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Saturday, March 23, 2019

『歴史地理教育』連載「“カナダの一日本人”の目線」①~⑥ "History and Geography Education" Journal column series

歴史地理教育 2019年3月号
(3月25日、団体紹介の引用部分を変更しました)
70年の歴史を持つ「歴史教育者協議会」のHPにおける団体紹介より:


 歴史教育者協議会は1949年7月14日に誕生しました。その後、60年を超える歩みをへて、2011年4月1日に、「一般社団法人 歴史教育者協議会」へ移行しました。全国の都道府県組織と地域・学園ごとに支部組織をもち、1600ほどの会員と、2000を超える月刊誌『歴史地理教育』の読者をもち活動しています。『歴史地理教育』は年3回、増刊号も発行しており、2018年3月号で通巻876号となりました。歴教協では、すべての子どもたちが主権者として育っていけるような、楽しくわかる社会科の授業づくりに取り組んでいます。また、地域の民衆の生活と歴史を掘りおこし、深く歴史と現代を学ぶ活動をすすめています。会員には、幼稚園から大学までの教員をはじめ、歴史教育や歴史の学習・研究に関心をもつ多くの市民が加わっています。

歴史地理教育』に2018年10月号から2019年3月号まで、「世界を歩く」というシリーズの一環として「”カナダの一日本人”の目線」というタイトルで6回連載させていただきました。許可を得て、ここに一挙転載します。


第一回 バンクーバーで子育てをして 

私は高校時代の二年、そして、就職・結婚した後、大学院留学をきっかけに、夫とともに一九九七年バンクーバーに渡って以来、通算二三年カナダの西海岸に住み、二人の子どもをこちらで産み、育ててきました。

 二一年前、カナダに入国したとき、上の子(現在は大学生)はお腹の中にいました。妊娠期の前半は日本、後半はカナダと分けて過ごしたため、「妊娠・出産」についての両国の姿勢の違いを肌で感じました。

例えば、産前教育のことを、日本では「母親学級」と呼び、妊娠した本人を対象としていたのに比べ、カナダでは「プリネイタル・クラス」と称し、お産を一緒に行うパートナーと参加することが前提でした。その「パートナー」も、赤ちゃんの父親であるときが多いですが、それが同性愛のパートナーだったり、シングルマザーの場合は女友だちであったりします。

 私の夫は、私と出会うまでは海外に行ったこともなかった日本人男性ですが、カナダで出産・子育てを共に経験することで、日本に根強い「出産や子育ては女の役割」という考えを自然に取り払うことができたようです。もちろんそれは性差や役割分担の否定ではありません。母乳育児を重視した私は、ときには哺乳瓶でミルクをあげたかった夫の期待をよそに(笑)、「ラ・レチェ・リーグ」という、米国発で世界に広まった母乳育児運動のグループに参加して、上の子も下の子も合計三年半ずつ母乳を与えました。

 お産自体も、医療主導のお産を拒み、主体的なお産を求める母親たちに影響を受け、下の子(現在は高校生)のときは独自の「バース・プラン」を実行しました。

好きな音楽をかけて好きな香りを焚いて、そのときの自分に合う体位で産むなど細かい計画を作り、医療的介入はどのような場合にどう受け入れるかの希望を、あらかじめ担当医と話し合った上で合意しておくのです。

 教育においても、カナダでは「不登校」といったスティグマは存在せず、ホームスクールなどの多様性が認められているのは知っている人もいるかと思いますが、先に触れた母乳育児運動の親たちが、独自グループを作り、地元の教育委員会に承認させ、予算まで獲得し、事実上自分たちだけのミニ学校を作っていたのにはさすがに感服しました。

このような社会の中で私が身に着けていった姿勢は、 What works for you is the bestということです。社会的規範にとらわれず、自分に合った方法を求め実践していくという勇気と自信をつけたと思います。

(2018年10月号掲載)


第二回 移住したのは植民者の国

  二〇〇七年、「ピースボート」に招かれて、メキシコのアカプルコから地元バンクーバーまで、一週間船上講師を務めたことがあります。講座の一つとして「カナダの多文化主義」について話しました。イギリス系とフランス系の共存を目指した二言語・二文化主義が発展し、一九七一年に世界初、多文化主義を国の政策として掲げた歴史を話し、カナダを多文化・多言語が比較的平和的に共存する国として、半ば自慢げに話していたと思います。

 しかし同じ船上でその後、同じブリティッシュ・コロンビア州から来ていた先住民ストーロ族の若者グループによる民族の迫害の歴史を語る発表を聞いて、頭を殴られたような気持ちになったことを覚えています。

西海岸の先住民は18世紀後半以降のヨーロッパ人入植者との接触以来、持ち込まれた天然痘などの伝染病により人口が激減、土地を奪われ、同化政策によって言語、文化、誇りを奪われるといった歴史をたどりました。そのことは知識としては持っていました。

しかし、自分の中ではなぜかその歴史が、現在のカナダの多文化共存というイメージと乖離していたのです。自分の講座では、自分はカナダにおけるアジア系の少数派の一員という認識で話しましたが、ストーロ族の若者の涙を見て、先住民の問題は現在進行形であり、自分は先住民の土地の上に住む後発の植民者に過ぎないということを自覚したのです。

