしまうことはわかっていた。あれは永遠に致死性のある物質だ。2万4000年もの間、放射能がある」と言った。

またもや父は正しい数値を出してきた。私はこう言った。「父さんの記憶力はたいしたもんだな。致死的放射能は実際はもっとずっと長く続くんだけど、2万4000年っていうのはプルトニウムの半減期のことだね」

父の目に涙が浮かんでいた。彼はかすれた声で「自分の母国の一部を永遠に毒物汚染するプロジェクトに自分が関わっているということ、その場所を何千年も人の住めないところにしてしまうかもしれないということを考えただけで、我慢ができなかったんだよ」と言った。

私は父の言葉を噛みしめてから、父と一緒に仕事をしていた人で誰か懸念を持っている人はいたのかどうか尋ねてみた。父は知らなかった。

「辞めたのは父さん一人だけだったのかい?」 父はそうだと言う。一生で一番収入のいい仕事を辞めようとしていた父には、相談できる人が誰もいなかった。父はしばらく貯金で暮らし、いくつかの顧問の仕事をした。

 【5】

私は、父が辞職した同じ月に、スーパー兵器の開発に対する反対意見を可能な限り最も極端な表現を使って内部で表明したオッペンハイマーとコナント――二人はヒロシマに原子爆弾を落とすことは推薦していた――とフェルミとラビのことを考えた。それは潜在的に「大量虐殺兵器のひとつであり……、原
子爆弾そのものよりさらに広範囲にわたる民間人を絶滅させる政策の実行を意味し……、その破壊力は本質的に無限で……、人類の未来を危機に陥れる耐え難きもので……、人類全体に対する危険であり……、どのような観点から見ても必然的に悪の物体」(『顧問』ヨーク著 155-159ページ)なのだった。

これらの人物たちは誰一人として、自分たちの懸念やその根拠をアメリカの国民たちと分かち合うことで自分たちのクリアランスを危険にさらそうとしなかった。オッペンハイマーやコナントは大統領が彼らの忠告を却下したとき、顧問の地位を辞任することを考えた。しかし、大統領の選んだ道が人類を致命
的な危機に追いやったという専門家としての判断に公の注意を惹かないようにと、彼らはディーン・アチェソン[訳注:トルーマン大統領時代に国務長官を務めた]によって説き伏せられたのである。

私は何が父をそんなに強い気持ちにさせたのか、他の誰もやらなかった行動をさせたのか、と尋ねた。父は「お前がそうさせたのさ」と言った。

意味がわからなかった。

「どういうことかな? 二人でこんな話をしたことは全然なかったよ。こっちは何も知らなかったし」

父は言った。「もっと前のことだった。ある日お前が一冊の本を持って家に帰ってきたのを覚えているが、お前は泣いていた。ヒロシマのことだった。お前はこう言ったんだ。『父さん、これを絶対に読むべきだ。こんなにひどいこと、これまでに読んだことないよ』」

それはきっとジョン・ハーシーの本『ヒロシマ』のことだろうと私は言った。(私はそれが本になったときに読んだ。それが1946年8月にニューヨーカーに掲載されたときには私は病院にいた)。私はその本を父に渡したことを覚えていない。

「そうだね。とにかく、それを読んだ、そしてお前は正しかった。そのときから原子爆弾のプロジェクトの仕事をすることが嫌になり始めたんだ。その後で会社が私に水素爆弾の仕事をしてくれと言ったとき、私にはもう無理だった。もう自分は辞めるときが来たと考えたんだ」

自分が辞める理由を上司たちに伝えたかどうか、父に訊いてみた。何人かには言ったが、言わなかった人もいたと父は言った。父が話した相手は彼の気持ちを理解していたようだった。実際、1年以内に会社の社長が電話をしてきて、会社全体の建築工学技術責任者として戻ってきて欲しいと言った。会社はデュポン社の契約を解除した(その理由は言わなかった)ので、原子力委員会や爆弾製造とまったく関わらなくてもよくなった。父は引退するまでこの会社に在籍した。

私は最後にこう言った。「父さん、どうしてこういうことについて全然聞かせてもらえなかったの? どうして一言も言ってくれなかったの?」

「あぁ、このことについては自分の家族に何も話すことはできなかったんだよ。お前たちはクリアランスを受けていなかったからね」

さて、私が自分のクリアランスを取得したのは父がそれを放棄してから10年後のことだった。そして何年かはそのことが私に不幸をもたらしたが、結果的にはそれが役に立つことになった。10年後、そのクリアランスのおかげでペンタゴン・ペーパーズを読むことができ、ランド研究所で私の「トップ・シーク
レット」の金庫にそれを保管することが許され、結局その金庫からペンタゴン・ペーパーズを上院外交委員会に、その後19社の新聞社に配布することになっ た。

核政策とその策定や、核の脅威と意思決定の課題に関して、特に米国やロシアはもとより、その他の核兵器保有国においても、私たちはペンタゴン・ペーパーズと同等の資料を必要としながらそれが欠如していた。核戦争計画、指揮統制、核の危機に関わってきた行政府に対するコンサルタントとして、またその高官として、持続的でしかも未だに知られることのない核の危険性に関する膨大な量の文書が40年から50年前に私には入手可能であったのに、議会やアメリカ国民、そして世界に対してそれを知らせてこなかったことを私は深く後悔している。致命的で無謀な秘密政策について自国や世界に警告するために、私が当時やったことよりももっと多くのことができる地位にいる核兵器保有国の人々は、私自身や他の人間による以前の怠惰を他山の石とすべきである。そして、もっといい仕事を成し遂げてほしい。

