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Sunday, January 21, 2018

私にとっての朝鮮 小林はるよ Me and Korea: Kobayashi Haruyo

朝鮮半島のことがニュースで取り上げられる毎日です。オリンピック、日本軍「慰安婦」の歴史、「核・ミサイル」問題など。しかし私たちは日本人として、かつて日本が植民地支配を行った朝鮮半島とそこの人々、そこにゆかりのある人々にどう向かい合うのか、根本に立ち返って深く考えたことはあるでしょうか。このブログに何度か投稿してくれたことのある長野の有機農業家、小林はるよさんの寄稿は、私には読んでいてはっとする瞬間をいくつももたらすものでした。他の読者にとってもそうなのではないかと思い、ここに紹介します。@PeacePhilosophy


私にとっての朝鮮(2000年の時空)-1 古代

小林はるよ

最初の「世界」と最初の「朝鮮」
 私の経験した戦後日本の社会では、外国とは、世界とは、アメリカのことでした。それは、私が子どもだったからの単純な理解とは思いません。アジアと言えば、父が九死に一生を得て還ったフィリピン、父母の家族がいた台湾。でもどちらも、二度と戻ることのない過去の舞台というイメージでした。私が自力で新聞を読むころには朝鮮戦争は終わり、中華人民共和国は成立していました。

 私が初めて意識した「朝鮮」は、弟が憶えてきた「チョウセン、チョウセン」で始まる囃し唄でした。卑し気な嘲りの調子に、暗い気持ちになったことしか、憶えていません。

 大学生になってから「朝鮮」と、本の中で出会いました。教育史の本を読み、戦前の日本が、「朝鮮」を含む「植民地」の人々に、日本語を強制したことを知りました。学校では、母語を使ってしまった子どもに、首から「方言札」を下げさせ、叱り、罰したとありました。私は1945年までの日本の対アジア戦争のおよその経過を、高校日本史の授業で教えられましたが、それは「事変」名と起きた年代の羅列にすぎませんでした。

古代の「朝鮮」との出会い
 それから少しして私は、古代の「朝鮮」と出会いました。もともと古墳、遺跡に興味があった私は、金達寿という在日韓国人作家のシリーズ「日本の中の朝鮮文化」という当時刊行中だった著作を夢中で読むようになりました。金達寿は、日本各地の寺社や地域を一つ一つ訪ね、そこに現在住む人々から、言い伝えられている地名や遺跡の名前の由来、残されている額や碑等の記録を調べ、日本列島のたぶん関東北部のあたりまでの広い範囲に、朝鮮半島から日本に移住してきた集団の痕跡が残っていることを明らかにしていました。私はこのシリーズから、カンラ、またはカラ、コマというような地名が朝鮮半島由来の地名であることを知りました。たしか、金達寿は、ナラもそうだと書いていたと思います。

 「日本の中の朝鮮文化」と出会ってから、私は、古代の日本列島と朝鮮半島(以下、日本と朝鮮と略記)との関係史を読み漁り、その中での論争を知りました。古代の日本と朝鮮の関係史については大きく分けて2つの考え方があります。その1つは、「大和王権同心円的発展説」で、平城京、平安京を都とした「大和王権」つまり、現在の天皇家につながる王権が、近畿地方で成立し、同心円的に日本全土に支配を広げたという考え方です。もう1つは、「大和王権朝鮮半島由来説」、北東アジアから朝鮮半島を経て部族集団や小国家をつくりながら、日本列島に入ってきた人々の流れがあったという考え方です。

 この考え方によれば、朝鮮半島から移動してきた部族が最初に九州地方や山陰地方に小国家をつくり、そのうちの1つが、畿内に移動して大和王権を形成したことになります。「大和王権同心円的発展説」でも、古代の大和王権が朝鮮半島からの人の流れと密接に関係していたことを否定するわけではありません。それは、古事記や日本書紀の記述にもある事実で、当時の大和朝廷は朝鮮半島から来たばかりの人がさまざまな地位に就いて活躍する場で、いわゆる「言葉の問題」は全くなかったようです。言葉の面でも文化の面でも、血族関係においても、きわめて近かったことになります。

タブー
 戦前にはもちろん「大和王権同心円的発展説」が圧倒的でした。朝鮮半島からの人の流れは、大和朝廷の栄華・繁栄に協力・貢献するためと解釈されていました。そして、大和朝廷は列島内で勢力を確立しつつ、朝鮮半島に進出して版図を広げようとして朝鮮半島の小国家と争ったというのが、戦後の歴史教科書に続く、日本の古代の歴史認識です。

 私は日本の歴史を広く東北アジア地域の人の移動、文化の伝達の歴史の中で考えるべきという考え方に心惹かれ、断然、「大和王権朝鮮半島由来説」支持でした。日本列島と朝鮮半島の古代史を学ぶなかで、私は、朝鮮半島が文化的、政治的に日本列島よりも先進地域であったことを知り、認めることができました。古代の人の移動の大きな流れは、朝鮮半島から日本列島へであって、その逆ではなかったことは明らかでした。人の移動が文化的に進んだ、豊かな地域から、そうした文化を必要とする地域へという方向で起きることは当然のことです。ある地域から出ていく集団は、いわば、縄張り争いに敗れて、出ていくのです。未知の地に敢えて出ていく集団があるとは思えません。

 私は、日本が朝鮮半島を植民地化していた戦前、「大和王権同心円的発展説」を朝鮮半島にも強いて、遺物の改竄を試みたことさえあるのを知りました。そして、日本で「大和王権同心円的発展説」が主流であるかぎり、歴史的事実が事実として理解されることはないだろうと思いました。じっさい、「大和王権同心円的発展説」の眼鏡をかけていると、どんな遺跡も、「『大和朝廷の支配がその地域に及んでいた』ことを示す」ものになってしまいます。新聞等で、そうした考古学者の解説を見るたびに、日本ではあいかわらず、「大和王権同心円的発展説」が、学会の主流らしいことを知るのです。