 今も、先住民は、貧困、アルコールやドラッグ中毒、高い自殺率や犯罪率(被害と加害の両方)などの社会的問題を抱えています。特に、一九世紀の半ばから一世紀余にわたり、先住民の子どもたちを親元から引き離し、キリスト教会が運営する寄宿学校に入れ、精神的、物理的、性的虐待を加えました。この制度の被害者とその子孫に引き継がれるトラウマは根深いものがあります。最近の移民だから関係ないということは許されず、カナダの住民である限り、先住民の問題は自分の責任として取り組まなければと思います。

 カナダを自然豊かで人々は優しく、平和な国と思っている人もいるかもしれないですが、この国は実は、先住民の命と誇りを踏みにじって建国した植民地主義の国なのです。ジャスティン・トルドゥー首相は昨年(二〇一七年)の国連総会演説で、先住民をカナダ政府の「被害者」であると明言し、先住民の権利を守り自己決定権を実現できるようにしていくことを誓いました。まだまだ道のりは遠いですが、カナダ社会の一員としてできることをしていきたいと思っています。

(2018年11月号掲載)


第三回 カナダ留学で知った日本の歴史

私は異文化間コミュニケーションを大学で教えていたこともあり、今でも時折、日本から短期留学で来ている中高生グループに、ワークショップをすることがあります。

二年ほど前、関東地方のある高校向けのセッションで、生徒に、「世界地図を書いてみてください」と紙を渡したら、太平洋と日本を中心に書くようなパターンが多かったですが、一人の男子生徒の「世界地図」には驚きました。紙一杯に日本列島が描いてあったのです。受け狙いかと思ったら、彼は大真面目で、これが本当に「世界」だと言い、おまけに、「竹島」と「尖閣諸島」を、強調していました。

その開き直った日本中心主義には驚きを隠せませんでしたが、ふり返ってみれば、この生徒と同い年ぐらいの17歳で初めてカナダの地を踏んだ自分も大差なかったのかもしれません。私は高校二年、高校三年を、今住むブリティッシュコロンビア州の州都であるビクトリアにある学校で、五大陸、七〇か国から来た二〇〇人の学生とともに寮生活をしました。そこで学んだのは、自分の知らなかった日本の歴史でした。

同部屋だったシンガポールのヘレンは、仲良くなったあと、戦争で日本軍がやってきて、赤ん坊を銃剣で突き刺して放り投げたというようなことを私に語りました。初めての彼氏だったフィリピンのイギーは、私に、「日本人でもいい人がいるんだと思った」と言いました。すでに自国で作家活動をしていたインドネシアのレイラは、私に、「ロウムシャ」という言葉はインドネシアの人は皆知っているよ、と教えてくれました。

日本にいたころは歴史に興味があり、カナダに行ったら、広島・長崎の原爆投下や被爆者の苦しみについて伝えなければいけないといった純粋な気持ちがありましたが、大日本帝国軍が他国にした加害行為というのは全く日本の学校で学んでおらず、初めての先生は、この東南アジア出身の友人たちだったのです。

この時の経験が、いまの自分の基礎になっていると思います。日本人というよりはアジア人というアイデンティティに親近感を感じますし、カナダに通算二三年住んでいるので「カナダ人」であるという感覚も持つようになりました。そして、この国でマイノリティの一員となり、日本で日本人をやっていたときにはわからなかった、在日コリアンや、沖縄、アイヌの人たちが置かれてきた立場というものに思いを寄せるようになりました。

このような自分になれたことが、長いカナダ生活の一番のギフトであると今は思っています。

2018年12月号掲載)


第四回 いじめているのは誰?

 最近、吹田市の中学校教員が授業で日本軍「慰安婦」問題を取り上げていることで激しいバッシングを受け、保守系の大阪府議や大阪市長までもがその教師を問題視するような発言をしているということを知り、背筋が凍りました。日本は今、教室で過去の日本の加害行為を教えたら官民の圧力にさらされるような状況なのです。

 私の子どもたちは、アジア系移民の多いバンクーバーで、華人系、コリア系、インド系、フィリピン系などの子どもたちに囲まれながら、日系カナディアンとして育っています。

教室では、カナダ植民者が先住民にしたこと、戦時中の日系カナダ人強制収容なども学びます。歴史はその暗部も含めて学ぶのがカナディアンとしての責任ですし、ましてやそれで教師が脅迫を受けるようなことはありません。

公立高校の社会科の選択科目として「先住民学」もあります。自国の植民地主義の歴史を教えるわけですから、日本の高校で、アイヌ、朝鮮、琉球等の植民地支配の歴史を学ぶ科目があるようなものでしょう。いま高校三年の娘が取っている社会科科目は、「Social Justice(社会正義)」と「Asian Studies (アジア学)」です。

娘は先日、社会正義の授業でエスノセントリズム(自民族中心主義)について発表をすることになり、私が前回の記事で触れた、「世界地図を書くように言われ日本地図を紙一杯に書いた日本の高校生」の話を例として挙げたそうです。「アジア学」は、アジア全般の歴史や社会を学ぶ講座ですが、先日娘はその日教わった「731部隊」の話を夕食中にし始めて、かなり詳しく教わっていたので感心しました。

そこで思い出したのが、二〇一五年当地で起こった「慰安婦像」を巡る議論でした。隣町のバーナビー市が、韓国の姉妹都市との交流の一環として、日本軍「慰安婦」の歴史を記憶するための「平和の像」を公園に建てようとしたところ、日本の排外主義者の影響を受けた地元の日本移民らが「日本人や日系人の子どもが学校でいじめられる!」と言って反対運動を展開しました。