私が高度な情報にアクセスでき、核計画に一役買っていたということは、もちろん上記に述べた個人史の観点からすると深刻な皮肉である。核兵器について私が抱いている嫌悪感や不吉な予感は1945年以来まったく変わっていないし、その感覚を失ったこともない。14歳のときから私の人生で最優先される目的は、核戦争の勃発を防ぐことだった。

マンハッタン計画とよく似ている点があった。この計画の科学者たちのほとんどは、この爆弾は単にドイツを抑止するための脅威以外には決して使われないことを望んでいたが、ナチスが彼らと競争しているという、もっともらしいが誤った恐怖によって突き動かされていた。実際には、ナチスはマンハッタン計
画が開始されようとしていた1942年6月に実用上の理由から原子力爆弾の開発を却下していたのである。同じように、ソ連の意図や突貫開発努力に対する誇張された恐怖、しかもこの場合は意図的に工作された恐怖心によって、私も核軍備競争へと誤って導かれ、リクルートされた1950年代後期の多くの人々の一人であった。

私がクリアランスを受けたからこそ、そして特に空軍からの最高機密の情報評価に触れてきたからこそ、私は、ランド研究所の同僚たちと共に、[ミサイル技術差の隙間を狙う]いわゆる「ミサイル・ギャップ」を利用したソ連の奇襲攻撃を抑止することによって核戦争を回避する緊急性に心を奪われるように
なったのである。米国が劣勢に立たされ危険だという想定は、ナチスの爆弾開発突貫計画への恐怖がそうであったように、またはもっと最近の例をとるなら、2003年にサダム・フセインが持っていると想定された大量破壊兵器や核兵器追求に関する懸念と同様、現実的にはまったく根拠がなかった。

実直に、強迫観念にかられて、間違った問題に取り組み、脅威の幻想に対抗していた私と同僚たちは、核兵器の相互保有と拡散がもたらす本当の危険――私たちはその危険性を増大させる手助けをしていたのだが――に取り組むことからも、そしてさらに世界をもっと安全にするための本当のチャンスからも、自分たちの注意をそらし、他の人々の注意をそらすのに手を貸していた。意図的ではないとしても許しがたいことに、私たちはわが国と世界の安全を損なっていたのだ。

やがてソ連は、まさに私たちを見習って、世界を脅かす一触即発の核兵器能力を作り出した。それはまだ存在している。ロシアの核配備や政策は、わが国のそれとともに継続しており、国々、文明、生命そのもののほとんどを危険に晒している。しかし、常に変わらない現実は、核兵器競争が主に米国の主導権や政策によって動かされており、この64年間におよぶ核時代を通じて、すべての主要な米国の意思決定には、不当な隠蔽、意図的な攪乱、そして官僚や公衆の妄想が伴ってきたということである。

私は長い間、わが国の核兵器の配備や政策、そしてそれがもたらしうる結果についての当局の秘密主義や欺瞞が、人類の生存を脅かしてきたと考えてきた。本当に世界を核兵器の廃絶に向けて動かす可能性のある、わが国の核政策のラジカルな変化の緊急性を理解するためには、私たちが核時代の真の歴史に対する認識を新たにする必要がある。

インターネットが生み出した新しい機会を利用し、私は、新しく機密解除された文書やまだ隠蔽されている現実に人々の注意を喚起し、今後1年間、ヒロシマ65周年までに、この隠された歴史を暴く自分の役目を果たすつもりだ。

Hiroshima Day: America Has Been Asleep at the Wheel for 64 Years
(C)2009 Daniel Ellsberg
This column was originally published on Truthdig.
http://www.truthdig.com/report/item/20090805_hiroshima_day_america_has_been_asleep_at_the_wheel_for_64_years/

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宮前ゆかりによる付記

ダニエル・エルスバーグは、1971年にベトナム戦争の真相を暴く国防総省秘密報告書(ペンタゴン・ペーパーズ)を報道機関に漏洩し、ニクソン政権終焉の引き金をひいたことやベトナム戦争の終結に貢献したことで有名になったが、彼の行動の動機や洞察の基礎となる経済学者としての博士論文 Risk,
Ambiguity and Decision(仮題:『リスク、曖昧さ、意思決定』1962年ハーバード大学、2001年 Routledge 出版)については、あまり知られていない。またハーバード大学、ケンブリッジ大学を経たエリートでありながら、海兵隊に志願入隊し、海兵隊小隊長、中隊長として3年間兵役を果たしたことも広くは知られていない。

1959年以降、10年間、国防総省戦略アナリスト顧問および国防総省高官として核兵器の指揮統制分野を担当したエルスバーグにとって、「不確定性」の問題は、単なる統計学上の数式やグラフや数字の次元に留まるものではなかった。それは、実際に血を流し、炎に包まれ、無惨に死んでいく人間一人ひとりの運命だった。巨大な戦争マシンの内部でエルスバーグを他のアナリストたちから精神的に隔離していくことになったその資質は、彼の優れた視覚的想像力、冷徹な理性、そして慈愛深い人間性だ。

私は1980年代のある日、エルスバーグから聞いた話を忘れることができない。

「核ミサイルの実験演習阻止のデモに行ったとき、ミサイルが打ち上げられるのを見た。ミサイルは垂直に発射され、ある高度で目標の方位を水平に変える。その日は風が強かった。ほぼ直角形に残るはずだった白い雲が風の影響で『?』の形になって空に浮かんでいた。その瞬間、アメリカが核ミサイルを発射すると同時に、敵国からもミサイルが飛び、空にいくつもの『?』の形をした雲が浮かんでいる地球を遥か遠くから眺めている自分がいた。その『?』の形の雲を見てその疑問に答を出すことのできる人間は、地球上に誰一人としていないだろうことに愕然とした」

声をつまらせるエルスバーグの大きな青い瞳が涙に潤んでいた。

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