 金達寿の本を読んでいたころ、書店の同じ書棚で「朝鮮人強制連行の記録」という本を購入しました。その本は、買ってから50年近くもたつのに、一度も開かないまま本棚にあります。事実の酷さ、非道さが想像できて、読むのがつらかったのです。日本列島と朝鮮半島の古代史を追うなかで、私は、近現代の日本が朝鮮半島の人々に対してしたことの非道さを、否応なく知るようになっていました。近現代の日本があれほど、朝鮮半島の人々を苛酷に侮辱的に支配したことについては、追われた側だった「分家」が、「本家」への嫉妬や対抗意識を、2000年近い時空を超えて、潜ませてきたせいかもしれません。

私にとっての朝鮮(2000年の時空)-2 今日

 一番近くて一番遠い
 古代史への関心を通じて、私は近現代の日本がいかに朝鮮半島の国と人々を侮辱し苛酷に対してきたかを知るようになっていました。とはいえ、1945年以降の、日本と東アジア地域との関わりについてのイメージは持てないままでしたが、韓国、中国、沖縄には、けっして旅行しないとは決心していました。「北朝鮮」のことはよくわかりませんでした。南北朝鮮は、私にとっては一番近くて一番遠い国々でした。

一枚の写真
 1990年に入り、50代に近くなって、私は「朝鮮」と再び、出会いました。そのきっかけは、1枚の写真でした。写真の中では、板で作られた幅の狭い小屋のような粗末な建物の前に、軍人らしい男性たち数人が、「順番」を待っていました。列の最後尾は、写真の端で切れて、数人の列だったのか、長蛇の列だったのかは、わかりません。でも、それはまさに「公衆トイレの前で順番を待つ」列でした。

 日本側が「従軍慰安婦」と呼んでいた女性たちの一人が、自分が「従軍慰安婦」だったことを初めて公表し、韓国から報道されたのは、1991年のことでした。その女性は金学順さん。金学順さんに励まされるかたちで、韓国内で、それからアジアの各地から日本軍の「従軍慰安婦」だったことを公表する女性たちが出てきて、「従軍慰安婦」問題は次第に全世界に知られることになっていきました。私が見た写真は、おそらく金学順さんが最初に名乗り出て、「従軍慰安婦」問題が世界の目に晒されることになったころ、ほんの一瞬のように日本の新聞紙上に現われたものではないでしょうか。その写真は今も、この問題に関連する書籍の中で探すことができるかもしれませんが、私は二度と見ていません。

 その列が、何をする順番を待っての列なのか、順番が来て小屋に入る人がその中で何をするのかは、一目でわかりました。その写真と「従軍慰安婦」という言葉を初めて見たとき、頭の中を稲妻が走りました。小屋と、その前の列に、古代から近現代までの日本と「朝鮮」との関わりの歴史のいっさいと、とりわけ、日本という社会での女性の地位や女性観の歴史のいっさいが反映しているような気がしました。

日本がいちばん認めたくないこと
 今でも、「金目当て」だったと言い立て、仲間うちで盛り上がっている人たちが日本にいますが、女性にはわかります。あの、昔の公衆トイレのような慰安所の中で被害女性たちが強いられた「こと」を、天にまで届く金塊を積み上げられても、やるという女性はいません。それが毎日毎日一日中続き、逃亡は不可能、逃亡して見つかれば殺されたはずです。あれは、売春、買春ではない、強姦でさえなかったと私は思います。あれは、くりかえし殺されていたに等しい拷問でした。じっさい、最後には、ほとんどの女性が若い命を失ってしまったはずです。名前どころか、何人いたのか、人数さえも残すことができずに。

 日本がアジアへの侵略のなかで国家的に実施した、この「従軍慰安婦」という制度には、日本人の一人である私には、言うもつらいことですが、とても卑しい、忌まわしいものがあります。それを心の奥底では認めるがゆえに、日本の兵士たちは、虐殺行為以上に、口止めされなくても口をつぐんだのではないでしょうか。日本の兵士の家族たちも、虐殺や略奪行為以上に、知りたくなく、聞きたくなかったのではないでしょうか。もし、なんの疚しいこともない、他の国もしている以上の悪いことなどしていないと言うのなら、なぜ、日本はこんなにもむきになって、清楚で上品な東アジアの少女たちが手をつないで立つ少女像を外国の町が建てるというのに反対するのでしょう。あるいは、チョゴリ姿の少女像が祖国の街角に座ることが、なぜ「反日」なのでしょう。

 犠牲になった大部分の女性たちは朝鮮半島出身者でした。日本人が遺伝子をもっとも共有する地域の女性、先進的な文化をもたらしてきた地域の女性たちでした。あまりに理不尽で不当な侮辱であるがゆえに、被害者側は被害を克明に主張するのも、傷にさらに塩を塗られるような苦痛でしょう。「日韓合意」ですが、就任当時の朴槿恵大統領が、「従軍慰安婦の恨みを、韓国民は、1000年たっても忘れない」と言っていたことを憶えています。あの「日韓合意」を私はとても訝しく思っていましたが、当時のオバマ政権の強い圧力があったと最近の報道で知りました。

沖縄での「従軍慰安婦」
 最新の沖縄県史によると、日本は、沖縄本島といくつかの島に少なくとも143か所の「慰安所」を設けていました。これは日本が沖縄をいわゆる「内地」と同等に扱わず、「外地」とみなし戦場と考えていた1つの証拠でもあります。そのために、じつは沖縄での慰安所のあり方から、従軍慰安所の実態が推測できる面があります。慰安所が、兵士の数に対してどのぐらいの数、どのぐらいの割合であったか、1か所での女性の人数はどのぐらいで、その中で朝鮮半島出身者の割合はどのぐらいだったか、生き残れたのは何人だったのか。