しかし、娘のアジア学のクラスは娘以外はほとんど華人系と聞いていますが、「731部隊」を勉強して日系の娘がいじめられるようなことはありません。息子も大学で日本と中国の近現代史を勉強しており、友人は中国、台湾、ベトナム系などアジア系ばかりですが、歴史問題でいじめられたことなどありません。

私も、地域で、日本軍「慰安婦」や「南京大虐殺」を学ぶような会に参加しても、感謝されこそはすれ、いじめられるようなことは一切ありません。逆に、私を「反日」といってバッシングしている人たちの言動のほうがよほど「いじめ」に近い。冒頭の吹田の先生に対する攻撃もそうでしょう。いずれも、歴史を語らせまいとする、日本人による「いじめ」なのです。

(2019年1月号掲載)


第五回 カナダで記憶する日本の戦争

ここ数年、バンクーバーの日本移民、日系人は、日本で「南京大虐殺はなかった」「“慰安婦”に強制がなかった」等の主張をする人々が呼ぶところの「歴史戦」に巻き込まれています。二〇一五年には「慰安婦」の歴史を刻む「平和の像」建立に、そして二〇一八年には地元選出の国会議員ジェニー・クワン氏が提唱する「南京大虐殺の日」に対し、日本政府や右派の影響を受けた現地の日本移民・日系人中心に、反対グループが結成され、地元の日本語媒体が毎号のように「南京大虐殺記念日制定反対」特集を組んでいます。その中には、史実自体を否定する言説が頻出しています。

 私は、たとえば「ホロコースト」を記憶する行為にドイツ系の人間が反対するのがおかしいように、このような動きに日系人が反対するのはおかしいのではないかとの思いから、反対運動を批判してきました。戦時日系カナダ人強制収容の体験を基に書いた『OBASAN』という作品で有名な作家ジョイ・コガワ氏も、記念日に賛同していることから、反対派の人たちは、コガワ氏や私を標的にした非難、中傷にも余念がありません。

 しかし、私にとって重要なのは、記念日の制定よりも、広島と長崎の原爆の被害者を悼むのと同様に、南京大虐殺の歴史を学び、被害者に思いを馳せ、このような歴史を二度と繰り返さない決意を新たにすることです。そのような意味を込めて、一二一一日、日系、華人系、ヨーロッパ系など多彩なカナダ人の仲間たちと南京大虐殺追悼集会を行いました。

一一月二八日、ジェニー・クワン議員は連邦議会で「南京の日」の動議を出しましたが、必要とされた全会一致は得られませんでした。しかしジャスティン・トゥルードー首相はこのような発言をしたのです。

「議長、もちろん私たちは南京で八〇年前に起こった恐ろしい出来事の数々を強く非難する気持ちがあります。これだけ多くの非戦闘員が被った命の損失や暴力を決して忘れてはいけないということは全てのカナダ人が賛成できることでしょう。私たちはこれらの恐るべき行為をこれからも決して忘れません。被害者と生き残った人々をどう記憶していくかは、真の和解の精神に基づいて取り組まなければいけません。」

当事国の中国や日本ではない、第三国の首相が、国会において南京大虐殺の史実を認め、記憶継承の重要性を語ったことは画期的でした。カナダはすでに、国外で起きた大量虐殺事件を五件、国会で承認しています。人権侵害を世界規模で捉えるという姿勢なのです。

(2019年2月号掲載)

第六回 大胆不敵な博物館

 二〇一八年七月、マニトバ州の州都ウィニペグにある「国立カナダ人権博物館」を初めて訪問しました。二〇一四年にオープン、首都オタワ以外に位置する初めての国立博物館で、その目的を、「特にカナダ国内、しかしそれに限らず幅広く人権問題について探索し、人権についての公衆の認識を高め、他者の尊重、そして内省と対話を奨励する」としています。

 総予算約三〇〇億円、総床面積二万四〇〇㎡の博物館は外から見ると巨大なリンゴのような建築で、七階建ての一番下から、フロア間をつなぐランプを上りながら一三にも上るギャラリースペースを見学します。最後は高さ一〇〇mの、創始者である弁護士・実業家のイズラエル・アスパー氏(故人)の名を冠した「希望の塔」を上って博物館体験を締めくくる仕組みになっています。

 アートとマルチメディアをふんだんに使った展示内容は、「人権とは何か」、「先住民の視点」、カナダの人権問題を扱う「カナディアン・ジャーニー」、「ホロコーストを知る」、「国連人権宣言とその後の歩み」、世界中の人権問題を扱う「沈黙を破る」から、終盤は現在・未来志向の行動を促進する内容となっています。

 国内問題は、先住民迫害を筆頭として、女性、性的少数派、障がい者、日系カナダ人強制収容など人種差別政策等を展示。国外では、ホロコースト、アルメニア人虐殺、ホロモドール(旧ソ連下のウクライナ人居住地域の大飢饉)、ルワンダ大虐殺、スレブレニツァの虐殺(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるムスリム大量虐殺)という、カナダ議会で承認した国外の事件を重点展示していました。それに加え、インテラクティブ・マップで世界中の人権侵害を紹介しており、その中には日本軍「慰安婦」問題もありました。

 私はここで二日間過ごしましたがそれでも見足りませんでした。しかし、私が博物館の規模以上に圧倒されたのは、その大胆不敵とも言える、国内外の人権問題網羅の試みでした。これだけの多民族社会において、どの民族の歴史をどのように展示するかなど、コンセンサスが取れるはずはありません。案の定、計画の段階から今に至るまで、展示の「偏り」については様々なな批判や論争があるようです。私も見ながらいろいろ不満を感じました。