 朝鮮半島からの女性たちは、「朝鮮ピー」と呼ばれ、兵士が払う金(女性に直接払われたのではない)は、「朝鮮ピー」に対してはいちばん安く設定されていたそうです。沖縄の住民の証言によると、「朝鮮ピー」と呼ばれていた女性たちには、色白で美しい人が多かったらしいのですが、みな、暗い顔をしていた、反抗的な態度を見せたりすると、それは苛酷に日本兵に罰されていたそうです。ほんとうに、日本は、「朝鮮」を徹底的に差別し、侮辱の限りを尽くしました。

 沖縄全体の慰安所にいた「慰安婦」の人数については、住民の証言によって推測するしかありませんが、そのうちの少なくとも1/2以上が、朝鮮半島出身だったようです。戦後、生存が確認された人は数人。そして、沖縄から朝鮮半島に帰ることができた人はいないようです。韓国で金学順さんが最初の告発者となった1991年に、沖縄でぺ・ポンギさんという朝鮮半島南部出身の、元慰安婦の方が亡くなっています。ジャーナリストの川田文子さんが「赤瓦の家」(筑摩書房)にポンギさんとの交流とポンギさんのこれまでの人生の軌跡を記録しています。

 韓国と書きましたが、もちろん、戦前には南北朝鮮の区別はなかったので、「従軍慰安婦」は朝鮮半島全土から集められていたはずです。20万人いたと言われる朝鮮半島出身者の中には、当然、今の「北朝鮮」の地域からの女性たちが南北の人口比に近い割合でいたでしょう。でも、その人たちの運命については、全くわかっていません。それに、朝鮮戦争がありました。「北朝鮮」地域は米軍と「国連軍」により、第二次大戦中に米軍が投下した全爆弾の量を上回る猛烈な爆撃を受け、人口の20%~30%が殺され、灌漑設備等も破壊され尽くしたと言われています。

 ポンギさんは、熱心に通いつめる川田文子さんに、「ほだされる」ことはなかったようです。ポンギさんは、沖縄が日本に「復帰」した後、沖縄県からの福祉予算を使っての支援の申し出を頑として拒絶し、在沖同胞からの援助だけで、考えうるかぎりの質素な暮らしを続けたと「赤瓦の家」に記されています。そのポンギさんは亡くなる少しまえ、朝鮮半島の地図を撫で、泣きながら、「祖国が再び一つになるまで、私は帰らない」と、訪れた支援の同胞の方たちに語ったそうです。

魂は雨になって降り風となって吹く
 
沖縄 韓国人慰霊塔

【韓国人慰霊の塔碑文】
1941年太平洋戦争が勃発するや多くの韓国人青年達は日本の強制的徴募により大陸や南洋の各戦線に 配置された。この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された1万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。祖国に帰り得ざる魂は、波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り風となって吹くだろう。
この孤独な霊魂を慰めるべく、われわれは全韓国民族の名においてこの塔を建て謹んで英霊の冥福を祈る。

願わくば安らかに眠られよ。 1975年8月 韓国人慰霊の塔建立委員会


 2012年に沖縄・摩文仁の丘で、他の碑文群と離れて立つこの碑文を読みました。この碑文の、「波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り風となって吹くだろう。」というところに衝撃を受けました。そう、祖国に「帰り得ざる」というところにも。私は、見えない冷たい手、見えない冷たい涙に打たれているような気がしながら、ハングル、日本語、英語で書いてある碑面に見入りました。日本人は、朝鮮半島の人々に赦されることはないのだと思い知ったのです。誰も死者に代わることはできないのですから。

 「祖国に帰り得ざる」と書かれている碑文の語る「多くの韓国人青年」が、沖縄の地で犠牲になったとき、彼の地は南北に分かれていたわけではありません。碑は「韓国人慰霊の碑」ですが、碑文を書いた人が、「祖国に帰り得ざる」人々と記したのは、ぺ・ポンギさんが語っていたように、「祖国が再び一つになるまで」との思いを込めてのことだったかもっしれません。

 分断された民族、悲劇の民族という言葉がありますが、朝鮮民族は、その言葉が世界でもっとも当てはまる民族の一つだと私は思います。
 今の朝鮮民族の分断に、いちばんの責任が、秀吉に始まる、日本の支配層にあることは明らかです。アメリカはそれにいわば、便乗し、利用したにすぎないと言えば「すぎない」のです。

自分には罪がないと思う者は石を投げなさい
 私は、新約聖書の中のこのエピソードが好きです。「従軍慰安婦」問題は、日本の「支配層」「お上」だけの責任、問題だとは思いません。日本人である私たちにはみな、「応分の責任」がある、と思っています。
 せめて、日本が二度と、分断に加担しないように、南北朝鮮が争わされることのないようにとばかり、願っています。

こばやし・はるよ
岡山県出身。無農薬栽培「丘の上農園」経営。「言葉が遅い」問題の相談・指導に携わってきた。長野県在住。

小林はるよさんの過去の投稿
私にとっての中国 日本にとっての中国
終戦記念日に寄せて―被害者であるまえに加害者だった

※本文中の写真はブログ運営者が2011年5月撮影したものです。

Wednesday, July 05, 2017

7月7日、盧溝橋事件80周年を記憶する Remembering July 7, 1937 -- Marco Polo Bridge Incident and Japan's War Against China

7月7日。「七夕の日」であること以外には日本人の頭をスルーしてしまう日なのかもしれない。今年のその日は、日本の中国への侵略戦争が全面戦争かするきっかけとなった「盧溝橋事件」の80周年です。この日を記憶し、もう二度と戦争は行わないとの誓いを新たにするための「日中戦争開始80年 国会前市民集会」が7月7、8日に開催されます。主催は植松青児さんら「日中戦争80年市民フォーラム」です。以下ポスターを見てください。東京新聞にも報道されました。「レイバーネットTV第122号 : あなたは7・7を知っています?〜日中戦争80年を考える」も観てください。


「七夕」も元をただせば大陸から来たものです。豊かな文化を日本に与えた大陸を見下し牙をむいた日本。奪い、殺し、焼き尽くした。私たち日本人はアジア隣国に向き合う姿勢をいまだに誤っていないでしょうか?このブログに昨年の今ごろ「私にとっての中国 日本にとっての中国」を投稿してくれた長野県の有機農業家、小林はるよさんに、「7月7日」にむけて文を寄せてもらいました。小林さんが引用する、子どもたちが中国にいる日本兵に向けて書いた慰問文の例はショッキングなものであり、目をそむけたくなるような差別の言葉です。これが当時の日本人の姿勢を映し出した子どもの姿だったのだということを心に刻まなければいけません。そして、今現在も、多くの日本人がこの戦争の罪を学びもせずに当時と同じような侮蔑心や敵愾心を隣国の人たちに向けています。戦争に進む道を心の中から止めなければいけません。@PeacePhilosophy

日本にとっての中国 私にとっての中国(2)7月7日に寄せて

小林はるよ

 ハルピン近郊に実家のある中国人を家族(息子の伴侶)に持つ私にとっては、日本の毎日のマスコミ報道は読むのも聞くのもつらい。針の筵の上にいるようです。悪魔化という言葉がありますが、悪魔は日本の文化の中には存在しませんから、悪役化。中国が日本の報道の中で、不動にしてトップの悪役だからです。日本の首相が諸外国を歴訪する目的はつねに、「中国牽制」「中国封じ込め」。日本の反政府デモは何万人集まっても無視するのに、香港の反政府デモはカラー写真付き、大見出しで声援。中国内で種々起きる事故報道には「それ見たことか」と言わんばかりの熱がこもる。中国における「人権活動家」への「弾圧」報道は、怒りを込めて正義感いっぱい。その活動家は、アメリカ人の多くがすでにそう思っていないという「人権大国」アメリカに保護されて亡命というのだから笑ってしまいます。きわめつけは、いかに日本人が中国人を嫌いかという世論調査結果の報道。そんな調査をすること自体、不作法で非礼なことという意識はまるでない。

 歴史をふりかえれば、悪役はまさに逆です。日本では、日中開戦は7月7日の盧溝橋事件がきっかけとされることが多く、私も学校でそう習ったおぼろな記憶がありますが、そうされたことについては、開戦の時期を遅くみせるためという意図もあったのではないでしょうか。そもそも、日本軍はなぜ盧溝橋にいたのかという話なのですが、「事件」のずっと以前から、中国はヨーロッパの「列強」とその先兵になった日本に、領土を奪われ、軍を送り込まれ、疲弊しつつ、抵抗し戦い続けていたのです。悪役、加害者は日本のほうでした。マスコミの悪役報道がつらいのは、その悪意が私の家族に向けられている気がする恐ろしさのためばかりではありません。加害者が被害者を侮蔑したり嘲笑したりする、そのことがとても忌まわしく恥ずかしいのです。そして私は加害者側の一員として、そうした侮蔑や嘲笑を被害者側に知られたくない、知らせたくないのです。

 「戦時中」に子どもたちが日本軍兵士宛に書いた慰問文を調査する活動をしている方々がおられます。それらの原文は戦地に送られたのでしょうが、時報という地域発行の印刷物の中に、「戦意発揚」のために掲載されました。子どもたちの文が、破棄されずに残った理由の1つは、それがアメリカと戦う兵士宛でなく、そのほとんどが中国にいた兵士に宛てたものだったからでしょう。仮に「鬼畜米英をやっつけてください」と書いたものがあったとしたら、日本のことですから、アメリカに命じられなくても廃棄してしまっていたかもしれません。戦後にも、中国へ向けられたヘイトスピーチなど、廃棄する必要は、感じられなかったのです。

 日本人には、1945年の「敗戦」はアメリカへの降伏であり、アメリカとの戦争に「力負け」したためのものと思っている人が多いようです。じっさい、戦後にものごころついた私も、長いあいだそう思っていました。戦後の反戦論や反戦感情は、アメリカと開戦に至ったのは、「あれは、まずかった」判断ミス、避けるべきであったし、避けられたはずというニュアンスを帯びていた気がします。けれども、1945年の「敗戦」に至る日本の戦争は、時間的にもじっさいの戦場という意味においても、中国相手のものであったこと、真の敵が中国であったこと、真の目的が中国征服であったことを、子どもたちの慰問文が語っています。

 そのほとんどが中国にいた日本兵に宛てられた子どもたちの慰問文は、日本の中国侵略の時間の長さ、抵抗の激しさを示し、同時に子どもたちの中国と中国人に対する敵対意識と侮蔑感情を正直に語っています。侵略する側は、侵略を合理化するために、侵略される側の非を捏造し、侮辱するのです。そのうちの3例だけここに記します。
 「支那の国は、自分の土地で戦ひをされて首府までとられてしまっても、まだわが国にあやまらなず、がまんづよいといえばそうだが、言ひ替えれば本当に馬鹿なのだと思ひます。」(昭和13年) 
 「大きくなったら、ひこうきにのるへいたいになって、しなの兵隊がうんといるところにいってばくだんをおとして、おくにのためにはたらきます。」(昭和14年)
 「兵隊さんにあのにくらしいチャンコロの兵隊を負かしてください。」(昭和14年)