 みなさん、それらが何か知りたいですか。ぜひカナダに来てこの博物館を見てください。そして何がいいのか、何が足りないのか、大いに語り合いましょう。それこそがカナダ体験の醍醐味と言ってもいいのかもしれません。(終)

(2019年3月号掲載)

カナダ人権博物館 外観


カナダ人権博物館「沈黙を破る」(Breaking the Silence)セクション
カナダ人権博物館「カナディアン・ジャーニー」セクション


Monday, April 15, 2013

中村稔「三陸海岸風景」

3月21日、山口・湯田温泉の「中原中也記念館」を訪れたとき、中村稔氏による、原発事故をテーマにした未発表詩「駅前広場・未来風景」に出会い、心を揺さぶられました。中村氏に掲載許可をお願いしたところ、文芸誌に発表する6月以降に可能という嬉しいお返事をいただきました。それだけでなく、それまでの間、東日本大震災をテーマにしたもう一つの詩「三陸海岸風景」(『ユリイカ』一月号掲載)を提供いただき、掲載許可をいただきましたので、ここに紹介します。@PeacePhilosophy



三陸海岸風景



中村稔



潮でずぶ濡れになった男たち、女たちが

一人、また一人、重たげに足をひきずり、

海から陸へ上ってくる。家並が消え、瓦礫がうずたかく

廃墟となった故郷の跡地に彼らは立ち竦む。



やがて彼らは大地を叩いて慟哭する。

いったい私たちの死は何を意味したか?

私たちを攫った津波は天災だったのか?

原子炉のメルトダウンに誰も責任を負わないのは何故か?



彼らが大地を叩いて慟哭する声は

野を越え、山を越え、都会の雑踏にまぎれ、

切れぎれに絶えず私たちに問いかけている、

彼らの死は決して過去の暗黒に沈み去るわけではない。



彼らの死の意味を私たちは問い続けなければいけない。

私たちが彼らの死に負うべき責任を考え続けなければいけない。

私たちは忘れやすい。忘れやすいからこそ

私たちは彼らの慟哭する声に耳を傾けなければいけない。



潮でずぶ濡れになった男たち、女たちが

一人、また一人、重たげにに足を引きずり、

海から陸へ上ってくる。昨日も、今日も、明日も、

そして彼らは大地を叩いて慟哭し、慟哭してやまない。




Sunday, March 11, 2012

311の一周年の日に:前田新の農民詩「見えない恐怖のなかでぼくらは見た」日英語版紹介 For the 311 Anniversary - Amid Invisible Terror: The Righteous Anger of a Fukushima Farmer Poet (Asia-Pacific Journal: Japan Focus)

311から1年。福島の農民の怒りをこめた詩と、紹介文の日英語版を、『アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス』と当サイトに同時に掲載します。1周年、この日に何を言おうか、何を載せようか考えれば考えるほど言葉を失う状態が続いていましたが、前田新さんの詩の力を借りることで、この大事な日に何か伝えることができることを願っています。この詩の掲載を快諾していただいた前田新さん、ご紹介いただいた後藤宣代さん、英訳されたアンドリュー・バーシェイさん、助言をいただいた『ジャパンフォーカス』のマーク・セルダンさん、セルダン恭子さんに心から感謝致します。以下、紹介文と詩を、それぞれ日本語版、英語版の順で掲載します。@PeacePhilosophy

Amid Invisible Terror: The Righteous Anger of A Fukushima Farmer Poet 見えない恐怖のなかで -福島の農民詩人の正当な怒り

Asia-Pacific Journal: Japan Focus の原文へのリンクはここです

農民詩「見えない恐怖のなかでぼくらは見た」は2011年7月18日付で農民連の「しんぶん農民」に掲載され、全国の脱原発集会で朗読された。作者の前田新は会津美里町に住む農民、詩人、作家である。2011年3月11日に勃発した福島第一原発の惨事から四ヶ月目に書かれたものだが、一周年を迎えた今も、原発事故のせいで家を、土地を、家族を、生活を奪われた数十万の人々の怒りと絶望を代弁するものである。農民にとって、手塩にかけて育てた農産物が放射能汚染にさらされるほど無念なことはない。2011年3月29日には、須賀川のキャベツ農家が、政府が新たに発表した摂取制限を聞き、全ての希望を失い、自殺した。前田にとって、農民から生活と命そのものを奪う国策は、隣国の征服と搾取を「国益」とし、多大な市民の命を犠牲にした戦時中の国策を彷彿とさせるものであった。福島医大で教鞭を取る経済学者の後藤宣代は、2011年10月に開催されたUCバークレイ校での福島関連の会議の場で前田の詩を朗読し、この詩に心を打たれた同校の日本近現代史教授、アンドリュー・バーシェイが英語に訳した。後藤の見解では、福島核危機を受けて発表されてきた文学、芸術作品は概ね「福島大好き!福島がんばれ!」といった無批判な応援調のものが主流だとのことである。この傾向は、結果的に、東電や日本政府に対して大きく広がった市民の怒り、そして、放射能から子どもたちを守ることを要求し続けている母親たちの運動、この一年で急増した脱原発運動などの、市民の抵抗運動を抑制することになってしまっているのではないか。ブルームバーグのコラムニスト、ウィリアム・ペセクは、会計処理の不正や汚職により、オリンパスのような大企業のトップや総理大臣さえもが投獄されてきた日本であるのに、野田首相が原発事故について「個別の責任を問わず、痛みは全員で分かち合う」と表明したことについて「開いた口がふさがらない」と言っている。(注)前田新による詩は、日本で起こった大惨事の連続を受けて、責任の所在と適切な処分をどう追及していくのかという重要な課題を我々に突きつける、貴重な文学の「声」と言えよう。(乗松聡子)