-上田小県近現代史研究会ブックレット No.23 
「『時報』にみる子どもたちと戦争」(桂木惠 著、2015年)より

 子どもが、ここまで残酷な、今で言うヘイトスピーチを書くことについて、子どもが進んで、自発的に書くだろうか、強制されたのではないかと思う人もいるようです。けれども子どもは明白にであれ、暗黙のうちにであれ、こう書けば大人に褒められる、こう書くことを大人に求められていると感じて書いたにすぎません。子どもは、身近な大人、少し大きくなれば共同体の中の大人の価値観や判断基準を理解し、それらとの同一化を志向しながら成長するのです。子どもは大人の鏡、ある年齢以下の子どもの全ての言動についての責任は、大人にあります。ですから、慰問文に表れた中国と中国人への敵愾心、蔑視等々は、私も含めた日本社会の大人の成員全体のものです。

 今日、中国悪役化は、敗戦以前のように、兵士への慰問文に書かれたように、悪意剥き出しにではなく、中立的、客観的な、より洗練された装いをとって、さりげなく進行し、浸透しています。それにしても日本はいつまで、隣国を敵視したり、蔑視したり、無視したりを続けるつもりでしょう。そんなことに、いったいどんな「得」があるのでしょう。

こばやし・はるよ
岡山県出身。無農薬栽培「丘の上農園」経営。「言葉が遅い」問題の相談・指導に携わってきた。長野県在住。

過去の小林さんの投稿
私にとっての中国 日本にとっての中国
終戦記念日に寄せて―被害者であるまえに加害者だった―

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Friday, August 12, 2016

終戦記念日に寄せて―被害者であるまえに加害者だった―: 小林はるよ Haruyo Kobayashi: Commemorating August 15 - Japan was First and Formost the Victimizer of the War

日本で「終戦記念日」と呼ばれる8月15日を前にして、当ブログに前回「私にとっての中国 日本にとっての中国」というエッセイを提供いただいた長野県の有機農業家、小林はるよさんに再登場してもらいます。1945年8月15日は天皇裕仁がポツダム宣言受諾、つまり大日本帝国の米英中への降伏を国民に知らせた日です。一般には「戦争時の苦労を振り返り、平和を祈り願う日」と理解されているようですが小林さんの一文はそのような曖昧で無責任な認識から踏み込み、「国家的記念日」とされている8月15日の意味を問い直すことを日本人に求めているものと思います。8月15日は日本に植民支配・侵略された国や地域にとっては「独立」「解放」を象徴する日―連合軍の捕虜を含めて、「命が助かった日」なのです(もちろんそう思った日本人も多い)。やられた側に立って考える―それが日本人が本当に平和を創る当然の第一歩であり、「戦後」あまりにも軽視されてきた姿勢ではないかと思います。@PeacePhilosophy



終戦記念日に寄せて

― 被害者であるまえに加害者だった -

小林はるよ

 日本で国家的な行事が行われる記念日は、しばらく前までは、原爆記念日と終戦記念日でした。記念日は、単に国家的であるだけでなく世界史的な意義を持つ日であるために、国家的記念日になるのでしょう。東日本大震災の起きた3月11日も、国家的な記念日になりつつあります。

 東日本大震災の被害が地震と津波だけであったなら、国家的な記念日にはならないでしょう。東日本大震災は、これから何百年ものあいだ、世界中に影響を及ぼす歴史的な事故である福島の原発事故のきっかけとなったために、国家的記念日になろうとしています。ところがふしぎなことに、3月11日のころのマスメディアは、原発事故についてはほとんど報道しません。津波の被害がいかに悲惨だったか、いかに地域が悲劇にくじけることなく、「元のように」復興しつつあるかが、当事者、支援者によって語られるのです。

 こうした東日本大震災の記念日のあり方は、原爆記念日と終戦記念日のあり方と、よく似ています。どの記念日も、毎年その日になると、日時も式次第も、例年どおりの式典が行われる年中行事、季節の行事になっている感があります。私は現在の日本の国家的記念日の式典は、基本的に災害被害者の追悼式だと思います。

外国の国家的な記念日は、独立記念日とか戦勝記念日、革命記念日等、その国の現在の体制の出発点になった日を記念して祝い、これからもこの体制を発展させましょうとの、思いを、国民的に新たにするという主旨のようです。そして、こうした主旨には、記念日以前の国家的状況が、歴史的に倫理的にまちがったものであり、現在の体制がより良いもの、進歩したものだという認識が含まれていると思います。

原爆記念日と終戦記念日も、その出発の時点では、それまでの日本の国家体制と侵略戦争への反省をふまえて、日本がこの日を機に平和的な民主的な国になる、そのうえで、二度と核兵器の被害をこの世に起こさせない国になるという主旨を持っていたはずでした。少なくとも日本の侵略の犠牲になったアジア諸国の人々は、当然、これらの国家的記念日は、そうした主旨に基づいているものと思っていたでしょう。

けれども日本国民の多数は、日本の核武装を主張する閣僚がいる政権の成立を許してしまいました。その政権はなるべく早い機会の改憲も意図しています。要するに、原爆記念日と終戦記念日はどちらも、当初の主旨を実現していないのです。(東日本大震災の記念日は、原発事故が起きた日であることを隠して、津波の被害者を追悼し、地域の復興を讃える記念日になっています。)

いろいろ妨害要因はあったにしても、けっして少なくない人々が、日本という国は終戦を機に平和的な国、民主的な国として再出発するという主旨の実現を目指して、それぞれ努力してきたはずです。そうした努力にはいったい何が欠けていたのだろう。何がまちがっていたのだろう。結論としては、終戦のその日までは、日本がアジア諸国に対する侵略国であったという認識、それゆえに、日本はアジアの諸国に対して一方的な加害国だったという認識が、完全に欠けていたのです。

敗戦を機に、日本が平和的な民主的な国として再出発するという主旨にとっては、現憲法が公布された日(1946年11月3日)のほうが、よりふさわしかったはずです。けれど、それは祝日にはなりましたが、国家的記念日にはされずじまいでした。

降伏した日を国家的記念日として、現憲法公布の日を国家的記念日にしなかったのは、日本政府にも、そして大多数の日本人にも、終戦であれ敗戦であれ、戦争とはアメリカとの戦闘のことだという理解しかなかったことの表れです。ポツダム宣言は、アメリカだけではなく英国と中華民国への無条件降伏を求めており、日本の世界征服の企ての停止を求めていました。無条件降伏が文字どおりの無条件であるならば、「国体の護持」も降伏の条件にはならないはずでした。それを降伏の条件のように了解し合っていたのは、日本とアメリカだけでした。

降伏した日、屈辱の日であるはずの日を国家的記念日にするふしぎ。そのふしぎは、現憲法公布の日を国家的記念日にせず、終戦記念日を国家的記念日にした日本政府にとって、その日はアメリカによって国体が護持された日、国体が「安堵」され、国体が存続しうることになった日だったからと考えるとつじつまが合います。

アジアの人々が日本の侵略によって被ることになった被害や屈辱の認識は、正直に言えば私自身にも、せいぜい、この二十数年来のこと、日本の右傾化がますますはっきりしてきてからのことです。それまでは私も、反戦・平和の運動とは、自分たちの被った被害の悲惨さを確認し合うこと、語り継ぐこととばかり、思っていました。そうしていれば、「あんな悲惨な体験をすることには二度となってほしくない」と誰でも思うに決まっていると思っていたことになります。

平和教育にしても、子どもたちにも被害者としての悲惨や悲劇を語り継ぎ、疑似体験させていれば、自分たちはそんな目に合いたくないと考えるようになるはずと思ってきたことになります。日本でも平和教育はされてきたのです。原爆ドーム、ひめゆりの塔への修学旅行も、語り部の悲惨な体験談を聞かせることも、盛んに行われてきました。教科書にも採択されている童話「一つの花」や「ちいちゃんのかげおくり」も、戦争の究極の被害者、子どもの悲劇、戦争のもたらす悲劇を描いています。

それなのに、若者のあいだの改憲支持者の率は高いようです。日本の平和教育は、まちがっていたのです。「一つの花」も「ちいちゃんのかげおくり」も、どちらも、出征兵士の父を送り、その父を失う子どもたちの悲劇。でも、自分たちの家や土地を奪い、抵抗する者を殺したり強姦したりする兵士たちが送られる先にいる子どもたちの悲劇は、物語にはできないほど、悲惨でしょう。日本の反戦童話は、兵士が送られた先の人々に読ませられる物語ではありません。

日本には今、就業や結婚のためたくさんのアジア諸国出身の人々が暮らしています。その子どもたちは、日本の学校に通い、教科書でこうした「反戦童話」を読むことになります。先生たちは、出征する父親が、どこへ何をしに行ったのか、子どもたちに話せるのでしょうか。

私が子どものころから反戦派のつもりだったのは、フィリピンに終戦のほぼ1年前に召集されて従軍した父の影響です。父は、「アメリカとの戦争は負けだ」と、同僚と激論したことがあると言っていました。その父にとっても、戦争は、フィリピンを舞台にアメリカとしたもの、でした。フィリピンは戦争の舞台にすぎなかったのです。父は「フィリピンゲリラ」という言葉をときどき使いました。それで私は「ゲリラ」という言葉を憶え、フィリピンをジャングルの中に「ゲリラ」が出没する、未開な地域であるようにイメージしました。日米戦争は侵略国同士が、侵略した地域を蹂躙して争った戦闘だったことを知ってから、「リベラル」を自認していた父の、アジアの国々と人々についての見方の限界を知るようになりました。そして私がその父の見方の限界を受け継いでいたことも。

今も8月15日が近づくと、平和を願い、不戦を祈る集いが催され、戦争の悲惨、悲劇が語られます。「こんなご時世だから」なおのこと、心してそうした集いをせねばとお誘いの文が呼びかけてきます。空襲被害の悲惨、飢え、物資の不足、家族の戦死・・・それらの経験は悲劇には違いありませんが、そうした被害は、日本が加害に乗り出していなかったら、ありえなかった被害です。日本は明治維新以来、ほんの最近まで、日本がアジアでは唯一の加害国であったことを自覚できていませんでした。今も、国家としては侵略加害を否定し続けています。まず加害があっての被害だったことを自覚しない反戦、非戦の訴えは、国内の反戦派を増やすこともできず、子どもたちを反戦・平和の担い手に育てることもできませんでした。戦争被害体験を聞く私は、加害があっての被害だったことを、気まずい沈黙をもって終わることになっても、経験していない人にはわからない、と非難の目を向けられても、語らなければならなかったと、悔いとともに思います。

戦争に反対するということは、平和を願ったり、戦争がないようにと祈ったりすることではなく、戦争の悲惨や悲劇を語り合うことでもなく、自分たちの政府が戦争を起こすことを止めさせることであり、自分たちの政府が戦争を企てることに反対することなのです。


こばやし・はるよ
岡山県出身。無農薬栽培「丘の上農園」経営。「言葉が遅い」問題の相談・指導に携わってきた。長野県在住。

小林はるよ氏の前回の投稿(6月22日)
「私にとっての中国 日本にとっての中国」

関連投稿(2015年8月15日)
乗松聡子「降伏70周年の日に―内向きの戦史観からの脱却を」

Tuesday, June 21, 2016

私にとっての中国 日本にとっての中国: 小林はるよ

長野県で無農薬農園をやっている小林はるよさんは、昨年11月にブログを通して連絡をくれました。お話をしていると、はっと気づかされることも多く、今回はるよさんのエッセイを掲載することにしました。中国、北朝鮮、韓国など隣国を敵視、蔑視するような論調ばかりが目立つ日本では、はるよさんのような普通の感覚を持っている人はかえって稀なのかもしれません。そういう思いもこめて紹介します。隣国の人々との関係をこのように歴史に照らし合わせながら、自分や自分の家族という身近な次元から考えていく姿勢に学びたいと思います。@PeacePhilosohy