(注)William Pesek, “Forget the yakuza, the nuclear mob should be the ones sent to jail,” Sydney Morning Herald, March 10, 2011. Link

見えない恐怖のなかでぼくらは見た

前田 新(福島県農民連会津美里町在住)

見えない恐怖に脅かされて
4か月も過ぎたいまも
ぼくらは、ふるさとの町を追われたままだ
レベル7、その事態は何も変わっていない
何万という家畜たちが餓死していった
人気のいない村に、その死臭だけが
たちのぼっている

姿を見せないものに
奪われてしまったふるさとの山河を
何ごともなかったように季節が移ってゆく
郭公が鳴くそこで、汗を流して働くのは
もう、夢のなかでしかないのか
ぼくらは、そこに立ち入ることもできない

かつて、国策によって満州に追われ
敗戦によって集団自決を強いられ
幼子を棄てて逃げ帰ってきたふるさと
そして苦闘のすえに築いた暮らしを
あの日と同じように、一瞬にして
国策の破綻によって叩き壊された

しかもこれは痛みのない緩慢な死だが
あの日と同じ集団自決の強要ではないのか
七三一部隊の人体実験ではないのか
なかまよ 悲しんで泣いてはいられない
この4ヶ月の間、見えない恐怖のなかで
ぼくらがこの眼で見たものは

それでも、儲けのために
原発は続けていくという恐怖の正体だ

よし、そうならば
ぼくらも孫子のために、腹をすえてかかる

かつての関東軍のように、情報を隠し
危ないところからは、さっさと逃げ帰って
何食わぬ顔で、安全と復興を語る奴らに
そう簡単に殺されてたまるか

なかまよ、死んでいったなかまよ


Amid Invisible Terror: The Righteous Anger of A Fukushima Farmer Poet

Satoko Oka Norimatsu

A farmer’s poem, "Amid Invisible Terror, We Were Witnesses", first appeared in the July 18 edition of Shimbun Nomin (Newspaper “Farmer”), a publication of the Japan Family Farmers Movement “Nominren,” and was immediately recited at anti-nuclear rallies across the nation. Maeda Arata, a seventy-five year old farmer, poet and writer, lives in Aizumisato-machi in eastern Fukushima. The poem was written four months after the Fukushima Daiichi nuclear power plant disaster of March 11, 2011. Now, a year later, the fury and despair that the poem conveys continues to speak for hundreds of thousands of residents who lost their homes, land, family members and livelihood. Nothing is more devastating for farmers than the radioactive contamination and destruction of the food they grow with love and care. On March 29, 2011, a sixty-four year old cabbage farmer in Sukagawa hanged himself, all hope shuttered following the newly announced government restriction on the consumption of cabbage from Fukushima. To Maeda, national policy that deprives farmers of livelihood, and life itself, is reminiscent of the wartime events that sacrificed people’s lives for a purported national interest that prioritized colonial subjugation and exploitation of neighbouring countries. Goto Nobuyo, an economist who teaches at Fukushima Medical University, read this poem at a conference on the Fukushima nuclear crisis at UC Berkeley in October 2011, moving the Berkeley modern Japanese historian Andrew Barshay to translate it into English. Goto observed that most of the artistic and literary expressions responding to the Fukushima crisis  revolve around uncritical cheerful messages such as “I love Fukushima” and “Ganbare (Chin up) Fukushima!” They suppress, in effect, the widespread anger at TEPCO and the Japanese state, still more the protest movements such as those of Fukushima women demanding the protection of children from radiation, and the anti-nuclear movements that surged over the last year. William Pesek, a Bloomberg columnist described a recent comment by Prime Minister Noda “jawdropping” – one in which he said, “no individual could be held responsible for the nuclear fallout and that everyone should ‘share the pain,’” in the country where CEOs of big corporations like Olympus, and even a prime minister got jailed for book cooking and bribery.(1) Maeda’s literary voice is, therefore, all the more precious, inviting us to reflect on questions of responsibility and appropriate action in the face of Japan’s multiple disasters.

(1) William Pesek, “Forget the yakuza, the nuclear mob should be the ones sent to jail,” Sydney Morning Herald, March 10, 2011. Link

Amid invisible terror, we were witnesses


Maeda Arata
(Translated into English by Andrew E. Barshay)


Assaulted by an invisible terror

Even now, after four months 

We remain driven from our hometown



At Level 7, with no change in the situation at all

Tens of thousands of livestock starved to death

In the deserted villages, only the stink from their corpses

Rises into the air



cross the mountains and rivers of our home country,

Stolen away by something that will not show itself,

The seasons change, as if nothing at all had happened



There, where the cuckoo calls, can it now be

Only in our dreams that we toil and sweat?

There, we cannot even set foot!



Once national policy drove us to Manchuria

There, in defeat, forced to commit suicide together

While others abandoned little ones to escape back home



Now as then, our lives,

Built through hard struggles

Are smashed to bits by the failure of national policy



And this time, it’s a painless, slow death

Yet just as on that day, isn’t this forced collective suicide,

the live experiments of Unit 731 all over again?