私にとっての中国 日本にとっての中国


小林はるよ

 私の息子のパートナーは中国人で、ハルピン近郊の農村の出身です。今からもう10年以上もまえ、息子が国際学会で北京に行ったさいホテルで散髪をしてもらった、そのときの理容師が今のパートナーで、私たちはヤンリと呼んでいます。息子は鏡の向こうに見たヤンリに「一目惚れ」しました。

 私がヤンリから学んだことは、いろいろ、ありますが、いちばんの収穫は、簡単に言えば、人にとっては、「我がふるさとが、世界でいちばんいいところ」だということでしょう。日本人の多くは、食べ物も自然も日本が世界最高、そう考えているようです。そのこと自体は、自然なことですが、同時に他国の人、他民族の人にとっても、「我がふるさとが、世界でいちばんいいところ」だということを忘れてはいけません。そのふるさとが焼けつく砂漠であっても、氷に閉ざされる極北の地であっても、そこで育った人にとっては「我がふるさとが、世界でいちばんいいところ」です。

 私は、日本で「日中戦争」と呼ばれている歴史的経過は、日本の「中国侵略」に他ならない、と思っている人間です。その私でも、「日本ではこれだけ便利で、自由で、物資が豊富で、清潔なのだから、中国の田舎の人なら、日本の暮らしのほうがいいと思うのでは?」という思いが、心の底にはあったのです。そのことを、私はヤンリと、ヤンリのお母さん、お姉さんとふれあうなかで知りました。そして、心中、ひそかに恥じたのでした。彼女たちはヤンリのお産の手伝いなどもあって、何回か札幌の息子のアパートにかなり長く滞在しましたが、用さえすめば、一刻も早く中国に帰りたがっていました。ヤンリ自身、20歳になるやならずで、理容業を自営できていたのに、そうしたキャリアがまったく評価されない日本に来ました。失ったもののあまりの大きさを、日本に来て徐々に知ることになったわけで、日本が暮らしやすいなどとは、まったく、思っていませんでした。日本の暮らしの便利さ、自由さ、清潔さ、ひいては食べもののおいしさ、物の豊かさなどは、長年それに慣れて、しかも比較的恵まれた環境にあった私には享受できるものであっても、彼女たちにとっては、なんの意味もないものだったのです。

 私の父の家族は当時の植民地台湾にいました。けれど台湾の日本人社会は、植民地での西欧人社会のように、現地社会とは隔絶されていたので、日本国内にいるのと全く同じような感覚で暮らしていたようです。とはいえ、そこは、日本国内ほど狂信的ではない社会だったのでしょう。父が日本の侵略戦争に対して批判的だったとはまでは言えないものの、一歩引いていられたについては、台湾で成長したことが影響していたのかもしれません。父は子どもたち相手にフィリッピンでの従軍体験を率直に語ってくれる人でしたが、中国について、「戦争中はなあ、中国人をチャンコロなんて言ってバカにしていた。考えてみればひどい話だった」と言ったことがありました。父のその言葉が、中国人をバカにしていたなんて、とんでもないまちがいだったという意味だということは、子どもにもよくわかりました。「ヨーロッパでは、日本文化は月光文化と言われているんだよ」とも言いました。「太陽が中国文化、日本文化はその照り返しというわけさ」。ヨーロッパでは、日本文化は中国文化の一亜流と思われている、そのことを私はずっと後になって実感しました。スウェーデンの人に、漢字のことを何気なくJapanese characterと言ったら、その人はまさに間髪を入れずChinese characterと、言い返してきました。からかうような、ちょっと皮肉な表情で。そう、漢字は漢の字でした。

 大人になってから、日本のした侵略戦争についての本を読むようになり、「中国、韓国、沖縄にはけっして行かない、行ってはならない」と思うに至ったのですが、そのことは一面、それらの地域についてもっと具体的に知ることを妨げた気もします。そっと黙礼して目をそらしてしまっていたことになります。ところが、今から20年以上もまえから、つまり日本の全体としての右旋回がはっきりしてきたころから、敵国からの攻撃に備えるとか仮想敵国とかいう言葉が、防衛白書のような政府文書や新聞紙上で、目につくようになりました。「ん?敵国ってどこのこと?」と思いました。どうやら日本は、敵国からの攻撃がありうるから軍備をもっと増強しなければとか、日米安保の強化とか、言っているらしい。敵国、敵国っていっても、SFじゃあるまいし、具体的な国があるはずと考えたあげく、日本が想定している敵国は、中国のことでしか、ありえない、と結論しました。

 「北朝鮮の脅威」はメクラマシで、仮想敵国は中国。中国が好きでも嫌いでもなかった、関心があるわけでもなかった私ですが、そう結論したら、日本周辺の国際情勢がとてもよくわかってきた気がしました。同時に、ひどく、憤りを感じました。なにを言うか。中国を侵略し、蹂躙したのは日本じゃないか。中国が一度だって日本に入ってきたことがあるか。日本を侵略したことがあるか。中国は、国家としての賠償権を放棄し、日本軍捕虜を寛大に扱い、中国残留孤児を貧しいなかで育ててくれたじゃないか。その中国を仮想敵国だなんて、なんて理不尽な話だろう・・・