Friends, we can’t just stand here grieving and crying

Over these four months, amid invisible terror

What we have seen with our own eyes

Is the true face of terror that says:

For profit’s sake, the reactors must stay on



All right then! If that’s how it is

We’re ready to take them on, for the sake of our posterity



Just like the Kwantung Army before them, these bastards

hid the facts and were the first to run from danger

And now they put on an innocent face and prattle about

safety and reconstruction

No way will we let them take these lives so easily!



Oh, but friends, my friends who are dead




Maeda Arata: member of Fukushima Farmers’ Alliance, resident of Aizumisato, Fukushima Prefecture
Andrew E. Barshay: Professor, University of California at Berkeley


Saturday, January 07, 2012

A Special Event in Vancouver, January 29, 2012: Koko Tanimoto Kondo, a Hiroshima Survivor 近藤紘子バンクーバー講演「ヒロシマと共に―66年の記憶」2012年1月29日

『ヒロシマ、60年の記憶』(リヨン社、2005年)著者、広島被爆者であり国際養子縁組等で活躍される近藤紘子さんの特別講演をバンクーバーで2012年1月29日に開催します。日本語講演、シアトル講演も企画予定です。(下方11月23日朝日新聞夕刊に載った記事も参照)
The Unitarian Church of Vancouver Adult Education Programme and the Social Justice Committee will present:


Hiroshima A-bomb Dome (Photo by Satoko Oka Norimatsu)


"Living with Hiroshima: My Memories of 66 Years":
An Evening with Koko Tanimoto Kondo
近藤紘子講演(英語)
「ヒロシマと共に生きる:66年の記憶」


6:30 - 9:00 PM, Sunday January 29, 2012

At The Unitarian Church of Vancouver (949 West 49th Avenue, Vancouver, BC - on Oak St.)
Admission by Donation

This event opens with a performance, ”Meaning of Life" by mime artist Yayoi Hirano to Bolero, music by Maurice Ravel, played at the piano by Sara Buechner and Chihiro Honma (four hands).

Also, young people from Vancouver who have participated in the Hiroshima/Nagasaki Study Tour with Koko will give their testimonies.

The event is presented by the Unitarian Church of Vancouver Adult Education Programme and the Social Justice Committee, and co-sponsored by Peace Philosophy Centre, Vancouver Save Article 9, and MOA (Museum of Anthropology). This event presented in conjunction with the exhibition, ひろしま hiroshima by Ishiuchi Miyako, on display at MOA through February 12, 2012. Exhibition sponsored in part by Shiseido and the Japan Foundation.

Koko Tanimoto Kondo, speaking at Ritsumeikan University,
August 2, 2011

Koko Tanimoto Kondo, writer, speaker, and educator from Hiroshima, talks about the effects of the bomb on her life, and her ongoing work for peace. 近藤(谷本)紘子さんは、広島原爆の記憶との歩み、そして現在の平和のための活動について語ります。

Koko, daughter of Rev. Kiyoshi Tanimoto and Chisa Tanimoto, was a 8 month old baby at 1.1 km away from the hypocentre, when the first atomic bomb dropped on humanity on August 6, 1945 in Hiroshima. 紘子さんは流川教会の谷本清牧師、チサ夫妻の長女として生まれ、1945年8月6日、人類の上に初めて原爆が落とされたときは8カ月の赤ん坊でした。爆心地から1.1キロしか離れていなかったにも関わらず奇跡的に助かりました。

Koko, who miraculously survived the bombing, grew up with victims who came to her father's church on a daily basis. Seeing the terrible scars on faces of young women, little Koko hoped someday to meet the "bad guys" who did this to them, and take revenge somehow. Then, one day, an opportunity arrived, when she met the co-pilot of Enola Gay, the plane that dropped the Hiroshima bomb. 紘子さんは、幼いころ、父の教会を訪れる、顔にひどい傷を負った女性たちをお姉さんのように慕って育ちました。幼心に、このお姉さんたちをこんなにした悪いやつらをいつか見つけて痛い目にあわせてやろうと思っていました。ある日、その機会は訪れます・・・。
Koko's father Kiyoshi Tanimoto appears in TV Program
 This Is Your Life, May, 1955.

Koko, who now manages a church in Hyogo, Japan with her minister husband, speaks around the world to convey her message of peace, reconciliation, and forgiveness. Every summer, she travels to Hiroshima and Nagasaki, with students of the American University in Washington, D.C., Ritsumeikan University of Kyoto, Japan, as well as students from Canada, China, Korea, and beyond.  To most of the participants of this tour, Koko is the biggest inspiration. We will expect some of the past participants visiting from the East Coast of US. 紘子さんは現在兵庫県三木市でパートナーと教会を切り盛りしながら、内外で講演活動を行い、平和、和解、赦しのメッセージを発信し続けています。毎年夏には米国、日本、カナダ、中国、韓国等の大学生の広島長崎平和学習の旅に付き添っています。この旅の多くの参加者にとって、紘子さんとの出会いが一番かけがえのないものになっています。

Koko is author of Hiroshima, 60 nen no kioku (Hiroshima, 60 Years of Memory, Riyon sha, 2005; Paperback by Tokuma bunko, 2009) 紘子さんは『ヒロシマ、60年の記憶』(リヨン社、2005、文庫版は徳間文庫、2009)の著者です。

Koko's father, late Rev. Kiyoshi Tanimoto was one of the six atomic bomb victims interviewed in classic  Hiroshima by John Hersey. Hiroshima, originally published in 1946, was the first book that made known in the United States what happened to people under the mushroom cloud. 紘子さんの父、故・谷本清牧師は、ジョン・ハーシー『ヒロシマ』でインタビューを受けた6人の被爆者の一人です。北米では広島のことを学ぶ古典として広く読まれている『ヒロシマ』は、初版1946年、キノコ雲の下側で何があったのか―原爆の人的被害―を初めて米国一般市民に知らしめた作品です。

Koko(2nd from left) and university students from US, Japan,
and others, in front of the A-Bomb Dome in Hiroshima, August 2010
This is Koko's first visit to Vancouver, BC. 近藤紘子さんのバンクーバー訪問は初めてです。

In 2010, Koko appeared in the National Geographic video program "24 Hours After Hiroshima." See the 45 minute video at this LINK. Koko appears in the last section. Read Robert Jacob's commentary on the video program on the Asia-Pacific Journal: Japan Focus, "24 Hours After Hiroshima: National Geographic Channel Takes Up the Bomb." 2010年、紘子さんはナショナル・ジオグラフィック誌の特別ビデオ番組「24 Hours After Hiroshima」に出演しました。45分の映像はこのリンクで見られます。紘子さんの登場は最後の方です。また、ロバート・ジェイコブ氏によるこの番組の評論は、『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』をご覧ください。

For inquiry, email Satoko Norimatsu info@peacephilosophy.com. お問い合わせは、乗松聡子 info@peacephilosophy.com までどうぞ。

*** 1月30日(月)午後6時半から、Peace Philosophy Centre (Vancouver) にて近藤紘子さんを囲んだ交流会を行います(potluck 持ちよりパーティー)。参加希望の方は info@peacephilosophy.com までお知らせください。A social gathering (potluck) with Koko Kondo will be held at Peace Philosophy Centre, 6:30 PM -, January 30 (Mon.) Please contact info@peacephilosophy.com if you can attend. ***




文化座カナダ西海岸公演『千羽鶴』 Bunkaza Theatre Company in Canada: One Thousand Cranes

MEDIA RELEASE: December 14, 2011

Play unites Japanese and Canadian artists for peace


One Thousand Cranes
By Colin Thomas - translated by Toyoshi Yoshihara, directed by Jun Isomura

Performed in Japanese by Bunkaza Theatre Company (Tokyo), with accompanying English surtitles and storytelling by Nan Gregory
Frederic Wood Theatre
Friday, February 10, 7:30 pm
Saturday, February 11, 2:00 pm and 7:30 pm

Colin Thomas' award-winning play weaves together the stories of two twelve-year-olds: Sadako, the girl whose death by radiation-induced leukemia is commemorated in Hiroshima's monument of one thousand cranes; and Buddy, a Canadian boy whose life is being overtaken by his fears of nuclear war.

A year after the recent nuclear disaster in Fukushima, Japan, this beautifully crafted show from Tokyo puts a human face to nuclear fallout. It also coincides with the UBC Museum of Anthropology’s exhibition ひろしま hiroshima by Ishiuchi Miyako, an installation of 48 photographs of clothing and personal items left behind by victims of the 1945 atomic bombing of Hiroshima (on view through February12).
Tickets Adults $32/seniors $28/students $24/Family Pack $50 (max 2 adults & 2 children under 12, available by phone or in person only)
Box Office 604.822.2678 or http://ubctheatre.universitytickets.com/

Address Frederic Wood Theatre, 6354 Crescent Road, UBC

Map http://bit.ly/r0HOtC

More http://www.theatre.ubc.ca/

Presented by UBC Dean of Arts. Co-sponsors: The Metropolitan Tokyo Government; Consulate General of Japan in Vancouver; UBC St. John's College; UBC Museum of Anthropology; Theatre at UBC; Vancouver Save Article 9; and Tonarigumi. Performed in conjunction with the exhibition ひろしま hiroshima by Ishiuchi Miyako, at the UBC Museum of Anthropology through February 12, 2012. Image courtesy Bunkaza Theatre Company.

Media Contact: Deb Pickman
604.319.7656 publicity.theatre@ubc.ca

劇団文化座 Bunkaza Theatre Company and One Thousand Cranes
Established in 1942, Bunkaza is one of the oldest contemporary theatre companies in Japan. With 45 fulltime company members, most of their repertoire deals with oppressed grass-roots people who strive for the betterment of their lives. Bunkaza has a special interest in Canadian theatre and has produced, besides One Thousand Cranes, such Canadian plays as The Tomorrow Box by Anne Chislett, Blood Relations by Sharon Pollock, and Odd Jobs by Frank Moher, all with translation by Toyoshi Yoshihara. The Bunkaza version of One Thousand Cranes premiered in 1985 in Tokyo. The company has since toured Japan, giving more than 200 performances of the play.