 いったい、どうしてだろう、どうして日本はこんな理不尽なことを言って平気なのだろう。答えはどこにも書いてはありませんでした。自分の知っているあらゆる事実を考え合わせて、この中国敵国視の根っこはずいぶん深いところにあるのではと思うようになりました。明治になってからすぐ、西郷隆盛の「征韓論」がありました。その300年もまえには、豊臣秀吉の「朝鮮征伐」がありました。どちらも、ほんとうに狙っていたのは、中国、つまり清であり明でした。秀吉が明を狙ってまず朝鮮に攻め入ることをもくろんだとき、当時来ていた宣教師は秀吉の無智、無謀に驚いたらしい。明が大国であることを知っていたからです。

 では秀吉の「朝鮮征伐」が日本の中国への野心の皮切りかというと、それも、唐突に出てきたとは思えません。もっと根が深いように思えて、894年の「遣唐使の廃止」に思い当たりました。「国際関係」はつねに複雑で解釈は多々ありますが、私は「遣唐使の廃止」は、国家としての体制を整えた日本の、「独立宣言」だったのではないかと思っています。東アジアの歴史においては、中国大陸に成立する国家とその周囲の東アジア諸国のあいだには「冊封関係」という相互契約的な外交関係がありました。日本は「遣唐使の廃止」で、中国大陸に成立する国家との「冊封関係」圏に属さないという選択をしたことになります。

 日本は、「冊封関係」圏に属さないという選択を、江戸時代まで維持することができました。その間に元寇があり、秀吉の「朝鮮征伐」があり、薩摩藩を通じての琉球王国支配もありました。「通信使」や使節の派遣、活発な民間の交易も私的な往来もありました。けれど、「冊封関係」から独立して存在できたについては、そうとうな航海技術がなければ渡れない海に囲まれた大きな島という地理的条件や、恵まれた気候条件があったせいでしょう。

東アジア唯一の国家間の外交関係としての「冊封関係」から独立できたことは、結果として、周辺の他民族との、持続的な軋轢や交渉や交流、いわゆる異文化体験を経験しないことにつながりました。日本人には国粋意識が非常に強いいっぽうで、民族意識の形成が非常に弱いのは、歴史的な異文化体験の欠如からではないでしょうか。「大学での授業を英語で」という政府方針への反発がきわめて少ないことにも、日本人の民族意識の弱さを痛感します。私は、日本人の国粋主義には、世界的にみても独特なものがあるという意見です。「自分の国がいちばんいい。自分の国が世界の中心」は自然な感情です。けれど、それが幼児的な自己中心的な感情であることは、大人の常識です。それは他国人、他民族に対して公然と振りかざしたり、押しつけたり、認めさせようとしていいものではありません。けれど日本はある意味では非常に「無邪気」に、なんの痛痒も感じずに、他民族に自民族の文化を強要してきました。他民族に対する「無邪気」は、「無慈悲」でもありました。その「無邪気」が、独特です。

 日本は朝鮮半島とは古代から非常に密接な関係がありました。けれどその朝鮮半島と冊封関係にあるのは、大国の中国、朝鮮半島は中国と国境を接し、朝鮮半島の目はつねに中国を向いています。朝鮮半島は、中国との関係がよければ日本と断絶しても別に困ることはないのです。中国はずっと、日本にとって、唯一の、ほんとうの意味の外国であり、できるものなら日本がとって代わりたい、大国でした。そんな孤立のなかで日本は、中国への対抗意識をいわば、純粋培養していったのではないでしょうか。中国への対抗意識と同時に朝鮮半島への侮蔑感、優越感をも。それは、もともとは支配階層の意識だったのですが、明治以後、急速に庶民階層にも浸透していきました。教育と言論の支配によって。

 ところが中国からみれば、日本はたくさんある周辺国の、そのまた辺境にある国です。日本に対してそれほどの関心はなかったでしょう。日本と中国の、お互いへの意識の落差は今も続いていて、中国のほうでは、日本がなぜこれほどまでに中国に敵対的なのか、よくわからないらしいのです。歴史的には日本のせいでひどい迷惑、被害を蒙ったのは中国なのに、加害国の日本が今また、中国が脅威だ、敵国だと騒いでいる。なぜなのか、わかるわけがない。中国でなくても、世界のどの国にも不可解、理不尽と思えているでしょう。日本はいつか、中国への侵略行為を恥じること、朝鮮半島の併合、同化の強要、強制連行(従軍慰安婦を含めた)、琉球王国の併合と植民地化を恥じることがあるでしょうか。

 とても難しいことです。一つには、先方の被害があまりにも一方的で、あまりにも苛酷だったからです。それは、個人間の関係で言えば、殺人に該当する、つぐないようのない、加害です。深層心理的にですが、日本は、あまりにひどい被害を与えてしまったから、そのことが認められない、認めたくないのです。認めて、あちらの被害にみあうつぐないを求められたら、たまらない。今度はこちらが身ぐるみ剥がれることになる・・・自分がやったことを相手もすると思ってしまう、その恐怖があると思います。もう一つには、日本では、国同士の関係においても個人の関係においても、対等な関係の構築が難しいからです。日本にとって、中国は、上と認めるのは絶対に嫌だが、下におくわけにもいかない、おさまりのわるい国なのです。いずれにしても、日本の中国に対する敵愾心には、合理性や倫理性、普遍性がなにもない。ストーカーの怨念レベルです。

 テレフォン人生相談のパーソナリティーの1人、加藤諦三さんは、番組の中で「あなたのいちばん認めたくないことを認めることができれば、あなたの問題は解決します」と、必ず言っています。日本の「いちばん認めたくないこと」は、中国敵視、朝鮮蔑視、そして沖縄無視が、「いわれなきもの」、つまり、その原因(非)が相手方にあるのではなく、ひとえに自分にあることを認めることではないかと思っています。
農作業中の小林さん


こばやし・はるよ

岡山県出身。無農薬栽培「丘の上農園」経営。「言葉が遅い」問題の相談・指導に携わってきた。長野県在住。

おいしそうないちご