1942年に設立された文化座は、長い歴史と45名に及ぶ専属団員を誇る現代劇制作集団です。その演目には、平和でより良い生活を目指して戦う庶民の姿を描いた作品が多く、「千羽鶴」のほか、アンチスレット作「びっくり箱」、フランク・モハー作「こんにちは、おばあちゃん」などのカナダ戯曲も上演しています。「千羽鶴」日本版は1985年の初演以来全国各地を巡演、総上演回数200を超える実績を上げるに至っています。

カナダの劇作家コーリン・トーマス原作による『千羽鶴』(吉原豊司翻訳)。広島で被爆し「原爆の子の像」のモデルともなった佐々木禎子さんの物語を通じ、核兵器に怯えるカナダの少年の心の変化、成長を描きます。




Tuesday, October 04, 2011

Hiroshima: Photo Exhibit by Ishiuchi Miyako ひろしま:石内都写真展 in カナダ・バンクーバー

カナダ・バンクーバー UBC(ブリティッシュコロンビア大学)人類学博物館で、石内都写真展「ひろしま」が10月13日にオープニングします。これは、「映画 ANPO」が昨年バンクーバー国際映画祭で上映され、監督リンダ・ホ―グランドさんを迎えた会を持ったことなどがきっかけになって実現した写真展です。バンクーバー九条の会の発起人の一人でもあるコピソン珠子さんに大きな役割を果たしていただきました。リンダさんを迎えた会が昨年の10月13日であったことを思うと、今年の同じ日、2011日10月13日にこの写真展のオープニングがあると思うと感慨深いです。@PeacePhilosophy

日本語による石内都さん作品の紹介はこちらをご覧ください。

以下、UBC人類学博物館より Museum of Anthropology, the University of British Columbia


ひろしま hiroshima
by Ishiuchi Miyako


Opening reception: Thursday, October 13, 2011, 7:00 pm (everyone welcome).

Exhibition dates: Friday, October 14, 2011 through Sunday, February 12, 2012

This powerful exhibition features 48 photographs by Ishiuchi Miyako of clothing and accessories left behind by victims of the 1945 atomic bomb at Hiroshima. Unlike the black-and-white images most often associated with Hiroshima, showing devastated landscapes emptied of humanity, Ishiuchi’s colour photographs represent her own deeply personal, intimate encounters with everyday objects that, unlike the people to whom they once belonged, continue to exist in the present. Testaments to a profound trauma, they also illuminate the beauty, diversity, and complexity of individual lives in ways immediately accessible to contemporary audiences.

Ishiuchi writes: From the 19,000 items made available to me [at the Hiroshima Peace Memorial Museum], I chose things that at one time had touched skin and bodies, and photographed them…. A flower-patterned dress colourfully dyed. A puff of gathered, shiny skirt woven of silk thread. Cool-looking, thin, georgette materials that once shed the summer heat. Used kimonos transformed into blouses and cut to make air-raid hoods…. These objects, exposed to the heat and radioactive rays of a fire ball that suddenly appeared one summer morning, and relinquished by the victims of the atomic bombing, have been on earth as long as I have. When I came to realize the coincidence, I caught my breath at their vivid hues and distinct textures, their flaws and complicated detail. These are too deeply linked to daily lives to regard as ‘historical materials.’

Born in 1947 in Gunma Prefecture, Japan, Ishiuchi began her artistic career in the late 1970s and is now one of that country’s leading contemporary photographers. Her work focuses on the representation of the human body, and her subjects are often directly related to her personal history: “1-9-4-7” documented the hands and feet of women born the same year as she; and “Mother’s 2000-2005, Traces of the Future,” explored the intimate elements of her mother’s presence and memory. Since the 1980s, she has been photographing scar tissue: indexical renderings of physical wounding and life narratives on the body. For her, photography is a medium of remembrance and monumentalizing, and an active agent in memory making. She exhibits internationally and her work is held in public collections in Canada and around the world.

Through the exhibition and a wide range of public programming, MOA will provide a forum for examining issues of war, trauma, and remembrance, and the role objects play in our collective memory.

A catalogue featuring images from the exhibit and essays in English and Japanese will be available for purchase in the MOA Shop. Also available will be a monograph edited by MOA curator Karen Duffek, featuring Ishiuchi Miyako in conversation with Professor John O’Brian, UBC Art History, Visual Art & Theory Department. Exhibition sponsored in part by Shiseido and the Japan Foundation. Media sponsor The Georgia Straight.

A note about the exhibition title:

ひろしま means Hiroshima, written in Japanese hiragana characters. Hiragana is one basic component of the Japanese writing system, along with katakana. These characters were extensively used by women in former times; for Ishiuchi, using this style for the title emphasizes that this series is made from the point of view and feelings of a woman. It is the artist’s wish that that the hiragana appears before the word ‘hiroshima’ as part of MOA’s exhibition title, and that the ‘h’ in Hiroshima not be capitalized.

Photo Credit:(detail) Ishiuchi Miyako ひろしま/hiroshima #9, Dress, 2007/2008, Type C Print, 108x74cm, T.Fujisawa

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Tuesday, August 09, 2011

城山の朝

痛みと かわきと

飢えと 病と

寂しさと 不安かかえて

生きてきた あななたちが今

ここにいる

66年前の夏

見上げた空

真っ青な空のひと時が

永遠となる



ヒロシマナガサキの子どもたち

フクシマの子の手を取って逃げる

逃げる 逃げる どこまでも逃げる

ひとり

またひとり

もうひとり

十人になり   百人になり   千人になり   

一万人になり   十万人になり   

原爆の子と 原発の子の群れが

南へ   西へ   手に手を取り

走って 走って 着いた



泉邸の木陰へ  城山の丘へ

疲れはてた体はたわみ

眠りに落ちた



目がさめて

見上げる空

あの子たちはどこ

まだ眠い



夕なぎのむこうへ

小高く鳴る丘へ

日は暮れていく